世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL116

今回のイスラエルの戦争の意味を考えてみる。まず、考えなければならないのが、戦争の形態が大きく変わったということだ。
ヒズボラの長距離ミサイルでの攻撃は、イスラエルの国防戦略の中核を成していた「戦略的縦深」が意味を失いつつあることを示している。またヒズボラによる短距離のロケット砲やミサイルによる一斉攻撃も、イスラエルの防衛のあり方を再考させるに十分なものであった。ロケットの発射準備と目標を攻撃する間の時間が極端に短いために迎撃が難しいので、射程の短いミサイルほど補足が難しいからである。
さらに、戦車や軍艦までも、ミサイルの標的になれば、容易に撃破され、従来型の軍事戦略が意味を失うことにもなった。この結果は、世界の軍事関係者に大きな衝撃を与えただろう。ミサイルが戦局や戦略を大きく変えることは、冷戦期からはっきりしていた。いうまでもなく、ICBMの登場は、従来型のランドパワーとシーパワーの地政学に見直しを迫り、旧ソ連のバックファイア爆撃機から発射された対艦ミサイルは米空母を撃破することが可能であったため、米軍はイージス艦を開発し、ミサイルからの艦隊防衛を図った。
今回は、ミサイルにより、戦車や戦艦が無力化され、武装集団であっても、十分、軍隊と戦えるというこが判明した。背景にミサイルの高性能化と低価格化がある。
このような、ミサイルの登場が、イスラエルの国家戦略に変化をもたらした。過去の紛争では、国連が常にパレスチナ寄りであるとの認識から、イスラエルは、国連の介入および国連軍の展開には拒否あるいは消極的な姿勢をとってきた。今回は、国連軍の南部レバノン駐留を受け入れる用意があることを、最初から明確にしてきた。

この背景には、長期的には自国だけではヒズボラのロケット攻撃を阻止できないこと、占領はコストが高くつくこと、レバノン・イスラエル国境線画定問題の早期解決が見込めないこと、これらの判断に基づき、国連介入を求めたのだといえる。はっきり言えば、イスラエルは独力でヒズボラを壊滅させることは不可能なこと、つまり当初の予定であった武装解除を達成できないことを認めたのだ。イスラエルは以下の全ての戦略目標を達成できなかった。これは、事実上のイスラエルの敗北だ。安価な携帯型高性能ミサイルや通信設備としての携帯電話の登場が中東の戦略状況を一変させたのだ。
1.短期の作戦
2.空爆を中心とする攻撃
3.特殊コマンド部隊によりヒズボラのロケット弾貯蔵庫を一掃する
今後のイスラエルを考えるに、かなり難しい立場に立たされるだろう。イスラエルの安全保障政策の鍵は、まず第一にアメリカによる援助であることはいうまでもない。
そして、次には、アラブの中でも、親米国、つまり穏健派といわれるサウジアラビアを中心とした国とは良好な関係を維持することが二番目だ。実は、今回の戦争で、一番問題なのは、この穏健派諸国の変化だ。
NYタイムズでネイル・マクファーカーが書き『ヘラルド・トリビューン』が29日付トップでキャリーした「アラブ世論の流れはヒズボラ支持に変わりつつある」と題した記事によると、当初はイランの影響力増大に警戒してヒズボラの「無謀な挑発行為」を非難していたアラブ穏健派諸国も、イスラエルの攻撃の余りの凄まじさにこぞって態度を転換し、イスラエルとそれを支持する米国への批判を強めつつある。つまり、アラブ世界ではスンニ派とシーア派が団結してイスラエルに対抗しようという気運が高まったのだ。

そして、この穏健派の中には、イスラエルと対シリアの軍事同盟を結ぶ、NATO加盟のトルコが含まれる。トルコは冷戦期、ソ連の地中海への進出を防ぐ要衝として、NATOに加盟して以来の親米国だ。このトルコがイスラム側に寝返ると、イスラエルのみならず、NATOの対露安全保障も難しくなる。それを疑わせる最近のエルドアン首相の動きとしては、ハマス政府を認め支援を約束したことや、EU諸国よりもイスラム諸国訪問の回数のほうが多いこと、スーダンで開催されたアラブ・サミットにオブザーバーの資格で参加したことなどがある。
<参考>
http://www.tkfd.or.jp/news/islam/43_20041203_1.shtml
「トルコがイスラエルと軍事協定を結んだ1990年代中頃には,PKKの党首アブドゥラ・オジャランがシリアの首都ダマスカスとベーカー高原を拠点に置いて指揮をとり,PKKの訓練とトルコへの攻撃を行なっていた。その結果,トルコが進める東南部開発灌漑プロジェクト(GAP)の付近ではテロの嵐が吹き荒れ,3万7千人以上のトルコ人が死亡した。当時のトルコは,クルド人ゲリラの討伐に政府予算の約15%を浪費していたため,年率80%のインフレが進み国民の生活を圧迫していた。また,ギリシャ・キプロス共和国(南キプロス)・アルメニアの3国がPKKに訓練基地を提供し,欧州諸国がPKKを「自由の戦士」として崇め,武器供与を行なっていたことから,アブドゥラ・オジャランとPKKテロリストを匿うシリアに圧力をかける目的もあった。」
つまり、イスラエル-ヒズボラ戦争の結果、イスラエルが敗北したという事実は、アメリカの中東政策、NATOの対露安全保障の双方に重大な影響を与えかねない重大事だ。
この動きは、究極的には資源を保有するランドパワー国(サウジ、イラン、ロシア、ベネズエラ、ナイジェリア)などはヒズボラ側に同情的であり、シーパワーのハイテク型の国(イスラエル、米国)との対立構造となりつつある。ベネズエラのチャベス大統領は7月に、モスクワでプーチン大統領と会談し、ロシアからスホイ戦闘機24機、軍用ヘリコプター53機などの輸入し、石油国有化でアメリカに反旗を翻した。
ここまで書いて、前号で紹介して資料を思い出していただけば、この戦いの本筋が「ユダヤVSロシア」の闘争であることがわかるだろう。これは、新たな冷戦の幕開けであり、シーパワーVSランドパワー最終戦争の始まりなのだ。今回の停戦は、新たな戦争への準備期間だ。
地政学に則って今後の推移を考察してみる。地政学は「地形が戦略を決める」という立場にたつ。そうであれば、よく似た地形の他の地域の歴史を見れば、今後の展開も展望できるだろう。
この観点から歴史を見て、日本との地形相似を考えると、地中海は瀬戸内海に、黒海は琵琶湖に、イスタンブール(トルコ)は安土に、イスラエルは大阪に相当する。そのように考えると、織田信長が、安土に築城し、大坂の石山本願寺を攻めた理由はまさに、琵琶湖と瀬戸内海を支配するためだ。織田信長の天下統一の野望に最も頑強に抵抗したのは一向宗(浄土真宗)本願寺派の門徒集団であり、その総本山が法主顕如を推戴する石山本願寺であった。元亀元年(1570)から11年に及ぶ長い戦争の結果、天正8年(1580)信長は顕如を本願寺から退去させることに成功したが、堂塔伽藍は全焼し、現在もこの時代の遺構は謎に包まれている。 『信長記』には、「そもそも大坂はおよそ日本一の境地なり」に始まる有名な一節があり、大坂の優れた地勢について詳しく述べられている。信長は本能寺の変に倒れたが、この地に築城を期しており、このことは、後継者の秀吉によって大坂城築城として実現される。
アメリカの戦略もまさにこれと同じで、トルコとイスラエルを使って黒海と地中海を押さえ、ランドパワーの海洋進出を防いだのだ。言い方を変えると、トルコとイスラエルは戦略地政学の観点からは一体として考えられ、ボスポラス海峡の海上封鎖と東地中海の制海権維持のためには、両国が必要だ。両国はこのような観点から、アメリカの対ランドパワー封じ込め戦略の「最前線」だ。逆に言えば、ランドパワーとしては、この両国のいずれかを押さえると、地中海への進出が可能になり、欧州を地中海から牽制できることになる。これは、まさに欧州にとっても最悪のシナリオだ。
日本史を例に取ると、織田信長が大坂の石山本願寺を滅ぼした後、瀬戸内海の制海権をかけて、山陽道の覇者毛利氏を打倒しようとしたことと同じだ。
このように考えると、イスラエルが今回の戦争で敗北したという事実は、大坂冬の陣の結果、外堀と内堀が埋められた状況に等しい。後はいつ「大坂夏の陣」があるかだ。
蛇足だが、江戸幕府は江戸時代を通じて、琵琶湖南岸の彦根と大坂を直轄地にした。織田信長がそうしたように、この地域を支配する勢力が日本を支配することを知っていたからだ。世界史も同じだ。イスタンブールとイスラエル(エルサレム)を支配する勢力は世界を支配する。かってのオスマントルコがそうであったように。
孫子の九地編によると、このような地は、交通の便が良く、こちらも容易く行くことができるが、敵もまた容易く来れるような所を「交地」であり、先にそこを捕れば天下の民衆の心を掴めるというのが、「衝地」であるという。つまり、これらの地はランドパワーとシーパワーの交差点である、戦略上の要衝だ。
<参考>
http://www.city.kashiwara.osaka.jp/kankou/tamate-natu.htm
1 総 説
慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌・慶長20年(1615)の夏の陣と、2度にわたって豊臣氏と徳川氏の最終決戦が行われた。ここ玉手山は、夏の陣の戦端が開かれた地であり、豊臣方の先陣・後藤又兵衛基次が、徳川方の大軍を迎え撃って討ち死にした地でもある。
戦いは、要衝「小松山」の争奪をめぐって行われた。小松山とは、現在、市立老人福祉センター「やすらぎの園」が建っているあたりで、市立玉手山公園を始め、片山から玉手、円明にかけての一帯が戦場となった。
玉手山公園内など、付近一帯には、又兵衛基次の碑を始めとして、両軍戦死者供養塔や戦跡碑、徳川方の武将の墓などが残されている。
2 大坂冬の陣への序曲
慶長3年(1598)、太閤・豊臣秀吉、没。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長8年(1603)に征夷大将軍の宣下を受け、天下の実権をほぼ手中におさめた。他方、秀吉の遺児、豊臣秀頼は、関ヶ原の戦いの後、摂河泉(現在の大阪府の全域と兵庫県の一部)65万7千石の一大名に転落した。
しかし、天下の名城・大坂城にあって莫大な金銀を貯える秀頼は、家康にとって、依然、あなどりがたい存在であった。そこで、家康は、豊臣家の財力を失わせるため、故太閤秀吉の菩提をとむらうためなどと称し、秀頼に対して、さかんに寺社の造営・修復を勧めた。その中の一つが京都東山・方広寺大仏殿の再建工事である。

当時、秀頼が造営・修復した寺社など方広寺大仏殿、誉田八幡宮、四天王寺、東寺金堂、石清水八幡宮、生国魂神社、勝尾寺、中山寺、叡福寺太子堂、観心寺金堂、常光寺庫裏、宇治橋、鞍馬寺など。

方広寺大仏殿は、慶長17年(1612)に完成。同19年には大仏の鐘も完成したが、家康は、このとき鋳造された鐘銘の中に「国家安康、君臣豊楽」とあるのに、いいがかりをつけ、豊臣氏を挑発した。すなわち、「家康」の名を「国安」で切って家康を呪っている、
「君臣豊楽」とは、豊臣を主君として楽しむの意味だ、というわけである。
この一件の弁明のため、片桐且元が家康のもとに向かったが、この且元が豊臣氏から裏切り者の汚名をかぶせられ大坂城から退けられるに至って、ついに両者の戦いは避けられない情勢となった。
かくして、勃発したのが、大坂冬の陣である。

玉手山公園内の又兵桜と又兵衛基次の碑

3 大坂冬の陣の戦闘経過
冬の陣は、主として、篭城戦で戦われた。豊臣方の兵力は約10万、徳川方の兵力は約20万(一説には約30万)といわれる。

慶長19年(1614)10月23日、徳川家康、軍勢を率いて京に入る。
10月26日、藤堂高虎、家康の命を受け、河内国府に本陣をおく。
11月3日、高虎、枚方方面から南下した松平忠明らと呼応、平野口から住吉に進撃。
11月5日、豊臣方の薄田兼相、平野口に出撃。徳川方の来襲をきき、急ぎ大坂城に入る。
11月6日、高虎、浅野長晟、住吉に布陣。松平忠継、有馬豊氏、中島に布陣。加藤明成、神崎から北中島に進撃。
11月15日、家康、二条城を進発、奈良に至る。徳川秀忠(将軍、家康の嫡男)、伏見から枚方に到着。
11月17日、家康、住吉に布陣。秀忠、平野口に至る。
11月19日、秀忠、住吉の家康本陣に到着。軍議の後、攻城の準備を終える。
11月25日、家康、大坂城の堀の水をからすため、淀川に春日井堤を築くべく、伊奈忠政に工事の監督を命じる。
佐竹義宣、上杉景勝、豊臣方の鴫野、今福の砦を占領。
野田、福島も徳川方の手に落ちる。家康、このころから和議交渉を始める。
11月29日、徳川方の蜂須賀至鎮、石川忠総ら、阿波座、土佐座を攻略。
12月2日、家康、茶臼山に本陣を進める。以後、大坂城の攻防が続く。
12月16日~19日、家康、約300門の大砲で大坂城を砲撃させる。
12月22日、和議成立。
4 大坂夏の陣の勃発
和議の条件として、徳川家康、秀忠から豊臣氏に、次の5カ条の誓紙が出された。
1大坂城に篭城した浪人達の罪は問わない。
2秀頼の知行は、以前のとおりとする。
3淀君(秀頼の母)は、江戸に下る必要はない。
4秀頼が大坂を立ち退くというなら、どこへ行こうと望みしだいである。
5家康、秀忠は、秀頼に対して、いささかも不信行為はしない。
そして、和議の条件として、大坂城の外堀と内堀は埋め立てられ、二の丸と三の丸も破壊されて、大坂城は本丸だけの「はだか城」とされた。しかし、和議は、豊臣氏に味方した、立身出世や仕官を望む浪人達にとっては失業を意味した。このため、大坂城内では、しだいに再戦を望む声が高まって行き、埋め立てられた堀の復旧工事などが開始された。
これを知った家康は、先の誓紙をひるがえし、豊臣氏に対して、「城中の浪人をすべて追放するか、豊臣氏は大坂城を出て伊勢か大和へ移れ」との要求をつきつけた。
ここに至って豊臣氏の怒りは爆発、ついに再戦が決せられた。夏の陣の勃発である。しかし、本丸だけの「はだか城」では、冬の陣のときのように篭城戦法に頼るわけにはいかない。そこで、豊臣氏は、徳川氏に野戦を挑むこととした。
5 大坂夏の陣の戦闘経過
夏の陣の主戦場は、河内であった。豊臣方約5万、徳川方約15万5千といわれる。
慶長20年(1615)4月28日、豊臣方の大野治房ら、泉南の樫井で徳川方の浅野長晟らと合戦。豊臣方の塙団右衛門、討ち死に。豊臣方は、治房の報告により、徳川方が、河内街道からだけでなく奈良街道からも進撃して来ることを知る。
5月1日、豊臣方の後藤基次、薄田兼相ら平野に出陣。真田幸村ら天王寺に布陣。
5月5日、家康、京を進発。秀忠、伏見を進発。徳川方の先陣・藤堂高虎、河内千塚に布陣。井伊直孝、楽音寺に布陣。水野勝成、河内国分に布陣。徳川方の本多忠政、松平忠明、伊達政宗らの諸隊も河内に到着。伊達隊の先鋒・片倉重綱、片山に布陣。
5月6日、後藤基次、小松山で徳川方の諸隊と激突して、討ち死に。小松山の戦い。薄田兼相、道明寺河原の戦いで討ち死に。豊臣方の残兵、藤井寺・誉田森へ退却。豊臣方の木村重成、佐久間忠頼らの諸将、八尾・若江で相次いで討ち死に。豊臣方の真田幸村、毛利勝久ら大坂城に退却。
5月7日、真田幸村、家康の本陣に突入して討ち死に。徳川方も本多忠朝、小笠原秀政ら討ち死に。
5月8日、大坂城落城。秀頼、淀君らは自害。豊臣氏、滅亡。一説によると、毛利勝永が秀頼の介錯をつとめ、その後に自害したという。
5月8日、天晴 巳刻に至り大坂城落つ、秀頼公、同御袋、そのほか女中20人ばかり自害の由也、打ち死にの衆2万ばかりの由也、(中略) その夜、もってのほか雨降る。(梵舜日 6 両軍の作戦
徳川方は、紀伊方面からの部隊のほか、本隊と別働隊の2隊に分かれて大坂城を目指した。家康、秀忠以下約12万の本隊は生駒山麓西側の高野街道を進む河内路を、伊達政宗ら約3万5千の別働隊は奈良・法隆寺方面から河内に入る大和路をとった。
道明寺方面で合流し、その後に平野、住吉方面から大坂城に攻め上ろうとの作戦である。
これを知った豊臣方では、徳川方が合流する前に機先を制して各個撃破する、との方針を立てた。木村長門守重成(約4千7百)と長宗我部宮内少輔盛親(約5千)が高野街道を南下する徳川方本隊を八尾・若江で側面から攻撃し、後藤又兵衛基次(約2千8百)、薄田隼人正兼相(約4百)、真田左衛門尉幸村(約3千)、毛利勝永(約3千)らは、国分の狭路を通って河内に入って来ようとする別働隊を迎え撃とうというのである。
大坂城に守備兵力のほか約1万の予備兵力を配置し、八尾、国分、紀伊の3方面で徳川方を迎え撃つ。勝機のつかめそうな方面に予備兵力を投入して徳川方に打撃を与え、兵力差をできるだけ縮めて後、全兵力を大坂城に戻して態勢を整え最終決戦にのぞむ、というのが、豊臣方の戦略であった。
しかし、豊臣方の動きは、忍者からの報告などにより徳川方に筒抜けであったのに対し、豊臣方では今ひとつ情報収集力に欠けるところがあった。そのうえ、諸隊の動きが統一性を欠くなど、いくつかの問題点をかかえていた。
7 小松山の戦い(国分・道明寺の戦い)
5月1日、後藤又兵衛基次、薄田隼人正兼相ら平野に到着。真田幸村、毛利勝永ら天王寺に布陣。
5月5日、幸村らは、基次と会合、6日を期して道明寺で合流し、国分において徳川方を迎え撃つことを約した。
同日夜、基次は、約2千8百の軍勢を率いて平野を進発。奈良街道を東進し、6日未明、藤井寺に到着した。しかし、濃霧のため、他の諸隊は、予定どおり到着できなかった。しかも、基次ら豊臣方の動きは、すでに徳川方の知るところであったという。
このため、基次は単独で道明寺に進出したが、このときすでに徳川方は国分に入ってしまっていた。そこで、基次は、後続の諸隊を待つことなく、先鋒の山田外記、古沢満興に命じて、石川を渡り、当初の作戦どおり、小松山を占領させた。
山田外記の旗幟が山上に立ったのを見た基次は、急ぎ本隊を小松山に登らせた。
午前4時ごろ、後藤隊の先頭は、山を下って徳川方の諸隊と激突、攻め登って来る徳川方とのあいだで、小松山の争奪をめぐって激しい戦闘が繰り広げられた。しかし、徳川方は、水野勝成隊(約3千8百)、本多忠政隊(約5千)、松平忠明隊(約3千8百)、伊達政宗隊(約1万)の合計2万3千もの兵力。初めは優勢だった後藤隊も衆寡敵せず、しだいに圧倒されて三方から包囲された形になり、基次は討ち死に、後藤隊も壊滅してしまった。時に6日午前10時ごろ、激闘実に6時間であった。
基次の討ち死にの原因は、「矢きずを負って」とも「鉄砲に胸を撃たれて」ともいわれている。負傷した後に自害した。吉村武右衛門が介錯したという。
徳川方でも奥田三郎右衛門忠次、山田十郎兵衛らが討ち死にしている。
「軍兵大勢討死。大坂方は猶もって大勢打死。この三村(円明村、玉手村、片山村)の地、あき間もなきほど死体ありける」(河内鑑名所記、延宝7年・1679著者は柏原の人、三田浄久)薄田兼相、明石掃部、真田幸村、毛利勝永らの諸隊は、基次討ち死にの後、道明寺に到着。薄田隊は、総くずれとなって、兼相は討ち死に。明石隊は、徳川方の攻撃を防ぎつつ後退。毛利隊は、敗走して来た将兵を収容して撤退。真田隊は、味方諸隊の撤退援護のため誉田村に前進、伊達隊の攻撃を撃退し敗走させたものの、八尾・若江方面の戦いで木村隊が壊滅したとの報告を受け、大坂城へ撤退した。
八尾・若江方面の戦いでの木村重成の討ち死にと木村隊、長宗我部隊の壊滅は、6日昼すぎのことであった。濃霧の中での遭遇戦で、徳川方の藤堂高虎、井伊直孝らの隊も大きな損害を出した。

現在、玉手山公園内に「後藤又兵衛基次の碑」、「吉村武右衛門の碑」、「両軍戦死者供養塔」、「後藤又兵衛しだれ桜」(平成12年2月植樹)が、周辺には「大坂夏の陣古戦場碑」、「後藤又兵衛奮戦の地碑」、「奥田三郎右衛門の墓」、「山田十郎兵衛の墓」などがある。
8 後藤又兵衛基次 略伝
後藤又兵衛基次は、播磨の別所氏の家臣・後藤基国の次男として、永禄3年(1560)に生まれたといわれる。黒田長政に仕え、筑前大隈城主として1万6千石を領したが、謀反の疑いを受け、浪人となった。慶長19年(1614)の大坂冬の陣のとき、豊臣秀頼の招きで豊臣方に味方して大坂城に篭城。翌年の大坂夏の陣でも豊臣方に味方して、玉手山で討ち死にした。
大坂の陣の当時、基次は、真田幸村、長宗我部盛親、毛利勝久、明石掃部とともに豊臣方の5人衆と呼ばれた。
平成12年(2000)2月、又兵衛基次を記念して、基次が花と散った玉手山の地、市立玉手山公園内の基次の碑の横に「後藤又兵衛しだれ桜」が、市民からの寄付により植樹された。

備 考
「大阪」と表記されるようになったのは明治以降。それ以前は「大坂」と表記されていた。大坂夏の陣が終わった直後の7月13日に「元和」と改元(年号が変わる)された。