連山投稿カレンダー

« ロタ島の生活:サイパンは今 | メイン | カワウソはどんな動物か »

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL118

江田島孔明

前回は、地政学の目的が、地理上のピボタルポイント(転換点)と、それを繋ぐフォールトライン(断層線)を探すことだということを説明した。そして、世界史上のピボタルポイントとフォールトラインはエルサレムとイスタンブールであり、両都市を繋ぐ線だということがお分かりいただけただろう。今回は、中近東地域の重要性について、地政学のもう一つの論点であるチョークポイントの観点から検討したい。
まず、チョークポイント (Chokepoint)は、地政学上、陸上交通路や海上交通路において、「最も狭くなっている隘路」つまり、そこを封鎖されると、移動や輸送が不可能になる交通上の険所と言える。例えば、日本における東海道では、箱根や大井川がこれに相当する。言い方を変えると、チョークポーントを認識し、そこを封鎖することで、交通の規制を行うことができ、対立する政治勢力に打撃を与えることができる場所なのだ。シーパワーの観点から、世界中の海には16のチョークポイントがあると言われている。フロリダ海峡、パナマ運河、マゼラン海峡、アラスカ湾などが含まれ、極東では対馬海峡や中東とアジア、太平洋をつなぐマラッカ海峡やスンダ海峡などがあげられる。欧州ではジブラルタル、中近東ではペルシア海峡、ホルムズ海峡、バブ・エル・マンデブ海峡、スエズ運河、ボスポラス・ダーダネルス海峡なども重要なチョークポイントさとれる。世界史上の全ての支配者はシーパワーを握るため、このチョークポイントの支配に全力を傾注してきた。

この中で、最も多く、かつ重要性が高いチョークポイントが集中しているのが中近東だ。

以下は、中近東のチョークポイントと原油の通過量だ。
1.ホルムズ海峡(1500万バレル/日)
2.スエズ運河(380万バレル/日)
3.バブ・エル・マンデブ海峡(330万バレル/日)
4.ボスポラス・ダーダネルス海峡(300万バレル/日)
このように、中近東地域が世界の物流や戦略物資である原油のチョークポイントが集中している地域だということだ。
特に、スエズ運河とバブ・エル・マンデブ海峡で挟まれた紅海は、紀元前から、地中海とインド洋を繋ぐ重要な交易路だった。紀元1世紀頃にエジプト系の船乗りによってギリシャ語で書かれた『エリュトウラー海(ギリシャ語で赤い海つまり紅海)案内記』には、紅海からペルシャ湾・アラビア海からベンガル湾にかけ既に金銀・ガラス製品・象牙・香料・真珠・亀甲といった奢侈品から麦・鉄製品・銅・綿布などの生活用品そして奴隷といった多様な産品が海上輸送によって地域間で盛んに流通・交換されているさまが描かれている。その交易網の広がりは、当時既に東は東南アジア、西は東アフリカのザンジバル付近までをも覆っていた。
つまり、前号の検討により、中近東は世界のピボタルポイント(転換点)と、それを繋ぐフォールトライン(断層線)が存在し、シーパワーの観点から、最重要のチョークポイントが集中している地域ということになる。
ここから、どういう結論が導かれるだろうか。それは、世界の支配者はピボタルポイントを支配するため、チョークポイントを支配しようとするという法則があることだ。言い方を変えると、チョークポイントを制圧してしまえば、ピボタルポイントの支配がかなりの確立で可能なるということだ。
例えば1453年オスマントルコのスルタンメフメト2世は、コンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼした。ビザンツ帝国は古代ローマ帝国からの流れをうけついでいるから、1500年つづいたローマ帝国がとうとう滅んだと言える、歴史的大事件だ。

 コンスタンティノープルの陥落において、1000年以上もビザンツ帝国の都として栄えてきたコンスタンティノープルの守りは堅くて、三重の城壁に囲まれていた。メフメト2世は10万の大軍でこの都を攻撃するのだが、城壁を破ることができないまま、2カ月が過ぎた。ビザンツ最後の皇帝はコンスタンティヌス11世。ビザンツが滅びることは目に見えているので、多くの市民はすでに逃げてしまっていて、皇帝が戦える者を集めたときには、4773人しかいなかったという。しかし、たった四千人で10万の軍勢をしのいでいたんだから、鉄壁の守りだったのだ。
 コンスタンティノープルの海に面している部分は守りが弱いので、オスマン海軍は海から攻めたいのだが、ボスポラス海峡は潮流が速くてこれは無理だった。金角湾という入り江があって、ここに入り込めば海上からの攻撃もできる。しかし、ビザンツ側は金角湾の入り口に、大人の腕くらいの太さの鎖を張り巡らして、オスマン海軍が湾に入れないようにしていた。

 これを打ち破るためにメフメト2世がとった作戦が「山越え」というもの。海から金角湾に入れないのなら、船に山を越えさせろと命令した。湾を一山こえた向こうの海岸から艦隊を陸揚げして、70隻の戦艦を山を越えて金角湾に入れたのだ。
 さらに、城壁を破るために「ばけもの」とよばれる超大型の大砲を建造した。これは、長さ8メートル、砲弾の重さ600キロ。60頭の牛に引かせて、アドリアノープルから運んできた。
 陸と海からの総攻撃で1453年5月29日、ついにコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅びました。最後の皇帝となったコンスタンティヌス11世は、乱戦の中で戦って死んだといわれている。なお、このコンスタンチノープル陥落に際して、救援要請を受けていた西欧のキリスト教諸国は一切援軍を出さず、わずかに、東地中海とシルクロードの交易利権を失いたくなかった、ベネチアとジェノバが海軍と傭兵を提供したのみだ。
このように、オスマントルコはコンスタンチノープルを落とすために、ボスポラス海峡と金角湾を押さえたのだ。
さらに時代が下って、イスラエルとスエズ運河の関係を見てみたい。1948年5月13日、イスラエルとアラブの戦争が避けられなくなると、エジプトはイスラエル船舶のスエズ運河の通過を禁止した。
イスラエル以外の船籍であってもイスラエル向けの荷物を積んでいる場合も同じだ。エジプトの宗主国イギリス帝国の船もイスラエルへ向かう場合は拿捕するとの強行な姿勢に、イギリスは憤慨したが、エジプトに押し切られてしまった。
これ以降、国連がいくら説得してもイスラエルがスエズ運河を通過することは認められなかった。イスラエルがインド洋に抜けるルートはアカバ湾から紅海を抜けていくルートに限られてしまったのだ。1956年7月26日、ナセル大統領はスエズ運河会社(本社フランス)のエジプトへの摂取を宣言した。これに憤慨したフランス、イギリス帝国はエジプトへの軍事介入を企てた。ナセル大統領はさらに、紅海のティラン海峡をにらむシャルム・エル・シェイクに海防陣地を作り、イスラエルへ嫌がらせを始めた。フランスとイギリスはこれに対し、イスラエルを誘ってエジプトに攻め込んだのだ。
この戦争中の11月3日、エジプトのスエズ閉塞作戦が実地され、船が運河に自沈し、運河が使用不能となった。戦争は終わったが、運河が使用できるようになるのは1957年6月1日までかかった。 イスラエルは結局この作戦(シナイ・キャンペーン)が失敗に終わり、スエズ運河を通過する権利を逃してしまった。
しかし、ティラン海峡については国連軍が入り、イスラエルは安全に通過することが出来るようになった。

1967年、ナセル大統領はシナイ半島に軍隊を終結させ、イスラエルへ戦争を仕掛けようと図った。当然、国連軍がいるシナイ半島だが、ナセル大統領は国連軍に撤収を要求した。
これを受けてシナイ半島の国連軍は撤収し、ティラン海峡海防陣地もエジプトの手に落ちたのだ。そしてナセル大統領は再びティラン海峡の封鎖を命じた。
6月5日、戦争が勃発と同時にエジプトはスエズ運河を航行禁止とした。この第3次中東戦争は6日で終了したが、スエズ運河は閉鎖されたままだ。
これによってエジプトはせっかく国有化したスエズ運河からの収益が無くなり、財政が苦しくなる。これを見て、アラブ諸国はエジプトに経済援助を行った。
1975年6月5日、第5次中東戦争の後、スエズは8年ぶりに再開された。エジプトはこの時、イスラエル向けの物資を積んだ船も、軍事物資以外であるならばと言う条件付で、通過を許可したのだ。1979年3月、エジプトはイスラエルと平和条約を締結した。イスラエルはもちろんこれを歓迎し、エジプトから占領していたシナイ半島を返還した。そしてエジプトは、イスラエル船舶のスエズ運河通過を許可した。
このように、イスラエルとアラブ諸国の間が緊張関係あるいは戦争状態になると、かならず、スエズ運河の通行が問題になるという歴史的経緯を見ても、世界の支配者はピボタルポイントを支配するため、チョークポイントを支配しようとするという法則があることが分かる。言い方を変えると、チョークポイントを奪った勢力がピボタルポイントに決定的な圧力かけることができるようになるということだ。例えば、日本の戦国時代、足利義昭の伴をして入洛した織田信長は、将軍就任の功について、義昭が副将軍や管領の職、または所領を与えようと言ったところ、それを断った。そして、「堺、大津、草津」の3ヶ所に代官を置くことを望んだ。これは、当時の「堺、大津、草津」が商業や水運のチョークポイントだったからだ。ここから、信長の税収は他の戦国大名を大幅に上回るようになった。まさに、チョークポイントの奪い合いこそが、地政学上の闘争の本質とさえいえるだろう。
ここから、中近東地域の今後について、どのような展開が予測されるだろうか。それは、ホルムズ海峡(1500万バレル/日)、スエズ運河(380万バレル/日)、ボスポラス・ダーダネルス海峡(300万バレル/日)の3海峡を封鎖してしまえば、イスラエルに対する直接攻撃がなくても、イスラエルを兵糧攻めにして陥落させることができるということだ。具体的にはイラン-トルコ-エジプトの連合だ。この連合が成立し、3海峡を封鎖できる力を持てば、中近東域内の他国、例えばサウジ等は全て、従うだろう。つまり、反イスラエル包囲網ができ、海峡の支配権を奪われれば、他国の船舶は、この地域へのアクセスすらできなくなるということだ。ある意味で、これは日本にとっても、最悪の展開だ。
かって、1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これをうけて10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)に加盟のペルシア湾岸産油6カ国は、原油公示価格を21%引き上げと、原油生産の削減とイスラエル支援国への禁輸を決定。さらに12月には,翌1974年1月より原油価格を2倍に引き上げると決定した。アメリカと同盟関係にあった日本では、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、急遽三木武夫副総理を中東諸国に派遣して日本の立場を説明して支援国家リストから外す様に交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。
1978年のイラン革命により、イランでの石油生産が中断したため、イランから大量の原油を購入していた日本は需給が逼迫した。また、1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計14.5%値上げする」ことを決定し、原油価格が上昇(余談だが、4段階目の値上げについては総会で合意が形成できなかった)。第一次オイルショック並に原油価格が高騰した。
このように、二度にわたるオイルショックを経験している日本では、省エネ化や石油代替エネルギーの開発も進んでおり、学習効果もあると考えられるが、イラン-トルコ-エジプトの連合が成立し、3海峡を封鎖できる力を持った場合の影響は計り知れないだろう。当然、イラン-トルコ-エジプトの連合の背後には中ロがいる。現時点で、イランは反米を鮮明にしている。つまり、今後は、トルコやエジプトの帰趨が焦点になる。エジプトについて、かってはナセルのようなアラブ民族主義の旗頭であったが、アフガニスタンのイスラム義勇軍が活動し始めるのと時を同じくして、ソ連と手を切って米国側に寝返ってイスラエルと平和条約を結んだサダト大統領を、記念日の閲兵式の最中に殺害するという大胆不敵なテロを実行したグループがエジプトに出現して、サダトの路線を踏襲している現在のムバラク政権を非難し続けたので、ムバラク大統領は徹底的な弾圧を加える決断えた。国家の警察組織や国軍とは正面から戦えない反政府組織は、最大の産業である観光産業を壊滅させて政府を弱体化させようと、観光客を狙ってエジプトは物騒な土地だと世界中に宣伝しようとした。その流れに乗った者が、イスラエルから返還されたシナイ半島沿岸のリゾートを襲うようになった。エイラット湾はイスラエルが第三次中東戦争で占領してから、有数の観光リゾート地としてさまざまな社会インフラを整備していたのを、そのままそっくりエジプトに返還したので、欧米からの沢山の投資や観光客を集める場所になった。いつまでもエジプトと言えばピラミッドという頭打ち状態の観光産業にとって、新たな収入源として重点的に開発を進めている場所だ。

 米国に寝返った政府に牙を剥いているエジプトのイスラム原理主義運動の元はソ連のテロ技術によって育ち、アルカーイダ系のテロは米国によって生み出された事が分かる。これが、90年代のスーダンで接触して、協力したり競い合うようにして全世界を舞台にしたテロの共闘を始めた。エジプトを追われた原理主義者達とサウジアラビアを追い出されて欧州に拠点を持っていたビン・ラディンが、エジプトの南隣で紅海を挟んでサウジと向かい合うスーダンで合体するというのは、地理的な合理性が有る。その後のスーダンで、イスラム系の政府が非イスラム国民を虐殺しているのも、同じ流れの中で起きている現象だ。

 このように、アラブ諸国に蔓延するイスラム原理主義が、エジプト、トルコそしてサウジをはじめとする産油国で勢力を持ちつつある。そこで問題は、非産油国で財政に余裕のないトルコやエジプトをどうやってつなぎとめて置くかだ。ここに「調略」の必要性が出てくる。

孫子の兵法に「百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」という言葉がある。
つまり戦に勝つよりも戦わずに勝つことの方が上策という意味だ。この「戦わずに勝つ」ことをひたすら考えたのが秀吉であり、彼の軍師の竹中半兵衛や黒田官兵衛だ。
秀吉は、人たらしとも呼ばれるほど細やかな心遣いがあり、また聞き上手でもあった。

そこで秀吉は体力勝負ではなく自分の強みをいかせる調略、「戦わずに勝つ」ことを徹底的に考えた。桶狭間に今川義元を破った信長は美濃をめざすため最後に残った犬山城を攻めます。この時、秀吉は犬山城を取り囲む諸城の調略を信長に献策をした。当時の戦の評価基準はどれだけ敵の首をとったかにあった。 しかし信長は兵を損なわずに敵を倒せるのならそれに勝るものはないと合理的な思考をし、迷わず秀吉の策を採用した。秀吉配下の蜂須賀小六、前野将右衛門は犬山城対岸にある伊木山の城を守る伊木清兵衛忠次と昔からの知り合いだった。 既に戦は始まっていたが、何とか清兵衛と会い、説得した。しかし伊木清兵衛忠次は秀吉と一面識もなく躊躇しており、そこで蜂須賀小六は秀吉と会わせることにした。
秀吉は清兵衛の手を取り、「私は無冠の小心者ですが、殿にこの大役を仰せつかりました。清兵衛殿の忠節は私が一命に替えても殿に言上し、報いたいと思います。」と約束した。 清兵衛もこの人物ならと調略を受け入れた。
やがて鵜沼城等、次々と調略し、秀吉は東美濃の攻略に多大な功績をあげた。
この後も、秀吉は「戦わずに勝つ」ことを徹底的に考えました。 姉川の合戦後、信長包囲網が形成され、織田政権がもっとも苦境に立たされた時期、浅井家小谷城の押さえとして信長は秀吉を任命した。

小谷城のすぐ近くにある横山城は北国脇往還道を押さえる要衝にあり、ここに秀吉をおいた意味は、浅井家 家臣の調略を期待したからだ。

小谷城から目と鼻の先でまさに最前線です。秀吉は小谷城からの攻撃を退けながら足掛け4年にわたって横山城を預かった。この間、信長の期待に答え、宮部継潤等、巧みに説得工作を行い、調略していった。やがて小谷城だけ孤立することとなり、信長の浅井攻めが始まった。小谷城が落城した後、織田家にはそうそうたる家臣がいるにもかかわらず、新参者の秀吉に浅井家の旧領が与えられた。秀吉は長浜城を築き、念願の大名となった。秀吉37歳。これ以降、羽柴筑前守秀吉を名乗った。
やがて中国方面軍を任されることとなる。秀吉は播州で黒田孝高を味方に付けるなど持ち前の明るさで調略を発揮、三木城・鳥取城を大規模な兵糧攻めで奪取し、備中高松城攻略では土木・建築の才を駆使して奇想天外な水攻めを成功させる。敵味方の被害を最小限に抑える智謀と強運を持ち合わせた秀吉の軍事政略は、出世と共にその規模も大きなものとなっていった。
このように、調略と兵糧攻めを駆使し、天下を取った秀吉だが、それを可能にさせたのは、秀吉の調略を拒めば、信長に攻め滅ばされるという恐怖感が当時、強くあったためだろう。つまり、直接攻撃の信長と間接攻撃の秀吉のコンビが効果を発揮したということがいえる。

これを現代に置き換えると、信長=アメリカ、秀吉=イギリスとして、イギリスによるトルコやエジプトやイランに対する調略が必要だ。ブレア首相もこのことに気づいたようで、8月2日の英紙『タイムズ』は、「われわれは、対テロ戦争を再考しなければならない―ブレア」で、1日にロサンゼルスで、ブレア英首相が、イスラム武装勢力を倒すためには、5年間の「対テロ戦争」の戦略を「完全再生」しなければならないと語ったと伝えている。
 ブレア首相は、軍事だけで闘うことは、イスラムの世論を敵に回し、イスラム世界に「イスラム過激主義の赤十字」を拡張するだけで、逆効果であると述べたというのだ。必要なのは、「イスラム過激主義の赤十字」に対して、「穏健主義の同盟」を構築することだという。しかし、時は既に遅く、ブレア首相はイラク戦争の失敗の責任を問わされ、退陣に追い込まれそうだ。思うに、イギリス単独による調略は、もう不可能であろう。それぐらい、アラブ諸国の反米意識は高まっている。そこで重要なのが日本の存在だ。トルコやエジプトやイランは親日国であり、日本の技術と資本を欲しがっていることを考えると、イギリスの人的ネットワークと日本の技術、資本を組み合わせた日英合作による、中近東調略は今後、不可欠になるだろう。次期首相の安倍晋三に、そのための戦略はあるのだろうか。

<参考>

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060908-00000018-mai-int&kz=int
<ブレア退陣>英国民に不信「テロの危険にさらした」

 【ロンドン小松浩】ブレア英首相は「1年以内の辞任」を自ら認め、与党・労働党内で高まる早期退陣要求に屈した。3期連続の労働党政権という一時代を築いた首相だが、イラク戦争やレバノン問題など中東情勢への対応をめぐる国内世論の反発は収まらず、英国をテロの危険にさらしたとの国民の不信を払しょくできないまま、政権を去ることになりそうだ。
 9・11米同時多発テロから5年を目前に、ブッシュ米大統領の最大の盟友・ブレア首相が「退陣」表明を迫られる皮肉な事態となった。総選挙敗北で辞任したアスナール・スペイン首相、ベルルスコーニ伊首相に続き、イラク戦争を主導した欧州3首脳が表舞台から姿を消すことになる。
 労働党の支持率はイラク戦争以降低迷を続け、英ガーディアン紙が先月発表した世論調査では31%と19年ぶりの低さを記録。キャメロン保守党の40%に大差をつけられ、09年想定の次期総選挙で政権交代の可能性が高まっている。
 また同調査では、英国民の72%が「政府の政策が英国をテロの危険にさらした」と回答した。イラク戦争参戦やアフガニスタン増派への批判に加え、最近のレバノン情勢でのイスラエルへの暗黙の支持など、一連の米国寄りの外交姿勢が、ブレア政権の致命傷になったことを示すものだ。
 このため、次期首相と目されるブラウン財務相の支持勢力は、早期の党首・首相交代を要求。今月下旬の労働党大会で「いつ辞めるか」を明確にするよう首相に迫った。首相が拒否すると、ブレア派も含む下院議員グループが退陣要求書簡を送り、8人が政府の職を辞任。さらに数人が辞任をちらつかせるなど、退陣時期に言及しない限り党大会を乗り切るのは困難な状況となっていた。
 一方、ブレア首相周辺は、ブラウン氏支持勢力の動きを「恐喝」と反発。党分裂の危機をはらむ展開となりかけたため、ブレア、ブラウン両氏は6日に急きょ2度会談。7日のブレア発言で事態を収拾することに合意したものとみられる。
 具体的な退陣時期は、来年5月の地方選挙の前後か、7月下旬の議会夏季休暇入りの前が有力視されている。ただ、ブレア首相が正確な辞任の日について「自分で決める」と触れなかったため、反ブレア派が反発する可能性も残っている。
(毎日新聞) - 9月8日3時10分更新
以上

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.cyberuls.com/blog/mt-tb.cgi/128

コメント (2)

陸遜:

大英帝国の覇権終焉と比較します。

1904~5年  日露戦争(WW零)
1914~18年 世界大戦(WW壱)
1917年 ロシア革命

最初の世界大戦はイギリスの没落を決定付ける
とともに世界を多極化構造へと誘いました。
世界四分割その他の地政学に日本も動きました。
http://www.tabiken.com/history/doc/L/L268L100.HTM

今回の世界大戦は零戦を第三次世界大戦とすれば
第四次世界大戦と言える戦いであり、特徴として
主力はマネーや情報操作を基盤とするマインドコ
ントロール戦といえるでしょう。日露戦争の時に
明石元二郎を使いましたがあれの大規模版です。

米国は国力の限界点が見えています。2020年まで
にテロ戦争で資本を食いつくしロシア同様に内部
から革命が発生する可能性が日々、上昇していま
す。東西ローマ帝国の分裂とブリテン島からのレ
ギオン撤退というアーサー王伝説の時代の再来で
す。環境悪化によって東洋のサクソン人も移動を
始めるでしょう。彼らが東に来るか、南に行くか、
北に行くか、日本も大きな影響を受けるでしょう。

第二次世界大戦を参考に考えるとこうなります。
2000~2020年 テロ戦争(覇権の終焉)
2020~2040年 多極化の時代(カオス)
2040~2050年 新覇権国の誕生(安定)

水も食糧もエネルギーもなくその解決策に光明
があれどもその供給力に限りがある。第一次世
界大戦の時と同じく多くの国々が滅亡し多くの
流民が発生し膨大な人々が死滅していく。ただ
それでも人類は滅びずに新しい時代へと進む。

孔明:

今度の戦争は、軍事、通信、エネルギー、食料、金融の五道を統合運用できた陣営が勝つでしょう。
中国ロシアは浅井朝倉です。姉川合戦は近いです。そしてアメリカは衰退しますが、技術は残ります原子力空母や原潜なんか、使い道はあります。運用しだいです。

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

Copyright@ 2006-2007 Team Renzan inc. All Rights Reserved