朝日新聞の記事
民主党の山岡賢次国会対策委員長は31日、自民党の大島理森国対委員長との会談で、同席した別の2人を指して「2人はヤマトンチュ(沖縄の方言で本土出身の人)の貴族だから」とした後、大島氏と自らを「こちらはアイヌの血を引く蛮族ですので」と発言した。直後の記者会見で山岡氏は「冗談だ。誤解を与えたとすれば申し訳ない」と陳謝し、発言を撤回した。 発言は会談冒頭の写真撮影の際に行われた。山岡氏は発言の真意について「大島委員長の地元は青森、私は栃木県真岡市で、北の方だ。大衆、生活者という総称において、私らは生活者中心の(大衆的な)土壌から出ているんだ、という意味で申し上げた。そういう立場を擁護しようという意味だ」と説明した。 アイヌ民族に対する認識について、山岡氏は「日本の先住民族ですから、同じ日本人であるし、特に意識をしたことはない」と説明。「誇りに思い、(大衆的な立場を)代表して言っているという解釈をしていただきたい」と語った。
偽善は良くないし、建前ばかりの議論は本質から乖離する。真に大和やアイヌ、蝦夷や隼人との間で友情や親戚付き合いを望むのであるならば、殴り合いになっても本音をぶつけ合うのが礼儀だろう。マスコミは言葉狩りを行い、人々の本音を埋没させる。目を瞑っても、言葉を刈り取っても、現実は変わらない。多くの学校では陰湿な虐めが絶えず多くの少年少女が自殺したり家出したりしている。大学ではセクハラやパワハラが耐えない。言いたい事は正々堂々とどうして言えないのだろうか。
日本人は遺伝子を見ても判るように混血の民族である。人類は危機に陥った時には多神教を一神教に変えたり、多神教でも序列を作ったりして、秩序化を行った。(参照:イースター文明の滅亡)
何故にバベル(混乱)が発生するのか、その本質と見つめ会わない人類は危機に対して逃避を常に選択する。逃避の先にあるのは滅亡である。弱者が力をつけて強くなるのではない。力は強者に集まるのである。権力者と強者は別の概念である。知識人と強者も別の概念である。資産家と強者も別の概念である。地位が高いからといって強い人間ではない。地球環境の変化に対応する為には人は変わらないためには変わらなければならない。本音と建前の乖離は最小限度にした方がいい。生きている子供を愛せるなら死んだ子供でも愛せる。誰が先祖であったとしても、真実を認めることにこそ強さの源泉がある。
参照コラム:メキシコ人の神とアステカ人の神
共同体の危機と集合的無意識
言語連想試験の研究によってコンプレックスの概念を見出したユングは、個人のコンプレックスより更に深い無意識の領域に、個人を越えた、集団や民族、人類の心に普遍的に存在すると考えられる先天的な元型の作用力動を見出した。元型の作用と、その結果として個人の夢や空想に現れるある種の典型的なイメージは、様々な時代や民族の神話にも共通して存在し、この為、元型や、元型が存在すると仮定される領域は、民族や人類に共通する古態的(アルカイク)な無意識と考えられ、この故に、ユングはこの無意識領域を「集合的無意識」と名づけた。
人間の行動や思考・判断は、自我と外的世界との相互作用で決まって来る面があるが、他方、集合的無意識に存在するとされる諸元型の力動作用にも影響される面がある。出典:ウィキペディア
ユング曰く、人の心は、意識としての自我、個人的無意識、集合的無意識の三つの階層によって構築されている。つまり、その共同体が危機に瀕したとき、その民族は集合的無意識が現れる。格差社会のアメリカではそれがキリスト教原理主義となって現れ、引き裂かれたイスラム共同体(ウンマ)を持つアラブ世界ではイスラム教原理主義となって現れた。インドにおいてもヒンズー教原理主義が台頭している。日本人の原型(精神の集合的無意識)というものは何なのか?
太平洋戦争勃発前に、大日本帝国は、日中戦争によって日本は20万人もの戦死者をだした。日本の原型である天皇家に全ての力(パワー)が集中した。しかし、天皇家は文化階級(公家)と武力階級(武家)を歴史的に分割する道を選んだ。これは、生命が男性Y遺伝子とミトコンドリア(女性)に別れて争いながらも共存するしかない方法を選択した事に類似している。天皇家と源氏はコインの裏と表である。天皇家が表として祭事を取り扱う一方、血生臭い殺人暴力の類は清和源氏を中核とする武士団がそれを執り行ってきた。日本の大衆、特に辺境地域の人々はその共同体の危機において上記の議員のような気持ちを無意識のうちに持っていないだろうか?ウルトラマンや水戸黄門やゴジラに解決を委ねて問題から逃避しようとしていないだろうか?
伝統的階級である我々が日本を離れたのは地球の熱的死を防ぐ為である。しかし、同時に日本の改革は我ら無しに成し遂げて欲しいからである。それこそが日本人が幼児性から脱却し、自立した大人社会となる為に必要だからだ。今回も、侍が日本の改革を遂行したとする。本当にそれでいいのだろうか?我らが地球の熱的死を防ぐ事に成功した時、日本は本土に住む人々の力だけで改革していれば良い。然しながら、もしそれが失敗してどうにもこうにもならなくなっていたら、我々はどうするべきなのだろう。誰も答えられない命題であるが幸いにも当面、我らは日本には静観することしかできない。
戦前のように天皇家にパワー(力)を集中してはいけない。帝は祭事が仕事であり、俗事は武士の仕事である。また、マスコミをオラクル(神託)として奉じる日本人は、民主主義の原則に法り全ては自力で解決する必要がある。しかし、全ての知的な人々は本音ではそれは不可能である事に気づいてしまった。彼らは、自分が誠実である事と周囲から誠実であると見られる事の狭間に立っている。愚か者を見ても、愚か者といえないとき、人は心の病を引き起こす。個体が造りあげたものもまた、その個体同様に遺伝子の表現型という。日本人という遺伝子は、これから何を創りあげることができるのだろうか。
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2007年10月31日現在
