満州国5〔満州事変〕

満州事変は満州で関東軍が1931年9月18日に始めた軍事行動を発端にした国家間紛争のことである。関東軍は約5ヶ月で満州全土を占領し、現地の抗日運動は激化した。日本軍部が日中戦争(日華事変・支那事変)の軌道を確定し、中国市場を狙うアメリカ等の列強諸国との対立も出てくる。中国では九一八事変と呼ばれる。

張作霖爆殺事件

日露戦争の勝利で鉄道施設を譲渡され、南満州鉄道株式会社を創設した大日本帝国。関東軍は満鉄の警護をし、地元の親日派軍閥長張作霖に軍事顧問団を送っていた。ところが張作霖の勢力が弱まり始めた1928年、関東軍は張作霖が乗る列車を爆破殺害したのである。当然、このことは日本に対する国際的批判を招き、張作霖の息子張学良は日本に敵対し始める。張学良は蒋介石の南京国民政府へ合流し満鉄の隣に新鉄道路線を建設して経営競争をしかけてくる。関東軍は石原莞爾、板垣征四郎と共に満州軍事占領を決意する。

柳条湖事件

満州事変は関東軍虎石台独立守備隊の一小隊が1931年9月18日夜22時過ぎに柳条湖の満鉄線路上で爆破事件を起こし、これを張学良の東北軍による破壊工作と断定することから始まった。 関東軍は柳条湖近くの中国軍の兵営の北大営から爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し占拠、翌日までに奉天、長春、営口の各都市も占領完了する。関東軍が満鉄工員の修理を拒んだことや現場に急行列車が何事もなく通過したことから占領の口実のための小規模爆破であったことは明らかであり、自作自演の爆発劇は満州事変が起こる発端となった。日本政府はこれに対し幣原喜重郎外務大臣の関東軍への疑惑や外交活動での解決のために閣議で事態をこれ以上拡大しない方針を決定。ところが関東軍は政府の決定を無視して戦線を拡大、東北三省を制圧した。幣原による国際協調主義外交の努力はむなしく石原の作戦指導のもと関東軍爆撃機12機が張学良の拠点錦州を空襲する。

石原莞爾

陸軍大学校を次席で卒業し、在籍中は首席をよく取り陸大創立以来の頭脳の持ち主と言われた石原莞爾(いしわらかんじ)。若い頃はナポレオンの伝記などを熱心に読み、卒業後はドイツへ留学する。天才肌であり、少々常人とは違ったということで数々のエピソードが残っている。1928年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任。関東軍による満蒙領有計画を立案し1931年板垣征四郎らと満州事変を実行。満州国の建国後は満蒙独立を計画する。満州国は石原をリーダーに創られた国とも言ってよく、理想は東洋のアメリカとして五族協和、王道楽土のスローガンが掲げられた。日中戦争の時には参謀本部所属となるが関東軍司令長官東條英機ら陸軍中枢と対立。東條とは性格的にソリが合わず、太平洋戦争開戦前に予備役にされてしまう。東條との対立は戦後の極東軍事裁判において有利に働き戦犯の指名から外れた。しかし日本政府に背き関東軍と満州事変に深く関わっている。ところが戦後は戦前と主張を間逆にし、日本国憲法第9条を武器に戦争なしの世界統一を主張し東亜連盟構想を提案。政治や軍事と関わらず日本人、中国人、朝鮮人の支持者が石原に師事する。

日華事変

盧溝橋(中国:七七事変)は日華事変(日中戦争・支那事変)の発端となった1937年7月7日北平(北京)西南の盧溝橋で起きた発砲事件である。7月7日22時40分頃、日本支那駐屯軍は中国側へ通告せずに夜間演習を実施しており、数発の射撃音を聞いた後に点呼すると2等兵1人が足りなかった。ところがこの兵士は下痢で演習直後に草むらにかけこみ用便し無事帰還していた。けれども中国軍の奇襲に違いないと大騒ぎになり牟田口廉也連隊長の指示で中国攻撃を行なったのである。これにはまた日本軍の自作自演の可能性を指摘されているがはっきりしたことは分からない。一発目は誰が撃ったのであろうか?日華事変の開戦原因とは?とにかく日本軍は中国は平和的交渉に応じる誠意がないといい7月28日朝鮮駐屯の朝鮮軍や満州国駐屯の関東軍が次々に北京・天津地方に侵攻し占領。8月15日には近衛内閣が「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為今や断乎たる措置をとる」と宣言。戦線は拡大され、12月には南京を攻略。このときのことを南京事件と呼ぶのである。これに対し中国共産党と国民党は協力して日本国に対抗、日中全面戦争が始まった。

八路軍

日中戦争期に華北で活動した中国共産党軍であるが、華北以外も含めての中国共産党軍の総称として使われることもある。1937年8月25日、中国国民革命軍第八路軍(八路軍)は中国人民解放軍の前身であり中国工農紅軍を改変した軍隊組織として改組。八路軍は華中の新四軍と抗日最前線で戦う。毛沢東は人民戦争理論「点化した敵軍を人民の海へ埋葬する」という人海戦術教義に従い、各地で共産党を広める浸透工作を行なうために軍隊を作った。列強諸国や軍閥に対しての民衆による革命運動の限界を察してのことであった。路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当。大衆に支持された八路軍は人員の確保も容易で神出鬼没のゲリラ戦は日本軍を多いに悩ませる。ゲリラ活動が得意とはいえ八路軍は規律が保たれていたともいう。そしてゲリラと呼ばれる多くは軍服を着ないで民間人の服を着る、もしくは奪った平民の服を着た更衣隊として戦った。更衣隊の出現で非戦闘員の犠牲者は増えることになる。正規軍装をしない者や民間人が戦闘行為をすれば国際法の保護を受けることはできず捕虜として保護されないで殺害されるかもしれない、いや実際に日本兵は捕らえた者は殺していた。これは虐殺と戦死の区別がつかなくなる原因でもある。本当に民間人を虐殺されたくないのであれば、正規軍が自国の民間人の身なりで戦って民間人に罪を擦り付けてはいけないのである。後にソ連軍の元へ下るはめになった日本軍人よりも八路軍下に降りた者の方が収容所待遇や内地帰還を巡っても厚遇であった。ただし機動兵器関係や医療関係など特殊技能を持つ者は長めに留められ帰還は遅れた。

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コメント

このブログで紹介されている記事は真実ですか。
もし真実だとしたらその根拠はなんですか?

--------答え-----

歴史は次の次の王朝(政治体制)になればより真実に近いことが判るそうです。ここで満州国の特集を組んでいるのは大日本帝国の私生児たち(満州国、樺太、北朝鮮、韓国、南洋の小さな国々、台湾)と戦後日本国の関係を読者にある程度知ってもらいたいからです。上のことは戦後の政治体制が許容できる範囲で記述された情報です。

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