樺太(サハリン)

樺太(露:サハリン)は北海道より北に位置すし、ユーラシア大陸北東部を流れ満州とロシアの国境であるアムール川の河口から見てその先に位置する大きな島の名称。江戸時代は北蝦夷と呼ばれ、今はアイヌ語でカムイ・カラ・プト・ヤ・モシリ(神が河口に創った島)に由来してカラフト、大陸側では満州語のサハリアン・ウラ・アンガ・ハタ(サハリアン・ウラの河口対岸)に由来してサハリンと呼ばれている地域である。北方領土と同じく日本とロシアが奪い合いを重ねた土地である。そして現在はロシアの実効支配により世界ではロシアと認識され、日本政府は何処の国の領土かは未定という見解を示している。日本の地図では南極や千島列島のように白色(所属未定地)に塗られた地域である。 サンフランシスコ講和条約第二条に「南樺太と付属島嶼の放棄」と記載されているが、条約にソ連(ロシア)は未調印であった。そのため、樺太の領有権・返還を主張している日本人もいる。国民保護のために日本は領事館を設置しているが、ソ連も満州に領事館を設置しているし、ロシアの支配を追認しているわけではない。

露紙「懲りない日本」あざ笑う 「北方領土問題も解決不要」

wikipedia アムール川

先住民自治時代

ユーラシア大陸と樺太が地続きだった氷河期の頃、南部にはアイヌ民族、中部にはウィルタ(オロッコ)民族、北部にはニヴフ(ニブヒ)民族などの北方少数民族が先住。

 

640年 流鬼(樺太アイヌ)が唐に入貢。
1264年 モンゴル帝国が3000人の軍勢を樺太に派兵。住民の骨嵬(樺太アイヌ)を朝貢させる。
1284年 骨嵬が元(前・モンゴル帝国)に反乱。
1295年 日持上人が日蓮宗布教活動のため樺太へ渡り、本斗町阿幸で布教活動。
1297年 津軽地方本拠地の蝦夷管領 安東氏が骨嵬を率いてシベリア、アムール川流域に侵攻。
1308年 骨嵬、元に降伏。毎年の貢物を約束。
1368年 元が中国大陸の支配権を失い、満州を巡り明との戦乱が続き、樺太への干渉は霧消。
1411年 明はアムール川下流域まで進出。衛(領事館)を樺太など3箇所設置し、アイヌ民族と交易。
1485年 樺太アイヌの首長が武田信広(松前藩祖)に銅雀台を献ずる。
1562年 ベリユ製作の世界地図で津軽地方~カムチャツカの地域にBANDOY(安東国)と記載。
1593年 豊臣秀吉が松前慶広に蝦夷地全域の支配権を付与。
1635年 松前藩の松前公広が村上掃部左衛門を樺太巡察に派遣し、ウッシャムに至る。
1644年 江戸幕府が松前藩から提出の所領地図を基に作成した正保御国絵図に記載。
1679年 松前藩の穴陣屋が久春古丹大泊町楠渓)に設けられ、日本の開拓が開始。
1709年 清の皇帝が3人のイエズス会修道士に命じ清国版図測量中に黒竜江河口対岸の島として満州語サハリアン・ウラ・アンガ・ハタを認知したが、その版図には加えられなかった。
1742年 樺太アイヌが清商人を略奪し、清の役人が樺太アイヌを取り締まる。
1790年 樺太南端の白主に松前藩が商場を設置、幕府は勤番所を置く。

 

日露領土競合時代

北海道デジタル図鑑 間宮林蔵 (写真提供:間宮林蔵記念館)

 

1799年 樺太南部など蝦夷地が幕府の直轄地となる。
1806年 露海軍士官らが久春古丹を焼き討ちにする。
1807年 樺太南部は再び幕府直轄地となる。露海軍士官らが択捉島礼文島留多加を襲撃。
1808年 江戸幕府が、最上徳内、松田伝十郎、間宮林蔵を相次いで派遣。松田伝十郎が樺太最西端ラッカ岬(北緯52度)に「大日本国国境」の国境標を建てる。
1809年 間宮林蔵が樺太島を発見、呼称を北蝦夷と正式に定める。松田伝十郎が樺太アイヌ住民の問題解決に貢献。山丹貿易を幕府公認とし、アイヌを事実上日本人として扱った。
1821年 樺太が松前藩領になる。
1848年

露東シベリア総督ムラヴィヨフは海軍軍人ゲンナジー・ネヴェリスコイにアムール河口部およびサハリン沿岸の調査を依頼。ロシア人に樺太島でが認知される。

wikipedia ニコライ・ニコラエヴィチ・ムラヴィヨフ=アムールスキー伯爵

1853年

ロシアが北樺太北端クエグト岬に露国旗を掲げ、領有を宣言。露軍が久春古丹を襲撃。露使節プチャーチン来日。長崎で樺太・千島の国境交渉と交易を求め日本全権筒井肥前守川路聖謨と交渉したが決裂。

wikipedia エフィム・ワシリエビッチ・プチャーチン

1855年

日露和親条約(日魯和親条約)で日露国境を樺太島上で定めず1852年までに日本人(大和民族)とアイヌ民族が居住した樺太の土地は日本領とし、その他はこれまで通りと決定。

1859年 ムラヴィヨフは軍艦7隻を率いて品川来航。樺太全土は露領と威嚇したが、幕府は拒否。
1865年 岡本監輔が、樺太最北端ガオト岬(北緯55度)に至り、大日本領と記した標柱を建てる。
1867年 ロシアが軍事力を背景にサンクトペテルブルグ国境交渉で幕府に迫り樺太島仮規則に調印。日露両国の共同管理地となり両国民が雑居したが、紛争が絶えなかった。
1869年 北蝦夷地を樺太と改称。
1870年2月13日

樺太開拓使が開拓使から分離して、久春古丹に開設される。

1871年8月7日 樺太開拓使を閉鎖し、開拓使に再度統合する。

 

全島ロシア領土時代

 

1875年5月7日

樺太・千島交換条約締結で日本は樺太島の領有権を完全に放棄、樺太はロシア領となる。

1890年

作家のアントン・チェーホフが、流刑地となっていた樺太を現地調査。現地の日本人島民とも交流。日本への渡航も企てるが失敗。後に報告記『サハリン島』を執筆。

wikipedia アントン・チェーホフ

1905年7月 日露戦争末期、日本軍が樺太島に進攻、全域を占領(樺太作戦)。

旧ソ連・ロシア占領下についてはwikipedia サハリン州

南部の日本領土時代

1905年9月5日

日露戦争後のポーツマス条約の締結で北緯50度以北はロシア領、以南を日本領として割譲された。日本は南樺太に行政機関として樺太民政署を設置。

1907年4月1日 樺太民政署の発展的解消により地方行政官庁として樺太庁発足、豊原市に設置。
1908年3月31日 内務省告示にて、地名を日本語式漢字表記に変更。
1915年6月26日 勅令第101号樺太ノ郡町村編制ニ関スル件により、17郡4町58村が設置。
1918年 シベリア出兵の際に日本は北部も占領したが、1925年撤兵。
1929年 拓務省の設置に伴い、樺太庁がこれに編入。
1929年3月26日 樺太町村制が公示され、町村に自治制が敷かれる。
1937年7月1日 樺太市制により、中心都市豊原市が市制施行。

 

内地時代

1942年11月1日

拓務省が他省庁と一元化、大東亜省を設置。これに伴い樺太庁は内務省へと移管。
1945年8月9日

ヤルタ協定、ソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄、占領作戦開始(本土最後の地上戦開始)。

wikipedia ヤルタ会談

1945年8月20日

真岡郵便電信局事件(北のひめゆり事件)の発生。

wikipedia 稚内公園

1945年8月28日 ソビエト軍が樺太全島を占領する(本土最後の地上戦終結)。

 

戦後の樺太

 

1946年1月

GHQより日本政府に対しSCAPIN-677が通達され当該地域への日本の施政権が停止。

1949年6月1日 国家行政組織法が施行される。これをもって国内法的に樺太庁が消滅する。
1951年9月8日

サンフランシスコ講和条約締結。これにより日本政府は連合国に対し南樺太及び千島列島の領有権を放棄(ただしソ連はこの条約に未調印で、連合国に含まれない説がある)

2006年

石油天然ガス開発事業「サハリン2」は「環境破壊」を理由に事業停止。ロシア国営のガスプロムが50%以上の権益を譲渡され、経営権を得てロシア国営化。 

 

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