江田島孔明の最近のブログ記事

2007年3月12日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL144

孫子用間篇口語訳
孫子はいう。
およそ十万の軍隊を起こして千里の外に出征することになれば、民衆の経費や公家の出費も一日に千金をも費すことになり、国の内外ともに大騒ぎで農事にもはげめないものが七十万家もできることになる。そして数年間も対持したうえで一日の決戦を争うのである。
それにもかかわらず、爵位や俸禄や百金を与えることを惜しんで、敵情を知ろうとしないのは、不仁(民衆を愛しあわれまたいこと)の甚だしいものである。人民を率いる将軍とはいえず、君主の補佐ともいえず、勝利の主ともいえない。だから、聡明な君主やすぐれた将軍が行動を起こして敵に勝ち、人なみはずれた成功を収める理由は、あらかじめ敵情を知ることによってである。あらかじめ知ることは、鬼神のおかげで(祈ったり占ったりする神秘的な方法で)できるのではなく、過去のでき事によって類推できるのでもなく、自然界の規律によってためしはかれるのでもない。必らず人(特別な間諜)に頼ってこそ敵の情況が知れるのである。 
そこで、間諜を働かせるのには五とおりがある。
郷間(村里の間諜)があり、内間(敵方からの内通の間諜)があり、反間(こちらのために働く敵の間諜)があり、死間(死ぬ間諜)があり、生間(生きて帰る間諜)がある。
この五とおりの間諜がともに活動していてその道すじを知られないというのが、神紀すなわちすぐれた用い方といわれることで、人君の珍重すべきことである。
 郷間というのは敵の村里の人々を利用して働かせるのである。
内間というのは敵の役人を利用して働かせるのである。
反間というのは敵の間諜を利用して働かせるのである。
死間というのは偽わり事を外にあらわして身方の間諜にそれを知らせ敵方に告げさせるのである。
生間というのは帰って来て報告するのである。
そこで、全軍の中での親近さでは間諜が最も親しく、賞与では間諜のが最も厚く、仕事では間諜のが最も秘密を要する。
聡明な思慮ぶかさがなければ間諜を利用することができず、仁慈と正義がなければ間諜を使うことができず、はかりがたい微妙がなければ間諜の真実を把握することができない。
微妙なことよ、どんなことにも間諜は用いられるのである。
間諜の情報がまだ発表されないうちに外から耳に入ることがあると、その間諜とそのことを知らせてきた者とをともに死罪にするのである。
およそ撃ちたいと思う軍隊や攻めたいと思う城や殺したいと思う人物については、必らずその官職を守る将軍や左右の近臣や奏聞者や門を守る者や宮中を守る役人の姓名をまず知って、身方の間諜に必らずさらに追求してそれらの人物のことを調べさせる。
敵の間諜でこちらにやって来てスパイをしている者は、つけこんでそれに利益を与え、うまく誘ってこちらにつかせる。そこで反間として用いることができるのである。この反間によって敵情が分かるから、郷間や内間も使うことができるのである。この反間によって敵情が分かるから、死間を使って偽わり事をしたうえで敵方に告げさせることができるのである。この反間によって敵情が分かるから、生間を計画どおりに働かせることができるのである。
五とおりの間諜の情報は君主が必らずそれをわきまえるが、それが知れるもとは必らず反間によってである。そこで反間はぜひとも厚遇すべきである。
イラン情勢は、予想どおり、戦争が回避されそうだ。今回は、中東情勢の今後をイスラエルの立場から検討してみたい。
<参考>
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http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2007031001000510.html
イラク安定化へ国際会議 敵対国の対話促進が焦点
 【カイロ10日共同】混迷するイラク情勢安定化に向け、米国など国連安全保障理事会常任理事国と周辺の計10数カ国による国際会議が10日、バグダッドで開かれた。情勢悪化の元凶とされるイラクの民兵組織、武装勢力に直接、間接的に影響力を持つイラン、シリア両国と米国が同席する会議を契機に、敵対してきた双方の対話が促進、治安改善への転機になるかどうかが焦点。
 米国と、核問題で緊張が高まるイランや、イラクへの武装勢力、武器の補給路と指摘されてきたシリアとの対話の枠組みが拡大すれば、中東の緊張緩和が一定程度進む可能性もある。
 会議前日の9日には、イラク聖戦アルカイダ組織などイスラム教スンニ派武装勢力が樹立を宣言した「イラク・イスラム国」を名乗る組織が、会議は「偽善者の会合」などと批判する声明をウェブサイトに公表。イラク政府と駐留米軍は、会議に反発する武装勢力側のテロ、攻撃に備え厳戒態勢を敷いた。
(2007年03月10日 17時53分)
------------引用--------------
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米とイランが接触・イラク外相明かす
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070310AT2M1001P10032007.html
【ドバイ=加賀谷和樹】10日の「イラク安定化国際会議」で終了後に記者会見したイラクのジバリ外相は、会議で同席した米国、イランの間で「直接の協議があった」と述べた。 米国とイランの協議の内容については「完全にイラクの治安と安定に集中し 、それ以外のテーマは協議されなかった」と語り、イランの核開発問題は話し合われなかったと説明した。協議内容の詳細にまでは言及しなかった。
------------引用--------------
http://gold.tanaka.co.jp/commodity/souba/d-gold.php
金価格も落ちきている。
私は、以前から、世界情勢の中心には中東があり、中東情勢の中心にはイスラエルがあると考えてきた。イラク戦争以降、今日に至るまでのアメリカの中東での無策ぶり、大失態は、すべて、イスラエルとその代理人であるネオコンによって引き起こされたものだ。

Robert Gates

そして、ブッシュ政権はネオコンを切り、ゲーツに代表されるCIA人脈を重視した、諜報や謀略のプロを配置し、事態の収拾に乗り出したようだ。これは、CIAとモサドの死闘に対して、CIAが優位に立ったともいえる。
アメリカが国際金融資本に支配されたのは、大恐慌から第二次世界大戦を通じてであるが、イスラエルに支配されたのは、キッシンジャーの時代においてである。イスラエルは、冒頭で紹介した孫子用間篇をアメリカに対して忠実に実行し、成功させることが、国家安全保障上の最重要課題と認識している。この点、すなわち、アメリカを舞台にしたアングロサクソンVSユダヤ、CIA VSモサドの、決して表に出ることはない水面下の死闘の推移が分からないと、現状も、未来も分析できない。
CIAとモサドの関係を、歴史を遡って理解するために、ユダヤ人の大御所キッシンジャーが活躍した一九六○年代末から一九七○年頃を振り返ってみることにする。

Henry Kissinger

この時代、キッシンジャーはアメリカの政策決定に係わり、基本的にそれを操作しただけではなく、政策決定、情報活動体制そのものをも根本的に再編した。
ロンドンとニューヨークの国際金融資本の後ろ楯を受けて、キッシンジャーは情報活動に携わる組織をそれまでと全く反対に入れ換えてしまった。彼がまず企んだのは、CIAの情報分析機構に取って代わるものとして、国家安全保障会議(NSC)のスタッフ自身が重要な政策決定に関与できるようにすることであった。元来この部署のスタッフは、情報関係部局から上がってきた情報を単にNSCに提出するだけのものであった。
 
情報分析、正確に言うなら国家情報分析(NIES)の目的は、様々な手段や経路を使って入手した生の情報を、状況に応じてべストの分析が行われるようにすることだった。

CIA

CIAはエレクトロニクス装置から人的手段までのすべてを駆使して、何が起こっているかを把握し、大統領やその閣僚、それに情報関係部署の責任者をはじめとする政策担当者がしかるべき行動を取れるようにその情報を提供しようと試みていた。キッシンジャーはこのシステムをほとんど信用していなかったので、それを壊してしまおうとした。
さらにキッシンジャーはその際、CIAで働いていた情報関係者の幹部をホワイト・ハウスに招き入れた。CIAの幹部の一人でソ連の情報活動問題担当だったウィリアム・ハイランドも、キッシンジャーによってホワイト・ハウスに移され、彼の前の職場であるCIAに対抗してキッシンジャーが事を進める際の切札に使われた。そのときからというもの、ハイランドはことごとくキッシンジャーの後ろ楯によって出世していった。
キッシンジャーはこうした抜擢人事を通じて互いの反目を引き起こし、それによって情報専門家からなっている従来のシステムの弱体化を狙った。このような撹乱工作は一部の情報専門家の間に疑惑を生み、彼らはキッシンジャーを「ソ連のスパイ」かもしれないとして調査を始めたほどであった。キッシンジャーは、最善の情報分析を提供し取るべき行動を進言するという情報専門家の能力を破壊してしまった。そのことで現実に一部の者はキッシンジャーを「ソ連の息のかかったスパイ」と考えたのである。

 キッシンジャーは自らの下で、国家情報分析を軽視する一方、第三世界を中心に秘密工作(単に諜報活動に徹するのでなく、意図的に事件を引き起こすこと)を進めることでCIAの秘密工作部に対し協力した。キッシンジャーと一緒にこの工作に加わったのが元CIA長官のウィリアム・コルビーだった。彼は長きにわたって第三世界での秘密工作に携わっており、今ではアメリカの対日政策を決定するための情報活動を民間サイドで進める上でなくてはならない人物になっている。 
キッシンジャーがイスラエルの情報機関であるモサドとの間に緊密な関係をつくり上げたのもこの時期であった。それまではモサドはCIAの単なる下請け機関であり、アフリカや中東での共同秘密工作では金銭的にCIAに依存していた。キッシンジャーが登場するに及んで、情報活動全体の様相がすっかり変わってしまった。一九七三年の中東戦争とそれに続くアラブ諸国の石油輸出ボイコットという事態に対しキッシンジャーが果たした役割によって、彼はイスラエルに登場の機会を与えた。
ロンドンとニューヨークの国際金融資本の利益の代弁者として、キッシンジャーはオイル・ダラーのロンドンとニューヨークへの還流を図ることにより、英米金融システムの崩壊を未然に防ぐことに成功した。また当時IMFの副総裁で後に連邦準備銀行総裁になったポール・ボルカー主導の下でアメリカの銀行制度の規制緩和が進められた結果、英米の金融勢力の政治力は甚だ強大なものになった。今もボルカー、キッシンジャー、コルビーは緊密に手を組みながら世界的な問題に対処している。
従来の情報機関に対抗する権力を国家安全保障会議に付与すること、そして自分の気に入った特別の秘密工作を仕組むこと、この二つの事柄を成し遂げるためにキッシンジャーは努力した。その結果、彼は情報活動の方針並びに政策決定を統轄できる権限を情報活動の専門家の手から奪って自らの手中にすることができた。
歴史的な流れから見れぱ、このような権限の移転が可能だった背景には、いくつかの要因がある。当時、べトナム戦争の敗北のショックが下火になりつつあったし、電撃的な中国との国交回復が起こった上に、モスクワとの間のデタントが進みつつあった。そしてニクソン大統領は政策決定に関してキッシンジャーにほとんど全権を委任していた。キッシンジャーに反対でもしようものなら、ありとあらゆる汚いトリックを仕掛けられる羽目になるのがおちで、彼は自分が牛耳るNSCのメンバーに対してすら容赦はなかった。実際に、ニクソン大統領は、第4次中東戦争において、イスラエル支援をためらったためにウォーターゲートを仕掛けられ、辞任に追い込まれた。
自分に反対するメンバーに対しては、キッシンジャーは国家の安全にかかわる情報を漏らしたとの嫌疑をかけた。キッシンジャーは絶大なる権力を振った。
もっとも軍や軍情報部の支援を受けたCIAのOBたちが、キッシンジャーに対し抵抗を試みたことがあった。だが彼らの高邁なる努力にもかかわらず、自らの公的地位を利用し、かつ出世の面で自分に借りのある人物をアメリカ政府内部の要所に配置することによって、キッシンジャーは巨大な私的情報機構をつくり上げることに成功した。要約すると、キッシンジャーはCIAや軍を完全に押さえ込んで、独自の情報網を米国政府内に作ったのだ。

 このような手を打った上に、連邦捜査局(FBI)の協力も得、さらに後にウィリアム・ウェブスターの手も借りることによって、キッシンジャーと彼の仲間は米国内に巨大なネットワークを築き上げた。その過程で、彼は、ADL(ユダヤ名誉毀損防止連盟」(http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhc511.html)を利用した。
ADLは130年の歴史を持つユダヤ人国際結社「ブナイ・ブリス」から豊かな財政支援を受けて生まれた団体で、1913年に設立された。ADLは全米に25、カナダに2つの地方事務所を持ち、人事・コミュニケーション・教育・都市問題・社会問題・宗教及び法律の各分野の専門家を含む300人の職員を抱え、各地のコミュニティに代表が何百人もいる。
ADLがこの情報機構の代理人として重要な情報活動に従事するようになったきっかけも、実はこのキッシンジャーの行ったことにある。
このような動きの結果、憲法によって与えられていたアメリカ政府の権限は大幅に縮小させられてしまった。米国内においてADLが大きな権力を行使できるようになったのは、実際のところ主としてキッシンジャーとFBIの努力によるものである。

 ADLの特殊な情報活動能力は、第二次世界大戦前に、第五局と呼ぱれたFBIの防諜担当部署の支援と協力の下、英国情報部の「特殊工作部(SOE)」の責任者ウィリアム・ステファンソン卿の尽力によって培われたものである。表向きは米国内でのナチの諜報活動に対抗するためということだったが、ADLはFBIの協力を得てアメリカの再度のヨーロッパ戦線への参戦に反対する孤立主義者たちの調書を作成し始めた。孤立主義者の一部は「米国第一主義者」と呼ばれた。アメリカは海外のいかなる紛争にも手を出すべきでなく、自国の利益のみを考えるべきだというのが孤立主義者たちの考え方であった。日本が真珠湾を攻撃するまで、こうした米国第一主義者は議会内では強力なロビーの一つだった。
イギリスの情報活動にとってもっと重要だったのは、ADLとFBIが米国内での情報活動体制をつくり上げ、それが戦争突入後ロンドンやニューヨークの金融機関にとって極めて有益なものとなったことである。このFBIとADLの関係が、正式な政府機関内でADLを支える上での頼みの綱になった。だがその関係は鳴り物入りで宣伝するようなものではなく、そっとしておくべきものであった。一九六○年代になってアメリカで大変化が起こり始めるまで、両者の連合関係は、人目につかない穏やかなものだった。

 一九六七年の六日戦争までは、ADLは諜報合戦においては基本的に部外者であった。彼らの諜報能力はFBIとの関係から制限されていた。アメリカの情報関係者の間には伝統的にイスラエル人やアメリカの情報分野で働くユダヤ系アメリカ人に対する警戒心が存在していたことから、当時はADLのCIAに対する影響力と浸透力は、最低限にとどまっていた。CIAの防諜担当局長を務めたジェームズ・ジーザス・アンジェルトンは例外として、一般にイスラエル人はアメリカの情報分野に入り込むことはできなかった。
 
アンジェルトンの下で、アメリカの防諜活動はイスラエルの秘密情報機関との間に関係を有するようになった。アンジェルトンはCIAの前身である戦略事務局(OSS)の局員だったときにイスラエル人との間に密接な関係を築いていた。彼が連絡を取り合っていた重要人物には、イスラエルの情報関係者のトップの人たちばかりでなく、エルサレム市長のテディ・コレックも含まれていた。

 しかしながら、六日戦争が終わりアメリカで国内政治危機が起こってからというもの、政治、文化面で一大変化が起こった。イスラエルの電撃的な勝利の結果、アメリカのマスコミや米国民の間で、イスラエル人が一夜のうちに「実体以上の英雄」に祭り上げられてしまった。「無敵のイスラエル人」とか「彼らは間違いを犯すはずがない」といった魔法の呪文が米国民にかけられた。そしてその後の二十五年間でこれらの勢力が政治権力を手の中に入れ、政府機関を上回る強力な存在になってしまった。とりわけこのことは司法省や国防省、それに情報機関の内部で顕著であった。
へンリー・キッシンジャーの台頭と無敵のイスラエルの登場とが相まって、ADLの地位も上昇し始めた。ADLは主として国内の活動強化を図り、産業界、市民団体、労働組合、それに政党の内部に政治的な諜報活動を進めるための拠点を築いた。FBIは絶えずADLを庇護し、いつ何時でも必要なときにはこれに援助の手を差し延べるようになった。

 カーター政権時代の一九七七年、ウェブスター判事がFBI長官に任命されたときに、この両者の関係はさらに強固なものとされ、ADLやシオニスト・ロビーに刃向かう政敵に対しては卑劣な工作が仕掛けられることになった。
両者が最初に仕組んだ共同工作活動は、アブスカムと呼ばれたFBIのおとり捜査だった。FBIは有罪が確定した犯罪者、それもそのうちの何人かはADLと直接つながっているような者を、国会議員や実業家、その他政治的影響力のある人たちを標的にした工作活動に利用した。
アブスカムという言葉は「アラブのペテン」という意味で、オイル・マネーで裕福な中東の王族に対する反感をかき立て、アメリカにおいて大規模な反アラブ気運を盛り上げることを狙ってつくられた言葉である。アラブの王族たちはシオニスト・ロビーからはアメリカに「堕落をもたらすもの」とみなされていた。ADLはFBIや全国のマスコミと連携して活動した。特に彼らを政治的に攻撃する時にはNBC放送と連携プレーを行った。
彼らの攻撃の目標にされたのは、人種的にアメリカ人と言えるもともとアメリカ生まれの人たちや、労働組合の支持を得ていた保守的な民主党幹部たちであった。かかる憲法をないがしろにする悪質な攻撃の犠牲になった人物の一人が、ハリソン・ウィリアムズ上院議員(民主党、ニュージャージー州)だった。ウィリアムズ上院議員は彼の仲間の手で上院の議席を奪われてしまった。
このことが米国内に新たな先例をつくった。それはFBIとADLからなる勢力に、恐喝という手段に訴えるとてつもない道を拓くことになった。最近では幾度となく彼らはこの手を使っている。へンリー・キッシンジャーは野に下ってからも、政敵を葬り去るためにこの手口をよく用いた。カリフォルニアのボへミァン・グローブで開かれた秘密結社の集会で、キッシンジャーが当時FBI長官だったウェブスターに会ったことは、今では公の文書に記されているが、その席上キッシンジャーはウェブスターに対し政敵を攻撃することを依頼している。

 レーガン時代にこうした勢力は以前にもまして強大になった。NSCにキッシンジャーが築いた体制、それに民間の手によるものでありながら政府のお墨付きを得ているCIAの元職員を使った秘密諜報工作がアメリカで政策を進める場合の常套手段、あるいは一般的なやり方になった。このような状況の下で、外国人であるイスラエル人がますます深く共同秘密工作にかかわるようになった。
アメリカの諜報能力の再構築の必要性に迫られて、当時のCIA長官だったウィリアム・ケーシーはこういった工作を認めた。当時は依然冷戦たけなわの時代だったので、共産主義者に対する工作に早急にとりかかりたかったケーシーは、その障壁となっていたCIAの官僚制度を飛び越えて事を進めた。つまりそのような工作をイスラエルに任せたのである。
ケーシーが行ったこのような決定によって、イスラエル人とADLは国家安全保障に関与する組織の上層部に直接食い込むことができるようになった。特にテロリズムの脅威が高まる中で、アメリカはそれに対応できる能力を持っていなかったので、そのための組織をCIAの中につくるためにイスラエル人が紹かれた。これが実はイラン・コントラ事件のもとである。
ケーシー自身は多くの自己矛盾を有する人物であった。元CIA工作員によると、ケーシーは秘密工作をイスラエル人抜きでやれと命令を出そうとしたかと思うと、考えを百八十度転換して同じ任務をイスラエル人に課すなどといったことがよくあった。こうした彼のやり方は、情報関係者内部に大きな混乱を引き起こした。
 ケーシーCIA長官が相矛盾する行動を取り、そしてタイミングよく亡くなった後、ニューヨークやロンドンの勢力は議会内における彼らの影響力を行使してレーガン政権を骨抜きにし、ケーシーの後継者としてウィリアム・ウェブスターを任命することを認めさせた。情報関係者たちは自分たちが選んだ候補者をCIA長官のポストに就けることなどできなかった。情報組織内部が毎日のように出てくる新たなスキャンダルで上を下への大騒ぎをしているような状況であったため、この人事に対する組織的な抵抗はほとんどなかった。こういうわけで、ウェブスターが指名された。このウェブスター判事の任命によって、FBI.ADL体制全体が一層強固なものになった。

President Reagan

イスラエルが情報組織内部に浸透し続けていくことに対し、直接影響を与えた唯一の大スキャンダルはレーガン政権下で起きたポラード事件だった。この時期、米大統領だったレーガンもユダヤ系のロビー工作により、レバノンに派兵した。だが、アメリカ大使館に一台のワゴン車が突入し、大爆発を起こした。この爆発で米兵60人が死亡、120人が負傷した。
このテロ行為につき、イスラエルは事前に情報をつかんでいながら、アメリカに教えなかったと言われる。
結果として、保守層からの批判が強まったところでレーガンはポラード事件に象徴されるユダヤ離れを演出し、保守層の支持を取り戻した。今後も、新たなポラード事件を摘発し、イスラエルを切ることは十分、ありうる。
 ポラード事件は、八五年十一月、米国連邦捜査局(FBI)は米海軍情報分析官のユダヤ系米国人ジョナサン・ポラードをイスラエルのスパイ容疑で逮捕した事件。ポラードは米国の偵察衛星が撮影した秘密写真などの機密文書を「モサド(諜報特務局)」とは別の情報機関「レケム(科学情報局)」に渡していた。

 ポラードは終身刑で服役中だが、イスラエル政府は1995年にポラードにイスラエル国籍を付与し、釈放を要求している。
このように、イスラエルは、ユダヤ系ロビー団体を通じ、アメリカの諜報組織や一般社会に深く食い込み、政策を動かすことで、自国の安全保障を達成してきた。その過程で、ポラード事件のような、アメリカ側の反撃もあったように、両者の関係は、常に緊張を帯びたものだった。
これは、裏を返すと、情報部門から、イスラエルの影響力を一掃できれば、「アメリカによるイスラエルの切捨て」にも繋がる可能性があり、結果として、イスラエルの自暴自棄的な先制攻撃を生むこともありうる事を意味している。ネオコン追放後の問題点はこれに尽きる。
私の分析は以上のような見方に基づくものであるが、予想どおり、シリアが対イスラエル戦の戦備を始めたようだ。
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数千基のロケット砲を配備=対イスラエルでシリア (AFP=時事)
http://news.www.infoseek.co.jp/afp/world/story/20070309afpAFP011382/
【エルサレム9日】イスラエル軍筋と政府筋は9日、AFP通信に対し、シリアが対イスラエル国境地帯に数千基の中・短距離ロケット砲を配備したと語った。これらのロケット砲はイスラエル北部の主要な町を攻撃できるという。シリアに関しては最近、部隊が移動しているとの情報もあり、イスラエルでは、シリアが小規模な戦争に備えているとの見方が出ている。
イスラエル軍筋は「ここ数カ月、シリアが(イスラエルとの)国境にロケット砲を配備したのをわれわれは察知している。その多くは地下などに隠されている」と述べた。
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このことに見られるように、「中東和平」はイスラエルの不安定に必ず繋がる。これは、かってのイラン-イラク戦争において、「劣勢であったイランをイスラエルが支援」することで、戦争を長引かせた事で、イスラエルの安定を確保した戦略を考えれば、分かるであろう。世界史を例にとれば、第二次世界大戦における、独ソ戦で、国際金融資本に操られた英米が劣勢なソ連を支援し、欧州のパワーバランスを図り、経済的利益と軍事的利益を得た戦略と同じだ。すなわち、「隣接するランドパワー同士を相い争わせる」事が勢力均衡戦略の根幹ということだ。
現在の中東情勢の背景として、イスラエルによるユダヤ人人口の減少と、国際金融資本のイスラエル切捨てという、二つの大きな流れの中で、イスラエルが孤立を深めつつあるという事情がある。大まかな流れはVOL113(http://npslq9-web.hp.infoseek.co.jp/sls113.html)で述べたとおりだ。
国際金融資本は民主党を操り、アメリカを第二次大戦に参戦させ、イスラエルを建国した。その流れの中で、存在理由を失いつつあるイスラエルをどうやって、ソフトランディングさせるかが、実は、世界で最も大きい問題であり、中東情勢の根幹にかかわる事がわかるであろう。
イスラエルは、歴史を見れば、自国の安全保障のため、先制攻撃をアラブ諸国のみならず、アメリカを含む西欧諸国に対しても行っている。国土の縦深のなさが、打たれ弱さに繋がり、具体的には、第4次中東戦争の際のような奇襲により、国家存亡の危機に立った事がトラウマとなり、このような行動をとらせるのであろう。そして、昨年の対ヒズボラ戦争で、実質的に敗北した現状で、イランとサウジやアメリカが和平を結ぶとなると、いよいよ、イスラエルは後がなくなってくる。
この状況は、911以前、ブッシュ政権が「パレスチナ共和国」の設立をほのめかし、イスラエルとパレスチナの紛争に全く関心を示さなかった時点の状況と似ている。その後、911が発生し、アメリカは、対テロ戦という名の中東戦争へ介入していくわけだが。
つまり、今後、追い詰められたイスラエル、我々の想像もつかないような手段で、西欧やアラブに対する攻撃にでる可能性は十分ある。
そして、アメリカやサウジとイランの間を分断し、戦争状態に陥らせることが、彼らにとっての究極の安全保障政策なのだ。
より根本的には、地政学的に見て、現在のイスラエルは豊臣秀頼のこもる大坂城と同じ状況ということだ。援軍がどこからも現れず、頼りはアメリカの支援だけ。そのアメリカにも、ネオコンが追放され、911の真相が明らかになると、イスラエルは切られるであろう。
現在においても、イスラエルの占領地での行動について、内部告発が続いている事に見られるように、占領軍の士気の低下、規律の乱れがあり、占領の維持が難しくなっている。根本的には、占領の継続は、不可能なのだ。
<参考>
------------引用--------------
http://www.nhk.or.jp/bs/bsdoc/
1967年の第3次中東戦争以来、占領政策を続けるイスラエル。占領地で軍が行っている非人道的な行為に疑問を感じたイスラエルの若者たちが告発の声を上げ始めている。
始まりは、2年前、エルサレムで開かれた写真展だった。イスラエルでは、国民皆兵制度によって18歳になると3年間の兵役が課されるが、兵役で占領地に駐留した若者たちが“Breaking the Silence(沈黙を破って)”というグループを結成。占領地で自ら撮った写真にメッセージを添えて展示した。「装甲車によじ登ってきた子どもを我々のスナイパーが射殺した。確認すれば12歳の子どもだったと分かったはずなのに。」、「普通のパレスチナ人家族を力ずくで立ち退かせてしまった。彼らは決してテロリストではないしそれにつながってもいないのに。」
グループでは、若い兵士たちに参加を呼びかけ、証言を集める作業を続けている。そして、写真展だけでなく、証言をまとめたビデオを作成して配布したり、高校に出かけて講演するな、様々な形で国民への問いかけを続けている。しかし、彼らの活動に対する反発の声も強い。
これまでタブーとされてきた占領地での軍の“実態”を告発しそのあり方を問い直そうとする若者たち。“沈黙”を破った若者たちの活動を追い、イスラエルの占領政策のゆくえをさぐる。
------------引用--------------
つまり、時間の経過は、決定的にイスラエルの立場を悪くするだけだということだ。こういう追い詰められた状況では、九死に一生を目指して、積極策をとるしかない。まさに、桶狭間の信長と同じだ。
この状況は、ある意味で、戦前の日本やドイツにも似ているといえる。
鍵を握るのは、イスラエルの生みの親である英国だろう。英国はイスラエルを生んだが、結果として、アメリカがイスラエルに乗っ取られたような状況になったため、其れにつられて、イラク戦争に引き釣りこまれた。英国はブレアに全責任を負わせて、イスラエルを切るかもしれない。イスラエルをめぐって、水面下でギリギリの攻防が行われている。
<参考>
------------引用--------------
http://homepage.mac.com/ehara_gen1/jealous_gay/david_stern.html
スターン・インテル(カナダ):米国軍事情報筋は、イスラエルの諜報機関モサドが世界貿易センターとペンタゴンの攻撃に関与していたことを示す内部諜報メモの詳細を明らかにした。その情報筋は、名前を明かさないことを条件に、(事件の)4週間前に米国情報当局内部で回覧されていたメモの存在を認めた。そのメモには、イスラエルが米国領土内で秘密工作を企てる恐れがあるとし、米国の国益へ見せかけのテロリスト攻撃を行うことによって、パレスチナのアラブ勢力に対する世論を逆転させ、パレスチナのアラブ系住民に対する大規模な軍事的猛攻へのお墨付きをイスラエルに与えることになるだろうとあった。
9月11日の攻撃については、単独のテロリスト・グループが実行したにしてはあまりにも手が込みすぎていると専門家たちから指摘されていた。「こうした攻撃には、高度な軍事的緻密さや高等な諜報機関からの情報源が必要とされる。攻撃を行った者たちは、さらに大統領専用機(エア・フォース・ワン)の運航や民間航空機の飛行経路、ワシントンのように重要な米国都市においてどのような防空戦術がとられているかについてもきわめて精通している必要がある」とイスラエルの諜報活動に詳しいデイヴィッド・スターンは述べた。
攻撃はペンタゴンと世界貿易センターのツインタワーだけでなく、FBIによれば、ホワイトハウスとエア・フォース・ワンもターゲットにされていたという。
「攻撃が米国の世論をイスラエル支持へと一変させたことは確かであり、それは11カ月続いたパレスチナの民衆蜂起、ダーバンで開かれた国連の会議(反人種主義・差別撤廃世界会議)でイスラエルの戦争犯罪や人種差別に対して厳しい批判がなされた後に起きた。その攻撃がアラブ系のグループや国家にとって利益になるものではない反面、パレスチナの政治指導者や警察幹部を暗殺するというイスラエルの暗殺政策が国際的な非難を浴びていた渦中の、まさにそのタイミングのもとで攻撃は起こされた」とスターンは付け加えた。
イスラエルの米国攻撃への関与というニュースがたとえ確証されたにせよ、諜報専門家らにとっては別に驚くにあたらない。イスラエルという国には、キング・デイヴィッド・ホテルやUSSリバティー号への攻撃、スカンジナビア国連特使の暗殺、ジョナサン・ポラード事件における米国へのスパイ活動など、欧米のターゲットに対する秘密工作の長い歴史がある。
米国国防総省は水曜日(9月12日)、事件以来連日発生しているという捜査情報に関する漏洩を食い止めるため、同省の職員たちに対して警告を発した。  
------------引用--------------    
以上

2007年3月 5日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL143

現在、休載中


孫子謀攻篇

孫子曰わく、
 凡そ用兵の法は、国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ
およそ軍事力を用いる原則としては、敵国を保全したまま勝つのが最上の策で、敵国を撃破して勝つのは次善の策である。
故に上兵は謀を伐つ。其の次ぎは交を伐つ。その次は兵を伐つ。その下は城を攻む。攻城の法は、已むを得ざるが為めなり。 
軍事力の最高の運用法は、敵の策謀を未然に打ち破ることである。 その次は敵国と友好国との同盟関係を断ち切ることである。 その次は敵の野戦軍を撃破することである。
 最も劣るのは敵の城を攻撃することである。城を攻めるという方法は、他に手段がなくてやむを得ずに行なう。

                
今回は、現在と将来の国際情勢を孫子謀攻篇を基にして、読み解いてみたい。孫子は2000年前シナ大陸における実際の戦乱の中で到達した、戦争や人間の本質に対する深い洞察に基づく名著であり、その示唆するところは、人間の本質が変わらない以上、十分、現在にも当てはまる。
孫子の核心は、徹底した「間接アプローチ」のすすめということだ。これは、20世紀を代表する戦略思想家、バジル・ヘンリー・リデル・ハートに考え方にも、大きな影響を与えており、おそらく、彼は孫子を解読していたのだろう。孫子の教えの最重要な点は、冒頭に紹介した「謀攻篇」に如実に示されている。要諦は、「敵を直接攻撃するのではなく、調略や謀略による寝返り」により、「敵を分断し」、結果として「戦わずに勝つ」事こそが、最上の勝ち方ということだ。そういえば、日本の戦国時代を収束した、豊臣秀吉や徳川家康は孫子の戦略を忠実に実行し、全国を制覇したとさえ言える。
このような理解を前提にして、現在の国際情勢を考える上で、前号(VOL142)で述べたような「テヘラン-モスクワ-北京」枢軸と「東京-ロンドン-ワシントン(NY)」連合の対立において、私が予想したとおり、最も脆弱な北京に対する締め上げが本格化しだした。「其の次ぎは交を伐つ」すなわち、同盟国との離間策を実施しだしたのだ。これが、上海バブル崩壊に伴う、株安の背景だ。
<参考>
------------引用--------------
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007030100420
2007/03/01-13:14 上海株は反落、1.7%下落
【上海1日時事】1日の中国・上海株式市場では、市場全体の値動きを反映する上海総合株価指数が大幅反落して始まり、一時3%強下落、2800の節目を割り込んだ。その後はやや値を戻し、午前の取引は2831.568で終わった。前日終値(2881.073)に比べ1.7%下げている。
------------引用--------------
ここで、中華人民共和国という名の、北京政府の意味考えて見たい。まず、共産党がシナ大陸の支配権を獲得できたのは、スターリンコミンテルンの策謀により、日本陸軍を大陸の闘争引き釣り込み、結果として、蒋介石の追い出しに成功したからだ。すなわち、毛沢東はスターリンの傘下として、シナを支配したのだ。
 しかし、スターリン死後、毛沢東は反ソの傾向を強め、やがて、日米と国交を結ぶという形で、ソ連の傘下から抜け出し、日米陣営に加わった。このことが、冷戦のパワーバランスを決定的に変えた。
そして、日米の資本や技術で、70年代以降、急速に発展するわけだが、これは、戦後の日本や韓国と同じように、北京政府支配下のシナを「西側海洋国家連合のショーウィンドー」として、繁栄させる必要があったためだ。戦後の経済支援や投資は全てこの地政学的文脈で考える必要がある。
つまり、裏を返せば、日米の投資や技術の引き上げが始まれば、もともと、VOL142で指摘したような極めて脆弱の体質と多数の問題を抱えている北京政府は、北朝鮮やモンゴルやチベットと大差ない経済水準に落ち込むということだ。このことを理解すれば、アメリカによるイラン攻撃が実現するかどうかというギリギリの局面で上海株が崩落し、バブル崩壊が始まったことの意味が分かるであろう。
つまり、これは、国際金融資本の北京に対する「恫喝」だ。背景として、イランをめぐる、国際金融資本と米軍との間に、何らかの「手打ち」があったと推察される。両者が一致して、圧力をかける時のアメリカは強い。
時を同じくして、アメリカと北朝鮮の直接接触が国際金融資本のお膝元である、ニューヨークで始まった。
<参考>
------------引用--------------
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20070303AT2M0300G03032007.html
北朝鮮首席代表がニューヨークへ
 【ニューヨーク=中前博之】北朝鮮の核問題をめぐる6カ国協議の北朝鮮首席代表である金桂官(キム・ゲグァン)外務次官は2日夜(日本時間3日午前)、米朝作業部会に出席するため、サンフランシスコからニューヨーク入りする。
------------引用--------------
いうまでもないが、これは、北京に対する圧力の一環として、私が以前より何度も指摘している、「中朝二虎競食計」の始まりであり、そのための「水面下の米朝同盟の締結」が話し合われるだろう。
北京を軍事的に圧殺する最高の手段は、満州の通化ミサイル基地(日本に向いている)の核ミサイルを無力化するため、北朝鮮にミサイル防衛基地と迎撃ミサイルを設置し、発射直後に迎撃できる態勢を組めばいいのだ。これで、北京と日米のパワーバランスは圧倒的に日米有利に傾く。
 そうすれば、北京は、戦う前に滅びる事になる。つまり、北朝鮮が日米陣営に就くか、北京陣営に就くかは、世界のパワーバランスを大きく変えるため、冷戦期の毛沢東と同じポジションに金正日はいることになる。
 次に、ロシアを見てみたい。プーチン政権は前号で述べたように、ランドパワー陣営の中で、唯一、先端兵器の自主開発能力を持ちエネルギー供給の確保を自前で達成できる国だ。つまり、かろうじて、日米連合とガチンコ対決する能力を備えていることになる。
 このような国を譲歩させるには、核兵器による軍事圧力しかない。これは、冷戦期を通じて得られた結論だ。冷戦期においては、いわゆる「ゼロ・オプション」が有名だ。
米ソ間の戦略核兵器制限交渉が八二年六月から始まったがアメリカは、核弾頭数と威力規制をめざす二段階削減案を提案したが、これに対してソ連は、交渉開始と同時に米ソ戦略兵器の現状凍結と近代化制限にふみきろうという逆提案をおこなった。
さらに八二年一二月、アンドロポフ新政権は、八三年末までに、欧州配備が予定されているアメリカのパーシングII、巡航ミサイルの配備中止を前提に、(1)ソ連の中距離ミサイルを現在の英仏両国の保有水準と同数にする、(2)その結果、ソ連はSS20を含めた中距離ミサイルを削減するなどの新提案をおこなった。
アメリカは、ゼロ・オプション(ソ連のSS20配備撤去とひきかえに、米国もパーシングII、巡航ミサイルの配備を中止する)は、NATOの合意であるとして、即座にアンドロポフ提案を拒否した。アメリカの主張するゼロ・オプションでは、英・仏の核戦力はそのまま残されることになるから、ソ連の同意を得ることは困難であるといってよい。
<参考>
------------引用--------------
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kaku/beiro/start.html
米露間の戦略核兵器削減条約(START)

1.第1次戦略兵器削減条約(START I)

2.第2次戦略兵器削減条約(START II)

3.第3次戦略兵器削減条約(START III)

------------引用--------------
 このように、ロシアを交渉のテーブルに着かせるには、核兵器やミサイル防衛という、現代の「盾と矛」をチップにしたポーカーを行うしかない。現在、アメリカが東欧やカフカスにミサイル防衛の基地を設置しようとしているのは、そのためなのだ。つまり、「ロシアにイランの支援をやめさせるためのカード」として、「ミサイル防衛」を切ったという訳だ。

<参考>
------------引用--------------
http://www.tokyo-np.co.jp/flash/2007030201000741.html
カフカスにレーダー計画 米局長、東欧MDで
 【ブリュッセル2日共同】米国が東欧のポーランド、チェコに建設を計画中のミサイル防衛(MD)施設に関連して、米国防総省のオベリング・ミサイル防衛局長はブリュッセルで1日、記者団に「(旧ソ連南部の)カフカス地域にもレーダーを設置したい」と述べ、新たなレーダー設置を計画していることを明らかにした。AP通信などが伝えた。
------------引用--------------

------------引用--------------
http://www.asahi.com/international/update/0225/008.html
イラン攻撃命令なら辞任、一部米軍司令官が反旗 英紙
2007年02月25日19時13分
 英紙サンデー・タイムズは25日、イラン攻撃をブッシュ米大統領から命令された場合、一部の米軍司令官は命令に従うより辞任する考えだと報じた。
------------引用--------------
このように考えると、米軍と国際金融資本は、まさに、阿吽の呼吸で意識をあわせ、「テヘラン-モスクワ-北京」枢軸を各個撃破している事がわかる。ネオコン追放後の米政権の激変ぶりには驚かされる。軍事力や経済力は、戦略的に連動させ、このように使うのだというお手本のようだ。
今後、孫子の戦略が成功し、イランをランドパワー枢軸から引き抜いて、米国とイランの友好関係が回復する可能性すらある。
その中で、鍵を握るのは、イランと友好関係を維持してきた日本の外交だろう。イラン人は親日派が多いという。イランの調略ができるとすれば、日本しかない。そして、その機は熟しつつある。
イラン情勢が沈静化し、米軍のイラク撤退が現実のものになると、イラク戦争の引き金を引いたネオコンが戦犯として、血祭りに上げられるだろう。鍵はアメリカを対テロ戦争に駆り立てる契機となった911の捏造疑惑だ。
911の真相があきらかになる時、世界は新しいフェーズに入ることになる。
唯一の不確定要素はイスラエルだ。イランとアメリカが友好関係を樹立すると、イスラエルは切り捨てられる事となる。そのため、イスラエルは先制攻撃でイランを攻撃し、アメリカを戦争に引き釣りこむというインセンティブを強く持っている。イスラエルの出方に注意が必要だ。” Report: 3 Gulf states agree to IAF overflights en route to Iran - Haaretz - Israel News”によれば、イスラエル空軍機のイラン攻撃を湾岸諸国が許可した。

以上

現在、休載中
理由はPDAと見解の相違の為です。

関連

アジア通貨危機2

 国際金融資本(正月地政学特集1) 

 国際金融資本(正月地政学特集2) 

 国際金融資本(正月地政学特集3) 

 借金大国の日本とアメリカ 

2007年2月26日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL142


胡錦濤中国国家主席とゴルバチョフ元ソ連大統領

今回は、前回に引き続き、激動の中東情勢の今後を検討する上で、私の分析の原点に立ち返り、「ランドパワーとシーパワー」の視点に立ち返って、今後の推移を展望してみる。米軍のイラン攻撃計画がBBCにすっぱ抜かれたのは、アメリカのイランに対する恫喝である。これは、戦国時代の城攻めがそうであったように、心理戦の一環なのだ。軍事戦略として、本気で攻撃するなら、その意図を秘匿するし、ブラフなら、情報を開示する。関係者の処罰がない以上、これは、意図的なリークとして、後者と見る。


<参考>
------------引用--------------
http://www.asahi.com/international/update/0220/012.html?ref=rss
米、イラン空爆計画を策定 英BBC報道
2007年02月20日20時18分
 英BBCは19日、外交筋の話として、米政府がイランの核関連施設だけでなく、主要な軍事施設に大規模な空爆を行う非常事態計画を策定したと報じた。米中央軍司令部(米フロリダ州)はすでにイラン国内の標的を選定。イランの核問題の外交による解決を目指し欧米の橋渡し役を果たしてきた英政府筋は、米政府が武力行使の意向を示唆することで、イラン側がかえって態度を硬化させかねないとの懸念を示している。
 BBCによると、米中央軍司令部が選定した標的には、イラン中部ナタンズのウラン濃縮施設をはじめ、イスファハンのウラン転換施設、アラクの重水製造施設、ブシェールの原子力発電所が含まれる。これに加え、空軍と海軍の基地、ミサイル関連施設、各種司令部と攻撃対象は極めて広い範囲に及ぶという。
 米政府は現時点では武力行使に慎重な構えを崩していない。だが、BBCは、イランが核兵器を開発していると確認された場合か、イランが隣国イラクで米軍を攻撃し、多数の死者が出た場合、米軍が非常事態計画を実行に移す可能性を指摘した。
 ブッシュ米大統領は今月14日の記者会見で、イラン革命防衛隊内の部隊が隣国イラクのシーア派民兵組織に供与した高性能爆弾で米兵が殺傷されたとの疑惑に言及。イラン指導部の関与については不明としつつ、「何らかの手段を講じる」と牽制(けんせい)していた。
 一方、イラン側は国連安全保障理事会が求めるウラン濃縮活動の停止に応じない方針を改めて示しており、追加制裁決議に向け、米国を中心とした関係国の駆け引きが激しさを増している。
------------引用--------------
まず、私の見るところ、世界はランドパワーとシーパワーの二陣営に分かれつつある。一方の盟主はモスクワであり、もう一方の盟主はニューヨークとワシントンだ。

ここで、モスクワを中心とする陣営とニューヨーク、ワシントンを中心とする陣営の最前線は言うまでも無いが、イラン-イラク国境だ。

このような理解を前提として、モスクワ陣営の問題点を検討してみたい。まず、モスクワ陣営はランドパワー連合であり、ランドパワーである以上、その行動には歴史的法則がある。つまり、ランドパワーの宿命として、行動予測が、ある程度、いや、私のレベルになると、98%くらいの確度で可能なのだ。そして、彼らの行動を予測する上での最も重要な教材は「歴史」だ。

例えば、日本の戦国時代は、今後の世界戦国時代を読み解く上での生きた教材だ。応仁の乱以降、大坂夏の陣にいたる、160年程の歴史を仔細に俯瞰すれば、人間の本質、争いの核心、戦術発展の方向性といった点で、非常に多くの示唆を得ることが可能だ。

このような視点に立って、戦国時代の日本と今日の世界情勢を対比させつつ、今後の中東情勢を検討してみたい。このような分析アプローチは、世の評論家数あれど、私しかとる事はないであろう。

まず、ランドパワー同士の連合や同盟の本質とは、いったい、何であろうか。実は、この問いに対する回答こそが、今後の世界情勢を読み解く上で、最も重要かつ核心的な示唆となる。

私は、ランドパワー同士の連合とは「力のバランスと利害の一致の均衡点」にのみ存在することができると考えている。

この点を、日本の戦国時代を教材に見てみたい。
VOL141で紹介した甲相駿三国同盟(今川、北条、武田の三国同盟)は国境を接するランドパワー同士の同盟として、現在の、モスクワ-北京-テヘラン反米枢軸と対比できる。

ここで、甲相駿三国同盟が成立したのは、一つには、今川が強大であり、武田や北条の侵略を寄せ付けず、かつ、今川の戦略目標が西(尾張や京)を向いていたという条件が必要だ。

今川義元の画像(大聖寺所蔵)
今川義元の画像(大聖寺所蔵) [今川義元]

武田にしても、東海道への進出が不可能なら、今川と同盟して信州に進出するしかないとの選択だ。この点に、上記の「力のバランスと利害の一致の均衡点」が存在したため、三国同盟は成立した。

次に、どうやって、この甲相駿三国同盟が崩壊したかを見てみたい。言うまでも無いが、永禄3年(1560年)の桶狭間の合戦で今川義元が織田信長に敗北し、嫡子の今川氏真が弔い合戦を放棄するという失態を犯したためだ。

検証・桶狭間戦
検証・桶狭間戦 [検証・桶狭間戦]
検証・桶狭間戦
検証・桶狭間戦 [検証・桶狭間戦]

氏真は蹴鞠を好み、和歌をたしなむ文化人であったようだが、軍事に関する才覚は持ち合わせていなかったようだ。1562年に元家臣であった三河の松平元康(徳川家康)を攻撃したが振わず1566年頃までに三河を失い、徳川氏の独立を許す。その後、徳川家康と武田信玄は、今川領である遠江と駿河を大井川を境に分け合うという密約を結ぶ。
1568年、信玄はそれまで今川・北条と結んでいた甲相駿三国同盟を破棄し、電撃的に駿河へ侵攻する。今川軍も応戦するものの戦い半ばで総崩れとなり、氏真は駿河を放棄し朝比奈氏の掛川城に籠城する。この氏真を攻めたのが、遠江へ侵攻した家康である。

その後、氏真は、相模の北条氏を頼って落ち延び、ここに、戦国大名今川氏は滅びると同時に三国同盟も滅んだ。この間、桶狭間から、たった8年!その後、武田氏も北条氏も、世代交代後、それぞれ織田信長、豊臣秀吉に滅ぼされるのだから、三国同盟崩壊によるパワーバランスの変化は、この駿河、甲斐、相模三国の地政学的な位置づけを根本的に規定したことが分かるであろう。なお、今川氏真は、戦国大名としての立場を失った後、家康の庇護を得て、江戸で高家として、幕府仕えた。夫人は北条氏の出身だが、最後まで連れ添い、大変、仲がよかったという。大名としての立場は失ったものの、人間としての幸せはあるいは、あったのではなかろうかと推察される。
このように、「力のバランスと利害の一致の均衡点」を失えば、ランドパワーは容易に滅びるのだ。そして、歴史を見ても、偉大な指導者は、「力のバランスと利害の一致の均衡点」を見出し、その確保に全力を傾け、成功した。
世界史では「力のバランスと利害の一致の均衡点」を見出すことに成功した指導者がビスマルクで失敗した指導者がヒトラーだ。が知る限り、ランドパワーの指導者で、この罠に嵌らず、優れた外交手腕を発揮したのは、プロイセン首相を務めたビスマルクである。ランドパワーたるプロイセンの周囲には、ロシア、オーストリア、フランス、イギリスという列強があり、神聖ローマ帝国全体をさえ纏め得ないプロイセンに勝機はあり得なかった。
 ところが彼は、列強各国が抱いていたフランス憎しの感情を利用して対仏同盟を主導し、最終的に普仏戦争に勝利してフランスに城下の盟を誓わせた。対内的にも恐怖政治を誘導することなく、巧みな内政を駆使し、オーストリアを除く旧神聖ローマ帝国領の大半を併呑した。
 最終的に武力行使という手段を使ったが、これはフランスに外交上の完全な敗北を認識させるために行使したもので、国を賭けての戦争ではなかったことに特徴がある。あくまで外交というソフトなアプローチで望み、ときには利益をちらつかせ、ときには威嚇を見せつけ、武力行使を極力伴うことなく戦略上の勝利を築き上げた。オーストリアと戦争した際には、ウィーンまで進軍すべしという参謀の進言をはねつけ停戦し、後の対仏戦の際のオーストリアの好意的中立を勝ち取った。
 ビスマルクはドイツ帝国には海外植民地は不要との立場だった。外交政策を尽くした上で、その延長に必要最小限の戦争を考える、孫子にも通じる戦略である。反対に、次世代のウィルヘルム皇帝と幕僚は第一次大戦後、亡命先のオランダで孫子を手に取り、「もっと早く読むべきだった」と悔やんだとされる。

 ビスマルクを失って以降、ウィルヘルム皇帝の海外植民政策はイギリスのそれと対立し、第一次大戦に至る。ウィルヘルム皇帝は第一次大戦後、亡命先のオランダで孫子を手に取り、「もっと早く読むべきだった」と悔やんだとされる。
これは、ビスマルクを武田信玄、ウィルヘルム皇帝は勝頼とみなせば理解できる。
世の中が乱れれば、乱れるほど、この「力のバランスと利害の一致の均衡点」を見出すことが難しくなり、いったんそれを見誤れば、容易に崩壊する。それが、ランドパワーの宿命だ。注意すべきは、近代的意味での国家とは、国民のものでなければならない事だ。これはフランス革命以来の鉄則であり、国によって官僚制や資本家の力の強弱こそあれ、「国民国家」という定義を否定できるものではない。
 言い方を変えると、「国家のオーナーが存在せず、指導者の民主的交代が有りうる」ことが近代国家の最低条件だ。しかし、ロシアや中国に代表されるランドパワーにはこの定義が当てはまらず、それぞれ、スターリンや毛沢東が、内戦や外戦を勝ち抜いて建国したことをみても、ランドパワーの本質を戦国大名と考えると、戦国大名の本質とは言うまでも無く「戦争に勝つ」ということで、戦争に勝ち残ったことをもって、支配の正当性としているわけだ。
中国や旧ソ連の体制とはそのように理解すれば、「近代的国家ではなく、あくまで毛沢東やスターリンといった大名の封土」という意味がわかるだろう。

 こういう戦国大名体制の問題点とは何であろうか。それは「戦争に勝った」大名を失えば、容易に滅びるということだ。これは、信玄を失った武田家や道三を失った斉藤家あるいは、三国時代の魏や蜀が曹操や孔明を失い、あっけなく滅んだことを見ればわかるであろう。ナポレオンやヒトラーやサダム・フセインもこの点において、差は全く無い。

 要するに、旧ソ連の崩壊や現在の中国の争乱(確実に崩壊への序曲)とは、とりもなおさず「毛沢東やスターリンといった戦国大名(オーナー)を失い、その統治の正当性、能力を失ったため崩壊した」ということにほかならず、別の言い方をすると、江沢民や胡 錦濤といった「戦争に勝った経験がなく、官僚でしかない人間」にはランドパワー大国たる中国を押さえることができないのだ。
 もっとはっきり言えば、実戦の経験が無いランドパワーの指導者は、国内の反対勢力に「舐められる」のだ。
以上のような理解を前提に、モスクワ-北京-テヘラン枢軸の今後を予測してみる。
まず、この三カ国の中で、本気でシーパワー連合と対立しようとしているのは、モスクワしかないと考えられる。何故なら、北京やテヘランは経済発展のために、シーパワーの資本や技術を必要としているからだ。彼らにとって、シーパワーとガチンコ対決する必然性というのは、実は存在しない。むしろ、シーパワーとガチンコ対決する上で、先端兵器の自主開発力とエネルギー資源確保は必要条件だが、独力でこれらを達成できるのは、モスクワだけだ。つまり、北京やテヘランは、実力的にシーパワーに対抗することができないのだ。これは、要するに、第二次世界大戦前夜、世界がブロック化していく中で、負け組みの日独伊が同盟を組んだ戦略状況と同じだ。
では、何故、北京とテヘランはモスクワと組んでいるのか。其の理由の最大のものは、シーパワーを操る国際金融資本との間で、「力のバランスと利害の一致の均衡点」を見出すために、同盟しているのだ。これは、例えば、会社で言えば、資本家の代表である経営者に対して、弱い立場の労働者が団体交渉するようなものだ。
すなわち、上記のような本質的な脆弱さをもった、相対的に弱い立場のランドパワーを労働者、シーパワーを資本家と置き換えると、現在起きていることの真相が見えてくる。すなわち、中東大乱というのは、「スト(戦争)突入前夜の春闘(条件闘争)」なのだということが。
経営側は何とかストを回避したい。労働側は賃上げを達成したい。ではその落としどころは?御用組合がよくやる手だが、「スト突入直前での妥結」だ。このシナリオは実は労使で水面下で意識あわせが行われ、いわば、阿吽の呼吸でなされなければならない。
そして、上述の三国同盟が、今川義元の討ち死に後、あっけなく滅び、ドイツ帝国がビスマルクの退任後、簡単に崩壊したことに見られるように、ランドパワーの「力のバランスと利害の一致の均衡点」を見出す事は、優秀な指導にのみ可能だということが分かる。
このように考えると、現在のランドパワーの指導者、プーチン、胡 錦濤、アフマデネジャドは、それぞれ、スターリン、毛沢東、ホメイニという下克上の戦国大名の二代目であることが分かる。
つまり、三国同盟を締結した武田信玄、今川義元、北条氏康をそれぞれ、スターリン、毛沢東、ホメイニと置き返ると、プーチン、胡 錦濤、アフマデネジャドは、それぞれ、武田勝頼、今川氏真、北条氏政に該当する。
このような、二代目が領国経営に着手すると、先代には従っていた、国内の反対勢力が徹底的に反発し、求心力が弱くなるという法則が働く。それを阻止するためにも、外国勢力と手を結び、政権基盤を固めようとするのだ。これが、現在起きていることの真相だ。
このように考えると、シーパワー連合は、この二代目ランドパワー連合をどのように料理すべきか。ここにこそ、戦略家としての能力が試される事になる。
いうまでもなく、この状況で、シーパワー連合が取るべきは、ランドパワー連合の「離間策」だ。具体的には、モスクワと北京、モスクワとテヘラン、北京とテヘランのそれぞれに対して、離間策を仕掛け、三国の中でも、最も脆弱性の高い、北京を脱落させ、対ロシア鉄砲玉に使うのだ。前例としては、毛沢東がソ連と手を切って、日米陣営に加入し、冷戦におけるパワーバランスを大きく変化させた事が上げられる。毛沢東は、スターリンの後ろ盾で、第二次世界大戦を勝ち抜き、事実上、北京はモスクワの傘下であったのだ。これは、上述の甲相駿三国同盟の時代の日本に例えれば、スターリンが今川で毛沢東は松平という関係に相当する。スターリン死後、ソ連傘下から抜け出し、日米陣営に走った毛沢東の戦略は、まさに、今川義元死後、独立し、織田信長と同盟を結んだ松平元康(徳川家康)と同じであろう。

<参考>
------------引用--------------
http://www.21c-journal.net/book/20moutaku.html

 だが、毛沢東は違っていた。アメリカと共同で日本人民を支配しているとは言え、実際には自分自身もアメリカの支配下にある日本独占の中には、“親米独占”と“反米独占”とがあると見た毛沢東は、その矛盾を利用して日本独占を分断し、アメリカに対抗する勢力として中国と世界人民の側に獲得しようとした。

 ニクソン訪中時をはるかに上回る歓待をし、戦争賠償請求権をあっさりと放棄し、日米「安保」条約の存在をも認めて田中を驚かせた周恩来の外交は、毛沢東の戦略に沿って第二世界である日本を獲得するという強い方向性に裏付けられたものであった。

 「田中角栄と毛沢東」と題するこの本の最大の焦点は、これまで「政治の話はいっさいなかった」とされていた二人の会談の本当の中身を、ねばり強い取材によって明らかにしたことである。ページ数にしてほんの2ページほどにしかならないこの部分の記述は、これまでのどの記録にも記されていないものであり、毛沢東が「組むというのなら徹底して組もうではありませんか」と田中に日中同盟を呼びかけるという大胆なものであった。

 「三つの世界論」が、単に世界を解釈するためのものではなく、世界の矛盾関係を換えるための戦略であるということの意味はこういうことなのか。感銘を受けたのはまさにこの点であった。
------------引用--------------
このように考えると、ランドパワーの同盟関係とは、強固に見えて、実は、非常に脆いという事が言える。ちょっとしたパワーバランスの変化が全体の崩壊に容易に繋がるのだ。シーパワーはこのようなランドパワーの脆さを理解した上で、「蜂の一刺し」をその弱点に与え、一揆を起こさせ、ダム決壊させる。これが、教科書に書かれた、ランドパワーの潰し方のお手本だ。映画スターウォーズでXウィングファイターがたった一発のプロトン魚雷を排気路に打ち込み、デス・スターを崩壊させたのと一緒だ。
それでは、現在の三国同盟において、「蜂の一刺し」に最も弱いのはどこか。私が見るところ、それは北京だ。
まず、プーチンはKGBに支えられた政権であり、国内の治安、軍事部門もかなり、掌握している。唯一の問題は国内のイスラム教徒だが、ソ連崩壊の偽装により、南部のムスリム地域を分離し、チェチェンを除き、それほど大きな国境紛争や民族問題を有し有していない。
次に、イランだが、こちらも、国内はシーア派で団結しており、分裂の可能性は小さい。何よりも、イラン、ロシア両国は資源大国であり、エネルギー供給に不安はない。
では、北京はどうか。私が見るところ、胡 錦濤は、江沢民の上海閥との権力闘争のみならず、人民解放軍すら、完全に掌握しているか不明であり、所詮、党官僚上がりの秀才としての印象しかない。旧ソ連のゴルバチョフに通じるキャラなのだ。
シナの歴史を見れば分かるが、あの広大な大陸を掌握するには、徹底したマキャベリズムと戦争の勝利は、必要条件だ。毛並みの良さや秀才であることなど、全く不要だし、むしろ有害ですらある。
この事につき、毛沢東は「政権は銃から生まれる」や反秦クーデターを指揮した陳勝は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」(王や諸侯、将軍、宰相になるのに家柄が必要なわけではない。誰でもそういった顕位に登ることができるのだ)という名言を吐いた。これは、シナの歴史の核心を示すもので、政権は常にクーデターで、下層階級出身者が勝ち取ることこそが、「王道」すなわちあるべき姿ということだ。
そう考えると、秀才かつ能吏である胡 錦濤はキャラ的にシナの統治にふさわしくない人材と言える。
そして、VOL137で見たように、北京には、資源大国であるモスクワやテヘランと比べて、エネルギー確保に致命的弱点がある。つまり、原油輸入国でありながら、原油の戦略備蓄が存在しないのだ。
さらに、北京の抱える問題点として、
① 失業率と貧富の差が非常に大きく、富まざる者の人口が膨大(数億人?)盲流となって、都市部に流入
② 水のボトルネックが深刻
③ まともな社会福祉制度がないため、高齢化に対応できない
④ 国有企業や金融部門の改革が進まない
⑤ 経済の外資依存度が高すぎる(輸出の半分は外資系)
⑥ 技術レベルが低く、国際競争力のあるソニーやホンダに相当する国内企業(外資除く)は少ない。低価格労働力のみが売り物で為替を低く抑えることでのみ、達成される。
⑦ 一党独裁により、汚職の浄化機能が働かない
⑧ 法治でなく人治、ルールが突然変更される
⑨ 米国、日本、台湾など投資と貿易相手国と多くの摩擦、安保問題を抱えている
⑩ 農村や内陸部の改革が進まず、膨大な不良債権と化している
⑪ 日本や先進国との間で人の移動自由化は民族問題、犯罪発生を生むため不可能
⑫朝鮮半島、チベット、ウィグル、内蒙古での民族問題
⑬シベリアの中国人増加がロシアとの対立を惹起
といった、内外の不安定要因を多く抱えている。さらに環境の問題がある。今後数十年を経ずしてユーラシア大陸内陸部は環境破壊により、人類の生存が難しくなる地域が増大すると推定される。例えば、中央アジアのアラル海の2/3は農業用水、工業用水の使い過ぎによって干上がってしまって、砂漠になってしまっている。中国では、北京の北、天安門から70キロの所に砂漠が出現している。すなわち地球の温暖化に伴って、中国においては砂漠が急速な拡大を見せているわけであり、北から南へ砂漠がどんどん下へ降りてきているのである。
 研究者の中には、中国では今後50年以内に3千万人の環境難民が発生すると考えている者もいる。中国の北部一帯は全部地下水の枯渇に直面しており、北京は既に、59メーター掘らないと地下水が出てこない。どんどん地下水を組み上げているから、年間1.5メートル位、地下水の水位が低下している。中国の砂漠の拡大スピードは、一年間に2460平方キロ。これを1秒間に直すと78平方メートルずつ、全中国で砂漠が拡大している。1998年までに砂漠化した土地の面積は262万平方キロ。日本の面積の7倍位が、もう砂漠になってしまっている。砂漠は北京へ進撃を続けているが、1年間に3.4キロメートルずつ進撃している。つまり、天安門まで70キロだから、このままいくと、恐らく30年から40年で北京は砂漠化するであろうと考える。
このように、北京は抱える矛盾が多すぎ、どこか一つでも穴が開けば、全体が決壊することは目に見えている。このような脆弱な北京を三国同盟から離脱させることができれば、イランも強気ではいられない。必ず、折れるだろう。そして、北京を折れさせる鍵は原油供給と通貨政策の二つで圧力をかけることだ。具体的には、ホルムズ海峡封鎖と人民元切り上げ要求だ。
すなわち、イランとの戦争になれば、ホルムズ海峡封鎖は自明でり、その事をもって、北京を恫喝する。その上、為替操作国として、批判しつつ、外資撤退に拍車をかける。これで北京は確実に折れるだろう。
逆に言えば、この圧力で北京が折れず、イランのバックアップを継続するなら、イラン攻撃は現実化するだろう。
今後は、豊臣秀吉並の城攻め戦略で、モスクワ城、北京城、テヘラン城を孤立させ、各個に落としていく、そのような戦略と調略が必要になる。秀吉はこの城攻めに無類の才能を示し、戦争を一種の経済政策や土木工事にし、死傷者がなるべくでない形で、日本の統一を行った。以下に秀吉の城攻めの代表としての三木城攻めを見てみる。北京に対する兵糧攻めを実行する上で、参考なるであろう。
<参考> 日本の食料自給率と豊臣秀吉の鳥取城攻め
城は大将やその家臣たちが生活する場所であり、一国の行政機関の中枢という役割も兼ねる。そのような性質を持つ城は当然、戦略上、防衛拠点という側面も持っている。城を守る城兵は必死に抵抗するし、攻撃側も城を包囲するには大軍を要する。したがって優れた武将は城攻めをできるだけ回避した。しかし、そのような性質を持つ城であるからこそ、それを「落とす」ということの意味は大きい。城を攻略せぬ限り完全勝利とは言いがたいのである。
ここではそういった城攻めの方法を紹介する。

城攻めで重要なポイントは

①城を孤立させること
②情報を遮断すること
③食料・弾薬の底を尽かせること

である。
そのための攻め方には大きく分けて4種類ある。城の形や構造、兵士の数やその強さ、援軍の有無などによって、どの戦法がよいか判断し、ときには数種を組み合わせて攻撃することもあった。

強襲 いわゆる、力攻めのことで、味方の犠牲を覚悟のうえで強行に城に突入する戦法。攻め入る方の兵力が少ない場合に使われた。
奇襲 城を守っている敵の油断を狙って攻撃する戦法。城の弱点を利用して忍び入り、援軍と偽って城を空けさせ、落城においこむ。
正攻法 その名のとおり正々堂々と攻撃する方法。宣戦布告状を敵に送りつけ、兵士や武器を十分に整えて出陣する。
長囲 水攻めや兵糧攻めなどの包囲戦で、持久を要する攻撃戦のことを指す。

おおまかな戦法は上の4種類であるが、もっと具体的な戦法を次に紹介する。

力攻め 「強襲」「奇襲」「正攻法」などの攻め方を全般的に指してこう呼ぶ。力を使って攻める、ということ。城攻めの基本的なパターンとして、ほとんどの場合にとり入れられた。
兵糧攻め 敵の城を完全に包囲し、食料・武器・弾薬の補給を断つ作戦。攻撃の前にあらかじめ、その領地の米・食料を高い値で買い取ってしまうのも、方法の一つ。敵の抗戦意志は弱まり、占領しやすくなる。
水攻め 長い堤防を作り、近くの河川をせきとめて、城の周囲に水を引き入れる。すると城の周りは水浸しになり、ひどいときは、湖の中に城が浮いているような状態になったという。秀吉の得意戦法の一つ。
干殺し 城内の飲料水を枯渇させるという戦法。忍者などを使って、城に通じる水源を破壊した。水はいわば城にとっての生命線。断水状態に陥った城内は、戦うどころではない。
火攻め 火を使って攻撃する方法。敵城に向かって火のついた矢を放ち、焼き討ちにするという戦法。城内に忍びを放ち、放火させるという方法もあった。
もぐら攻め 穴攻めとも呼ばれ、トンネルを掘り進んで攻める戦法のこと。鉱山の金掘り人を労役に使って、城内につながるトンネルを掘り、攻撃の突破口を開いたり、城の下に爆弾をしかけて一気に爆破させたりした。
<調略 使うのは人間の頭のみ。内部工作によって落城させるという、政治的な手段を用いた戦法。秀吉の小田原攻めや大坂冬の陣で使われた。

<参考>
------------引用--------------
http://www.tokyo-np.co.jp/00/kok/20070218/mng_____kok_____000.shtml

米の東欧MD基地建設計画
ロシア不信感
 【モスクワ=稲熊均】米国が東欧に弾道ミサイル防衛(MD)基地建設を計画していることに対するロシアの反発が激化している。プーチン大統領は「新たな(ベルリンの)壁をつくる行為」と非難。軍の高官からは、冷戦終結のさきがけとなった中距離核戦力(INF)全廃条約からの一方的離脱を求める声も上がっており、米ロ対立がさらに深刻化しそうだ。
 米国のMD基地計画はポーランドとチェコに迎撃ミサイルや追跡レーダーを配備するもので、米国はイランなどからのミサイル攻撃に対する防衛と説明している。
 しかし、ロシアは自国のミサイルが対象で、米ロ間の戦略バランスも崩れると批判。プーチン大統領は十日、ドイツ・ミュンヘンで開かれた安全保障国際会議で「ベルリンの壁は既に崩壊したのに、(米国は)再び壁をつくろうとしている」と演説、米ロ協調による国際的な安保秩序を危機に陥れると警告した。
 こうした発言を受ける形で、ロシア軍のバルエフスキー参謀総長は十五日、旧ソ連と米国が一九八七年に調印したINF条約は「意味を失った」と指摘。同参謀長によると、既にイランや北朝鮮などが中距離ミサイルを保有しており、米国より至近距離にあるロシアは対抗上、「(INF条約から)脱退する十分な根拠がある」という。
 翌十六日には上院のオゼロフ防衛・安全保障委員長が、二〇〇一年末に米国が米ロ間の弾道弾迎撃ミサイル(ABM)制限条約から一方的に離脱した例を挙げ、「ロシア側も米国との条約から一方的に離脱することはできる」とINF条約離脱を支持した。
 ロシアは現在、新大陸間弾道ミサイル「トーポリM」の開発を進め、今年一月には対空ミサイルシステム「TORM1」をイランに供与したことを明らかにしている。米国のMD計画への反発をテコに、軍強硬派がINF条約離脱にとどまらず、反米諸国を巻き込んだ新たなミサイル戦略を仕掛ける可能性もある。

------------引用--------------
                    以上

2007年2月19日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL141

今回は、前回に引き続き、アメリカの中東戦略を検討したい。六カ国協議が決着した事で、二正面作戦の恐れが無くなったアメリカは、完全にイランとの戦争モードに入ったようだ。

戦争前のお家芸であり、お約束イベントの「在米資産凍結」と「情報操作」を始めたのだ。戦前のアメリカが1941年8月1日、日本陸軍の南部仏印侵攻に対して、石油全面禁輸、在米邦人の資産凍結を実施した事などが参考になるだろう。

<参考> ------------引用-------------- http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070217-00000019-jij-int イラン3企業の資産凍結=核開発関与で-米財務省 2月17日7時0分配信 時事通信 ワシントン16日時事】米財務省は16日、イランの核開発に関与しているとして、新たに同国の3企業に対し、米国内資産の凍結や在米企業・個人との取引を停止する制裁措置を発動した。  ------------引用--------------
イラン、核施設を拡張か
------------引用-------------- http://www.usfl.com/Daily/News/07/02/0216_008.asp?id=52507

イラク駐留米軍当局者らが匿名を条件に、イランが指導部公認で高性能爆弾をイラクに密輸しているなどと主張、「証拠」のロケット砲弾などを公開したことについて、米側による意図的な情報操作ではないかとの批判が再燃している。

 イラク戦争では、開戦の大義名分となった同国の大量破壊兵器開発疑惑をめぐり、ブッシュ政権による情報操作疑惑がくすぶる。ブッシュ大統領は14日の記者会見で、イラン指導部の密輸関与の有無を「知らない」として「勇み足」を認め、火消しに乗り出したが、騒動は尾を引きそうだ。
 駐留米軍側は11日、バグダッドの一部外国人記者を集め、高性能爆弾の密輸にイラン政府の「最も高いレベル」がかかわっていると説明。ワシントン・ポストによると、同席した爆発物の専門家らは肩書や身元を明らかにせず、録音や「証拠」の撮影も認めない物々しさだったという。

 イラン側は早速、関与を否定。13日付のニューヨーク・タイムズは社説で「イランと匿名の会見者」との見出しを掲げ、イラン指導部がかかわった証拠は示されなかったとし、「この政権が過去の失敗から何も学んでいないことは驚きだ」と疑問を投げかけた。

 ペース統合参謀本部議長は13日、訪問先のジャカルタで「イラン政府の直接関与を必ずしも意味しない」と説明。見解の「食い違い」をめぐり、イランへの揺さぶりを狙った戦術ではないかとの憶測が飛び交うなど混乱が深まっており、同国への対決姿勢を強める米政権に手痛い失点となったことは間違いない。(共同)
------------引用--------------

舗装の佐藤渡辺
アレクサンダー大王最大版図 [アレキサンダー大王の版図]

ここで、アメリカがイランの攻撃に踏み切る理由を考えてみたい。端的に言って、イラン攻撃の目的は、核施設の破壊のみならずイラク領内の武装勢力への補給ルート遮断にある。より根本的には、冒頭の地図に見られるように、紀元前のアレクサンダー大王の東征が、当初の目的であるペルシャ征討達成後、インダス川に至るまで止まらなかったように、この地域の安定支配には、インダイス川から地中海にいたる地域を全て支配する必要があるということだ。すなわち、地勢上の勢力限界として、インダスから地中海にいたる文明圏の全てを統一支配しないと、局地的支配は達成できない。しかし、この地域を長期にわたり統一支配した例は歴史上皆無だ。アレキサンダーが築いた大帝国も、彼の死後、後継者争いにより、あっという間に消滅した。

ここで、「一つのランドパワーがハートランドを長期支配することは不可能」という地政学上の命題を思い出す必要がある。マッキンダーは「東欧を制するものはハートランドを制し、ハートランドを制するものは世界島を制し、世界島を制するものは世界を制す」・・・ハルフォード・マッキンダー(英、1861-1947)(注:ハートランド=ユーラシア大陸中央部、世界島=ユーラシア大陸)と述べた。
洋の東西を問わず、ランドパワーはハートランド(大陸の中央部)を目指す本能をもつ。これは、西洋ではアレクサンダーやナポレオン、ヒトラーが例である。第一次世界大戦における、ドイツの3B政策もこれに含まれる。
東洋では中原といわれた華北平原の争奪を漢民族と北方騎馬民族が歴史的に行ってきたことが例である。三国志を読めば、いかにこの中原の支配が重要かわかる。
日本においてハートランドといえば、関が原であろう。壬申の乱、関が原の戦いがともに、ここを巡って争われたことは偶然ではない。関が原が日本のハートランドだからだ。
なぜ、彼らはハートランド支配に拘るのか?それは、海軍戦略を考慮に入れずランドパワーの理論のみで考えるならば、ハートランドの支配が死活的に重要だからだ。
ハートランドは陸上交通の要衝であり、この地域を敵対勢力に握られると周辺のランドパワーはその圧力にさらされ、生存が困難になる。ハートランドと地続きの地域に棲んでみないと、これは、理解できない。
しかし、ここに落とし穴がある。それは、一旦ハートランドを支配してしまうと今度は周辺地域が全て敵対勢力になり多正面作戦になるということだ。このため、ハートランドの長期間の支配に成功した例はない。ハートランドのSustainability(維持可能性)が限りなく低いことは歴史上数え切れない例で実証されている。
 歴史的に見て、中国や中近東で政権、王朝の交代が激しい最大の理由はこれである。このような観点から、EU東方拡大、アメリカの中東戦争はともにハートランド支配権をかけて衝突することが確実であり、ともに失敗すると考える。ユーラシア大陸の歴史は、このハートランドを巡る闘争の歴史でもある。
 要約しよう。「ハートランドを敵対勢力に握られたら生存できないランドパワーはハートランドの支配を目指す。しかし、一旦支配してしまうと、敵に囲まれ、崩壊する。」ということだ。すなわち、ハートランドを支配できても、できなくても、ランドパワーに生存は困難であり、安全保障コストが高くつく。経済発展ができない理由もそこにある。
アフガニスタンやイラクに介入したアメリカは、このランドパワーの法則に完全に嵌っている。戦前の日本陸軍が大陸で嵌ったのと同じように。これは、伝統的な水際でしか戦わないという米軍の"From the Sea" ドクトリンをネオコンが捻じ曲げ、イスラエルとドル価値防衛のため、イラク攻撃を実施した事の結果だ。満州国建国がノモンハンやシナ事変に繋がったように。

補給ルート遮断戦略の前例として、ベトナム戦争における、「ホーチミン・ルート」遮断のための、カンボジアやラオスへのアメリカの介入を以下に見てみる。
<参考>
------------引用--------------
http://www.combat.ch/modules/org_library_tinyd4/content/index.php?id=17
現代の戦争において、勝敗を決する要素の一つは軍需物資の量である。ベトナム戦争の場合、アメリカ・南政府軍 ― 近代兵器と物量は南ヴェトナム解放戦線(NLF)・北正規軍 ― ゲリラ戦、戦闘意欲を主要な武器としていたとする分析が一般的である。
これは戦争の初期には間違いとは言えなかったであろうが、1966年頃からこの図式は形を変えている。
アメリカ・南軍の兵器と物量は常に豊富であったが、対する共産側も新しく威力のある武器を大量に装備するようになっていた。インドシナ戦争、朝鮮戦争においても、共産側の勝利は優れた戦術と新しく威力のある兵器、そして充分とはいえないが多数の武器によって得られているのである。とくに砲兵部隊は、常にアメリカ・南軍より優れた兵器を持ち、砲弾量も決して劣るものではなかった。
例えば120㎜ロケット砲のような兵器は当時の西側には存在しない。また西側の標準的な野砲であるM2A1は口径105㎜であったが、東側のそれはM46で口径130㎜もあり、威力はずっと大きかった。一方、対空砲、SAMなどの量は、北ベトナム一国で自由主義陣営のすべてに匹敵する量を有していた事実を見逃してはならない。
ベトナム戦争の期間中、中国は50億ドル、ソ連は90億ドル分の軍事・経済援助を北ベトナム・南ヴェトナム解放戦線(NLF)に渡したとされている。また、北ベトナムと中国は国境を接していたので、物資の引渡しはスムースに行なわれた。
問題となるのは、北ベトナムから南ベトナム領内の反政府勢力への輸送方法である。このための輸送路がホー・チ・ミン・ルートである。あらゆる軍事物資はハノイからトラック、鉄道で運ばれる。そしてそこからDMZ(非武装地帯)を避けてラオス領内に入り、南ベトナムとの国境沿いに南下する。このルートは南ベトナム中部高原地帯の西側でラオス-カンボジア国境を横切り、プノンペン、サイゴンの中間地点まで続く。
DMZを基点と考えると、直線距離として1,400㎞、総延長では4,000㎞を越える長い補給線である。もちろん、ルートは1本ではなく主要なものだけでも5本、そしてそれぞれに無数の枝道が百足のように繋がっている。このホー・チ・ミン・ルートこそ、南ヴェトナム解放戦線(NLF)にとっての生命線であった。
ベトナム戦争に介入したアメリカ軍は、この補給路の重要性を熟知していたので、あらゆる手段を用いてルートの切断を図った。空からは多数の航空機を使って爆撃し、陸上からは地上部隊を進攻させてルートを遮断し、海上からは北ベトナムの海岸沿いの交通路を艦砲射撃した。
それにもかかわらず、北からの物資の流れの総てを断ち切ることはできなかった。この理由には大きな二つの原因が考えられる。
まずルートが山岳地帯(アンナン山脈)の中を通っていたこと。これは空中からの発見を困難にし、また密集した樹木は爆撃の効果を大幅に減少させる。また輸送中の物資を敵の眼から隠して、集積しておく場所に困らない。このホー・チ・ミン・ルートが大平原の中を通っていたら、ルートは維持できなかったことは疑う余地がない。
次にラオス、カンボジアという国家の存在である。この2カ国が、完全な独立国として存在していれば、これまたホー・チ・ミン・ルートは存在できなかったはずである。
ともかく自国の領土内を、他国の軍隊が勝手に通過し、それだけではなく補給路、基地を国内に建設したことに対し、何の対抗手段もとることができなかったのである。
両国とも政情は常に不安定であり、また軍事力からいっても北ベトナムとは比較にならないほど弱体であったので、南ヴェトナム解放戦線(NLF)、北ベトナムの自国内での勝手な行動に対し、口頭・文書で抗議の意思を示すだけであった。
さてホー・チ・ミン・ルートに対するアメリカ・南政府軍の攻撃は空軍が主となって行われた。最盛期に北ベトナムは1万台のトラック、2万台の自転車をこのルートに投入した。自転車は特に頑丈に製造されており、特性の木枠によって一度に200kgの荷物を積むことができた。したがってこの数値が正しいとすれば、1日当り5,000~1万tの軍需品が南ベトナム領内に運び込まれたことになる。また20万名以上の人々が、ルートの新設、補修に従事したと北ベトナムは公表している。
一方、アメリカ軍は持てる航空戦力の25%をこの補給路の破壊に使用した。B-52爆撃機から攻撃ヘリコプター、それに加えて輸送機を改造した地上攻撃機(ガンシップ)まで投入している。
とくに1970年の秋から春にかけては、前述のガンシップAC-130、AC-47を投入して"コマンドー・ハント"作戦を実施して合計25,000台の北のトラックを破壊している。最大の戦果としては同年5月の最後の一週間だけで3,150台の車輌(1日当り450台)を破壊した。
これに対し共産側はすぐに多くの代替車輌を投入するとともに、大量の対空火器を持ち込んだ。1971年秋にはその数は1,600門にまで増加し、アメリカ軍機の低空攻撃を著しく困難にさせたのである。
戦争の全期間中、アメリカ空軍はホー・チ・ミン・ルート上で15万台を越えるトラックを破壊したが、それでも輸送量の約半分を破壊、阻止したにすぎないと発表している。
このように、大きな損害を出しながらも、北ベトナムの指導者の名をとったこのルートは、ベトナム戦争に決定的な役割を果たした。





そのうえ、共産側は別な補給線を持っていた。これはハイフォン港から海路南下し、南ベトナム南部のメコン・デルタ地帯に物資を搬入するもである。
しかし、これはすぐに南政府の察知されるところとなり、北側はより南方のシャム湾を陸揚げ地とした。この地はカンボジア領であるから、南ベトナムやアメリカ軍としては、正式にはこの陸揚げ作業は阻止できない。カンボジア南部からの物資は同国の領内を北上し、サイゴン西方で南ベトナムに運び込まれた。このルートを西側ではカンボジアの旧元首の名から、"シアヌーク・ルート"と呼んだ。このルートは、ハイフォンからカンボジア南部の港まで海上路は2,500㎞以上あるが、いったん陸揚げされてしまえば、サイゴン西方地域までは約300㎞で、ホー・チ・ミン・ルートの1/5の距離しかない。
したがって、戦場までの輸送時間は量ルートともほぼ同じか、シアヌーク・ルートの方が短かった。




アメリカ軍はこのルートの輸送力を軽視していたようだが、戦後西側へ亡命してきたNLF高官の証言によると、1969年以降の輸送量はシアヌーク・ルート40%、ホー・チ・ミン・ルート60%となっており、前者はほとんど妨害されなかったとのことである。
このような事実が明らかになると、アメリカ軍が1970年5月に実施したカンボジア進攻作戦は、―アメリカ・南側から見れば―当然の結果といえる。いかなる時代の戦争であっても、敵の補給路を破壊することこそ勝利への第一歩であるからである。
1970年4月26日、35,000名のアメリカ軍と25,000名び南ベトナム軍は、四方向からカンボジアに進攻した。目的は前述のごとく北・NLFの拠点攻撃および北からのホー・チ・ミン・ルート、南からのシアヌーク・ルートの切断である。
この進攻作戦は、宣戦布告無しにアメリカ軍が他国へ侵入するため、できるだけ短期間に切り上げる必要があった。徹底的な攻撃には2ヶ月を要する見通しであったが、アメリカ国内の世論を刺激してはならなかったのである。
 当時、これらの地域には合計4万名のNLF・北軍兵士が存在すると予想されていた。攻撃は例のごとくB-52や戦闘爆撃機によって火蓋が切られた。爆撃は数時間続き、そのあと武装ヘリの大軍が輸送ヘリを護衛しながら国境を越えた。4月26日の1日だけで、延べ6,000回以上のヘリ輸送が行なわれた。
また南政府軍の舟艇隊とMRFは400隻の軍用艇を投入してメコン川を遡行して共産側の拠点を襲った。
この付近のNLFは歴戦の4個師団(合計2万名)であったが、南・アメリカ軍の作戦行動が迅速であったために、有効な反撃は不可能であった。特に、大量に投入されたアメリカ軍のヘリコプターに対する火器が不足しており、これが共産側を著しく不利に追い込んだ。
作戦発動後わずか1週間にして共産側は大きな損害を受け、その後できるだけ戦闘を回避することになった。




5月にはいると、一部の南・アメリカ軍は目的の敵拠点を完全に破壊し、撤退を開始した。しかし、大部分の部隊は6月上旬までカンボジア領内に留まり、作戦を続行した。
 この進攻作戦の結果、カンボジア領内にあった共産側の補給ルートのかなりの部分が破壊、切断された。そして、アメリカ・南ベトナム軍は2万点近い各種兵器、6,000tを超す食料、その他11,000tの軍需品を押収した。
またNLF、北ベトナム軍の戦死者は10,721名、捕虜は1,216名にのぼった。これに対してアメリカ軍の損害は戦死243名、負傷者931名、南政府軍は戦死575名、負傷者2,367名となっている。
この戦闘で注目すべき点は、共産側の捕虜数が多かったことである。ベトナム戦争を通じて共産側はほとんど捕虜を出さずに戦い続けが、このカンボジアの戦いについては、アメリカ・南軍の進攻スピードが速かったため、1,000名を超す捕虜を出している。
 この作戦は、南・アメリカ軍共同のものとしては、成功裡に終わった最後のものとなった。拠点を喪失し、補給ルートが遮断されたため、1970年春から夏にかけて共産側の攻勢はほとんどなかった。しかし夏・秋頃には両輸送ルートは再び修復・整備され前にも増して高い輸送能力を発揮するようになる。
 同時にNLF・北ベトナム軍はこれらの失敗から多くの教訓を学んでいたのである。それは、ルートの複数化、拠点の分散、カンボジア、ラオス領内の陣地の強化などである。とくに、大量に飛来するアメリカ軍のヘリコプターに対抗するための対空火器の増強であった。
これらの処置は、翌1971年1月末に開始されたラオス進攻作戦"ラムソン719"の時に生かされることになった。
カンボジア進攻作戦は南・アメリカ軍にとって大きな勝利であったが、一方では翌年のラオス進攻の失敗と深く結びついているのである。
この作戦は「ラムソン719」と名付けられ、南・アメリカ軍共同の戦闘としては実質的に最後のものとなった。また作戦の規模としてもベトナム戦史上最も大きなものであった。
カンボジア進攻作戦についてはアメリカ国内から猛烈な反対の声があがったが、南・アメリカ軍による戦果は大きく、作戦の評価は成功と認められた。しかし、それ以上のスケールで実施された「ラムソン719」は―作戦終了後の大戦果の発表にもかかわらず―失敗であった。
カンボジアにおいてかなりの損害を出したNLFとベトナム軍は、次に敵がラオスに侵攻してくることを予想し、充分な反撃を準備していたのである。それでは、実質的に南政府軍、アメリカ軍にとって最後の大攻撃となったこの軍事行動をもう少し詳細に見てみよう。
「ラムソン719」は70年初めから計画され、同年秋から準備がすすめられていた。
当時この地区には、共産側4~5万名の兵士が存在すると推定されていた。一方、投入される南、アメリカ軍は2~3万名で、地上戦闘は"ベトナム化"されつつある南政府軍が受け持ち、輸送および航空攻撃をアメリカ軍が担当するということになっていた。
2月8日から、政府軍はDMZ沿いにラオスに侵入した。そして2日後、たいした抵抗もなしに共産側最大の拠点チュボン市を占領した。作戦はその後も順調に進行し、チュボン市の西方30㎞あたりまでラオス領内深く進んだ。
しかし、作戦開始後1週間目の2月15日頃から急に北ベトナム正規軍による抵抗が激化し始めた。折りしも天候が悪化し、アメリカ空軍機の活動が低下したこともあり、反撃は一層効果をあげた。北正規軍は数十台の戦車を使用し、その多くはアメリカ軍機に撃墜されたものの、南の兵士に大きな動揺を与えた。
この戦域において本格的な道路は国道9号線以外にはなく、したがって地上戦闘部隊への補給はもっぱらアメリカ軍のヘリコプターに頼ることになっていた。しかし、それを見越した北正規軍は3,000機に達する対空火器を搬入していた。アメリカ軍と南ベトナム軍は、合計700機という大量のヘリコプターを用意して作戦を開始したものの、1ヵ月以内に100機以上を失なった。
こうなると進攻した地上部隊への補給は途絶えがちになり、このため2月末には作戦成功の望みは薄らいだ。 
3月10日頃から、北ベトナム軍はそれまで以上の反撃に移り、南政府軍は圧倒された。そして一部の部隊が崩れ出すと、それは全軍の退却につながった。そして3月中旬には北軍が約1万名の新戦力を投入したため、南軍は撤退を決め、ヘリによる脱出を開始した。この状況においては共産側の攻撃は極めて激しく、いくつかの地域では部隊輸送用のヘリコプターが着陸できず、数百名の南兵士が置き去りにされるという事態も発生している。
結局3月末までにラオス進攻作戦は失敗に終わった。南、アメリカ軍は敵の戦死者13,700名、味方の戦死者1,540名であり、「ラムソン719」作戦は成功であると発表したが、客観的に見て共産側の勝利というべきであろう。
このようにしてラオス領内の共産勢力を壊滅させるという目的は完全に失敗し、同時にベトナムにおけるアメリカ軍の大規模な戦闘は幕を降ろすことになるのである。
さて、南ベトナム軍、アメリカ軍のラオス進攻作戦はそれが報じられると、アメリカの反戦デモは再び燃え上がった。また作戦が続いてる3月初め、ソンミ村虐殺事件のカリー中尉に禁固2年の有罪判決がだされたこともアメリカ人の反戦ムードに油を注いだ。4月24日に行なわれた反戦デモの参加者は実に百万人を越えたのである。




6月には別の報道が、またまた反戦を訴える人々を元気付けた。ニューヨーク・タイムズ新聞が"ペンタゴン・ペーパー"と呼ばれる国防総省の秘密文書の内容を連載しはじめたのである。
 これは、国防総省が議会の承認なしに南ベトナムへのテコ入れを決定していたことを証拠だてるものであった。アメリカ国民の自国政府、軍首脳に対する不信感はますます増大した。
8月に公表された経済白書によると、アメリカ国内のインフレーションが戦争経済のために広がりつつあり、公務員、完了の給料凍結が実施されるであろうと記されていた。アメリカ人の多くは、これらの事実と状況により―南ベトナムの将来よりも―自分の生活に不安を抱きはじめていた。
8月18日、オーストラリアとニュージーランドがベトナムから軍隊を引き揚げる旨の声明を発表9月に5万名という大兵力を送っている韓国もこれに倣うことを発表した。
1971年秋、南ベトナムでは10月に総選挙があり、グエン・バク・チューが大統領が再選されたがこのとき軍部を代表するグエン・カオ・キ将軍との軋轢が再燃し、陸軍、警察軍、空軍の将兵が小競り合いを繰り返した。
自由世界から見放される瀬戸際にあっても、南の首脳は相変わらず権力争いを忘れる事はなかった。
12月にはいるとラオスの北ベトナム軍は再び攻勢に出て南ベトナム北部を脅かした。このときの攻撃においては、コウサン側はゲリラ戦術から脱皮し、戦車、重火器による正規戦を採用していた。
しかしこのような戦いになれば、まだ数多く駐留していたアメリカ軍と南政府軍の空軍力はそれなりの効果を発揮し、戦果をあげる。北軍の攻勢は2週間ほどで多くの損害を出し、翌年春まで停滞気味となった。
 この攻撃への報復として、12月26日アメリカはしばらく休止していた北爆を再開した。しかしアメリカ国内の反戦ムードを考慮して、爆撃地帯を北ベトナム南部(いわゆるパン・ハンドル、南部の細長い部分)に限っている。そして爆撃の規模も決して大きなものではなかった。
 1971年は、南ベトナムにとって崩壊への予兆におびえる年でもあった。大国アメリカも自国の内部から揺さぶられ、ベトナム化という名目に頼って兵力を徐々に削減させて行った。もはや南ベトナムは、否応なく独力で民族解放戦線と北ベトナム軍(そしてラオス、カンボジアの共産勢力)と戦わなければいけなくなったのである。
冷静に見ても、1971年は前年に続いて南ベトナムの存在そのものが、最早"時間の問題"となった年といえよう。
さて、歴史的には、1971年はこの戦争に関する情報が多く入手できた最後の年ともいえる。アメリカ軍の撤退とともに、それまで全世界に流し続けていたアメリカの報道機関のベトナムに対する関心が、休息に薄れて行くのである。
南政府は自国の窮状を世界に向けてアピールすることにあまり熱心ではなく、アメリカがそれを一手に引き受けていた。しかし、南ベトナムから自国の軍隊が順次撤収して行けば、当然のことながらアメリカ報道界の関心はそれに比例して減少して行くのである。
1972年の8月、最後のアメリカ軍地上部隊がベトナムを離れる事と並行して、アメリカ国民の関心は遠く離れたアジアの小国から、ウォーターゲート事件へと転化してしまう。そして日本の報道界も、国民の関心もアメリカに追従するのである。しかし、忘れ去られたベトナムでの戦争はその後3年間にわたって続くことになる。
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いかがであろうか、このように、ホーチミンルート遮断を狙った、カンボジア侵攻とそれに続くラオス侵攻を目指した71年の「ラムソン719」が実質的にベトナム戦争の天王山であり、決定的な意義を有したことが分かるであろう。
前号で述べたが、六カ国協議が日米の譲歩で終わった背景は、対イラン戦のため、「二正面作戦の回避」にある。
そのように考えると、六カ国協議直後からアメリカによるイランの在米資産凍結が発表された理由は、ひとつしかない。つまり、本年における対イラン開戦だ。今回のイラン攻撃も、「ラムソン719」と同じような補給ルート遮断という意味を戦略的に有している。
私は、戦略的観点から、アメリカが取りうる選択肢は、VOL132で述べたような、サウジに兵力を集中し、スンニ派イラクをサウジに支援させるというやり方しか、ありえないだろうと考えている。そのためには、シーア派イランの脅威が大きければ大きいほどよい。
 穏健派の親米湾岸諸国の立場で考えると、イラクの東西分割により、シーア派の勢力がチグリス・ユーフラテスまで伸張してくることは好ましくはないが、現時点でそれを防ぐ手立ては存在せず、むしろ、メソポタミア地域の支配権をイランに譲ることで、イランの妥協を引き出し、停戦への合意をとりつけるしかない。イランにとっても、長年の宿願であった、メソポタミア地域の支配権が確立できるのだから、悪い話ではない。
 このように考えると、イラクを東西に分割し、チグリス・ユーフラテスを自然の国境にすると、冷戦期の欧州と同じような均衡と安定が中東にもたらされることになる。その過程で、アメリカの湾岸諸国への軍事駐留が正当化され、政権の傀儡化が進むのではないかと考えている。これは、おそらく、米陸軍の総意でもあるだろう。なぜなら、米陸軍は、既に兵力不足に陥っており、徴兵を実施していたベトナムでのような「ラムソン719」を中東で実施する事は、物理的に不可能だからだ。しかし、米国政府は、そのような現実的なリアリズム戦略をとらず、対イラン戦争開始を決定したようだ。以前から指摘しているように、対イラン戦争は核戦争になることが必至だ。イスラエルを巻き込んで、私が恐れていたアルマゲドンが現実化するだろう。




問題は、開戦の口実だ。アメリカは真珠湾攻撃やトンキン湾事件(1964(昭和39)年1月 アメリカ中央情報局(CIA)は秘密作戦計画34Aにより北ベトナム軍の基地、補給路への攻撃、レーダー網の攪乱を開始8月2日 アメリカ海軍はトンキン湾公海上に駆逐艦「マドックス」(USS Maddox DD-731,艦長ハーバート・L・オジェ中佐)を展開。北ベトナム軍魚雷艇3隻が「マドックス」に魚雷攻撃を加える
 8月4日 「マドックス」への再度の魚雷攻撃が報告されアメリカ軍はこれを口実に北ベトナムを攻撃。空母「タイコンデロガ」(USS Ticonderoga CV-14)艦載機が北ベトナム沿岸の魚雷艇基地を空襲した。8月7日 連邦議会は事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」を採択し、報復攻撃にゴー・サインを出したリンドン・ジョンソン大統領の演説を承認。現在では8月4日の北ベトナム軍の攻撃はなかったとする説が有力
(ロバート・マクナマラ国防長官(当時)が1995(平成7)年に「北ベトナム軍による二度目の攻撃はなかった」と著書で暴露))のような、「イランによる先制攻撃」を捏造するだろう。
問題は、このような対イラン戦が、どのような影響を与えるかだ。イラクで消耗した米陸軍にイラン展開の能力は無い。それを埋めるために、日本や英国やEUの参戦が求められるだろう。
当然、英国を含むEUや日本が、イラン戦争に協力するとは思えない。逆に、日本は、英国やEUと協力し、対イラン開戦を阻止するための連携が必要だ。そして、その連携に米軍を組み込むのだ。
日本、英国、EU、米軍の総意でもって、米国政府に圧力をかける。
アメリカとイランの両国が徹底的に対立し、キューバ危機のように開戦直前までいって、講和が妥結する可能性もないではないが、現状では望み薄だ。
日本がとるべきは、イラク戦争時のような「盲目的な開戦支持」であってはならない。久間防衛大臣のイラク戦争批判もこのような文脈で考えるべきだ。既にレイムダックと化したハリバートンの代理人チェィニーと会談する必要は、「全く無い」のだから。
むしろ、今後のアメリカは、軍VS国際金融資本の死闘の中で、何らかの形でイラク撤退を模索する軍が優勢になっていくのではないかと予測する。世論も反戦に傾いている。この事を示すように、米下院本会議は2月16日午後(日本時間17日早朝)、ブッシュ政権が進めるイラクへの米軍増派に反対する超党派の決議案を246対182の賛成多数で可決した。与党共和党からも10人以上が賛成票を投じた。ブッシュ大統領のイラク政策は議会から"不信任"を突きつけられた格好で、政権にとって大きな打撃となった。
今後の展開を予測する上で、最も重要な点は、前号で検討した「州兵を含む米軍が国際金融資本に操られた連邦政府に対し、いつ、どのような形で反撃にでるか」だ。私の分析はこの一点のみを注視することにある。参考として、戦前の日本は政党政治の腐敗堕落から軍部独裁が生まれたということを思い出す必要がある。
対イラン戦争の有無は、米軍VS国際金融資本の死闘の結果により左右される。事態は、全く、予断を許さない。
<参考>
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http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070124AT3S2400M24012007.html
久間防衛相「米のイラク開戦判断は間違い」
 久間章生防衛相は24日、東京・内幸町の日本記者クラブで記者会見し、イラク戦争について「(米国はイラクに)大量破壊兵器がさもあるかのように戦争に踏み切ったが、判断が間違っていたのではないか」と述べ、ブッシュ米政権の開戦当時の判断を批判した。戦後処理を巡っても「どう処理するか処方せんがないまま戦争に入った」と指摘した。

 イラク開戦の批判は久間氏の持論だが、大統領が一般教書演説で新しいイラク政策へ理解を求めた直後だけに、波紋を広げる可能性もある。

 安倍晋三首相は同日、記者団の質問に答え「防衛相の感想を述べたと思う。イラク戦争の評価や復興支援について、内閣は皆一致した考え方を持っている」と語り、閣内不一致には当たらないとの考えを示した。(19:26)
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日米関係の今後は、いかに、二国間同盟を、英国や豪といった英連邦を加えた「三国同盟」に改変するかにかかっている。三国同盟の利点は、突出した一カ国の暴走を残りの二カ国で阻止できる点だ。三すくみ状態にし、相互にけん制させる構図といってもいい。イラン戦争を阻止できる可能性があるとすれば、日英が共同で戦争反対に動くことだけだ。
日本史上、「三国同盟」によるパワーバランスの安定の重要性を熟知し、実現したのは、私が日本史で最も高く評価する軍師である、駿河今川家の外交軍事統括僧、太源崇孚雪斎だ。駿府臨済寺の住持であり、今川義元の教育係。 若年の頃から稀に見る秀才として有名だった。

 今川家のお家騒動「花倉の乱」では義元の庶兄・玄広恵探を破り、義元に家督を相続させる事に成功。

 今川氏の分国法である今川仮名目録追加21箇条の制定に協力。
武田・北条両氏との三国同盟の締結を成功させ、今川家の基盤をより磐石なものにした。 領内の宗教政策や商業政策でも功績あり。

 軍事面でも多大な功績があり、 第二次小豆坂の戦いでは総大将を務め、信長の父、織田信秀に完勝。 安祥城の戦いでは織田信広を捕縛し、織田家に奪われていた松平竹千代を今川家に取り戻した。
この戦いで織田家の勢力は減退し、今川家の勢力が尾張にまで及ぶようになった。

 また、竹千代の教育係も務めたとも言われる。 まさに文武両道の人物。

 彼が生存していたら、桶狭間の敗戦が無かったと言われることもあるが、それも頷けると思う。 家康も彼を見て、あれだけ大きな人物になったのだろう。


雪斎


太源崇孚雪斎が締結に成功した、甲相駿三国同盟とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。締結時に3者が会合したという伝説から善徳寺の会盟とも呼ばれている。
同盟締結による三者の利益は明らかで、武田氏では、信濃における覇権を確固たるものにするため、天文22年(1553年)から始まる川中島の戦いで上杉氏との争いが本格的になった。この合戦には今川氏からも援軍が派遣されている。
北条氏では、今川氏との友好関係を取り戻し、武田氏とは上杉氏という共通の敵を持つことで後背の憂いをなくし、上杉を名目上の主と仰ぐ、佐竹・宇都宮・長野・里見などに対して関東の平定を押し進めていった。




今川氏では、新たに影響を及ぼした三河の経営など、領内の支配体制を確立しつつ、戦略面においては争う相手を織田氏のみに絞ることが容易になった。この三国同盟の成立こそが、今川義元の尾張侵攻から、桶狭間に通じるのだ。なお、太源雪斎が没するのは1555年に没しており、その後、桶狭間が会ったのは1560年だ。太源雪斎が存命であれば、桶狭間も無く、今川家の没落も無かったであろう。
そして、重要な点として特筆すべきは、太源雪斎こそが、幼少時の人質時代の松平竹千代、後の徳川家康の家庭教師兼養育であり、竹千代の学問の基礎を築き、人格形成に大きな影響を与えたのだ。家康がこの駿府時代を青年時代のよき思い出として記憶していたであろうことは、晩年の大御所時代、駿府に拠点を定めていたことからもうかがえる。
なお、本年のNHK大河ドラマ「風林火山」では、太源雪斎は主要人物として登場し、伊武雅刀が演じている。
                    以上


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2007年2月12日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL140

アレキサンダー大王の戦い(1529年)~アルブレヒト・アルトドルファー
“アレキサンダー大王イッソスの戦い” B.C.333

  今回は、前回に引き続き、「二正面作戦」を放棄したアメリカの国家戦略について、検討してみたい。
 まず、「二正面作戦」とは、「世界の重要地域二箇所で大規模な戦争を同時に戦うこと」と定義できる。この二箇所とは長い間欧州とアジアであった。第二次大戦で、アメリカはアジアと欧州の二箇所で戦った。その後の冷戦におけるアメリカの国家戦略は、2と1/2戦略と呼ばれた。
  
アメリカの戦略に変化を生んだのは、ベトナム戦争だ。アジア太平洋地域にも関することだが、軍事的に何が起ったかというと、それはアメリカの2と1/2(二か二分の一)戦略が1と1/2戦略になったことだ。
これはどういうことかと言うと、アメリカが想定していた仮想敵国はソビエトだ。東ヨーロッパはソビエトが覇権をにぎりその勢力下にある。西ヨーロッパはアメリカの同盟国なので、このヨーロッパの正面で一つの大きな戦争が起る可能性が高かった。それから朝鮮戦争があったが、極東方面でもう一つの大きな戦争が起る可能性が高かった。これが2と1/2の2に相当し、その他中東で小規模な紛争が起り得るであろうというのが1/2で表現されているわけだ。つまり二つの大きな戦争と1/2の小規模な戦争に備えなければならないというのが2と1/2戦略だ。これがベトナム戦争でアメリカが疲弊した結果、1と1/2戦略になったということだ。
           
  現在では、アメリカは明言はしていないが、ベトナム戦争後の1と1/2戦略すらも放棄し、1戦略に移行している。すなわち、決戦正面である中東に全軍を集中させ、アジアや欧州での有事には関わらないということだ。つまり、北朝鮮との6カ国協議の推移を見てもわかるとおり、基本的には、極東有事に繋がるような動きは避け、北とは交渉で時間を稼ぎ、北京政府に問題解決を丸投げするというやり方だ。
 
<参考>
------------引用--------------
http://www.sankei.co.jp/seiji/seisaku/070210/ssk070210002.htm

北へ重油5万トン 「初期段階の見返り」中国が4カ国に打診
 【北京=大谷次郎、有元隆志】北朝鮮の核問題に関する6カ国協議で、北朝鮮が核関連施設の稼働停止など「初期段階措置」を受け入れる見返りの支援として、議長国の中国が日米中韓露5カ国が重油を5万トン程度北朝鮮に提供する案を各国に打診していることが10日、明らかになった。ただ、日米露は負担に消極的で、合意文書には負担を義務づける表現は削除され、各国の判断に委ねられる見通しだ。北朝鮮は50万トン以上の重油提供を求めており、反発は必至だ。
 参加各国は10日午前から北京市内の釣魚台迎賓館で、北朝鮮の非核化に向けた合意形成づくりの協議を継続。議長国の中国は同日、参加国間の前日までの協議を踏まえ、合意文書草案の修正案を示す見通し。修正案には義務化しない5万トン程度の負担も盛り込まれているもようだ。
 北朝鮮への見返り支援をめぐっては、日本側が「拉致問題を含む日朝関係の進展がない段階では、できることに限界がある」との方針に基づき重油提供の負担に難色を示しているほか、米国やロシアも消極的だった。
 米国首席代表のヒル国務次官補は10日午前、北京市内のホテルで記者団に「問題点はいろいろあるが、北朝鮮が何が重要と考えているのか分からない」とした上で、「今日はさまざまな2国間協議がある」と述べ、北朝鮮首席代表の金桂寛外務次官との再会談の可能性を示唆した。
 日本首席代表の佐々江賢一郎・外務省アジア大洋州局長は同日午前、記者団に「産みの苦しみの時期に入った。合意達成に至るまでに相当の努力を要する」と述べた。
 これまで、北朝鮮が寧辺の黒鉛減速炉(5000キロワット)などの核関連施設5カ所の稼働停止と閉鎖を2カ月をめどに実施し、その見返りとして同期間内にエネルギー、経済支援などを開始することを柱とした中国の草案をたたき台に調整が進められてきた。
 また、韓国の通信社・聯合ニュースは10日、北朝鮮が見返り支援で、200万キロワット相当のエネルギー支援を要求していると報じた。支援を初期段階措置の実施期限である60日以内に使用できるよう求めているという。
(2007/02/10 14:42)
------------引用--------------
 私は、以前より、北朝鮮は、北京政府による半島併呑策である東北工程が進めば、ロシアを引っ張り込んで北京に対抗することが明白であり、その意味で中ロ離間策を仕掛ける材料として、日米にとっても利用価値があると考えていた。簡単に言うと、金正日と胡錦涛が対立する構図を作ることが、日米の利益に繋がるのだ。そのため、北朝鮮は体制の存続をかろうじて維持できる程度に支援すべきと考えてきた。これを「中朝二虎競食計」と呼ぶ。

<参考>
------------引用--------------
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/edajima/vol111.html
中国もそれがわかっているから、容易なことでは間接支配にも乗り出さないだろうが。問題を複雑にしているのが、中国国内の朝鮮族の存在だ。中国朝鮮族の総数は約200万人である。これは在米韓国人数に匹敵し、南北朝鮮国外では最大級のコリアン・コミュニティーといえる。中国国内の分布は東北地区に集中し、なかでも吉林省に約120万人が居住し、吉林省南部の延辺朝鮮族自治州(首府延吉市)に約80万人が集中している。延吉市には中国語と朝鮮語で教育する延辺大学も設置されている。
このほか、黒竜江省に約45万人、遼寧省に約25万人、内モンゴル自治区に約2万人が分布し、北京、天津や上海などの大都市にも進出している。各地の朝鮮族集住地区には行政的に朝鮮族自治県(吉林省長白朝鮮族自治県)や多くの朝鮮族郷・鎮が設置されている(リンク参照)。これら東北三省の首府には朝鮮族の学校や放送局、新聞社、出版社などが設置されて、朝鮮語の普及を行っている。これら朝鮮族が中国が北朝鮮を支配した場合、反漢民族闘争を行う可能性もある。まさに、「朝鮮のチベット化」だ。
この策を名づけて、「中朝二虎競食」の計という。イギリスがかってナポレオンやヒトラーをそれぞれプロイセンやロシアを支援し、ぶつけることで潰した策略であり、対立するランドパワーを相互にけしかけることがシーパワー戦略の根幹だ。
中国に、「北朝鮮を支配できれば、東北地方に大規模投資する」「ODEの提供で北朝鮮を復興させる」といった餌で釣れば、のってくるだろう。そうすれば、こちらのものだ。
このように、ベースに老子をおいた上で、前号で紹介した、「中ロ離間」と「中朝二虎競食計」の同時適用、すなわち、「中ロ離間中朝二虎競食計」さらに、縷々述べてきた、国内の親中朝派を一網打尽とする「連環計」を合わせ適用する、トリプルコンボ「中ロ離間中朝二虎競食連環計」をもって、極東三国志を日米によって制覇する。この過程で、中国による、金正日一派の粛清がなれば、拉致問題の全面解決に繋がる。これが江田島孔明の「北朝鮮仕置き」だ。
------------引用--------------

東北地域の開発に執念を燃やす、内陸派閥の胡錦涛と上海閥の江沢民の対立から見ても、胡錦涛は金正日体制を潰そうとし、江沢民は逆に、金正日を胡錦涛に対する当て馬としようとする等、北朝鮮はシーパワーとランドパワーの鬩ぎ合いの最前線だ。

 このような観点から、日米は、北の体制保障を水面下で支援すると予測していた。もちろん、拉致や偽札といった問題の解決は必須だが。

 そして、アメリカが六カ国協議による北の「繋ぎとめ」を望む最大の理由が「中東問題」だ。

 つまり、アメリカが二正面作戦を放棄し、陸上戦力を全て中東に集中している状況で、陸戦の可能性がある北朝鮮攻撃は、到底不可能な話だ。北朝鮮にしても、日米の支援は死活的に重要なので、ここで両者は利害の一致があることになる。これが、六カ国協議の背景だ。

 さらに、重要な点として、アメリカによるイラン攻撃の可能性が高まっていることが挙げられる。

例えば、イラクへの2万人増派に反対したイラク占領米中央軍のアビザイド司令官を更迭し、海軍出身のファロン海軍大将を太平洋軍司令官からの異動という形で任命した。これは、ブッシュ政権は、対イラン戦争が発生すると想定し、その場合、矢面に立ち犠牲になる陸軍の反対を考慮し、アビザイドを更迭した上で、「駐留米軍撤収」「海空統連合作戦」「太平洋軍と中央軍の連携」を視野に入れているのではないかと推察される。

中央軍司令官はこれまで、陸軍大将の就任が慣例であったが、ここにきて海軍大将を当てたのは、それだけ、イラン攻撃に対する陸軍の反対が強いことと、海岸線の長い国(イラン)への上陸や海上封鎖のため空母機動部隊が必要という二つの理由によるのだろう。

アレキサンダー大王の戦い(1529年)~アルブレヒト・アルトドルファー

そして、ブッシュ政権はペルシャ湾にイラン攻撃のため空母2隻(ニミッツ級原子力空母ステニス・アイゼンハワー)を中心とする二個戦闘群の配備を実施した。この中には、イラクのゲリラ対策には不要な米原潜「ニューポート・ニューズ」が日本タンカー「最上川」16万tとホルムズ海峡で衝突した事件があった事で判明したように、原潜も含まれている。

ブッシュ大統領のイラン戦争言明演説の07.1.10(ブッシュ大統領は「イラクの近隣国であるイランとシリアは、イラクの反米ゲリラに資金や武器を供給したり、ゲリラを軍事訓練したりして、アメリカのイラク再建を邪魔している。イランとシリアの妨害工作を潰すため、戦線を拡大する」という戦略を明言した。)当日には、イラク北部クルド自治区のイラン領事館を重装備した米軍が襲撃、外交官ら6人を拘束した。これらは、イランへの露骨な戦争挑発行動だった。
<参考>
------------引用--------------
http://www.cnn.co.jp/usa/CNN200701150020.html
米高官「イラン攻撃の可能性、排除せず」
2007.01.15Web posted at: 17:47 JST CNN
ワシントン(CNN) ハドリー米大統領補佐官(国家安全保障担当)は14日、イランへの軍事攻撃を計画してないとする一方、可能性を排除しない方針を示し、イラン攻撃に反対を表明した米上院議員の圧力に抵抗した。
ハドリー補佐官はNBCテレビの番組「ミート・ザ・プレス」で、ブッシュ米大統領がイランとの問題を外交で解決する意向を明言したと述べた。ただ、ABCテレビの「ジス・ウィーク」でハドリー補佐官は、イラン攻撃の可能性を排除しないとコメント。攻撃には米議会の承認が必要だとする一部上院議員の主張に同意するか明言しなかった。
ブッシュ米大統領は10日に発表したイラク新政策で、イランとシリアへの強硬姿勢を表明した。米政権は、イランがイラク国内に戦闘員を送り込み、イラク駐留米軍を攻撃していると主張。イラン当局者らはねつ造だとしてこれを否定するとともに、イラク国内のイラン人を標的とした「違法行為」を支持するのが米国の狙いだと反論している。
ハドリー補佐官はABC番組で、イラク情勢が米政権にとって最優先事項であることを強調する一方、米軍に対する攻撃を阻止できると認識してイランに介入する権限が米国にあるかとの質問には回答を避けた。番組司会者から「イラン介入の権限があると考えていないのですね」と念を押されると、ハドリー補佐官は「そのようなことは言っていない。これは別の問題。越境には法律上の問題が常に伴う」と語った。
ブッシュ政権は、イランのイラク介入を阻止するため抜本的な対策が必要だとしている。チャック・ヘーゲル上院議員(共和党、ネブラスカ)は先週開かれた上院外交委員会の公聴会で、ベトナム戦争当時のニクソン政権がカンボジア攻撃を否定しながら、実際には武器流入阻止を名目に攻撃を実施していた経緯を挙げ、米政権がイランやシリアに介入しないと国民にうそをつく可能性を警告した。
こうしたなかイラク駐留米軍は、先週イラク北部で拘束したイラン領事館職員5人が、イラン革命防衛隊の要員だとの声明を発表。5人がイラク国内の過激派に資金や武器、爆発物製造技術を提供するとともに、過激派を訓練し、イラク政府や多国籍軍の攻撃を試みていると述べた。
国営イラン通信(IRNA)によると、イランのホセイニ外務省報道官は、米国の行動が国際規約や外交規則に違反していると非難し、5人の即時解放を求めた。
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http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe4500/news/20070111id23.htm
イラク駐留米軍がイラン領事館を捜索、兵5人を拘束
 【カイロ=柳沢亨之】イラク国営放送などによると、同国北部クルド人自治区の主要都市アルビルで11日早朝、駐留米軍がイラン領事館を家宅捜索、警備兵5人を拘束した。
 ブッシュ大統領のイラク新戦略発表に合わせ、隣国イランをけん制しようとした可能性もある。
 家宅捜索で米軍はコンピューターや文書も押収した。これに対しイラン政府は、外交施設保護の義務を有するイラク外務省あてに抗議文を提出した。
 イランは、イラク政府の中枢を握るイスラム教シーア派の後ろ盾で、シーア派民兵への支援の疑いも指摘されている。米国はイランの影響力拡大を事実上黙認していたが、昨年12月、複数の同国外交官を拘束するなど、圧力を徐々に強めている。イラク元情報将校は「米軍の対イラン攻勢は、イラクのシーア派民兵への攻撃の可能性をイランに警告したもの」と見ている。
(2007年1月11日22時2分 読売新聞)
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http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070207id28.htm
イラン、露供与の防空ミサイルシステムを演習で初使用
 【テヘラン=工藤武人】イラン革命防衛隊は7日、ロシアが供与した防空ミサイルシステム「TOR―M1」をミサイル演習で初めて使用した。
 イラン学生通信が同隊航空部隊のサラミ司令官の話として伝えた。
 演習は、同日から2日間の日程で、ペルシャ湾などを舞台に始まった。TOR―M1は、48の標的を同時に捕捉し短距離地対空ミサイルで撃墜する能力を備えており、イランの「防衛能力」の高さを誇示し、対イラン軍事攻撃の可能性を排除しない米国をけん制する狙いもあるとみられる。
 イランは2005年末、ロシアと10億ドル(約1200億円)で29基のTOR―M1の売買契約を締結。ロシア、イラン双方は1月にイラン側に引き渡されたことを認めていた。
(2007年2月7日23時5分 読売新聞)
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私は、イランの国土や人口が米軍が苦戦しているイラクの数倍に及ぶ点や、国内がシーア派で団結しており、イラクにおけるような、スンニとシーアの対立が無い状況等を考えると、戦略的にはイランへの攻撃、少なくとも陸上部隊の投入はないと考えていた。イラン攻撃が唯一あるとすれば、それは核攻撃しかないとも考えていた。

そして、その可能性がここ1-2ヶ月でかなり高くなっていることを感じている。はっきりいえば、アメリカは真珠湾の時と同じように、対イラン戦を正当化するための挑発行為に出ているのだ。

 なぜ、米国はイランを攻撃するのか?それは、表の理由は、核開発だが、真の理由は、「石油のドルによる決済システムの維持」なのだ。これは、イラク戦争と全く同じ構図だ。世界第4位の産油国であるイランは、外貨準備のドル保有比率の引き下げに伴い、原油の輸出代金受け取りに関して、ユーロ建てでの支払いを求めている。アメリカはこの動きがベネズエラやロシアといった、反米産油国に波及するのを防ぎたいのだ。

 問題は、イラクで3000人以上の死者を出した米陸軍が、果たして、イラン攻撃命令に従うのかどうかだ。むしろ、イラン攻撃は、イラク駐留米軍への攻撃に拍車をかけ、犠牲が増加する可能性が高い。
重要な点として、米陸軍は兵力が不足しており、現状においても、イラク駐留米陸軍の40%は州兵によって占められている。州兵は平時には通常の仕事に従事している。アメリカ国民にとっては隣人や友人・知人、家族だったする。軍現役を退き、サラリーマン、農民、郵便配達、運転手、弁護士、医者、土木技術者、企業経営者などの職業についているが、召集されると仕事を中断して兵役に就く義務がある。専門職も多いことから、地域経済や会社経営に支障をきたしかねないケースもあるという。
彼らを海外に派兵し、戦死させている状況は、アメリカにおける国家分裂、すなわち最も重要な対立である、「連邦と州の衝突」に繋がる危険性を秘めている。
州兵の歴史を見ると、アメリカ独立戦争においては、アメリカ各地の民兵が果たした役割は大きく、イギリス軍を撃退するのに功があった。独立後も、開拓地域における不安定な治安もあって武装した市民の存在は珍しくなかった。19世紀を通じて、政府方針や財政事情もあり、アメリカにおける常備軍の規模は小さいものであった。その間、米墨戦争や米西戦争があり、常備軍のみではなく民兵部隊も動員されている。南北戦争においては、アメリカ領内における戦闘という側面もあり、両陣営とも多くの民兵を動員している。
民兵の連邦組織への組み込みが開始されたのは、1903年のことである。米西戦争において、民兵はその錬度の低さが問題となっていた。1903年民兵法の公布により、各州で組織されていた民兵部隊に連邦予算の支給が大幅に増加され、装備・錬度などの軍事能力の向上が求められた。
1916年国家防衛法の施行により、民兵部隊は連邦軍の予備部隊としての性格がより明示され、民兵部隊は各州の管轄ではなく、連邦政府の管轄となった。また、有事においては、連邦軍と同等の行動が行えるように訓練・編制・装備も同等のものとすることとなっている。なお、同法において、州兵・National Guardの語が初めて用いられた。
第一次世界大戦においては、アメリカは常備軍のほか、州兵部隊もヨーロッパに派遣し、各州兵部隊の混成であった第42師団を始めとして、大きな戦果を挙げた。
1933年に国家防衛法の改定により、州兵における連邦軍の予備部隊としての性格は強められている。1940年になると、第二次世界大戦に参戦していないにも関わらず、陸軍州兵19個師団と陸軍州兵航空隊29個飛行中隊が連邦軍に動員されている。 つまり、この時期から第二次世界大戦を通じ、アメリカは独立した州の集合体から、国際金融資本による連邦主導の管理国家に変質したのだ。
その後も、州兵はアメリカ軍の一部として、戦時に動員されており、朝鮮戦争、湾岸戦争、コソボ紛争、アフガニスタン侵攻、イラク戦争に参加している。なお、ベトナム戦争には参加していない。この他、国内任務として、公民権運動に伴う暴動、ベトナム反戦運動、ロサンゼルス暴動など騒乱の鎮圧やハリケーン・カトリーナを始めとする災害救援を実施している。
<参考>
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http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Iraq/us_troops_crisis6.htm
イラク戦争の負担と矛盾の集中点としての州兵・州兵制度。米バーモント州での住民投票の成功とイラク撤退決議の採択。州兵帰還要求運動(Bring the National Guard Home)の開始。

(1) 米軍危機と反戦世論の拡大・浸透を示したのが、3月19日、20日に先だって行われた米バーモント州の住民投票である。バーモント州各地では3月1日、50を超える町で住民集会が開かれた。州251の町のうち実に5分の1に当たる町が、有権者総数の5%以上の請願署名を集めて住民投票を組織し、49の町がイラク撤退決議を採択し、3つの町が反対、一つの町が同数であった。
このバーモント州での決議は、州兵の召集が地域社会に大きな困難を与えていることを表している。同州北部の町ミルトンでは警官の4分の1がいなくなった。ジョネス村では、町の商店が閉鎖された。オーナーが召集されたためである。消防士もいなくなった。251の町のうち200以上の工場および農場で従業員がいなくなっている。企業、役所、家族、地域のコミュニティなどあらゆるレベルで、息子、娘、夫、妻、いとこ、あるいは隣人の誰かが州兵に関わっている。バーモント州出身の米兵の人口当たりの死者数は召集された兵士の中で最高であり、召集された兵士の割合も2番目に高い。イラク民衆の粘り強い武装抵抗闘争を前に米軍が陥った死傷者の急増、ローテーション危機、現役の兵員不足を埋め合わせ、何とかやりくりしするための強引な州兵召集が、住民の生活や雇用、更には地域社会そのものをズタズタにし、住民全体を投票へと向かわせ、ブッシュ政権に一撃を食らわせたのである。
※Vermont towns say ‘Bring our troops home’
http://la.indymedia.org/news/2005/03/123366.php
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このように、本来「国土(州)防衛」を任務としている州兵を海外に派遣し、戦死させ、結果として反戦の動きが加速すれば、アメリカの戦争継続は不可能になるであろう。州権主義者は保守主義でモンロー主義者でもあり、本来「反連邦」なのだ。

よって、この状況が続けば、かっての、州権主義者による「オクラホマシティーの連邦ビル爆破」のような事件や南北戦争が起きる可能性すらある。昨年の中間選挙の結果、共和党が大敗したことは、このようなアメリカの世論を反映したものだ。

重要な点として、アメリカがこのように中東に戦略重心を決定的に移行している状況は、極東における力の空白を生み、それを埋めるため、自衛隊が拡充されるという点だ。平成20年に予定されている日本の新型ヘリコプター搭載護衛艦で、実質的な戦後初の「空母」(16DDH)竣工はその象徴だ。

<参考>

護衛艦「13,500トン」型

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http://military.gozaru.jp/others/16ddh.htm
日本の新型ヘリコプター搭載護衛艦で、実質的な戦後初のヘリ「空母」。現在各護衛隊群の旗艦となっているヘリコプター搭載護衛艦DDHの内、「はるな」型の「はるな」は昭和48年、「ひえい」は49年に竣工しFRAM(近代化改装・艦齢延長工事)も行われたが、既に艦齢は30年を過ぎており、 「はるな」は平成20年度に除籍が見込まれている。その為代替艦として本級の建造が平成13年度からの中期防衛力整備計画に盛り込まれ、16年度計画および17年度計画で2隻が建造されることとなっていた。 その後2番艦は18年度計画に盛り込まれたため、それぞれ計画年度から通称16DDH、18DDHと呼ばれている。しかし日本の戦後初めてとなる、このヘリ「空母」建造までの道のりは極めて長いものだった。

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航空自衛隊次期主力戦闘機の可能性が高いF22ラプター飛行動画
http://www.nicovideo.jp/watch/uthnUci06q51k

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注意すべきは、二年後の大統領選だ。おそらく、ヒラリーとマケインの一騎打ちになるだろう。仮にヒラリーが勝った場合、日本にはかなり厳しいことになることが予想される。ヒラリーは90年代から北京政府の代理人として、江沢民の上海閥とは親密な関係にあった。その関係が胡錦涛に引き継がれているようだと、胡錦涛は、米国債の売り圧力をかけ、「日米安保破棄」をヒラリーに要求する可能性は十分ある。戦略的に考えて、アメリカが中東への戦力投射能力を担保する上で、日本の海軍や空軍の基地は必要不可欠だが、ヒラリーはそのような戦略を全く無視して、極端な行動に出る可能性も無いではない。

日本は、そのような状況にも、十分備えておく必要がある。
90年代のクリントン政権下における反日行為の数々を忘れてはいけない。クリントン大統領は中国訪問で日本を素通りしたこともあったり、当時のモンデール駐日米国大使が尖閣諸島は日本ではないニュアンスの発言もあった。この時期、CIA・国防総省・国務省の機密レポートと最新の米国製軍事技術が北京に渡された。そしてジャパンバッシングの数々や円高。このような歴史と「新春特別企画最終号」で見たアメリカ民主党の本質、さらに、ヒラリーの左翼弁護士という、VOL139で紹介した日本を農業国にしようとした占領軍GSのケーディスにも通じる経歴を考えると、どのような極端な政策があっても、不思議ではない。
 
注意すべきは、ヒラリーは江沢民の上海閥の代理人であり、対立関係にある内陸閥の胡錦涛とどのような関係となるかは、不明な点だ。
江沢民への対抗上、胡錦涛がマケインの共和党を応援するようだと、大統領選はおもしろくなる。そして、胡錦涛が共和党を応援するのかどうかは、アメリカ軍のイラク政策に北京が協力するかどうかで、分かる。

アメリカのイラク政策が失敗し、結果としてイラン攻撃が実現し、ホルムズ海峡が封鎖されれば、最も被害を受けるのは、VOL137で見たように、原油の戦略備蓄が無い北京になるだろう。

 下記記事に見られるように、終に、バブルが崩壊しだした中国経済に、「ホルムズ海峡封鎖」による原油輸入途絶は致命的影響を与えるであろう。
海軍の使い方として、最も理想的なのは、「敵国の輸送シーレーンの遮断」だ。参考として、太平洋戦争における米海軍の潜水艦戦略を見てみたい。
1943年には、日本軍は勢終末点を越え、補給線は伸びきってしまい、元々貧弱な対潜部隊はどうにもならなくなってしまった。

 逆に米軍は新型潜水艦の配備、優秀な磁気魚雷・レーダーを装備し始めた。この頃就役したガトー級潜水艦は特に目立った性能もない反面、際だった短所もない誠に使い勝手が良く、潜水艦乗組員に親しまれ、計200余隻が建造された。
 さらにウルフパック戦術(潜水艦の連帯行動。常に数隻で行動し、攻撃力を高めようとしたもの。ドイツが編み出したもので、これにフォッケウルフFw200哨戒機を組み合わせ連合軍船舶を次々と沈めていった。)を取り入れ、ガ島攻防戦から日本船舶の損失は鰻登りしていく。日本海軍は護送船団方式を採用して、急造海防艦も戦列に加わったが、それでも数が全然少なく、またその護衛部隊の運営もお粗末であった。

 大西洋では船団の規模を大きくすることが、損失を押さえ、また、護衛兵力の効率使用につながると知られていたが、日本海軍は通信機器の貧弱さなどのため、大船団を組むことができず、一層被害が増加してしまった。 1944年になると、日本軍の制海権はもはや日本海等近海にしか及ばなくなり、ますます米潜水艦の跳梁跋扈を許すことになる。

 日本海軍の対潜能力は貧弱で、専ら聴音機(パッシブソナー)に頼り、連合軍が使用したアクティブソナー(探信儀)を持たないので、潜水艦を捕らえること容易ではなかった。対潜兵器も爆雷のみで米軍が使用したヘッジホッグの類は無く、闇雲に爆雷投下して逃がしている。結果潜水艦の返り討ちにあった駆逐艦は43隻に及んだ。

このような状況に陥り、輸送シーレーンを寸断され、日本本土は完全に補給を絶たれた。そのため、陸軍兵力は太平洋戦争末期には、本土とシナ大陸において700万を数え、ほとんど無傷であったが、無条件降伏に追い込まれた。海軍力を失ったランドパワーとはかくも脆弱なものだ。

 このような戦訓から言えることは、最重要の原油チョークポイントであるホルムズ海峡に米海軍機動部隊や原潜が展開し、「いつでも封鎖できる」という姿勢を見せ付けることは、北京に対する「強力な恫喝」になり、北京とイランを離間させることも可能になるということだ。イランがアメリカに対して強気でいられるのは、中ロの後ろ盾があるからだ。この両者の内、エネルギー供給がアキレス腱の北京を脱落させるための、ホルムズ海峡封鎖戦略なのだ。この作戦を、紀元前にペルシャを攻めたアレクサンドロス大王の愛馬にちなみ、 “Operation Βουκέφαλος”「オペレーション・ブケファロス」と名づけたい。

このような目的で、海軍出身のファロンを中央軍司令官に異動させたのなら、歓迎すべきと考える。しかし、この戦略で北京が折れず、イランの後押しを継続するようだと、対イラン戦争が現実化し、イスラエルを巻き込んで、核戦争に発展することは必至だ。事態はどう転ぶか予断を許さない程、切迫していると考えられる。

もちろん、イランの核開発に協力し、兵器を供与しているロシアについても同様だ。下記記事に見られる如く、「対露五道作戦」発動に伴う、米欧間の緊張が起きている。

 なお、太平洋戦争の最も重要な戦訓として、周囲を海に囲まれた日本は海上交通路、つまりはシーレーンの維持に力をいれなければならないということが挙げられる。太平洋戦争における連合艦隊は世界第三位の海軍力を誇りながら、海上護衛兵力はなきにしもあらずであった。
 イギリス海軍を見本としたのに、第一次大戦でUボートと戦った海上護衛戦術について何も学ばなかったのはどういうことだろうか。地政学的にも似ているイギリスはとても参考になったろうに・・・。

 主力艦決戦に執着する余り、最重要たる資源の確保、この戦争の目的でもある南方資源地帯との結びつきを自ら狭めてしまったのは残念である。いくら資源の産地を押さえても日本に持ち込めなければ意味がないことを忘れている。

 そして、日本側の潜水艦用兵もあまりにもまずかった。艦隊決戦の補助兵器と考えていたからだ。

  「潜水艦の最も有効な活用法は通商破壊戦である」とドイツ海軍の忠告を再三受けていたが、日本は一部を除き、最後まで艦隊決戦思想を止めなかった。潜水艦艦長らも事ある毎に艦隊決戦には不向きであると主張していた。しかし、艦隊決戦に固執する軍令部がこの事を理解するにはいたらなかった。

<参考>
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http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/asia/news/20070202k0000m020040000c.html
中国株:バブル崩壊の懸念…急落受け各紙が一斉報道
 1日付中国各紙は、上海、深センの両株式市場で前日に株価が急落したことを「記録的な株安」と1面で大きく伝え、バブルが崩壊したのではないかという懸念を一斉に報じた。
 過去1年半で3倍になった株高に対する警戒感から、最近は経済紙を中心に「バブル状態ではないか」という論争が繰り広げられていた。投資家心理が冷え込み、株安が加速する可能性もありそうだ。
 中国証券報は、前日の下げ幅は記録的だったとし、「絶壁のように急落したことで、市場に警告を発している」と指摘。上海紙の新聞晨報は「バブル崩壊の恐れで株価急落」と1面で伝え、「市場は調整局面に入ったのではないか」と分析した。
 一方で、上海証券報は「中長期的には株高で推移することに変わりない」という機関投資家の強気の見方を紹介した。
 上海株式市場の総合指数は1月31日に前日比5%近く急落、新華社電によると、過去7カ月で最大の下げ幅となった。1日は小幅続落だった。(上海・共同)
毎日新聞 2007年2月1日 18時49分
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http://www.nikkei.co.jp/news/main/20070210AT2M1001J10022007.html
ロシア大統領「米欧と新たな壁」・NATO拡大に警戒感
 ロシアのプーチン大統領は10日、独ミュンヘンで演説し、「ベルリンの壁は崩壊したが、(米欧は)再び(心理的な)壁を作ろうとしている」と述べ、米欧の外交・安保政策を強く批判した。ロシア国境に達した北大西洋条約機構(NATO)の拡大について「相互不信を高めた」と指摘したほか、米欧の軍事行動を「地域紛争の解決ではなく、悲劇を高めている」と強調した。
 プーチン大統領は40カ国以上の国防相が参加したミュンヘン安保政策会議で講演した。会議には米国のゲーツ国防長官も出席。大統領は冷戦崩壊後の世界情勢について「地域紛争が増え、新たな悲劇が生まれている」と指摘するとともに、「多極化した世界の構築を目指さなければならない」と米主導の国際秩序の形成をけん制した。(ミュンヘン=桜庭薫) (23:26)
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                                       以上

2007年2月 5日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL139

今回は、戦略の要諦としての、「兵力の分散と集中」について、考えてみたい。孫子も「十をもって、一を攻める」と述べている。兵力の集中は用兵の真髄とするところで、同じ戦力でもこちら十、敵は十に分散したならば十の戦力で一の敵を撃破する事が出来る。

 つまり、戦略を構築する上で、「兵力の差」は絶対的なものではなく相対的なもので、敵が数の上で上回っていても戦力を分散させその弱点にこちらの戦力を集中させる事で勝機をつかむ。
  敵を分散させるには、こちらの動向を察知されないようにする事で、敵はどこから進攻してくるか分からず無駄な兵力を防御に割く事になり分散する。もう一つはこちらも分散する事で敵の分散を誘発する事である。その場合はこちらの集中の速度が勝機を決定づける。
例えばネルソン提督はある場所に二隻のフリゲート艦を派遣するに当たって、部下の艦長に対して、「敵艦二隻に遭遇した場合には各自がそれぞれ一隻を攻撃することなく、必ず敵一艦に対して攻撃を集中せよ。このようにすればその一隻は確実に捕獲することができ、次いでもう一隻もあるいは捕獲できる。たとえその第二艦が遁走しようと、わが国は勝利を得、敵艦一隻を捕獲する。」との訓戒を行っている。
 すなわち、「全力を挙げて、敵の分力を討つ」ことが戦略の要諦といえる。逆に言えば、「敵は分散させて、味方は集中させる」ことができるかどうかが、勝負の分かれ道となる。過去の戦史を遡れば、兵力が少ない方が勝つには、この条件を満たすしかないことが分かる。
例えば、ユリウス・カエサルは、ガリア(南北約965km、東西約935km)を、3万前後の軍で征服したが、軍を迅速に移動させ兵力集中を実現し、各部族を各個撃破した。各個撃破するためには、敵部族の兵力集中を防止しなければならないが、カエサルは、それを1つには副官ラビエヌス軍による牽制、1つにはナポレオンが言うところの自軍の評判すなわち政治力による牽制によって実現した。
この、「敵軍の分散と自軍の集中」は企業経営においても、適用できる。この場合、「選択と集中」という表現になる。
 
「選択と集中」を徹底し、大きな成功を収めた会社は少なくない。大口顧客との安定的取引であった商業貨物事業から完全に撤退し、宅配便事業へ集中して市場の創出と業界首位の座を築いたヤマト運輸、コングロマリットから携帯電話事業への集中を実現し、破綻目前から端末の世界シェアNo.1へとドラマティックなターンアラウンドを果たしたノキアなどはその代表例だ。
 
また、「選択と集中」は、組織や人のマネジメントをより容易にするというメリットもある。「この事業に集中するぞ」というメッセージは、組織や社員をまとめあげるための極めて強いドライバーになる。「これに失敗したら明日の仕事はない」という背水の陣的な危機意識が社員のモチベーションとコミットメントを引き出し、「全社一丸」となった実践を容易にする。

 しかし、これには大きなリスクが伴うこともまた明らかだ。構造的優位を築くために集中投資を始めたが、市場に競合の参入が続き、成功要件の達成に必要なクリティカルマスが事前の予想よりも大きくなってしまった、隣の分野で起こった技術革新が選択した分野そのものを消してしまった、など……。製品・技術のライフサイクルが短く、業界のデファクトスタンダードをめぐる競争が激しいハイテク・ネット業界ではこの例には事欠かない。

 ではどのようにすれば、戦略徹底のリスクを回避できるのだろうか。

 ポートフォリオ理論の答えはシンプルである。「リスクは分散すべし」。しかし、戦略の分散は、最悪の場合、「集中」の効果をゼロにする恐れがある。
 ここに「多角化のジレンマ」が出現する。「結局どれだけ手を尽くしても、変貌し続ける市場動向を正確に予想するのは不可能に近い。しかし分散では期待できるリターンは不十分だ。それならば、シナジーが得られるいくつかの分野のみにリソースを配分し、リスクを分散しながら一定のリターンを確保しよう」という考えから、「フォーカスされた多角化」が選択されたケースも多い。
 しかし、この「フォーカスされた多角化」は「分散」と「集中」の両方のリスクをかぶってしまうこともある。
 
例えば、ブロードバンド時代に向けてハード、ネット、コンテンツの相乗効果による収益モデルを目指しているソニーは苦戦している。ハードでは、シェア首位のブラウン管テレビセグメントの横に生まれた液晶・プラズマの薄型テレビなどで普及型製品の投入が遅れ、競合の後塵を拝している。一世を風靡したパソコンでもシェアを落とした。ネット事業は、ADSLを中心とするアクセスでの競争がISP市場にも持ち込まれたため、営業赤字に転落した。シナジー獲得までの道のりは険しい。
 結局のところ、この戦略徹底のリスクを低減できる現実的な方法は、戦略形成プロセスでの分析手法に磨きをかけながら、常に最適のポジションを取りつつ、そこでの一定期間の競争優位を築くために必要なリソースを投入し続けながら、市場の半歩先を駆け続けるという「最速ランナーの宿命」を受け入れるしかないように見える。言うまでもなく、現実に「最速ランナー」を続けられるのは世界でもごく一握りの企業だけだ。

このように考えてみると、戦略家の仕事とは、まず、「現状の分析と将来の予測を立て、自軍は集中させ、敵は分断する」ことができるかどうかが重要という点で、戦争も企業経営も同じことだといえる。

日本はかって、二度、国際金融資本と死闘を繰り広げた。戦国時代末期と第二次世界大戦だ。この双方の死闘を収拾した徳川家康と昭和天皇は、「自軍は集中させ、敵は分断する」ことによって、ギリギリの勝利を得たこと、その勝利が江戸時代260年、昭和後期60年の平和と繁栄を生んだという事を、理解する必要がある。

具体的には、徳川家康のとった戦略とは、キリシタン大名の改易や追放、イスパニアと組もうとした大坂城の滅亡により、国内の外国勢力を一層した事だ。

大坂の陣の直前、幕府のキリスト教禁制で高山右近・内藤(小西)如安(ちなみに彼の子・好次は豊臣家臣)ら100人以上が国外追放の憂き目を見る中、豊臣家だけが布教を許していたのである(こうした豊臣領内の半治外法権が大坂の陣の遠因だとも言われる。宣教師によると、右近の大坂入城が実現していたら大坂の陣の結果をも左右する事態になると秀頼・家康は考えていたそうである。追放は大坂の陣開戦の直前であり「右近の手兵千人は他の武将の1万人より恐ろしい」と考えていた家康は右近の船を長崎出航前に撃沈するよう命令を加えたが遅かった)。キリシタン明石全登が十字の旗を閃かせての入城後もキリシタンは続々と集結。大坂城内の兵は広く10万人といわれるが、その数は2千~1万人にも上ったという。

さらに鎖国による貿易の統制と糸割符制度(糸割符仲間と呼ばれる特定の商人達がポルトガル船の輸入生糸を一括購入し、その後、国内の商人に売却する制度。糸割符制度は、はじめはポルトガル船の舶載する生糸に対して行われていた。当初、日本に来航する外国船の中で最も多く生糸を舶載していたのはポルトガル船だったため、糸割符制度が実施されると、日本側が価格決定するためにポルトガル側は大きな打撃を受けた。)による価格カルテル結成による、交渉力担保だ。

つまり、政治、経済における統一的方針に基づいた対外政策により、国際金融資本のお家芸である、「両勢力を対立させ、漁夫の利を狙う」隙を全く、与えなかったのだ。

むしろ、当時対立していた、オランダ・スペインとイスパニア・ポルトガルの対立を利用し、「敵の分断」に成功している。
           
次に、第二次世界大戦終結と戦後処理において、昭和天皇は見事な対応をされた。

 昭和天皇の戦略方針とは、一言では「吉田ドクトリン」と呼ばれているが、「日米安保を政治上の機軸にし、対米輸出を経済上の機軸する」という戦略だ。背景として、アメリカより出された武装解除指令を逆手にとって、軽武装の経済国家をめざす、はっきり言えば朝鮮戦争で大もうけしたような、「国際金融資本と同じポジション」に立ったということだ。英国の国際金融資本が、欧州大陸の戦乱でどれだけ利益を上げたかを理解すれば、戦後日本の国家戦略が、これを踏襲するものであることが分かるであろう。背景として、冷戦構造による米ソ対立があった。

 ここまでを考えると、今後のアメリカの戦略も読めてくる。すなわち、「戦略的な二正面作戦の放棄」だ。米軍の新戦略構想はブッシュ大統領が就任直後、『将来の国防を探る』としてラムズフェルド国防長官に検討を指示していたもので、最大の目になるのが米世界戦略の基本だった二正面作戦の放棄にともなう通常兵力の縮小とハイテク化だった。

 では、二正面作戦の放棄とは何を意味するのか。一正面作戦しか採らないという、明確な意思表示である。

 具体的には、仮に中東で戦闘が開始された場合、米軍は中東一正面作戦に参加し、同時期に他地域で戦乱が起こった場合、そちらは無視するということである。
 
 これは、第二次世界大戦以来、米軍が維持していた、欧州とアジアでの「二正面作戦」を放棄するもので、全世界の秩序維持に根本的な変化を生む。そして、アメリカの関心事が、エネルギー供給源である、中東地域に限られている現状では、アジアと欧州の安全保障は
全くおぼつかない。

 つまり、この点にこそ、日欧の利害の一致があり、史上初めて、NATOでの安倍首相の演説につながる。

つまり、このような、アメリカの戦略方針の転換が今年のダボス会議の議題でもあった「世界の多極化」につながるのだ。多極化とは、要するに、群雄割拠の戦国時代ということだ。秩序維持の名手としての「スーパーパワー」の存在を失った世界のことだ。

アメリカは、ヨーロッパでEU(ユーロ)の挑戦を受け、南米でメルコス(南米共同市場)、アジアでは中国の挑戦を受けている。

そして、アメリカ自身が、「帝国の放棄、縮退」に入っているという点も重要だ。
最も重要な視点は、ベトナム戦争以来、イラク戦争にいたるまで、アメリカが関与した戦争は、全て、国際金融資本主導だということだ。
彼らは、宣戦布告権限を連邦議会から奪うことで、アメリカを自在に戦争させられる国にしてきた。そのきっかけになったのが、日本海軍による真珠湾攻撃だ。
例えば、連邦議会だが、そもそも、合衆国憲法は、戦争権限(war powers)について、その乱用を防止する観点から、連邦議会と大統領に分割して付与している。具体的には、1)宣戦布告権等は議会に、2)国家が戦争状態に陥ったときに軍を指揮権を大統領に与えており、本来は、大統領に戦争を開始する権限は無い。
 しかし、こうして戦争を開始する権限は連邦議会にあるにも関わらず、第二次大戦後、大統領の戦争権限は次第に拡大解釈されており、朝鮮戦争やベトナム戦争では、議会による宣戦布告なしに武力行使が開始された。(アメリカ史上200を超える海外派兵のうち事前に議会が宣戦布告したのは5回のみ!)
 すなわち、このような、戦争に躊躇のないアメリカが生まれたのは「真珠湾以降」であり、それ以前のアメリカが外国と戦争するには、「国土に対する攻撃」が必須だったのだ。
 つまり、日米は、「新春特別企画」で述べたように、国際金融資本に操られ、不必要な戦争に駆り立てられたのだ。この点を日米ともに理解する必要がある。

 国際金融資本が当該国を支配するために、恐慌と戦争は必須だ。このパターンにアメリカは完全にはまったのだ。その後の歴史については、ベトナムからイラクにいたるまで、アメリカは戦争に躊躇のない国になった。その影で産軍複合体、国際金融資本は肥大した。

ここまでを書いて、お分かりいただきたいことは、国際金融資本にとって、「軍は商売道具」であり、当然、軍は、そのような使われ方に徹底的に反発する。
 すなわち、真の対立軸とは、戦後の冷戦構造に限っていえば、米ソの冷戦ではなく、米軍+ソ連軍VS国際金融資本という視点だ。

 冷戦は、国際金融資本がプロデュースした「やらせ」であることは新春特別企画で詳述したが、このような視点があってはじめて、トルーマンによるマッカーサーの解任(1950(昭和25)年に勃発した朝鮮戦争の国連軍総司令官に任命され、韓国・仁川奇襲上陸で状勢を逆転させたが、トルーマン大統領の政策に公然と反対して、原爆使用を視野に入れた義勇軍が参戦した中国ばかりかソ連との全面戦争を主張したため、1951(昭和26)年4月11日に解任された。もし、この時点で、核攻撃が行われていたら、冷戦はあっけなく終了していただろう。)や、ソ連のジューコフによるべリヤ逮捕に繋がる動きも理解できる。
<参考>
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http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb500.html
1953年6月26日、モスクワ郊外でジューコフ元帥は陸上演習を行なっていた。この演習の途中で、ジューコフ元帥は突然、自ら戦車部隊二個師団を率いてモスクワ市内に入り、国家保安省本部に向かって進撃を始めたのである。国家保安省はこの動きをまったく感知していなかった。そのため、ジューコフはあっという間に国家保安省本部の占拠に成功することができたのであった。
 

カガノビッチとベリアを逮捕した
ジューコフ元帥

ジューコフ元帥はまずベリヤを逮捕した。そしてその次にカガノビッチらを逮捕した。これはまったく異例の事態であった。ロシア人の民族性からすると、こうした過激な反発行動に出ることはあり得ないことであった。しかしジューコフは、誰にも相談せずに、自らの判断で直ちに戦車部隊二個師団を動かし、モスクワに入って国家保安省本部を乗っ取ったのである。
そのときからロシアは新政府となり、ユダヤ人は国家保安省や軍隊の司令部を含めて、あらゆる組織から追放された。少なくとも1960年まで、ほとんどの政府機関からユダヤ人が一掃されたのである。 
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このような視点でみると、まさに、世界情勢は複雑怪奇な裏側をもち、現場の軍人と国際金融資本は常に対立することになることが分かる。
実は、ここにこそ、日本が国際金融資本と対決していく上での鍵が隠されている。すなわち、戦後の米国による対日占領について、当初ニューディーラーといわれたケーディス弁護士をはじめとするユダヤ人共産主義者達は、日本の非武装化と工業の破壊による、農業国化を目指していた。しかし、軍人であるチャールス・ウィロビーのG2により、日本の経済復興が決定されるなど、日本に対する態度は、ユダヤ人とアングロサクソンの軍人では180度異なっていた。日本は、この点を利用すべきであり、真に日本がパートナーシップを結ぶべき対象がどちらかについて、議論の余地はないということだ。
<参考>
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http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/kedesu.htm
1948(昭和23)年12月8日、マッカーサーの命令を受けて、ホイットニー将軍のサインした旅行命令書を持って神奈川県の米軍基地キャンプ座間から1人で離日、ワシントンに赴き、本国政府による対日占領政策の変更(当時、国際情勢の変化で米の対日政策が、それまでの民主化政策から反共の砦【とりで】として政策に大きくかじがきられようとしていた。また占領政策をめぐって、ハト派の民生局【GS】とタカ派のG2【参謀第2部。部長はチャールス・ウィロビー】との対立が顕在化していた)に歯止めをかける努力をするが、国際状況の変化による占領政策の変更をとどめることができず、GSの方針をつらぬくための説得は失敗、1949(昭和24)年5月3日、民政局次長を辞任した。

その2月後の同年7月4日、マッカーサーは、「日本は共産主義進出阻止の防壁」との声明を発表するところとなる。

その後、アメリカで弁護士に復帰し、1996年6月18日90歳で死去する。

なお、昭電疑獄(汚職=昭和電工社長日野原節三が、復興金融公庫からの融資に際し、政官界首脳に贈賄した疑獄事件で、1948年、日野原や閣僚が逮捕され、芦田均内閣は総辞職したが、後に閣僚クラスは全員無罪となった)にかかわった容疑と、旧華族の元子爵(ししゃく)鳥尾敬光氏の妻・鳥尾鶴代(後、多江【通称「マダム鳥尾」】)との恋愛事件(ラブ・アフェア=情事・不倫)によって失脚し、帰国したとの醜聞(しゅうぶん=聞き苦しいうわさ。よくない風評。スキャンダル)があるが、それは、日本の民主化をさらに推し進めようとしていた民生局の中心人物であったケーディスを追い落とすためのG2の策略であり、事実と異なる。


民政局(GS【Government Section】)=1945年10月2日に設置された日本の民主化政策を担ったGHQの中枢部局。日本国憲法の制定(改正)にあたり、局内に、立法、行政、人権等、分野ごとに条文を起草する7つの委員会と、全体の監督・調整を行う運営委員会を組織してGHQ憲法改正草案を作成する等、大きな影響力を発揮した。
そのほか、公職追放、公務員制度改革、選挙制度改革、地方自治等を担当し、戦後日本の政治機構を形づくる重要な役割を果たした。当初、クリスト准将が任命されたが、2か月あまりで帰国。後任にはホイットニー准将が就任し、部下にニューディーラー(1930年代のアメリカでルーズベルト大統領によって推進された修正資本主義政策であるニューディールを立案・実行・信奉する者達)を配置して、積極的に日本民主化政策を推し進めた。そのため、諜報・検閲などを担当した参謀第2部(G-2)と占領政策をめぐって対立、冷戦構造の深刻に比例して深刻化した。マッカーサーの解任とともにホイットニーも退役、その後は、GHQ草案の財政部分を担当したF・リゾーが局長に任命されたが、1948年以降は規模が縮小された。
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重要な点として、近代以降の世界史とは、「国際金融資本VS反国際金融資本」の凄絶なバトルであり、日本は戦国末期以降、徳川家康と昭和天皇という、真に偉大な戦略家のおかげで、「国際金融資本の分断と国内の統一」がなった時期は平和と安定を享受できたということだ。

このように考えると、イラク戦争について、久間防衛大臣が批判した理由も分かる。イラクで多大な犠牲を払っている米軍の本音も大臣と同じに違いない。つまり、これは、「日米両軍当局による、国際金融資本に支配されたアメリカ政府に対する挑戦」なのだ。経済発展のため、国際金融資本との紐帯を維持する必要はあるものの、その対抗勢力である「軍」との関係も独自に維持していく。

そのための「防衛省昇格」であり、今後日本の政策形成において、軍の比重を高めることで、国際金融資本に対し、バランスをとっていく。これこそが、21世紀の日本の戦略だ。この点で参考になるのは、17世紀の徳川家(家康・秀忠)の対応であろう。

<参考>
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http://www.ohmynews.co.jp/News.aspx?news_id=000000004901
久間章生防衛大臣が今月24日、イラク戦争は間違いだったとする発言をした。防衛庁が防衛省に昇格したばかりであり、ブッシュ大統領が一般教書演説でイラク政策への支持を訴えた直後であることを考えると、アメリカに反旗を翻すかのような発言を、他(ほか)ならぬ「国防」の長が為(な)したという事実は興味深い。

 私は前回「防衛省昇格を報じる海外のニュースサイト」という記事を書いたが、同様に、防衛大臣の「問題発言」が国内外でどう報じられているのか、調べてみた。

 まず日本のマスコミ。朝日新聞は「久間防衛相、止まらぬイラク戦批判」との見出しで、「元々、久間氏はイラク戦争に強く疑問を投げかけてきたが、閣僚就任後もそうした発言を続けており、政府内には日米関係への悪影響を懸念する声も出ている」と書いている。さらに「久間さんは正しい」と、この発言を支持する民主党の鳩山由紀夫幹事長の言葉を紹介し、安倍首相は「私は問題ないと思う」と記者団に語り容認する姿勢を示した、と結んでいる。

 これに対し産経新聞は、大いに批判的だ。

 コラム産経抄において「閣内不一致だとそしられても仕方がない発言だろう」、「(防衛大臣は)米国のイラク戦争を支持している安倍内閣の一員であるばかりでなく、日本の安全保障に責任を持つポストだ。その重責を担う人物が同盟国のトップをけなした影響は決して小さくない」。イラク戦争の是非よりも、アメリカを批判するなという論調であり、「同盟を傷つける発言は百害あって一利なしだ」と強い調子で書いている。

 当のアメリカの反応は、読売新聞に小さく載っていた。「これに対し米政府内からは、『久間氏は昨年も同様の発言をした。ゲーツ国防長官がイラク問題に全力で取り組んでいる時に、日本の防衛相がそんな考えでは、防衛相会談などは難しい』との厳しい声が出ている」

 続いて海外のマスコミ。お隣の韓国でこの話題を取りあげていたのは、朝鮮日報だ。「久間防衛相『イラク開戦判断は間違い』」との見出しで、短い記事であった。

 さらに私は、「防衛省昇格を報じる……」の記事で引用した、中国の人民日報、アメリカのCNN、イギリスのBBCのサイトを検索したのだが、いずれにおいても、今回の久間防衛大臣の発言を伝える記事は見当たらなかった。人民日報はさておき、CNNやBBCが沈黙しているのはイラク戦争を推し進めた米英にとって都合の悪いニュースだからだろうか。

 この疑問に基づき、アメリカのワシントンポスト、ニューヨークタイムズ、イギリスのインディペンデント各紙のサイトを調べたところ、ワシントンポストだけがAP通信の配信記事として伝えていた。その記事は「日本の防衛大臣は、アメリカのイラク侵攻を間違いだと批判した当初の発言を撤回した」という書き出しで始まり、「日本語と英語の違い」だとして英訳による誤解が生じたのだとする久間大臣の釈明を紹介していた。発言そのものよりも、その後の対応に焦点を絞った記述であるのが興味深かった。

 そして、このニュースを大きく取りあげていたのは、防衛省昇格のニュースも詳報していた、中東カタールの衛星放送アルジャジーラだ。「日本の大臣:イラク戦争は誤り」との見出しで、久間大臣の発言を紹介し、一方で「増派はイラクに安定性と回復をもたらすためのアメリカの強い決意を示している」というブッシュ大統領の一般教書演説を支持する安倍首相の発言を載せていた。さらに、自衛隊のイラク派兵を巡る経緯について説明するなど、単に久間大臣の発言を報じるだけでなく、これを巡るさまざまな情報を掘り下げ、日本の一連の動きをつぶさに見定めようとする姿勢がうかがえた。

 このほかにも、「Kyuma」あるいは「Kyuma Iraq」で検索すると、相当数のニュースサイトがヒットした。例えばインディアデイリーは「イラクに侵攻したブッシュは間違いだ:久間」という見出しを、ブルームバーグニュースは「日本の久間がブッシュのイラク戦争決定は誤りと発言」という見出しを、それぞれ掲げていた。

 伝えるメディア、伝えないメディア、その温度差はあれど、日本の防衛大臣がイラク戦争を否定したというニュースが、一夜にして全世界に広がり、少なからず波紋を呼んでいることが知れた。

 イラク戦争を支持した日本、その日本の初代の防衛大臣がイラク戦争を批判した。このニュースをどう解釈するか。それは読む人次第であるが、久間氏がイラク戦争に懐疑的であったのを承知の上で、安倍首相が省に昇格させるつもりの防衛庁長官に任命したのだとするなら、その意味するところは、単なる「うっかり発言」の枠を越えているのかもしれない。

 今後の日本の防衛政策の行方が注目される。
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2007年1月29日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL138

<紹介>
“Environment 2007,28 Jan – 31 Jan, 2007 JAPAN TODAY in UAE” の成功を、心よりお祈りします。
http://www.ee-uae.com/index.cfm?fuseaction=Exhibition.Pages&pageName=Exhibition&parent=Exhibition

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http://www.jetro.go.jp/events/tradefair/20060808110-event
ジェトロは、アラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビ市で開催されるの中東地域最大規模の環境見本市「ENVIRONMENT 2007」において「JAPAN TODAY 2007」と銘打つ日本館を初めて設置します。 これは2006年12月に日本とアラブ首長国連邦(UAE)が外交関係樹立35周年を迎えたのを記念する催しとなります。
JAPAN TODAY 2007には日本企業40社が出展し、UAEの持続的発展に貢献し得る日本の環境・エネルギー・産業技術を紹介することにより、両国の一層のビジネス、友好協力・相互理解の促進を図り、エネルギーの安定供給に資することを目的としています。
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今回は、終に火蓋を切った、「宇宙戦争」の来るべき様相を検討してみる。 これは、人類にとっての宇宙の海へ漕ぎ出す、新たな大航海時代の始まりになるだろう。

<参考>
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http://www.asahi.com/international/update/0119/009.html
中国、衛星破壊実験に成功 米政府は懸念伝える
2007年01月19日11時26分
 米ホワイトハウスのスノー報道官は18日、「中国が地上から発射した弾道ミサイルで自国の衛星を破壊し、衛星攻撃兵器の実験をした」との米メディアの報道を大筋で確認し、米政府がすでに中国政府に対して懸念を伝えたことを明らかにした。宇宙空間で兵器による衛星の破壊が確認されるのは異例で、ロイター通信によると85年に米国が実施して以来とみられる。
 米政府は昨年改訂した「国家宇宙政策」で、軍事・民間利用を問わず、衛星が攻撃を受ければ、衛星への依存度の高い米国にとっては大打撃となるとの認識を強めてきた。有人宇宙飛行の成功で「宇宙大国」として存在感を高めている中国が、そうした攻撃能力も示したことで、宇宙空間をめぐり両国間の緊張が高まる可能性がある。宇宙での軍拡競争につながりかねないとの指摘も出ている。
 この情報は、航空宇宙問題の専門誌アビエーション・ウイーク・アンド・スペース・テクノロジー電子版が米中央情報局(CIA)など複数の米政府情報機関の見方として、17日夜に報じて明るみに出た。
 それによると、実験は米東部時間の今月11日午後5時半(日本時間12日午前7時半)ごろに実施された。99年に打ち上げられて高度約860キロの軌道上にあった老朽化した気象衛星を標的に、中国内陸部の四川省西昌にある発射基地から弾道ミサイルを打ち上げ、弾頭が高速で衝突、破壊した。
 飛散した衛星の破片が「宇宙ごみ」となり、ほかの衛星の運用を妨げる障害を引き起こす可能性も心配されている。ロイター通信によると、実験当日、米国が昨年打ち上げた実験偵察衛星との通信が不能になったが、これが実験の影響かどうかは確認されていない。
 米国家安全保障会議(NSC)の報道官は同通信に対し、「このような兵器の開発実験は、民間分野の宇宙利用をめぐる両国の協力の精神に背くものだ」と述べ、米国だけでなく、すでにオーストラリアとカナダが懸念を表明したと明らかにした。
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まず、私が前号までで、繰り返し力説してきた、シーパワーにとっての生命線とは「制海権の保持」に他ならない。この制海権とは、概念としては古代より存在したが、15世紀の海洋先略家ポルトガルのアルバカーキ提督は「海洋覇権を制し、大陸や島国を占領するにはその港を奪え」との名言や、16世紀のイギリスにおいて1588年スペイン無敵艦隊を破ったキャプテンドレイクによって「英国の防衛線は海岸線や英国海峡内に無い。相手側大陸の港の背後にある」との言葉により明確に意識されてきたものであり、19世紀に入り、海洋戦略家マハンによって具体化された。(Alfred Thayer Mahan 1840-1914:ウエスト・ポイント陸軍士官学校工学科教官の息子として生まれ1859海兵卒後北大西洋艦隊司令官ルース少将に見いだされ第2代海軍大学校長となり「海上権力史論The Influence of Sea Power in History, 1660?1783 (1890)」を発表、ルーズヴェルト大統領の絶賛を浴び、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世はドイツ語に翻訳させて全艦艇に配布する等、世界中反響を呼び、日本海軍も教官として招聘を試みた大佐で退役後ジャーナリズムに身を投じて活躍した。)

マハンは1890年に『海上権力史論』で、商船隊や漁船隊、それを擁護する海軍とその活動を支える港や造船所などをシーパワー(海上権力)と規定し、シーパワーが国家に繁栄と富をもたらし、世界の歴史をコントロールすると論じた。彼はアメリカ海軍大学校の教頭で海軍大佐であった頃の1890年に著した『1660年より1783年に至る歴史に対するシーパワーの影響』(日本では『海上権力史論』と訳された)という書物において、初めて「シーパワー」という概念を提示している。シーパワーとは、「海域における自由な使用を確保し、平時・戦時の両方において、自国の商船、軍艦等が自由な航行をする能力を維持して、反対に相手国の自由な航行を阻止する能力を持つこと」、といった意味を持つ。つまり、自国の周辺やシーレーンにおける海域を自由に使用する能力、または必要ならば敵国のこの能力を拒否する能力ということができる。この「能力」のことをシーパワーというのであって、海上において優勢を誇る国が持つ影響力はその範囲の海域をコントロールすることができる。そのコントロールのことを「Command of Sea(制海権)」と呼ぶ。

この制海権について重要な点は、第一次世界大戦までは、獲得の主役が戦艦であったということだ。この時代、日本海海戦やユトランド沖海戦(http://ww1.m78.com/honbun/jutland.html)に見られる艦隊決戦が制海権のみならず、戦争そのものの帰趨を決めた。

この制海権概念に大きな変化をもたらしたのが、第二次世界大戦だ。この戦争で、制海権確保の主役が、戦艦から空母、すなわち、航空機に変わったのだ。つまりビルマ沖海戦やミッドウェー海戦などの結果、戦闘機による制空権が確保できていれば、雷撃機による魚雷攻撃により、戦艦すら容易に撃沈することができることが分かった。この後、戦艦は主役の座を空母に譲った。

現代において、制空権確保の重要性は変わらないものの、そのための重要なツールが衛星になってきた。つまり、衛星を経由して集めた情報や衛星を経由して送る情報が軍事活動に決定的な重要性をもつことになったのだ。
このようになった契機は、米ソ冷戦下の「スプートニクショック」であろう。
スプートニクショックとは、1957年にソ連(当時)が打ち上げた人工衛星によって引き起こされたものだ。アメリカは、この世界初の人工衛星打上げで敗北したことにより、東西冷戦の一方の雄であったソ連の科学力に脅威を覚えたのである。そこからアメリカの科学振興が一気に進みはじめることになる。

 アメリカでは、「科学技術の遅れを取り戻そう」とのスローガンが掲げられ、科学教育推進として「教育の現代化」運動が起こされた。またインターネットにしても、スプートニクショックというソ連への脅威を下敷きにして、「核攻撃があっても破壊されない通信システムの構築」という命題から生まれたものだ。重要な点として、アメリカはこのスプートニクショックを契機として、ポラリス・ミサイルの開発を行った。
そのための手段として、PERT(Program Evaluation and Review Technique)は、1950年代後半に米国海軍ポラリス・ミサイル開発プロジェクトで実用化された日程計画・管理のための技法としてあまりにも有名だ。
その後、米軍が情報の重要性を再認識する契機となったのがベトナムにおけるジャングルでの戦闘により、ゲリラ戦に苦しめられたことだ。これが、ADSID・地上センサーの開発につながり1967年から投入、数万個が製造され、航空投下によりジャングル中にまかれる
RMAの出発点だ。米空軍は開戦当初、通常爆弾による爆撃を行うが、出撃回数が増え、1700機が撃墜されるこのことから、レーザー誘導爆弾を開発し、1969年より投入した。出撃回数と上空での戦闘時間を軽減を狙い、ラインバッカー作戦に最初に投入され、3年かかって落とせなかった橋を1回で落とすという成果を挙げた。

<参考>
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http://www.masdf.com/crm/bridge3.html
67年の最初のタンホア攻撃では“バカな爆弾”を300発をも投下したにも関わらず、損害はなきに等しい状況であった。その無敵のドラゴンジョーがたったの5発のEOGBで破壊されたのである。
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背景として、民主主義の世論による政権運営の必要から、米国民が数多くの犠牲者を受け入れないことが先端兵器開発への圧力となったことだ。これが、トマホーク巡航ミサイルや高度情報化された兵器システムの開発につながる。目的は米軍の危険を最小限に押さえることだ。
 
1991年湾岸戦争において、トマホークやステルス戦闘機の実戦による実験戦闘の口火を切ったのはAH-1による攻撃であり、101空挺部隊・レーダー基地を夜襲し、敵の状況をはっきり見ることが出来た
 トマホークが始めて実戦投入され、戦略拠点を攻撃し、1300km離れた公海上からの攻撃やF-117ナイトホークからレーザー誘導爆弾を高々度から投下し、ジョイント・スターズ下方監視レーダーで車両を識別し、攻撃した。これは、開発段階だったが現場の要請で戦場に投入され、戦場で神の目となる。この、ジョイント・スターズにより、あらゆるレベルの司令官は周辺状況を完全に把握できた。

 地上戦二日目、バスラに向かう国道上にイラク軍が終結していることを察知し、戦闘機やヘリコプターによる精密攻撃を加え、夜間であっても歩兵一人一人を狙撃できた。結果は一方的なイラク軍の殺戮に終わった。

 コソボ紛争にて、より発達した兵器が投入された。ステルス爆撃機B2・無人偵察機プレデター誘導爆弾の命中率は開戦当初100%
 NATO各国に米軍が詳細な戦場情報を提供し、核の傘でなく、情報による新たな傘と呼ばれた。一般市民を巻き込んだ誤爆が相次ぐ。99.6%が意図された目標に命中したことに見られるように、米軍はネットワーク化された衛星情報を用いることにより、RMAを成し遂げ、全く新しい軍隊に生まれ変わった。

究極的には「戦場の無人化による死傷者ゼロ=zero casualty」とそのためのネットワーク中心の戦い(Network Centric Warfare)が重視されている。このネットワーク中心の戦いでは、偵察衛星や無人機などを中心とする情報収集システムを駆使して収集された敵部隊などに関する情報は、ネットワークを通じて共有され、遠隔地の司令部からであっても極めて短時間に指揮・統制が行われ、目標に対して迅速・正確かつ柔軟に攻撃力を指向することが可能となる。これは、戦場空間における戦場認識能力のさらなる優位を獲得するとともに、より効率的な戦力運用を目指すものである。
 
精密誘導兵器の代表的なものとして、爆弾用精密誘導装置(JDAM)がある。その特徴は、非誘導(自由落下型)爆弾に誘導用テイルキット1を装着することにより、正確で全天候型の誘導爆弾を簡易かつ安価に製造できる点にある。JDAMは、優先順位の高い目標に対する戦闘機や爆撃機による正確な空対地攻撃を可能にした。誘導は、尾部の操舵翼、駆動装置、制御用の電子回路などから構成されるテイル・コントロール・システムとGPS(全地球測位システム)支援のINS(慣性航法装置)によって行われ、最も正確なモードによれば、投下した爆弾の半数以上が半径十数mの円の中に着弾するとされる。

 このように、ソ連との冷戦やベトナム、湾岸からイラク戦争に至る過程を概観すると、いかに米軍が情報と衛星に依存する度合いが増えてきたかがわかる。そして、このことが、米軍にとっての、新たなアキレス腱となったのだ。つまり、衛星軌道上に浮かぶ軍事衛星につき、明確な防御手段が存在せず、ここを攻撃されると米軍は大幅な戦力ダウンになるということだ。

すなわち、今回の北京政府もしくは人民解放軍の「衛星破壊実験」とは、アメリカの「のど元に匕首を突きつけた」行為に等しい。だから、アメリカは敏感に反応したのだ。

このような理解を前提にして、今後の展開を予測してみる。

まず、制海権の確保のため、衛星が必須になっている現状で、シーパワーのアメリカが譲歩することはありえない。歴史を見ても、ドイツと英国、米英と日本、米ソといったスーパワーパワーが過去に軍拡競争を行ったことがあるが、制海権にかかわる、戦艦や空母といった分野で、妥協しなかった方が最終的勝利者になった。

特に、対ランドパワーで、シーパワーが「海の軍縮」に応じたことは一度としてなかったといえる。このことが、制海権の重要性を物語る。そして、宇宙空間が、人類にとっての「新たな海」と考えると、この点でシーパワーがランドパワーに譲歩することは「絶対にありえない」。

すなわち、北京政府もしくは人民解放軍が宇宙での軍拡競争を挑んでくるなら、シーパワー連合は受けて立つ他の選択肢はありえないことになる。むしろ、人類の科学技術や文明が闘争を通じて発展してきた過程を見ても、ランドパワーとシーパワーが本気で宇宙軍拡することが、新たな大航海時代の必要条件となるだろう。

ここで重要な点として、北京政府は前号で紹介したような、原油確保のための「真珠数珠繋ぎ」戦略(The string of pearls strategy)と呼ばれる、シーパワー戦略(これは、中東、ペルシャ湾から北京政府に至る1万キロを超える長いシーレーン沿いに戦略的拠点を確保することを狙いとして、北京政府が展開している一連の外交的、軍事的措置の総称)を展開している以上、宇宙での軍拡は間違いなく「戦略的二正面作戦」になるということだ。北京政府は第2次大戦後、台湾、ベトナム、インド、ロシアと国境紛争の経験があり、これらと北朝鮮国境にかなりの兵力を配置しなくてはならず、チベットやウイグルでの緊張もかかえている。

よって、国内の治安維持や国境防衛のための膨大な陸軍や警察力の整備も必要だから、「三正面作戦」ともいえる。

このような、陸海宇宙での軍拡に引きずり込めば、遠からず北京政府は破綻することが確実であり、そのためにも、シーパワー連合はこの挑戦を受けてたつべきなのだ。

そして、宇宙開発にアクエリアス計画は、必ず必要になる。まず、燃料電池の実用化は、宇宙開発分野で開花した。宇宙船内で燃料を燃やす方式に比べて排気がクリーンで水しか発生しない燃料電池が、宇宙船の電源用に開発されたのだ。発生する水は飲み水として利用できることから、特に有人宇宙船の電源として着目された。そして1965年、米国NASAの宇宙開発プログラムにおいて、有人宇宙船のジェミニ5号にGE社の高分子形燃料電池が搭載され、燃料電池の実用化第一号となった。次のアポロ計画ではユナイテッド・テクノロジー社のアルカリ形燃料電池に引き継がれた。3台の燃料電池が搭載されたアポロ13号において酸素系統の故障によって2台の燃料電池が運転不能となり、月面への着陸は断念したものの無事地球に戻って来られたというエピソードは、トム・ハンクスが主演した大ヒット映画でも取り上げられた。

そして、今後の宇宙開発を考える上で、より重要な視点は、連山でも紹介された「ペンタゴン・レポート」に見られる、地球環境の激変だ。
<参考>
------------引用--------------
http://www.bund.org/opinion/20051005-2.htm
米国防総省(ペンタゴン)は、03年秋に地球温暖化の影響について秘密レポートをまとめたが、その内容は衝撃的だ(2004年、英国オブザーバー紙にすっぱ抜かれた。本紙1140号/2004年4月5日号に既報)。2010年代に欧州で干ばつと寒冷化が起こり、環境難民となった人々が大移動を始め、2025年にはEUが崩壊するというのだ。  
 温暖化にもかかわらず寒冷化が起きるとされるのは、暖流の流れが変化すると考えられるためだ。欧州周辺を流れる暖流は、赤道付近で温められて北上し、北極海周辺で冷やされて海底に沈み込む。それが冷たい深層海流となって赤道付近に戻っていく。  
 海流はベルトコンベヤーのように地球規模で循環しているのだが、温暖化はこの流れをも変えてしまう。北極海の氷は、すでに40%が温暖化の影響で溶けてしまったが、レポートではあと10年くらいで完全に溶けてなくなると予測している。加えて温暖化の影響で北極海周辺に雨がたくさん降るようになるため、北極海の塩分濃度が急速に低下する。塩分濃度の低下は、暖流を海底に沈み込ませる力を弱め、その結果暖流の流れが大きく変化し、欧州周辺を流れなくなってしまうというのだ。  
 現在、イギリスなど西欧諸国は、シベリアのような同緯度の地域と比べて温暖な気候だが、それはこの暖流が流れているおかげだ。暖流が流れ込まなくなれば、ヨーロッパはシベリア並みに寒冷化する。人々は極寒の地を逃れ民族大移動を開始し、食糧と水の供給をめぐって争いが起こり、EUが崩壊するということなのである。
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------------引用--------------
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070120it01.htm?from=top
温暖化対策強化へ、米政権が方針転換

 【ワシントン=貞広貴志】米政府高官は18日、ブッシュ大統領が今月23日に行う一般教書演説で地球温暖化対策の強化を打ち出す方針を明らかにした。
 発足直後に京都議定書からの離脱を表明したブッシュ政権が、年次ごとの重要施策をうたう一般教書に温暖化対策を盛り込むのは初めて。
 具体的措置として、エタノールなど代替エネルギーの推進や技術革新に加え、温室効果ガス削減に向け一定の義務的措置を導入するとの見方も広がっており、「温暖化の原因が人間の活動かどうかは不明」としてきたブッシュ政権にとって方針転換となる。

 政府高官は、「われわれは温室効果ガスの排出を削減する必要性を認識している」とも言明。一般教書演説では環境政策とエネルギー安全保障を総合した観点から対策を打ち出す方針を示した。

 スノー大統領報道官は18日、今年の一般教書について、温暖化・エネルギー問題が〈1〉対テロ戦争〈2〉移民政策〈3〉教育問題〈4〉医療保険――と並ぶ柱と位置づけられる見通しを示した。
(2007年1月20日3時0分 読売新聞)
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すなわち、このレポートの予測と温暖化対策が真実ならば、長期的に考えれば人類は生存圏を宇宙に求めざるを得なくなるということだ。つまり、宇宙ステーションやスペースコロニーや火星への殖民だ。

このような、短期的な対ランドパワー軍拡や長期的な地球環境激変という点を考慮するならば、間違いなく、人類は、新たな「大航海時代」を迎えることになる。

15世紀の欧州における黒死病の蔓延やオスマントルコによるコンスタンチノープル陥落が、新大陸発見につながる大航海時代を生んだように、シーパワー連合はフロンティアを宇宙に求めていくことになるであろう。

そのためにも、「現代の出島」であるUAEで行われるEnvironment 2007,28 Jan – 31 Jan, 2007における、チーム連山と国際金融資本であるRoyal Dutch Shell(英)やTOTAL(仏)との提携の成功は、宇宙開発までも視野に置いた水素文明の樹立と人類の未来にとって、死活的に重要な意義を有する。そのため、戦前には失敗した「日英米シーパワーの利益の分割」を今度はUAEを舞台に成功させる必要がある。その際のキーワードは「地球環境激変」になるだろう。真の戦略家は気候条件すらも己の戦略立案に活用する。諸葛孔明が赤壁の戦いで連環の計を立案した際、「東南の風」が吹くことを知っていたように。

<参考>
------------引用-------------- http://www.ee-uae.com/index.cfm?fuseaction=Exhibition.Pages&pageName=Exhibition&parent=Exhibition
"Bold ideas & better methods for preserving our environment".The 4th Major International Exhibition and Conference to be held at the Abu Dhabi International Exhibition Center, from 28 - 31 January 2007, under the patronage of the UAE President, His Highness Sheikh Khalifa Bin Zayed Al Nahyan. The focus of this prestigious event will be on Air, Energy, Water, and Waste, providing an ideal platform to promote products and services that relate to these very important elements. Official bodies pertaining to environmental matters from the MENA countries (Middle East and North Africa) and the rest of the world will be very prominent at Environment 2007. A fully fledged conference will run in parallel to the exhibition.
Environment 2007 Sponsors
Main Sponsor

------------引用--------------
<参考>
新春特別企画最終号で述べた、英米対立を念頭に入れ、下記を参照されたい。http://www.teamrenzan.com/archives/writer/edajima/post_168.html
------------引用--------------
http://inri.client.jp/hexagon/floorA6F_he/a6fhe600.html
エクソンとシェルは不倶戴天の敵──石油・エネルギー業界
【米保守本流=親ロックフェラー財閥系】
◆エクソン
◆モービル
vs
【英シオニスト=親ロスチャイルド財閥系】
◆ロイヤル・ダッチ・シェル
◆ブリティッシュ・ペトロリアム

ロックフェラー財閥の中核であったスタンダード石油が分割されてできたのが、エクソンやモービルである。特にエクソンは、メジャー中のメジャーで、世界一の石油企業。今日もロックフェラー財閥の中心的な存在である。
 
  


世界一の石油企業「エクソン」の海外ブランド名は「エッソ」である

これに対して、オランダの「ロイヤル・ダッチ石油会社」とイギリスの「シェル石油会社」を、ロスチャイルドが音頭をとって合併させたのが、「ロイヤル・ダッチ・シェル」である。
 

 

このイギリス=オランダ連合のロイヤル・ダッチ・シェルの子会社的存在が、英国のブリティッシュ・ペトロリアム(英国石油:略称BP)だ。ロスチャイルド系のロイヤル・ダッチ・シェル(以下シェルと略称)とロックフェラー系のエクソンは、石油・エネルギー業界の両横綱として、世界のエネルギー利権を争奪してきた、不倶戴天のライバルである。
オランダは、『アンネの日記』を思い出してもらえばわかるように、ユダヤ人の力の強い国だ。中世から近代に移行し始めたヨーロッパで、比較的宗教の自由のあったオランダにユダヤ人たちが集まり、これが一時、世界を席巻したオランダのパワーの根源になった。後述する電機のフィリップスも、オランダ生まれのシオニスト系の多国籍企業である。イギリスとオランダはかつてライバル関係にもあったが、シオニスト・コネクションという点では、相通じているのである。
このイギリス=オランダをつなぐ、「ロイヤル・ダッチ・シェル」連合と、米財界の雄「スタンダード石油」(エクソンの前身)は、1920年代から、世界中で、エネルギー利権の激烈な争奪合戦を繰り広げてきた。かつてのオランダとイギリスの植民地主義の遺産をがっちり守り抜こうとするロイヤル・ダッチ・シェル連合と、新興米国の国力を背景にこれを急追するスタンダード石油とは、当時世界最大だったバクー油田を、革命直後のロシアで取り合うなど、その戦いは中東でも中南米でもアジアでも激しく展開された。
もともと、ロイヤル・ダッチ社とシェル社は別会社であった。ロスチャイルド財閥は、革命前のロシアのバクー油田の利権を持っており、ロスチャイルド財閥がシェル社の極東部門に石油を供給していた。その後しばらくの間、極東アジアにおいては、ロイヤル・ダッチ社とシェル社はライバル関係にある。
しかし、ここに米ロックフェラー財閥のスタンダード石油(現エクソン)という強烈な敵が出現する。そこで、ロスチャイルド財閥が仲介して、ロイヤル・ダッチ社とシェル杜に反スタンダード石油の同盟を組ませた。そのとき設立されたアジア石油会社の株は、ロイヤル・ダッチ社、シェル社、そしてロスチャイルド財閥にそれぞれ三等分され、また取締役会の席も三者に二席ずつ配分された。これが現在のロイヤル・ダッチ・シェル社の出発点である。同社をロスチャイルド財閥の一員と呼ぶゆえんはここにある。

アメリカが国際政治に、一人前のプレーヤーとして登場するのは、セオドア・ルーズベルトが日露戦争の仲介を買って出た「ポーツマス会議」(1905年〈明治38年〉)をもってである。これ以前のアメリカは、ヨーロッパ各国から国際政治上の一人前のプレーヤーとは見られなかった。そして、第一次大戦で疲弊したヨーロッパを横目に、第一次大戦後の世界でアメリカは大国の地位を揺るぎのないものにする。
 

第26代アメリカ大統領
セオドア・ルーズベルト

また、この頃から、ロックフェラー財閥の中枢、スタンダード石油は、「すでに国内の主要油田はすべて発見された。今後は外国での新油田発見だ」との自覚のもとに、アメリカ外での石油利権の新規獲得のために、本格的に乗り出してくる。そして、ロイヤル・ダッチ=シェル連合と世界中で衝突を繰り返すのである。
第二次大戦後は、旧植民地利権に基礎をおくシェルは、超大国として登場したアメリカの力をバックとするエクソンに追い上げられる。しかし、世間で言われるところの「イギリス=大英帝国」の没落・斜陽とは別次元で、シェルやブリティッシュ・ペトロリアム(BP)はむしろ、よくその利権を守ってきたというべきである。
話は別分野になるが、《エクソン 対 シェル》の関係は、ちょうど通信社でいえば《AP 対 ロイター》の関係に似ている。アメリカを代表する通信社のAP。一方、イギリス帝国主義が世界に張り巡らせた情報網の基盤の上に成立しているロイター。ニュースの商人ロイターと、保険会社のロイズこそ、イギリス帝国主義が残した「情報ネットワーク」という遺産を、最もうまく利用した企業であった。近年におけるロイター通信社とロイズ保険の没落こそ、ビジネス面における、大英帝国の凋落を実感させる出来事であった。
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http://diary.jp.aol.com/a4pcpx/149.html
ドイツのダイムラーが、ガソリンで動く内燃機関を1883年に発明し、爆発的な石油ブームが起こりました。 その頃、中東の油田は未だ見つかっておらず、ヨーロッパではカスピ海のバクー周辺の油田が、最大のものでした。

ロスチャイルド・パリ家のアルフォンス・ロスチャイルドは1883年に、ロシア政府の財政難を助ける為に、公債を引き受けた見返りに、バクーで最大級のバニト油田を入手しました。

ボルネオに進出してたイギリスの「シェル」と、スマトラに進出していたオランダの「ロイヤル・ダッチ」は、当時アメリカで支配権を確立したロックフェラーの「スタンダード石油」に対抗する為に、「シェル」のユダヤ人、ロバート・コーエンの調停工作により、この2大石油会社は歴史的な合併をし、「ロイヤル・ダッチ・シェル」が1907年に誕生しました。

この調停工作を行った、ロバート・コーエンは、オランダの食品大手「マーガリン・ユニ」と、イギリスの食品大手の「リーヴァー・ブラザーズ」をも合併させた人物です。

「ロイヤル・ダッチ・シェル」は、販売する石油を確保する為に、1914年にロスチャイルドのバグー油田を買い取りますが、ロスチャイルド家は売却代金として、400万グルデン相当の「ロイヤル・ダッチ」の株(全株式の10%)と、24万ポンド相当の「シェル」を手にし、「ロイヤル・ダッチ・シェル」の大株主となります。

以後、石油業界のナポレオンと異名をとる、ヘンリー・デターディングが活躍し、ロバート・コーエンはその右腕として活躍し、ロスチャイルド一族は中東の石油を発掘し、ヨーロッパ最大、世界第二位の石油会社に成長させ、「ロックフェラー」と対峙しました。

但し、今日ではM&Aが繰り返され、世界最大の石油会社は、イギリスの「BP」で、2位はアメリカの「エクソン・モービル」、3位がイギリス・オランダの「ロイヤル・ダッチ・シェル」です。

ロスチャイルド家がバクーの油田を売却して、わずか3年後の1917年には、革命により、ロシアのロマノフ王朝が倒れ、外国資産は全て国有財産として没収されました。 あまりに見事な売り逃げであり、バクー油田と、10%の株を同時に失った、「ロイヤル・ダッチ石油」のデターディングは、ロスチャイルドはロシア革命を最初から知っていたのではないかと、死ぬまで恨み続けました。

「ロイヤル・ダッチ・シェル」と「ユニリーヴァー」を誕生させた、ロバート・コーエンは、次に「パレスチナ商会」を設立して、イスラエル建国に全力を投入しました。 事故のため、妻をパレスチナで失いながら、イスラエル建国を果たして、この世を去りました。  

ロバート・コーエンの息子のバーナード・コーエンは、ダイヤの「デビアス」と取引するイスラエルの「ユニオン銀行」副会長となり、ロンドン市長も勤めました。

この謎の男、ロバート・コーエンは何者なのか、何のことはない、父方も母方も、純血のロスチャイルド家であり、「ユニ・リーヴァー」をつくったバター・マーガリン帝国の、オランダのヴァンデンヴァーグ家も、ユダヤ人であり、ロスチャイルド家であったのです。
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                                       以上


2007年1月22日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL137

今回は、中東を支配するためのインド洋戦略について考えてみたい。ランドパワーとシーパワーが世界の覇権をかけて争うとき、必ず、中東の支配権を争奪する。

その場合、近代以降の世界史が教えることは、インド洋の制海権を確保した最強のシーパワーが、エネルギー供給源である、最重要の中東の支配権を得るということだ。

  これは、英国の3C政策とドイツの3B政策の衝突の結果としての第一次世界大戦、米英間の中東争奪としての第二次世界大戦、米ソ冷戦でも繰り返された「世界史のパターンだ」。「インド洋を制するものは中東を制し、世界を制する」ということだ。

現代の911以降の日英米軍の中東やインド洋への戦力投射も、全ては、この文脈で理解すべきだ。

 すなわち、「シーパワーとランドパワーの中東争奪戦が本格化」したことが、今日の中東の争乱事態の背景だ。

そして、ランドパワー陣営で、最も、中東を欲しているのは、間違いなく、北京政府だ。

  北京政府は、海外石油資源への依存度の増大に伴って、中東地域からアラビア海やアンダマン海周辺を経由し、北京政府に至るシーレーン沿いに戦略的拠点を確保する戦略を展開している。

  背景として、北京政府は2003年以降、石油消費量で世界第2位、輸入量で第3位となった。

北京政府は2001年からの第10期5カ年計画で、国家石油備蓄制度を創設しエネルギーの安全保障を確保することを決定した。
その後、寧波、舟山、青島、大連の4箇所に備蓄基地を設けることが決められ、2003年から建設が開始されている。2004年4月には石油戦略備蓄の運営・管理に当たる国家発展改革委員会(発改委)エネルギー局が正式に創設されている。4箇所での建設が決められた石油備蓄基地の中でも寧波の建設が最も順調に進み2005年9月には完成している。因みに、石油備蓄基地の整備の終わる2008年には、石油消費日数換算で35日以上の備蓄が行われることになる見込みである。

 しかし、中国政府が寧波に初めて建設した石油戦略備蓄タンクは、完成後6カ月経ってもほぼ空のまま置かれている。中国政府当局が、原油価格が高水準を続けているなかでの備蓄石油の購入をためらっているためである。つまり、実態は全く戦略備蓄が存在しない状況だ。
 よって、海外石油資源への依存度の増大(現在の依存度は40%、2025年には80%に達するという)が北京政府の戦略と政策形成を決定しつつあり、北京政府がアフリカ、中東・ペルシャ湾岸、ロシア、中央アジアなどからの安定した調達を図るため、「資源パラノイア」とも揶揄される積極的な外交戦略を実行すると共に、資源輸送のシーレーン防衛のために、外洋能力を持つ海軍と海外における軍事力のプレゼンス強化を目指している原因だ。

  つまり、エネルギー確保の必要から、北京政府は好むと好まざるとを関わらず、シーパワー戦略をとっているのだ。

  エネルギー安全保障は、資源供給先の確保と共に、それらを本国に安全に輸送することが不可分の関係にある。現在、北京政府の石油輸入量の80%がマラッカ海峡を経由しているとされているが、北京政府にとって、資源輸送のシーレーンの安全確保は重大かつ困難な課題である。米国は、これらの海域において強力な海軍力のプレゼンスを維持しているからである。北京政府は石油輸送におけるこの戦略的弱点を「マラッカ・ディレンマ」と呼んでいる。そのため、北京政府は、「真珠数珠繋ぎ」戦略(the string of pearls strategy)と呼ばれる、シーパワー戦略を実施している。 

  これは、中東、ペルシャ湾から北京政府に至る1万キロを超える長いシーレーン沿いに戦略的拠点を確保することを狙いとして、北京政府が展開している一連の外交的、軍事的措置の総称である。

「真珠」には、パキスタンのグワダルに建設中の港湾に対する財政支援、バングラディシュ、ミャンマー、カンボジア、タイ、南シナ海の島嶼に基地や外交的結び付きを確立するための商業的、軍事的努力などが含まれる。

  この戦略の問題点として、米海軍が海上自衛隊の支援を得て、マラッカやホルムズといった重要チョークポイントを封鎖すれば、戦略備蓄がほとんど存在しない北京政府は、それだけで崩壊するという事だ。そして、日米海軍の封鎖を突破する能力は中国海軍にはない。すなわち、海軍力を駆使した兵糧攻めに北京政府は耐えられないのだ。つまり、原油シーレーンは北京政府の致命的弱点であり、アキレス腱だ。

  この問題点の克服のため、2006年にパキスタンの軍指導者、ムシャラフ将軍の2度の北京訪問に強調されるように、パキスタンはアメリカから支援が受けられなかったため、クシャブ近くでの第2のプルトニウム生産炉完成完了を含む、より大きな北京政府の戦略的援助を求めている点に見られるように、北京政府との結びつきを強めている点に注目する必要がある。

 昨年の胡主席のパキスタン訪問の目的は、世界の石油供給の
40%が通過する、最重要なチョークポイントであるホルムズ海峡に近く、北京政府人の建設したグワダル港の開港だ。既に北京政府の情報収集拠点があり、北京政府海軍の寄航地でありそうなグワダルは、インド周辺の北京政府の前衛の一連の関連施設の新たな中心だ。

 石油と海軍施設を持つグワダルは、より強固にペルシャ湾のエネルギー資源を確保する北京政府の重要な戦略拠点として用いられる事も意図されている。
 
北京政府国営会社はグワダルから西北京政府にペルシャ湾の原油を搬送するパイプライン構築について調査している。このルートが開拓されれば、北京政府はマラッカを経由せず、陸路で中東の石油を本国に送ることができるようになる。つまり、シーパワー戦略をランドパワー戦略に転換できるのだ。そのための最重要な拠点がグワダル港であり、パキスタンとの友好関係だ。

<参考>
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http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/middleeast/gwadar.html

最近、アフガニスタン問題に絡んで再びグワダルが脚光を浴びている。内陸国のアフガニスタンにとって、最も近い海の出口はグワダル。グワダル港は北京政府の援助で整備が始まり、トルクメニスタンからアフガニスタンを通ってグワダルへ至る天然ガスパイプラインも建設が始まる予定だ。再び自由港に指定して貿易拠点にしようという計画もある。
------------引用--------------
------------引用--------------
http://www.visiongwadar.com/

VisionGwadar グワダルの開発計画のサイト。背景の写真はグルダルじゃなくて香港です。北京政府系企業がサイトを運営?(英語)
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このように、資源パラノイアと化した北京政府が中東へ接近すれば、必ず、英米の利害と衝突する。私は、米中開戦の可能性は、台湾海峡よりも、中東での方が高いと見ている。

それでは、このような理解を前提として、北京政府のシーパワー戦略が成功するかどうか、検討してみたい。

 結論から言って、北京政府のシーパワー戦略は、英米のみならず、インドとの対立を惹起し、失敗する可能性が非常に高い。

つまり、パキスタンが北京政府と組むなら、自動的にインドは日英米と組むシーパワー陣営になり、北京政府海軍は結果として、アウェーのインド洋で日英米インドの全海軍と空軍を敵にしなければならなくなるということだ。

インドと日本やアメリカの同盟関係を示唆するものとして、具体的には、米国によるインドの民生用原子力利用支援やインドの核保有容認を盛り込んだ米印原子力協力協定や日本政府がそれらへの支持を表明したことだ。

アメリカ軍のインドに対する梃入れとして、インド初の米軍装備導入が行なわれるようだ。インド空軍がロッキード・マーティン社製の輸送機「C-130J」の購買情報を求めたことが挙げられる。

C-130J(ハーキュリー)は、整備されていない滑走路からでも短い距離で離発着ができる輸送機で、システムによっては1機あたり7000万ドルする。販売に当たっては米議会の承認が必要な戦略兵器だ。アメリカはインド空軍の戦闘機採用計画に対し、F-16とF-18スーパーホーネットを提示している。

インド海軍が米海軍のヘリ「H-3シーキング」を6機購入するとの話もある。

更に、ロシアから購入予定の空母ゴルシコフ艦載機Mig-29K搭乗予定のパイロットは、アメリカに行ってT-45Aゴスホークで空母着艦訓練を受けるそうだ。

この様に、アメリカはインド海空軍を支援し、北京政府海軍への対抗馬としようとしている。太平洋は海上自衛隊、インド洋はインド海軍をそれぞれパートナーとして、米海軍の支援をさせるのであろう。

現代の制海権は制空権なしでは確保できない。エアカバーが無い艦隊は、大和の沖縄特攻と同じ結果になるのだ。

この点を考えると、更に、北京政府は分が悪くなる。つまりインド洋に空軍基地を持っておらず、かつ空母も保有していないため、エアカバーが全くないのだ。この点を考慮すると、インド洋で米軍と北京政府海軍が海戦を行ったら、サウジやディエゴガルシアに空軍基地を保有し、空母機動部隊を持っている米国の圧勝が予想される。

米軍は、制空権絶対支配戦闘機(Air dominance fighter)であるF22ラプターを嘉手納に配備することを決定した点に見られるごとく、対中シフトを強化している。

 圧倒的に優勢な米空軍のカバーを受けた、日米インド海軍の連合艦隊を、北京政府海軍が打倒する可能性は、0%でしかない。

何故なら、海軍戦略や空軍戦略において、ランチェスターの第二法則、すなわち、戦力二乗の法則が機械的に当てはまることを知る必要がある。

ここでランチェスターの第二法則について、市販本やWebサイトで紹介されている式を簡単に紹介する。
集団Xと集団Yが戦闘を行ったときに集団Xについて戦闘前の兵力x1、戦闘後の兵力x2とし、集団Yについて戦闘前の兵力y1、戦闘後の兵力y2とすると次の式に従う。(y12-y22)=E・(x12-x22)これが市販本やWebサイトでランチェスター第二法則として紹介されている式である。またEは集団Xの兵士の集団Bの兵士に対する「強さ」であるというものである。集団Xの兵力が1000、集団Yの兵力500で、集団Xと集団Yの兵士の強さが等しくE=1のとき、集団Yが全滅するまで戦闘が続いたら集団Xの残存兵力はどれほどかという問題に対してE=1、y1=500、y2=0、x1=1000を前述の式に代入すると(5002-02)=1・(10002-x22)∴250000=1000000-x22∴x2=866 (集団Xの残存数)つまり、兵士の強さは同じでも、集団Yは500の全兵力を失うのに対して、兵力1000の集団Xの兵力損失は 1000-866=134にとどまり、兵力の多いほうが圧倒的な勝ち方をするというものである。そこから兵力二乗の法則とも呼ばれる。この法則は、世界の戦史を見れば、陸戦よりも、海空戦によく当てはまっていることがわかる。何故なら、陸戦は、兵の士気や錬度や作戦の有効性や天候や将軍や参謀の能力や戦場の地形といった不確定要素が多すぎ、「変数E」を一意に特定できないが、海空戦では、兵器の性能を分析することで、変数Eをかなりの確度で特定できるからだ。実際、日本海海戦や太平洋戦争や湾岸戦争の結果は、海空戦において「兵力の多いほうが圧倒的な勝ち方をする」という、ランチェスターの第二法則が正しいことを如実に物語る。

 例えば、F22登場以前、世界最強戦闘機のF15は、過去20年の実戦で、100機を越える撃墜と被撃墜ゼロを両立している。そして、F22は、F15を相手にした模擬空戦で、圧倒的な戦績を残している。

<参考>
------------引用--------------
http://www.masdf.com/crm/eaglekilllist.htmlF-15
EAGLE 栄光の伝説ー全撃墜リスト
改訂版ーF-15イーグルが記録した20年間に渡る空中戦の結果を調べ、リストにまとめてみました。結果から言えば空対空戦闘において115.5機を撃墜しイーグルの損害は0。キルレシオ115.5:0という比類なき戦果こそが、30年間に渡り世界最強と言われ続けた根拠でしょう。
------------引用--------------

------------引用--------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/F-22_(%E6%88%A6%E9%97%98%E6%A9%9F)
2007年1月現在においてF-22には実戦経験がないためどれほどの空戦能力をもつかは未知数であるが、訓練中の模擬戦闘において驚異的な逸話がいくつも作り出されている最中である。例をあげれば、「1機のF-22が、世界最強の戦闘機の一つに挙げられるF-15を5機同時に相手にして、3分で全機を撃墜判定」「同じくF-15を相手として100戦以上行われている模擬戦闘において無敗」「アグレッサー部隊のF-16が300ソーティもの模擬戦闘を行ってついに一度もミサイルの射程内に捉えられなかった」等々、どれもF-22の高性能ぶりが良く分かるものである。
あるパイロットは「F-22Aと戦うのは、姿が見えないボクサーに顔面をタコ殴りにされるようなものだ」と形容している。詳細は不明だがテスト飛行でF-15とドッグファイトにもつれ込んだ際、目視は出来ているのにレーダーに映らないとF-15のパイロットが言っていた事からも、敵に回すと厄介な機体であることが伺える。
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 ここから、どういう解が導かれるだろうか。もし、北京政府が、「ランチェスターの第二法則」を理解できるのであれば、インド洋においてシーパワー戦略を実行したとしても、制空権も制海権も確保できないため、結局は、失敗することが分かるであろう。

 つまり、シーパワー連合は、インド洋を封鎖することで、いつでも、北京政府を兵糧攻めにできるのだ。そうであれば、北京政府は日米インドと中東で対立することの不利を悟るべきだ。

そうして、地続きのシベリアの資源を狙うというランドパワー戦略をとることが、妥当な戦略であることを理解するだろう。つまり、「南進をあきらめ北進する」ことこそが、北京政府の基本的戦略であるべきなのだ。この点で、日米英インドといったシーパワー連合は、北京政府を支援すらできるであろう。

Map of Russia with West Siberian Plain and the Central Siberian Plateau highlighted.
Map of Russia with West Siberian Plain and the Central Siberian Plateau highlighted. [シベリア]

 結果として、アルグン川・外興安嶺を両国国境と定めた1689年のネルチンスク条約以前の状態を回復し、シベリアの資源を手に入れるのだ。北京政府には、その戦略しか、残されていない。

Self-drawn by Alan Mak
Self-drawn by Alan Mak [ゴビ砂漠]

上述のグワダル港と北京政府の関係については、シーパワーが港の支配を奪った戦史を参考にすれば、今後の展開が読めるだろう。日本では、戊辰戦争の中で戦われた北越戦争がある。
北越戦争において、官軍は長岡藩に撃退され、劣勢だったが奥羽越列藩同盟の補給港である新潟を上陸作戦で陥落させた。その結果、列藩同盟はあっけなく崩壊した。

世界史では、「大陸を支配したければ、その港を奪え」という15世紀のポルトガルの海軍提督アルバカーキの言葉が参考になる。かって、英国はオランダのスペインからの独立戦争にあたり、徹底的に支援した。

 同じ新教国であったからというのは、表面的見方であり、真の理由は、オランダの港を支配できれば、全欧州の支配をスペインから奪うことができるからだ。

 つまり、グワダル港を奪い、マラッカを封鎖すれば、北京政府は、奥羽越列藩同盟やスペインのように滅ぶのだ。つまり、戦略備蓄の無い北京政府にとって、石油シーレーンは決定的な弱点でありアキレス腱だ。ここまで考えたら、アメリカは陸軍はサウジやクゥエートに終結させ、日本やインドの海空軍と連携し、インド洋を封鎖する戦略でランドパワー陣営を崩壊させることができることが分かるであろう。

これが、江田島孔明立案の対ランドパワー「連環の計」だ。この連環の計で北京政府を脱落させ、その後、北進させる。つまり、「対露五道侵攻計画」発動だ。

これが、今後のシーパワー戦略のグランドデザインであり、そのためには、インド洋の支配が決定的に重要になる。

より根本的には、地政学の黄金律である「大陸軍国は大海軍国を兼ねることはできない」という法則は、近代のフランス、ドイツ、ソ連によって、裏打ちされている。国家は戦略的二正面作戦を避けるべきなのだ。

そのことを北京政府に体で理解させるために、インド洋か東シナ海で海戦をやってもよいのだが。

参考:2 初期におけるインド洋での自衛隊の活動など

2007年1月20日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略新春特別企画最終号

今回は、新春特別企画の最終回ということで、号外その1その2で見てきた日本の過去のインド洋戦略とその蹉跌についての検討をふまえ、「もし江田島孔明が、1941年12月の時点で日本の陸海軍の統帥権を掌握していたら、どのように戦ったか」という、シミュレーションをしてみたい。独断と偏見、思い込みに裏打ちされて、「歴史のIf」を検討することほど楽しいものはないので、しばし、お付き合いいただきたい。

まず、太平洋戦争の本質とは何だったのかについて、考えてみたい。

太平洋戦争について、「自衛戦争」だったとか、「植民地解放戦争」だったとの主張もあるが、私は、そのような考えは取らない。

自衛戦争かどうかについては、戦略の観点から、実は、大した意味は持たない。戦争は勝たなければならず、自衛戦争でさえあれば、敗北が正当化されるものではない。

植民地解放戦争かどうかについては、単に結果論として、戦後、アジアにおける西欧の植民地が独立したことはあったとしても、それは、本来の目的ではなかったため、検討には値しない。

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何故なら、当時の日本の戦争遂行目的は明らかに朝鮮や台湾や満州の植民地支配を前提にしていたからだ。何よりも、昭和天皇陛下の出された開戦の詔勅に、戦争の目的は帝国の自衛とは書いてあっても、植民地解放とは一言も述べておられない。

私が見るところ、日本が太平洋戦争に突入し、国家消滅寸前の大敗北を喫したのは、ソ連コミンテルン-アメリカ民主党-英国国際金融資本をつなぐ「ユダヤネットワーク」の国際的謀略に嵌められたという事が真相だ。これが、前号で述べた、国際金融資本と日本との代理店契約である「日英同盟破棄」の論理的帰結なのだ。

この点を検討してみたい。前世紀の失敗である太平洋戦争の「真の意味と敗因」を検討し総括することは、次の戦争に勝つために、絶対に必要なことだ。

歴史的に見ても、徳川家康は、生涯最大の敗戦である、武田信玄との三方が原の合戦の折、浜松城に逃げ帰った際の憔悴しきった姿を絵師に描かせ、終生それを眺めては、戒めとし、教訓とした。家康は、晩年、「天下を取れたのは武田信玄のおかげ」と述べたという。

真の勝利を得るには、このような観点から、敗北からは、可能な限り戦訓や教訓を学び、次の戦争に生かすべきなのだ。これが死んでいった300万もの将兵や国民に報いる唯一の道だ。

WWII Imperial Japanese Navy Aircraft Photos
大日本帝国海軍が太平洋戦争中の昭和19年(1944年)に開発した特攻兵器の桜花(おうか)。最終的に10回の出撃が行なわれ、桜花特攻での戦死者はパイロット55名、その母機の搭乗員368名に上った。これに対し戦果は撃沈1隻、損傷5隻。[WWII Imperial Japanese Navy Aircraft Photos]

 当時の世界情勢を概観してみると、ソ連コミンテルンは、スターリンの指揮下、全世界の国際共産主義国家化をもくろみ、そのため以下の指令を日米中ソの共産スパイに下した。

①政府、軍部、官庁、財界、大学、マスコミの主要ポストにスパイを潜らせ、シンパをつくれ。

②日本軍を中国国民党との泥沼戦争に引きづりこめ。決して停戦させてはならない。

③日本の目をソ連から米国に向けさせ、日米戦争をしかけ、米国にたたきのめさせろ。

 まず、日米交渉の経緯は、史実の通りであり、ハルノートを受領した時点から、始めよう。

 周知のように、ハルノートを受領した時点での戦略状況は、シナ大陸での戦争が膠着していた。詳細は省くが、このシナ大陸からの撤兵問題が日米交渉の最大の争点であった。

帝国陸軍が問題視したのは、ハルノートの次の一節だ。
“3. The Government of Japan will withdraw all military, naval, air and police forces from China and from Indochina.”日本国政府は、支那及び印度支那より一切の陸、海、空軍兵力及び警察力を撤収すべし 

ハルノートの原案は、ハリーホワイト財務省次官補が作成したホワイト・モーゲンソー案である。ハリーホワイトは、モーゲンソー財務長官の腹心として、ドイツの非軍事、工業化を掲げたドイツ戦後処理についての「モーゲンソー案」を作成し、戦後の国際通貨体制を定めたブレトンウッズ会議にアメリカ代表として出席、国際通貨基金(IMF)創設の中心的役割を果たした。だが1948年夏アメリカ下院非米活動委員会において、E・ベントレーとW・チェンバース(いずれも元米国共産党員)は、米国共産党(コミンテルン米国支部)やアメリカ非公然組織長のイクサ・アフメーロフ(ソ連人民委員部)、ボリス・バイコフ大佐(ソ連赤軍第四部)が、アメリカ政府内に構築したソ連諜報網の全容を告発し、ホワイトがソ連のスパイであることを指摘したのである。ホワイトは公聴会でソ連スパイ疑惑を否定したが、その直後の8月16日、ジギタリスを大量服用し不可解な死を遂げてしまった。

事実は、彼個人ではなく、ルーズベルト大統領の側近のほとんどは、ソ連のスパイ、すなわち共産主義者であり、戦後のレッドパージで粛清された。

これは、アメリカ民主党とソビエト共産党が、同じように国際金融資本によって企画され、立ち上げあれた実験的管理国家だということを理解すれば、分かるであろう。

国際金融資本はレーニンに資金援助を与え、ロシア革命を起こし、米ロ両国の連絡役にドクター・ハマーと通称されるユダヤ人、アーマンド・ハマー(アメリカ共産党の創始者の息子)を任命した。一九二○年代早々のことである。ハマーはモスクワに数年間滞在し、レーニンを含むソ連の最高幹部と親密な関係を結ぴ、また、アメリカ情報部がソ連の大物スパイとみなしていたロシア人女性と結婚した。ハマーは、一九九○年に死去するまで、七○年にわたって米ソ間を数え切れないほど旅し、ソ連のトップと、アメリカの指導層を結ぴつけているが、彼はまたADL(すなわちプナィ・プリス)と緊密な関係にあるといわれる。

歴史的背景として、アメリカがシーパワーとして名乗りを挙げたのは、第一次大戦の戦勝国になり英国に対する多額の借款を保有したからだ。かの国は、本来、建国の理念であるモンロー主義(孤立主義)を国策として欧州への不介入を貫くはずだったのだがこの戦略転換の背後になにがあったのか?私はアメリカにおける金融資本家の政策への影響を看過できない。
 1929年NYで発生した大恐慌の結果、世界がブロック化していく中で日独といった後発資本主義国が武力に訴え生存圏を確保しようとする端緒となったしかし、大恐慌そのものの評価について、世界経済に与えたインパクト以上にアメリカにおける連邦政府の存在がクローズアップしてきたことは看過し得ない事実である。もともと、合衆国とは州に主権があり各州の主権を制限しない範囲で連邦に外交や安全保障を委ねてきたのである。そして外交的孤立(モンロー主義)を国是としていた。しかるに民主党のルーズベルト大統領のとったNewDeal政策は連邦主導の経済政策であり、この時期FBI、FRBを初めとする連邦諸機関が創建され強化されているのである。まさしくアメリカにおける連邦主権の管理国家が完成したのがこの大恐慌期なのである。

建国の父たちの理念、州の連合により中央集権ではないキリスト教原理主義に基づく理想郷を築くことはこの時期死んだということが言えよう。ルーズベルト大統領のとった政策は違憲判決が多数出されていることも忘れてはいけない。
 この視点は決定的に重要である。その後アメリカは連邦政府に引き連られモンロー主義という伝統的孤立主義の国策を捨て、世界に市場を求め、干渉していくのである。戦後の海外への米軍展開、駐留は合衆国憲法になんの根拠もない。そして、本来根拠がない事項は州に留保されるとの憲法上の規定(修正第10(州と人民の留保する権利)本憲法によって合衆国に委任されず州に対して禁止されなかった権利は、各州と人民に留保される。)があるが、米軍の海外駐留展開に対して州が同意を与えた形跡はない。はっきりいえば、海外市場獲得のため、NYの金融資本家がワシントンを通じて、アメリカを操作する契機を与えたのが大恐慌なのである。そして、彼らの究極の目的は中東と中国である。

 そして、国際金融資本は、当面の敵である、ナチスドイツを打倒するため、アメリカを欧州に参戦させる必要があった。しかし、アメリカの世論は、徹底的に反戦であり、ルーズベルトは、参戦しないことを公約にして、選挙に勝っており、欧州への参戦は、簡単にはいかなかった。

 そこで、注目されたのが、ナチスドイツと同盟関係にあった日本だ。 国際金融資本は考えた。日本をアメリカにぶつけ、アメリカを参戦させれば、対独戦は勝てる。ソ連にとっても背後を日本につかれる恐れがなくなるため、願ったりだ。毛沢東や蒋介石にしても対日戦勝利の可能性は高くなるだろう。

 このような中で発生したのが、朝日新聞記者尾崎秀実とソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲによって起こされた「ゾルゲ事件」だ。

コミンテルンは第6回大会で、「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめ」、「戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」と決議していた。日独と米英の間での「帝国主義戦争」が始まれば、共産主義者の祖国ソ連は安泰であり、また敗戦国ではその混乱に乗じて、共産主義革命をすすめることができる、という戦略である。
 
1935(昭和10)年8月の第7回コミンテルン大会では、中国共産党と国民党が手を組み日本と戦うという方針が決定された。蒋介石はもちろん、毛沢東でさえも知らない決定だった。中国共産党に対して、日本帝国主義打倒のための民族解放闘争をスローガンとして抗日人民戦線運動を巻き起こすことが命ぜられた。中国共産党は8月1日「抗日救国宣言」を発した。一切の国内闘争の即時停止、全面的抗日闘争の展開を企図したのである。これは中国を使って日本軍をソ満国境から遠ざけようという戦略である。
 
1936(昭和11)年12月に、突如として西安事件が起こった。共産軍掃討を続けていた蒋介石が、「抗日救国宣言」に呼応した腹心・張学良に西安で監禁されたのである。周恩来ら中国共産党幹部が西安にやってきて、蒋介石との交渉を行った。以後、蒋介石は共産軍との10年におよぶ戦いを止め、国共合作が実現した。その後、日華事変、太平洋戦争(大東亜戦争)と事態はソ連の思惑通りに進んでいくのである。

 コミンテルンの指示を知っていた尾崎は、監禁された蒋介石の安否が不明の段階から、「中央公論」に「蒋介石が今後の国共合作を条件に、無事釈放されるだろう」と予測する論文を発表した。この予測が見事に的中して、尾崎は中国問題専門家としての地位を固めた。

 1937年(昭和12年)の4月ごろから尾崎は「昭和研究会」に入り、「支那問題研究部会」の中心メンバーとして活躍していた。この「昭和研究会」は軍部とも密接な関係を持って、近衛新体制生みの親となり、大政翼賛会創設を推進して、一国一党の軍部官僚独裁体制をつくり上げた中心機関である。
 昭和13年4月、尾崎は朝日新聞社を退社、近衛内閣の嘱託となる。首相官邸の地階の一室にデスクを構え、秘書官室や書記官室に自由に出入りできるようになった。
 
尾崎は「中央公論」14年1月号に「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」を発表した。これに呼応して、陸軍省報道部長・佐藤賢了大佐も、「日本評論」12月号に「東亜共同体の結成」を発表する。
 
尾崎は「中央公論」14年5月号での「事変処理と欧州大戦」と題した座談会のまとめとして次のような発言をしている。
「僕の考へでは、支那の現地に於て奥地の抗日政権(重慶へ移転した蒋介石政権)に対抗し得る政権をつくり上げること、・・・さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地につくり上げて、日本自身がそれによって消耗する面を少なくしていく・・・さういう風な条件の中から新しい---それこそ僕等の考へている東亜共同体--本当の意味での新秩序をその中から纏めていくといふこと以外にないのじゃないか。」
 
尾崎は、中国に親日政権を作り、それをくさびとして、あくまで日本と蒋介石を戦わせようとしたのである。中国共産党は蒋介石を抱き込み、尾崎グループは親日政権を作らせて、日本と国民党政権をあくまで戦わせ、共倒れにさせて、日中両国で共産革命を実現しようという計画であった。

 近衛首相は、事変が始まった後、早期停戦を目指してドイツを仲介国とする交渉を行ってきたが、昭和13年1月には新たな親日政権の成立を期待して、「今後国民党政府を相手にせず」という第一次近衛声明を発表していた。同年11月、近衛は日本・満洲・支那3国の連帯を目指した「東亜新秩序」建設に関する第二次声明を発表。これは尾崎らの「東亜共同体」構想そのものである。この声明のなかで「国民政府といえども従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序建設に来たり参ずるに於ては、敢へてこれを拒否するものにあらず」と汪兆銘の動きに期待した。

まさに「見えない力にあやつられていたような気がする」という近衛の述懐通り、近衛内閣は尾崎とその背後の国際共産主義者すなわちコミンテルンの描いた筋書きに完全に乗せられていたのである。

 尾崎は、当時の近衛の嘱託という立場を利用して政策決定に影響を加えた。ゾルゲ・グループのもたらした情報はソビエトが対独戦を戦上で不可欠であった。1941年10月、日米開戦の予告をモスクワに通信したのを最後にして、彼とそのグループは検挙され、彼らのほとんどが終戦をまたずに刑死・獄死した。しかし、真の問題は、このコミンテルンのエージェントは、尾崎やゾルゲだけではなく、もっと広くかつ、深く、当時のエリートや支配者に入り込んでいた事だ。この事は、つい最近まで、国立大学で「民青にあらずんば、人にあらず」という風潮があったことでも、分かるであろう。

はっきり言えば、当時の日本は、革新官僚、昭和維新を目指す陸軍青年将校、知識人の主流は全て、「統制経済の共産主義者」であり、「国際共産主義ネットワーク」に牛耳られていたといっても過言ではない。これは、日本のみならず、大恐慌以降の世界的傾向だ。

例えば、アメリカでは、戦後、マッカーシー上院議員(共和党)が「205人の共産主義者が国務省職員として勤務している」と告発したことを契機に、ハリウッド映画界などをも巻き込んで大規模な「赤狩り」を行った。

後にはニューディーラーまで対象となった。当時のアメリカ国内では現実にコミンテルンがマスコミや政財界、軍部まで取り込み工作活動を行っており、マッカーシーらの活動は、手法に強引さはあったものの、当時のコミンテルン人脈を断ち切ったと評価されている。

英国は周知のように、フィルビーやマクリーンのような情報組織や外務省の大幹部がソ連のスパイという有様だ。

なお、チャーチルは、後に第二次大戦回顧録で、日本の対米開戦すなわち真珠湾攻撃の知らせを聞いて「これで勝てる」と確信したという。真珠湾は、敗戦寸前だった英国を救う効果があった。

こういった世界的な背景で日本の南進を決定付けた「ゾルゲ事件」を理解すべきだ。
ここまで読んでこられた賢明な読者はお気づきになられたであろう。そう、新春特別号その1、その2で述べたような17世紀のキリスト教布教と20世紀の共産主義の拡散とは、同じように、国際金融資本が当該国を精神面で支配するために使ったツールなのだということを。
そう考えると、国際金融資本の意図を正確に見抜き、キリシタンをご禁制にした17世紀の指導者と、共産主義者に国家の中枢を乗っ取られた20世紀の指導者と、どちらが優秀であったか、議論の余地は無い。
このように、太平洋戦争開戦にいたる過程をつぶさに検証すると、ソ連コミンテルン-アメリカ民主党-英国国際金融資本をつなぐ、「ユダヤネットワーク」の国際的謀略が確かに見えてくる。

近衛は、後にそのこと気がついたようで、昭和20(1945)年2月14日、天皇陛下に以下のごとく奏上したが、時既に遅しだ。
「翻って国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件具備せられゆく観有之候、すなはち生活の窮乏、労働者発言度の増大、英米に対する敵愾心の昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一味の革新運動、これに便乗する革新官僚の運動、およびこれを背後より操りつゝある左翼分子の暗躍に御座候。」
 
「これを取り巻く一部官僚および民間有志は(これを右翼といふも可、左翼といふも可なり、いわゆる右翼は国体の衣を着けた共産主義者なり)意識的に共産革命まで引きずらんとする意図を包蔵しおり、無知単純なる軍人これに踊らされたりと見て大過なしと存候。」

このように、太平洋戦争の本質とは、シーパワー陣営に属していた日本が、代理店契約を解除し、独自ブランドを立ち上げようとしたところ、英米ソ中の包囲網を巧妙に敷かれ、袋叩きにされ、その上で対独開戦の正当化をしたということだ。この、国際金融資本の書いたシナリオに気づいたのは近衛だけではなかった。戦後、日本占領軍司令官マッカーサーも気づいたようだが、彼は、朝鮮戦争を巡るトルーマン大統領との確執、はっきり言えば、アメリカが国際金融資本に乗っ取られていることへの批判が根底にあったため、解任された。このことに見られるように、米軍とは、常に、国際金融資本への批判勢力だ。

それでは、このような理解を前提にして、昭和16年12月の時点で、どのような戦略をとり得たかを検討してみる。

まず、上述のハルノートであるが、識者の中には、これは最後通告だと述べるものがいる。しかし、実際は、履行期限すら明示されたものでなく、単なる「試案」にすぎない。その程度のものに対して、過大に反応し、「英米開戦已む無し」と短絡した当時の陸軍は、まさに脳内お花畑状態であり、国際金融資本にしてみれば、赤子の手をひねるようなものであっただろう。

確かに、ハルノートは日本を挑発するものであった。わたしなら、長城以南のシナ本土から段階的に撤兵をした後、ハルノートを「徹底的に黙殺」する。そうすれば、アメリカは面と向かっては日本を非難できない。そして、他の挑発を考えてくるだろうが、それも「徹底的に黙殺」する。これは、「韓信の股くぐり」なのだ。

1.太平洋戦争開始(1941年12月)

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そして、黙殺で得た時間を使って、インドネシアとシンガポールを攻撃し、その上で、連合艦隊をインド洋に遊弋させ、英国東洋艦隊をインド洋から追い払う。そのためには、インド洋の英国東洋艦隊の根拠地を一掃し、逆に帝国海軍の基地とする。そうして、東南アジアとインド洋を支配した後、余勢を駆って、スエズ運河と豪州を落とす。当然、下記のようなアメリカ国内で反戦運動を煽る工作も行う。

<参考>
------------引用--------------
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%8B%E3%82%89%E6%95%91%E4%B8%96%E4%B8%BB-%E3%83%A1%E3%82%B7%E3%82%A2-%E3%81%8C%E6%9D%A5%E3%81%9F-%E5%87%BA%E4%BA%95-%E5%BA%B7%E5%8D%9A/dp/4104468010
日本から救世主(メシア)が来た
太平洋戦争前、「白人支配の打倒」を訴えて黒人を扇動し、反米破壊活動を続けた1人の在米日本人がいた。本書は日本、米国でもほとんど知られていない中根中氏という人物にスポットを当てたノンフィクションだ。
 中根氏は「日本人は同じ有色人種の黒人を解放するために、この国(米国)に乗り込んでくる。日本が戦争に勝てば、黒人は自由になれる」という言葉で、人種差別に苦しむ米国の黒人たちを魅了した。彼は黒人たちから救世主のように慕われ、最盛期には10万人もの黒人を組織したという。
------------引用--------------

2.南方作戦(1942年3月頃まで)

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これで、戦略的持久とナチスドイツロンメルアフリカ軍団と、スエズでの握手ができ、インド洋の支配が完成すると、中東地域の日本支配も可能になるだろう。結果としてユーラシア大陸封鎖網が完成する。すなわち、かっての、ポルトガルや英国といったシーパワーがインド洋を支配することで世界の覇権を握ったこ戦略と同じ「チョークポイント支配戦略」をとるのだ。

3.インド洋作戦開始(1942年5月頃まで)

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史実としては、開戦直後の日本軍は、マレー沖海戦で、英国の戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパルスを撃沈し、バタビア沖海戦勝利で東南アジアの制海権を握り、ジャワ島を攻略し、第一段作戦である南方資源地帯占領が終了した。
しかし、日本側としては南方作戦が予想よりも早く終了したため、第二段作戦の検討がされ始めていたが、セイロン島に進出してインド・中国方面を攻略し、ドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側と、オーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側(特に軍令部)とが対立し、最終目標をどことするのかが決まらない状態であった。
この状況において、虎の子の空母機動部隊(南雲機動部隊)をインド洋に転用し、戦力の復活しつつあった英国海軍東洋艦隊を撃滅すべく行われたのが、インド洋作戦である、セイロン沖海戦だ。大本営では、1、セイロン島攻略、2、当時北アフリカで快進撃を続けていた独・伊との中東での連携(西亜打通作戦)も検討されたが、インド洋における連合軍の基地航空戦力等を考慮して中止され、セイロン島攻撃を含むインド洋作戦のみ実施されることとなった。
結果として、コロンボ基地並びにトリンコマリー軍港を破壊された英軍東洋艦隊はインド洋での展開を断念し、アフリカ東岸のマダガスカル島まで退避した。このころ地中海の戦況は枢軸国側有利であり中東、インド方面の連合国側船団は地中海-スエズ運河ルートではなく喜望峰-インド洋のルートへ迂回していた。マダガスカル島はこの迂回ルートの途上に位置しておりマダガスカル島の港や飛行場が日本軍に占拠されると中東及びインド方面との補給路が絶たれる恐れがあった。
英国の撤退により、英国海軍は日本軍がマダガスカルを前進基地として使用する可能性に対処しなければならなくなった。日本軍がヴィシー政府と協力してマダガスカル島の基地を使用できるようになれば、日本軍の航空機や潜水艦がマダガスカル島に配備され、連合軍の商船のみならずマレー沖海戦で戦艦を撃沈された英国海軍の艦隊にとっても脅威となることが予想された。
当時、日本海軍の潜水艦は各国の潜水艦の中で最長の航続距離を持っており、16000㎞以上もある潜水艦もあった。もし、それらがマダガスカル島の基地を使用できたら連合国の太平洋、オーストラリアから中東、南大西洋の範囲に広がる海上交通網に影響することになるのであり、それまで影響の少なかったため守りが手薄であった西インド洋、南大西洋が日本海軍の攻撃にさらされることも予想された。
セイロン沖海戦の結果、英国艦隊は日本艦隊を攻撃する機会をとらえ得ず、逆に機動部隊の空襲を恐れて旧式戦艦等の低速部隊をアフリカ東岸に後退させた。さらに5月31日 戦艦ラミリーズがマダガスカル島のディエゴワレズで日本の特殊潜航艇の雷撃を受け大破した。
これによってインド洋東西両側間の制海・制空権は、一時完全に日本軍の掌中にあった。しかし、間もなく日本機動部隊はミッドウェー島攻撃のため、太平洋方面へと移った。
これも、ドーリットルにより東京を空爆されたため海軍の面子を傷つけられたことから、泥縄的に立案された作戦であり、結局は惨敗し、虎の子の空母四隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)と精鋭パイロットを多数失い、主導権をアメリカに奪われるだけの結果に終わった。
そして、連合国はマダガスカル島への上陸作戦(アイアンクラッド作戦、Operation Ironclad)を実行し、全島を支配した。
このように、日英の海戦では、日本が圧勝しているのだから、真珠湾攻撃やミッドウェー攻撃といった太平洋作戦を行わず、陸軍戦略に従い、海軍もインド洋作戦に全軍を投入していたら、マダガスカルどころか、南アフリカまでも取れたであろう。その上で、インドネシアの石油を押さえ、戦略的持久戦の持ち込むのだ。
つまり、このインド洋作戦成功の骨子は、上述の「韓信の股くぐり」を徹底できるかによる。国内が反戦で固まっているアメリカに参戦の口実を与えてはいけない。単純にそれだけだ。

4.インド洋作戦後半(1942年後半)

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何よりも、帝国海軍の対米戦略は、本来、「西太平洋でのアメリカ太平洋艦隊の迎撃」だったのだ。
それを、何をとち狂ったか、山本五十六が独断で軍令部の反対を押し切って、リスクの非常に高い真珠湾やミッドウェーといった奇襲攻撃を採用したところに、最大の失敗がある。
戦略的見て、当時の軍事的常識からすれば、日本の戦争目的は石油・ゴムなどの南方資源を確保することにあり、アメリカ軍は大日本帝国海軍がフィリピンに攻め寄せると考えており、ハワイが攻撃対象となるとは考えていなかった。
つまり、戦略的に考えて、ハワイ攻撃でどういう戦略目標を達成したかった、全く不明だ。真珠湾攻撃は、日本海軍の大勝利のように言われているが、実際は、陸上の石油備蓄設備や空母といった戦略的価値の高いターゲットを無傷で逃しており、かつアメリカの世論を反戦に傾けるという狙いは全く逆の効果(Remember pearl harbor)を生んだ。
これで、真珠湾攻撃の目論見であった、「一撃講和論」は、潰えたのだ。こうなると、彼我の生産力が問題になるだけだ。これが、最大の戦略上の失敗だ。
思うに、上述のように、当時の日本の中枢部がコミンテルン操られていた様に、海軍上層部、中でも山本五十六もそのような謀略に引っかかり、操られていたのではないだろうか。そう考えなければ、真珠湾攻撃は、全く説明がつかない。この点に関しては、現時点で、確実な証拠はないが、いずれ、明らかになるであろう。実際に、真珠湾攻撃は、米国民の意思を参戦に転換させるため、上述のようなルーズベルト大統領と背後の国際金融資本がしかけた罠で故意に日本艦隊の情報を現地に知らせなかったとする説は、非常に根強い。
この点につき、キッシンジャーも「日本がイギリス、オランダだけを攻撃したら、アメリカの参戦はむずかしかっただろう」と言っている。
さて、江田島孔明ならば、上述のように、決して真珠湾攻撃のような愚策はとらず、インド洋作戦に専念し、インド洋の支配から、地中海へ抜ける陸海軍連合の打通作戦を実施する。当時、陸軍は、南方作戦一段落後長期持久の態勢に移り、兵力を浮かしてビルマからインド-西アジア打通を図って北アフリカでのドイツ・イタリアと連携することによってまず英国の脱落を目指す戦略構想を持っていた。即ち海軍の対米との東向き短期決戦に対して、陸軍は西向き長期持久作戦であった。この陸軍の戦略に海軍が合わせるべきなのだ。この辺の戦略上の調整なくして開戦してしまうというのが、そもそも失敗だ。このような戦略の不在は、指導者が不在で官僚国家となった昭和期の日本の最大の欠陥であり、限界だといえる。

5.独ソ戦(1942年後半)

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ここで問題になるのが、もし仮に、真珠湾が無くても、アメリカ太平洋艦隊が西太平洋に進出してきた場合だ。むしろ、この展開は、海軍軍令部の想定内であり、願ったりの展開だ。
例えば、開戦時の軍令部総長永野修身大将は東京裁判の被告となり、昭和二一年に巣鴨拘置所内で延べ七回にわたって尋問が行われた。真珠湾攻撃に関する尋問が一一月一四日に行われた。片岡氏は尋問の詳細を紹介している。次はその要約である。「連合艦隊の山本長官は真珠湾攻撃を選んだが、軍令部はこれをあまりに投機的とし、米艦隊を南太平洋諸島に邀撃する温存方法を選んだ。永野総長は軍令部案に賛成していたが、山本長官が非常に強硬だったので、一〇月の終りか一一月の始めに賛成した。総長は、軍令部の計画の方が理論的であると思ったので、これを希望した。しかし、もし山本長官の計画が通らなければ、彼は辞職するだろうから、辞職させぬためには、賛成するほうが最良の策だと考えて、真珠湾攻撃計画に賛成した。この決断に対して、総長は責任を負う」。永野修身の獄中日記には「ハワイ攻撃の責任をとるかの問に対して、もちろんとの返事。気持ちよし」と書いている。

 海軍の作戦の最高責任者は軍令部総長であるから、総長の命令なくして真珠湾攻撃の実施はない。永野総長は、山本長官の真珠湾攻撃よりも、軍令部の南太平洋諸島に米艦隊を邀撃する作戦に賛成であった。即ち、「アメリカと戦争になったら、それまでのプランどおり、アメリカ太平洋艦隊がフィリピン救援のため、ハワイからマーシャル群島を通ってやってくるのを迎え撃てばいい」というのが軍令部の案であった。軍令部案に賛成すると、山本長官が辞職するので、やむなく真珠湾攻撃に賛成したという趣旨である。
私の戦略では、上述のように、インド洋を支配した後、長期持久戦略をとり、ひたすら待ち続ける。そして、何らかのきっかけで、アメリカが参戦するようなことがあっても、こちらからは手を出さない。
真珠湾が無ければ、アメリカは大鑑巨砲主義のままで、戦艦や巡洋艦と少数の空母を大挙して、差し向けるだろう。それを、西太平洋で迎え撃つのだ。この場合は、日本のホームで戦う、いわば日本海海戦と同じようになるだろう。
時期としては、昭和17年か18年頃だ。決戦場所は、まずはミッドウェーとフィリピンの中間あたりで、潜水艦の雷撃により、空母を集中して破壊する。その上で、日本の機動部隊を繰り出し、空母を全て破壊する。戦艦と巡洋艦で構成される残存艦隊はそのまま小笠原諸島沖まで前進させ、最後は、大和、武蔵の46センチ砲で、アウトレンジ攻撃をし、全隻を撃沈する。

6.小笠原艦隊決戦、日英講和会議(1943年前半)

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7.小笠原艦隊決戦、詳細

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これは、絵空事ではなく、上述のように海軍軍令部が日露戦争後から練りに練った対米戦戦略なのだ。成功確立は90%以上であり、まさに、日本海海戦の再現だ。
万一、米艦隊がインド洋の制海権を狙って、マッラカ海峡を越えたら、潜水艦や駆逐艦を使って、補給線を絶てばよい。それだけで、艦隊は立ち往生し、自滅するだろう。上述のように、インド洋の基地を全て帝国海軍を押さえている状況で、米海軍がインド洋に入ることは、自殺行為なのだ。
問題は、この「小笠原諸島沖海戦」の勝利をその後の講和にどのように活かすかだ。これができなければ、アメリカはその工業力と製造力を活かして、強大な空部機動部隊と大量の航空機部隊を繰り出してくるだろう。そうする前に、講和しなくてはいけない。

8.日英講和会議後の世界支配

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日本は、当初からアメリカ本土の全面的支配を目指していたわけではなかった。何とかして講和に持ち込むことができれば、それでよかったのだ。これは、日露戦争の状況と全く同じだ。
すなわち、一回の海戦の勝利を講和に結びつける必要があったのだ。日露戦争においては、その役割をアメリカが担った。「小笠原諸島沖海戦」においては、その役割を英国が担うことになる。この時点で、日本はインド洋の支配から、英国を脱落させている。英国は大西洋でもドイツと死闘を繰り広げていたため、アメリカの艦隊が極東で全滅したという状況で、少なくとも講和への仲介はやるだろう。その際の日本の条件は、ナチスドイツと英国との講和の仲介だ。
ヒトラーは本来、英国とドイツはシーパワーとランドパワーであり、目指すものが違うため利害が衝突せず、同盟を組めると見ていた。ヒトラーにとっての真の敵は、隣接するランドパワーである、ソ連だったのだ。
彼は、イギリスと協力してソ連を叩こうとする戦略を持っていた。これは、「わが闘争」にも明記された彼の戦略だ。彼の戦略を簡単に言うと、「英国とは同盟し、ソ連を打倒し、東方にドイツ民族の生存圏を築く。ドイツは西方には興味が無い。」ということだ。ところが、イギリスはフランスとともにドイツに宣戦布告した。
実際、史実においても、1941年5月10日、独ソ戦の開始直前にヘスはイギリスに向けてBf110戦闘機を操り、驚異的な単独飛行を行う。既にバトル・オブ・ブリテンはドイツの失敗に終わり、防空網を突破したことも奇跡的だったが、飛行はヒトラーに非常な驚愕をもたらし、ヒトラーは「おお神よ!ヘスが英国へ飛んだ!」と一人叫んだと言われる。
目的はイギリスとの停戦交渉であった。ヘスは旧知のハミルトン公爵が住むスコットランドの居城に飛び、公爵を介して独力で独英単独講和をまとめようとしたのだった。これは、失敗に終わったが、そこを太平洋からインド洋に至る制海権を握った日本が仲介するのだ。講和条件として、ドイツによるフランスの占領を解いてもいい。そして、その講和をもって、日米の講和を英国が仲介する。
この案の骨子は、英国に本拠を置く国際金融資本と日本で再度インド洋とアジアを分割する「日英同盟」を結び、アメリカを排除するという密約を結ぶことができるかどうかだ。つまり、新春特別号その2で述べたような、ワシントン会議での日英同盟破棄とアメリカのアジア進出以前に時計の針をもどすことができるかどうかが、焦点になる。
歴史を見れば、確かに、日本は敗戦国となり、英国は戦勝国となった。しかし、戦後、英国は、植民地が尽く独立し、かつ、最重要の中東利権をアメリカに奪われたという意味で、実は最大の敗戦国だったという見方もできる。つまり、穿った見方をすれば、米英は同じシーパワーとして、市場を争う最大のライバルであり、英国は、二度の世界大戦で、アメリカを育てて、結果として、基軸通貨としてのポンドと世界市場中でも中東の支配権を奪われたのだ。
この、「英国から米国への覇権移行」こそは、第二次世界大戦の真の意味であり、世界で最も重要な戦略的地域である中東支配者が変わったことを意味する。

つまり、新春特別企画その1で述べたような、ポルトガルからオランダさらに英国へというシーパワーの覇権の移行が起きたのだ。

この動きを理解するために、30年代初頭に遡って考える必要がある。30年代初頭とはとはいうまでもなく、大恐慌のさなか、主な国々がブロック経済確立へ向け動いた時期である。欧州の対米輸出は29年の13億ドル強からわずか3年後の32年、3億9000万ドルに縮小。米国の対欧輸出も同期間、23億ドル強だったものが7億8000万ドルへ激減した。29〜34年の間、世界貿易額全体は66%も縮小している。
こうした事態を招いたのは、米国におけるスムート・ホーリー関税システム(Smoot-Hawley Tariff Act, 1930年)と、英連邦・植民地諸国を対象としてつくられた帝国特恵関税システム=オタワ協定システム(32年)に代表される、ブロック経済システムほかならなかった。
しかし現実の米英は、およそ一枚岩などではなかった。緩やかな利益共同体ですらなく、ワシントンとロンドンの間にくすぶっていたのは、一つのあからさまな敵対関係である。
32年、オタワ会議でつくられた体制によって、大英帝国は「情緒の帝国(an empire of sentiment)」から「通商政治同盟(a commercial and political union)」へ脱皮した といわれる。以来大西洋の両岸をはさんで、貿易戦争、通貨切り下げ戦争は熾烈(しれつ)に戦われていた。
切り下げられたポンドによって輸出競争力を増した英国製品は、ついに米国の裏庭というべき中南米諸国に市場を拡大した 。ここで留意すべきは、ワシントンから見た場合、中南米市場に侵入する外勢として、英国とドイツは同列に見えたということである。
一方、「1920年代から30年代を通じてつづいた経済面での競合は、米英両国関係を冷たいものにしていた。30年代も半ばとなると、大恐慌以来の雇用問題を解決する一助として、米国人の目は貿易の拡大に向けられるようになる。ところがそこで目の前に立ちふさがっていたのが、英国の帝国特恵関税システムであって、そのおかげで米国製品は差別されていた」 。
例えば米国製タバコ、米国製自動車は、高率関税のおかげで英国市場へ入っていけない。これらに憤懣を抱き、オタワ協定を「米国の通商に深手をおわせるもの」と見なし、大いに反発していた者こそはハル国務長官である。
34年、ハルの指導力によって生まれた互恵通商協定法は、関税に関する交渉権を議会から大統領に付託するものだった。以来米国はこれを武器とし、外国政府に関税引き下げを迫っていく。
このようないきさつだったので、欧州で戦争が起き、英国が孤立すると、米国はこれを千載一遇の好機ととらえたわけである。その場合、困窮した英国を支える武器貸与協定は、英国から特権を剥奪するため十二分に生かすべきテコであり、格好の武器であると見なされた。
米国から英国へ武器を貸与する協定を結ぶに際し、オタワ協定でできた特恵関税システムを、こと米国商品に限っては無効とせざるを得ない条件を含むものだった。また通貨の自由な切り下げを許さない内容を含んでおり、英国の経済運営の自主権すら剥奪されかねないと予想された。
しかも守らない限り、米国から英国への武器貸与は実現しない。まさしく最後通牒というべきもので、英国が突きつけられた「ハル・ノート」であると呼びたいゆえんである。
戦後の国際通貨、決済制度を定めたブレトン・ウッズ体制の創設においても、米英は対立する。
英国案は、世界の手形集中決済所のようなものをつくろうとするものだった。各国公的当局の持ち込む収支尻を相殺させあう場所である。その際の決済通貨として、バンコールなる新通貨を創設することが予定されていた。
英国は外貨準備の払底に悩み、戦後対外赤字をつづけていかねばならないことが容易に予見されていたけれども、ケインズ案による限り、「金、外債[という外貨準備]なしで、つまりバンコール預金の創設で、ある程度の輸入を続けることができる」。
バンコール口座を開くのに、元手はいらない。新設機関は、加盟国から出資金の拠出を求めないものとなる。それなら米国の抜きん出た経済力は反映されず、つまりは英国の退勢も映し出すものとならない。
それがケインズ提案のうまみであったが、ブレトン・ウッズ会議でつくられることになった国際通貨基金(IMF)は、およそ似ても似つかないものとなった。
米国案を基礎とするIMFは何よりも、拠出に基づく機関である。出資割当額は、戦前の貿易額を基礎として算定することを求めたケインズの「最後の抵抗」を入れず、各国の金保有高、国民所得額を基準とすることになった。
出資割当額は投票権の大小につながる。米国の覇権を反映するものとなったわけで、ケインズと英国は、完膚なきまで敗北したわけである。結果として、ポンドは基軸通貨の立場をドルに奪われていく。これが、「シーパワーの覇権交代」だ。
このような、英米対立を国際政治面で決定付けるものとしては、戦後、英国が中東の再支配を目論んで再起を期した、1956年のスエズ動乱とアメリカの対応が、其の事を雄弁に物語る。
この点についてチャーチルは、戦後吉田茂に「日英同盟を解消したのは失敗」と述べたそうだ。
このように、第二次大戦にアメリカを関与させたことが結果として、英国からシーパワーの盟主の座を奪うのであれば、日英が昭和18年時点で手を組み、「アジア、中東からアメリカを排除する」という戦略も英国にとっては、メリットがあるだろう。
上述のように、米艦隊が小笠原沖で壊滅した直後なら、この提案に、英国はかならず乗ってくる。条件として、日本がいったん支配したインドやスエズをくれてやってもいい。これは、インド洋の半分と大西洋を英国に渡すという、日英間の「トリデシャス条約」なのだ。
前号や前々号で見たように、シーパワー同士はこの様な形で、「談合による利益の分割」が可能だ。この案の骨子は、日本が、一度支配したインド洋の西半分を英国に戻すということができるかどうかだ。
これは、日本が自己の攻勢終末点を認識できているかどうかに関わってくる。インド洋を単独で長期間支配することは、太平洋国家の日本には、そもそも不可能なのだから、シンガポールの支配とマラッカの支配により、東半分をのみを押さえ、西半分は英国にまかせ、攻守同盟を結ぶほうが、合理的だということだ。
この案は、もちろん、フランスやドイツにもメリットがある。英米は当然、対ソ支援を止めるだろうから、独ソ戦はドイツの有利に進むだろう。日本が陸軍を満州に集中させ、ソ連の背後を牽制すれば、モスクワを落とせるかもしれない。
そうなった時点で、日本が独ソの講和を仲介する。ドイツは資源の豊富なソ連の南部と東欧を得て、ドイツ人の生存圏とし、フランスには本土の回復と、アフリカを与える。つまり、東欧とソ連はドイツ、西欧とアフリカはフランスの影響下に入るのだ。
中国は国民党の支配が達成され、日本と講和し、ソ連共産党が崩壊した後のシベリアを手に入れる。
史実では、アメリカは、ソ連を援助し、日本を徹底的に潰してしまったため、中国の共産化に直面し、朝鮮戦争やベトナム戦争を戦わなければならなくなった。これは、アメリカが国際金融資本に操られ、日米戦を経由し対独戦に参戦させられるという戦略的な誤りがあったためだ。「真の敵」を取り違えていたといえる。
アメリカもこの事に戦後気づいたようで、それが、マッカーシズムすなわち、赤狩りに繋がった。マッカーシーは著作「共産中国はアメリカがつくった-G・マーシャルの背信外交」の中で、共産主義と資本主義の対立、米ソ冷戦などというものは嘘っぱちだ!第二次世界大戦が終わった後の世界秩序を、自分たちの思うがままに不安定にして、戦乱の火種を残そうとした勢力がいる。世界を自由主義と共産主義に分割し、意図的に両陣営を対立、拮抗させることで利益を得る者たちがいる。それが「新世界秩序」の設計図を引いた者たちであり、彼らに抜擢され操られ上手に使われた政治家が、ジョージ・マーシャル国務長官その人である。と痛烈に批判している。
すなわち、冷戦とは第二次大戦がそうであったように、国際金融資本が企画、立案した、「八百長のやらせ」であったということだ。
しかし、上述のように、日英同盟主導で世界を管理すれば、アメリカは、国際金融資本の代理人である民主党政権が倒れ、アメリカの国益を追求する共和党政権となり、従来のモンロー主義の孤立主義に戻る。
日本は、小笠原諸島沖海戦勝利後は、当然、米国共和党に働きかけ、講和への仲介を依頼しつつ、フィリピン以東は米領のままで中国や満州へのアメリカ資本投下も認める旨を条件とする。
そうすれば、戦後の朝鮮戦争以降イラク戦争にいたる、ユーラシアでのアメリカの戦争は不要で、冷戦も無いことになり、世界は安定する。
そして、日英主導で世界を管理した後、相互の植民地は1970年代には形式上独立していき、ゆるやかな連邦を築く。
モデルは、英連邦だ。英連邦の1971年の定義「民族の共通の利益の中で、また国際的な理解と世界平和の促進の中で、協議し、協力する自発的な独立の主権国の組織である(コモンウェルス原則の宣言前文)」と再定義され、ゆるやかな独立主権国家の連合となった(連邦国家ではない)ことが参考になるだろう。シーパワーの支配とは通商の自由であり、自由貿易連合にその本質がある。
いずれにせよ、戦争開始の直前で従来の西太平洋迎撃戦略を泥縄的に大幅に変化させ、先制攻撃戦略をとり、真珠湾以降、ミッドウェイ、マリアナ、大和の沖縄特攻と、先制攻撃に出ては、負け続けた帝国海軍の愚昧さは、筆舌に尽くしがたい。
いわゆる海軍乙事件(古賀連合艦隊司令長官殉職事件)により作戦計画や暗号が米軍に漏れていたのに何の対応もとらなかった点や、補給や輸送を徹底的に軽視し、米潜水艦によってシーレーンを寸断され、支配地域を全て餓死地獄に追いやった点などみると、むしろ、最初から、本気で対米戦をやる気が無く、利用されただけだということなのだろうかと訝ってしまう。
技量世界一のパイロットや史上最強の戦艦大和や世界初の空母機動部隊といった戦術分野では世界水準ながら、「戦略で失敗すると、戦術ではリカバリーできない」といういい例だ。
この様に検討していくと、太平洋戦争に日本が突入し国家消滅寸前の大敗北を喫したのは、「ソ連コミンテルン-アメリカ民主党-英国国際金融資本をつなぐ、「ユダヤネットワーク」の国際的謀略に嵌められたためだった」という結論以外、あり得ないことになる。
簡単に言えば、例えば、アストンマーチンの独占的代理店がベンツに乗り換えようとして代理店契約解除した報復を、輸入元であるアストンマーチンから受けたということだ。
これが、前号で検討した、国際金融資本と日本との代理店契約である「日英同盟破棄」の論理的帰結なのだ。
そうであるならば、21世紀の日本のインド洋戦略において、国際金融資本との紐帯を維持するしかない。そうでなければ、どのような罠が待っているかわからない。そして、その際に参考になるのは、17世紀の指導者の対応だろう。
注意すべきは、16世紀から引き続く国際金融資本と日本とのバトルは、金融ビッグバンや三角買収の解禁を見てもわかるとおり、現在進行形だ。そう考えれば、経済の根幹である金融や産業の神経である通信において、日本政府がメガバンクの統合やNTT持ち株会社方式により、「外資支配の排除」を行っている理由も分かるであろう。これは、国家安全保障をかけた、ギリギリの攻防の結果であり、高山右近のようなキリシタン大名を出さないための手段として、自由化しつつも、重要産業の中央集権と国家統制を図っているのだ。
ここで、第二次世界大戦の敗北により得られた、もっとも大きな教訓である、「大戦参加各国の攻勢終末点」について述べてみたい。上述の家康の例を引くまでもなく、真の戦略家は、敗戦から最も多くのことを学ぶのだ。
まず、攻勢終末点とは、各国の地政学的条件により、支配可能な最大エリアと定義できる。簡単に言えば、他のランドパワーやシーパワーを排除できる最大領域だ。このエリアを越えて拡大した場合、崩壊が待っている、いわば、ポイント・オブ・ノーリターンだ。このエリアが第二次大戦を通して、参加各国毎に明確になったのだ。
まず、日本は、シーパワーであり、シーパワーである以上、海洋の支配とその手段としての島や港の支配が必要だ。この観点から、小笠原から沖縄、台湾、シンガポールそしてインド洋のセイロンにいたるエリアが攻勢終末点であろう。帝国海軍の力で、このエリアの支配は十分可能だった。中でも、シンガポールの支配は太平洋とインド洋の「結節点」でもあり、シーパワー支配の根幹をなす。
次に英国は、日本との同盟を継続しさえすれば、ジブラルタルからスエズ、南アの支配に特化し、地中海と中東、インド支配を継続することは可能だ。すなわち、インド洋の西半分の支配だ。
ドイツは、いうまでもなく、北アフリカと東欧そして、ロシアの南部すなわちスターリングラードとエルアラメインが攻勢終末点となる。これは、史実としてのドイツ軍の最大進出領域と完全に重なる。つまり、ランドパワーのドイツ軍は、逆立ちしてもインド洋の支配権を得ることはできず、結果として中東の支配もできない。これは、3B政策が英国の3C政策に対抗できず、結果として中東を支配できなかったことから考えても、妥当な結論であろう。この点は、現在のEUも同じだ。
アメリカにしても、最も効率的なのは、アジアにおいてフィリピン支配に特化することだ。そうすれば、太平洋の覇権は日米で相互承認できる。実際、1905年の桂・タフト協定により、日本とアメリカは、朝鮮とフィリピンの権益を相互承認した前例もある。アメリカが中国に過大な期待を抱かず、中国支配を目論む国際金融資本に操ら、日本と戦争しなければ、この桂・タフトの線で、日米の利権は調整できたことは間違いない。
ソ連は、ドイツが崩壊したことにより東欧を支配できたが、上述のようにドイツが日本とスエズで強力し、ユーラシアの東西とインド洋、地中海からソ連に圧力をかければ、ソ連崩壊は間違いない。
フランスは、ドイツの東方進出の見返りに西欧とアフリカを手に入れる。
結局、地中海とインド洋を日英が支配するために、ジブラルタル、スエズ、セイロン、シンガポールと南アを結ぶ飛び地を日英で協力して押さえればいい。これによって、インドや中東を含む、ユーラシアの南側を封鎖でき、海洋国家連合は栄華を極めるだろう。

 ここまで、新春特別企画を通じてインド洋と世界の歴史を見てきて分かった事は、「インド洋を制するものは中東を制し、地中海を制するものは欧州を制し、太平洋を支配する勢力は日本を支配する」のだということだ。すなわち、「制海権は制陸権に勝る」ということだ。

 この点を理解すれば、陸地の支配とは、海洋の支配を失えば、本質的に脆いものであることが分かるだろ。すなわち、「陸と海の勢力限界」を明確にする必要がある。アメリカのイラク戦争は、この点の考察が全く無かったため、失敗したのだ。
このような歴史的考察に基づいた「21世紀の日本のインド洋戦略」は、「世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略」において、順次、掲載していく。
以上

参照

文明史的に見たエネルギー戦略の将来(3)<p/>

対談1 峯山政宏と孔明(1)

対談2 峯山政宏と孔明(2)

対談3 峯山政宏と孔明(3)

革命者

若者を犠牲にする社会

国民の品格を復活せよ

若者はなぜ会社をやめるのか

格差社会

アジア通貨危機

あやうい高所得者層

なぜ古代ローマ帝国は滅亡したのか

2007年1月15日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL136

今回は、ブッシュ政権が画策する対イラク2万人増派の影響を検討してみる。

まず、この時期に増派が検討されているのは、増派によってテロ組織に大攻勢をかけ、一旦、治安が回復するとその後の撤退が可能になるという思惑からだろう。

しかし、過去の戦史を見ると、このような決定は、最悪の戦略である、「兵力の逐次投入」でしかなく、失敗することは見えている。

<参考>
------------引用--------------
http://www.sankei.co.jp/kokusai/usa/070113/usa070113006.htm
「4つの戦争 同時進行」米国防長官、増派に理解求める
 【ワシントン=有元隆志】ゲーツ米国防長官は12日、ブッシュ大統領が発表したイラク新政策をめぐる上院軍事委員会の公聴会で証言し、混迷を続けるイラクの現状について「4つの戦争が同時に進行している」との見方を示し、2万人以上の米軍増派決定への理解を求めた。
 4つの戦争は具体的には(1)イスラム教シーア派同士の抗争(2)首都バグダッドなどでの宗派間の暴力(3)武装勢力による攻撃(4)国際テロ組織アルカーイダによる攻撃。武装勢力の活動は宗派対立を激化させようとの目的もあるとの見方も示した。「中東の悪い連中がみなイラクで活動している」としてアルカーイダ、イラン、シリアのほか、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラ(神の党)の存在を挙げた。
 ゲーツ長官は増派による治安回復が成功した場合は「年内に撤退を開始できるかもしれない」との見通しを示した。米国がイランに武力行使する可能性については「必然性はない」と否定した。
------------引用--------------
------------引用--------------
http://www3.nhk.or.jp/news/2007/01/14/d20070113000056.html
 ライス国務長官は12日、ワシントンを出発し、19日までの日程で中東各国のほか、イギリスとドイツを訪問することにしています。今回の歴訪では、まずイスラエルとパレスチナ暫定自治区を訪問し、オルメルト首相やアッバス議長と個別に会談して、和平プロセスの推進にむけて意見を交わすことにしています。このあと、ライス長官は、エジプトをはじめ、ヨルダンやクウェート、サウジアラビアを訪問し、ブッシュ大統領が10日に発表した新しいイラク政策に基づいて、イラクの安定に向け政治・経済面での協力を呼びかけることにしています。また、アメリカは、今回の新しいイラク政策で、イランがイラク国内でアメリカ軍への攻撃に使われる兵器を供給しているなどと非難して、ペルシャ湾に新たに空母機動部隊を派遣するなど、イランとの対決姿勢を鮮明にしており、ライス長官は、イランへの包囲網づくりにむけてアラブ穏健派各国に協調を働きかけるものとみられます。
------------引用--------------

この、「兵力の逐次投入」については、前例として、1942年8月から開始された太平洋戦争のガダルカナル戦を検討してみたい。
ガダルカナル戦は、南太平洋の小島、ガダルカナル島の飛行場を日本軍が攻略しようとした陸戦であり、日本陸軍がアメリカ軍と初めて本格的に衝突した戦いであった。
戦局の推移については、帝国陸軍は最初はわずか900名の一木支隊第1挺団、次は6,000名の川口支隊と一木支隊第二挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退された。
一般に、ガダルカナル戦は日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した戦いと認識されており、それは一面において確かに事実である。しかし、必ずしもそのことがガダルカナルの敗北の本質ではない。それ以上に、限られた戦力で東部ニューギニアとガダルカナルという二正面作戦を行い、自軍の先端根拠地(ラバウル)から1,000キロ以上も離れたところに一足飛びに基地を推進しようとし、敵の戦力と戦意を根拠なく見くびり、それ故兵力を小出しにして典型的な兵力の逐次投入に陥った上に、補給の根幹となる輸送計画も作戦計画も安易であったために、同じ失敗を二度三度と繰り返した、粗雑な作戦に本質的な敗因があったと考えられる。
物量について言うと、最終的には米軍の物量は日本軍を圧倒したが、一連の戦闘の全期間でそうであったわけではない。8月頃の時点では、米軍は第一次ソロモン海戦での敗北のため、輸送船団が一時退避するなどして重装備や弾薬の揚陸が遅れており、物量はかなり欠乏を来していた。(アメリカ軍側で言う「八月危機」)また、ヘンダーソン飛行場の米軍機は60-100機前後で推移しており、ラバウルその他の日本軍の基地航空隊の方が数が多かったし、空母の艦載機を含めても同様だった。輸送船団に対する米軍機の攻撃も微弱であり、この時期か、あるいは遅くとも川口支隊の総攻撃の時期までに、一木支隊・川口支隊・第二師団の全力を揚陸して攻撃を掛けていた場合、戦闘の帰趨は全く異なっていた可能性が高い。この戦闘に参加したアメリカ軍海兵隊少将ヘンダーソン氏は後に、こう語っている「実際の手順とは逆の手順で日本軍が来襲していたら、ガダルカナルの連合軍は成す術もなく追い落とされていただろう」。
しかし、実際には日本軍は最初はわずか900名の一木支隊第1挺団、次は6,000名の川口支隊と一木支隊第二挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退され、機数では米軍を上回っていた航空戦力も、ガダルカナル島から1,000キロ以上も離れたラバウル基地からの出撃では航続距離の限界で、戦場上空での滞空可能時間がわずか15分に過ぎず、その力を大幅に削がれたのだ。
つまり、ガダルカナル戦は、兵力の逐次投入と同時に、補給や兵站計画の杜撰さという、日本陸海軍の作戦計画の問題点が如実に現れた戦いだった。私には、イラク戦争のアメリカの対応が、どうしても、ガダルカナルとダブってしまう。
まず、イラクは、その地形から、海に面した部分がバスラ港だけであり、イランやシリアと長大な国境線をもつという意味でランドパワーだ。そうであれば、イラクを安定させるには、イランやシリアとの間の国境をコントロールし、テロリストの出入国を阻止しなければいけないことになる。果たして、2万人程度の増派で、長大な国境線を管理できるのか。
例えば、イラクと同じように、ソ連との間に長大な国境線を抱えた満州国において、その防衛のため、帝国陸軍は独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は74万以上に達した。精強百万関東軍と言われたのはこの時期である。
そして、戦史上最大のランドパワー同士の死闘である独ソ戦において、ナチスドイツはバルト海から黒海にいたるエリアを3個軍集団150個師団300万人で攻め込んだのだ。
このように考えると、ランドパワーを制覇するには、とかく、マンパワーが必要なことがわかる。そうすると、たった2万人程度の増派で一時的にせよ治安が安定するなどと考えているのは馬鹿げている。むしろ、増派は、その後の撤退のシグナルと解釈されれば、テロリストを勢いづかせるだけであろう。
米陸軍内部において、当初からイラク戦争には反対意見が多く、兵員も少なすぎるという考えが主流であった。それを政治に押し切られたのだ。今回も、増派が決定すれば、同じだろう。
これは、ナチスドイツにおいて、ヒトラーが国防軍の作戦に干渉しまくったため、結局は敗退したという故事を彷彿とさせる。
むしろ、もはや、アメリカはこの程度の戦略の基本すら理解できないところまで追い詰められているといえる。増派は、アメリカの断末魔の叫びとなるだろう。
以前、コラムで書いたことだが、アメリカはイラクから撤退し、サウジやクェートに兵力を集中させるしかない。そうしなければ、これら穏健派諸国がイスラム原理主義者に制圧されるという最悪のシナリオが待っている。そうすれば、イラクの内戦どころの騒ぎではない影響を世界に与える。
そして、イランとは、イラクの東半分、すなわちメソポタミアの支配を認めることで、逆にイスラエルの生存を承認させ、核兵器を放棄させる。
これが落としどころとなってイランをランドパワー陣営からシーパワー陣営に寝返らせることができれば、シーパワーの勝利は間違いない。かって、イランはパーレビ王朝下で親米国だったのだ。
私が見るところ、中東核戦争を避け、アメリカのイラク撤退を平和裏に行うには、この条件しかない。なお、私が以前から主張しているイスラエルの対イラン先制攻撃について、7日付の英紙サンデー・タイムズは複数のイスラエル軍筋の情報として、イスラエルが対立するイランの核関連施設を破壊するために、核兵器による攻撃計画を立て、空軍の2個中隊が長距離飛行などの訓練を行っていると報じた。
 イスラエルはイランの核開発への危機感を強めており、同紙によると、ウラン濃縮地下施設のある中部ナタンツで、イスラエル空軍機が通常爆弾で地面に穴を開けた直後、同じ場所に核兵器を撃ち込む計画があるという。
戦史を紐解くと、アメリカがベトナムから撤退した直前、米中国交回復がキッシンジャーと周恩来との間でなされている。
アメリカのニクソン大統領(1913~94、共和党、任1969~74)は、深刻なドル危機と泥沼のヴェトナム戦争に苦しむ中で、1970年2月にニクソン=ドクトリンを発表し、海外特にアジアへの過剰介入を避けるという方針を表明した。
 しかし、その一方で、カンボジャ侵攻(1970.4)・ラオス侵攻(1971.2)を行い、ヴェトナム戦争をさらに拡大した。この戦争拡大は国内で強い反発を招き、ヴェトナム反戦運動や大学紛争が激化した。
 1960年代後半以降、ヴェトナム戦争の戦費の増大・海外投資の増加・貿易赤字の増大などによってアメリカの国際収支は著しく悪化し、国際通貨であるドルに対する信用が大きく低下した。
 こうした内外の危機に直面したニクソンは、中国との和解なしにはアジアの平和はあり得ないと考えるようになり、1971年7月にキッシンジャー(1923~)大統領特別補佐官(任1969~73)を秘密裡に中国に派遣した。キッシンジャーは周恩来首相と会談し(7月9~11日)、15日にニクソン大統領が翌年5月までに北京を訪問すると発表した。
 1971年のキッシンジャーの訪中以後アメリカは従来の政策を転換し、中華人民共和国の国連加盟は支持するが、台湾の中華民国政府の追放には反対するとの方針をとり、同年9月に中華民国政府の追放を重要事項とする逆重要事項指定決議案と、中華人民共和国と中華民国政府の二重代表制案を国連に提出し、日本も共同提案国となった。
 しかし、10月に開かれた国連総会では、逆重要事項指定決議案は否決され(賛成55、反対59、棄権15)、中華人民共和国の代表権を認め、中華民国政府を追放するというアルバニア案が可決された。
 1972年2月21日、ニクソン大統領は、アメリカの大統領としては初めて中国を訪問し、27日に共同声明が発表された。米中共同声明で、アメリカは平和五原則を承認し、これによって長い間敵視してきた中華人民共和国を事実上承認した。
 背景として、1969(昭和44)年3月黒竜江(ウスリー河)の珍宝島(ダマンスキー島)をめぐる中国とソ連の国境武力衝突が発生し、中ソ間が極度の緊張状態に置かれていたことがあげられる。中国もこのような状況でアメリカとの関係改善を欲していたのだ。
 つまり、米国のベトナム撤退には、中国との関係改善が必要であり、そのためには、中ソの対立が必要ということだ。
この歴史的事実に学ぶなら、イラクをベトナム、中国をイランと置き換えることができる。つまり、米国とイランがどのような条件で妥協できるかが、イラク情勢を占う上で、最大の焦点となろう。
最近実施された、イランの選挙では、対米関係の改善を求める穏健派が伸びたようで、この動きの先にどのようなイランに対する調略が有効かを考える必要がある。
繰り返すが、それには、「シーア派イラクの分離独立とイランによる支配あるいは保障占領の承認」しかありえない。
フセイン政権時代に弾圧されたシーア派によるフセイン元大統領の処刑は、スンニが中心のアラブ諸国とイラン(ペルシャ)との精神的な分断を、一層深めることになると考察される。イラクは、一国であることは不可能なほど、国内が割れている。これをたった2万の米軍の増派で元に戻すことは、断じて不可能だ。
むしろ、連邦の失策による州兵の死傷者数の増加はアメリカの分裂、内乱の呼び水にすらなるだろう。
<参考>
------------引用--------------
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20061218AT2M1800118122006.html
イラン選挙で穏健派が躍進
 【ドバイ=加賀谷和樹】イラン専門家会議、地方評議会の両選挙は17日、中間開票集計でラフサンジャニ最高評議会議長(元大統領)ら保守穏健派の躍進が決まった。アハマディネジャド大統領の保守強硬路線への批判票が穏健派に流れたのは確実で、3年後の再選を目指す大統領が核開発などで路線修正を迫られる可能性もある。
 両選挙の開票情勢について、保守穏健派と共闘したとみられる改革派の有力政治団体、イスラム・イラン参加党は「アハマディネジャド一派の明白な敗北」と主張した。これに対し、アハマディネジャド大統領は「敵(米欧)は(イランの)弱点を見つけたと考えただろうが、国民は知性を世界に知らしめた」と述べ、民主主義の機能を評価してみせた。
 最高指導者の任免権を持つ専門家会議選では、政敵のラフサンジャニ議長がテヘラン州選挙区でのトップ当選を決めた。同議長は指導部ナンバー2として大統領を監督、指導する立場だが、核開発問題を巡って米欧との対話再開を求めており、大統領の路線とは一線を画している。 (09:33)
------------引用--------------
------------引用--------------
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20061218AT2M1800118122006.html
イラクでシーア派狙った自動車爆弾が相次ぎ爆発、72人が死亡
12月31日13時0分配信 ロイター
------------引用--------------
------------引用--------------
http://www.asahi.com/international/kawakami/TKY200701090200.html
 フセイン処刑の意味
2007年01月09日
編集委員・川上泰徳
 2006年は12月30日のフセイン元大統領の死刑執行というショッキングなイラク発のニュースで締めくくりとなった。直後に、携帯電話のカメラで処刑の様子を収めた画像が、インターネット経由で流れた。元大統領が「アッラーフ・アクバル」(神は偉大なり)とイスラム教の聖典の言葉を唱えた後、「ガタン」という鋭い音で絞首台の床が開く瞬間が映っている生々しい内容だ。映像は絞首台の上から撮ったものと、下から撮ったものもあるが、処刑の後、暗がりのなかでロープが付いたままの元大統領の顔を執拗に、それもかなり近くから映した画像も含まれている。
 映像の残酷さとともに、処刑の直前に立会人の中から、「地獄へ落ちろ」という罵声が元大統領に浴びせられたことが、元大統領が所属するスンニ派の怒りを掻き立てている。さらに世界を驚かせたのは、大統領の処刑の直前に、コーランが唱えられた後、「ムクタダ、ムクタダ、ムクタダ」と、シーア派の反米強硬派の指導者ムクタダ・サドル師の名前が、3回にわたって連呼されたことだ。
 サドル師はマフディー軍という民兵を抱え、イラク戦争後、激しい反米攻撃を行った強硬派のシーア派指導者である。2005年12月の総選挙にシーア派の統一名簿に参加し、ハキーム師が率いるイスラム革命最高評議会(SCIRI)やジャファリ前首相やマリキ現首相が属するダワ党と並んで、主要勢力のひとつとなった。特にシーア派内ではマフディー軍とSCIRIの民兵のバドル軍は、シーア派聖地ナジャフの攻防で衝突したこともあり、敵対する関係だ。シーア派統一連合の首相候補の選出で、ダワ党の候補とSCIRIの候補が競った時に、サドル師派はダワ党を押した。
 サドル師派が政治的に復権したばかりではない。マフディー軍は米軍占領下で反米蜂起を繰り返していたころは、シーア派の中でも「無法者」視されていた。いまではシーア派住民にとって守護者として頼られる存在にさえなっている。さらに昨年2月に、イラク中部のサーマッラにあるシーア派聖地のモスクが爆破される事件が転機となった。スンニ派とシーア派の衝突が激化し、報復合戦になった。マフディー軍がスンニ派地区を攻撃したシーア派の主力であったことは言うまでもないが、対立の状況が強まるにつれて、シーア派の民衆は頼りにならない治安部隊よりもマフディー軍に地域の警備や危険分子の排除で頼るようになる。新年早々のイラクのアッザマン紙のインターネット版を読んでいると、バグダッドでシーア派住民が集まるサドルシティーでは、マフディー軍は地域の警備のために、15歳から45歳までの男性を強制召集し始めたというニュースが出ていた。
 フセイン元大統領の処刑という場に、サドル師派の関係者がいたことは、米国のイラク政策の失敗とともに、同派が現在のシーア派主導政権の中核にいるということを象徴している。シーア派住民の多くは、憎いサダム・フセインに「地獄に落ちろ」の言葉が投げつけられたことに喝采を挙げたことだろう。「ムクタダ」への連呼とあわせて、サドル師派にとっては大きな宣伝効果があったはずだ。
 問題は、なぜ、マリキ政権は米国の反対を押し切ってまで、フセイン元大統領の性急な死刑執行を行ったかである。
 結局、元大統領が裁判で問われたのは、82年に大統領暗殺未遂事件があったシーア派の村で約150人の村人を処刑した罪だけとなった。88年にイラク北部のクルド人の町ハラブジャに化学兵器を使用して住民5000人を虐殺した事件や、91年の湾岸戦争後にイラク南部のシーア派による大規模な蜂起を軍事弾圧して10万人とも言われる住民を虐殺した事件、さらには90年夏のクウェート侵攻など、歴史的な“犯罪”は起訴もされず、真相が明らかにされる機会は永遠に失われてしまった。
 政治的に重要な意味を持つはずのフセイン元大統領が、いとも簡単に処刑されてしまったのは、言葉の繰り返しではあるが、フセイン元大統領が政治的に重要な意味を持つ時代を、完全に過去に葬ろうとする意図である。シーア派にとっては、フセイン元大統領に象徴されるスンニ派主導の旧バース体制との決別と言ってもいいだろう。つまり、現在、政権を主導しているシーア派が、旧バース党勢力と妥協して、スンニ派との暴力的な混乱を収拾するような選択はないことを、元大統領の処刑で明確に宣言したことになる。
 もともとは戦後のイラク体制で、旧バース勢力を排除したのは、米国である。旧政権幹部とともにバース党の幹部、さらにフセイン体制を支えた旧政権の治安・情報機関の関係者を完全に排除した。旧政権の治安と秩序を支えてきた機構を排除すれば、混乱するのは当然であり、米国にはイラク占領に全く準備がなく、場当たり的だったことや、軍事力にたいする過信があったことなどとあわせて、致命的な失敗となった。
 米軍が04年6月に占領を終わらせ、主権委譲の相手として選んだアラウィ暫定政府首相は、治安回復のために、旧治安・情報関係者など、旧政権関係者を復活させ、自らの権力基盤の強化に使うことで、態勢の立て直しを図ろうとした。アラウィ氏はシーア派の世俗派で、自らが元バース党幹部だったが、フセイン態勢の下で亡命を強いられた。その立場は、反フセイン体制ではあったが、反バース体制ではなく、治安や行政の立て直しのためには、旧バース党人脈の復活が必要だと考えていた。
 アラウィ氏は国内のスンニ派の取り込みに成功して、さらに周辺アラブ諸国の支持も得た。その後、米国も、アルカイダを封じ込めるために、旧政権勢力が主力のスンニ派武装勢力への政治参加を求める方針に代わってきた。特に、ハリルザード米大使が駐バグダッド大使に就任してから、その傾向は強まり、シーア派にはハリルザード大使を「スンニ派の手先」と反発する声もでた。
 今回のフセイン元大統領の処刑で、最も打撃をうけたのは、スンニ派勢力や旧政権勢力との政治的な駆け引き材料として、元大統領を使おうとしていた米国や、アラウィ氏であろう。シーア派政権は、元大統領がそのような取引材に使われる機会をつぶすために処刑を早めたのだ。
 フセイン処刑で、明らかになった米国とシーア派政権の食い違いは、出口戦略を探る段階にはいった米国のイラク政策に、暗い影を投げかけることになろう。シーア派政権は旧バース党人脈の復活をゆるすような形で、混乱を収拾する意図は一切なく、あくまで旧体制を力で清算し、シーア派優位の上での秩序の再構築を貫徹するつもりだろう。シーア派は「フセインを処刑すればスンニ派は反発し、状況はさらに悪化する」という世界の危惧や心配に、耳を貸すはずもないのだ。状況悪化は、折り込み済みである。
 イラクで政権を主導するシーア派が、あくまで自力で新秩序の構築をめさして動いている時に、米国には何ができるだろうか。イラクのシーア派の背後にはイランの軍事的、政治的、財政的な影響力があり、イラクでシーア派が覇権を確立することは、スンニ派主導のサウジアラビアなど湾岸アラブ諸国やヨルダンにとっては大きな脅威だ。
 米国には、そのような秩序を受け入れることはできないだろうが、それをつぶすことも出来ない。米国にできることは、そのようなイラク・シーア派に対して関与し続けることである。強大なシーア派を前に米国が支えてきたアラウィ氏や、米国との協調を取り始めたスンニ派勢力を支え続ける意味もある。引くに引けない状況ということになる。
 ブッシュ政権が新たに発表する新イラク政策は2万人程度の米軍増派になると報じられている。混乱収拾のために、旧バース党関係者の政権復帰を求める項目も含むという。何のための2万人増派なのか。イラクの混乱を止めるためには焼け石に水である。意味があるとすれば、米国が逃げ腰になっているという印象を打ち消すことだろう。つまり、イラクに関与しつづけるという政治的な意思を示すための2万人増派である。

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以上

2007年1月13日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略新春特別号その2

前号に引き続き、日本にとってのインド洋とは何なのかを、その歴史を通して、検討してみたい。まず、私が年末の号外である、「海洋国家連合のインド洋戦略」や新春特別号その1で述べたことを要約すると、「シーパワーにとっての対外政策は多国籍企業の企業活動そのもの」ということができる。
 これは、我々が通常思い浮かべる「主権、領土、国民」を要素とする従来型の国家像が、実はランドパワーである欧州大陸で30年戦争後に生まれた概念ということを考えれば、大航海時代以降のインド洋の覇者であるポルトガル、スペイン、オランダ、イギリスは、国家というより、現代的なグローバルな多国籍企業の魁として捉えるべきだということだ。
つまり、シーパワーのエトスが、実は、「主権、領土、国民」の護持にあるのではなく、「交易によるあくなき利潤追求」すなわち「資本主義」にあることを理解すれば、時代によってその扱う交易品が、奴隷であったり、コショウであったり、金銀や原油であったりするかの違いが存在するだけで、その「本質は全く変わらない」ということがいえる。つまり、煎じ詰めて言えばシーパワーの栄枯盛衰とは、多国籍グローバル企業経営そのものなのだ。
シーパワーの本質を多国籍グローバル企業の企業活動と置き換えると、いろいろなことが分かる。彼らの東方貿易とは、つまるところ、マーケティング戦略である、「交易ルートや生産拠点や市場をいかに独占するか」という点で、全く同一なのだ。
そして、「独占」が不可能な場合、「談合」による既得権の相互承認を行ったり、「海戦」すなわち「敵対企業の買収」をしたりする。
シーパワーがその既得権を談合により相互承認した例として、有名なのが、先発のポルトガルと後発のスペインの1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約だ。

背景としてポルトガルとスペインによる新航路開拓と海外領土獲得競争が白熱化すると両国間に激しい紛争が発生した。さらに他のヨーロッパ諸国が海外進出を開始したため、独占体制崩壊に危機感を募らせた両国は仲介をローマ教皇に依頼して、1494年にトルデシリャス条約、1529年にサラゴサ条約を締結して各々の勢力範囲を決定し既得権を防衛しようと図った。

その後、新興の英国やオランダといったプロテスタントが盛んに海外進出し次第に先行していた両国を凌駕していった。
談合が不可能で、企業買収(海戦)を行ったのが、1571年にオスマン・トルコ艦隊をスペイン艦隊が撃破したレパント海戦や、1588年には英国艦隊がスペイン艦隊を撃破したアルマダの海戦だ。

このように、談合に訴えるか、企業買収に訴えるかは、その時々の競合状況や企業文化(宗教)等によって規定される。
このような視点でインド洋の覇者の交代を鳥瞰すると、おもしろい法則があることに気づく。それは、「インド洋の覇者は必ず日本を手にいれ、それから中国へ向かう」ということだ。
すなわち、1543年のポルトガル商人の種子島漂着から1593年スペイン領フィリピン総督の使節としてペドロ・バプチスタが到着し、1600年リーフデ号でオランダ人ヤン・ヨーステン、イギリス人ウィリアム・アダムスが漂着してから後、諸国は、明らかに「日本貿易を独占」しようとして、争った。

そして、常に、「インド洋の制海権を支配した最強のシーパワー」が日本を独占することになる。これが、前号で見た、日本とシーパワー列強との間の歴史だ。
つまり、「日本を押さえた勢力がインド洋を支配する」ということもできる。この関係は現代の日米関係についてもあてはまり、「歴史を貫く法則」だといえる。
ここで重要な点は、日本は果たして、上記のような意味でのシーパワーすなわち、多国籍企業であったのかという点だ。私は、そうではなかったと考えている。
日本は端的に言って、シーパワーの極東総代理店であったのだ。そして、日本の支配者は、織田信長以降安倍晋三に至るまで、第一次世界大戦から第二次世界大戦の時期を除いて、常に、世界最強のシーパワーと「独占的代理店契約」及び「OEM契約」を結んでいたのだ。
この点を検討してみよう。例えば、企業のマーケティング戦略にて、販売代理店契約を結ぶことはよくあるが、その際、独占と非独占を明確にする必要がある。

また、独占については、一定範囲の商品や一定範囲のテリトリーに関してのみ独占とする場合のように部分的な独占権を与える場合があり、また、一定購入量の定めを遵守する限りにおいて独占とし、その購入量を下回った場合には独占性を喪失させる等の定めも可能である。

供給者にとって、独占的な販売権を販売に付与するということは、当該商品等の販売店についてその販売店に全面的に依存することとなり、その範囲で自己の事業活動が制約されることにもなるため、独占権の付与の条件については慎重に検討するのが賢明である。
このように考えると、シーパワーは、日本の指導者を常に独占代理店のように扱い、成績が落ちたら、遠慮会釈無く切り捨ててきたことが分かる。
マーケティング戦略に、OEM(相手先ブランド供給)というものがある。これは、営業力をもたない中小の工場が、大手の委託を受けて、製品を開発納入し、委託先のブランドで販売するものだ。営業力がない中小工場にとっては、大手の販売網を利用でき、一定の売り上げが保障されることになる。
この戦略の問題点は、委託を受けた側には、エンドユーザとの接点が無いため、価格設定権をもたず、結果として市場をつかむことはできない。そして、常に販売網をもつ大手にマージンを取られ、かつ、大手に切られたらそこでおしまいということだ。そのため、OEM委託先企業は、独自ブランドの開発を実施し、直接エンドユーザへ販売し、市場を握ろうというインセンティブが存在する。簡単にいうと、大手の下請けから脱皮し、独立企業になろうとするということだ。
日本とシーパワーとの間に、このような関係があり、少なくとも、過去、二回、日本は「独自ブランド」により、インド洋に乗り出そうとした。
一回目は、戦国時代の末期だ。この時期、徳川家康による朱印船と呼ばれる「異国渡海朱印状」という渡航証明書を持ち、安南(ベトナム)、カンボジア、シャム(タイ)、ルソン(フィリピン)など東南アジア諸国との貿易を許可された船があった。
 渡航する船に朱印状(許可証)を与え、外国に対しても朱印状をもった船(朱印船)にのみ貿易を許す。幕府公認貿易である。派船数は、1604年~1635年(寛永12)の約30年間に350隻以上、年平均約10余隻が派遣された。のべ渡航者は、約10万人で、日本における「大航海時代」である。
1540年代より日本に来航したポルトガル船を契機に南蛮貿易が開始され、後にはスペイン船もこれに参入した。そして、この時期、日本人町と呼ばれる、東南アジアに渡航して住みついた日本人によってつくられた町があった。
 
朱印船が頻繁に渡航した安平(台湾)、サンミゲル、ディラオ(ともにルソン)、アユタヤ(シャム)、プノンペン(カンボジア)などには日本人町が形成され、商品の買い付けや売買の拠点となった。プノンペン(カンボジア)・アユタヤ(シャム)が有名である。200~300名から数千人の人口があり、自治制をしいた。

 そして、この時期の日本の朱印船貿易は、当然のごとく、東南アジアの利権を巡って、シーパワーと衝突していく。有名な事件として、ポルトガル領のマカオに寄港した有馬晴信の朱印船の水夫が、酒場でポルトガル船であるマードレ・デ・デウス号の船員と些細なことから口論、そして乱闘となって、晴信側の水夫60名ほどが殺害され、積荷まで略奪されるという事件が起こった。
この事件に晴信は激怒し、直ちに徳川家康に長崎に寄港してくるマードレ・デ・デウス号への報復の許可を願い出た。家康はこれを放置しておけば、日本の国家権威が甘く見られると判断して即座に晴信に報復するように命じた。そして晴信は同年12月12日、マードレ・デ・デウス号を包囲攻撃し、3日後には沈没させるという事件が起きた。
この後、ポルトガル、スペインと死闘を繰り広げていたオランダのヤン・ヨーステンの運動やカソリックの反乱である天草の乱等もあり、幕府は領土的野心を持っていたカソリックと断交し、布教を目的としない、オランダと独占的代理店契約とOEM契約を結んだ。これが、寄港地を長崎の出島に限った上での制限貿易だ。
すなわち、独自ブランドで展開していた、日本人町を見捨て、日本人の渡航と帰国禁止すなわち、鎖国を行ったのだ。
これは、一面では、後発のオランダが日本を独占し、ポルトガル、スペインとの関係を切らせ、なおかつ東南アジア交易から日本を排除したという意味で、勝利といっていい。
背景として、1588年のアルマダ海戦で、スペイン艦隊が英国に破れ、制海権を失っていたことを幕府は当然、知っていたのだろう。
すなわち、この時期、日本には、大きく分けて、三つの選択がありえた。
一つは、独自ブランド展開、もうひとつは、カソリックとのOEM、最後にプロテスタントとのOEMだ。そして、幕府は、世界の制海権をプロテスタントが握ったことを確認し、第三の選択肢を選んだということだ。独自ブランドを展開していたら17世紀中期に、インド洋で、日英海戦があっただろう。実際、二十世紀にそれは、実現したのだが。(ビルマ沖海戦)その場合、当時の世界最強の英国艦隊に日本艦隊が勝てる保障は全くなく、鎖国は、そのことを見極めた上での、見事なパワーバランス感覚だ。

このように、第一次の朱印船と日本人町による日本の独自ブランドによるインド洋進出は、鎖国とオランダへのOEMという形で終焉を向かえ、そのことが、江戸時代の泰平を生んだ。
二回目のインド洋への独自ブランドによる進出は、いうまでもなく、太平洋戦争だ。まず、太平洋戦争の契機について、様々な説明がなされている。昭和天皇陛下は、それを、米国による「対日石油禁輸」と「移民排斥」に求めておられた。確かに、それらも、直接的な理由のひとつではある。しかし、より根本的な理由として、日露戦争後の日本が、OEMであることを忘れ、独自ブランドに拘り、アジア進出を企てたことと、後発のアメリカがアジア貿易に乗り出す意図を鮮明にしたことにあると考えられる。
 英国国際金融資本の支援を受けて明治維新を起こした薩長の下級武士は、元老となり、実質的に日本を支配し、日露戦争を戦った。彼らは、当時の日本政府が、英国国際金融資本の「極東独占的総代理店」であり、「OEM供給契約」を結んでおり、日露戦争もその一環で戦われ、勝利したという意識を持っていた。

しかし、大正期以降、次世代の官僚支配になると、そのような意識は失われ、第一次大戦後は「日本は一等国」になったと過信し、戦略上の過ちをいくつかおかした。それが、ひとつは、米国鉄道王ハリマンによる満鉄共同経営の拒否である。1905年8月、日露戦争の講和会議がセオドア・ルーズベルト米大統領の仲介で開催された。ポーツマス会議である。翌9月締結の講和条約により、日本は中国東北部にロシアが保有していた利権を獲得した。この地での鉄道施設とその経営のために設立された国策会社が南満州鉄道株式会社(
満鉄)だ。

 これに関心を寄せた米国の鉄道王エドワード・ハリマンは、
日米による満鉄の共同経営を呼びかけた。日本政府はこの呼びかけにいったんは同意し「桂・ハリマン覚書」を交わす。が、小村寿太郎外相の猛反対により、最終的に御破産になったいきさつがある。

 日本の変節は米国の目には、中国からの米国排除の意志の表れと映った。事実、その後米国では日本人移民排斥運動が活発化し、日米関係は次第に対立構造をあらわにしていく。

もうひとつは、前号で述べた1905年の日英同盟改定により、インドを守備範囲に含めたことと全く矛盾する、国際連盟の規約に人種差別撤廃条項を加えるよう提案した事だ。白人主導の国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初であったが、英国およびオーストラリアは猛反対した。また、議長役であるアメリカのウィルソン大統領も、採決により11対5と賛成多数になったこの案を例外的に全会一致を求めることにより否決した。フランスは中立だったが、フランスでは人種の違いとは宗教の違いと言う理解が成されていたため、肌の色の違いによる差別という理解が無かった。この会議においてウィルソンが盛んに強調した「民族自決」という考え方は、そもそも欧州域内での戦争の抑止を目的としたものであった。

 植民地支配を根幹とする英国の虎の尾を踏むこのような提案を、明治期の指導者なら、決してしなかったろう。英国にしてみれば、幕末以降、育ててきた代理店に「契約解除」を通告されたと思ったに違いない。まさに、「飼い犬に手を噛まれた」わけだ。
 
このように、当時の最強シーパワー英国と新興シーパワー米国を同時に敵に回すという、戦略上の大失敗を犯し、決定的なのは、1921年ワシントン会議で、米国主導により、日英同盟が破棄され、同盟国を失ったことだ。背景として、アジア(主に中国)貿易参入を目指す後発の米国は、日英同盟が存在する限り、アジア市場には食い込めないと考えたのだろう。これは、上述のように、オランダが江戸幕府を唆しポルトガル、スペインと断行させ、独占的代理店契約を結んだことと全く同じだ。

この会議で成立した四カ国同盟は、日英米仏の四カ国で太平洋地域の現状維持を約したものだ。四カ国が協力して太平洋地域の平和を維持しようということになった。四カ国が協力するわけだから、日英同盟という個別の同盟は不要という論法だ。
しかしアメリカの真のねらいは、英米仏の三国によって日本の太平洋地域における暴走を食い止めようとすることにあった。イギリスの後ろ盾を排除し、三国で日本を牽制したのだ。

 同様にワシントン会議で、九カ国条約と海軍軍備制限条約が締結された。これも日本による中国への利権拡大阻止、アジア太平洋地域における日本の勢力拡大阻止をねらったアメリカの外交政策の勝利だ。日本は、英国の支援が受けられなかったため、アメリカの外交政策に完全に屈した。

背景として、第一次大戦を通じ、英国が疲弊し、米国が伸張していたことにより、当時の内閣は立憲政友会の原敬内閣~高橋是清内閣だが、この政友会内閣が対英協調よりも対米協調路線を取っていたことが挙げられる。

全てが上述のハリマンとの約束違反と国際連盟での人種差別撤廃の提言につきる。もし満鉄をアメリカと共同経営し、日英同盟が継続されていたなら、アメリカはその後の満州建国にも反対しないだろうし蒋介石の応援もしないし、したがって日中戦争もなく中国は国民党政権になっていただろう。

またヨーロッパではユダヤ人の迫害のため中国へ逃れてくる者がいたため、ソ連と満州の国境にユダヤ人の入植地を作ろうとした河豚計画と称する考えもあったようだ、もしこの計画がうまくいっていたなら今の中東のイスラエルとアラブの紛争もなかったかもしれない。
 
このような、戦略上の失敗と、元老という指導者(事実は代理店店長)を失い、官僚国家したため、指導者がいなくなり、長期戦略を失い孤立していった挙句の果てが、日中戦争と日独伊三国同盟という、「日本がランドパワー化する」破滅的大失策だ。

すべては、江戸時代以降、日本は「対プロテスタントOEM提供契約」こそが、国家戦略の柱だということを理解しない、視野狭窄の官僚国家になってしまったことによる破滅だ。

太平洋戦争の歴史的意義についても、ランドパワーとシーパワーの観点から読み解く必要がある。上述のように、日本は明治以来、陸軍はドイツに学び海軍はイギリスに学んだ。両者の戦略はそもそも大陸志向か海洋志向か大きく異なっており、相互の調整や連絡、あえて言えば国家戦略は全くなかった。それでも日露戦争の頃まで
は明治維新第一世代、いわゆる元老(伊藤博文や山縣有朋など)が実質的な陸海軍ひいては日本国家のオーナーとしてイギリスにお伺いを立てながら国家戦略を策定していた。日英同盟(1902年)締結にともなう日露戦争はその最たる例である。
 しかし大正昭和と時代が下がるにつれ、元老という「オーナー」を失い官僚国家となっていく過程で陸海軍両者の意識あわせ、利害調整はできなくなってしまった。いわば官僚制度の弊害が極度に現れたのである。このような流れの中で、私は太平洋戦争開戦を決したのは2.26事件であったと考えている。
2.26事件の史的意義についてであるが、表面的には陸軍皇道派青年将校の決起と鎮圧とされている。しかし、より重大な意義は、それが陸軍上層部が意図していたことではなかったにせよ、客観的には「陸軍が海軍に戦争を仕掛け、昭和天皇が鎮圧を決しなかったなら、陸海は内戦に陥っていた可能性があった」ということである。青年将校の決起直後、陸軍上層はこれを黙認あるいは追認する素振りをみせた。また、海軍は重鎮を殺されたため、戦艦長門を東京湾に入れ、陸戦隊を上陸させたのである。

 結果として、昭和天皇の決断により暴徒として鎮圧され、内戦の事態は回避されたが、以後海軍は陸軍によるテロを恐れるようになり主導権を陸軍に握られていく。
 その後の展開は、昭和14年にノモンハンで陸軍は仮想敵のロシアに大敗を喫し、中国戦線も膠着すると、全ての問題解決を海軍に振った。即ち三国同盟+日ソ不可侵条約(陸軍主導のランドパワー連合)から対英米(シーパワー)開戦である。当初海軍はアメリカとの開戦に反対であった。彼我の工業力の差から勝ち目がないし、
石油をはじめとする戦略資源を英米に依存していたことを熟知していたからである。しかし、対英米戦を想定し、予算や人員を取っていたため、「開戦できません」とは言えず、山本の近衛に対する五相会議での有名な発言「半年や一年は暴れて見せる」に繋がるのである。これは裏を返せば「半年や一年しかもたないから開戦するな」と
いうメッセージを官僚的な保身と修辞でいっただけである。要するに、陸軍に押し切られてしまったのである。仮に2.26事件がなく、何らかの形で海軍主導が確立していたら、英米と連合しソ連と開戦していたであろう。実際、関特演(関東軍特別演習1941(昭和16)年7月7日
独ソ開戦のとき日本陸軍が行なった動員。通称、関特演。6月に独ソが開戦すると日本は対ソ参戦を想定し、7月7日関東軍を動員。兵力を戦時定員に充実するほか、多数の部隊、弾薬・資材を満州(中国東北)に輸送した。この結果、関東軍は70万を越す大兵力となった。)はこの可能性を如実に示す。図らずもこの構図は戦後冷戦と
いう形で実現する。上述の日露戦争と同じく、太平洋戦争の本質とはそのようなものなのである。

 注意していただきたい。日米対立の遠因はハリマン提案の拒否だが、直接の原因を作ったのは陸軍が満州事変からシナ事変へ至る、大陸派遣軍の独走を中央が事後的に追認する形でいたずらに戦線を拡大し、膠着状態に陥った、いわば、大陸政策の破綻である。そのツケを彼らは自ら払う(中国本土から段階的撤兵=責任問題発生)ことなく、全て海軍に振ったのである
(対米開戦)これは我々がいやというほど見せ付けられてきた霞ヶ関の保身と問題先送り、無責任体制と全く同じではないか。薬害エイズ、BSE、不良債権処理と全く同じ「官僚の保身と問題先送り」が戦争の原因で300万の戦没者はその犠牲者即ち薬害エイズの犠牲者やBSEの農家、貸し剥がしにあう中小企業と変わるところはない。
上述のところと矛盾するようであるが、ランドパワーやシーパワーなどというまでもなく、官僚の保身と問題先送りによって太平洋戦争の真の意味は語ることができ、さらにはその結果責任を誰も取らされていない!ことに気づくべきである。わが国政府は今日もA級戦犯はすべて戦没者として扱ってるのであり、今日に至るまで、先
の大戦を総括できてない。
 2.26事件以降陸軍というランドパワーに牛耳られてきた日本であるが、戦後はアメリカというシーパワーによって武装解除され、外交的には、再度シーパワーの一員になった。このことを如実に示すように、いわゆる東京裁判では、海軍関係者のA級戦犯はゼロであり、陸軍関係者が多数、A級戦犯として絞首刑となっている。

戦後も、海軍関係者は海上保安庁や海上自衛隊に採用されたが、陸軍関係者の陸上自衛隊への採用はなかった。戦後の武装解除とは、すなわち、「日本をランドパワーからシーパワーに戻す」ことを企図していたことは明白だ。
ちなみに、海軍とアメリカは、水面下で戦争中から戦後処理と終戦に関して、接触していた形跡がある。

しかし、日本内部には陸軍の残党およびランドパワーが根強く、これが結実しシーパワーに反旗を翻したのが田中角栄以降の田中派、中川一郎、金丸信などであり、鈴木宗男につらなる系譜である。田中による日中国交回復はその白眉であり、彼がロッキード事件により潰された事は、シーパワーたるアメリカが彼の政策(日中国交回復、資源外交)をどう見ていたかを物語る。
 反対にシーパワーは吉田茂、岸信介、佐藤栄作から中曽根康弘に連なる流れである。現在の清和会に代表されるいわゆる台湾派である。田中角栄以来のランドパワーの総本山である津島派の影響力が落ち、こうみてくるとシーパワーにとって、「好ましからざる」ランドパワーが駆逐されていることが理解できよう。ランドパワーにも使い道はある。韓国や台湾には帝国陸軍出身者がかなりの層でおり、かれらとのチャネリングをやらせればいいのだ。アメリカには気づかれない程度で。

余談ではあるが北朝鮮は大日本帝国陸軍の鬼っ子であるという気がする。

このように、日本にとっての「二度目のインド洋独自ブランド進出」は戦争によって拒否され、失敗した。
結果は、17世紀の鎖国と同じ、日米同盟という、「対プロテスタントOEM」に落ち着いたのだから、鎖国を選択した二代将軍徳川秀忠と戦争を選択した首相の東条英機は、どちらが優れた戦略家であったのか、議論の余地はない。

私が何度も指摘したように、17世紀と20世紀において、「歴史のパターンは繰り返したのだ。」欧州において、17世紀の三十年戦争と20世紀の第二次大戦がともにドイツを主要舞台として、繰り返されたように。

 -次号に続く-
以上


2007年1月 8日

世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL135

今回は、ロシアの資源戦略の問題点について、検討したい。
私のコラムは、世界史を基礎にしてランドパワーとシーパワーの戦略を読み解くことが目的であり、そのため、ランドパワーとシーパワーの決戦正面としての中東と、ランドパワーの総帥としてのロシアプーチン政権についての分析が大半を占めることになる。
孫子曰く、「敵を知り己を知らば百戦危うからず 」
周知のように、ロシアはプーチン政権下で、石油、ガスといったエネルギー資源を戦略の柱に据えだした。

ロシアは石油生産は世界第2位。ガスは1位で、ガス埋蔵量は世界全体の3割以上を占める。プーチン大統領は1994年のサンクトペテルブルク副市長時代に書いた論文では、「ロシアの豊かな資源を活用すれば、世界的な大国の座を取り戻すことができる」と早々と主張していた。空前の石油価格高騰で、プーチンの夢が実現するかにみえる。
冷戦時代のソ連はICBM、SLBM、戦略空軍3本柱としてきたが、現在のロシアにとって、石油、ガス、原発がエネルギー3本柱である。原発については、イラン問題解決策として打ち出した濃縮ウランの合弁事業を発展させ、原発サイクルを代行する国際センターをロシアに誘致する構想を提案、国際エネルギー利権を執拗に追求している。

 ロシアは、ウクライナとの価格交渉決裂や大寒波により、欧州向けガス供給を二度にわたり削減した。特にウクライナ向け供給を政治目的に利用したことで「エネルギーの安定供給国」としての信頼性は大きく揺らいだ。

ロシアの天然ガス独占企業「ガスプロム」は昨年、グルジアへ供給する天然ガスの料金を2007年から2倍強に値上げする、と発表した。これまで1,000m3につき110ドルだったのが、230ドルになる。グルジアは天然ガス需要の100パーセントをロシアに依存する。
 
 2008年のNATO入りを目指して西側への接近にアクセルを踏み込むグルジアと、それに異議を唱えるロシア。両国の関係は昨年から一段と緊張の度を増していた。機先を制したのはグルジアの方だった。親露派の元国家安全相と親露派野党議員など計30人を国家転覆の容疑で逮捕、続いてグルジア駐在のロシア軍将校4人もスパイ容疑で逮捕したのだ(いずれも9月)。

 これに対してロシアはグルジア労働者の強制送還、送金停止、アエロフロートの運航休止などの経済報復に出た。経済をロシアに大きく依存するグルジアには痛手だ。このように、グルジアが西側へ行こうとして緊張した政治関係と、ハートランドに近く、中東への回廊であるという地政学上の重要性に鑑みて、天然ガスを武器にして、恫喝しているというのが真相だ。次は、ベラルーシがターゲットになった。このように、エネルギー産業の国家支配を鮮明にさせている。いまやロシアは石油、天然ガスを欧州市場に輸出し、ハードカレンシーを稼ぐ産油国型経済を再び構築する一方、エネルギーを武器にウクライナなど旧ソ連圏諸国をロシアの「統一経済圏」に再び取り込もうとしている。
<参考>
------------引用--------------
http://www.shikoku-np.co.jp/national/international/article.aspx?id=20070107000007
石油関税未払いでロシアに警告/ベラルーシ、対立激化へ
2007/01/07 08:52
【モスクワ7日共同】自国内のパイプラインを通過する欧州向けロシア産石油への関税導入を発表したベラルーシの税関当局は6日、ロシア国営パイプライン企業「トランスネフチ」が関税を払わずに原油輸出を続けているとして、同社社長に対し、ベラルーシの裁判所への出頭を求めた。インタファクス通信が伝えた。

 ロシアが1日からベラルーシへの天然ガス価格を2倍以上に引き上げたことなどへの報復として導入した石油関税の支払いを求める強い警告とみられる。ロシア政府も6日、ベラルーシの駐ロシア大使を呼び、石油関税の即時撤回を迫るなど、両国の「石油紛争」は激化の様相を見せている。

 プーチン政権の重鎮であるイワノフ副首相兼国防相は「経済摩擦がベラルーシとの軍事協力関係に影響を及ぼさないよう望む」と述べ、事態の沈静化に躍起だ。
------------引用--------------
思うに、このような、天然資源を用いたエネルギー戦略について、ロシアは、原材料を加工して売る技術もアイデアも無いという問題点がある。

資源大国なのに、森林資源も切って売るだけ。海産物も取ってきて売るだけ。自分たちで、消費者が手にするレベルまで加工するという事をやらないし、できない。つまり、一次産業でしかないということだ。

帝政ロシアのころも、シベリアの森の中を高級毛皮が走り回ってる原材料を捕まえて売るだけだった。外国では毛皮のコートや帽子に仕立てて、フランス製デザインとか付加価値をつけられ、数百倍以上の値段になったのを、ロシア貴族が喜んで買っていたそうだ。
このような付加価値の無い資源戦略だから、「ガスの元栓の開け閉め」で恫喝するという非常に低次元の事しかできない。
そして、最大の問題点の「冷戦終結以降、ロシアは自由主義になった」と信じた西側シーパワー諸国が、ロシアのランドパワーとしての、狡猾、残忍、獰猛な本性に気づきだしたということだ。これは、私が、数年前から、コラムで繰り返し指摘してきたことを裏打ちするものだ。特に、シーパワーの宗家、英国が敏感に反応し出した
<参考>
------------引用--------------
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20070106ib21.htm
欧州復興開発銀行(EBRD=本部ロンドン)は6日、読売新聞の取材に対し、 ロシア・サハリン沖の石油・天然ガス開発事業「サハリン2」への融資について 「事態はより難しい方向に変化している」と述べ、融資の計画を撤回する方向で 検討していることを明らかにした。

昨年12月、露政府が主導する形で、ロシア国営の天然ガス独占企業体「ガスプロム」 が、サハリン2の事業会社の経営権の過半を取得したことを受けたものだ。

EBRDのスポークスマンは「正式な決定は行っていないが、銀行の必要性は低下 している」とし、融資の必要性がなくなりつつあることを示唆した。

EBRDは旧ソ連や東欧諸国の市場経済への移行を支援するため1991年に設立 された国際金融機関で、サハリン2に約3億ドル(約360億円)の融資を計画していた。
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http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20061219/115906/
「エネルギー腕力」の乱用は国民、近隣諸国にとって有害だ
· 2006年12月20日 水曜日
· The Economist,EIS
 ロイヤル・ダッチ・シェルはこの10年以上、共同出資者である三井物産、三菱商事とともに、ロシア極東地域サハリン島沖の氷結した海から石油と天然ガスを採掘しようと苦闘してきた。
 その間、このプロジェクト(サハリン2)は環境保護主義者から抗議を受け、費用は当初予定の2倍の200億ドルに膨らみ、完工時期がずれ込んできた。しかし今、建設はほぼ終わった。石油と天然ガスの高騰で膨大な収益が目前に迫っているこの時期に、プロジェクトのオーナーである3社が株式の持ち分を減らすというのは奇妙だ。
 しかし、彼らは先週、まさにそれをやった。プロジェクトの株式の過半数をロシア国有大手ガス企業ガスプロムに売り渡すことを申し出たのである。
 クレムリンにいるガスプロムの親分たちは、大型エネルギープロジェクトを全部、いわばファミリーに取り込んでおきたいという欲望を隠そうともしない。ロシア政府関係者は、環境保護上のちょっとした手落ちが悲惨な結果を招くと脅して、サハリン・プロジェクトに苦難を強いてきた。同プロジェクトの株主たちは恐らく、過度に熱心な税務調査官によって破綻に追い込まれたロシア大手石油会社ユーコスの運命を念頭に置いて、ガスプロムの提案は拒否できないと結論づけたのだろう。
近隣いじめの暴君
 ロシアは信頼できるパートナーであるという常日頃の主張にもかかわらず、事、エネルギーとなると、ウラジーミル・プーチンのロシアは粗野な振る舞いに走るようだ。ユーコスの略奪に加え、ロシアはしばしば、石油や天然ガスの供給を止めるぞと脅して近隣諸国を怖がらせてきた。
 今年、リトアニアが無謀にもある精油所をロシアではなくポーランドの企業に売った時、ロシアの石油をその精油所に供給するパイプラインが、突然、謎めいた技術的故障に見舞われた。昨冬、ガスプロムは価格を巡る紛争の最中、ウクライナへのガス供給を止め、西側寄りのウクライナ新政府を脅迫したように見えた。
 このエピソードは、消費ガスの4分の1をガスプロムに依存する欧州全体をぞっとさせた。サハリンからのガスの大部分を受け取る予定の日本も、今、ガスプロムの言いなりになるしかないことに気づくだろう。
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このように、世界の趨勢は、確実に、「ロシア包囲網の形成」へと進んでいる。これは、ランドパワーというものの本質を見ることで理解できる。

ランドパワーにとっての、生命線とは「国境を接する周辺国や異民族の支配」なのだ。これに失敗したランドパワーは崩壊するしかないことは、世界史や日本史が雄弁に証明している。

そして、「国境を接する周辺国や異民族」は、時間の経過とともに、反政府組織の温床となる。そのため、常に警察力や陸軍力で監視し、押さえつ、むしろ、国境線を少しでも遠くへ押しやる必要がある。

これが、ランドパワーの宿命的高コスト体質だ。このコストは、国境線の長さと接する異民族や外国の多さに比例する。このように考えると、何故ロシアがランドパワーの典型なのか、理解できるであろう。

重要な点として、中国の古代の格言に「寸土を失う国は全土を失う」というものがある。これは、国境線の一部が綻んだら、そこから全土への崩壊は、一直線という意味だ。つまり、国境線の一部でも、蜂の一刺しがあれば、ダムの決壊につながるということだ。これが、ランドパワーが強権支配、残虐な手法による報復をとる理由だ。

日本で言えば、戦国時代の甲州武田氏が、ランドパワーの典型であり、ランドパワーの例にもれず、常に外征により、領土外で戦争を行っていた。

シーパワーとしては、このようなランドパワーをつぶすには、どこか一点に「蜂の一刺し」を与え、ダムの決壊を待てばいい。逆、ランドパワーがシーパワーを殲滅しようとすれば、膨大な海軍を整備し、制海権を握り、上陸作戦を遂行する必要がある。
英国とフランス、ドイツ、さらには米国とソ連の間の歴史を見れば、どちらが有利か言うまでも無い。

ロシアの資源戦略は、今後は、世界第一位の生産量と埋蔵量で全世界の4割を占める天然ガスを通じて行われるだろう。ロシアのエネルギー武器外交に対して米国、EUは反発している。EUは天然ガスの4分の1をロシアに依存、その大半はウクライナを経由している。今回、大混乱は避けられたが、ドイツなど西欧諸国は、「プーチン政権はエネルギー産業を国家の統制下におき、資源輸出を国際的地位の強化に利用している」、と警戒感を強めている。

シーパワー陣営がこの戦略に対抗するには、短期的には原発によるエネルギー生産しかないが、長期的には、水素エネルギーに移行するしかない。

そのため、シーパワー陣営は協力し、水素エネルギーによる反ロシア包囲網の構築をする必要がある。そして、パイプラインを通じ、ロシア周辺国へ、格安で水素を提供する。これでロシア周辺国の離間は確実だ。

日本はアメリカに次ぐエネルギー消費大国である。全世界の原油輸入量の内、日本は1割近くを占める。この量はアメリカに次いで第2位、実に2億1000万トンに上る。これまではジャパン・マネーに物を言わせて石油を買い漁ることが可能だったが、今後日本がこれほど膨大な石油を安定的に輸入し続けることなど不可能になるだろう。
 ロシアのサハリンやイランのアザデカンでの失敗は、まさにその兆候だ。
だからこそ、UAEでの水素エネルギー供給会社の設立を成功させる必要がある。
このような、ロシアのランドパワー戦略を無視して、東芝・石川島播磨重工が、露の原発建設に参入しようとしている。間違いなく「盗人に追い銭」という結果になるだろう。経済産業省はこの動きを何としても、阻止すべきだ。
重要な点として、日本政府も対露包囲網の一環として、欧州中でも、東欧を重視しだした。ロシアを牽制するには、欧州中でも、東欧を味方にする必要がある。
なお、日露戦争において、日本の明石元二郎陸軍大佐は当時ロシア属領となっていたポーランド、フィンランドの革命分子へ資金提供、武器供与などを支援した。
ポーランドの建国の父ユゼフ・ピウスツキは、日露戦争下の東京へ、ポーランド軍蜂起の計画書や日本とポーランドの同盟案の覚書を持参してきた。政府による大規模な協力は得られなかったが、日本に対しては好印象を持ち続け、後の独裁者の地位にあった1928年には、日露戦争時に軍功のあった日本軍将校たち51名に勲章を授与している。
このように、ロシアを巡って、日本と東欧は地政学的に利害の一致(敵の敵は味方)があるのだ。
<参考>
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http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20070101it02.htm
★東芝・石播、露の原発建設参入へ…国営企業体から打診

ロシアが設立を目指している国営の原子力独占企業体「アトムプロム」側が、東芝と石川島播磨 重工業(IHI)に対して提携を打診してきたことが、31日、明らかになった。

東芝とIHIも提携交渉に応じる考えで、近く交渉入りする公算が大きい。原発の基幹部分となる蒸気タービンや、発電機の製造、供給など、ロシアの原発建設への協力が柱になるとみられ、アトムプロムへの出資や関連技術の供与に協議が広がる可能性がある。東芝とIHIが06年10月に共同で買収した米ウェスチングハウス(WH)も含め、日米企業によるロシア原発事業への参入が実現すれば、世界の原発業界の勢力図に大きな影響を与えそうだ。

関係者によると、提携はアトムプロム設立に携わり、プーチン政権に影響力を持つロシア財閥の有力経済人が06年11月下旬に来日し、東芝とIHIの幹部に打診した。
東芝は原発周辺設備の製造などで豊富な実績があり、IHIは強度が高い蒸気タービンの技術を持つ。ロシアはこれまでWH社と同じ方式の加圧水型原子炉(PWR)を主に採用しており、WH社の技術協力も視野に入れていると見られる。

両社は打診に対し、「ロシアは市場として狙っていく」(東芝首脳)、「非常に興味がある案件だ」(IHI幹部)と、前向きに応じる方針を示している。提携交渉はアトムプロムの設立準備が整う今夏にも、本格的に始まる公算が大きい。

(2007年1月1日3時0分 読売新聞)  
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http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20070103k0000m010034000c.html
安倍首相:訪米より欧州優先訪問 麻生外相も東欧へ
 安倍晋三首相と麻生太郎外相は1月、相次いで欧州を訪問する。安倍首相が英仏独など欧州連合(EU)主要国を、外相はルーマニア、ブルガリアなど東欧の旧社会主義諸国を分担して歴訪。従来の日本外交が基本としてきた「日米基軸」「アジア重視」のほかに「新機軸」(麻生外相)を加えようという狙いがあり、首相が訪米より訪欧を優先することにした判断も注目されている。
 安倍首相は9日に日本を出発し、同日中に最初の訪問国イギリスでブレア首相と会談。この後ドイツ(10日)、ベルギー(11日)、フランス(12日)の順に回り、各国首脳と個別に会談するほか、EUの「内閣」である欧州委員会のバローゾ委員長とも会談する。
 北大西洋条約機構(NATO)北大西洋理事会での演説も予定。域外活動を拡大するNATOとの協力を積極的に進める考えを表明する。
 安倍首相が意識しているのは国連だ。今回の英仏訪問で、首相は五つある安全保障理事会常任理事国の全首脳と会談を終える。日本の常任理事国入りに向け、現理事国の理解を得るとともに、日本が昨年末で国連安保理非常任理事国の任期が切れたことを受け、北朝鮮問題などで日本の声が安保理に反映されるよう協力を求めたい考えだ。
 首相が伝統的な欧州諸国を回るのに対し、麻生外相は1日にEUに加盟したルーマニア、ブルガリアなどを回る予定。冷戦崩壊で民主化した旧共産主義国で、民主化定着を支援する姿勢をアピールする。外相は昨年11月、ユーラシア大陸の外周で成長しつつある新興民主主義国を支援する「自由と繁栄の弧」構想を発表した。その具体化への第一歩と位置づける。
 「安倍首相が『古い欧州』、麻生外相が『新しい欧州』」(外務省幹部)という役回りだが、いずれも自由と民主主義、市場経済や法の支配といった「普遍的価値」を共有する国々との連携を打ち出すことで、北朝鮮やイランの核問題をめぐる国際外交の舞台で、中国やロシアをけん制する意図もあるようだ。
 一方、首相の訪欧が訪米より先になったことには、政府・与党の間に驚きの声もある。最初の訪問先に中国・韓国を選んだのとは意味合いが異なるからだ。外務省筋は「ブッシュ米大統領とは昨年11月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)で会談している」と説明するが、首相が小泉政権時代の「対米一辺倒」と距離を置き「『米国からの自立』まで意識しているのでは」との見方も出ている。【中田卓二】
毎日新聞 2007年1月2日 20時07分
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以上

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