岡本太郎との対峙~万博公園『太陽の塔』~

4月1日。
あなたはこの日、どんなイメージを持っているだろうか?
雲一つない春の快晴の下、昼時の都会のスクランブル交差点を大勢の人と行き交うイメージを私は持っています。新しい学生カバンや新しいスーツ、新しい条例案内。
なぜこんなイメージを持っているのか。
数十年前のこの日、私がまだ6~7歳であった頃に渋谷の「こどもの城」へ母に連れられて行った。残っている記憶は渋谷駅の幾何学模様の天井、昼は施設内のすし屋のカウンターで母の財布を気遣いながら食べたこと、そして冒頭のイメージである。
そしてもう一つ印象が残っているものがある。それは子供の城にあった不思議な顔をしたオブジェがあったことだ。もちろん当時の私は岡本太郎という芸術家を知らない。子供の
城の内容は憶えてないが、春の昼どき、色彩豊かなあのヘンテコな顔が、4月1日の全てが新しく、全てが初々しい光を受けたそれは作品の概念を越えた印象となっている。
それから数年後、岡本太郎さんを知ったとき「昔行った子供の城にあったあれは、この人が造ったんだ。」と根拠も無いのに勝手に思い込んでしまった。

今年の4月1日。私は大阪にいた。
太陽の塔の内部取材の為、大阪入りし昨夜はミナミに泊まっていた。
ここから御堂筋線で千里中央へ、そこからモノレールで万博公園へとこれから向かう。
今回の取材、本当は3月31日に行く予定であった。先方とのやり取りの末、偶然この日となったのだが、不思議なめぐり合わせだと思った。
モノレールを降りると春休みで大勢の人だ。スロープを下りてゆくと右手にエキスポランド、左手に万博公園が見える。人だかりを見ると、時折ゆびを指している人々がいる。その先には太陽の塔があった。
今日はお花見のイベントをやっていて特に混んでいるのだそうだ。
今回の取材に応対してくださった日本万博博覧会記念機構の方と一緒に入場ゲートをくぐる。さくら祭と、お祭り広場跡地にフリーマーケットが開催しており多くの家族連れが来ている。
始めに塔の外観の説明を受けた。
「博覧会当時、観覧者は塔の内部を通ると、塔の右腕から大屋根に抜けたんです。ほら、右手のあの部分、ちょっと色が違うでしょ。あそこが通り道で、今は埋めてしまってるんです。」
「あの腕の中は屈(かが)んで通る感じですか?」
「いいえ、あの腕の中にはエスカレーターが通っていたんです。」

これは1970年、今から37年前の話である。なのにどうしてこんなに未来的なのだろう。あの腕の中にエスカレーターがあったなんてどうしても想像できない。大屋根も無くなり、穴も閉じられた。エスカレーターの伸びゆく先は何も無い。空中である。
腕の中にエスカレーターを作る、と提案するのは簡単だ。だが、その重量に耐えうる構造をしなければならず、絶対的な安全性が必要である。更にそこに腕の長さや角度などデザイン性との戦いがある。
ひと通り外観説明を終えると一旦塔から離れた。そしてある扉を開けるとコンクリで囲まれた長い廊下が一直線に伸びていた。壁には博覧会当時のパネルが貼られている。
「これが地下展示場の写真です。」
スタジオのような黒い大きな部屋に様々な国のものと思われるようなお面が照明によって浮き出ている。
開催時はこの地下から塔内へ、塔内から大屋根と3つの展示ゾーンがあり、これらを合わせて1つのテーマ館だった。地下展示場は閉幕後埋めてしまったそうだ。
「多分、ご存知かと思いますが。」と、地下の写真に写っている巨大な円形のオブジェを指した。
「これが地底の顔です。太陽の塔には、腹部の顔、背面の顔、黄金の顔とそれぞれ現在、過去、未来を表す顔があり、4つ目に地底の顔があります。しかし地底の顔は博覧会の閉幕以来、ずっと行方不明です。」
「何処かの富豪家が所持しているのかもしれませんね。」

全てのパネルを見終わるとその先にまた扉があった。どうやらこの先が塔内のようだ。
幾つもの鍵から1つを選び、ノブを回す。ドアが開いた。
真っ暗だ。
やがて照明が着くと塔内部が明らかになった。
不思議と暖かい。カビ臭いと聞いたことがあるが、全くの無臭だ。
「これが、『生命の樹』の頂上にあった、『人間』です。」
見ると目の前に抱きかかえるくらいの小さな『人間』が座っており、塔の訪問者を静かに待ち続けているように見える。
『生命の樹』とは塔内に生えている樹である。地球の生物の進化の過程を表現した300体ものオブジェを有しており、根元のアメーバから始まり、三葉虫、恐竜、ワニ、ゴリラなど樹を昇って行くにしたがい進化してゆく。それらは枝からワイヤーでぶら下げてあったり、樹に乗っているもの、電子制御により動いた物もあった。さらにそれぞれの時代のテーマ音がスピーカーから流れていた。樹のてっぺんには『人間』がいた。
現在、塔内の老朽化が進んだ影響で、ワイヤーで吊るされていたものは殆どが降ろされており、別の場所で保管されているもの、あるいは行方が分からなくなったものもある。
塔の上層へと昇る螺旋状エスカレータは封鎖され、もう生命の樹は、下から見上げるしか出来なくなっている。すると、
「ちょっと、そこに立ってて下さい。」と言われた。
塔内中央部から上を見上げていると、パッと照明が消えた。暗闇になったと思うと、生命の樹が光りはじめた。ブラックライトが付いたのだ。

この塔を造るにあたり作者はどれだけ大変だったのだろうか。
自分のイメージをどれだけ製作者側に伝えられるか。一番最初に書いた一枚のデッサンから塔の完成まで一体何千の工程を経たのだろう。
例えば映画を撮るのも大変だ。多くの準備もあるが、しかしある程度の流れはある。私の場合はワンシーンでエネルギーや神経を使い切ってしまう。だが、この塔には前例が無い。
たった一人の指揮者のもとこれだけのものを造った前例が。おそらく塔の外観、内部、内部オブジェの3つに部門を分けたのだろう。さらに地下展示場、空中展示場もある。
模型を作ってはそれぞれの責任者との会議の連続だったのではないだろうか。内部の特殊壁面をたった一色の赤で塗る作業にしてもこれだけの大きな面積に塗装すると必ず模型のイメージとは変わる。生命の樹やオブジェとの相性も見ないといけないので様々な「赤」を試さなければならない。
その話をすると、制作は勿論大変であったが、しかし一番大変だった事。それは構想の段階であったようだ。これには制作よりも何倍も時間がかかっている。
岡本太郎さんの構想は当初なかなか通らなかった。あまりに斬新過ぎたのだ。周りの理解が得られなかった。確かに37年前ではブラックライトがあっただけでも驚く。万博には着物を着て来る夫人がいた時代なのだから。

周囲の反対があった太陽の塔であるが、大阪万博のシンボルとなり、半年で6400万人という考えられない来場者が押しかけた。これがどれほど異常な数字かと言うと、閉幕後から37年間、今日までの来場者を足したとしても未だあの半年間には勝てない。毎年100万人が訪れても64年もかかるのだ。
「万博の閉幕前の最後の日曜日に70万人もの来場者を記録したそうですが、これってタタミ一畳に4人が立っている密度らしいです。パビリオンを観るどころか動けないじゃないですか?それでも入場制限をしなかったというのは、やっぱり遠くから楽しみにやってきたお客さんへの温情だったんですか?」
「う~ん。温情と言いますかね、当時は入場ゲート前に地下鉄の駅があったんですが、電車が次々とお客さんを運んできますでしょ?(入場)制限しなかったら駅がパンクしてしまうんですよ。それは危険ですから。」
「なるほど、ホームへ落ちたりしたら危ないと。ではお客さんを入れたというよりも、危ないからそっちのほうへ押し込んだという感覚ですね。」
「ええ、お客さんを入れざるを得なかったんです。」

説明を受けている間、時折外から子供の声が聞こえてくる。
そろそろ取材が終わりになる。
塔を出ると当局の方とお別れした。
公園内を歩きたかったが、新幹線の時間が迫っていた。
大阪のサクラはまだ7分咲きだ。中央ゲートから帰ろうとすると、この辺は太陽の塔との
記念写真を撮る絶好のエリアとなっているようだ。赤ん坊を抱いた父親。大学生の娘と母親。老夫婦。ジャージを着た学生グループ。
これまでどれほどの人数の人々が記念写真を撮ったのだろう。
深夜ひとり机に向かい構想にふけっていた岡本太郎さんは、万博の、また今日のこの光景を想像できたのだろうか。

実は今年2007年は、万博開幕時に社会へと羽ばたいた若者が定年を迎える年である。
これは一つの時代の区切りであり、同時にまた新しい時代が始まる。塔の内部は老朽化によって改修工事が予定されている。
岡本太郎が残したメッセージは何だったのだろうか。
そんなことを考えながら大阪までやって来た。
今ここに立ち言えることは岡本太郎は『やった』ということだ。『やらなかった』ではなく
やったのだ。
何年も費やした構想期間。反対派を押し切ったことから生じるプレッシャー。
その結果がこの光景だ。それにしてもさっきから記念写真を撮ってるのを見ているが、不思議と飽きないのだ。満面の笑みのお客さんに比べ、撮られた塔は何だか迷惑そうに見えてしまい両者のギャップが面白い。岡本さんは亡くなったが、遺された塔はまだまだ頑張っている。
入場ゲート裏の売店でソフトクリームを買った。店のカウンターの丁度目の前に巨塔がある。
「毎日見ながらお仕事してるの?」とおばちゃんに聞くと。
「ええ、も~毎日見てます(笑)。」
満面の笑みだった。

参考:生命の樹(写真あり)

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