日本でも、年配の人と話をすると「ロシア人」というだけで強烈な嫌悪感を持たれる方も少なくない。たしかに、第二次大戦中のソ連兵の蛮行を直接知る世代にとってあのような連中は鬼畜であって、人間でない!という気持ちはよく分かる。それと同様か、さらに激しくロシア人を憎悪する外国人もまた少なくない。特に東欧諸国だとか、旧ソ連圏の人々との間にある感情は、ただならぬものなのだろう。
一方、ロシア国内では常に第二次大戦後の悪役はドイツだった。血も涙もないが、ロシア人の軍人たちより数段男前でスポーツ選手のように均整のとれた体格のドイツ人が映画に頻出し、「情のロシア」対「冷血のドイツ」の戦いで、常にロシアが勝利するというパターンだったように思う。
最近見た映画で、共産主義時代の東欧圏を彷彿とさせてくれたのがハンガリーの映画だった。大阪で開かれていたヨーロッパ映画祭に出品された「剥製師(タクシデルミア)」というこの映画は、映像的にも相当過激なもので、会場を埋めた満員に近い関西の映画愛好家にも賛否両論という様相。上映後の監督に対する質問会でも、かなり正直な作品への懐疑の声も聞かれたほどだったが、とにかく、この映画の中でのソ連時代のロシア人の描かれ方が、まさに私にとっては興味深い部分だった。
ソ連時代のロシア人のことなんかに、そもそも興味を持つ人が世の中、そう多くないと思うが、意外にこの時代は、馬鹿にできないのではないかと思う。やはり、社会主義国家の親玉だったあの国が、どのような大義名分を振りかざして周辺国に君臨していたかを知ると、今の中国や北朝鮮のことも、だいぶ理解できるようになってくる気がするのだ。
この映画の面白いところは、ハンガリー人が三世代に渡って描かれ、まず戦争中の兵士だった祖父の代。それから、ソ連時代に入って、大食い競争の国際チャンピオンを目指した父、そして、現代に入り、剥製という趣味と実益を兼ねた商売で暮らしながら、巨漢になって身動きもできない父親の介護をする子供の代へと続く。
戦争中の話からして、かなり猥雑で不潔で妄想めいていて、なかなか凄い映像になっているのだが、とにかく、この祖父に当たる一兵卒は、たった一人の上官とその家族の召使のような状態で、不潔で人間が暮らすところとは思えないような納屋に押し込められて暮らしている。この場面が一番、山村の景色や古臭い因習めいた空気がハンガリーらしさを感じた。
とにかく、朝から晩までこき使われて、虐待に近い扱いを受ける男なのだが、ある晩、上官の奥方である巨体の女性に迫られて、ほとんどのしかかられた状態で強制的に結ばれる。思わず、抑留者の日本人男性がロシア人の女性に襲われたという話が、まさにこれを見れば、真実だったのだろうと納得するくらいの剣幕で女に押し倒されてしまうのだ。挙句、勝手にこの上官の女房が妊娠したことによって、哀れな兵士は頭に一発拳銃の弾で始末される。納屋で一緒に眠っていた豚を屠殺したのと同じように呆気なく。
それから、時代はソ連時代に突入。上官の子供として育てられた少年は、もともと肥満体型でチョコレート工場で何十キロものお菓子を平らげるなどして、その大食い素質を認められて、スポーツ選手のように養成されていく。やがて、青年になって共産圏の国際大会に出場するまでになる。この時代になると、本当に建物から服装からセレモニーをする会場に掲げられる国旗や共産主義国独特の少年団の有様、歌で歓迎し、小さな子供を使って、平和を演出するところまで、小憎いくらいにソ連時代らしい細工を使う。
そのような平和・友好めいた舞台の裏では、死ぬほど大量に食べさせられたものを競技終了後に後ろを向いて、巨大な洗面台のようなものに大量に吐き出している現実がある。目にするのもおぞましいこの光景こそ、共産主義の表と裏の実態を象徴的に示したものだろう。多かれ少なかれ、北朝鮮でやっていることも、中国でやっていることも、これに近いのではなかろうか。共産主義という肥大した思想のもとで、強制的に押し付けられるものは、すべて、これに近い嘔吐感を従う側に与える可能性がある。
実際、ピオネールと呼ばれた少年少女の党員クラブのお揃いの制服を着た子供たちを見ていると、まさに現代ロシアで、プーチン政権を過激に演出している青年組織「ナーシ(我々のもの)」は、あまりにも代わり映えしない。まさに、類似した劣悪粗悪品が後者ともいえるくらいだ。(実際、最近も選挙後のモスクワで3万人規模のデモを行っており、海外のメディアの活動やイギリスの外交官発言、エストニアの銅像移転問題でも、異常な反応を示し、すべて数の力で押さえ込もうというのだから、かなり現代版は昔の小学生程度の年齢の子供集団に比べて格段に危険といえよう。)
それから、大食い競争自体はソ連時代に存在しなかったというのに、迫真の演技で巨漢の男たちが、家畜用の食用桶のような金属製無機質な計りに溢れんばかりに入れられた一見残飯のようなものを、がつがつとスプーンで口の中に押し込んでいく場面が繰り広げられる。
ここでも、やはり多少汚い手を使っても、必ず「ソビエト連邦代表」が勝つのだ。そして、それ以外の共産国メンバーは必死でそれと戦う。しかし、結末は毎回同じ。そもそも、こういうことは筋立てもなにもかも、ソ連側でやっていて、ストーリーどおりに運ばないといけない。
それにしても、東欧であれだけ異なる人種、文化圏を共産色に染め上げた秘訣のひとつが、この場面にも隠されているようだ。このように互いを競わせ、表面上は「競争なんて実際には存在しない。あるのは共栄だけ!」という歯の浮くような嘘で塗り固めた会場の没個性的な雰囲気。こういうところは、日本の左翼の人たちも似たようなものだと痛感する。
その後、結婚した大食い夫婦が、ソ連代表団の前で大食い披露することになる。なにからなにまで、判でついたようにお決まりの友好国に対するお得意の演説をぶつロシア人代表団の男。当然、ウオッカで乾杯するときも延々と「我々の友情とますますの発展」を熱く語る。どこにもないそんなものを、あたかも存在するかのように語る欺瞞。
しかし、事実上、その当時のハンガリーはソ連の軍事力と実質的支配下に近い状態から自力で這い上がれない限り、その演説を大真面目に通訳している。その代表団宴会の席で、哀れにも夫婦の大食いチャンピオンが、並んで何十キロの友好年数と同じ重さのキャビアを食べきってしまわなければならないのだ!さらに、この器が赤の広場に立っているクレムリンの赤い星と同じ形という悪趣味も、ここまでくると逆に微笑ましい。
しかし、一方で成功したスポーツ選手が当時置かれていたであろう、一般人には有り得ないような贅沢な保養地の様子は、当時の夢物語か映画の中の話だろう。しかも、この保養地での優雅な特別休暇を得るには、当然のように賄賂を使って医師の診断書の病名を変えてもらってのことなのだ。
こういうところも、まさに共産圏独特に発達した賄賂社会の一端を見事に描いている。非常に明るく、テンポよく、全然罪悪感の欠片もない様子で、日の燦燦と当たる部屋で行われる情景の平凡な日常性に、むしろ感心する。これくらい、賄賂も健康的で堂々と行われてきていたのか!と。
そして、やがてこの大食いカップルから生まれる息子が「剥製師」になるのだが、とにかく、最後の世代が不思議と奇怪なくらいに陰惨な人間として描かれる。この時代もまた、ハンガリー人にとって必ずしも「幸福」とはいえない、物質主義、資本主義に飲み込まれる時代なのだろう。象徴的に同じ種類のバターを大量に購入する息子が、孤独を紛らわせるかのように毎回同じ女性のレジに並ぶ。物質的に豊かだが、人と人との疎遠さと孤独が描かれ、現代もまた多難な時代ということなのだろうか。
映画の最後は、親子二世代が共に剥製になってしまうという、おぞましい最後なのだが、その結末はともかくとして、父親で元大食いチャンピオンの見るも無残な巨大な体とその面倒を見なければならない若い痩せこけた息子の悲惨な日々は、一体何を暗示するのか。
いろいろな解釈が可能だと思うが、単純に見れば、巨大化して自分で身動きもできない哀れな存在を、どことなく「崩壊したソ連」に見立てているように感じた。こうやって、自ら肥大化して動けなくなって、崩壊してしまった共産主義の尻拭いをどれだけの名もない人々がさせられたことだろう。そう思うと、この映画の悲劇はいまだ東欧では現在進行形なのかもしれないと考えさせられた。
