世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略号外

-「海洋国家連合にとってのインド洋戦略」-

今回は、年末特別企画として、来るべき海洋国家連合にとってのインド洋戦略を私の過去のメルマガからインド洋に関連する部分を抜粋し、編集することで、検討してみたい。
まず、私の戦略構築の手法は、常に、その地域の歴史的背景を検討するところから始まる。
まず、世界史を概観して、地理上の発見により、南北アメリカが世界史に登場してくる以前は、ユーラシア東西交易の主要なルートは陸のシルクロードと海のシルクロードだった。

陸のシルクロード とは、数千年の歴史を持つ、アジアとヨーロッパを結ぶ東西交通路である。大別して、北から、北緯50度付近の草原 (ステップ) 地帯を東西に横断するステップ路があり、遊牧民に利用されてきた。

次に、北緯40度付近に点在する中央アジアのオアシスを結ぶオアシス路がある。

海のシルクロードとは、紅海またはペルシャ湾から東南アジアを経て華南に達する 南海路だ。

日本人がイメージする 「シルクロード」 は、河西回廊からタクラマカン砂漠のオアシスをたどった隊商路である。
易路のオアシスには街が栄え、多くの人と物資が行き交う交易の拠点となった。これらの富を狙って、シルクロードを巡っては争いが絶えなかった。ユーラシア大陸を制して巨万の富と強大な勢力を手にしたフビライ・ハーンは有名だ。

 しかし、中世以降は造船技術の進歩もあり、大量に物資を運べる船による交易が主流となり、東西交易の中心も陸路から海路へと移っていくことになる。大航海時代の到来である。東西交易が海路に移行するにつれて、「オアシス路」は衰退し、栄えていた国や街も徐々に消え、今では遺跡となった。

世界史の教科書には、欧州で始まった大航海時代により、喜望峰周りのルートが開拓され、インド洋交易が盛んになったかのような記述がなされているが、ヨーロッパ人が進出する以前のインド洋が、沿岸漁労民だけにとっての生活領域であったと想像することはこの世界のもつダイナミズムを不当に軽視することであり、活発な商業や交易の展開される世界であったことは歴史的事実として疑いようがない。
例えば、紀元1世紀頃にエジプト系の船乗りによってギリシャ語で書かれた『エリュトウラー海案内記』には、紅海からペルシャ湾・アラビア海からベンガル湾にかけ既に金銀・ガラス製品・象牙・香料・真珠・亀甲といった奢侈品から麦・鉄製品・銅・綿布などの生活用品そして奴隷といった多様な産品が海上輸送によって地域間で盛んに流通・交換されているさまが描かれている。その交易網の広がりは、当時既に東は東南アジア、西は東アフリカのザンジバル付近までをも覆っている。

その後このインド洋交易網は、アラビア人が海に積極的に進出してくる8世紀以降より一層活発化してゆく。ポルトガル等のヨーロッパ人が海上の覇権を握る16世紀以前にいかに整然とした交易や取引の秩序がこの海域世界一帯に広く確立し、定期的な海上航路網が発達していたかについてのありさまは、14世紀のモロッコに生まれ西アフリカから東アフリカ・中央アジアから南アジア・東南アジアそれに中国までを旅したイブン・バットウータによる著名な旅行記に詳しい。
「マルコ・ポーロの東方見聞録」に後れること約50年、それをはるかに凌駕する、まさに空前絶後の大旅行記が世に出る。それが「イブン・バットゥータの大旅行記」である。この『大旅行記』の正式題名は、『諸都市の新奇さと旅の驚異に関する観察者たちへの贈り物』といい、彼の30年間・12万キロ、現在の国名にして50カ国(エジプトを経てメッカを巡礼し、アラビア半島全域、東西アフリカ、バルカン半島、南ロシア、中央アジア、インド、東南アジア、中国など、豊かでエネルギーに満ちたイスラム世界や、それを取り巻く異域世界への旅)に及ぶ大旅行の集大成で、記録紛失による記憶違いやシュバイルからの転用も若干見受けられるが、彼が生きた14世紀前半のイスラム・ユーラシア社会が各地の風俗・習慣共々殆ど正確かつ具体的に紹介されている。このような、世界旅行を可能ならしめるほどの、海上及び陸上交通路が、当時のインド洋には存在していた。
プトレマイオス朝の時代からエジプトは紅海の港からインドと通商を行っており、エジプトを征服した古代ローマはこの貿易路も継承して、南インドにアメリカドゥなどいくつかの商業拠点を築き、絹を求めて中国にまで達したことは中国史書にも記載されている。古代にはマラッカ海峡はあまり使われず、マレー半島のクラ地峡を横断するルートが多かった。このルートでセイロン(獅子国)やインド、ペルシャの商人も中国に赴いたのである。陸のシルクロードは諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのに対し、海のシルクロードを遮るものはなかった。
7世紀以降はペルシャの交通路を継承したイスラム商人が絹を求めて大挙中国を訪れ、広州などに居留地を築く。中国のイスラム居留地は黄巣の乱によって大打撃を受け、一時後退したが、宋代になると再び中国各地に進出し、元代まで続いた。明は海禁政策を取り、朝貢貿易しか認めず、16世紀には喜望峰経由でポルトガルが進出したため、イスラムの交易ルートは衰えた。
この時期のポルトガルのインド洋進出については、国際金融資本について、考えなければならない。国際金融資本とは、中世のベニスやジェノバの地中海貿易を支配していた交易・金融事業者だ。オスマントルコがコンスタンチノープルを陥落させ、シルクロードを押さえて東方貿易の果実を得られなくなって後は、国際金融資本はスペインやポルトガルを裏で操り、大西洋貿易に乗り出した。1492年にスペインを追放(異端審問)された後は、オランダやイギリスを支配し帝国主義の時代をもたらし、二度の世界大戦後はアメリカを裏から操った資本家だ。
 シェイクスピアの「ベニスの商人」は、イギリスが彼等の支配に入りつつあることに警鐘を鳴らした作品だ。中世のベニスから現代のアメリカまで、全てのシーパワーの対外政策は「国家」ではなく、国家を支配する「資本」が行ってきたことを見るべきであり、この「資本の移動」こそが、シーパワーにとって、近代の世界史であり、資本主義の真の意味だ。
 この資本主義の成立と、欧州が、ここ400年、世界の覇権を握れるようになった根源的理由である、シルクロードをオスマントルコに押さえられたため、ジェノバ商人がスペインやポルトガルを動かし大航海時代になり、他のユーラシアの文明(主にイスラム)に比べて大西洋に近く、南北アメリカ大陸を発見することによって、ユーラシア大陸と南北アメリカ大陸間の大西洋貿易が活発になり、大陸欧州を含めて、地政学的にシーパワーになったことはコインの両面だ。
 つまり、大西洋貿易及びインド洋から東南アジアを経由して東アジアとの海上交易ルート確保がシーパワー欧州とランドパワーイスラムの近代を決定的に分けたのだ。海上ルートが発達したことにより、シルクロードはコストやリーチ(領域)の点で、グローバルな通商路としての重要性を失ったのだ。ここに、近代においてシーパワーの欧州がランドパワーのイスラムに優位した理由がある。
 欧州のベクトルはユーラシア大陸ではなく「海」に向いたため、発展できた。戦後の冷戦もこの文脈で考えるべき
このような背景で、スペイン、ポルトガルは中世末期、東方貿易に乗り出した。当時、胡椒は大変な貴重品であり「コショウ一粒は黄金一粒」と交換された。ヨーロッパは肉食の文化であり、まだ冷蔵庫のない時代、それひとつで防腐、消臭、調味に役立つ胡椒は、食生活に欠くことが出来ない貴重品であった。
 ところが、その胡椒は熱帯地方のみで栽培される香辛料であり、温帯、亜寒帯に属するヨーロッパでは栽培が不可能。非常に高価だったのもこのためで、胡椒の入手はヨーロッパとインドを行き来するジェノバ商人たちによる東方貿易によってまかなわれているに過ぎなかったのである。
 15世紀中期、この東方貿易が大問題に直面する。上述のように、1453年、7代スルタン、メフメト2世率いるオスマントルコ帝国が、神聖ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを陥れる。これにより東ローマ帝国は滅亡。コンスタンティノープルはイスタンブルと改称され、オスマントルコ帝国はこの地を新たな首都とし、ヨーロッパとインドの間に広大な領土を築いたのである。このため、東方貿易は通行の手段を失い事実上不可能となり、同時に胡椒の道も閉ざされてしまったのである。
 ここで、道を奪われたジェノバ商人達は他のルートに目を向けざるを得なかった。このときジェノバ商人たちが接近したのが、イベリア半島でイスラム勢力を駆逐し、国土回復を達成したポルトガル・スペイン両王国である。国土を回復し領地獲得の野望に燃えていた両国にとってもジェノバ商人の持ちかける話は魅力的なものであった。
 スペイン、ポルトガルは英蘭と異なり、国王が出資者となり船を仕立てて東方目指して出航した。言い方を変えれば、交易のリスクを国王が負ったのである。
 この時代は特に羅針盤の改良、造船技術の発達、地理・天文学の向上により遠洋航海が可能になりはじめた時代でもあった。地中海経由の東方貿易が不可能であるのならば、アフリカ経由でアジアに行けないか。商人たちはこう考えたのだ。世に言う大航海時代の幕開けである。
 いち早く国土回復を成し遂げたポルトガル王国が大西洋に飛び出す。1445年航海王子エンリケの派遣船がアフリカの最西端ヴェルデ岬に到着、アゾレス諸島を中心に植民を繰り返し、1488年、バルトロメウ・ディアスが喜望峰に到達。1498年にはバスコ・ダ・ガマがアフリカ経由でインド洋に入りインド西岸カリカットにたどり着いたのであった。
 国土回復にもたつき、一歩出遅れたスペイン王国も女王イザベル1世のもと大航海時代に乗り出す。カスティリア国王ファン2世(位1406~54)の娘イサベル(後のイサベル1世、1451~1504)は、1469年にアラゴン王子のフェルナンド(後のフェルナンド5世、1452~1516)と結婚した。イサベルは兄の後を継いでカスティリア国王となり(1474)、夫のフェルナンドも父の死後アラゴン王となったので(1479)、カスティリア・アラゴン両国は合邦してスペイン(イスパニア)王国となった。フェルナンド5世(位1479~1516)とイサベル1世(1479~1504)はスペインを共治し、1492年にイスラム教徒の最後の拠点であったグラナダを陥れ、ここにレコンキスタ(Re-conquest:(国土回復運動)とよばれる。
 イベリア半島では、13世紀になって、イスラムのグラナダ王国ができ、南のイスラム教と北のキリスト教との政治的なバランスを取りながら、折衷の文化をつくった。王国の首都グラナダには、当時のアラビア数学を結集して、地上の楽園アルハンブラ宮殿が建設され、アラビア科学の威光を放った。しかし、イベリア半島のレコンキスタは、じりじりとイスラム勢力を追い出してゆき、やがて、イベリア半島に残るイスラムの領土は、グラナダだけとなる。1492年にアルハンブラ宮殿が陥落して、最後のイスラム王家の人々がモロッコへ逃げ去り、レコンキスタが完結する。)が完了した。イサベルが出資したコロンブスの船団がサンサルバドルに到達したのも同じ1492年のことであった。 この1492年はコロンブスによるアメリカ発見の年として世界史に登場する。しかし、より重要な意義は、スペインによるイスラム教徒からの国土回復いわゆるカソリック帝国建設が達成された年であり、カソリックはその集団性、閉鎖性から考えるとランドパワーの宗教であり、ジェノバの商人(ユダヤ人)に代表される当時の金融資本に対して、敵対的排除を行ったのである。いわゆる異端審問(Inquisitor、国王フェルデナンドと女王イザベラによって始まった。プロテスタント、ユダヤ人、イスラム教徒などが、異端者であった。ドミニコ会の修道士たちが異端者を探し出す任務にあたっていた。異端審問にかけられた者たちは、転向か、公開火刑が待っていた。)である。カソリックへ改宗するかスペインを出て行くかを厳しく問うたのである。一部は改宗してスペインに残った(Malano、マラノ)が、大半はピレネー山脈を超えてフランス、そして当時、宗教的自由があったオランダへと逃れた。

 これがスペインをランドパワーに引き戻し、オランダ、そしてイギリスといったプロテスタント諸国が勃興してくる根源的原因である。上述の無敵艦隊撃滅(1588年)はおよそ100年後のことであり、旧教国=ランドパワー、新強国=シーパワーの関係に終止符を打つ画期的なことであったが、根本的理由はスペインカソリック帝国による金融資本追放なのである。
ポルトガルはインド航路にどのように進出していったのか。
 ポルトガル人が進出する前から、インド洋には海上交易ネットワークがあった。インド商人、イスラム商人が活躍していたのだが、特にエジプトのマムルーク朝が海上貿易に積極的で、アジアとヨーロッパをむすぶ中継貿易で利益を得ていた。ポルトガルの進出は、そこに割り込むことになる。ポルトガルは、ライバルとなるマムルーク朝の海軍を撃破して、紅海・インド洋海路を確保した。
 当時、アジアでは、ポルトガル人の持っていた大砲と鉄砲の威力は抜群で、ポルトガルはインド洋沿岸各地を占領して要塞を作った。
アフリカ東海岸には、マリンディ、キルワ、モザンビーク。
 アラビア半島の沖合のソコトラ島、ペルシア湾岸のホルムズ。
 インド西海岸には、ディウ、ダマン、バセイン、チャウル、ゴア、アンジェディヴァ、オノール、マンガロール、カナノール、カリカット、コーチン。

 ところで、当時の主要な交易品である香辛料貿易がどれくらいもうかったか。これは、1506年のリスボンでの値段。香辛料1キンタル(50.8キログラム)あたりの、輸送料を含めての原価と、販売価格だ。
 コショウが原価6.08クルザード、販売価格22クルザード。利益率262%。クローヴが原価10.58クルザード、販売価格60から65クルザード、利益率467から514%。ナツメグ、これは原価7.08クルザード、販売価格300クルザード、利益率4137%。要するに滅茶苦茶もうかったわけだ。だから、要塞を各地に作ってインド航路を独占しようとしたわけだ。独占すれば値段はさらにつり上げられる。
 ポルトガルがアジア貿易にはいりこんでいく様子を見てみよう。
 インドの重要な拠点ゴアを占領するのが1510年。
 翌年の1511年にはマレー半島のマラッカを占領している。マラッカは香辛料の原産地モルッカ諸島とインドの中間点。狭いマラッカ海峡をおさえる重要な中継地点だ。
 1517年には中国の広州で中国貿易もはじめる。中国の当時の王朝は明だ。ポルトガルは、明の倭寇退治に協力して、1557年にはマカオに居住権を得ている。
 ポルトガル人がはじめて日本にやってきたのが1543年。火縄銃を種子島に伝えたのが最初といわれている。その後ポルトガル人は九州各地にやってきて貿易を行った。日本史では南蛮貿易だ。

 しかし、このポルトガルのアジア貿易独占は長くつづかなかった。16世紀後半からポルトガル勢力は衰退していく。理由はオランダとイギリスといった新教国の参入だ。オランダ、イギリスと対抗するために軍事費がかさんで、この負担に耐えられなかったようだ。そもそも、ポルトガルの当時の人口は150万人。この中でアジア貿易に出かけられる成年男子となるともっと数が少なくなる。国の人口規模に比較してあまりにも広い交易圏を独占しようとしすぎたともいわれている。
そして、インド洋の支配は、この後、イギリスに移っていく。
 このように、大航海時代以降、インド洋は世界史の主要舞台となっていく。インド洋はその地形に、大きな特色がある。それは、周囲を大陸に覆われた内海だということだ。
このことから、インド洋の支配には、主要な三つのチョークポイントを支配すればよいことがわかる。すなわち、スエズ、マラッカ、喜望峰だ。ポルトガルの後にインド洋を支配したイギリスは、海洋国家戦略の立場から、この三つのチョークポイントを支配した。
インド洋を支配した、シーパワー英国は、19世紀後半から電信ネットワークを作り上げた、情報国家であった。情報を支配することで、海を支配し、世界を支配したのだ。英国の情報戦略を以下に見てみる。
18世紀以降、大英帝国は、進んだ造船技術と海運力、海軍力によって世界の政治経済の覇権を握った。その覇権は19世紀半ばのビクトリア朝で最高潮を迎えるが、このころから植民地各地へ向けて、電信によるグローバルな情報通信ネットワークを英国は築き始めた。
 この電信ネットワークの構築は、大英帝国の国力と物流ネットワークに裏打ちされたものであり、逆にそれを補完する役割を果たした。今日のインターネットが画期的なように、人馬や船に通信を依存していた19世紀の世界にとって、電信は画期的な情報通信技術であり、まさに19世紀の情報革命であった。この意味で、大英帝国は、電信ネットワーク基盤の上に立脚する、19世紀の情報国家だったのである。

 大洋を越えた植民地統治は簡単なことではない。植民地の現状をロンドンが把握し、その指令を伝えるという作業は時間を要するものであり、対応の遅れは手遅れになるということも考えられた。そのために必要とされたのが、電信技術だったのである。電信ネットワークは大英帝国の海運ネットワークと見事に一致するネットワークであった。

 注目すべきは、英国が今から100年以上も前に世界に張り巡らした海底ケーブルである。電信ケーブルによる情報通信コストの低減と時間の短縮化は、英国が植民地との情報を交換するにあたって重要な役割を果たした。むしろ、植民地のあらゆる情報を盗聴を含む手段で、迅速につかみ、対処することは、シーパワー英国の生命線となっていただろう。

 この、「情報の優位」により、巨額の利益を上げたのがロスチャイルドだ。19世紀、世界最大の金融市場であったロンドンでは、1815年のワーテルローの戦いにおいて、「ナポレオンが勝ったら株は『売り』、負けたら『買い』」に決まっていたのである。

 しかし、ワーテルローの戦いの戦況は、そう簡単にはロンドンに届かない。情報は人や馬車で運ばれ、英仏海峡を船で越え、そのあとやっと新聞記事や噂話になってロンドンの投資家に伝わる。

 投資は、正確な情報に基づいて行わなければ、利益をあげることなどできない。1815年当時の新聞記事などに頼っていては、投資家はどれだけ大損するかわからない。そこで、このワーテルローの戦いの頃、イギリスの投資家たちは、いちばん正確な情報を持っていそうな投資家を手本と仰ぎ、そのまねをすることに決めていた。

 その手本に選ばれたのは、ネイサン・ロスチャイルド。彼はすでに欧州最大の投資家、資産家の 1人として知られ、彼と彼の一族は、欧州各国に兄弟や従兄弟、一族郎党を配置して「支店」を構え、独自の情報収拾網を持っていることでも有名だった。もちろんネイサンはイギリスに莫大な投資をしており、彼がワーテルローの戦いに重大な関心を持っていることは、だれの目にも明らかだった。
 だから、当時のロンドンの投資家たちはこぞって、彼こそがもっとも正しい情報をだれよりも早く入手し、そしてだれよりも先に正しい投資を行うだろうと考えたのである。つまり「ネイサンがロンドン市場で株を売ったら『売り』、勝ったら『買い』」とだれもが決めていたのである。

 天下万民の期待どおり、ネイサンはだれよりも早く、しかしひそかに電信を駆使して、ワーテルローの戦いの結果を知った。ナポレオンが負け、大陸のイギリス利権は安泰と決まった。ロンドンでは株は「買い」の状況になったのである。 ところが、ここでネイサンは前代未聞の「大失敗」を演ずる。なんと、ナポレオン敗退の確報を得た当日、この男爵は自分の保有する株を、ロンドン市場で大量に売りに出たのである。
 これを見たロンドンの投資家たちがショックを受けたのは言うまでもない。かくして、まさに、ほとんどすべての株は、ロンドン証券取引所が閉まるまでに紙屑同然の値段になってしまった。ところが、取引所が閉まる直前に、たった1人、怒涛の勢いで「買い」に出た者がいた。ネイサンだった。「ドイツの援軍はまだワーテルローに着いていない」といった類の悪いニュースの流れる中、普段ならそう簡単に買えないような高価な有料銘柄が、ただ同然の値段で買えたので、ネイサンは、絶望する他の大勢のイギリス人投資家を尻目に、資金の大半を傾けて狂ったように買いまくった。
 翌日、ナポレオンが負けた、という正確なニュースが初めて広くロンドン中に伝わった。取引所が開くと、株は一気に急騰しはじめた。ネイサンはたった一夜にして、近代経済史上空前絶後の利益をあげた。公称約 100万ポンド。ネイサンを中心とするロスチャイルド家は資産を一気に数千倍にし、その他の投資家(ほとんどは地主貴族)は破産した。この件を境に、英国は事実上、国際金融資本の支配下に入ることになる。

 その後、1830年代にあらためて電信ブームが到来し、各地で実験が始まり、1851年、英仏海峡に海底ケーブルが敷設された。海底ケーブルにとっての最大の問題は、海中における絶縁性であったが、ガタパーチャと呼ばれる素材を使用することで絶縁性が確保された。
 このドーバー海峡の海底ケーブルが、大英帝国の政策への電信利用の第一歩であった。ここから電信ネットワークの拡張は、第一にインドと極東、第二に新大陸、第三にアフリカ大陸を目指して行われることになる。しかしながら、大西洋横断海底ケーブルの敷設は失敗の連続で、1858年に始まった敷設作業は8年後の1866年にようやく完成した。次の目標はインドだった。すでに1860年に地上線によって英印間は結ばれていたが、それに遅れること10年でジブラルタル海峡から地中海に入り、マルタ島を経由してスエズ運河を過ぎ、紅海からインド洋に抜け、ボンベイに達する海底ケーブルが引かれたのである。
 まさに、英国の植民地との間のエンパイアルート確保に海底ケーブルは決定的な役割を果たした。言い方を変えると、ケーブルの絶縁性と耐久性という技術的問題をクリアーできれば、規制や国境を越えて陸上でケーブルを敷設するより、コストも盗聴されるリスクも低かったのだ。
 これがシーパワーがランドパワーに対して情報の優位を勝ち得た理由だ。まさに、海を制するものは陸を制するものに勝るわけだ。ガタパーチャ(Gutta Percha)とは、イギリスが植民地にしたマレー、ボルネオなどの現地民たちが古くから身の回りの品々に使用していたゴムに似た材料で、加工性や強度に優れた樹脂の一種である。
 ケーブルを被覆する材料にはゴムもあるが、ゴムは海水中での耐久力が弱くて、海底ケーブルには使えなかった。
 そこで、このガタパーチャを有名なマイケル・ファラデーなどイギリスの物理学者たちが検討し、海水に強く電気絶縁性に優れていることを見出した。海底ケーブルの絶縁や補強に最適であることが分かったのだ。

 そこでイギリスは、東南アジアの植民地に広大なガタパーチャの栽培農場を経営し、その生産と販売を独占した。その結果、海底ケーブルの生産もまた、イギリスの独壇場となったのである。

 この時代は、植民地獲得競争の帝国主義の時代であり、シーパワー英国の時代である。最盛期はヴィクトリア(Victoria)女王の在位期間、1837年から1901年までの時代を指す。この間に、大英帝国はスエズ運河の領有化(1875年)、アヘン戦争(1840から42年)、インドの植民地化(1877年)などの帝国主義政策を推し進め、国内的には産業革命による資本主義経済の成立により、「世界の工場」として繁栄を極めていた。
 しかし、大英帝国の本質とは生産力や工業力ではなく、海底ケーブルを通じ「世界の情報」を掴むことと、海運を握ることによる、交易情報と交易ルートの独占なのだ。この点にこそ、シーパワーの真の意味がある。

 その間、1853から56年にわたりクリミア半島を主戦場としてロシアと英・仏・オーストリア・トルコ・プロイセン・サルデニャとの間に起きたクリミア戦争では、現地の司令部まで電信が引かれ、その威力を発揮した。特に大英帝国が最優先としたのがインドとの電信線の確保である。ロンドンとインドの間の通信は、1860年には確保されたが、それが直結するようになるのは1865年になってからである。

 英国系の電信ネットワークの拡張はその帝国の版図と完全に一致したものであり、その意図に合ったものにすることが重要であった。そこで、無駄な競争を回避するために1872年にインドルートの四つの会社が合併してイースタン・テレグラフ・カンパニー(Eastern Telegraph Company)ができた。
 この会社は大英帝国政府がバックアップし、シンガポール、香港、オーストラリア、ニュージーランドへの電信線を手中に収めた。その他、アフリカや南米へと電信ネットワークは拡張されていった。こうして、大英帝国の電信ネットワークは、英国を中心に、西へ東へ拡がっていった。
 第一次世界大戦中の電信について、「イギリスのケーブル網はニュース、指令その他連合国の重要電報の通信に休みなく活動した。その建設に50年を要した大英帝国の海外電信網は連合国の終局の勝利をもたらした一要因であった」と言われている。
 第一次世界大戦が終わったとき、大英帝国は世界の人口と陸地の4分の1を占めており、イースタン・テレグラフ・カンパニーによって作られた電信ネットワークは、大英帝国の神経システム(nerve system)となっていた。

 英国系の国際電信会社は、やがて後のケーブル・アンド・ワイアレス社となるグループ企業へと集約されていく。こうしたインフラ作りの他に、電信ネットワーク上を流れる情報コンテンツの面で、重要な役割を果たしたのが、ロイター通信である。
 国際通信や情報産業という重要な国家戦略上のインフラ整備を、政府ではなく金融資本の支援を受けた、民間企業が行ったことが、シーパワーとして英国の真の意味を物語る。例えば、ロンドンおよびパリ両取引所の相場を、一刻も早く知ろうとして、ロンドンの仲買人の中には、私設の伝書鳩による通信設備を持っている者がいた。 そして、英仏間海底ケーブル開通第1号電報は、商業上の重要な至急報であった。

 大英帝国の本質とは、対外活動、商工業活動が、貿易、金融において、Cityを仕切る、国際金融資本主導であったことである。それを支える重要なインフラが海底ケーブルとロイターによってもたらされる世界中の情報だ。

 前提として、イギリスのプロテスタント化、および、17世紀の二度の革命により王権に勝利し、国際金融資本に活動のフリーハンドが与えられたことが非常に大きい。逆に言えば王権が弱く、商人、金融資本に頼らなければ、強大な王権を誇るルイ王朝のフランスと張り合えず、世界帝国を形成できなかった。

 産業革命以前の製造業としては毛織物が挙げられるが、それは地方、農村を基盤として、農民の土地を奪い階級分化を促した。羊が農民を食い殺すといわれたのである。しかし、このシステムはマニュファクチャや問屋制家内工業の域を出ず、イギリスが世界に乗り出すシーパワーとなるには、上述の金融資本による、本国と植民地で進展していった経済発展を、たくみに連結させる三角貿易が必要であった。

 繰り返すがこれは、王権が行ったことではない。貧弱な王権(弱い規制)にともない金融資本のフリーハンドが実現したことによるのである。

 さらに、イギリスの特質として、金融資本と土着の地主貴族(Sirの称号をもつ)の相互交流が認められたことが大きい。ありていにいえば、商人を貴族にしたのである。
 ビクトリア朝を特徴付けるこの動き(the Victorian Compromise=ビクトリア朝の妥協と呼ばれる)は、近代のイギリス史を語る上で強調しすぎることができないほど重要な点である。別の言い方をすると、商人が政権に入り、商業的見地からcostとprofitを考えて外交政策を決定し、戦争する契機を与えたのである。

 この政策を推し進めたディズレーリ(Disraeli.Benjamin数次の蔵相をへて、保守党首相。パトロンであるロスチャイルドに出資してもらってのスエズ運河の買収、東インド会社の政府移管を実行。)はその代表である。イスラエルという名前で分かるとおり、彼はユダヤ系であった。
 世界史の教科書にはこのシステムは帝国主義と書かれてるが、これこそがシーパワーの真髄なのだ。背景として、この時期、アメリカ、ドイツの工業生産力がイギリスのそれを追い越し、イギリスとして、排他的独占市場を必要としたということがある。
中近東は、世界のチョークポイントの中でも、最重要なスエズ運河やホルムズ海峡が存在し、東西文明の接点でもあり、原油の供給源であり、ピボタルポイントとしてのイスタンブールやコンスタンチノープルを含むなど、世界の中で最も重要な位置を占める。

 イギリスが中近東に本格的に関与を始めたのは、スエズ運河の買収以降であるが、ここでは、オスマントルコの崩壊とイギリスの関与を見てみたい。
 端的にいって、イギリスは、植民地インドをはじめとするインド洋沿岸諸国の支配やアジア諸国との交易において、中継地点に位置し、チョークポイントやピボタルポイントを支配し、邪魔になるこのオスマントルコを、第一次大戦後の巧みな外交戦術で、崩壊に追い込んだ。
 イギリスがシーパワーとしてチョークポイントやピボタルポイントを支配するためには、オスマントルコは不倶戴天の敵であったのだろう。

 第一次大戦の意味としては、欧州におけるドイツの敗戦が語られることが多いが、世界史的にかつ、地政学的により重要な意味をもつのは、オスマントルコの解体による現在につながる「中東問題」の発生だ。
 中東問題に比べれば、ドイツの敗戦など、例えば、日本史の関が原の合戦の、九州戦線において、黒田如水と大友義統のどちらが勝ったかという程度の意味しかなく、大勢には影響を与えない。如水は九州一円をおよそ2ヶ月余りで殆どを掌中に収めたが、関ヶ原の本戦がわずか一日で終わってしまったことによって、その天下への野心は打ち砕かれた。如水は、これを機に天下への野望を捨て、華道や茶道を楽しむのである。

 第一次大戦は、イギリス‐フランス‐ロシアの連合国(日本も参加)対ドイツ‐オーストリアの同盟国間の帝国主義戦争であり、先行するイギリス帝国主義とそれを急追するドイツ帝国主義の対立が背景にあった。
 連合国側にも同盟国側にも、圧迫されている当時のオスマン帝国の指導権を握っていたグループは親ドイツ政策をとり、ドイツ側に立って戦争に参加。
 イギリスにとっては、中東地域が敵に回ると植民地インドとの連絡路を断たれることになるので、中東地域を味方につけるためになりふり構わぬ調略(切り崩し)政策を展開。

 * サイクス‐ピコ密約: フランス、ロシア、イタリア、ギリシアとオスマンの領土分割を協議→中東地域を北からロシア・フランス・イギリスの勢力範囲と定め、アナトリア海岸部はギリシア(一部はイタリア)の勢力範囲とする。
 * フセイン‐マクマホン往復書簡: イスラムの聖地メッカ・メディナ地方の支配者だったハーシム家に、アラブに王国を樹立させるという約束を交わす。
 * バルフォア宣言: シオニストにユダヤ人の事実上の国家建設を認める。

 停戦と占領 オスマン帝国の戦況は思わしくなかったが、ケマル・アタチュルク(当時はまだムスタファ・ケマル。国会によるアタチュルク姓の授与は1934年)の活躍もあり、アナトリアでは善戦。1918年、ドイツ降伏とともに連合国に降伏。オスマン帝国は分割占領され、イスタンブル宮廷はイギリス占領軍の管理下に置かれる。

 トルコ革命 連合国はサイクス‐ピコ密約に沿ったオスマン領分割を定めたセーヴル条約をオスマン宮廷に押しつける。アタチュルクは、そのオスマン宮廷に反発する人びとを糾合し、アナトリアに侵攻してきたギリシア軍を撃破。トルコ人たちの支持を集め、連合国との再度の和平会議(ローザンヌ会議)を前にオスマン皇帝を廃位する(1922年)1924年、カリフ制も廃止し、オスマン王家は追放される。

 アタチュルクは、オスマン帝国を「アナトリアのトルコ人の国」として再生させる。アラブ地域その他の支配は断念する。
 この結果、オスマントルコは解体され、中東地域は現在にいたる線引きにより、個別の国が誕生した。背景には、イギリスの徹底した調略があり、それが現在にいたるパレスチナ問題をはじめとした中東諸問題の根源となっている。

 言い方を変えると、アラビアのロレンスの例を引くまでもなく、この地域に対する調略はイギリス情報部のお家芸なのだ。言い方を変えると、シーパワーとしてグローバル展開をする上で、中近東への関与は必要な条件なのだ。

 ここで、イギリスの関与とは、上記の三枚舌外交のような、調略及び、チョークポイントの支配を基本とし、直接攻撃を避ける傾向にある。
 孫子の兵法に「百戦百勝は善の善なるものにあらざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」という言葉がある。
 つまり戦に勝つよりも戦わずに勝つことの方が上策という意味であり、この考えに合致している。英国の戦略家リデル・ハート卿によると、敵が自らの意思で投降しやすいように、心理的・外交的・経済的な「間接アプローチ戦略」(indirect approach)を駆使することが重要となると言っているのも同じことだろう。
 なお、リデルハート卿は、核兵器が発明された事で戦争が無くなるのではなく、ゲリラ、内部撹乱戦がかえって促進されるとも指摘している。まさに、至言だろう。


 このように考えると、「現地マイノリティーを使い、様々な利益を約束し、傀儡政権を作って得いくというのが、シーパワーの常套手段」だということがわかる。アメリカのイラク戦争はこの戦略から大きく逸脱している。だから失敗したのだ。

 今後の中近東を考えるに、チョークポイントを抱えるトルコとエジプト、イランの帰趨が重要になる。
 イラク戦争以後の傾向として、アメリカの中近東地域でのプレゼンスの圧倒的低下があげられる。つまり、アメリカは反米感情の高まりに対処できず、事実上、中近東での影響力を喪失している。
 そこで、これら諸国への調略は第一義的にはイギリスの仕事だ。しかし、イギリスだけだは、最早、調略は不可能だろう。そこで重要性をもつのが、日本だ。

 ここで「調略」というものを考えてみたい。調略とは、例えば、関が原の合戦が東西両陣営による凄まじい調略合戦であったことでもわかるように、「敵の切り崩し」を本質として、そのための利益の保証および、調略に応じない場合の不利益を悟らせることを手段とする。平たく言えば、アメとムチで切り崩すわけだ。上述の間接戦略の核心ともいえる。

 中近東諸国は、イギリスとの人的繋がりが多く、イギリスの情報機関(MI6)や情報産業(ロイターやBBC)は中近東に足場を築いている。
 例えば、カタールの衛星放送アルジャジーラはBBC出身者が立ち上げた。このように、過去の歴史的繋がりから、中近東とのヒューマンネットワークにおいて、日本はイギリスに遠く及ばない。つまり、人的ネットワークと情報はイギリスに頼るしかない。そして、日本が提供できるのは技術だ。何の技術かといえば、水に関する技術だ。

 「万物の根源は水である」と古代ギリシャの哲学者は言った。1995年、当時世界銀行の副総裁であったイスマル・セラゲルディンは「二十一世紀は水をめぐる争いの世紀になるだろう」と予測した。不幸にもそれは的中し、今日では「水の世紀」という言葉が、水不足・水汚染・水紛争などを包摂する概念として定着している。

 水問題にかかわるすべての国連機関がまとめた水資源に関する「世界水発展報告書」が、2003年3月5日発表された。それによると、人口増や水質汚染・地球温暖化などが原因で、今世紀半ばに深刻な水不足に直面し、影響を受ける人口は、最悪の場合60カ国・70億人に達するという。

 中でも、アフリカ・アジア・中東の34か国が水不足国に分類されており、そのうち32カ国が穀物の純輸入国になっている。水不足が原因で穀物を国内で栽培できないからだ。これら水不足国の合計人口は、2025年には現在の4億7000万人から30億人に増加するものと予測されている。特に、北アフリカとアラビア半島の大部分の地域は「化石帯水層」に依存している。この地域の降雨量は極端に少なく、帯水層の涵養はほとんど見込まれない。

 世界の四大文明を育んだチグリス・ユーフラテス川、ナイル川・インダス川・黄河いずれも水不足に陥っている。すべての地域で砂漠化が進んでいて、やがて地球全体に広がって行く。
 水は化石燃料と違って、代替物がない。21世紀は、生死をかけた水をめぐる争いの時代になるだろう。暗殺されたイスラエルのイッハク・ラビン前首相はかつて「もし中東の諸問題すべてが解決できたとしても、水問題で納得できる解決を得なければ、我々の土地は大衝突を避けられない。」と発言した。(エルサレム・ポスト紙2000年3月13日より)

 「水不足は国際紛争までも引き起こす。レバノン、シリア、イスラエル、ヨルダン、といった中東の地中海側の地域は、ベカー平原やゴラン高原を除き、雨が非常に少ない。1948年に始まった中東戦争のうち、1980年のイスラエル軍によるレバノン南部の攻撃は、この地を拠点にイスラエルを攻撃していたパレスチナ人ゲリラ組織をつぶす為だった。だがその他の理由として、イスラエル政府はベカー平原の水がほしかったということが挙げられる。中東の国々では、「水の確保」が死活問題の安全保障なのである。

 中東の地中海側では今年、60年ぶりの水不足に襲われている。中東戦争の勝者であるイスラエル人は、渇水期でも何とか平常通りの生活をおくれるが、負けたパレスチナ人やヨルダン人は悲惨だ。イスラエル占領下のヘブロンやベツレヘムでは水道からは2週間に1度、数時間しか水が出ない。一方ユダヤ人入植地では、プールに水があふれ、芝生も青々としており、勿論蛇口からはいつでも水が出る。

 西岸地域の貯水池や水源のほとんどはイスラエルの占領下にあり、パレスチナ人は水の管理権をもっていない。加えて、イスラエル当局はすぐ近くのパレスチナ人を後回しにし、国内の他地域に先に水を回している。パレスチナ自治政府によると、パレスチナ人はイスラエル人の3分の1しか水をもらっていない。こうした不正に怒るパレスチナ人の中には、イスラエルのパイプラインに穴をあけて水を盗む人もいる。

 ヨルダンもまた、水戦争の敗者だ。1994年にヨルダンはイスラエルと和解したのだが、毎年イスラエルから5200トンの水を受け取ることが条件だった。しかし昨年、今年の水不足で、イスラエルはヨルダンへの水供給を半分に減らした。

 中東ではこの他、チグリス、ユーフラティス川の水をめぐる紛争もある。トルコ、シリア、イラクの3カ国が関わっているが、クルド人の独立問題とからみ、相互にあまり仲がよくない。

 水をめぐる勝ち組み、負け組みという区分は、世界的な水問題にも当てはまる。国連によると、2025年には世界の人口の3分の1が水不足に悩む状態になる。そのほぼ全員が、発展途上の国々(中東、アフリカ、インド、中国北部)になりそうだ。
 その反面、地球上できれいな飲料水を確保しているのは日本や欧米などの先進国である。先進国には世界人口の20%である事を考えると、水に関しても、世界的に大きな貧富の差があることがわかる。

 このような、水不足に対して、解決の鍵となる技術を日本が握っている。ひとつは、海水の淡水化技術だ。
次に、オスマントルコが解体され、英国がその利権を手中に収めた頃からだろう。この経緯を見ることは、現在につながる中東問題の根源やドルやユーロといった問題を理解する上で、必要不可欠であり、多くの示唆を与えてくれる。

 第一次大戦で敗戦したドイツにおいて、特筆すべきは、優れた外交手腕を発揮したのは、プロイセン首相を務めたビスマルクの外交政策との対比である。ランドパワーたるプロイセンの周囲には、ロシア、オーストリア、フランス、イギリスという列強があり、神聖ローマ帝国全体をさえ纏め得ないプロイセンに勝機はあり得なかった。
 ところが彼は、列強各国が抱いていたフランス憎しの感情を利用して対仏同盟を主導し、最終的に普仏戦争に勝利してフランスに城下の盟を誓わせた。対内的にも恐怖政治を誘導することなく、巧みな内政を駆使し、オーストリアを除く旧神聖ローマ帝国領の大半を併呑した。
 最終的に武力行使という手段を使ったが、これはフランスに外交上の完全な敗北を認識させるために行使したもので、国を賭けての戦争ではなかったことに特徴がある。あくまで外交というソフトなアプローチで望み、ときには利益をちらつかせ、ときには威嚇を見せつけ、武力行使を極力伴うことなく戦略上の勝利を築き上げた。

 オーストリアと戦争した際には、ウィーンまで進軍すべしという参謀の進言をはねつけ停戦し、後の対仏戦の際のオーストリアの好意的中立を勝ち取った。彼は、戦争の勝利と戦力均衡による和平を人生においてともになしえた、稀有の宰相だ。彼は孫子を読んでいたといわれる。反対に、ウィルヘルム皇帝は第一次大戦後、亡命先のオランダで孫子を手に取り、「もっと早く読むべきだった」と悔やんだとされる。

 ビスマルクを失って以降、ウィルヘルム皇帝の海外植民政策はイギリスのそれと対立し、第一次大戦に至る。シーパワーがランドパワーの海洋進出や中東進出をどうやって阻止するかの典型が、この期間の英独関係なので、詳細に見てみる。

 ビスマルクはドイツ帝国には海外植民地は不要との立場だった。外交政策を尽くした上で、その延長に必要最小限の戦争を考える、孫子にも通じる戦略である。しかし、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とその配下の官僚は宰相ビスマルクを解任した。というのも、ビスマルクがヨーロッパ諸国の動きを慎重に見極めた外交を展開していたのに対し、この皇帝と官僚は世界進出を目指した夜郎自大の外交を展開したかったのだ。

 この点、元老という国家のリーダを失い、官僚国家となった、昭和期の日本とよく似ている。

 ヴィルヘルム2世は1898年、1900年の2回にわたり制定された艦隊法によって艦隊を拡張し、海軍力を強化させた。この当時、「ドイツの将来は海上にあり」とのスローガンがあった。
 これにイギリスが非常な警戒をした。1906年にイギリスは、それまでの艦船よりも攻撃力を飛躍的に増大させたドレットノート級を建造。さらに、イギリスの植民地だったカナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどに独自の海軍を認め、より機動的にイギリス系の海軍が活動できるようにし、ドイツの動きに対応した。1890年、ドイツでビスマルクが引退すると、ヴィルヘルム2世(位1888~1918)はロシアとの再保障条約の更新を拒否した。

 そのため、ドイツから離れたロシアはビスマルク外交によって孤立していたフランスに接近して露仏同盟(1891~94年に成立)を結んだ。
 露仏同盟の成立によって、ビスマルクが最も恐れていたドイツが東西からロシア・フランスにはさまれる状況が現出した。

 ドイツは露仏同盟の成立後ロシアの東アジア進出を支持し、自らはバルカンから西アジアへの進出をはかり、3B政策を推し進めた。

 3B政策は、ベルリン(Berlin)・ビザンティウム(Byzantium)・バグダード(Bagdad)を結ぼうとするドイツの西アジアへの進出をはかる帝国主義政策の代名詞で、主要3都市の頭文字をとってこう呼ばれている。 まさに、ランドレーンによる中東の「囲い込み」を狙った政策だ。

 ドイツは、1899年にトルコからバグダード鉄道(トルコのコニアからバグダードを経てペルシア湾に至る予定線)の敷設権を獲得し、1903年にはバグダード鉄道会社を設立し、3B政策の中心として建設を進めた。バグダード鉄道は1918年までに3分の2が完成し、この間トルコにおけるドイツの勢力が著しく強まった。

 なおバグダード鉄道は、広義には19世紀末以来のドイツ資本による近東での鉄道事業の総称としても使われる。

 ドイツの3B政策はイギリスの3C政策を脅かすこととなり、また両国の激しい建艦競争も相まってイギリスとドイツの対立は強まった。この両政策は中東を囲い込むのに鉄道を使うか、船を使うか、すなわち、ランドパワーとシーパワーの中東争奪戦であり、第一次大戦の原因になった。

 イギリスは20世紀の初頭まで「光栄ある孤立」を誇ってきたが、ロシアの東アジア進出に対抗するために「光栄ある孤立」を捨てて、1902年に日英同盟を結んだ。

 1904年に日露戦争が始まると、日本の同盟国であるイギリスとロシアに同盟国であるフランスは日露戦争に巻き込まれることを避け、ドイツに対抗するために1904年に英仏協商を結んだ。

 イギリスとフランスは英仏協商によって、エジプトにおけるイギリスの、モロッコにおけるフランスの優越権を相互に承認して長年にわたる植民地をめぐる対立を調整した。なお協商とはゆるい国家間の協力提携の関係をいう。
 日露戦争で東アジアでの南下政策を阻止されたロシアは再びバルカンへの進出をはかってドイツ・オーストリアと衝突するようになった。

 そのためロシアは、1907年にイギリスと勢力範囲を協定して英露協商を結んだ。英露協商では、イランの北半分をロシアの、イランの南東部をイギリスの勢力範囲として分割し、ロシアはアフガニスタンにおけるイギリスの優越権を認め、またチベットについては、中国の主権を認めて相互内政不干渉を協定した。

 この英露協商の成立によって、従来の露仏同盟・英仏協商と合わせて、イギリス・フランス・ロシアの間に三国協商と呼ばれる協力関係が成立し、三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア間の軍事同盟)と対立することとなった。

 イタリアは統一後、北アフリカのチュニス進出をねらったが、フランスがチュニスを保護国とすると(1881)、ドイツ・オーストリアへの接近をはかり、1882年に三国同盟を結んだ。

 しかし、イタリアは「未回収のイタリア」(イタリアは1870年以後もオーストリア領にとどまったイタリア人居住地域のトリエステ・南チロルを未回収のイタリアと呼んでその併合を要求し続けた)をめぐってオーストリアと対立した。

 そのため、イタリアはその後フランスに接近し、トリポリにおけるイタリアの、モロッコにおけるフランスの優越権を相互に認めて1902年に仏伊協商を結んだ。

 領内に多くのスラヴ系民族をかかえていたオーストリアは、パン=スラヴ主義(スラヴ民族の独立・団結を主張する立場)の影響を恐れ、3B政策を推し進めているドイツと結んでパン=ゲルマン主義(ゲルマン民族や国家の団結を主張する立場)を唱えてバルカンへの勢力拡大をねらった。

 1908年にオスマン=トルコで青年トルコの革命が起こると、この混乱に乗じてブルガリア(スラヴ系国家)はトルコからの独立を宣言し(1908.10)、オーストリアはボスニア=ヘルツェゴヴィナを併合した。

 ボスニア=ヘルツェゴヴィナはスラヴ系住民が多く、パン=スラヴ主義の先頭に立ったセルビアがかねてより併合をねらっていたので、セルビアはオーストリアに対して激しい敵意を抱き、また再びバルカンへの進出をはかるロシアとオーストリアの間にも緊張が高まった。

 ロシアは、1912年にセルビア・ギリシア・ブルガリア・モンテネグロの4カ国の間でバルカン同盟を結成させ、これを指導下においた。

 バルカン同盟4カ国は、イタリアがトリポリ・キレナイカを奪おうとしてイタリア=トルコ戦争(伊土戦争、1911~12)を起こすと、これに乗じてトルコに宣戦した(第1次バルカン戦争、1912.10~13.5)。

 トルコはただちにイタリアとの戦争を終わらせてバルカン同盟4カ国と戦ったが敗れ、イスタンブルを除くバルカン半島に残されていたトルコ領の大部分とクレタ島をバルカン同盟4カ国に割譲した。

 しかし戦後、領土分割問題からブルガリアとセルビアが対立し、ブルガリアがセルビア・ギリシアを攻撃して第2次バルカン戦争(1913.6~13.8)が始まった。

 セルビア・ギリシア側にはモンテネグロの他にルーマニア・トルコも参戦したので、ブルガリアは大敗し、ルーマニア・セルビア・ギリシアそしてトルコにも領土を割譲した。そのためブルガリアは以後ドイツ・オーストリアに接近するようになった。

 バルカン戦争によって勢力を伸ばしたセルビアとそれに反発するオーストリアの対立が激化し、それにともなってパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義が激しく対立したのでバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになった。第一次世界大戦は一般的には、バルカン半島の支配権をかけ、汎ゲルマン主義と汎スラブ主義の衝突から起き、そして、欧州の枠組みを変えたとされる。

 確かにそのとおりだろう。しかし、第一次世界大戦の真の意味は、ドイツの3B政策と英国の3C政策の衝突の結果、オスマントルコの解体がもたらした中東の枠組み変容である。この視点はどういうわけか、世界史の教科書などでも大きくは扱われない。

 何故だろうか。それは、第一次世界大戦で決定されたこの地域の枠組みが、現在の中東情勢そして世界情勢に直接インパクトを与えておりまだ、歴史ではなく、リアルタイムの問題だからだろうと推察される。

 重要な点として、欧州の枠組み変容は欧州というローカルな地域の問題だが、中東の枠組み変容はエネルギーの供給地であるため世界的グローバルな問題なのだということを念頭に入れてもらいたい。G8で中東が主要議題となり、アメリカが中東に戦略重心を移行しているのもそのためだ。

 「石油が戦略エネルギーである限り、中東を制するものは世界を制する」と考えているのだ。中東をハートランドと考えれば、まさしく、マッキンダーに通じる大陸派地政学の実践だ。

 このような観点から、世界的グローバルな視点から考えた第一次世界大戦の真の意味はオスマントルコから英国への中東利権移行、第二次世界大戦の真の意味は英国から米国への中東利権移行というのが正しい。ドイツや日本の枠組み変更は、ローカルな話なのだ。

 第一次世界大戦の推移については、詳述を省くが肝心のメソポタミア戦線において、1916年4月26日ロンドンに於いて、サイクス(イギリス外務省・中東担当官)とピコ(フランス前駐ベイルート領事)との間で、パレスチナからメソポタミアに渡る広汎な地域を含む旧トルコ領土の戦後処理について秘密協約が結ばれた。サイクスピコ協定は当時の秘密外交の所産であり、英仏以外の意見は斟酌されていない。

 協定の骨子はまずバクダットとエルサレムの間に線を引き、その北部をフランスの影響地域、南部をイギリスの影響地域とする。そのうえであるアラブ人王(ハシミテ家から予定)のもとで王国を建設するが、両国の影響下に置かれることに変わりはない。内容は、ベイルートを首都とするレバノン沿海部をフランスの植民地とする。アラブ主権国家をダマスクスに設立し、シリアとしてフランスの保護国とする。

 一方、ハイファとアグラ(十字軍の根拠地)をイギリスの直轄都市とする。後背地のパレスチナは英・仏・露の保護国とする。同時にトランス・ヨルダンからアラビア半島の大部分にアラブ主権国家を設立し、イギリスの保護国とする。メソポタミアはイギリスの自由裁量とし、トルコ東部はロシアの自由裁量とする。

 以上であるが、現在の国境をほぼ決定したと言ってよい。あきれるほどの19世紀的秘密外交には違いないが。イギリスは領域としての領土に最早こだわっていない。
 ハイファとアグラは石油パイプラインの終点だとして明記されている。この地域を領有しても負担だけで実利はないことに気づいていたのだろう。一方フランスはシリアを手に入れたが、戦間期反乱処理に追われ、治安部隊の派遣費用を負担しただけだった。

 上述のように、英国とドイツが3C政策と3B政策で中東をシーパワーとランドパワーで囲い込もうとした事が、結果として第一次大戦に繋がり、ランドパワーは敗れ去ったように、ユーロとドルによる中東の囲い込みは、イラク戦争をはじめとする戦争に繋がった。まさに、私が、何度も指摘したように、歴史のパターンは繰り返されるのだ。

 このことに見られるように、関が原である中東をランドパワーが押さえるか、シーパワーが抑えるかは、世界で最も重要な問題だ。

 例えば、1973年10月、第4次中東戦争が勃発。OAPECがアラブ非友好国に対して石油禁輸を宣言、石油の供給が止まり西側諸国では大きな混乱が起こった際、当時のニクソン政権はUAEやクウェート、サウジといった、湾岸諸国の軍事占領を計画したという。

 湾岸戦争や、今回のイラク戦争もこの文脈で考えるべきものだ。イラク戦争はアメリカの統治という点では失敗したが、前号で述べたイラン-イラク-シリア-レバノン4カ国同盟の阻止という点では成功した。

 今後の戦略は、イスラエルによるイラン攻撃から、イランを引き釣り込み、「対イラン防衛を名目とした、湾岸諸国の米軍による占領」すなわち「第四次中東戦争や湾岸戦争方式」なのではないか。こういうことを阻止するためにも、日英が基軸となり、アラビア半島をアクエリアス化し、アメリカやイスラエルやイランとの間で、均衡を保たせることが、世界の運命を左右する重要な戦略だ。

 関が原を押さえ、湾岸諸国のドル離れを阻止し、原油資源をアメリカが握るために、追い詰められたイスラエルを鉄砲玉に使う可能性は、非常に高い。そのための、今回のガザ撤退だろう。

 ここで重要なのは、ランドパワーとシーパワーの優劣をどう見るかだ。鉄道は敷設コストや国境をまたぐ上でのリスクもある。これは、鉄道敷設の利権や用地の買収や各国政府との調整や交渉、さらには、一旦敷設してしまうと、その維持コストや防衛コストも大量に発生するという意味だ。
 19世紀において、この鉄道が、技術的に開発された時点では、鉄道敷設は植民地経営、帝国主義の根幹とも見られていた。マッキンダーがその地政学を上梓したのは、当時の鉄道の隆盛を見てのことで、彼のランドパワー論(世界島(ユーラシア大陸)の中央部でシーパワーの力が及ばないユーラシア北部を「ハートランド」と名付け、鉄道や道路などの陸上交通や通信技術が発展すれば、ランドパワーが沿岸地域に及んでいるシーワーを駆逐し、圧倒することになると主張した。)とは、つまるところ「鉄道を握るものは国家を支配し、ユーラシアを制する」するという議論と言える。
 
 私は、人類史を研究した結果、文明や国家の栄枯盛衰にはある法則があることを確信しまた。それは、「攻勢終末点を認識、維持できない国家は必ず滅びる」というものだ。攻勢終末点とは、自己の勢力圏の認識だ。つまり、ここまでなら、自己の力で何とか管理し、敵対勢力を排除できるという線だ。

 国家や文明あるいは企業にとって、最大にして最後の目的はこの攻勢終末点を引き、維持することといっても過言ではない。防衛線と言い換えてもかまわない。

 そこで、過去の世界帝国は、この攻勢終末点=防衛線をどのように認識していたかというと、大きく分けて、陸上の「国境」と海上「制海権」といえる。この制海権の主要舞台がインド洋だったのだ。

 国境については説明の必要はありませんが、制海権は近代のポルトガルが大航海時代に大洋にのりだしていたころから認識されだした概念で、一言でいうと、海上の自由な輸送、移動を確保するということで、「港の支配」を根幹とする。英米が現代において、世界中の小島や大陸に海軍基地を確保しているのは、この制海権確保のためなのだ。

 私は、拙著「環太平洋連合」中で、世界の国々はこの「国境」防衛が必要なランドパワー(大陸国家)と「制海権」の保持のみで国家発展が可能なシーパワー(海洋国家)に分類した上で近代以降、発展を遂げた国は全てシーパワーとして、沿岸部や島嶼部に限られていることを論証した。

 これら国々がなぜ、経済発展という点で大きく差異が出てきたかは要は国家防衛や維持の関わるコスト、リスクともにランドパワーが大きいのだ。

 世界の歴史を概観すればわかりますが、大陸国家とは、陸上で防衛線を張る必要から、人間の本性として、敵と距離を保つために、常に防衛線の前方展開の衝動に突き動かされ、結果として国家崩壊に至る例があまりに多いのです。帝政期以降、欧州内陸部への拡大から破滅を招いた古代ローマ、アレキサンダー、元、ナチス・ドイツ、大日本帝国陸軍そしてソビエト・ロシア等、枚挙に暇がないというよりも、これがランドパワーの宿命だ。

  私は、現在国家戦略をどう検討し、構築するかに心血注いでいる。そこで、いままでに考えたことをまとめると、以下のと
おりだ。

1.人類は過去2000年のスパンで考えると、大きく分けて15世紀までの陸上支配」から15世紀以降の「海上支配」すなわちインド洋支配へと、その戦略の基盤が変わった。

  つまり、陸⇒海のパラダイムシフトが起きた

2.その過程で、なにが根本的にかわったかというと、ソフト
を制したものがハード(土地、人民)を制したものを支配する
という、これまたパラダイム変化が起きた。ソフトつ
まり情報の優位である。

3.現在おきているパラダイムシフトはいくつかあるがその最
大のものは
(1)海洋支配勢力としての米国の衰退がかなり決定的

(2)陸上は自然環境悪化および、地政学的対立、戦争により、
これまた、地域的に破綻するところが多数でてくる

(3)よって、世界秩序は戦国時代と化してくる可能性が高く、
経済より軍事や安保中心にならざるを得ない。

4.そこで、地域的な戦略的グループ作りが喫緊の課題であり、
世界の再編が始まる

5.その際に考慮しなければいけない条件は

(1)安全保障 (2)市場、資源確保 (3)自然環境悪
化への備え

といった点についての多元関数を解かなければならないのだ。
以上、私の検討した戦略の要約を示したが、詳細は過去のコラムを参照されたい。

                                 以上
<引用>
世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略

以上

【お知らせ】

LOHASなロタ島特集の後、女性読者による新コラム、日本書道が始まります。

思念を具現化する事が可能な時代です。文化と伝統と学問のコラムニスト募集中

ボロをまとった暮らしから一世代で裕福に

アレキサンダー大王の戦闘教義(前編)

知性と何か 永井俊哉ドットコム

末は博士かホームレスか

【格言】

「軍事力を育てて使ってもまったく儲からない。しかし軍事力がなければもっと儲からない」(古代ギリシア人の言葉) 松村劭著「新・戦争論」より

環境や文化を育てて使ってもまったく儲からない。しかし環境や文化がなければもっと儲からない。左翼の環境技術が世界の命運を決める。

(現代Cyber ULSの言葉)

【記事】

米政府の温暖化報告書 “不都合な真実”書き換え認める 産経新聞 平成19年3月20日

関連コラム

アブダビでの展示会の報告(2007年1月)

ビデオ(近自然学 チューリッヒ大の山脇正俊氏)

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革命者(Loose Change 2nd Edition 日本語吹替版ビデオ放映中)

永井俊哉氏による9/11 アメリカ同時多発テロ事件の考察

 日本と国際金融資本の歴史①(正月地政学特集1) 

 日本と国際金融資本の歴史②(正月地政学特集2) 

 日本と国際金融資本の歴史③(正月地政学特集3) 

 借金大国の日本とアメリカ 

コメント

ブログを再開しました。
チーム連山の方もいろいろと今後紹介して行くつもりです。

若い世代は敏感みたいですよ。
この手の内容は日本では報道されません。
理由は何でなんでしょうかね。

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=83243&servcode=500§code=500
アメリカ国民4人に1人「07年に朝・米戦争」

http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=78839&servcode=400§code=400
「戦争時、先頭に立って戦う」韓国10%、日本41%
韓日中3カ国の青少年を調査した結果、戦争が起こったとき、先頭に立って戦うという
意志が日本が最も強い一方、韓国は最も弱いものであることがわかった。

失礼ながら、ネグリ・ハートの『帝国』以前の旧態然たる議論だと思います。

三輪さま

コメントありがとうございます。
本サイトを紹介いただけるとは大変光栄です。
貴殿のように、真剣に読んでくれる方が一人でもいる限り、私は筆をとり続けます。

今後ともよろしくお願いします。ご健筆をお祈りします。