2.ロシア文学と演劇
そういった読書のバックグラウンドを持ったロシア人たちというのは、自然と会話の中に文学の話が出てきてしまい、やはり、そういった会話についていけて当然という空気がある。しかも、それぞれがまったく独自の思い入れで本を読んでいるものだから、必ずしも有名作家が一定の評価を得るとは限らず、トルストイでもボロクソに言う人もあるし、ソ連時代には必読か、一種のカリスマ的扱いだったマヤコフスキーだとか、ゴーリキーでも現代ではさっぱり人気がなかったり、芝居に取り上げられるのは田舎だけだったり、いろいろと変遷はあるわけだ。
でも、やっぱりロシア人にとって特別の詩人だとか、劇作家、小説家というのは完全に時代を超越しており、常に彼らの意識のそばに存在しているようだ。特に演劇界などでは、絶対にどの劇場でもレパートリーにチェーホフ、ゴーゴリー、トルストイ、レールモントフ、ドストエフスキー、ブルガーコフなどのいずれかの有名戯曲が含まれており、当然のようにそこにシェークスピアや、ギリシア悲劇の名前も並ぶ。しかも、見にくる人たちというのは、原作を既に読んでいる場合が多いので、注文もうるさい。目の肥えた観客となると、何代にも渡ってのハムレット役者と比較するだろうし、あの時代の演出家のことだって逐一覚えていて、批評家顔負けの鑑識眼を持っていたりするものだから、舞台人はまったく気が抜けない。
もちろん、全体としてマスコミの作る流行も平行して存在するけれど、それに乗せられるのは若い世代など非常に一部であって、ほとんどの大人の嗜好は、そう簡単に他人に左右されないのだ。おそらく、そういうところは非常に文学の恩恵を得て、ロシア人の芸術に対する審美眼がかなり磨かれたものとなっているのだろう。そして、個人の好みについても多様性があって、それぞれが年齢、性別に関わらず、また何処の誰だろうと、(たとえ見かけは浮浪者だろうと)非常に堂々と意見ができることは素晴らしい。
そういう点においては、理不尽なことだが、長い弾圧の時代を経て、いまだに厳しい現実のもと、言論が大変守られていない社会の人間にしては、ロシア人の感性が日本人より、明らかに自由であることはまさに皮肉なことであり、真の自由を掴むために必要なのは、個々の人間の判断力を育成するような良き文学ではないかと思うのであった。
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求む(平成19年12月23日迄に投稿)
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