世界の中の日本 ― これからの長期戦略 ―
地政学研究者
江田島孔明
これからの日本の未来を海洋国家戦略の観点から考える前提として、戦後日本の国家戦略としての「吉田ドクトリン」のもたらした意味を考えてみる。
戦後日本の総路線は、1951.9.8日のサンフランシスコ講和条約、その5時間後の日米安全保障条約の締結により決着した。これを遂行したのが吉田茂首相であったが、この時吉田首相は、米国陣営側に与することを決定している。同時に講和後も米国軍を恒久的に残置させ、米国との軍事同盟締結を決断している。
このような形で日本は形式的には主権を回復し、実質的には外交や安全保障をアメリカに依存した。これは、表面上は吉田首相の決断とされてるが、実際は昭和天皇の意思だ。その意味で、「陛下ドクトリン」と呼ぶべきであり、この点はいずれ改めて書くが、今回は吉田ドクトリンという一般的呼称にしたがうこととする。
この時の吉田首相の判断がどう評価されるべきだろうか。吉田首相の「自由主義陣営(シーパワー)への確固とした信頼、共産主義陣営(ランドパワー)に対する不信」は、今日では英明な判断であったことが判明している。
曰く、「共産政権誕生以来、ソ連は5千万人、中共は2百万の国民を殺したといわれる。人民を多数殺戮するような国に、何の進歩、何の発達、何の自由があり得るのか」の批判は、外交官時代の経験に拠ったものと思われるが、この当時における見識として優れていたものであった。
(注) 2百万人: これは、吉田首相当時に言われていたもので、文化大革命・大躍進時代以降のものは、一切含まれていません。中共は現在にいたっても戸籍が曖昧で、人口統計すら不明です。政府が人民を何人殺したかの具体的統計は無いと思います。あくまで概算で、種々の数字が発表されています。
△ 中共の自国民殺害数: 合計1億3000万人
文化大革命関連: 2000万人(トウ小平談話)
失政飢餓(大躍進 粗鋼製鉄運動): 4000万人(書物)
革命後の国民党関係者と家族の処刑: 6000万人(推定)
常時強制収容所での処刑: 1000万人(推定)
も、その例です。(注完)
吉田首相には次のような認識があった。「占領6年有余にして、日本は一日も早く独立を獲得せねばならぬ、とする私の考えはいよいよ強くなった。全面講和は理想としてはいいかも知れぬが、当時の国際情勢、殊に米ソの冷戦のもとにおいては、それは一場の夢に過ぎない。平和条約で独立は一応回復した。しかしこれは主権回復という意味での政治的独立であって、経済的独立には未だ前途尚遠しである。しかも、経済的独立に専念するためには、国の内外における安全が保障されねばならぬ。しかし、当時の我が国の経済状態は再軍備の負担に耐えるべくもない。況や、我が国の新憲法は厳として再軍備を禁じているにおいてをやである」。
要するに、コストがかかる外交や安全保障をアメリカに任せ、対米輸出を基軸にした産業立国を目指すということだ。この戦略は、米ソ冷戦下では、有効に機能し日本は経済大国となった。
問題は、イラク戦争を契機としてアメリカの国力が相対的に低下しつつあり、「外交安保の対米依存」が客観的に不可能になりつつある点だ。吉田ドクトリンそのものの前提が崩れているのだ。
吉田ドクトリンは軽武装で、経済中心だが、この路線を維持するのに憲法9条が役立ったといえる。これを、日本の産業構造の観点からみると、戦前の軍事産業中心から、民需産業中心への大転換だ。
言い方を変えると、戦後の改革で陸海軍や財閥をはじめとする軍事産業が解体され、「軍事技術の民生利用」が図られたということだ。新幹線の開発に海軍の技術者が参加した例はその典型だろう。
<参考>
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h16/jog359.html
Japan On the Globe(359) 国際派日本人養成講座
人物探訪:島秀雄 ~ 新幹線の生みの親
島は戦前から、いずれ高速で走る電車列車の時代が来ると読んでいた。昭和20年12月、敗戦からわずか4ヶ月目、海軍航空技術廠の技師だった松平精を鉄道技術研究所に迎えて、こう依頼している。
『松平さん。私は、将来、日本に電車形式の高速長距離列車を走らせたいと思います。しかし、いまの電車は振動もひどいし、音もうるさい。とても長時間、お客様に乗っていただく車両とは言い難い。ぜひ、あなたの航空技術の知識、研究を生かして、この振動問題を解決していただきたい。』[2、p89]
松平精は、零戦をはじめ海軍航空機の振動問題を解析するスペシャリストで、35歳の若さですでにこの分野の権威であった。 松平は、敗戦の焦土の中でも、将来の日本の鉄道について斬新で具体的なビジョンを語る人物がいることに感銘を受けた。
終戦直後、松平のような軍の技術者が大挙して鉄道に移り、鉄道研究所だけでも職員が500人から1500人に増えた。これらの、かつて戦闘機を開発した技術者たちが、戦後復興の執念をもって鉄道技術開発に取り組んだのである。
「優れた高速車両を作り出すためには、まず車両の振動理論を完成させることが先決」という島の方針に従って、理論好きの飛行機屋たちと、経験豊かな鉄道屋たちが白熱の議論を展開しながら、車両の振動理論を完成させていった。当時、欧米でも、高速電車列車という発想はなく、振動理論も手つかずであった。この振動理論の完成によって、日本の車両技術は欧米に大きく水をあけた。戦後の新幹線には、戦前の零戦などの技術伝統が継承されていたのである。
この流れは、プレーステーションが軍事シミュレーションに転用されかねないとして規制対象になったほどだし、ホンダのアシモは最先端の軍事歩兵に転用できる。
日本の防衛費そのものは5兆円前後で、GDPの1%程度だが、防衛産業自体の裾野は限られているが、上記のような歴史的背景により日本の企業には、防衛産業に転換できる技術やラインが多数ある。
官需主導の軍事大国が旧ソ連のようないびつな産業構造をとり、結局はつぶれたことを見ても、日本の産業構造はバランスが取れ、かつ膨大な裾野分野を生んだ点で、ある意味、理想的だろう。
逆に言えば、プレーステーションやアシモを国家予算の投入なしに、民間が商用を前提として開発することは、国際的には異常なことであり信じがたい現象だ。プレーステーションは軍事シミュレータ並みの能力があるが、その目的で開発されたわけではなく、子供のおもちゃなのだ。
<参考>
世界各国の軍事力あるいは軍事傾斜度を示すため、軍事力人数(Total armed forces)と軍事支出対GDP比
http://www2.ttcn.ne.jp/~honkawa/5220.html
米国の軍事支出対GDP比は3.4%と大きい。経済規模(GDP)自体の大きさを考えると米国が世界最大の軍事大国である点はいうまでもない。
軍事支出対GDP比が5%以上の高い国としては、エチオピア、エリトリアといったアフリカの国、及びシリア、サウジアラビア、イスラエル、ヨルダンといった中近東の諸国であり、紛争を抱えている地域の状況をうかがうことができる。
日本は24万人で、グラフの諸国の第21位となっている。軍事支出対GDP比は1.0%と世界の中でも最も低いレベルである。
言い方を変えると、戦後の日本は憲法9条のもと、防衛産業は抑制的にして、民需中心にしてきたのだが、結果として「民需の中に膨大な軍事技術転用可能な技術が蓄積」されたということだ。
これは、何を意味するのだろうか。これは、国家が関与しない分野で、膨大な軍事産業が樹立されたという、史上、おそらく初めてのケースだろう。言い方を変えると、官民一体となって、真に防衛産業を育成し、軍事大国を目指すという国家意思を決定をすれば、分野によってはアメリカを上回る軍事技術大国になるということだ。
よく言われていることだが、日本はF15を三菱がライセンス生産しているが、アメリカ製よりはるかに性能がよいという。F2攻撃機のレーダー性能はこれもアメリカ製を大きく上回るという。通常動力の潜水艦も純日本製だが、これも、アメリカ製の性能を上回る。また、横須賀ドックの整備能力は世界一だ。
問題は、自動車や家電で、日本の製品がアメリカ製を駆逐したのと同じ事が軍事分野で起きた場合、日米関係は決定的に悪化するため、日本は軍事大国を目指せないということだ。FSX計画をアメリカが潰した意味もそこにある。アメリカは日本を恐れている。
ここまでの状況を要約すると、戦後日本は冷戦構造を利用して、外交、安保をアメリカに依存し、経済中心の産業立国を目指し成功した。軍事面では憲法9条の制定が、結果として軍事技術の民生分野への展開から、民需主導の産業立国となり、知らないうちに防衛産業の裾野は大きく民需の分野に広まった。GDP費1%程度でもアメリカにつぐ軍事力を有しており、防衛費を国際標準のGDP比3%にし、官民が力を合わせて軍事大国を目指せば大幅な軍拡は可能だが、それは、製造業において主要産業がほとんど破綻し、軍事産業しか残っていないアメリカの戦略と衝突することになる。
つまり、保守派が言うような、憲法9条を改正すれば、軍事的にフリーハンドが得られるというような単純な話ではないのだ。
この状況は、歴史を例に取れば、ロンドン海軍軍縮条締結時に似ている。1930年(昭和5)のロンドン会議において締結された条約で、ワシントン条約の改訂と補助艦保有比率の決定の二部から成る。
【条約の内容】まず、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本の五国間で、ワシントン条約の改訂について次の諸点が決められた。(1)主力艦代換の期間を1931年から1936年まで延期する。(2)主力艦数をアメリカ・イギリス15隻、日本9隻とする。(3)1万t 以下の航空母艦も制限t 数内に含ませる。
次に、補助艦保有制限については、フランス・イタリアが参加を拒んだため、アメリカ・イギリス・日本の間で、比率10:10:7が決められた。日本としては、(1)補助艦総t 数対アメリカ7割、(2)8インチ砲巡洋艦対アメリカ7割、(3)潜水艦絶対保有量7万8、000t の三大原則を主張したが、(1)しか認められず、この条約を1935年までの暫定的なものとしてようやく承諾したのである。
【日本国内の反応】ロンドン会議に出席した日本全権は若槻礼次郎・財部彪・松平恒雄であり、彼らは要求にほぼ近い成果を得た。ところがこの条約に対して軍部と右翼は強い不満をもち、政府と枢密院との論議も3カ月もかかってようやく枢密院で批准された。これを機に軍部と右翼が結合して、条約推進派の政治家・軍人への攻撃を強め、浜口首相暗殺未遂事件を起こし極端な国家主義的運動が台頭する一因となった。
重要な点として、この条約の結果、戦艦をはじめとする主力艦は制限が加えられたが、空母や潜水艦は事実上制限が無くなり、日本は建造途中の戦艦を空母に流用するなどして世界最初の機動部隊を建造した点だ。規制のバイパスが思わぬ効果を生んだのだ。
要するに、戦後の吉田ドクトリンと憲法9条をロンドン軍縮条約と見なせば、同じように、軍事技術の民生分野への展開から、民需主導の産業立国となり、知らないうちに防衛産業の裾野は大きく民需の分野に広まったことと同じだ。穿った見方をすれば、憲法をバイパスし、アメリカの監視をかわすために、民生の仮面をかぶって軍事技術を開発したともいえる。日本は、憲法9条と吉田ドクトリンの下、表向きは経済大国を続けつつ、密かに、そして、確実に、民間部門に軍事技術の裾野が広がってきたことを述べた。今回は吉田ドクトリンの負の面を述べたい。
吉田ドクトリンの負の面とは何か。それは、「吉田ドクトリン以外の国家戦略について思考停止に陥っている」ということにつきる。吉田ドクトリン、すなわち外交や安保の対米依存とによる軽武装化と貿易立国が成立するには、アメリカの力が軍事や経済の分野で圧倒的であることが必要だが、実際は、アメリカの国力は、衰退の一途を遂げている。この状況は、かっての日英同盟が破棄された後の日本外交の漂流と、三国同盟から対米開戦の過程を思い起こさせる。
<参考>
△ 日英同盟
1902年(明治35年)1月30日、日本とイギリスとの間に結ばれた攻守同盟条約。日清戦争後、諸列強の世界政策は敗れた中国に集中した。そのなかで、フランスの支持を得たロシアの満州に対する野心は露骨となり、義和団の乱を利用し北京から撤兵した軍隊をもって満州の占領に乗り出した。これに対し、イギリスはドイツと協商してロシアを抑えようとし、1900年(明治33年)10月、いわゆる揚子江協定を成立させ、後に日本もこれに参加した。
このころ、第二次露清密約の存在が暴露され、日本・イギリス・ドイツ・アメリカは、清国にかかる条約に調印しないよう勧告した。さらに日・英両国はロシアに抗議した。これより先、ドイツは揚子江協定は満州に適用されない旨を明らかにして、日・英の対露抗議に同調しなかった。
また当時イギリスはボーア戦争のため余裕がなく、日本は独力で対露抗議を行うことになり、1901年(明治34)6月第二次抗議を行った。これに対しロシアは露清密約中止の通牒を送ってきた。
英外相ランスダウンは、日本の実力を評価しその極東政策のなかに日本との同盟の必要性を認めるが、イギリスが伝統とする〈光栄ある孤立〉に訣別して日英同盟に踏み切った動機は、1901年9月セルボーン海相が、海軍政策の面から日英同盟の必要を強調した〈極東における海軍政策〉であった。
この間、在英ドイツ大使エッカードスタインは、英独同盟を促進する見地から日本の同盟参加を日・英両国に働きかけた。かくて1901年10月林公使と英外相との間に本格的交渉が行われ、同年11月6日ランスダウンは条約草案を林公使に手交した。
日本国内には、日英同盟に対抗する有力な主張として日露協商論があった。その主論者伊藤博文は、ペテルブルグを訪れてその所信の実現をはかったが満足な反応を得られなかった。しかしそれでも彼は初志を貫こうとしたが、これに対し日英同盟をとるべきであるとする小村外相の外交判断は、桂首相はじめ閣僚および山県有朋・加藤高明らによって支持され、1902年(明治35)1月30日同盟の締結を見るに至った。
条約の内容は全6条と付属交換公文1篇から成る。条約の骨子は、イギリスにとっては主として清国における、日本にとっては韓国と清国における利益を擁護するため相互援助を約し(第1条)、さらに締約国の一方が、二国以上と戦うときは、ほかの締約国は参戦義務を負う(第2条)と定めた。
したがって万一日本が戦争するに至った場合、第三国が日本の相手国を援助し、あるいは加担する行為を「大英帝国」が厳に監視することになる。そのイギリスは依然として世界第一の富力と海軍力を保有する大国であり、しかも付属協定によってその優勢な海軍力を随時極東に集結する態勢をとるというのであるから、そのにらみは全世界に利くのである。
これによって日本は、ある一国だけを相手取って戦い得る態勢ができたのである。それはまさに日本海軍にとっては百万の味方を得たに等しい。果たせるかなそれから二年後に起きた日露戦争に事実となって表れるのである。条約の効果は海軍ばかりではない。日本国民に大きな自信を与え、同時に日本の国威を世界に向かって誇示する結果にもなった。
日英同盟の発表に対し、ロシアは衝撃を受け不満と不安を感じた。そしてドイツ・フランスを誘ってこれに反対する共同宣言を行おうと試みたが、ドイツはこれを拒絶したので、フランスとだけ3月16日共同して宣言した。
1905年(明治38)8月、日露戦争後の情勢を受けて改訂された。その要点は、イギリスが日本に朝鮮を保障するとともに、同盟の及ぶ範囲をインドを含む東南アジア一帯に拡げたことである。これは主にロシアの報復に備えたものであったが、日露戦争後の極東の情勢は、米・英の中国市場への進出に対抗して、日・露が接近する傾向にあった。
1911年(明治44)7月、日英同盟は再び改訂され、締約国と仲裁裁判条約を結んでいる第三国に対しては参戦義務を免除した。1914年(大正3)、第一次世界大戦に際し、日本はこの同盟の参戦義務遵守を名目として参戦した。大戦後のワシントン会議において、1921年(大正10)12月13日、日本、イギリス・アメリカ・フランスの間に成立した「四カ国条約」の発効に伴い、日英同盟は翌年8月に廃棄された。
このように、日英同盟は、大陸のランドパワーロシアの南下を防ぐシーパワー同盟として機能し、日本を仮想敵視し、アメリカの太平洋や中国への進出の野心によって破棄された。
この時期、日本の指導者とは、維新の元勲たる伊藤博文をはじめとする元老が実質的には仕切っており、政府超える部分で戦略的意思決定を行っていた。すなわち、国家のオーナーが存在したのだ。しかし、明治から大正に変わっていくなかで、オーナーは次々と死に、官僚が実権を握るようになる。
官僚はそもそも、自分の帰属先たる「縦割り」省庁の利害で動き、国家的意思決定が不可能なのだ。これが、極端になってあらわれたのが昭和期の陸海軍であり、統一的戦略がなく、陸海軍それぞれが個別に対シナ、対米戦を企画し、バラバラにそれぞれ戦争をするという愚を犯す。
全ては、「国家的戦略」をもっていなかったためだし、それを担保する制度上の指導者も、昭和天皇を除いてはいなかった。昭和天皇は一貫してシナ大陸での戦火拡大に反対であったし、皇太子時代に英国王ジョージ5世と謁見し、英米との強調を模索されたシーパワー派だったのだが、この点は特質すべきだ。しかし、立憲君主の立場を強く意識され、決して自らの意思で国政を指導されようとしなかった。
要するに、国家戦略を失い、官僚国家となった瞬間に、日本の破滅は決定づけられていたということだ。私が文筆活動を始めた最も大きな理由は、かっての誤りを日本と日本人に起こさせるわけにはいかず、かといって政治家や官僚になっても、それぞれの所属組織の利害に左右され、保身に追われるだけで、決して長期的国家戦略の立案と実行ができないという結論に達したからだ。
真の戦略家とは、自身の栄達を求めず、純粋に作戦指導に生きがいを見出すようでなければならない。要するに、芸術家とおなじだ。かっての三国時代、諸葛孔明は野にあって「天下三分の計」を立案し、後に実行した。劉備の死にあたった、もし息子が愚昧なら君が国王になれとの依頼を固辞し、宰相の立場にとどまったという。戦略家の鑑であろう。
以上
