現在、イラン戦争が注目されています。イラン攻撃に似た歴史を探してみましょう。
それは江戸時代の末期にあった庄内藩の江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件があります。
薩摩藩邸焼き討ち事件
大政奉還によって武力倒幕の出鼻を挫かれた薩摩藩西郷隆盛は、倒幕の密勅を
請求する一方、幕府に対して挑戦しました。その為に組織されたのが、薩摩藩士
益満休之助と浪士相楽総三に依る浪士組です。彼ら五百名は関東を廻って一揆を
煽動する一方、江戸市中の富商を襲って御用金を徴収したり、要人を暗殺したり、
更には市中警備担当の庄内藩兵詰め所に銃弾を撃ち込む等幕府を挑発しました。
此に激昂した庄内藩は弱腰の幕府閣僚を叱咤し、遂に十二月二十五日、浪士組
の根拠地と目された三田の薩摩藩邸焼き討ちを行う事を動議し当初幕府は庄内藩
一手で薩摩藩邸を攻めさせる予定でした。しかし、私怨による戦闘ではないとす
る庄内藩は公務として諸藩兵の出動を要請します。。こうして、庄内藩六百(家
老:石原倉右衛門)を始めとする松山藩三百(家老:長坂右近)、鯖江藩六十、
岩槻藩五十等諸藩兵計二千名を動員。何れも佐幕派の藩で薩摩藩への反感が強く、
士気も高いものがありました。幕府は此に加えてフランス人士官の指導を得て、
万全の体制で薩摩側の挑戦に応じました。こうして出撃した討伐隊は先ず乱暴を
働いた浪士の引き渡しを要求、それが拒絶されるとすかさず留守居役篠崎彦十郎
を庄内藩士が槍で刺殺し戦いになりました。戦闘は終始幕府側の優勢であったが、
対する浪士隊も「ただただ脱出に専念せよ」との相楽総三の命令を奉じて海に向
かって突破を計り、百名ほどが脱出に成功します。
討伐の主力は庄内藩と松山藩でした。庄内藩は市中警備を重視し、浪士を打
ち払うのみの積もりでしたがが、松山藩は「討伐」を主目的とし、浪士隊と激戦
を繰り広げました。フランス人の指導を受けた砲兵も正確に砲撃を加え、遂に薩
摩藩邸及び隣接する薩摩藩支藩の佐土原藩邸が焼失。戦死十二名、降伏四十二名、
生け捕り三十三名の戦果、品川鮫洲に待機していた輸送船で逃れた者もまた多か
ったようです。その際、浪士達は追っ手を阻むべく放火して立ち去ったのだが、
品川在住の浪士が「我が家があるので放火は勘弁してくれ」と訴えると、「今更
家に縁なんてないだろう」とその家から火を付け皆で手を打って笑ったそうです。
武器商人のエドワード・スネル
イラン戦争
イラン攻撃が始まれば石油の値段が高騰します。利益を得る人はいろいろ考えるでしょう。 また庄内藩は会津藩や新撰組に比べれば温情のある処分ですみました。何故でしょうか?
その辺りはいろいろと複雑な事情があったのでしょう。幕府側も早期に和睦したかった。しかし、大政奉還や公武合体派や徹底抗戦派に分裂しており意見の統一が取らない。
負けが続くと人間組織は常にこうなります。(例 連山コラム「インパール作戦」参照)
庄内藩 元治元年(1864年)江戸市中警護の功により2万7千石を加増され石高は16万7千石に達した。 幕末、上山藩とともに江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件を起こし、新政府軍による徳川家武力討伐の口実を作った。 戊辰戦争では会津藩とともに奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなった。但し、奥羽越列藩同盟は会津、庄内の謝罪嘆願を目的としたものであったため、正確には両藩は加盟していない。戦争では、新政府側の新庄藩、秋田藩領内へ侵攻。当時日本一の大地主と言われ庄内藩を財政的に支えた商人本間家の莫大な献金を元に商人エドワード・スネルからスナイドル銃など最新式兵器を購入。清川口では攻め入る新政府軍を撃退。その後新庄を落とし、秋田へ攻め入った庄内軍は家老酒井玄蕃率いる二番大隊を中心に連戦連勝、新政府軍を圧倒する。明治元年9月26日(1868年11月10日)東北諸藩が続々と新政府に降伏していくのを見て、庄内藩は各地の戦いでここまでほぼ無敗であったものの恭順。12月に公地没収。11代・忠篤は謹慎処分となったが、弟・忠宝が12万石に減封の上、陸奥国会津藩へ、翌明治2年(1869年)6月には磐城平藩へと転封を繰り返した。本間家を中心に藩上士・商人・地主などが明治政府に30万両(当初は70万両の予定だったが揃わず減額が認められた)を献金し、明治3年(1870年)酒井氏は庄内藩へ復帰した。共に列藩同盟の盟主であった会津藩が事実上の取り潰しとなったのと比べ庄内藩は比較的軽い処分で済んだ。これには西郷隆盛の意向があったと言われ、この後庄内では西郷隆盛が敬愛された。明治2年9月29日、藩名は大泉藩と改称された。 尚、当藩出身の著名な人物として志士・清河八郎がいる。 明治4年(1871年)廃藩置県により大泉県となる。後、酒田県・鶴岡県を経て山形県に編入された。 尚、酒井氏は明治17年(1884年)伯爵となり華族に列している。
イラン攻撃
イラン人自身は古くから国の名を「アーリア人の国」を意味する「イラン」と呼んできました。 西洋ではペルシアとして知られた。1935年3月21日、レザー・シャーは諸外国に公式文書に 本来の「イラン」という語を用いるよう要請し、正式に「イラン」に改められました。 1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名として イスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められました。 アル・ファヒーム博士(連山コラム、アラブ人のパーティー参照)の奥さんの祖母はイラン人です。 多くのペルシャ湾岸産油国の人々はペルシャ人と親戚姻戚関係を持っています。この知識は人災を 可能な限り交渉によって回避するテクニックを持っていますがそれはイスラム文明的な方法です。 アル・ファヒーム夫人の実家は海外にドバイ首長国の面積を超える土地を所有しています。
世界史は現在、大激変中です。ハンニバルの戦闘教義(後編)の動画を役に立つ時代です。
経済的な勝ち組と負け組以上に厳しいのが戦争や覇権の勝ち組、負け組です。今を生きる日本人の去就は子孫に強く影響するでしょう。歴史を学び賢明な対処ができるかどうかを試されています。子孫に恨まれないように正しい選択をするには正確な情報が必要とされそれに立脚した善い行動が必要です
追記:幕末の志士は西洋列強に利用されている事を知りながら彼らを活用しました。それによって40年でロシアを破り半世紀で国際連盟の常任理事国、世界三大海軍国になりました。大日本帝国最大の不幸は日露戦争による青年エリート層の人的損害でした。人は死ぬと取り返しが付かない。カンネーのケルト兵は右でもなく左でも中央後方へと下がった部隊のみが助かりました。

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