満州国3〔スパイ〕

敵の情報を得るためにしばしば違法に諜報活動や情報入手を行なう諜報員・工作員・間諜・間者・密偵を総称してスパイと呼ぶが、味方にとって彼らは非常に役に立つエージェントである。戦時、平時を問わず政治・経済・軍事機密・科学技術等の情報をいち早く入手するためにスパイ活動は常に世界中で行なわれていると考えていい。大胆な活動も地味な活動もあるが、危険な任務が多い。CIAやMI6のような諜報機関やFBIのような防諜機関等はスパイ網を組織的に巨大化し、スパイ養成を行なっている。満州国の歴史には多くのスパイによる活動が関連している。日本もまた旧陸軍を中心に特務機関と呼ばれる特殊任務を遂行する団体を組織し、また敵対勢力による日本人スパイも組織された。

満鉄調査部

1907年、南満州鉄道株式会社の経営、東北(中国の東北地区)の政治・経済等の調査や研究を行なうために設置された。満州経営構想「文装的武備」を基に東亜経済調査局や経済調査会とも呼ばれた調査部は、満鉄四大業務に鉄道経営・産業開発・付属地行政と並んで位置づけられた。その後は中国本土も対象として本格的な調査研究が行なわれた。1917年、ロシアに隣接する満蒙地域へ日本が勢力拡張する絶好のタイミングはロシア革命の勃発とみなされた。満鉄調査部ロシア係主任宮崎正義を中心にロシアと満蒙地域の研究を盛んに行い「ロシア研究のメッカ」と呼ばれ多くの帝国大学卒業者が調査部に入社した。後に右翼団体行地社結成をする大川周明や笠木良明などもこの時期調査部入りした。1932年、満州国建国で関東軍は満鉄に経済政策立案を要求。このため満鉄調査部は経済調査会を作成し、満鉄理事の十河信二のもと関東軍の手足となり宮崎正義や佐々木義武が政策立案機関として動いた。彼らは戦後高度経済成長期に入る日本で影響を与えることとなる。経済調査会はその後産業部となり調査部へとなった。1937年、調査業務の比重が満鉄で大きくなり松岡洋右総裁の構想で大調査部が発足。東亜経済調査局・北支事務所・上海事務所調査課・中央試験所・満蒙資源館・大連図書館等が調査部へ統合された。人員不足から日本国内で活動しにくくなった自由主義者やマルクス主義者の思想を持っていた者を大量に入社させることになる。このため満鉄内では自由主義と植民地主義の対立が多く、論争が絶えなかった。関東軍にとって満鉄調査部の思想は嫌われ、満鉄調査部事件として2度関東憲兵隊により弾圧検挙される。調査部の機能はほぼ失われ活動縮小、満鉄の解体以前に事実上の消滅を迎える。しかし、満鉄調査部の調査員は戦後の日本で政財界や学界で活躍した者が多い。

リヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実

日本に潜入し、モスクワへ日本の動きを伝え続けたソビエト軍の有名なスパイの リヒアルト・ゾルゲ。ソビエト連邦アゼルバイジャン共和国首都バクーで鉱山技師の父ヴィルヘルムとロシア人の母ニナの間に生まれる。彼のおじはカール・マルクスの秘書であった。幼い頃に家族はベルリンに移住し、1914年10月第一次世界大戦でドイツ陸軍に志願。負傷し入院中に社会主義思想を知る。1919年ハンブルク大学で最優秀と評価され政治学の博士号を取得、ドイツ共産党へ入党。1924年コミンテルン本部にスカウトされモスクワへ行き、赤軍の諜報機関参謀本部第4局(後GRU)に転属される。ドイツの新聞社フランクフルター・ツァイトゥング紙を隠れ蓑に上海へ派遣され朝日新聞記者尾崎秀実と知り合う。完全な共産主義者であった尾崎秀実は1928年上海に渡ってからコミンテルンとして諜報活動に参加していた。朝日新聞退社後は第一次近衛内閣嘱託となり、朝飯会メンバーとして第二次近衛内閣、第三次近衛内閣まで続く内閣のブレーンとして働いていた。1939年6月1日より満鉄調査部嘱託職員として東京支社に逮捕されるまで勤務していた。

ゾルゲは1933年9月6日フランクフルター・ツァイトゥング紙の東京特派員としてドイツや日本の動きをスパイするために日本へ赴く。上海時代に知り合い、満鉄の嘱託職員をしていた尾崎や尾崎と共に近衛文麿内閣のブレーンであった西園寺公望、洋画家でアメリカ共産党員の宮城与徳、フランスアヴァス通信社(現AFP通信社)特派員ユーゴスラビア人のブランコ・ド・ヴーケリッチ、ドイツ人技師のマックス・クラウゼンとその妻アンナ・クラウゼンを中心メンバーにスパイ網を日本に構築しスパイ活動を開始。日本のドイツ人社会において日本通でナチ党員として知られたゾルゲは大使館付武官から駐日ドイツ大使に出世した。ゾルゲを信頼したオイゲン・オット大使は大使の私設情報官という地位を与えた。これによりドイツの機密情報を手に入れることが可能になり、ドイツのソ連侵攻作戦「バルバロッサ作戦」の正確な開始日時(1941年6月22日)等を含めた詳細な情報を事前に入手。ところがソ連のヨセフ・スターリンはゾルゲは二重スパイではないかと思い報告を無視してしまう。日本軍の侵攻方向を近衛内閣のブレーン尾崎秀実より情報を得ていたゾルゲは日ソ中立条約や南方資源確保のため日本軍はソ連侵攻に消極的であることを知る。情報はクーリエを使い、クラウゼンがHF無線機でウラジオストック中継地へ送信していた。東京市内のソ連や中国に向けた無線電波に気づいていた特高もクラウゼンのこまめな移動と暗号解読ができずに逮捕まで発信源の特定ができなかった。

太平洋戦争開戦直後1941年10月ゾルゲのスパイ網は一斉逮捕される。日本共産党員やアメリカ共産党員の自供が発端と言われこの経緯はゾルゲ事件と呼ばれる。オイゲン・オットー大使はゾルゲの釈放を要求し面会するが、本人からスパイであることを告げられ大使を解任され戦争終結まで北京で過ごす。ゾルゲや尾崎は巣鴨拘置所で拘留された後にロシア革命記念日の1944年11月7日死刑が執行された。尾崎秀実は実兄の妻英子と不倫、その後結婚しており、戦後英子は獄中の尾崎との往復書簡集『愛情はふる星のごとく』を出版。マックス・クラウゼン夫婦のみ連合軍によって釈放、生きて故郷の東ドイツに戻ることができた。ソ連政府はゾルゲがソ連軍のスパイであることを否定していたが、反スターリンニキータ・フルシチョフが君臨していた1964年にゾルゲにはソビエト連邦英雄勲章が授与される。旧ソ連駐日大使もその後のロシア駐日大使も日本赴任の時はゾルゲの墓参りをする。スパイゾルゲはソ連の英雄的存在となった。

特務機関

満州における関東軍でも勤務した日本旧軍による諜報機関があった。それらは特務機関という特殊任務を行い、当然のこと特別な訓練なしには厳しい任務である。国際情勢・機密情報の収集分析、宣伝工作、謀略活動が可能な部隊を養成するために主に幹部候補生を採用し学校が創られた。呼称は当時いろいろと使われたが、所謂陸軍中野学校である。中野学校の職員と生徒は軍服を禁止され偽名を名乗ることになっていた。授業では外国語はもちろん写真撮影や暗号も教育され卒業生は約2200名と言われる。現在日本で工作員と言うと北朝鮮を思い出すが、その他の国も情報機関を持っている。スパイ映画と言えばMI6の007だろうか?グッド・シェファードはCIAの話である。いつの時代もいろいろな組織で情報収集分析、そして操作が行なわれている。単なる武力だけでなく産業においても試験においてもそれを担う任務・処理が必要である。日本はスパイ達にとって活動しやすい国だろうか?

記事

防衛省 相次ぐ情報流出 必死の専守防“洩” 産経新聞より 

日本は現場主義を捨てなければなりません。情報管理体制の概念を変更して下さい。


このコラムについては上記の映画を閲覧した人のみ回答を致します。