「踊りが日常です」田中 泯という生き方


正直言うと、日本が世界に誇る舞台芸術のひとつとして「舞踏」があるのを知ってはいたものの、それほどの興味もなかった。実際に見たことがあるのは「山海塾」という舞踏グループがモスクワ公演をくらいのものだし、それ以上特別な知識はなにもなかった。ただ、今回は偶然にも「土方巽(ひじかたたつみ)」と並んで、舞踏時代を築き上げ、現在は山梨県を拠点に「踊りが日常」という生活をしている「田中 泯」という人のことを知り、大変興味を持ったので、彼の芸術とその周辺の時代や出来事について考えてみたいと思う。

それにしても、元来演劇に興味があるとはいえ、自分の関心の方向が「舞踏」に向いてくることになるとは以前ならば想像もしていなかった。本当のことをいうと、元々の性質は「食わず嫌い」なもので、滅多なことでは「新しい風」に急に当たってみようなんて思わない。どちらかというと、言葉を使わない舞踊よりも、分からない言語でも言葉のある芝居を好んできた。しかもどういうわけか、日本の芝居より、大陸ものに関心のある偏った趣味を持って生きてきたので、今更どうしてという気が自分でもあった。

ところが、きっかけは数年前に遡る。ちょうど東京にいるときに三島由紀夫の命日に九段会館で集まりがあった。これはなんでも毎年命日に行われる厳かな集まりらしかった。その年、偶然そこに伝説的な三島自身を被写体にした写真集「薔薇刑」を撮った写真家、細江英公が来て話をするというものだから、これはなにがなんでも絶対に行かなくてはならないという気持ちになって参加させてもらった。

とはいっても、細江氏のこととて「薔薇刑」を撮った写真家ということで知ったくらいのことだ。ほとんど、この写真集が自分を呼んだとしか言いようがない。三島由紀夫に関しても作品を通して知っている程度のことで、単なる一般読者の域を越えるところもない。にもかかわらず、なにか「薔薇刑」という、この二人の芸術家が関わった作品については、漠然と何か「その時代の匂いを強烈に放って今も燦然と輝く記念碑」というように位置づけられるのだった。自分が生まれる前だけど、多分、ちょうど日本という国の戦後が分岐点に立っていた頃の凄い時代の空気が、その作品の中に濃厚に立ち込めているのは、私には一枚の写真を見るだけで十分過ぎるくらいに分かった。

実際のところ、三島由紀夫に関しての評価は海外の方が高いのではないかと、ロシア在住のときに気付いていた。一方で、日本国内での知識人やマスコミなどの彼に対する態度は、いまだに「煮え切らない」場合が多く、しかも人によってはなにか「臭いものに蓋をする」かのように頼りない。そこで思い切って、細江氏という生き証人から本当の三島由紀夫の断片を嗅ぎ付けたいと思った。彼の話の中でちらりと見える事実や、未公開で写真集に収録されなかった写真の凄さを見ても、参加した意義はあったが、そのときに非常に意外だったのが、細江氏と三島を繋いだきっかけとなったのが間接的ではあるが細江氏の撮影していた前述の舞踏家、土方巽であったということ。これは私にとっては、ある一撃として頭の片隅に残った。そんな凄い芸術家のことを、自分はほとんど知らないという事実。これはいけない、とどこかで感じていた。

もちろん、冷静に考えてみれば、ボディービルに凝ったといわれる晩年の三島由紀夫のことである。同じ時代に、研ぎ澄ました身体感覚を表現する舞踏で一世風靡した土方巽の踊りを見に行っていたのは、驚くほどでもないことかもしれない。しかし、その時代を知らない世代に当たる自分にとっては、いまいち結びつきの分からない線ではあった。

それからそのまま随分時間が経って、最近になって、やっとその線と点が結ばれてきた。その一点に森山大道という写真家がいて、この人もやはり「薔薇刑」の仕事を当時の細江英公のアシスタント的な役割でこなしていたらしい。やはり、彼も同じ匂いがした。あの時代の空気がいまだに彼の最近の写真からもしているのだ。この人もやはり、強烈な時代の体験者として、一時は「写真よ、さらば!」なんていうくらいに写真を見切ったような生活を一度はしていながら、再び自分の表現手段は写真しかないという現実に戻って、いまだに結構暴力的で過激なくらいに時代を撮り続けている魅力的な人だ。

その後に来たのが、最初に名前の出てきた「田中泯」という人なのだ。土方巽とほぼ同時代から「踊る」ことに専念して生きてきた舞踏家だ。最近になって、映画「たそがれ清兵衛」で日本アカデミー賞を受賞したり、フランスでも芸術文化騎士章受勲。だが普段は山梨で農耕生活をしながら、舞踏の基礎を身に付けるために世界から集まった若者と一緒に暮らしているという。でも実際会ってみると、なかなか肩書きなんかで評価がつけられるような人でなく、むしろ気骨の人なのである。

でも、紙の上だけの情報では人間ピンとこないものだ。それでドキュメンタリー映画を見ることにした。「私は地を這う前衛である」と本人が言っているとおり、この映画「ウミヒコヤマヒコマイヒコ」の中で、田中泯はひたすらインドネシアの風景の中に溶け込むような自然体で踊り続ける。後で聴かせて貰った本人の話によると、45日間の滞在中の前半は本当に「踊り始める」ことができない状態が数日続いたという。インドネシアの人から見ると「世界的に有名な舞踏家」なんていう知識は皆無であり、しかも踊る場所の環境もまったく異なる。自分が<自分の名前>から自由になるために時間がかかったとのこと。本当に「正直過ぎるほど正直に生きている人」である。

そして、その後本当に彼は完全に調和した状態で踊り始める。といっても、一般的にイメージするようなダンスとかバレエみたいなものではなくて、まるでその場所その場所の空気や土や水に同化しようする肉体的な取り組みのように見えてくる。非常に一見地味な動きなのだ。なにか人間以外の生き物の動きにも似て。こういう「踊り方」に慣れないうち、見ている方も多少当惑する。

ところが、意外なことにインドネシア人は先入観なしに、彼の踊りを「蝶が舞い、小鳥が唄う」のを聴くように、淡々と眺めているのだった。本当に時間が静止しているのかと思うくらい、密やかで静かな時が緩やかに過ぎていく。まるで日本の時間と反対に流れているんじゃないかと思うくらいに。不思議なほど当たり前に景色に溶け込んでいく踊る田中泯とそれを眺める人。こういうのがひとつ、理想的な人と自然の姿なのかもしれない。雑音も入っているのだが、それもまた味がある。波の中なら波の音、山の中なら木を揺する風の音、人家の近くなら家畜や子供の騒ぐ音くらいしかしてこない。

だんだん映画を見ている自分までもが、インドネシアの波や風や土に洗われていくような気持ちがしてきた。なんだか分からないけど、故郷の土に触れてきたみたいに気持ちいい映画だったし、インドネシアの人の生活が質素でなんにもないけど美しいと思った。

まあ、そういう表現だけをすると「綺麗事」に終わってしまうかもしれない。が、実際のところ田中泯という人は、ある時代には街頭や舞台などで「完全に全裸」で踊っていたために何度も警察のご厄介になったこともある、過激な時代も経てきている舞踏家なのだ。私もその時代のことは岡田正人氏の写真集を通して目撃したに過ぎないので、あまり突っ込んで書くことはできないが、文字面で見るより意外とそれもまた「自然」なので「いやらしい」感じはまったくなかった。(要するに、人間誰しも生まれてくるときには裸なのであって、それをどういう視線で見るかによって定義づけられるだけで裸自体に罪はない)

ただ、その生まれたままの姿で東京の平和島のゴミ処理場で、一切防御するものもなく、ひたすら汚水やゴミまみれになっても踊り、警察に捕まってもまだ諦めずに踊る、その根性には驚いた。いろいろな人が世の中にいるけれども、ここまでやろうと思うと、単なる勇気だけでもなく、よっぽど自分の行為に自信がないとできない。多分、田中泯という人の生まれつきもっている気骨というのもそうだけど、時代もそういう時代だったのではないかと思った。何をするにも今よりもっと真剣さがあったんじゃないか。今よりも不安定かもしれないけど、なにか体制や権力に流されないぞ!
という漠然とした意識が強い時代。もちろん、それは混沌として善悪相塗れるものだったにちがいない。

その後、田中本人はそういう時期から「服を着て」踊る時期へと移行している。フランスでは、しばらくそれを「ポリシーを貫いていない」批判されて、相手にしてもらえなかったときもあったという。
しかし、単に「裸で踊る」ということを通して、センセーショナルを狙ってこういうことをしていたのならば、逆に軽蔑すべき対象だったかもしれないが、田中泯という人の場合は、「それが自分の自然だから」という姿勢を貫いていたのが凄いと思う。そして、そこまで激しく「自由に踊りたい」という欲望をあらわにする舞踏家というのも、今後なかなか現れることはないのかもしれない。彼の求めていたものと、時代の人々が求めていたものは、必ずしも同じではなかったかもしれないが、どこか方向性としては共通していたのではなかとも思った。

田中泯という人はそれだけ激しく社会にぶつかる時代を経て、現在は山梨で農耕生活をしている。そもそも、このことを決めるのも土方巽に相談したのだという。それも何十年も前のことだ。最近でこそ、芸能人や俳優などの間で一種の流行のように「田舎暮らし」や「菜園作り」をやる人がいるが、田中泯の場合は相当昔にそれをやり始め、しかも開墾から手掛けているので、「趣味菜園の延長のような連中とは一緒にして欲しくない」という自負があるとのこと。たしかに、60を過ぎたとは思えない引き締まった肉体に精悍な顔立ちを見ていると、日頃の生活の鍛錬が伺われた。たしかに、土に触り、人間としての肉体的な触覚をしっかり持っている人は違うのだなあという説得力が、生で見るとひしひしと伝わってきた。本人の話は朴訥で、地位や名誉のために踊ってきたのではないから、舞台芸術賞のようなものを貰った時点で「もう今後舞台で踊るのはやめます」と宣言したそうだ。こういうことをすぱっと決められるのも、勇気があって生き方が美しく思える。

有名になって名前ばかりが先行してしまった自分の目指す「踊り」ができなくなるのは嫌だというのは、本気だろう。たしかに映像などで見るのと実物は違うし、商業主義になって退廃していく芸術は数知れない。名誉のために自分の鍛錬をないがしろにして、結果的にそれまでの自分の表現を貶める芸術家もたくさんいる。とはいえ、おそらくそれまで一緒に仕事してきた周囲には「我侭」ともとられかねない言動だろう。これを宣言するには勇気が要る。だが、自分の目指すものに妥協しない生き方に私は強く共感するところがあった。

これだけ自分の身体、肉体と究極的に向かい合って踊ってきた人だけあって、「人間の肉体の無限の可能性を無駄にするな!」ということを訴えていた。これもまた心を打つ言葉だと思った。「自分はここまで」と見限った時点で駄目になるのであって、「自分はまだいける!」という信念のある人というのは、最大限に自分の可能性を生かせるという意味なのではないかと思った。

また、某教育番組で自分の母校を訪ねられたときに、今の小学生が「あまりにも酷い」ので
相当厳しく叱咤して躾について口喧しかったという。おそらくそれまでの友好的演出を行う出演者とあまりにも違い、子供に対して厳しすぎるだろうと、自ら「もし気に入らなければ、番組ごとカットして下さい」とディレクターに断りを入れたくらいだそうだ。

とにかく、あんな番組はたった1-2日子供たちに接するだけなのだ。それなのに、そこでも相手に妥協を許さない態度に感心してしまう。なかなか普通ならできない。たしかに、子供といっても6年生くらいにもなって、「男女間の礼儀もない」というのは日本人として恥ずかしいことなのだ、という意識をしっかり持っている大人や教師が、今の時代少なくなっているのだろう。だが、そこに田中泯のような鋭い感覚で、自分を偽らずに生きてきた人が入るともう我慢ならないことになるのだろう。残念ながらそういう躾というのは、本来ならば学校だけで教えるものでもなく、日常の大人の振る舞いに接しながら自ずと学ぶべきものでもあるから、それができていないのは家庭の問題でもあるのだろう。とにかく、堂々と子供を叱ることができる大人が減ってしまっている今、田中泯のような勇気ある言動こそ、取り戻すべき大人の威厳だ。

かなり話が前後してしまったが、そういうわけで遅まきながら、やっと「舞踏」というものを垣間見たのである。こちらの独断と偏見で言わせて貰えば、彼らが目指している芸術とは、「人間の身体との対話」という風にも言い換えられるのではないかと思った。

「踊る」と一言で言っても、本当に多種多様な踊りがあるわけだが、最もそれを突き詰めて「地を這う」ように表現するのが「舞踏」なのだとしたら、つまり肉体を原始に戻す作業ともいえそうだ。

とにかく、自分の身体を意識もしないで、有難くもなんとも思わないでも生きられる時代というのは幸せなのか不幸なのか。本当の感性が宿っているのは実は身体の方だとしたら、
それを疎かにする生活は改めなければならなくなるだろう。じっと座って、動くこともなく、頭の中で考えるばかりではどうもいけない。もっともっと、自分自身の行動を通して感じていかなければ!そういうことを改めて考えさせてくれる良い機会となった。

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