今回は、イスラエル問題の根底にある、ネオコンやイスラエルを建国した、「ロシ
ア・東欧系ユダヤ人」の問題を理解するために、以下の資料を紹介する。イスラエル
右派やネオコンといった「右派ユダヤ人」の思想傾向や闘争的世界観といった彼らの
価値観を理解するには彼らがロシアや東欧で辿って来た歴史的な背景、バックグラン
ドを理解する必要がある。この資料の全てが正しいかどうか、私には分からないが、
かなりの真実が含まれていると考える。以下の資料はその点で多くの示唆を与える。
重要な点として、ロシアVSユダヤの闘争は、ヒズボラがイラン経由で手に入れている
ロシア製のMetis-M対戦車ミサイルが実際に戦闘で使われ、イスラエル国防軍の戦車
を撃破しているように、現在進行形であり、日本は、日露戦争以来、ユダヤ側に立っ
てこの闘争に参戦しているということだ。かなり貴重な資料なので、全文を引用す
る。
<参考>
http://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fhb500.html
元ソ連外交官が語る
「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌
元ソ連外交官が語る「ロシア-ユダヤ闘争史」の全貌
1993年夏
旧ソ連時代、駐日ソ連大使館に勤務する外交官だったアレキサンドル・イワノフ氏
は、1993年夏に日本を訪問しました。そして全国各地で講演を行ない、これまで
のロシアでは何が起きていたのか、今のロシアで何が起きているのか、そもそもロシ
アの「ユダヤ問題」とは何であるかについて、熱を込めて語りました。
イワノフ氏はモスクワ大学を卒業し東京大学大学院を修了した、日本事情にも詳しい
ロシア人外交専門家です。彼の講演には、私たち日本人がおよそ耳にすることのな
かった驚くべき内容が数多く含まれていました。彼は私たち日本人に、知られざるハ
ザール系ユダヤ人とロシア人の戦いの歴史を余すことなく語ってくれたのでありま
す。
以下は、彼が行なった講演内容をまとめたものです。
■■■第1章:ハザール王国 vs ロシア帝国
■■8~9世紀、ロシア人はハザール王国と戦った
6世紀後半、中央アジアのヴォルガ川流域に強力な民族が台頭しはじめた。のちにハ
ザール(カザール)王国を形成するハザール民族である。一方、当時はロシアもまだ
帝国としては存在していなかったが、ロシア人はすでにキエフなどに定着していた。
6世紀から8世紀にかけて、ハザール民族はカスピ海の北方に進出すると、ロシア人
とたびたび衝突するようになった。ハザール人はロシア人を支配下におき、奴隷にし
て、カスピ海の北にあるイティルというハザール人たちの首都に連れて行った。イ
ティルでは当時、ロシア人の奴隷がいとも安価で売買されていたという。
「ハザール王国」は7世紀にハザール人によって
カスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた巨大国家である。
9世紀初めにユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ない
ユダヤ人以外のユダヤ教国家となった。
8世紀になり、ビザンチン・キリスト教とイスラムの圧迫を受けたハザール民族は、
王から奴隷にいたるまで国を挙げてユダヤ教に改宗し、ハザールはユダヤ国家になっ
た。そして彼らは自らをユダヤ人と名乗るようになったのである。現在、世界のユダ
ヤ人の大半を占めるアシュケナジー・ユダヤ人は、このハザール人の子孫である。
◆
8世紀から9世紀にかけて、ロシア人とハザール王国は数回にわたって戦争をした
が、965年、ついにロシア人がハザール王国を占領した。そして、首都イティルを
ほとんど壊滅させてしまった。それ以来、ハザール国家は再びかつてのような強国と
なることはなかった。
13世紀に入ると、タタール(モンゴル)がハザール王国を完全に滅亡させた。ユダ
ヤ教徒ハザール人、すなわちアシュケナジー・ユダヤ人たちはロシアが近かったの
で、その多くがロシア領内に逃げ込んだ。
◆
ロシアのユダヤ教徒ハザール人たちは、すでに12世紀に、ロシア国家の中でロシア
に対する陰謀を画策するようになっていた。そして1174年、彼らはロシアの最も
有名な皇帝、アンドレイ・ボゴリュプスキー皇帝を暗殺したのである。
当時のロシアは多くの国々の集合体だったので、それぞれの国の皇帝が集まり会議が
行なわれた。その結果、彼らはロシアにいるユダヤ教徒ハザール人を弾圧することに
決定した。そして、多数のユダヤ教徒ハザール人が殺されることになったのである。
10世紀後半のヨーロッパとオリエント
■■ポーランドへ移ったハザール系ユダヤ人
ヨーロッパの歴史を振り返ると18世紀の末、1772年から3回にわたって、ポー
ランド分割が行なわれている。ポーランドは3つに分けられ、当時の強国であったロ
シア帝国はポーランド領の一部を自らの領土内に組み込んだ。ところがそのポーラン
ドに、ハザール系ユダヤ人たちが「国家内国家」を形成していたのである。
◆
大規模なユダヤ・コミュニティは、15世紀まではスペインの中にあった。もっと
も、このスペインにいたユダヤ人は、そのほとんどすべてが聖書でいう本当のユダヤ
人、すなわちスファラディ・ユダヤ人であった。1492年、スペイン政府がスファ
ラディ・ユダヤ人を国外に追放したことによって、スペインの中のユダヤ国家は消滅
した。スペインを追われたスファラディ・ユダヤ人たちは主に、北アフリカ、オラン
ダ、イギリスなどへ渡って行った。
アシュケナジー・ユダヤ人(ハザール人)と
スファラディ・ユダヤ人の移動地図
一方、ロシアから追放されたユダヤ教徒ハザール人たちは、そのほとんどがポーラン
ドに移っていた。そのため、15世紀にはユダヤ教徒ハザール人たちの政府はポーラ
ンドの中に設けられていたといってもよい。
15世紀の終わりから16世紀にかけて、ポーランドのユダヤ人たちはポーランド人
よりも強大な力をもつようになっていた。彼らは実際、ポーランドの国内に自分たち
の政府、自分たちの国会、自分たちの教会などをつくっていた。
一般のポーランド人たちはもちろんのこと、ポーランド政府でさえも、そうしたユダ
ヤ人たちの「国家内国家」に対しては、一切手をつけることができない状態にあっ
た。
■■ポーランド分割でロシアへ入ったハザール系ユダヤ人
ロシアは18世紀の終わりに、こうしたユダヤ人の「国家内国家」が存在するポーラ
ンドの領土の一部を自国の領土としたのであった。領土を得たのはよかったが、領土
とともにユダヤ人の政府をも取り込んでしまったのである。このときにロシアは、き
わめて危険な毒を飲み込むことになってしまった。
こうして、18世紀からロシア国家の内部には、再びユダヤ問題が生じるようになっ
たのである。
◆
ロシアのユダヤ人問題は昔も今も、最も難しい民族問題である。それは、ロシアに
とってのユダヤ問題が、10世紀以来のロシア対ハザールの確執を含んでいるからで
ある。ロシアが抱え込んだユダヤ人は、スファラデイ・ユダヤ人ではなく、アシュケ
ナジー・ユダヤ人であり、彼らはユダヤ人ではないにもかかわらずユダヤ人と称する
人々である。つまり彼らがユダヤ教徒ハザール人であるところに、この民族問題の複
雑さがある。
その当時、ロシアに入ったハザール系ユダヤ人は300万人ぐらいであった。そのほ
とんどがロシアの西側、すなわちウクライナ、西白ロシア、あるいは旧ポーランド領
に住んでいた者たちである。
それでも、ユダヤ問題は18世紀には、まだそれほど大きな問題ではなかった。19
世紀の終わり頃から、ロシアのユダヤ人たちは熱心に革命運動に参加するようになっ
た。革命運動を指導していた政党、社会民主党や社会革命党などのリーダーおよび活
動家たちは、ほとんどすべてがハザール系ユダヤ人であった。
◆
古来からロシア人は戦闘的、革命的な要素をもたない民族であった。一方、ユダヤ教
徒ハザール人にとってロシアは敵国であり、ロシア文化は敵国の文化であった。した
がって、彼らはロシア国家に対しては常に戦闘的、革命的であった。
ユダヤ教徒ハザール人たちは、古い過去の歴史をすぐに引き合いに出す。現在の歴史
と古い歴史を同じように並べたて、3500年前の「出エジプト」(エジプトで奴隷
となっていた古代ユダヤ人がモーセに率いられてエジプトから脱出した)の事跡など
を持ち出してくる。
ユダヤ人は過去の歴史の中に生きているといってもよいだろう。だからこそ、ユダヤ
教徒ハザール人は、かつてロシア人がハザール王国を崩壊させたことをよく覚えてい
る。そのためユダヤ人の中には、常にロシアに対する復讐の思いがある。ロシアで革
命を起こし、国家を転覆させることは、ユダヤ教徒ハザール人にとって最も重要な課
題であった。
◆
当時のロシアの知識人の中には、すでにそうしたユダヤ教徒ハザール人の動きを
キャッチしていた人々がいた。たとえばロシアの作家、ドストエフスキーの著作を読
むと、彼は繰り返し「ユダヤ人は革命を起こすだろう、ユダヤ人はロシアの中に入っ
た毒であり、悪魔だ」と強調している。ドストエフスキーは「必ずユダヤ革命が起き
る」と断言していた。
しかしロシア政府は、そうした動きをまったく感知していなかった。そして、ほとん
どのロシアの知識人たちは、ユダヤ人と戦わずにユダヤ人と一緒になって革命を準備
したのだった。
_____
■■■第2章:「ロシア革命」は「ユダヤ革命」だった
■■日露戦争を画策したハザール系ユダヤの狙い
1905年、日露戦争が勃発した。日露戦争はユダヤ人の画策により、隣同士の2つ
の国が衝突することになった戦争である。当時、イギリスのユダヤ人が挑発的な行動
に出て、日本もロシアも知らないうちに戦争に巻き込まれていった、というのが実際
のところである。日本とロシアの歴史的な関係は、決してよい関係とはいえないかも
しれない。が、そこにユダヤ人の画策があったことを考慮に入れなければならない。
そう主張するロシア人は少なくない。たとえば、ロシアで出ている『日露戦争におけ
るユダヤの役割』という本なども、そうしたユダヤ人の動きを論じたものだ。
◆
日露戦争当時、ユダヤ人たちは「ロシア政府の敗北」というスローガンを掲げて革命
運動を展開した。このスローガンによって、ユダヤ人の革命家たちは、ロシア政府の
敗北を望む日本やアメリカから革命資金を導入することを容易にもしたのである。日
本の資金力はそれほど大きなものではなかったため、主にアメリカの資本が投入され
た。アメリカの大資本家であり、アシュケナジー・ユダヤ人であるヤコブ・シフが、
ロシアのアシュケナジー・ユダヤ人の革命家たちに多額の援助を与えたことは知られ
ている。
◆
こうして第一次ロシア革命の嵐がロシア全土を襲ったが、1906年5月、ロシア政
府はストルイピンを首相とする新政府を構成した。
このストルイピンという人物は、民族主義者・国家主義者であったため、強固な反ユ
ダヤ的な政策をとって革命運動を鎮圧していった(そのためレーニンもジュネーブに
亡命している)。ストルイピンは「強いロシアをつくろう」というスローガンを掲げ
て、今日のロシアの「改革」とはまったく異なる、ロシア人によるロシア人のための
政治・経済改革を進めていった。
ロシア人によるロシア人のための
政治・経済改革を進めたストルイピン首相。
ボグロフというユダヤ人に殺された。
しかし残念なことに、1911年9月、ストルイピン首相は暗殺されてしまった。ス
トルイピンがキエフに行った際に、ニコライ2世とともに劇場でオペラを見ていたと
きのことである。彼の席の近くにボグロフというユダヤ人がいた。彼は反体制派、社
会革命党の党員で政府の警察のエージェントでもあった。彼はストルイピンの席近く
へやって来るや、ニコライ2世の面前で、ピストルを2発、ストルイピンめがけて
撃ったのである。
◆
ストルイピンが亡くなったことによって、ロシア人によるロシア人のための改革も終
わってしまった。
その頃、ロシアの資本主義経済はかなり強くなっていた。すでに、世界の資本主義諸
国の中でも、決して引けをとることのない資本主義国家になっていた。当時のロシア
の経済成長率は11~15%で人々の生活水準も高かった。それは10月革命以前の
ことである。
■■ユダヤ人が担ったロシア10月革命
ストルイピンが暗殺されると、ユダヤ人たちはもう一つの革命の準備に入った。19
17年11月6日の「10月革命」である。
この10月革命はユダヤ人による革命であった。これは疑いの余地がない。いうまで
もなく、革命を指導した者のほとんどがユダヤ人だからである。10月革命の前に、
トロツキーをリーダーとする70人のユダヤ人グループが、ニューヨークからやって
来ていた。アメリカのユダヤ人資本家ヤコブ・シフは、このトロツキーのグループを
支援していた。
そのときロシアは、ドイツとの戦争の真っ最中であった。第一次世界大戦である。ド
イツの方面からも、レーニンのグループがロシアに入った。このグループもまた、ほ
とんどがユダヤ人だった。10月革命は、アメリカとドイツの金によってユダヤ人が
実行した革命であった。
アメリカ・ユダヤ人の中心的存在だった
ユダヤ人金融業者ヤコブ・シフ。
ロシアのユダヤ人革命家たちに
多額の援助を与えた。
それにしても、ロシア革命はなにゆえにひと握りのユダヤ人指導者の下に、容易に推
し進めることができたのだろうか。ロシア人は黙って見ていただけなのだろうか。当
時の革命政府には、ロシア人はほとんど参加していなかったのである。レーニン自身
がその事実を述べている。
10月革命が起きてのち、ロシア人は新政権の成立にはほとんど関わることをしな
かった。ロシア人としては、このような反民族的なシステムには入りたくなかったの
である。
革命当時、ヨーロッパで出された
11人の共産党指導者たち
レーニンは、政府の官僚として誰を起用するかをじっくりと考える必要はなかった。
当時は戦争中だったので、西側からユダヤ人が続々とロシアの中央に移って来た。ソ
連の新政権にユダヤ人は約150人参加した。そして、政府のトップ・クラスの人々
はすべてユダヤ人であった。政権内部のロシア人は2~5%ときわめて少なかったの
である。
レーニンの祖母はユダヤ人だった。レーニン自身がユダヤ人とのハーフだったのであ
る。ロシア10月革命後の新政権では、そのメンバーのうち99%をユダヤ人が占め
ていた。しかし、アメリカとドイツからロシアにやって来たユダヤ人たちは、革命
家、あるいは共産主義者であり、ほとんどがユダヤ教を信仰していたわけではなかっ
た。
◆
その頃のユダヤ運動には2つの流れがあった。1つは共産主義である。共産主義者、
革命家たちはユダヤ教を信奉しない。もう1つはシオニズムである。シオニズムと
は、ユダヤ教徒が自分たちの宗教本部であるエルサレム(シオン)を中心として、自
分たちこそ世界を支配しなければならないとする思想である。そのような人々をシオ
ニストという。
白ロシア・ミンスクの前線でのシオニスト兵の会議 (1918年)
10月革命後、ユダヤ人たちはこの2つの流れでともにロシアを支配していたのであ
る。やがてそうしたユダヤ人の中に摩擦が生じるようになった。
1920~1930年代、アメリカやドイツからやって来た共産主義者のユダヤ人た
ちと、ロシアにいた150万人のユダヤ教徒との間に、激烈な闘争が巻き起こったの
である。革命家たちはユダヤ教を信仰していないため、ユダヤ教徒たちは共産主義者
を批判し共産主義者と闘うようになった。
レーニンやトロツキーたちとともに来た人々は、この戦いでほとんど消えてしまっ
た。革命政府の中心にあった者たちは、ほとんど殺されてしまったのである。こうし
て第二次世界大戦勃発以前に、このユダヤ人の間の闘いには決着がついたのであっ
た。
■■■第3章:ハザール王室直系の子孫、カガノビッチの暗躍
■■スターリンを操ったモンスター、カガノビッチの正体
10月革命以降、特に1920~1930年代に、ユダヤ人はロシアで「国家内国
家」をつくっていった。それはまさしく、8世紀~10世紀ごろに栄えたハザール王
国の再現であった。
ロシアにはハザール王国の皇帝の子孫がいたのである。スターリンは傀儡であり、ユ
ダヤ人たちのロボットであった。スターリンは表向きの指導者であって、ユダヤ国家
には陰の指導者がいたのである。その陰の指導者がすべての実権を握るほんとうの支
配者であった。
◆
それは誰か。 世上、スターリンの片腕といわれたユダヤ人、ラーザリ・カガノビッ
チである(カガノビッチはいかにもロシア的な姓のように「ビッチ」を付している
が、祖父の時代にはカガンと名乗っていた)。カガン(可汗)とはハザール人たちの
言葉で、ユダヤ教の宗教の指導者、皇帝などを意味している。ハザール王国もハザー
ル・カガン国と名乗っていた。カガノビッチの元の姓がカガンであるということは、
彼がかつてのハザール王国皇帝の直系の子孫であることを示している。
ハザール王国は数世紀前に消滅したが、その皇帝の直系の子孫が生きていたのであ
る。
スターリンの片腕といわれた
ユダヤ人ラーザリ・カガノビッチ。
ハザール王室直系の子孫だった。
スターリンは共産党書記長というポストについていたが、カガノビッチはただの書記
にすぎなかった。しかし、実際にはカガノビッチやカガノビッチの補佐官が、すべて
の政策を取り仕切っていた。スターリンはこのカガノビッチの政策の執行者にすぎな
かった。
ハザール王国では宗教的権威をもつカガン(皇帝)のほかに、実際の政務を行なう
ビャク(執行者)があった。その意味でも、当時のソ連政府はまさしくハザール王国
の再現であった。
一般に「スターリンの独裁」とよくいわれるが、事実はハザール人のハザール王国の
指導者による独裁だったのである。この事実は決して触れられることがない。
■■ハザールの王・カガノビッチがロシアを支配した
カガノビッチはどのようにしてロシアの国家内国家、すなわちユダヤ国家を指導して
いったのだろうか。共産党によったのではない。共産党も表向きの形式にすぎなかっ
た。実際には裏の組織があった。それが国家保安省(後の国家保安委員会=KGB)
である。国家保安省の幹部のすべてがユダヤ人だった。トップだけではなく、中間層
も下層も、ほとんどがユダヤ人で占められていた。
国家保安省にはベリヤというきわめて危険な人物がいた。彼はユダヤ人(母親)との
ハーフで、グルジアの北コーカサス出身のユダヤ人であった。ベリヤはカガノビッチ
の従兄弟にあたる。カガノビッチはベリヤ、すなわち国家保安省を通して、ロシア=
ハザール国家を支配していったのであった。
カガノビッチの従兄弟である
ユダヤ人ベリヤ
またその頃、ユダヤ人は国家保安省の中に「収容所」という新しいシステムをつくっ
た。ソルジェニーツィンの著書『収容所群島』には、このシステムについて詳しく述
べられている。各収容所の所長は9割がユダヤ人だった。収容所システムを初めに導
入した人物は、フレンケルというユダヤ人の革命家である。収容所はロシア人の奴隷
を収容するためにつくられた施設だった。
◆
革命が成功すると、ユダヤ人たちはロシア人を完全に支配下におこうとした。そのた
めにはロシアの「頭」を切り落とさなければならない。「頭」というのは日本でいえ
ば天皇であるように、ロシアでいえばツアー、すなわち皇帝であった。
ニコライ2世(最後のロマノフ王朝一家)
皇后の前に皇太子アレクセイ。皇帝の
右に四女アナスタシア。夫妻の後ろ左から、
三女マリア、次女タチアーナ、長女オリガ。
ユダヤ人はまず当時のツアー、ニコライ2世を家族もろとも全員暗殺した。革命の翌
1918年7月、ユダヤ人はウラル山脈のエカテリンブルグ(現在のスベルドロフス
ク)のある家の地下室で、ツアーとその家族をすべて銃殺に処した。
そして、その家の壁にサインを書き残したのである。それはヘブライ語で「皇帝は暗
殺された、国家は破壊された」と書かれていた。私(イワノフ)はそのサインを自分
の目ではっきりと見ている。
エリツィン大統領は当時、その町の第一書記だったが、このエリツィンの命令によっ
て、ツアーが殺害された家は完全に破壊されてしまった。今はもう誰もこのサインを
見ることはできない。家も壁も残されていないからである。
_____
■■■第4章:ロシア文化を徹底的に破壊したハザール系ユダヤ人
■■革命はロシアの頭脳を流出させロシアの文化・宗教を破壊した
ロシアの「頭」はこうして切り落とされた。では彼らの次の目標は何か。その次に彼
らは何をしなければならなかったのだろうか。
ロシアの伝統、習慣、歴史と、それを存続させている貴族を殺すこと、それが彼らの
次の課題であった。が、ロシアの貴族はそのとき、幸か不幸かほとんどが国外に亡命
していた。少なくとも300万人の貴族がアメリカやヨーロッパなどに脱出したが、
彼らはいわばロシアの頭脳ともいえる人々だった。要するに、革命によってロシアの
頭脳が全て国外に流出してしまったのである。
◆
アメリカには世界でも有数の技術を発見した学者たちが多くいる。あまり知られてい
ないことだが、それらの学者たちの中にはロシア人が最も多いのである。少なくとも
彼らロシア人が20%を占めている。
たとえばヘリコプターの発明者のシコルスキー、ノーベル賞をもらった経済学者ワシ
リー・レオンツェフ、また作曲家のラフマニノフなど、挙げていけばきりがないほど
だ。ロシアの頭脳はほとんどアメリカに行ってしまったのであった。アメリカは革命
によってロシアの頭脳を獲得したのである。
優秀な実業家、デミドフ、ストロガノフ、エリセエフなども外国に行ってしまった。
ロシアはユダヤのために優秀な実業家たちをすべて失ってしまった。ロシア人の
「頭」の代わりにユダヤ人の「頭」が、ロシアの体、すなわちロシア人の国家の上に
乗せられたのである。
◆
さらにロシアの古い伝統、習慣、文化をもっているのは誰か。農民である。彼らは個
人の農地をもっていた地主であった。しかしユダヤ人は革命を推し進めるためには、
農業システムを破壊しなければならないとして、各地にコルホーズ(集団農場)やソ
ホーズ(国営農場)をつくっていった。その結果、ロシアの農業システムがすべて破
壊されたのである。
こうして、文化人も、優秀な実業家も、伝統的な農民もロシアからいなくなった。全
部ユダヤ人のやったことである。またロシア正教もほとんど壊滅の状態にまで弾圧さ
れた。ロシア正教はロシア人にとって最も神聖な宗教である。少なくとも1000年
の歴史をもっており、ロシア人に大きな精神的影響を与え続けてきた。しかし革命
後、ユダヤ人はロシア正教会の90%を破壊してしまったのである。
共産主義にとって“宗教はアヘン”だった。アルメニア教会の寺院も数多く破壊され
た。しかし、シナゴーグ(ユダヤ教会)だけは無傷であった。
ロシア正教会
ロシアでは10~11世紀にかけて、ロシアの伝統的な建築技法によって美しい多く
の教会が建てられた。今では12世紀に建てられた教会が、わずかに破壊されずに
残っているが、古い教会のほとんどがユダヤ人によって破壊されてしまった。破壊さ
れたものの中には、建物以外に絵画や9~11世紀のイコンもたくさんあった。
こうした破壊はロシアにとっては耐えがたい残酷なる悲劇であった。
■■軍幹部と知識人の粛清
第二次世界大戦が始まる前に、ユダヤ人たちはもう一つの陰謀を企てていた。それは
ロシア軍隊の幹部たちを粛清することだった。少なくともその当時、約3万人の将軍
や将軍クラス、大佐クラスの軍人が殺された。彼らはちょうど第二次世界大戦が起こ
る1、2年前に殺されたのである。
◆
ユダヤ人たちはヒトラーからの侵略の脅威を感じなかったのだろうか。ロシアを外敵
から守る必要がありながら、なぜ優秀な軍人を殺すことに躊躇しなかったのだろう
か。
彼らにとっての問題は国外ではなく国内にあったからである。ロシア人の将軍や大佐
などが赤軍を指導し、反ユダヤ感情が高まってきたために、ユダヤ人たちは危険を感
じて軍隊の幹部たちを殺した。実に第二次世界大戦が起こる直前のことであった。そ
れら将軍の中にはユダヤ人も交じっていたが、ユダヤ人であろうとも、不穏な動きを
一掃するためには無差別に殺されていったのであった。
◆
戦争が始まった。優れた司令官をすでに失っていたロシア軍は、はじめの1、2年間
は敗北を重ね、モスクワまで撤退して敵を迎え撃つ戦法をとることにした。そして、
後のモスクワ戦線では激烈な戦闘の結果、最終的にロシアが勝利を収めたのだが、そ
のときには、ようやく世代交代がなされ、次世代の優秀な軍人たちが指揮をとってい
た。それらの指令官の中でも、最も優れた司令官がジューコフ元帥だった。
◆
1941年10月、ドイツ軍はモスクワ大攻撃を開始した。それに対して、その年の
12月、ジューコフ元帥の率いるロシア軍が大反撃を行なったのである。これをロシ
アでは「モスクワの祖国戦争」という。戦争は1943年2月まで続いたが、ついに
ドイツ軍は降伏し、ロシア軍の勝利の第一歩が印された。ジューコフ元帥の果たした
役割は、すべての戦争において最も大きいものだった。
戦争が終わると、急速にロシア人の民族的自覚が高まっていった。ドイツとの戦争で
勝利を勝ち取ったからである。ユダヤ人はロシアを恐れた。
危機を感じたユダヤ人は1948年、ロシア人に対して攻撃を開始した。優秀な政治
家たちを次々と裁判に送り、ロシア人知識階級を殺していったのである。カガノビッ
チがそれらの指揮をとっていたが、スターリンもそれに同調していた。
■■■第5章:スターリンとジューコフ元帥の反乱
■■ユダヤから離れて暗殺されたスターリン
スターリンはその頃からユダヤ人のやり方に反発するようになった。スターリンの妻
はカガノビッチの妹であり、その前のスターリンの2番目の妻も同じくユダヤ人だっ
た。それにもかかわらず、スターリンはユダヤ人に対抗していった。戦争の勝利で自
らのイメージが上がったこともあり、ユダヤの横暴なやり方に我慢できなくなって、
反ユダヤの態度をとりはじめたのであった。1949年から亡くなる1953年まで
の間、スターリンは実際にそうした行動をとり続けていった。
スターリンと妻のローザ(ユダヤ人)。
彼女は、カガノビッチの妹だった。
スターリンの身辺には常にベリヤがいた。ベリヤは国家保安省のリーダーであり、ス
ターリンと同じくグルジア人だったが、ユダヤとのハーフであった。ベリヤは終始ス
ターリンの見張りを怠らず、スターリンの行動をすべてカガノビッチに報告してい
た。そのため、スターリンはベリヤに隠れて密かに反ユダヤの陰謀を画策していっ
た。
◆
1952年、「医者事件」が起こった。「医者事件」とは、1948年、ユダヤ人の
医者たちが多くのロシア人の新生児、それも男児を毒殺した事件である。そのときに
殺された男児の数はかなりの数に上った。とくに大都会のレニングラード、モスク
ワ、キエフなどで多くの男児が殺された。
なぜユダヤ人たちはこのような暴挙をやるのか、このまま多くの男児が殺されるなら
ば、いったいどのようなことになるのか──。
スターリンは1952年、この事件に関係した医者をすべて逮捕し、ユダヤ人自身が
つくった収容所に送って、その半数を殺したのであった。
◆
スターリンは更に大きな反ユダヤのプランをもっていた。シベリアの極東地方にビロ
ビジャンというユダヤ人の自治州があったが、彼は大都会からすべてのユダヤ人を集
めて、シベリアのビロビジャンに送ろうとしたのである。
が、それが実行に移される前に、彼はベリヤによって暗殺された。1953年3月の
ことであった。
極東地方に存在するビロビジャン「ユダヤ人自治州」
(黄色に塗られた地域)
スターリンは自然死であるという説があるが、実際はそうではなかった。ユダヤ人に
よる暗殺であった。ベリヤによってスターリンは殺されたのである。スターリンの息
子ワシーリーは空軍の将校だったが、彼はこの事実をよく知っていた。彼は隣人にこ
の経緯をすべて話している。しかしワシーリーもまもなく暗殺されてしまった。
■■ソ連の全権を握ったカガノビッチ
ユダヤ人は強大な力をもっている。彼らは世界的な規模で力をもっており、ユダヤ民
族が不利な状態になったときには一致して攻撃に出ることができる。スターリンは強
力な独裁者といわれたが、その実は彼らに操られたロボットであり、自ら独裁者ぶり
を発揮したとたんにユダヤによって暗殺されたのである。
◆
スターリンが亡くなって後、ベリヤはカガノビッチの真の右腕になった。この2人は
スターリンが暗殺されてから130日間、実質的にロシアを支配していた。この間、
彼らは何をやろうとしていたのだろうか。それは、ソ連の分裂への策謀であった。ベ
リヤが逮捕されて後に、こうした計画のあったことが発覚している。
ハザールの王・カガノビッチは、
スターリンが暗殺されてから130日間、
実質的にロシアを支配した
今から40年前の1953年、カガノビッチは当時のソ連の全権を掌握した。このと
き、ロシアは本当のユダヤ国家になってしまったのである。
ロシアのユダヤ人とアメリカのユダヤ人たちはこうした事態を大いに喜んだ。なぜな
らば、ロシアのユダヤ人もアメリカのユダヤ人も、いずれもアシュケナジー・ユダヤ
人という同胞であり、すっきりと手を組むことができるからだった。
ユダヤ人たちはソ連とアメリカという2つのユダヤ国家が力を合わせれば、全世界を
支配できると考えた。当時の誰がこのような陰謀を阻止できただろうか。
その当時、国家保安省のエージェントはあらゆるところにいた。そして、密告が制度
として国民の義務となっていた。当時のロシア人は、こうしたユダヤのネットワーク
には、何らの抵抗するすべをもたなかった。
■■ユダヤ権力を壊滅させたジューコフ元帥
しかし奇跡が起こった。第二次世界大戦におけるファシズムとの戦争で勝利をもたら
したジューコフ元帥が、1953年にユダヤとの戦いでも勝利を収めたのである。
1953年6月26日、モスクワ郊外でジューコフ元帥は陸上演習を行なっていた。
この演習の途中で、ジューコフ元帥は突然、自ら戦車部隊二個師団を率いてモスクワ
市内に入り、国家保安省本部に向かって進撃を始めたのである。国家保安省はこの動
きをまったく感知していなかった。そのため、ジューコフはあっという間に国家保安
省本部の占拠に成功することができたのであった。
カガノビッチとベリアを逮捕した
ジューコフ元帥
ジューコフ元帥はまずベリヤを逮捕した。そしてその次にカガノビッチらを逮捕し
た。これはまったく異例の事態であった。ロシア人の民族性からすると、こうした過
激な反発行動に出ることはあり得ないことであった。しかしジューコフは、誰にも相
談せずに、自らの判断で直ちに戦車部隊二個師団を動かし、モスクワに入って国家保
安省本部を乗っ取ったのである。
そのときからロシアは新政府となり、ユダヤ人は国家保安省や軍隊の司令部を含め
て、あらゆる組織から追放された。少なくとも1960年まで、ほとんどの政府機関
からユダヤ人が一掃されたのである。
ようやく、ロシアをロシア人が指導するところとなった。一時的にではあったもの
の、明らかにロシア人の勝利であった。このとき1953年から、1985年にゴル
バチョフが書記長となり、翌年にペレストロイカ(改革)が始まるまでの間、ロシア
国内にハザール国家は存在することがなかったのである。ユダヤ人たちはそのままロ
シアに住んではいたが、もはやユダヤ人たちが「国家内国家」をつくるようなことは
なかった。
ブレジネフの時代はロシア人にとって歴史上非常に安定した時代であったといえる。
ユダヤ人たちはこの時代を「停滞」時代という。革命が起きていなかったので、彼ら
にとっては「停滞」と呼ぶにふさわしい時代なのである。
■■■第6章:ソ連崩壊の舞台裏 (ロシア人とユダヤ人の対立)
■■1991年8月のクーデターは「ユダヤ第二革命」だった
共産主義体制崩壊後のロシアの政治を、日本では、改革派(民主系)と保守派(旧共
産党系)の対立を軸にしたものとしてとらえ、そこに中間派系、民族派系などの諸派
が絡んだ政争の流れとして見ている。しかし、本当の問題は民族闘争なのである。ロ
シア人とユダヤ人の対決、それがロシアで起きていることの根本にあることである。
◆
1991年8月、世界を揺るがしたソ連のクーデターはあっけない失敗に終わった。
しかしその結果起きたことは、紛れもない革命だった。これはユダヤ人によるクーデ
ターであり、「ユダヤ第二革命」と呼ぶべきものだった。過激派のユダヤ人たちは、
穏健なゴルバチョフ政権を倒して自らが政権を握ろうとしたのである。クーデター失
敗後、エリツィン・グループが政権を握ったが、エリツィン大統領を取り巻くロシア
政府高官のほとんどがユダヤ人であった。
エリツィンはユダヤ人の妻を持つが、彼自身は純粋のロシア人である。しかし彼は頭
が悪く、しかもアルコール中毒である。彼は使われているロボットにすぎない。彼の
補佐官は80%がユダヤ人であり、彼の補佐官の中には20人のアメリカ人がいた。
そのアメリカ人の中でも指導的な役割を果たしているのは、ジェフリー・サックスと
いうハーバード大学の教授であり、もちろんユダヤ人である。
(左)ゴルバチョフ (右)エリツィン
ロシア国内のユダヤ人たちは、8月クーデターでロシア政府内の実権を握ったことを
幸いに、次に海外のユダヤ人と相呼応して、ロシア経済を支配下に置こうとした。そ
のため、欧米の、中でもアメリカのユダヤ資本が怒涛のようにロシアになだれ込むこ
とになったのである。
エリツィンと取り巻きのユダヤ人たちは、8月クーデター以後、急進的な市場開放路
線を議会で承認させると、ガイダル政権を発足させた。そして年末の連邦崩壊・CI
Sの形成を経るや、一気に市場開放、価格自由化というショック療法を実行に移した
のである。その結果ロシアでは、国際派ユダヤ人による猛烈な「ゴールド・ラッ
シュ」が起きた。1991年8月クーデター以後しばらくの間、ニューヨークからモ
スクワ行きの飛行機は、ほとんどユダヤ人たちに占められていた。
■■やがてロシア人の解放運動が巻き起こるだろう
8月クーデターで、彼らユダヤ人たちは再びロシアの権力を握ったと思っているだろ
う。しかし、70年余年前の10月革命のときとは、その事態には根本的な違いがあ
ることに彼らは気付いていない。
ユダヤ人たちは1917年10月革命当時には大きな力をもっていた。しかし今日の
ロシアのユダヤ人たちには力がない。彼らは二度目の革命を起こしたが、今日のロシ
ア人は75年前のロシア人とは異なっている。当時のロシアは農業国家であった。多
くの農民たちは読み書きができなかった。しかし今は違う。共産主義時代に受けた教
育レベルは非常に高いものである。ロシア人の年輩者もそして若い人たちも、ますま
すユダヤ問題がわかってきている。そして愛国心の高まりとともに、ユダヤ人に反発
する行動をとるようになり始めているのである。
◆
ユダヤ人はモスクワやサンクト・ペテルブルグ、キエフなどの大都会では力がある
が、農民や労働者の中にはユダヤ人はほとんどいない。これは喜ばしいことである。
さらに、ユダヤ人たちの影響はまだ地方にまでは及んでいない。ロシアの地方には本
当のロシアが残っている。
ロシア人たちの反発は、ロシア人によるユダヤからの解放運動として、すでに地方に
広がりはじめている。ロシア人たちは必ず自分たちのロシア人のリーダーを選ぶだろ
う。
以前ゴルバチョフはペレストロイカは地方からの革命ではなく「上からの革命」であ
ると言った。しかしこれは「革命」というよりは反ロシア的な陰謀であった。決して
下からの解放運動、革命ではなかった。
私たちロシア人はすでに革命の歴史をもっている。最初の10月革命、これは明らか
にユダヤ革命だった。そしてまた、2年前の1991年8月にあった革命も、ユダヤ
革命であった。ロシア人たちはユダヤ革命はもう十分だと思っている。我らはもうこ
れに我慢できない。ロシアのユダヤ人たちは、ロシアにおいて悪質なことをやってき
たし、今もやっている。しかし彼らはすでにやりすぎている。
今後、ロシア人とユダヤ人との闘いは、もっと激しくなっていくにちがいない。やが
てロシア人の解放運動が巻き起こるだろう。私(イワノフ)は固く信じている。
〈後略〉
── 1993年夏 ──
以上

コメント
ユダヤ人とロシア人が対立した場合は日本はどうすればいいの?
ユダヤ人につく。
ロシア人につく。
洞ヶ峠を決める。
順番をつけて頂けると助かります。
Posted by 大田栄作 at 2006年8月22日 21:23
欧州(カトリック・キリスト)によるアフリカ支配の
日本マスコミの報道規制を見るに
日本政府が単純にユダヤサイドと考えるのは早計だにゃん
Posted by もかもか at 2006年8月28日 10:56