文明史的に見たエネルギー戦略の将来(3)

前回の文明史的に見たエネルギー戦略の将来(2)に続く

今回は、アクエリアスこそが、資本主義のゼロサムゲームから人類を脱却させ、新しい文明の位相を生むために必要なことを検討したい。

前号で、シーパワーの発展には、技術革新のみならず、株式会社や海上保険に代表される、「リスクの分散」制度が必要であり、これを生み出せなかった「明」は、結局はランドパワーに回帰し、これを生み出した西欧は、その後アメリカにいたる「資本主義」を生み、現代まで続いている。
 この点が「皇帝の船」と「資本家の船」の相違であり、皇帝の船は一代限りだが、資本家の船は資本の出し手がある限り永続し、場所を変え、時代を超えるのだ。そして、この「リスク分散」を担保する根本的制度が「会計」だ。
 会計の始原は、地中海海上交易のため、14世紀前半の北イタリア地域で誕生後、都市間の商業ネットワークに載ってそれぞれの都市において相前後して確立されたと見られる。確かなのは、1494年にイタリアの商人出身の数学者ルカ・パチョーリ(1445年ごろ-1517年)によって書かれた「スムマ」(算術・幾何・比及び比例全書)と呼ばれる本の中で「簿記論」に触れられて以後、広くヨーロッパで行われたという事実である(このため、イタリア式簿記又は大陸式簿記)とも呼ばれている)。
 18世紀末期、ドイツの作家ゲーテは複式簿記の知識の重要性を認識しており、ワイマール公国の大臣であった時に学校教育に簿記の授業を義務付けたと言われている。
 これは、どういうことかというと、出資者が出資を決め、配当を求めるより所は、唯一会計によって作成された財務諸表しかないわけで、その財務諸表の正確性は資本主義の生命線だということだ。
 裏を返すと、過去の西欧の株式市場の歴史を見てみると、粉飾や詐欺と表裏の関係であり、この「会計」の正確さをどうやって担保するかが焦点となっていた。言い方を変えると、株式会社は大衆資本の結集のためには都合がよいが、一面、詐欺との境界があいまいであり、そこを峻別するために会計が重要になるということだ。ちなみに、アダム・スミスはこのような側面をもつ株式会社制度には否定的だったと言われている。

<参考>
――――引用――――――

 アダム・スミスが指摘した株式会社制度の胡散臭さ
http://www.president.co.jp/pre/20040614/002.html
 「アダム・スミスが『諸国民の富』を書いたのは、18世紀後半の1776年。株式会社の勃興期でもあった。このアダム・スミスが、株式会社は胡散臭い制度であり、株式会社をあまり普及させるべきでないと主張していたことはあまり知られていない。
 実際に株式会社の草創期には、胡散臭い出来事が頻発している。イギリスで起こった事件の中でもっとも有名なのは1720年の南海のバブルと呼ばれている南海泡沫事件である。この事件はガバナンスの問題というよりも、株式会社という新しい制度を使った詐欺事件であったと考えたほうがよい。南海会社は、英国政府の国債を引き受け、その代償として中南米のスペイン領植民地との貿易の独占権を与えられた会社であった。1720年4月、会社の工作によって、政府はこの会社に3000万ポンドの国債を引き受けさせるという議案を、議会に提案・承認させた。これがきっかけになって、南海会社の株価は一気に10倍に暴騰した。南海会社だけでなく、他の会社の株式も暴騰し、証券市場はバブル状態になった。しかし6月下旬をピークに株価は暴落し、多くの市民が被害を受け、この事件は政治的スキャンダルにまで発展した。
 アダム・スミスは次のように書いている。「株式会社の事業は、つねに取締役会によって運営されている。もっとも、取締役は、多くの点で株主総会から規制されることがしばしばある。しかし、株主の大部分は、会社の業務についてなにごとかを知ろうとはめったに主張しないものであって、自分達のあいだに党派心でもはびこらぬかぎり、会社の業務の世話などやかず、取締役が適当と考えておこなう半年または1年ごとの配当をうけとり、それで満足しているのである。
 一定限度の額以上にはなんの煩労もないというこの事情が、合名会社にどのような事情があってもあえて財貨を投じたがらぬ多くの人々を奨励し、株式会社にたいする冒険者にならせる。したがって、このような株式会社は、どの様な合名会社もおよびもつかぬほど大きな資本を自分のほうへひきよせるのである。……」(『諸国民の富』岩波文庫 大内兵衛・松川七郎訳(四)91-92頁)。・・中略・・
 アダム・スミスが株式会社に懐疑的だったのは、株式会社に二重の無責任があるからだ。一つは、経営者の無責任(個人資産を経営に投資していない)、もう一つは、株主の無責任(出資額以上の責任を負わない)である。この二種類の無責任が相乗したとき、実に深刻な問題が起こる。日本でも二重の無責任が深刻な問題をもたらした例があった。

 日本では、日清戦争後に第二次株式会社ブームが起こった。こうして勃興した会社のいくつかは、第一次大戦後の不況で破綻した。高橋亀吉は、大正から昭和にかけて破綻した21社の分析をもとに、破綻のパターンを表のように六つに分けている。破綻のパターンは多様だが、根本的な原因は一つであるといってもよい。高橋亀吉はそれを次のように書いている。「株主の専横から蛸配当を強いられ、かくて事業を破綻に導いた」という原因である。これをもたらした経営者の気持ちを福沢桃介は「株主の利益をはかるためには自分の手足を食いつくす蛸のように、無理な配当もやむをえず」と表現している。
 高橋亀吉はこうした問題の解決策として、重役の無限責任制度の導入を主張している。第一生命保険の創業者である矢野恒太も銀行業界や保険業界では、役員の無限責任制度を導入すべきだと言っている。
 実際に、矢野恒太の属する生命保険業界では、株主の意向を受けた近視眼的経営が数多くの破綻を招いた。1893年から98年にかけて設立された37社の生命保険会社のうち、昭和のはじめまで営業を続けていたのは14社にすぎなかった。生き残ることができたのは、長期的視野を持つ株主(無限責任を持つ財閥会社)に株を持ってもらい、経営の自立性を高め、短期志向の株主による経営介入を抑えることができた会社である。」
――――引用――――――

 いかがであろうか。アダム・スミスの言う「何も知らないし、出資限度以上の責任を負わない株主」と「いざとなったら辞めればすむ、有限責任の取締役」の組み合わせが、結果として無責任体制から粉飾や詐欺を生む可能性について、ライブドアやカネボウあるいは米国のEnronやWorldComの事例を知っている我々は、アダム・スミスの警句を素直に受け取れるのではなかろうか。
 ではなぜ、このような側面をもつ株式会社が現在にいたる、シーパワーの生み出した資本主義の根源として機能しているのか。それは、シーパワーというものが本質的に詐欺、バブル、インフレといったものを内包しているからだ。むしろ、このような負の面と、経済発展は表裏一体というべきだろう。
 資本主義にバブルはむしろつきもので、今後も第二第三のライブドアは出るだろう。「債権」や「資本」というのはそういうものだ。むしろ、商売とは、「相手を騙して高く売る」ということを本質的に内包し、そのために、ランドパワーの世界、例えば、カソリックや儒教の強い地域では穢れとされ、低い評価しか与えられない。

 江戸期の日本において、士農工商という序列があったのはそのためだ。英語で利益や金利を意味するInterestには「間にある」つまり「どっちつかずのいかがわしいもの」という意味が内在されており、カソリックはこれを認めていなかったが、これを認めたところから資本主義は始まったといえる。
 ちなみに、イスラム教では、今日に至るまで、金利をいかがわしいものとして、認めていない。日本では江戸期において、このようないかがわしい金利をとる金貸しは検校という制度を設け、盲目の僧侶にだけ認められていた。一種の社会福祉政策だ。
 はっきり言おう。シーパワーとはいわば、「債権的支配」を目指すもので、金貸しを合法化し、金利の取得や株式の発行そして通貨の発行にいたる、いわゆる「資本主義」を発明した海上交易者であり、その原点は多国間に点在して拠点をもっていたユダヤ人であり、その基本書はタルムードなのだ。
 私はかって、ランドパワーの基本書は「孫子」だといったが、シーパワーの基本書は「タルムード」だということを特筆したい。タルムードには、「非ユダヤ人は騙してもよい」と書いている。これが、金利や為替そして株式会社に繋がるシーパワーの原点だ。

 問題は、日本はこのようなタルムード的支配を、16世紀に受けかかり、それを秀吉や家康は排除した訳だが、そのため、シーパワーの根幹を成す、「資本市場」が極めて未整備であり、むしろ、内政は一貫してランドパワーそのものだということだ。

「資本主義はシーパワーの産物」であり、日本は第二次大戦の敗北まで、内政はランドパワーであり、戦後もその点は変わらなかった。資本市場の担い手である公認会計士や会計が地位が低いのもそのためだ。日本での会計は資本家のためではなく納税のためのツールとされてきた歴史がある。つまり粉飾により利益を過剰計上することは税収増につながるため、日本では問題とされてこなかったのだ。
 明治維新以来、日本が先進国に追いつくために官僚が中心的な役割をもって、現在の日本のあらゆる制度が形成されてきた。日本の会計制度も例外ではなく、主務官庁が基準を作成し財務諸表の提出先は主務官庁となっている。財務諸表利用者への情報開示は、二の次となっているのである。欧米の情報開示が財務諸表利用者(リスクテーカー)に対する情報開示を第一義的に考えて制度ができているのと対照的である。
 例えば、上場会社にあっては金融庁(旧大蔵省)企業会計審議会が会計基準を設定し、基準に基づいて作成された有価証券報告書は財務省財務局(旧大蔵省)の審査を受けて財務局に提出され、閲覧したければ財務省の閲覧室、証券取引所の閲覧室で閲覧するか、財務省の印刷局が印刷したものを政府刊行物として購入することになる。決して株主(リスクテーカー)の手許に届かないのである。
 また、公益法人や独立行政法人の情報開示も同様、主務官庁に財務情報が提出され、財務諸表利用者に対する情報開示とはなっていない。
 日本の会計制度は主務官庁中心であるため、縦割り行政で主管の業態ごとに会計基準を作成し、情報開示の提出先も主務官庁である。相互に整合性を維持することは困難であったり複雑なものとなる。当然、財務諸表利用者の声は届き難くなり、分かりやすい情報開示は期待できないという悪循環が起きることになる。
 情報開示としての会計は、元来、リスクテーカーに対して行われるものである。自己責任で投資判断するには情報開示がなければならない。非営利団体など公益法人のように基金や寄付金、会費などを広く求めるためには、活動内容を開示することで賛同者を得るのが筋であろう。健全な活動を監視する主務官庁には、開示しているものを提出させることも必要であるがあくまでも、開示する対象は第一義的にはリスクテーカーである財務諸表利用者である。

 日本では、会計規定は、商法(法務省管轄)、証券取引法(旧大蔵省管轄・現金融庁所管)、法人税法(財務省管轄)にそれぞれ規定があり、会計規定の改正をしようとすると、相互の調整が機動的にできない「三すくみ」構造となっており、世界に類を見ない日本独特の制度だ。少なくとも、実務家である財務諸表作成者や会計監査人は、三つの法律に悩まされている。それが証拠に、会計学者、公認会計士、税理士のそれぞれが、「会計」について、まちまちの解釈をしているのが現状だ。一つの企業の財務諸表に、商法会計あり、証券取引法会計あり、税法会計ありといっては驚く。
 シーパワーの英米での会計では、投資家や債権者の視点で、投資家保護や債権者保護は、形式を超えて企業の実態(substance over form)を「適正表示(fair presentation)」し、投資家や債権者の自己責任で投資判断ができるようにすることだ。

 経済的実態(economic substance)の表示を重視する欧米の会計とは対照的に、日本ではランドパワーたる官僚主導で基準が作成され法形式(legal form)が重要視される。証券取引法の各種規則(財務諸表規則・連結財務諸表規則など)や商法施行規則などで作成した財務諸表・計算書類は形式が重要視される。企業が有価証券報告書を財務局へ提出するときの「財務局の審査」は正に「形式」をチェックしている。企業は、審査を通るために実態よりも形式のみを重視するようになる。世界に例を見ない「規則」や「審査」が「形式」を重視することになり、実態を示し難くしている。実態を示し得ず突然倒産した山一証券、長期信用銀行、日本債券信用銀行、10年以上長期にわたる銀行の不良債権処理、銀行の繰延税金資産の過大計上問題(りそな、足利銀行など)などは日本の制度的なものが色濃く出た結果と言えます。つまり、法形式は適法であっても、その経済的実態が巨額な債務超過であると突然倒産するということである。
 このような点の改革を目指して行われたのが会計や金融のビッグバンだ。

ここまでで、シーパワーの生んだ資本主義の負の面としての、詐欺やインフレと正の面としての経済発展は、実は表裏の関係にあることが理解していただけたであろう。実は、この点にこそ、資本主義が抱える本質的問題があり、その解決にアクエリアスが役立つことを検討したい。

 まず、資本主義は行き過ぎると、植民地化や奴隷貿易、戦争のビジネスモデル化、そして環境破壊を生む。利益が上がれば何をしてもいいというわけだ。しかし、最大の問題は資本集積が富の偏在から社会の二極化を生み、結果として社会の発展が阻害され、衰退するということだ。
 これは、株式市場のバブルから、結局は経済の衰退を生んだ、かってのオランダやイギリス、そして80年代のM&A多発から製造業の衰退を招いたアメリカを思い出していただければ理解できるだろう。資本主義の問題点は、価値を生む「もの作り」や「生産」より、「投機による一攫千金」を狙う風潮が生まれ、それは、一部の富裕者と圧倒的多数の貧困者をもたらし、結果として、社会の活力の喪失から経済衰退を生むということだ。端的に言えば、現在のアメリカをご覧いただければ、どのような状況かお分かりだろう。


 第1に、欧米での企業買収は経営者にとって命がけの仕事である。80年代以降、アメリカではタイム・ワーナー事件のような激烈な買収が多発し、多くの企業が悲哀をかこった。比較的最近で印象的だったのは、99年に実現した製薬会社ファイザーとランバートの合併のケースだ。
 99年11月、ランバートのデビング会長はアメリカン・ホーム・プロダクト(AHP)との合併を発表した。実質的な買収であり、デビング会長は世界第2位となる製薬会社のCEOポストをほぼ手中にしてほくそえんだ。
 しかし、発表のわずか1時間後、ライバルであるファイザーが突如ランバートに買収を仕掛けた。その後ランバートとファイザーは激しい攻防戦を展開したが、最終的にランバートの取締役会は破格の買収条件を提示したファーザーへの売却を承認した。
 あきらめ切れないデビング会長は、プロクター&ギャンブル(P&G)のヤーガー会長にAHPとの3社合併を提案した。だが、この話が表面化したとたんP&Gの株価が急落し、ヤーガー会長はただちに合併交渉中止の記者発表を行った。
 かくしてデビング会長は最後の望みをたたれ、非情にも自分の会社から追い出された。買収するはずが買収されたという予想もしない結末だが、ファイザーはとうの昔からランバートの買収を検討していたはずだ。欧米企業のトップはつねにM&Aの攻防戦略を考えているといっても過言ではない。
 合併に伴う株価下落が命取りになることも多い。もともと欧米では株価が急落した企業は買収の餌食になりやすいが、特に合併の失敗による株価下落のダメージは大きい。
 99年10月、アメリカ長距離通信会社のワールドコムは携帯電話会社のスプリント買収を発表した。当時史上最大のM&Aとして話題になったが、結局欧米の独禁当局の承認を得られず合併は白紙撤退された。
 その直後からワールドコムの株価は暴落し、一転してライバルのベルサウスやドイツ・テレコムなどから買収を狙われる身になった。時価総額が「お買い得」の水準まで落ち込んだからだ。
 結局ワールドコムは買収こそ逃れたものの、急成長路線にブレーキがかかって経営悪化の道をたどった。そして3年後に巨額の粉飾決算が露見して、史上最大の破産に追い込まれたことは周知のとおりだ。
 いずれにせよ欧米の企業買収は、仕掛ける方も仕掛けられる方も企業の存亡をかけた血みどろの闘いであり、「平和な時代」が長かった日本のビジネスマンがこれを実感することは難しいだろう。

 第2に、欧米企業の買収劇で展開される戦略、戦術もきわめて多様で複雑だ。攻撃する企業にとっての基本戦術はベア・ハグ、株主の委任状獲得、TOBなどだが、戦況に応じてさまざまなバリエーションを繰り出してくる。
 対する防衛サイドもいわゆるポイズン・ピルを発動するほか、白馬の騎士(友好的企業に買収してもらうこと)、資本再編、従業員持株会への株式発行、防衛的企業買収(タイムがワーナーを買収したのもこのケース)、パックマン(買収を仕掛けた企業に対する逆買収)など目もくらむほど多様な戦術が開発されてきた。
 このような状況が、長期的視点に立ったR&Dや製造ラインの破壊につながり、結果として家電や繊維、鉄鋼で産業の衰退が起こり、唯一残っていた自動車についても、昨年、アメリカの代表的な自動車製造会社であるジェネラルモーター(GM)とフォードの格付けが引き下げられた。
この2社が倒産しそうであると言うわけではない。しかし、両社の格付けが投機的水準に引き下げられたことは驚くべきことである。安心して投資をする対象とするには不的確な会社になったと見られるからである。
 自動車と言えばアメリカではもっとも重要な産業と考えられていた。GMの代表的な車種であるキャディラックは大きくて立派で高級車としての信頼性があり、他国の車では真似ができないとされてきた。それを製造するGMはアメリカを代表する世界一の自動車生産会社であると自他共に認めてきたものである。そのもっともアメリカ的なGMの評価がこれほど下がることは到底想像もできなかったはずである。
 このような製造業の衰退と経済のマネーゲーム化が結果として社会の二極化と大幅な貿易、財政赤字を生じ、米国からの資本逃避さらにはモンロー化を生んでいる。アメリカは既に自由の国ではなくなり、閉鎖的ランドパワーに回帰している。

アメリカの経済面での衰退とは、資本主義に内在する、その投機性と刹那性から導かれるもので、簡単に言うと、資本の移動がおきつつあるということだ。
 そして、言うまでもなく、その資本は日本の個人金融資産を狙っている。金融ビッグバンから、会社法の改正にいたる一連の動きだ。

 日本は、シーパワーを目指すべきとは言うものの、シーパワーがもつ功利性や刹那性あるいは、人の裏を掻くといった部分を本質的には理解していない。シーパワーの原点はあくまで会計に見られる利益の追求であり、商売ベースの人間関係と考えればわかりやすいだろう。
 この点、シーパワーは交渉によって有利な条件を引き出すという行き方をとるため、例えば巨大な建造物や城郭の建設といったものは不得手であり、ランドパワーは強大な王権が有無を言わさず動員をかけるため、このような建築や灌漑に向いている。

 アメリカが、財政、貿易、家計の三つ子の莫大な赤字を生みながら、世界の覇権を維持しているのは、その軍事力と、経済の裏づけとしての基軸通貨をドルが担っているからである。端的に言えば、どのような巨額の赤字が累積しようが、ドル紙幣の印刷をすれば、決済可能なのだ。これが基軸通貨だ。

 アメリカの貿易収支は1971年に80年ぶりに赤字になって以来、毎年赤字を続けている。特に近年はひどく、毎年10兆円から20兆円の貿易赤字が続いている。普通の国だったらたちどころに外貨が底をつき、貿易黒字に転換させるための努力が必要となる。
 ところがアメリカの場合、輪転機を回せばいくらでもドル紙幣を印刷することができる。しかもそのドル紙幣を世界中の人が欲しがっており、アメリカはドルという紙切れと交換に、ほしいものをいくらでも手に入れることができるのである。これは、みなさんの家にあるプリントゴッコで、いくらでも1万円札を印刷できることと同じである。

 1971年に「金・ドル交換停止」がなされて以来、アメリカには貿易を黒字にしようという誘因が働かなくなってしまった。その結果、ドルの垂れ流しが続き、そのことは当分止まりそうにない。ホワイトハウスから1キロメートルほど行ったところに、ドルの印刷所がある。現在印刷されているドル紙幣の半分以上は、海外で流通すると言われている。

 
 通貨も為替もそして株式も全てはシーパワーが発明したものであるが、それ自体に刹那性や欺瞞性があり、金本位制がニクソンショックで廃止された後はまさに、歯止めのないマネーゲームに突入したといえようか。
 そして、巨額の貿易赤字に見られるごとく、実体経済を失ったアメリカにとって、ドル価値の担保は唯一、軍事力しかない。そのため、原油の決済にユーロを使おうとしてイラクやイランは攻撃されるのだ。つまり、イラク戦争は、「機軸通貨制度維持」のための戦争といえる。

 私は、この「軍事力で基軸通貨を担保し、反乱者を討伐する」という行き方が長続きするとは思えない。しかし、アメリカにはそれしか残されていない。 アメリカがイランを攻撃するとすれば、間違いなく核戦争になるだろうが、このような行き方の根底には、世界をゼロサムで捉える、一神教の世界観がある。そして、日本が目指すべきは、多神教による一神教の相克だ。

 文化人類学者の梅原猛は、「一神教は、森が破壊されて荒野となった大地に生まれた種族のエゴイズムを上の意志に固くする甚だ好戦的な宗教ではないか。この一神教の批判あるいは抑制なしには人類の永久の平和は不可能であると私は思う」 と言った。
 梅原は、一神教と多神教の分かれ道が、農業生産の違いによって引きおこされたと主張する。
 「小麦農業は人間による植物支配の農業であり、牧畜もまた人間による動物支配である。このような文明においては人間の力が重視され、一切の生きとしけるものを含む自然は人間に支配されるべきものとされる。そして集団の信じる神を絶対とみる一神教が芽生える。
 それに対して稲作農業を決定的に支配するのは水であり、雨である。その雨水を蓄えるのは森である。したがって、そこでは自然に対する畏敬の念が強く、人間と他の生き物との共存を志向し、自然のいたるところに神々の存在を認める多神教が育ちやすい。」

 この一神教と多神教の対峙は、そのまま西洋人の考え方と東洋人の考え方の違いを考える上で重要である。西洋人の思考の論理は、真理というものをどこまでも、論理で求めて、真理というものを得ようとする。それに対して、東洋人の思考法は、真理を求めるというよりも、真理を求める過程やその時の姿勢や態度の有り様を重視して考える。

 この真理に至る考え方は、「巡礼」というものの違いにもよく表れている。西洋では、巡礼と言えば、聖地と言われる所を目指して、ひたすら歩いて行くことに徹するものである。そこには到着すべき明確な場所というものがある。 日本の場合は、巡礼と言っても、四国88カ所を巡る「お遍路さん」に代表されるように、聖地周辺の道に点在する寺々を廻って歩くことに意味がある。
 ここに一神教の巡礼と多神教と違いがよく表れている。一神教においては、聖地にたどり着くことが目的だが、多神教の場合は、むしろ発心をして、歩くことに意味がある。一神教と比べ多神教の思考法は、悪く言えば曖昧とした部分があるが、よく言えば他に並び立つ神を即座に否定して邪教と断じることはない。

 今年の世界遺産委員会で、「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界文化遺産になることが決定されたが、これも吉野(修験道)から高野山(真言宗)、熊野(神道)の三カ所結ぶ古道が世界遺産として認められたようなもので大変意義深いものがある。.
 同時にこれは多神教的世界観が認められたものと考えることが出来る。日本人は、多神教の権化のような民族で、その多神教ぶりは、「神仏混淆」(しんぶつこんこう)と言われている。無用な争いを避けて、他の神を認め受け入れてきたのである。

 ユング心理学者の河合隼雄氏は、古事記の神話研究を通して、日本人の深層に、西洋の一神教世界とは違う心理が働いていることに着目した。そこで、「中空・均衡構造」という概念を提示した。それによれば、西洋型の思考の特徴は、「『統合』への要求が強い」ということである。
 それに対して、東洋型の思考の特徴は、対立するものを『均衡』させる力が働くというものである。
 この、「均衡」という世界観は、まさに多神教に特有であり、相対立する勢力が、それぞれ共存することを許すものだ。善悪二元論の一神教は、結局は、異端の絶滅を目指すということになる。

 梅原猛は以下のようにも述べている。
 「最近は日中共同長江文明学術調査団日本側総団長として中国最大の川、長江の流域に眠る謎の古代文明の解明を目指しています。昨年10月、四川省で今から4500年前と見られる中国最古の都市遺跡、竜馬古城が発見されましたが、私ども共同調査団の分析では、これらの都市文明は世界4大文明とされた黄河文明よりも約1000年さかのぼる文明であるとの結論に達しております。
 もしそうであれば、これまで小麦と牧畜を主体とした文明以外は起こらないとする定説をくつがえすこととなり、稲作と養蚕とを主体とした文明が存在したことになります。また、このような稲作文明は、これまでの人間中心、個人中心の小麦文明と異なり、共同の労働、人間と人間の関係及び欲望の制限を重視した文明であると考えられます。さらに、科学技術文明と地球環境のかかわりが大きな課題となっている現在、稲作文明を見つめ直すことが人類生存のための鍵となる東洋的な文明原理に光をあてることになると考えています。
 来るべき21世紀には人間中心主義による環境破壊はもう許されないわけですが、このような時代だからこそ、我々は、稲作を基調にしたアジア・モンスーン地域の文明が、21世紀に起こるであろう難問を解く際に大きな意味をもつものであるということを自覚し、自然と共存することを新たな文明の課題として、世界の平和に貢献していかなければならないと考えております。」

 このような稲作文明というものが、結局は世界の闘争を止揚し、人類の未来を切り開くものだと確信する。そして、稲作文明とはシーパワーのエリアに特有のものであり、麦作は西アジア以来、ランドパワーに特有のものであった。 アクエリアスは、このような文明の行き方の相違に合致しており、エネルギーとともに水を排出するため、砂漠緑化や穀物生産にも役立つ。まさに、一石山鳥なのだ。


西欧で起きた産業革命以来、文明のモメンタムは、シーパワーに主導された「利益の追求」によってなされた。それを資本主義と呼んでありがたがってきたわけだが、弊害として、共同体の喪失や自然環境の破壊が起きた。

 過去の文明の衰亡には、家族や地域の助け合いや相互扶助の欠乏というのは決定的に影響していた。日本もそのパターンにはまりつつあるのである。さらに西欧近代の自然科学を基盤とした進歩、競争するだけのベクトル、モメンタムは結局文明を衰亡させる。

 かっての地中海沿岸が緑深き沃野だったのが、開発により緑(レバノン杉)を失いやがて滅びた。翻って日本の江戸期など山林開発に禁制を設け、枝一本は腕一本、一木は首一つといった重大な罪に問い、しかし260年の安定を維持したことの対比は重要である。

 シーパワーは危機に際して、新たな枠組みを作ることによって先へと進み、未来を切り開いてきた。その先進性、開明性は今後「利益」、「個人」、「進歩的発展」から、「環境」、「共同体=個人ではなく他者との絆」、「持続的発展」へと向かうであろう。

 その為に近代の枠組みを変える時が来たのである。提言としては、社会の最小単位である「結婚」の意味を再度見直し、具体的には、婚姻にあたり、双方が合意できる契約書を作成し、できるだけ紛争や利害を調停する枠組みを構築すべきである。ここをしっかりしていないから、容易に離婚に走るのである。

 さらに、地域が今後の重要な社会集団となることは疑いなく、企業も社員の地域活動を積極的に後押しすべきである。地域の青少年と中高年の交流の場を設け、青少年の夢、未来に対して、中高年がバックアップし、積極的に投資する枠組みを設けるべきである。

 華僑や金融資本がバイタリティーを失わない、真の理由はこのやり方を歴史的に維持することにより達成される世代間の連帯にある。この実現により、そのほとんどが中高年に所有されている、日本の1200兆円といわれる金融資産は有為な投資先として、次世代を担う「人」の育成に回るのである。無意味な金融商品で浪費するよりはるかにましである。

 西欧のシーパワーは砂漠の神である、一神教をいただいていた。旧約聖書の十戒が「殺すなかれ」で始まっていることは、一神教徒の精神性を知る手がかりである。日本人の原点とされる十七条憲法の第一項が「和の尊さ」であることは彼らと比べて、日本人の精神性の高さを物語る。

 日本人の精神性を語る上で、神道的多様性(八百万の神々)という思想は重要である。それぞれがそれぞれに貴いものを持ちながら、みんなで一緒に調和しつつ、しかもその全体が最適になる社会をつくるのだという発想が、日本人の原点にある考え方のだ。 

 砂漠の神を戴く一神教及び金融資本にフリーハンドを与えた結果、部分最適と個人の利益が極大化した結果、世界環境は重大な危機を迎えている。彼ら自身のパラダイムで現代の諸問題は解決できない。

 新たなパラダイムは我々日本人が提案して示していかなければならない。日本こそが、ランドパワーを内部に包摂し、しかもシーパワーの論理性をも兼ね備えた文明を世界に示しうる。

 多神教に依拠する縄文と弥生の頃から、日本の歴史は両者(ランドとシーの両パワー)の「対決から止揚」というパターンをとった。近代のパラダイムを相克することは、世界に唯一の「多神教シーパワー」日本にしかできない。

 現代において、日本こそが人間と自然や社会の発展を高い次元で両立させているのであり、基盤である最古、最長の文明の縄文が一万年以上に渡って自然と調和を保ち持続的発展を遂げた意義を、再度見直さなければならない。

 今後、日本は金融資本と直接、間接に向き合っていくだろう。そうした中で、金融資本が日本を飲み込むか、または、日本が金融資本を飲み込むかが、世界史の転換点になっていくだろう。


 このように考えると、日本が主導して、シーパワー連合を結成し、アクエリアスを普及させることは、人類の未来を切り開き、文明のベクトルを変えるために、必要不可欠だ。シーパワーはカーボン文明たる火の文明(これは闘争の文明である)を生んだ。そして、今後のシーパワーはアクエリアスたる水の文明を目指し、そしてそれはゼロサムではなく、プラスサムの平和の文明でなければならない。  

西洋占星学の診断で重要とされる『黄道12星座(ゾディアック)』の起点である春分点(春分の日に太陽が来る位置)は西洋占星学が体系的に整った紀元前2世紀の頃には,黄道上の実際の『おひつじ座』の初めの方にあった。ところが“歳差”現象といって23度半傾いている地軸が約2万5800年に1回の割合で,コマのように“首振り運動”をしているため,春分点が毎年西に極微少に移動します。 そのためこれまで約2千数百年、『うお座』にあった春分点は今後約2000年以上『水瓶座』に入るため占星学では 「水瓶座の時代」 とよんでいる。従来の「うお座」が象徴していた(直感・宗教)は「水瓶座」の(知恵・波動)へとその影響を変化していくと考えられている。水瓶座の影響により世界はどう変わっていくのか?『来たるべきアクエリアスの時代』(1985年潮文社)ではこう予測されている。“水瓶座”の特質が示すのは『権威主義(縦社会)への反抗と革新』,『自由な発想と個性尊重』,『発明と科学・技術』,『友情と連帯(フラットな関係重視)』など。また,“水瓶座”は『交流とコミュニケーション』を司る“風の宮”に属している。今後,爆発的に発展するコンピュータとインターネット社会は,地球全体,人類全体の神経ネットワークになるだろう。 これらの変革がバランスよく進み,変革のための破壊が致命的なものにならないよう我々が努力すれば,21世紀は“精神と科学”の調和したすばらしい社会が実現するだろう。”アクエリアス・エイジ”は今、始まったのだ。 以上

コメント

 ダボス会議に出席したことのある日立金属の久保田氏によると、総論はいい。
持ち場立場でいかに前進するかで高所からのコントロールは難しい。雰囲気作りを自らのブランド建設の機械ととらえるかそうでないかだけだと。