樺太(露:サハリン)は北海道より北に位置すし、ユーラシア大陸北東部を流れ満州とロシアの国境であるアムール川の河口から見てその先に位置する大きな島の名称。江戸時代は北蝦夷と呼ばれ、今はアイヌ語でカムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ(神が河口に創った島)に由来してカラフト、大陸側では満州語のサハリアン・ウラ・アンガ・ハタ(サハリアン・ウラの河口対岸)に由来してサハリンと呼ばれている地域である。北方領土と同じく日本とロシアが奪い合いを重ねた土地である。そして現在はロシアの実効支配により世界ではロシアと認識され、日本政府は何処の国の領土かは未定という見解を示している。日本の地図では南極や千島列島のように白色(所属未定地)に塗られた地域である。 サンフランシスコ講和条約第二条に「南樺太と付属島嶼の放棄」と記載されているが、条約にソ連(ロシア)は未調印であった。そのため、樺太の領有権・返還を主張している日本人もいる。国民保護のために日本は領事館を設置しているが、ソ連も満州に領事館を設置しているし、ロシアの支配を追認しているわけではない。

| 640年 | 流鬼(樺太アイヌ)が唐に入貢。 |
| 1264年 | モンゴル帝国が3000人の軍勢を樺太に派兵。住民の骨嵬(樺太アイヌ)を朝貢させる。 |
| 1284年 | 骨嵬が元(前・モンゴル帝国)に反乱。 |
| 1295年 | 日持上人が日蓮宗布教活動のため樺太へ渡り、本斗町阿幸で布教活動。 |
| 1297年 | 津軽地方本拠地の蝦夷管領 安東氏が骨嵬を率いてシベリア、アムール川流域に侵攻。 |
| 1308年 | 骨嵬、元に降伏。毎年の貢物を約束。 |
| 1368年 | 元が中国大陸の支配権を失い、満州を巡り明との戦乱が続き、樺太への干渉は霧消。 |
| 1411年 | 明はアムール川下流域まで進出。衛(領事館)を樺太など3箇所設置し、アイヌ民族と交易。 |
| 1485年 | 樺太アイヌの首長が武田信広(松前藩祖)に銅雀台を献ずる。 |
| 1562年 | ベリユ製作の世界地図で津軽地方~カムチャツカの地域にBANDOY(安東国)と記載。 |
| 1593年 | 豊臣秀吉が松前慶広に蝦夷地全域の支配権を付与。 |
| 1635年 | 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡察に派遣し、ウッシャムに至る。 |
| 1644年 | 江戸幕府が松前藩から提出の所領地図を基に作成した正保御国絵図に記載。 |
| 1679年 | 松前藩の穴陣屋が久春古丹(大泊町楠渓)に設けられ、日本の開拓が開始。 |
| 1709年 | 清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じ清国版図測量中に黒竜江河口対岸の島として満州語サハリアン・ウラ・アンガ・ハタを認知したが、その版図には加えられなかった。 |
| 1742年 | 樺太アイヌが清商人を略奪し、清の役人が樺太アイヌを取り締まる。 |
| 1790年 | 樺太南端の白主に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。 |
| 1799年 | 樺太南部など蝦夷地が幕府の直轄地となる。 |
| 1806年 | 露海軍士官らが久春古丹を焼き討ちにする。 |
| 1807年 | 樺太南部は再び幕府直轄地となる。露海軍士官らが択捉島・礼文島と留多加を襲撃。 |
| 1808年 | 江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。 |
| 1809年 | 間宮林蔵が樺太島を発見、呼称を北蝦夷と正式に定める。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献。山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。 |
| 1821年 | 樺太が松前藩領になる。 |
| 1848年 | 露東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイにアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。ロシア人に樺太島でが認知される。
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| 1853年 | ロシアが北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。露軍が久春古丹を襲撃。露使節プチャーチン来日。長崎で樺太・千島の国境交渉と交易を求め日本全権筒井肥前守、川路聖謨と交渉したが決裂。
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| 1855年 | 日露和親条約(日魯和親条約)で日露国境を樺太島上で定めず1852年までに日本人(大和民族)とアイヌ民族が居住した樺太の土地は日本領とし、その他はこれまで通りと決定。
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| 1859年 | ムラヴィヨフは軍艦7隻を率いて品川来航。樺太全土は露領と威嚇したが、幕府は拒否。 |
| 1865年 | 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、大日本領と記した標柱を建てる。 |
| 1867年 | ロシアが軍事力を背景にサンクトペテルブルグ国境交渉で幕府に迫り樺太島仮規則に調印。日露両国の共同管理地となり両国民が雑居したが、紛争が絶えなかった。 |
| 1869年 | 北蝦夷地を樺太と改称。 |
| 1870年2月13日 | |
| 1871年8月7日 | 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。 |
全島ロシア領土時代
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| 1875年5月7日 | 樺太・千島交換条約締結で日本は樺太島の領有権を完全に放棄、樺太はロシア領となる。
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| 1890年 | 作家のアントン・チェーホフが、流刑地となっていた樺太を現地調査。現地の日本人島民とも交流。日本への渡航も企てるが失敗。後に報告記『サハリン島』を執筆。
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| 1905年7月 | 日露戦争末期、日本軍が樺太島に進攻、全域を占領(樺太作戦)。 |
旧ソ連・ロシア占領下についてはwikipedia サハリン州
南部の日本領土時代
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| 1905年9月5日 | 日露戦争後のポーツマス条約の締結で北緯50度以北はロシア領、以南を日本領として割譲された。日本は南樺太に行政機関として樺太民政署を設置。
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| 1907年4月1日 | 樺太民政署の発展的解消により地方行政官庁として樺太庁発足、豊原市に設置。 |
| 1908年3月31日 | 内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。 |
| 1915年6月26日 | 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置。 |
| 1918年 | シベリア出兵の際に日本は北部も占領したが、1925年撤兵。 |
| 1929年 | 拓務省の設置に伴い、樺太庁がこれに編入。 |
| 1929年3月26日 | 樺太町村制が公示され、町村に自治制が敷かれる。 |
| 1937年7月1日 | 樺太市制により、中心都市豊原市が市制施行。 |
内地時代 |
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1942年11月1日 |
拓務省が他省庁と一元化、大東亜省を設置。これに伴い樺太庁は内務省へと移管。 |
| 1945年8月9日 | ヤルタ協定、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄、占領作戦開始(本土最後の地上戦開始)。
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| 1945年8月20日 | 真岡郵便電信局事件(北のひめゆり事件)の発生。
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| 1945年8月28日 | ソビエト軍が樺太全島を占領する(本土最後の地上戦終結)。 |
戦後の樺太
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| 1946年1月 | |
| 1949年6月1日 | 国家行政組織法が施行される。これをもって国内法的に樺太庁が消滅する。 |
| 1951年9月8日 | サンフランシスコ講和条約締結。これにより日本政府は連合国に対し南樺太及び千島列島の領有権を放棄(ただしソ連はこの条約に未調印で、連合国に含まれない説がある)
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サハリンプロジェクトの概要 稚内市役所 サハリン1-6の詳細等 |
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| 2006年 | 石油天然ガス開発事業「サハリン2」は「環境破壊」を理由に事業停止。ロシア国営のガスプロムが50%以上の権益を譲渡され、経営権を得てロシア国営化。 |















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