世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略 新春特別号その1

掲載日(7日前編、14日中篇、21日後編予定)

今回は、平成十九年新春を記念して、「日本のインド洋戦略」を、その歴史的経緯、蹉跌を見ていくことで、検討してみたい。
 日本人は、海というと、日本海や東シナ海、太平洋を思い浮かべる。たしかに、近世以前の日本人にとって、海とはこれらを指していた。しかし、近世以降、具体的には、大航海時代を経て、地球が「グローバルな一つの経済圏」として認識されてくるようになると、より重要な意味を持つのは、インド洋になった。

日本とインド洋が直接結ばれるようになったのは、よく知られる、1543年の中国船に乗ったポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えてからだ。1549年のイエズス会士フランシスコ・ザビエルの来日とあいまって、この時期のポルトガル、すなわち「世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略号外」http://www.teamrenzan.com/archives/writer/edajima/post_152.htmlで述べた、国際金融資本との接触は、日本の運命を大きく変えた。つまり、国際金融資本により、近代のグローバル経済体制に、日本が組み込まれたのだ。

その過程で、日本の指導者が国際金融資本に対して、どのような対抗策をとってきたかとは、実は、日本にとって、最大の国家戦略上の課題といってもいい。対応を一歩誤ると、日本はフィリピンやマカオや香港のようになっていた可能性は十分すぎるぐらいあったのだ。これは、インド洋をはさんで日本と国際金融資本との間の凄絶なバトルなのだ。
ポルトガルに始まる、近代のシーパワーの勃興はインド洋を支配することで達成された。そこでのエトスは、あく無き「利潤の追求」すなわち、経済的動機だ。それは手段として、戦争、征服、奴隷化、植民地化など暴力的収奪を特徴としていた。近代とは、シーパワーの勃興期であるが、シーパワーの負の面が極度に現れた時代とも呼べる。

ヨーロッパに出現したシーパワーの活動領域は、西ヨーロッパを中心とし、アジア、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸を周辺地域として形成された。
世界システム論(World-System(s)Theory)の唱道者であるアメリカの社会学者・歴史学者ウォーラステインは近代世界システムのみが世界帝国となる事なく、そして衰退する事無く存在し続ける理由として世界的な資本主義の発展をあげており、近代世界システムが多数の(言い換えれば世界システムに比較し小規模の)政治システムにより成り立っていた為、経済的余剰を世界帝国特有の巨大官僚機構や広域防衛体制に蕩尽する事無くシステム全体の成長に寄与させる事ができ、また経済的要因の作用範囲が個々の政体の支配範囲を凌駕していた為、世界経済は政治的な掣肘を超えて発展する事が可能となった、としている。
ウォーラステインは、そのような、西欧の変革の根本的動機は黒死病による、人口減だという。しかし、私に言わせれば、そのような問題は実は、本質的なものではなく、より重要な点として、オスマントルコの関税政策による東方貿易の果実を欧州が得られなくなったこと、そのため、アジアと欧州の直接交易をポルトガルが目指したことによる。より根本的には、当時、マムルーク朝がヨーロッパとアジアをつなぐ中継貿易で巨万の富を得ていたが、15世紀末にポルトガル人が喜望峰航路を開拓し、エジプトを経由しなくてもヨーロッパからアジアに行けるようになると急激に衰えた。マムルーク朝はポルトガルに戦いを挑むが1509年の「ディーウ島沖の海戦」に惨敗、1517年には北から攻めて来た新たな敵オスマン・トルコ帝国によって滅ぼされてしまったことにより、マムルーク朝の築いたインド洋海上交易路をポルトガルがそのまま利用した事であった。

 この、インド洋を支配したシーパワーポルトガルとの接触により、日本史は全く新しい局面に入る。短期的に見れば、ポルトガルよりもたらされた鉄砲を大量に国産し、装備し、集中運用した織田信長の登場により、戦国時代は終息するかのように見えた。しかし、このことは、新たな問題を生んだ。すなわち、シーパワー勢力による日本の植民地化の危険である。

シーパワーポルトガルの戦略とは、イエズス会宣教師を表に立て、当該国の布教とキリスト教化を目指し、最後には、軍事力による支配を目指すものだ。これは、すでにポルトガルがインド洋のゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。

豊臣秀吉は九州征伐後の九州各地のキリシタン大名の様子(特に長崎は領主の大村純忠より、イエズス会に寄進され、マカオのような状況であった)を見て、宣教師の背後のシーパワーの野望が日本侵略にあると確信し、キリスト教を禁ずること、宣教師を国外退去に命ずることを伝えた。
表向きの理由は、宣教師が日本古来の社寺仏閣を破壊したり、日本人の奴隷貿易を仲介していることを挙げているが、真の理由は、高山右近に代表されるキリシタン大名の増大が、ポルトガルやスペインの軍事干渉を生み国家安全保障上の重大危機に繋がる懸念があったことだろう。

これが「天正(てんしょう)の禁令」として知られる第1回のキリシタン禁止令であった。以後徳川時代にかけて、次々に発せられていくことになる。続く措置として。秀吉は、長崎の公館、教会堂を接収した。

 近年解読されたイエズス会文書館所蔵の資料から、日本で布教を続ける宣教師達が本国と連絡を取り合いながら、キリシタン大名を競合して「日本占領計画」を持っていたことが判明した。ヨーロッパ最強と謳われたスペインの海軍力がその背景だった。となると、追放令は、その計画を察知した秀吉の自衛対抗的措置だったことになる。弾圧を強める秀吉に対して、宣教師側は四国・九州攻撃と日本国内への軍事基地の建設まで企てていた。頂点に達した両者の緊張は、秀吉の死よって終止符を打つ。しかし、キリスト教禁制はその後も徳川幕府2世紀半の鎖国政策に引き継がれていった。このように、もし日本がアステカやフィリピンのように脆弱で、キリスト教宣教師の野望が実現していたら、どうなっていたであろう。
結果としてポルトガル・スペインによる、日本への軍事侵攻が無かったのは、一つには日本の位置が極東の島国であり、補給線の確保が難しかったこと、さらには、当時の日本は戦国時代の終盤であり、国内には、武装し、実戦経験豊富な軍人が浪人を含め多数存在し、何よりも鉄砲の保有量が、事実上世界一という、「超軍事大国」であったからだろう。このような時代背景と地理的要因がなければ、間違いなく日本はフィリピンやマカオと同じような運命をたどっていただろう。
江戸時代に入ると、布教を目的とするポルトガルやスペインといったカソリック国との交易は一切拒絶し、布教を伴わない、オランダと交易関係を、窓口を長崎の出島に限定して維持することになる。いわゆる「鎖国」だ。
この時期の江戸幕府の戦略の根幹は「外国勢力(特にオランダ)との通商を徳川家で独占し、他の大名が外国勢力と結びつかないようにすることで日本を支配する」と定義したい。


簡単に言うと、徳川家がオランダの独占的代理人となり、日本市場を双方で取り仕切るということだ。オランダとしてはライバルのスペインやポルトガルを日本から排除でき、徳川としては、外様大名を封じ込めるため、外国勢力を排除できるため、利害が一致したわけだ。
 そして、この「徳川-オランダ連合」(これを第一次日本、国際金融資本連合と呼ぶ)こそが、260年間の平和と安定をもたらした根本要因なのだ。しかし、この戦略には根本的欠陥があった。それは、オランダとの貿易港が江戸を遠くはなれた長崎の出島に置かれたという点だ。

 推測だが、家康はあくまで、江戸に近い三浦半島に国際貿易港を築きたかったのではなかったか。それが、ウイリアムアダムス(三浦按針)に三浦半島に領地を与えた理由だろう。
 しかし、16世紀当時の船舶技術では、太平洋沿いに紀伊半島を越えることには非常に危険が伴った。そのため、貿易港が九州に置かれることとなったのだ。これが、260年後、薩摩長州といった、西国雄藩が英国と結びつくようになった根本要因である。 
オランダとの交易の重要な点として、オランダ船が長崎に入港すると、まず風説書が提出されたことが挙げられる。これにはヨーロッパからアジアの政治情勢などが記載されており、幕府の貴重な外交上の情報源として重用視されていた。
 これは1641(寛永18)年以降その提出が義務づけられた。むしろ、この情報を得る見返りに交易を認めたというのが真相であろう。当時の日本にとってオランダから輸入するもので必要不可欠なものは、この世界情勢に関する情報以外にはないのである。
 風説書の内容は極秘扱いであり、老中以外は内容を知ることが出来ないため重大な情報を得たとしても適切な対応が出来なかった。が、極秘扱いとはいえ、一部の諸藩はこれに大きな関心を持ち、長崎駐在の聞役(藩と長崎奉行との連絡に当たる要職)の暗躍で、通詞の訳文の控えが外部に洩れていたようである。
 
その情報はかなり詳しいものであり。例えば、1673年、英国船リターン号が来航して貿易の再開を求めたとき、幕府は英国の王室とカトリック国のポルトガル王室とが姻戚関係にあることを理由にその要求を拒否している。その根拠となった情報は、1662年の阿蘭陀風説書であり、チャールズ2世が1662年ポルトガル王女カサリンと結婚した事による両国王室の姻戚関係を知っていたのである。
これをどう見るか。言い方を変えると、オランダの情報に依存するということは、とりもなおさず、オランダによる恣意的な加工された情報にも頼ってしまうということである。カソリックが領土的野心があるなどといったことも当然吹き込まれたであろう。
 そして、現在の東京都中央区は運河と江戸時代初期の埋めたて地で構成されるが、その造成にオランダの知識、技術があったのではなかろうか。 江戸期以降、中央区は日本のアムステルダムであり、本家アムステルダム、ニューアムステルダム(ニューヨーク)そして中央区は全てオランダシーパワーの紡いだ線で繋がっていたのである。
 これらの都市に金融センタが存在することが何よりの証拠である。更に、近世の貨幣制度を確立したのは家康である。金・銀・銅の三貨制度といわれている仕組みである。この三貨は家康以前にも存在していた。
 しかし、使用法は異なっていた。まず金貨は主として贈答や褒美用のものとして使われていた。軍功を立てた家臣にご褒美としてつかわすといったものである。これに対して家康が慶長6年(1601年)に発行した金貨、すなわち慶長小判は、実際に流通の用に供するために鋳造され、合わせて四分の一の価値をもつ一分判が発行された。家康はここに従来の使用法を改め、金貨である小判を中心とした三貨制度を実施した。
 金貨を貨幣制度の中心に据えることもヤン・ヨーステンの発案ではなかろうか。更に、生糸輸入の超過であり、金銀の海外流出が止まらず、必要量を補うため実施したのが貨幣改鋳である。
 すなわち、金・銀の品位を下げて同じ量の金・銀量からより多くの単位の金・銀貨を作ろうというものである。これは綱吉の時代の勘定奉行・荻原重秀によって始められ、何度か見直しはあったが、江戸時代を通じて財政危機を乗り越える苦肉の策として何度も実施された。
江戸期を通じ、オランダ貿易には問題があった。オランダに対価として支払う金銀は莫大な量に上ったのだ。これは、日本と世界における交換レートの差を巧みに利用したオランダの貿易戦略によるものだ。
江戸中期の新井白石が調査した結果、僅か60年間で金239万7600両、銀37万4200貫が国外に流出していた。
そして100年間では何と日本で産出した金の4分の1、銀は4分の3が流出していたのだった。また銅に関しても、45年間で11億1449万8700斤に及んでいた。当時は金や銀を貨幣の代わりにしていたため、このような事態はいずれ避けられなくなる宿命にあったのだ。
これを野放しにしておけばあと100年も経たないうちに日本の金銀が底を突いてしまうと懸念した白石は、貿易制限に踏み切ることを決断。1715年(正徳5年)、海舶互市新例《長崎新令》を定めた。
ところが、当時の清では金より銀のほうが価値が高いとされ、中国の商人達は金を日本へ運んでいたのである。金1匁に対し、銀10~20匁というレートであり、結果として流出した金のうち、6割強は再び日本へ流入していたのだった。しかも極めて消極的な改革だったため、輸入超過はなかなか解消できなかった。
 このように、江戸期を通じて維持されたオランダとの交易関係は、本質的には「国際情勢に関する情報を買って、金銀を売る」という構造をとった。そして、オランダ一国のみからもたらされた情報では、江戸幕府は世界の趨勢を正しく読み解くことができなかった。これが、江戸幕府崩壊の根本要因だ。
つまり、オランダはナポレオンに本国を制圧された時点で出島にしか国家が翻っていなかった時期があるが、そのような事実は当然、幕府には伝えていなかったであろう。なにより、オランダが同じシーパワーとして、英国に、覇権を奪われたことが決定的であった。そして、英国は薩長と組むことになる。明治維新だ。
英国が、薩摩長州と接触した契機は生麦事件(1862年、文久元年8月21日、旧東海道の一漁村生麦村で起きた薩摩藩主島津久光の行列を無礼にも騎馬のまま横切った英国商人リチャードソンを薩摩藩士が抜刀のもと切り捨てた)につづく薩英戦争、さらに、元冶元年(1864年)、長州藩は8月4日、英仏欄米の四カ国艦隊に砲撃等の交戦を通じ、薩摩長州藩士の士気の高さに驚き、他の植民地にない知性と礼節を弁えた日本の武士の存在を知り、パートナーとするに足る存在であることを認めたのである。そして、何より、一度戦って、優秀さを認めた相手は、積極的に雇用するというのも、グルカ兵に見られるごとく、シーパワーの伝統だ。

 この後、薩長は英国の支援を受けた。特に最新式の銃火器を大量に安く調達できた。最初はミニエー銃。薩摩藩は、薩英戦争後に攻められた後の軍制改革で、これを一万挺購入した。火縄銃しかもっていなかった幕府軍に対して、火力で圧倒的優位に立ったのである。薩長に武器を売ったのは、長崎グラバー邸で有名なグラバーだ。1859年、長崎開港直後、21歳で来日し、グラバー商会を設立。お茶や鉱山設備も扱ったが、武器や船が主だった。
 1866年英国政府は、エンフィールド銃(英国風改良ミニエー)前装銃を、後装銃に改造し、エンフィールド・スナイドル銃と呼んだ。戊辰戦争でも、西軍は江戸城占拠後、英国製ミニエー銃を、スナイドル銃に改造した。この銃は、西南の役の頃も、明治政府軍の標準銃として使われている。

 幕府はナポレオン三世に率いられたフランスの支援を受け、内戦状態に陥る。まさしく、シーパワー連合VSランドパワー連合の構図である。アメリカは国内問題(南北戦争)を抱え、日本への関与どころではなくなってしまう。
 幕府に対するフランスの軍事顧問として来日し、蝦夷共和国に参加したブリュネの手紙。明治維新の本質がよく表されている。
「 1868年10月4日 皇帝陛下
 陛下のご命令で日本に派遣されて以来、陛下の御名を汚さぬよう、顧問団一同、精一杯頑張ってまいりましたが、この度の一大変革により、我々はフランスへ帰還せねばならない事態に陥りました。しかしながら、本官だけは残ります。本官は一人でフランス贔屓である奥羽越列藩同盟軍に加わることにより、我々軍事顧問団が成し得た成果を試してみたいのであります。
 数日前、私のもとへアイヅを初めとする北方の大名達よりの使者が参り、同盟軍の指揮をとってほしいとの請願がなされ、本官はこれを受諾いたしました。このなかには教え子である伝習隊の将兵も加わっており、同盟軍は5万人にも及んでおります。同盟軍には近代的陸軍を統率出来るだけの人材が不足しており、彼らはその役目の一端を一介のフランス軍人である本官に託してきたのであります。
 ヨーロッパ人である本官にこれほどの信頼を寄せてきたことは、この日本においてかつてないことであります。そして、教え子達の行く末を思うとどうしても断ることが出来ませんでした。
 陛下におかれましては既にご存知かと思いますが、英国は同盟軍に敵対しているミカド軍を影ながら援助しております。このままでは、日本は清国同様、かの国の強い影響下におかれたものになるでしょう。
 大業は大衆によって成し遂げられるという偉大なナポレオン陛下の遺訓のもと、我々はこの国で人民を護る護民官育成を目的として調練に励んできましたが、かの国の影響下ではどのような軍隊が、そして国家が出来上がるのでしょうか。
 返して、本官は同盟軍に参加することこそ、亡きナポレオン陛下の遺訓に沿い、そして、皇帝陛下に忠誠を捧げる好機と思い、決意したものであります。本官はこの国においてフランス思想の普及に全力を尽くして参りました。そして、これからも一民間人としてフランスの大義を果たす為に努力するつもりであり、もしこの努力が皇帝閣下のお目にとまりますればこれに優る喜びはございません。
 陛下の忠実なる下僕、砲兵大尉 ジュール・ブリュネ 敬白」
 結果は英国金融資本に支援を受けた薩長の勝利であった。ここで、私は幕府が自壊したのは、フランスが普仏戦争(1870年~1871年プロイセンとフランス間で行なわれた戦争スペイン国王選出問題をめぐる両国間の紛争を契機として開戦プロイセン側が圧倒的に優勢でナポレオン3世はセダンで包囲され、1870年9月2日同地で降伏 )を抱え、日本への関与ができる余裕がなくなったことが大きいと考える。
 清に対する軍事力によるアプローチと日本に対する薩長を背後から操る間接支配のアプローチ(上述のように、薩摩長州が倒幕に成功したのは、英国の支援で最新式の銃火器が安く調達できたことによる。戦国期の織田信長がポルトガルから硝石を輸入できたことにより、鉄砲の集中運用から、国内の統一ができたこと、徳川家康がオランダ船から長射程艦載砲や鉄砲を通さない西洋式甲冑を譲受け、関が原に勝利したことと、さらに、江戸期、徳川家による支配を安定させるため、諸大名に外国貿易を禁じたことと、本質は同じである。
逆に言えば、薩長が英国という外国勢力と提携したために、幕府は滅びたことは、この「鎖国」という政策が、徳川家の維持には役立ったことを反対証明として、雄弁に物語る。

対照的に、清においては中央集権国家であり薩長のようなコントロールできる反対勢力が存在せず、かつシンガポールという後背補給港を有していたことから軍事攻撃が可能であったこと、又、1860年代に英国が植民地政策から自由貿易政策へとシフト(穀物法が1846年に撤廃されると、英国の内側では産業資本主義が定着し、国際社会に対しては帝国主義が退き、グラッドストン内閣下自由主義的な「小英国主義」が基調となった。)したことがその理由であろう。
 
植民地直接支配は、コスト高でペイしないことをインドで学んだこともあろう。この日英の蜜月言い方を変えれば師匠と門弟の関係は日露戦争まで続く。日英同盟によりロシアの南下を防ぐことに成功したわけであるが、1905年の改定でインドを守備範囲に入れていたことを知る人は少ない。これはインドにおける英国の利権を守るために日本海軍は出動するということである。このように、日本は英国の忠実なるパートナーまたはエージェントであったため、両国に利害の対立はなかったのである。すなわち、インド洋を舞台に、日英は攻守同盟を結んでいた。これが、日露戦争後の日本の国家戦略の根幹だった。

-次号に続く-
以上