平成版石橋山の戦いと東国の未来

"Success consists of going from failure to failure without loss of enthusiasm."

ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル曰く
悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす。大切なのは勇気を持ち続けることだ。過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう。我々は、たとえその社会的地位がどんなに低くとも、後世に何らかの影響を与えることを考慮して生きなければならない。

治承4(1180)年、以仁王の乱が起き、全国各地の源氏に平氏追討の令旨が発せられる。対して平氏は令旨を受け取った者を追討する事を決め、令旨を受け取った頼朝(34歳)はやむなく決起。 各地の豪族に参加を促すが40騎しか集まらず、8月23日の石橋山の戦いで敗れる。 箱根山中をさ迷い、真鶴から海路で安房に逃れるが、首を狙う豪族に襲われる。

9月1日、頼朝は以仁王の書状に「東国各地の土地支配権は頼朝に任せる」とあると主張。しかしこれは全くの嘘で捏造だった。それでも4日には安房国の安西氏、17日には下総国の千葉氏(3百騎)が合流。日和見だった上総広常(2万騎)も19日に頼朝の気迫に負けて服従。
広常「頼朝は大将軍なり」

隅田川の交通支配権を握る秩父平氏は、平治の乱以降に平家と結んでいたが、4代前の源義家から恩賞を与えられていた。頼朝は源氏の白旗70本を岸辺に掲げ、秩父平氏に過去の恩義を思い起こさせた。頼朝の軍勢は10万騎に膨れ上がり、10月11日に鎌倉入り。
「平家は今の主、頼朝は4代相伝の君なり」

9月5日の朝廷による頼朝追討の宣旨を受け、清盛の孫:平維盛(24歳)を総大将とする平氏軍は駿河に到着。駆武者という兵の現地調達を行ったが、見返りの無い平氏軍に加わる者は少なく、3万騎しか集まらなかった。一方の頼朝軍は20万騎で富士川に到着。10月20日夜半、水鳥の飛び立った音で平氏軍は逃げ出し頼朝勝利。23日、頼朝は約束どおり兵達に土地を恩賞として与えた。
出典:その時歴史が動いた:富士川の戦い


平家であらずんば、人にあらずと言っていた平家の時代は終りました。最初、源頼朝の元には上記にあるように40騎しか集まらず、前面の大庭景親3000騎と後方から伊東祐親300騎に挟撃されてほぼ全滅に近い状態で敗走しました。

では、源頼朝は間違っていたのでしょうか?

もし、この時に源頼朝と東国武士団が立ち上がらねば、関東壊滅後に残存部隊が東北に結集し奥州藤原氏が源義経を旗印にして決起したでしょう。既に、平家の世は土台から崩壊しつつあったのです。後に、時を失った奥州藤原氏は源頼朝の命令で義経を謀殺した後に、源頼朝の大軍で滅ぼされました。これは過去の事でしょうか?

日本の歴史を決める対談22が10月22日東京にて行われます。(東京大学、又はそれに準じた知的能力のある人は傍聴可能→クリック

もし、源頼朝と東国武士団が立ち上がらなくても、奥十七万騎と源義経がいれば平家は打倒できました。当時の奥州(現在の東北地方)は東大寺の大仏殿に対して黄金を寄進するぐらい豊富な金と鉄、名馬の産地でした。いなかったのは旗印と軍事的指揮官だけです。

そして、藤原氏は中央に黄金と駿馬として評価の高い奥州馬を献じて属国の体裁を自らとっていた。だから、攻め込まれる理由も特別なかった。
さらに、一関周辺には最古の鍛冶集団のひとつ舞草(もくさ)鍛冶が、豊富な砂鉄・水・燃料を活かして日本刀の始まりともいわれる舞草刀(直刀から湾刀へ変遷の始まり)を作刀していた。
このような技術もあっただけでなく、藤原氏には『奥十七万騎』とも表現される侮りがたい騎馬の軍勢があったんですね。源義経が一ノ谷と屋島で平家を軽騎兵で急襲し海に追いやれたのは、義経が鞍馬を抜け出して少年時代を藤原三代秀衛の庇護の元で過ごした時期の経験が大きいのだと司馬遼太郎は指摘するくらいです。奥州は当時、牧の国でもあった。牧場では馬が一頭駆け出すと、群れがそれに倣って駆け出す。その一頭ずつに騎士を乗せればそのまま戦法になる。
義経が世界戦史上の存在であるのは、騎兵をかたまりとして運用し成功したことにあると司馬は喝破しています。
平安時代には金鉱から金を精錬する技術はなく、川から採る砂金だった。そして奥州では特に北上川河畔で、すさまじく砂金が採れたんだそうです。藤原氏が平泉に都を構えたのは、ここが砂金の採れる北上川とそれまでの藤原氏の勢力圏南端の衣川との合流点だったから。当然、水運の要所でもあります。
これ以前の日本では、金は造仏造寺に使われる特別な金属ではあっても贅沢品に換える物ではなかった。
ところが、大宰府貿易に来る宋船が金を要求した。なぜなら、宋に来るアラビア人が黄金を欲しがったから。こうして、藤原氏の黄金は、図らずして世界の貿易圏に組み込まれていった。そして、この風説がヨーロッパにまで届いて『ジパング伝説』となった。だから、マルコ・ポーロは中国まで誘い出され、コロンブスはアメリカ大陸まで到達したんですね。 
これ程までに、奥州藤原氏には栄華を誇る条件が揃っていた。しかし、決して白河の関と勿来の関を南下して勢力を伸ばすことはなかった。
司馬遼太郎はこの理由を「この時期の奥州人の意識には、天下を取るなどという意識は片鱗もなかったから(奥州人で天下を取ろうと思うのは4世紀後の伊達政宗が最初)」と言う。それどころか、奥州人は中央の権力に対していわれもない宗教的畏怖感と神聖感があったと言うんですね。 だから、彼らは京文化を買うために惜しげもなく黄金を使った。
出典:金 と 馬 と 鉄 の 奥州

石油よる中央集権型の文明構造は既に限界です。もし、奥州藤原氏のように安穏を選択すれば関東は壊滅します。そして、その残存勢力は食糧とエネルギーの豊富な北方に移動するでしょう。その時、想定される死者は数百万人で果たしてすむのでしょうか。リーマンの破綻で世界経済はメルトダウン寸前です。想定したくない事を想定して対策を取るの危機管理です。江戸幕府も、大日本帝国も、既に存在しません。ドル覇権の消滅は世界の文明構造に動揺を与えるでしょう。チャーチル卿の上記の言葉を思い出して下さい。

「過去を遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう。我々は、たとえその社会的地位がどんなに低くとも、後世に何らかの影響を与えることを考慮して生きなければならない。」

アメリカの状況は芳しくなく、フォーメーションはラムダからシズマに移りました。
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平成20年10月22日、東京に伝説の覇者が向かいます。歴史の世界線は東国壊滅、その後に残存勢力によって日本は水素文明に進むというものです。人は出来るからするのではなく、生きる為にはしなければならないからします。人間の基本は能力史観ではなく必要史観です。人は余剰があれば人に分け与え、余力があれば人を助け、智慧があれば人に教えるのが効率的です。しかし、その効率的なことができません。他人に依存しなければ生きていけないのに利己を優先し全体を毀損します。そして、集合の1割から2割が死滅した時、集合無意識が発動します。そして、残りの1割を犠牲にしながら改革を実行します。これが人の歴史です。しかしながら峯山政宏氏はその未来線に果敢に挑戦しました。若さ故の特権です。源頼朝を支援した東国武士団の先例に習うか、それとも、今度は東国が奥州藤原氏になるかの、歴史的な分岐点です。そして、既に勝敗は決しています。


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アイザック・ニュートンは古典力学を確立し近代物理学の祖と言われています。しかし、彼が造幣局長官として活躍し、金本位制度を確立した事を知る日本人は少ないでしょう。彼は南海泡沫事件で投資に失敗して大損害を被りました。彼は『天体の動きなら計算できるが、人々の狂気までは計算できなかった』と言ったそうです。これは正確ではありません。彼の古典力学で解析できるのは2つの星の動きまでです。3つ以上になればある特殊な状況でないと計算できません。彼は林檎が落ちることは理解できましたが、空気が水のように積もらない理由を知りませんでした。私が小学校に入る前に不思議だったのが空気は何故、積もらないのかという疑問でした。必死に数日考えて、小さな物質は確率で動く事を見極めました。大きくなってからではこの考え方は無理だったでしょう。大人は小さい、若い、貧しいを馬鹿にしますがそれは大きな間違いです。可能性という意味において少年少女の発想は私に常に新鮮な驚きを与えてくれます。そうなればバイオセンサーと情報ネットワークを組み上げれば従来とは全く違う諜報システムが完成します。我々のソレとは性能が段違いで低いですがこれをイギリス人の博士は形態共鳴と名付けています。平成20年10月22日の対談22で日本の未来線は分岐します。


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