満州国7〔満蒙開拓団とシベリア抑留〕

農民入植計画

京都帝国大学農学部の教授橋本伝左衛門は満州事変前から満州へ農民を送り込むことを唱えていた。理由は「農業を営むのに日本の国土だけでは足りなくなっている。自給自足のできるアジアの盟主になるには狭い国土から海外に出て農業しなければならない。満州は広大な農業に適した未開の土地があるらしい。海外で土地と共に生きる覚悟のある農民が国家の発展のために進出すべきだ!」というのである。満州事変後、自らの学説を実行する機会を待っていた橋本の農民入植の計画は、関東軍中佐東宮鉄男の賛同を得ることになる。東宮は張作霖爆殺事件で爆破スイッチを押した人物で、賛同理由は「満州の武装農民(匪賊)の鎮圧、つまり反日ゲリラへの対策には日本人農民の入植が良い!」というものであった。中国人軍閥は「匪賊の攻撃から個人的利益を守る為に日本人農民を利用しよう!」と考え、土地提供の代わりに計画具体化を望んだようである。東宮は関東軍の石原莞爾等に充分根回ししたのだろう。教育者である加藤完治は「未開の土地に日本の青年達を送り込んで農作業をやらせれば立派な日本人になる。立派な日本人となった彼らは満州、そしてアジアの道を切り開く!」という考えで橋本や東宮の満州農民入植計画を後押しする。こうして1936年広田弘毅内閣は「満州開拓移民推進計画」を決議、1936年~1956年の間に500万人の日本人の移住を計画・推進。1937年農林省の石黒忠篤や加藤完治、橋本伝左衛門、那須 皓によって「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する意見書」を政府諸官庁に提出。国内農業問題解決のために満蒙開拓移民がはじまったのである。

その頃、東北北陸には米の大凶作や大恐慌の影響で繭の値段の暴落した養蚕農家が多かった。そのため移民は重点的に東北北陸の農民が募られ、第一次と第二次の移民は武装移民(当時は兵役義務があった)、第三次以降は普通の移民(農家の次男坊や三男坊ら)があっという間に送り出されたのである。アメリカやブラジルへの日本人移民に制限が加えられるようになったことも新しい入植場所として満州が注目を浴びた理由だろう。1936年からは村が1/3から半分そのまま満州へ引越しする分村移民が始まる。これをしない村には地方自治体の予算を削る等のいろいろな圧力が加わったので、日本全国に分村運動も広まったのである。農民が単に農業のために新天地に行くだけであれば単なる満州開拓移民であるが、農業訓練や軍事訓練を渡航前に受けた者もおり、彼らは満州開拓武装移民団とも言われた。満蒙開拓団と呼ばれるのはそこからきたのだろう。1942年以降になると成人男子の入植者を集めるのは難しくなってきた。みんな戦争の状況悪化のため兵力動員できないのである。そこからは満蒙開拓青少年義勇軍が15-18歳の少年男子で組織される。彼らはソ連国境に近い満州北部へ入植する。

中国残留邦人

満蒙「開拓」団として移民した日本人だったが、そのほとんどは開拓するというより朝鮮人や中国人が既に移民し耕した農地に入植することが多かった。だから地元の住民たちの中には入植してきた日本人のせいで自分の生活が奪われたのだと恨む者もいたのである。入植者は入植者で日本人であるという意識が強く、地元住民と交流する者がいても満州国人として同化はしなかった。日本人を敵視していた反日組織によって入植者が襲撃されることもあったが、敗戦後に中国人の家庭が入植者の子供を預り代わりに育てることもあった。婦人は中国人の妻として生きる者もいた。こうして終戦後も満州から日本へ帰れずに中国で暮らした子供達等を中国残留日本人(中国残留孤児・中国残留婦人)と言う。日中国交正常化から9年後の1981年からは肉親探し、そして日本帰国をする人々がいる。しかし、中国人として育てられたり労働力として扱われ教育を受けていなかったりする上に年齢も若くない場合が多く、彼らのほとんどは日本語を習得していない。社会適応能力が乏しいために生活保護を受けるケースも多い。生活保護の受給額や福祉の充実を求めての損賠訴訟も行なわれており、問題はまだまだ解決していない。

引揚者

シベリア抑留等を免れ、移民の1/3以下の人々は運良く日本へ帰国できたが、内地もまた敗戦の混乱で治安は悪化していた。彼ら引揚者には居場所がなく、日本政府の用意した満蒙開拓団や引揚者向けの場所(引揚者村)は農作などできないような荒地ばかりであった。そもそも農地を求めて満蒙開拓団が出されたのに戻ってきても彼らを迎える土地はなかったのである。このため帰国できた者も戦後の日本で苦しい生活をしなければならなかった。

シベリア抑留

『武器を失ったら手で戦え。手が駄目になったら足で戦え。手も足もなくしたら口で食いつけ。いよいよ駄目になったら舌を噛み切って自決しろ』という教育を受けた兵隊さん、実際に不屈の精神というか究極の根性論で爆発物を抱いて戦車に突っ込んで死んだ人々がいる。神風特攻隊は有名であるが、別に飛行機のパイロットでなくともそういう風にして生命をたった人がいる。また敗戦の後も「生きて虜囚の辱めをうくるなかれ」と自決する人もいた。敗戦後の満州でも多くの軍人そして民間人が命を落とす。ソ連軍の捕虜になるくらいならと死んだ男もソ連軍に犯されるぐらいならと死んだ女もソ連軍に娘を強姦されるくらいならと子供を殺した親も、また敗戦ということに責任を感じて自決した軍人もいた。しかし命を断つというのは非常に難しい、いくら死にかけの精神状態でも生きたいという欲求が邪魔をしてなかなか死ぬ勇気など出てこない。まして死の恐怖を味わう(辱めをうける)前に自らの命を終わらせることはいくらそんな教育を受けた日本人と言えども全員がこなせることではなかった。満州で終戦を迎えた人々の多くが自決せず、強姦されたり虐殺されたり劣悪環境で病死したりしたのである。軍人だって舌を噛み切るどころか簡単に武装解除させられた。

 

1945年8月15日、日本が敗戦したことすら知らずに闘う準備をしていた者までいるというのに新京の軍属は8月10日には莫大な資金を共に憲兵の護衛つき特別列車で脱出して犠牲者とならなかった。玉音放送を聴いても状況が把握できなかった庶民は多かったし、移民政策は終戦の年まで続けられたのだから満州にいる多くの人々には驚きだっただろう。ソ連軍によるシベリア抑留がはじまったとき、職業軍人だけでなく18歳から45歳の民間人男性までも捕まえられ強制連行される。武装解除させられた関東軍の兵士は強制連行され、シベリアやアジアの極北僻地でソ連軍による過酷な労働を課せられる。ソ連軍に「トーキョー・ダモイ」「ダモイ・ブ・ヤポニ」と嘘をつかれ、デマを流されて移動させられても反抗すれば命はなかった。過ごす環境は劣悪で頑丈な身体と強靭な精神を持ち、なおかつ運のある人しか生き残ることはできない扱いを受ける。脱走を試みて成功した人もいるのかもしれないが、その多くは射殺され、帰国を望みながらも感染症に苦しみ息耐える人がたくさんいたことが生き残った人の証言(シベリア抑留体験記)(戦争に捧げた青春)で分かる。シラミとの闘いのところなんかは、シャンプーで髪を洗いWAXで髪の毛を整える今どきの男性には(もちろん女性にも)驚きの記述だろう。極寒のシベリアで1日2回あるかないかの汁っぽい食事で重労働はかなりきつく、栄養失調を引き起こす。出来高制の食事では少しでも多く食べたいために体に鞭打つように働く。飯の配分のときは仲間の目がぎらつく、平等にわけたつもりでも多い、少ないと喧嘩になる。仲間がバタバタと死んでいく中で次は自分かもしれないという恐怖が襲う。丸腰の日本兵達はマンドリン銃を持ったソ連兵に「ダワイ、ダワイ(急げ、急げ)」とせかされながら想像もしなかっただろう捕虜の生活をするのである。勝てば官軍負ければ賊軍、今でも敗戦した旧日本軍の兵士達は悪者とされるが、シベリア抑留で日本兵は酷い目にあって当然!これは罰だとは言いがたい。

 

帰国と引揚

DDT消毒

「DDT消毒」
鉄道の駅の改札口の様な所へ着いた。
「ここで消毒をします。」説明はこれだけ。
改札口は6ヶ所位あり、マスク、防塵眼鏡そして頭からすっぽりと「フード」をかぶった人が、改札口に1人ずつ立っていた。
長いゴムホースの先に金具がついており、この金具のコックを押すと、圧搾空気と共にD.D.Tの白い粉がすごいスピードで吹き出す仕組み。
「はい、帽子を取って下さい。」 「目をつむって。」
ぼうぼうの髪の毛へ「ぶー。」
帽子の中へ「ぶー。」
首すじから背中へ「ぶー。」
胸と腹へ「ぶー。」
右の手首から「ぶー。」左の手首から「ぶー。」
「はい、ベルトをゆるめてください。」
陰部は、念入りに2回「ぶー、ぶー。」
右のズボンの中へ一発「ぶー。」 左のズボンの中へも「ぶー。」
最後は、ボロ靴の中へも、たっぷり「ぶーぶー。」 これで一丁出来上がり。
という訳で、頭から足の先まで真白人間となってしまった。
「おいおい、体中白い粉ぶっかけられて、次は何されるんだろうな。」
「決まってるベー。次は、油鍋にとびこむんだ。」
「それじゃ、天ぷらだべ。 」わっはっはっは。 こんな冗談も出る程の雰囲気だった。
何の事やら良く知らず、いきなり白い粉を頭からぶっかけれれて驚いた。
後で判ったが、我々は、全員が虱を背負って来ているので、DDT消毒は止むを得ない処置と思うが、とにかくびっくりした。

 

「米軍による事情聴取」
  帰国翌日から、米国の諜報員と思われる人達による事情聴取が始まった。
1人ずつ個室に呼ばれた。 室内には、米軍人(日系~2世らしい)2人、通訳、日本の厚生省の役人、書記官等々5~6人居た。
米軍の兵士は流暢な日本語で、
「長い間ご苦労さんでしたね。コーヒ、タバコどうぞ。」
みんな笑顔で接してくれるので、最初緊張していた俺も、すぐ、リラックスする事ができた。
氏名、年齢、本籍地などを訊ねた後、
「原隊はどこですか。」
「朝鮮羅南、騎兵79連隊です。」
「日本に騎兵隊があったのですか?」
「ありましたよー。ここに、騎兵軍曹が居るじゃないですか。」
「ワッハッハッハッハ。失礼しました。」 「それじゃ、白井さんは乗馬がうまいでしょうね。」
「当然でしょう。騎兵隊ですよー。軍曹ですよー。」
「これは、これは、また、失礼しました。」
こんな雰囲気で、楽しい訊問だった。
彼等の狙いは「俺達が、どれ程、共産主義の思想教育を受け、共産化しているか。」を調査するにあったので、俺達には、その気配すらないと判定したようで訊問は簡単に終了した。
最後は、共産主義に対する感想文を求められたから、共産主義の悪口を並べて書いたが、作文になったかどうか心もとない。 何しろ、3年間極限状態の生活。その上、3年間活字を見た事の無い生活。自分の本籍地を漢字で書けない状態であった。 はたして、作文になっていただろうか。冷汗が出る。

 

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