満州国1〔愛新覚羅溥儀〕

日本の傀儡国家と呼ばれながらも当時世界の23ヵ国から承認された満州国は1932年から1945年の約13年間存在した国である。満州国と言えば歴史の授業で愛新覚羅溥儀や満州事変を学んだ記憶があるだろうが、現在の中華人民共和国にある吉林省・黒龍江省・遼寧省・内モンゴル自治区・河北省の地域にあった国。 日本の関東軍が大きく影響して建国された国であり、1945年8月15日第二次世界大戦日本の敗戦日と共に消滅した国である。これからシリーズで満州国を記載する。現在の中国ではこの地域を偽満州国や偽満(正式な国家でない)と呼び、日本では東北、旧満州と呼ぶ。満州国は正式国名が不明であるが、当時はと滿洲國と表記されていた。英語ではManchukuo、また大満州国、帝制移行で元号が康徳に変更された後は満州帝国、大満州帝国が正式名称とされる場合もあった。

国籍というものが無かった満州国の国勢調査は不可能であるが、建国前1908年で約1583万人だった人口が建国直前には約3000万人増加し1941年には約5000万人となったようだ。内戦の続く中国からの漢人や日本人や朝鮮人などフロンティアとしての環境を求めてきた人々など常に男性が女性よりも多い移民国家であった。満州国は豊かな資源を持っていたのである。日本政府はユダヤ人自治州を企んでナチス・ドイツに受け入れを打診したりシオニズムへの協力として巨額の支援も考えた。ただし、実際には少数のユダヤ教徒が満州国に移住しただけであった。人口の民族構成は中国人(満州人)が約98%を占めていたが、これには朝鮮族も含まれていた。他ロシア人やモンゴル人等の多人種と日本人がおり、在満州の日本人は1932年約59万人であった。日本政府は500万人の日本人移住計画をしていたが、日本軍が制空権・制海権を失った時点で停止。終戦後には130万人を輸送する必要があったが、必要な船舶や水や食料、時間は敗戦国日本になく、東京開拓総局の拒絶によりソビエト連邦に約85万人の日本人移住者が捕獲された。満蒙開拓団と呼ばれた日本からの満州へ渡った農業移民については満州国5で記述。ベラウ共和国の一部では今でも日本語が公用語であるが、満州もまた公用語として満語(北京官話)・北京語・モンゴル語の他に日本語を公用していた。大日本帝国の影響下ではあったが、国家理念としては満州民族と漢民族とモンゴル民族から構成される満州人(満人)の民族自決の原則に基づき五族協和を掲げた(五族協和の王道楽土 )国民国家であることを宣言している。五族とは日本人・漢人・朝鮮人・満州人・蒙古人である。この他にもロシア革命後に共産主義政権に反対し逃れてきたロシア人もいた。これはアメリカ合衆国を手本にしたようなアジアの多民族国家の実験である。

愛新覚羅溥儀

満州国の建国に日本が支援し、その皇帝として担ぎ上げたのは1906年、第11代皇帝光緒帝の弟である醇親王載の子として北京で生まれた愛新覚羅溥儀(あいしんかぐらふぎ)であった。醇親王は監国摂政王に就任して軍国の権限を掌握したり、清朝滅亡後は溥儀の後見役となったりした。しかし、溥儀が満州国建国皇帝になることには反対して北京へ移り住んだ。そのため満州国滅亡後も戦争犯罪に問われず中国で生活が保護され生涯を閉じる。


醇親王 愛新覚羅 載灃 (あいしんかぐらさいほう) wikipedia

愛新覚羅溥儀は西太后によって清王朝の第12代皇帝宣統帝として1908年3歳で即位したラストエンペラーとしてよく知られる。1911年辛亥革命で袁世凱を大総統とする共和制国家の中華民国が設立されたために1912年退位。大清皇帝となり袁世凱と清帝退位優待条件を結び大清皇帝の尊号を名乗り、引き続き紫禁城での生活を許された。


大清皇帝時代の溥儀 wikipedia

袁世凱は溥儀の代わりに皇帝になろうとし帝政復活を宣言。年号を洪憲と定め、国号を「中華帝国」に改めたが、北洋軍閥や日本政府などの各方面からの反対により1916年3月に退位し、失意の中で同年6月に死去した。辛亥革命後、国民党政府から溥儀は廃帝と呼ばれたり、旧清朝からは遜帝、または末帝と言われる。


袁世凱 wikipedia

皇室優待条件

大清皇帝は辞めた後も尊号は廃止せずに君主としての待遇をします。

大清皇帝は辞めた後も皇室年金として四百万両(中華民国四百万元)を支給します。

大清皇帝は辞めた後もしばらくは紫禁城に住んでよい、それから頤和園に移るが使用人は連れていっていいですよ。

大清皇帝は辞めた後も先祖代々の墓に入ることを許され中華民国が衛兵を置いて守ります。

徳宗皇帝の墓は未だに工事が終わっていないが、中華民国が諸経費を負担し完成させます。

今いる宦官は使用していいが、新たに宦官を加えることはできない。

大清皇帝は辞めた後も皇帝の財産は中華民国が特別に保護します。

今までの皇帝の軍隊は中華民国陸軍部となり給与などは補償します。

皇族待遇条件

清国の皇族貴族の名称はそのまま使用できます。

清国皇族の権利は一般中華国民と同じです。

清国皇族の資産は保護します。

清国皇族は兵役の義務を免じます。

満蒙回蔵各族待遇条件(満洲族、モンゴル族、イスラム教徒、チベット族)

給与は今まで通り支給し、生活に困るようなことはありません。

軍人の生活を調査して今まで通りの給与を支給します。

今まであった商売や居住の制限は廃止し、自由に移動できます。

満漢満蔵のもつ宗教は自由に信仰できます。

1917年に張勲の復辟により清朝皇帝に復位するも、10日あまりで再び退位となる。1919年から1924年に馮玉祥が起こしたクーデターによって紫禁城から退去するまでイギリス拓務省役人のスコットランド人のレジナルド・ジョンストンを家庭教師に西洋(近代)教育と英語教育を受ける。溥儀と別れたジョンストンはイギリスに帰国しロンドン大学の東洋学と中国語の教授に就任、溥儀の家庭教師時代を綴った「紫禁城の黄昏」(原題:Twilight in the Forbidden City)を著し、イギリスの租借領であるポート・エドワード(威海衛)の植民地行政長官(弁務官)に就任したが、溥儀との再会はしていない。溥儀はヘンリーというクリスチャンネームをもらい、紫禁城の近代化、経費削減と汚職一掃のため宦官を一斉解雇する。1922年には正妻婉容と側室文繍と結婚、紫禁城で結婚式を挙げた。しかし1931年文繍は離婚を申し立て、その後溥儀によって位を剥奪される。


文繍 wikipedia

婉容は愛人との間に娘を産んだりアヘンに手を出し中毒患者であったりしたため、溥儀の自伝では、「私が彼女について知っているのは、アヘン吸毒の習慣に染まったこと、許し得ない行為があったことぐらいである」と書かれている。ただし婉容の鬱屈は溥儀の宮中の少年を寵愛するホモセクシャルかインポテンツによる不幸せな結婚生活であったと言われる。彼女もまたエリザベスというクリスチャンネームを持っていた。溥儀は満洲国時代に北京出身の譚玉齢(祥貴人)、長春出身の李玉琴(福貴人)を側室として迎えたが、死別や離婚する。1962年に看護士の李淑賢と再婚、生涯を沿い遂げる。

婉容

 溥儀の夫人婉容は、満州の上流貴族の娘に生まれ、西洋式の英才教育を受けて育つ。才色兼備の誉れが高く、17歳のとき結婚し皇后となる。性格も人当たりも良く、誰からも愛される人間だった。しかし、溥儀との結婚生活は幸せなものではなかった。溥儀には男色癖があり彼女に見向きもしなかった。彼女と溥儀は夜をともにすることもなく、同じテーブルで食事をすることもなかった。また、溥儀の第2夫人の文繍との確執もあった。彼女の心はすさんでいき、アヘンを吸い始めるようになる。溥儀はそんな彼女をますます疎んじるようになる。文繍はこのような宮廷の生活に疲れ、散歩に出ると言ったまま飛び出す。その後、小学校を建て、教師になり、幸せな生涯を送った。一方、婉容は相変わらず満たされない日々を過ごしていた。やがて彼女は親切な部下に心をひかれていく。そして彼女は身ごもってしまい女の子を出産する。しかし、生まれたばかりのその子は、母親に抱かれることもなく、殺されてしまう。それから数年後、彼女はコンクリートで囲われた真っ暗な官房にいた。重度のアヘン中毒、精神病におかされた彼女は、冷たい官房に押し込められた。彼女の体はボロボロだった。すでに狂っていた。コンクリートの床に転げ落ちたまま、ベッドに戻ることも動くこともできなくなっていた。1946年、忘れ去られた存在の彼女は誰に見取られることもなく静かに息を引き取った。41歳の若さであった。愛に飢え、最期まで孤独だった婉容。こんな時代に生まれなければ、美しく聡明な彼女は、人並み以上の幸せをつかめたのに。一方溥儀は、裏切り者という汚名を着せられ、一市民となった。1962年、溥儀は56才の時李淑賢と結婚する。その5年後、妻に見守られながら一生を終える。



婉容皇后 wikipedia

関連資料


 

1925年溥儀は天津の日本租界で日本公館の庇護を受ける。中国大陸へ本格進出する機会を狙う旧陸軍(関東軍)と溥儀は緊密な関係を持つ。1931年9月18日、旧陸軍により満州事変が発生、全満州地域は関東軍にとって占領された。ところが関東軍は満州を植民地化せず、日本の影響力を残したままの政権を目論み、満州民族の溥儀を清朝復興の満州国皇帝即位させるように説得。特務機関長であった土肥原賢二大佐の説得で溥儀は同意し11月13日に天津を出発し旅順の関東軍の所で留まった。1932年2月18日、満州国の国務院総理となる張景恵が委員長の東北行政委員会が、蒋介石率いる中国国民党政府からの分離独立を宣言をして、1932年3月1日、首都新京(現在の長春)に皇宮を置き満洲国を建国。溥儀は3月9日満洲国執政に就任し、2年後皇帝の座に就き康徳帝となる。


満州国皇帝時代の溥儀 wikipedia

満州国政府により同徳殿と呼ばれる皇宮が新たに建設されたが、関東軍(日本)の盗聴を恐れたために溥儀は利用しなかったという。満州国はほとんど日本の一部であった。満州国の憲法上は皇帝は国務院総理を始め大臣を任命できるが、次官以下の官僚は日満議定書によって関東軍が日本人を満洲帝国の官吏に任命、もしくは罷免する権限を持っていた。つまり関東軍の同意がなければ任免することはできなかったのである。関東軍の高級将校吉岡安直や工藤忠が常に溥儀と共に行動、その行動や発言に助言するなど皇帝であるとはいえ、日本の傀儡と言われる国家体制であった。1935年4月には昭和天皇の招待で日本を公式訪問するなど日本の指導者層や国民からも高い人気のあった溥儀であるが、関東軍の暗殺を恐れていたようである。1941年12月7日の大東亜戦争太平洋戦争)の開戦で、満洲帝国も連合国に対し宣戦布告をするが、満州国の事実上の宗主国である日本と隣国ソビエト連邦との間に日ソ中立条約が存在することや、英米軍の戦闘地域から離れていたため、戦争状態にはならなかった。と記載すると日本軍はなんて悪いんだというふうに歴史を認識しようとしてしまうが、溥儀が清朝の復活と愛新覚羅一族の再興を野望に関東軍を利用したという視点もある。満州国国務総理の鄭孝胥との日満議定書締結を以って日本が最初に満州国を認め、当時23ヶ国から認められたれっきとした独立国家だということを国家承認の観点から見ることもできる。1932年に国際連盟で否認されたとはいえ、承認を行った国も多く存在し、第二次世界大戦の終結以前に独立国家として認められた事実がある。


吉岡安直

1945年8月8日、ソビエト連邦スパイのゾルゲによる情報で関東軍特殊演習を知る。これによってヤルタ会談での連合首脳密約に基づきソ連政府はモスクワの佐藤尚武駐ソ連日本特命全権大使に1946年4月26日まで有効であるはずの日ソ中立条約破棄を通告、日本に宣戦布告した。ソ連軍は外蒙古(現モンゴル人民共和国)や沿海州などの国境を越え満州帝国に侵攻。これには関東軍が対抗するべきであったが様々な原因ソ連対日参戦から関東軍は陣地防御できなかった。溥儀は首都新京を放棄、朝鮮に近い通化省臨江県の大栗子に避難した。そして日本の敗北の2日後1945年8月17日国務院は満州国解体を決定、翌日大栗子で満洲帝国解体を宣言し、溥儀は満洲帝国皇帝を退位する詔勅を読んだのである。溥儀は翌日日本へ逃亡するため通化飛行場から飛行の途中、奉天でソ連軍空挺部隊によって拘束・逮捕された。通遼を経由してソ連のチタとハバロフスクの強制収容所に収監された。ソ連軍は反日的な中国人・朝鮮人・蒙古人の多くを解放軍として迎え、満州国軍や関東軍の朝鮮人・中国人・蒙古人部隊からもソ連側への離反が相次いだ。1946年東京裁判で溥儀はソ連側の証人として出廷しソ連に有利な証言をする。1950年にはソ連の援助で建国されたばかりの中華人民共和国へ身柄を移し、戦犯として撫順とハルビンの政治犯収容所に弟の溥傑とともに収監された。1959年12月14日、当時の劉少奇国家主席による戦争犯罪人に対する特赦令で模範囚として釈放された。釈放後は一市民として北京植物園、北京文史資料研究委員会に勤務。戦犯として収監中から後援していた周恩来首相によって1964年中国人民政治協商会議全国委員に選出された。


愛新覚羅溥傑と嵯峨浩

溥儀は1967年北京で死ぬ前に「(好物)チキンラーメンが食べたい」と言ったことが、弟溥傑の夫人嵯峨浩の伝記にある。文化大革命の最中、元皇帝であるということが理由で癌の治療を受けることができなかった。墓は北京郊外の八宝山墓地であったが、1962年に再婚した李淑賢夫人の溥儀は皇帝であったことを誇りに思っていたという証言で易県の清朝の歴代皇帝陵墓のある清西陵の近くの華龍皇園に献陵が作られた。ただしこの改葬に関しても2004年に贈られた愍皇帝の謚号と恭宗の廟号に関しても愛新覚羅家の遺族や関係者からは公式に認められておらず、反対もある。溥儀は皇帝として生まれ庭師として死んだ。


発売当時のチキンラーメン wikipedia

ソ連に占領され機械類などを根こそぎ略奪された後の満州は、1946年5月蒋介石の国民政府に返還され1949年新しい中華人民共和国の内モンゴル自治区となり現在では満州という言葉は満州族という少数民族の一つとされる。また満州国の歴史を日本統治の残虐行為の証拠として活用する中国人は多い。傀儡国家と言われていたが、大国に支配され影響を受けた小国家は何も満州国だけではない。ソ連における東ヨーロッパ諸国のようなものである。どの大国もがしていたことなのである。「みんながしているからしてもいい」というわけではないが、溥儀が単に大日本帝国に利用された犠牲者だと考えるのは一方的だろう。誰もが利用しようとし、利用されるのが歴史なのかもしれない。

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