世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL117

今回は、中東情勢の今後を、地政学の観点から検討してみたい。まず、地政学の目的は、地理上のピボタルポイント(転換点)と、それを繋ぐフォールトライン(断層線)を探すことだ。
ピボタルポイントとは、そこを押さえると、全体を支配できる、オセロゲームのコーナーのような土地であり、煎じ詰めて言えば、過去の世界史や日本史上の支配者は、全てこのピボタルポイント(転換点)と、それを繋ぐフォールトライン(断層線)を支配することに注力していたと言える。ピボタルポイント(転換点)と、それを繋ぐフォールトライン(断層線)の支配に成功すれば、他の地域の支配には、重要な意味がなく、用意にひっくり返される。例えば、日本史のピボタルポイント(転換点)と、それを繋ぐフォールトライン(断層線)は、間違いなく、関が原と大坂であり、両者を繋ぐ線だ。この線上の地域を支配すれば、他の地域の支配権がどのようになっていようと、体勢に影響ない。つまり、他の地域の支配者はピボタルポイント(転換点)と、それを繋ぐフォールトライン(断層線)を支配した勢力に従う。
例えば、戦国時代において、最強といわれる、武田氏や上杉氏は川中島合戦で疲弊し、結局は関が原以西を制圧できなかったため、天下を取れなかった。反対に、織田信長は桶狭間で今川義元を破った後、今川領の駿河や遠州を攻略をするわけではなく、岐阜、近江、京都の支配に全力を傾け、天下を掌握した。1600年、徳川家康が関が原の合戦に勝利した際、西軍所属の会津上杉は、周辺国を圧倒していたが、結局は降伏した。明治維新に際して、薩長と徳川は、鳥羽伏見で決戦を行い、その結果徳川が敗れたため、結果として幕府は崩壊した。
世界史のピボタルポイント(転換点)はエルサレムとイスタンブールであり、フォールトライン(断層線)はその両都市を繋ぐ線だ。
紀元前のアレクサンダーのマケドニア、帝政期のローマ、西欧の十字軍、オスマントルコ等の世界の支配者は、常にこの地域を支配し、あるいは支配しようとしていた。
例えば、ローマ帝国はAD70年にエルサレムを陥落させユダヤを属州とし、AD117年には地中海の南北沿岸全域と中近東、西ヨーロッパ、イギリスまで版図が広がっていった。
 AD330年にはコンスタンティヌス1世が首都をローマからコンスタンチンノーブル(現在のイスタンブール)に遷都するが、これは、中近東や東ヨーロッパからの異民族の侵入を防衛するためであると同時に、海軍力に保護されて海上交易を続け、コンスタンチンノーブルは東西交易の中継地であったからだ。
このように見ていくと、ピボタルポイント(転換点)は陸上交通路と海上交通路の交差点であり、フォールトライン(断層線)はランドパワーとシーパワーの勢力の接点となることに気がつく。1600年、日本史において、東西両軍が対峙、戦闘した関が原盆地は盆地を東西に中仙道が横切り、伊勢街道と北陸道が交差する、陸上交通の要所であると同時に、海上交通の要衝琵琶湖や東西の大動脈である東海道にも近い、まさに、日本における陸上交通路と海上交通路の交差点だ。織田信長や徳川家康がこの地から瀬戸内海上交通の要衝である大坂を支配することを目指した点こそが、戦略の根幹だ。
イスタンブールもまさに、これと同じで、東洋と西洋の接点であると同時に、黒海と地中海を繋ぐ海上交通の要衝であり、イスラエルはシルクロードの始点であると同時に地中海とインド洋を繋ぐ、海上交通の要衝でもある。そして、両者を繋ぐ線を考えれば、この線を支配する勢力が、ユーラシアの東西間の陸上交通、海上交通を支配し、世界を支配することが分かる。
<参考>
http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/koekisi2/page003.html
「古代イスラエル・ユダ複合王国の建設者ダビデの子である、ソロモン王(在位前961-22)が、テュロス(現レバノンのスール)の王ヒラム(在位前996-36)と同盟を結び、食糧とひきかえに木材を受け取ったり、かれらが合同で船団を組んで、紅海交易に携わったことは【1・2・1 ビブロス、ウガリット―古代文明の十字路―】でみた通りである。それにとどまらず、エジプト、メソポタミア、アラビアへと隊商交易と海上交易を繰り広げ、「ソロモンの栄華」を築いたとされる。
それに当たりシリア砂漠のオアシスに隊商都市パルミラを建設して、メソポタミアとの交易ルートを開いた。「また、アカバ湾のエジオン・ゲベルとエイラートに海港をひらき、アラビア、アフリカのベレニス(ベンガジ)、さらにインドまで3年がかりで往復し、黒檀、チーク材、ゴム、香料などの貿易を行ったといわれている」(長沢和俊著『海のシルクロード』、p.7-8、中公新書、1989)。
 そして、著名なシバの女王との贈答外交(交易)である。シバ(イエメン付近)の女王は「ソロモンの名声を開き、難問をもってソロモンを試そう」と(『旧約聖書』)、多くの金、宝石、香料、象牙をラクダに積み、マリブからペトラ、ヘブロンを経て、3か月の後にエルサレムに着いた。20歳になったばかりの彼女は、ソロモンの気のきいた会話と豪華な宮殿、列座の家来たちに、すっかり感心してしまったという(『列王記』10章)。女王は、王からティルスやシドンの宝石や美しい布、各地
の錫、鉛、真鍮、香料、イスラエルの蜜と油など望むものすべてを与えられて帰ったという。
 アラビア南部にあるシバ王国は、すでに早くからアフリカとメソポタミア、シリア、エジプトなどと広汎な貿易に従事しており、特にアフリカ各地の金、銀、銅、真珠、香料、薬などを中継交易していた。それに割って入るかのように、ソロモンがアカバ湾に港を建設して、紅海貿易の支配に乗り出したため、かなりの脅威となった。そこで、ソロモンに税金を差し出して、海上交易権を維持しようとしたものとみわれる。ロマンチックな訪問にこと寄せれば、イスラエル王国とシバ王国の交易条約が結ばれたといえる。」
このような理解を前提として、戦略の構築に失敗した例をあげると、第二次大戦におけるドイツや日本が代表だ。両国は、世界史にピボタルポイント(転換点)はエルサレムとイスタンブールであることや、フォールトライン(断層線)を全く理解せず、片やモスクワ、片や南京や重慶といった、全く無関係な都市の攻略を行い、結果として疲弊し、敗北した。
両国がこの点を理解し、日本がインド洋、ドイツが中近東を支配することに傾注していたら世界史は大きく違うものとなっていただろう。この点、戦略上の意義がない川中島の攻略を優先したため双方疲弊し、終に天下を取れなかった武田や上杉と通じるものがある。この、第二次大戦における日独の戦略上の失敗については、いずれ、検討してみたい。
さて、ここまでの検討を基にして、イスラエルを取り巻く状況の推移を予測してみる。まず、前回述べたように、戦略地政学の観点から、トルコとイスラエル、トルコとアメリカは軍事同盟を結んでいる。アメリカとイスラエルの間は明文による同盟ではないが、事実上の同盟関係といっていいだろう。世界のピボタルポイント(転換点)はエルサレムとイスタンブールであり、フォールトライン(断層線)は両者を繋ぐ線という理解を前提考えれば、現在、この地を支配しているアメリカは世界を支配していることになる。逆に言えば、イスラムや中ロといったランドパワー陣営は、アメリカ、トルコ、イスラエルの三国同盟を突き崩せば、世界の支配権を奪い返せると踏むだろうことは想像に難くない。具体的には、トルコの離間策だ。そのために、現在、トルコでテロが起きている。
<参考>
http://news.goo.ne.jp/news/kyodo/kokusai/20060828/20060828a3140.html
トルコで爆発、27人負傷 観光客狙ったテロか
2006年 8月28日 (月) 13:25

 【カイロ28日共同】トルコからの報道によると、同国南西部のリゾート、マルマリスなどで27日深夜から28日未明にかけて爆弾の爆発が4回あり、観光客の英国人10人を含む少なくとも27人が負傷した。外国人観光客らを狙ったテロの可能性がある。

ロイター通信によると、警察当局者はマルマリスの爆発について、独立を求めるクルド人武装勢力「クルド労働者党」(PKK)の犯行の疑いがあると述べた。在イスタンブール日本総領事館によると、日本人が巻き込まれたとの情報はない。

爆発はマルマリスで28日未明、約15分の間に3回発生。ミニバスで起きた爆発で乗客16人、2発の音響爆弾で5人がけがを負った。負傷者は英国人10人のほか、トルコ人11人。」
思い出していただきたい。イラク戦争にスペインが派兵していた2004年3月11日午前7時30分(日本時間午後3時30分)頃、スペインの首都マドリード中心部の三つの駅で四つの列車が10分の間に次々と爆弾が破裂、車両は大破した。通勤通学客でのラッシュ時間を狙った卑劣なテロで、これまでに200人の死亡が確認され、約1500人が重軽傷を負った。結果として、選挙でアスナール政権は退陣し、スペインはイラクから撤退した。トルコに対する攻撃も同じ意味をもち、アメリカ、イスラエル連合からトルコを離反させるため、テロは続くであろう。反面、日本の首相もトルコを訪問し、てこ入れを実施している。結果として、原理主義が台頭することもありえる。トルコを巡る綱引きは激しさを増しながら、続くだろう。
<参考>
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/turkey_06/seika.html
「小泉総理のトルコ訪問(1月9-13日)(ねらいと成果)
平成18年1月12日
1.ねらい
(1)トルコは親日国
(イ)トルコは有数の親日国。両国間の一世紀以上の友好関係は、我が国の重要な資産。
(ロ)115年間で現職総理として2人目のトルコ訪問。両国間の首脳の訪問はトルコが6回(エルドアン首相は、2004年に訪日)、日本が1回(1990年の海部総理)で、日本側の一方的「入超」。今次訪問は、トルコ側の熱意に応え、我が国のトルコ重視の姿勢を示す意義がある。
(2)トルコは戦略的要衝
(イ)トルコは欧州、中東、アジアを結ぶ戦略的要衝。国民のほとんどがイスラム教徒であるが、政教分離、民主主義を原則に安定した政権運営。EU加盟に向けた改革を積極的に推進。また、国際的なテロとの闘いに積極的に貢献。我が国は、トルコの戦略的重要性に鑑み、ボスポラス第2架橋(616億円、1988年開通)や海峡横断地下鉄(1112億円、2011年の開通を目指し工事中)等の大型円借款を実施しトルコを積極的に支援。
(ロ)中東地域の平和と安定は、日・トルコ両国の共通利益。トルコはイラク、イラン、シリアの隣国であって中東情勢に精通。イスラエル、パレスチナ双方とも良好な関係を有し、中東和平問題の解決を支援。 」
このように、戦略地政学の観点から、ピボタルポイント(転換点)と、それを繋ぐフォールトライン(断層線)を発見することができれば、自ずと戦略は固まってくるし、支配地域の取捨選択もできる。米軍が韓国から撤退し、韓国を切り捨てるのも、韓国がピボタルポイントではないからだし、日本を重視するのは、日本の基地が、米海軍の中東への投射能力を担保するために必要だからだ。
言い方を変えると、アメリカの世界戦略上の最優先地域は言うまでもなく、中近東であり、それは、この地域の支配が世界の支配に直結するからだ。
まさに、中東は、現在の関が原だ。日本史の関が原において、上述したように、東北戦線の会津上杉は局地戦において周辺国を圧倒していたが、関が原の戦いで家康が勝ち、即座に降伏したことを忘れてはいけない。日本が単独で中国やロシアを封じ込めたとしても、エネルギーの供給源でもある中東がランドパワーによって制圧されれば、日本にとって最悪の結果になるだろう。そのぐらい、中東の帰趨、トルコやイスラエルを巡る情勢は重要だ。
蛇足だが、『旧約聖書』を一読すれば、「メギドの丘」が『旧約聖書』に幾度となく登場していることに気付くだろう。この「メギドの丘」は、モーセの後継者ヨシュアが、約束の地カナンへの侵攻の際、カナン人の王に対し決定的な勝利を収めた舞台であり、イスラエルの黄金時代を担ったソロモン王が、馬と戦車を多量に集めた要塞の地であり、宗教改革で有名なヨシヤ王が、エジプト王ネコの進撃を阻止すべく戦い、戦死した場所であり、預言者たちが異教の祭壇のある「忌まわしき高き所」と呼んだ場所である。
 つまり「メギドの丘」は、古来から軍事的な戦略拠点として、戦火が絶えることがなかった場所なのである。
そして、この「メギドの丘」に決定的な終末的イメージを付け加えるのに貢献したのは、『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」である。ヨハネが世の終わりに「メギドの丘」にて神と悪魔による終末的大決戦が行われる場面を幻視したというのだ。
「3つの霊は、ヘブル語でハルマゲドンという所に、王たちを招集した。(中略) すると、稲妻と、もろもろの声と雷鳴とが起こり、また激しい地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな地震であった。また、あの大きな都は3つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。(中略) 1タラントほどの大きなひょうが人々の上に天から降ってきた・・・」(「ヨハネの黙示録」第16章)
現在、「メギドの丘」はイスラエル共和国のエズレル平原にある小高い山となった“要塞跡”として残されている。そして、そこに立てられた看板にはこう書かれている。
「ここはハルマゲドン。クリスチャンの伝承によれば、ここで世界最後の戦争が行われると言われている・・・」
日本史においても、7世紀、古代史最大の内乱の壬申の乱や1600年の天下分け目の合戦がともに関が原で戦われたことは偶然ではない。最終戦争が起きる場所はそういった地政学的な条件を満たす地域だ。孫子の言う、「衢地(諸侯の国々が四方につづいていて、先きにそこにゆきつけば天下の民衆も得られるというのが」がそうだろう。孫子は、「衢地ならば自分は同盟を固めようとする。」と述べている。現在起きているのは、このような同盟関係の構築による、世界のランドパワーとシーパワーへの二分化だ。まさに、中東は世界史の決戦正面だ。
<参考>
孫子九地篇
http://members.at.infoseek.co.jp/VERTICAL/bessou/heihou.html#九地篇
孫子はいう。戦争に際しては、散地(軍の逃げ散る土地)があり、軽地(軍の浮きたつ土地)があり、争地(敵と奪いあう土地)があり、交地(往来の便利な土地)があり、衢地(四通八達の中心地)があり、重地(重要な土地)があり、ヒ地(軍を進めにくい土地)があり、囲地(囲まれた土地)があり、死地(死すべき土地)がある。
諸侯が自分の国土の中で戦うというのが散地である。
敵の土地に入ってまだ遠くないというのが軽地である。
身方が取ったら身方に有利、敵が取ったら敵に有利というのが、争地である。
こちらが往けるし、あちらも来れるというのが、交地である。
諸侯の国々が四方につづいていて、先きにそこにゆきつけば天下の民衆も得られるというのが、衢地である。
敵の土地に深く入りこんですでに敵の城や村をたくさん通り過ぎているというのが、重地である。
山林やけわしい地形や沼沢地など、およそ軍をおし進めるのにむつかしい道のありさまなのが、ヒ地である。
通って入っていく道はせまく、ひきかえして戻る道はまがりくねって遠く、敵が小勢でわが大軍を攻撃できるというのが、囲地である。
力かぎり戦えば免れるが、力かぎり戦わなければ滅亡するというのが、死地である。
こういうわけで、散地ならば戦ってはならず、軽地ならばぐずぐずしてはならず、争地ならば攻撃してはならず、交地ならば軍隊を切り離してはならず、衢地ならば諸侯たちと外交を結び、重地ならば掠奪し、ヒ地ならば通り過ぎ、囲地ならば奇謀をめぐらし、死地ならば激戦すべきである。
むかしの戦争の上手な人は、敵軍に前軍と後軍との連絡ができないようにさせ、大部隊と小部隊とが助けあえないようにさせ、身分の高い者と低い者とが互いに救いあわず、上下の者が互いに助けあわないようにさせ、兵士たちが離散して集合せず、集合しても整わないようにさせた。
身方に有利な情況になれば行動を起こし、有利にならなければまたの機会を待ったのである。
おたずねしたいが、敵が秩序たった大軍でこちらを攻めようとしているときには、どのようにしてそれに対処したらよかろうか。
答え。あいてに先きんじて敵の大切にしているものを奪取すれば、敵はこちらの思いどおりになるであろう。
戦争の実情は迅速が第一。
敵の準備中を利用して思いがけない方法を使い、敵の備えのない所を攻撃することである。
およそ敵国に進撃したばあいのやり方としては、深くその国内に入れば身方は団結し、あいては抵抗もできず、それで物資の豊かな地方を掠奪すれば軍隊の食糧も十分になる。
そこでよく兵士たちを保養して疲れさせないようにし、士気を高め戦力をたくわえ、軍を動かして謀慮をめぐらし、はかり知れないようにして、軍をどこへも行ぎ場のない情況の中に投入すれば、死んでも敗走することがない。
士卒ともに力いっぱいに戦うからには、どうして勝利の得られないことがあろうか。
兵士はあまりにも危険な立場におちこんだ時にはそれを恐れず、行き場がなくなった時には心も固まり、深く入りこんだ時には団結し、戦わないではおれなくなった時には戦う。
だから、そういう軍隊は整えなくともよく戒慎し、求めなくとも力戦し、拘束せずとも親しみあい、法令を定めなくとも誠実である。
あやしげな占いごとを禁止して疑惑のないようにすれば、死ぬまで心を外に移すことがない。
わが兵士たちに余った財物が無くするのは物資を嫌ってそうするのではない。
残った生命を投げ出すのは長生きを嫌ってそうするのではない。
決戦の命令が発せられた日には、士卒の坐っている者は涙で襟をうるおし、横に臥っている者は涙で顔じゅうをぬらすが、こういう士卒をほかに行き場のない情況の中に投入すれば、みな専諸や曹カイのように勇敢になるのである。
そこで、戦争の上手な人は、たとえば率然のようなものである。
率然というのは常山にいる蛇のことである。
その頭を撃つと尾が助けに来るし、その尾を撃つと頭が助けに来るし、その腹を攻撃すると頭と尾とで一しょにかかって来る。
「おたずねしたいが、軍隊はこの率然のようにならせることができるか。」というなら「できる。」と答える。
そもそも呉の国の人と越の国の人とは互いに憎みあう仲であるが、それでも一しょに同じ舟に乗って川を渡り、途中で大風にあったばあいには、彼らは左手と右手との関係のように密接に助けあうものである。
こういうわけで、馬を繋ぎとめ車輪を土に埋めてみても決して十分に頼りになるものではない。
軍隊をひとしく勇敢に整えるのは、その治め方によることである。
剛強な者も柔弱な者もひとしく十分の働きをするのは、土地の道理によることである。
だから、戦争の上手な人が、軍隊をまるで手をつないでいるかのように一体にすなわち率然のようにならせるのは、兵士たちを戦うほかにどうしようもないようせるからである。
 
将軍たる者の仕事はもの静かで奥深く、正大でよく整っている。
士卒の耳目をうまくくらまして軍の計画を知らせないようにし、そのしわざをさまざまに変えその策謀を更新して人々に気づかれないようにし、その駐屯地を転転と変えその行路を迂廻してとって人々に推しはかられないようにする。
軍隊を統率して任務を与えるときには、高い所へ登らせてからその梯をとり去るようにし、深く外国の土地に入りこんで決戦を起こすときには、羊の群れを追いやるようにする。
追いやられてあちこちと往来するが、どこに向かっているかはだれにも分からない。
全軍の大部隊を集めてそのすベてを危険な土地に投入する、それが将軍たる者の仕事である。
九とおりの土地の形勢に応じた変化、情況によって軍を屈伸させることの利害、そして人情の自然な道理については、十分に考えなければならない。
およそ敵国に進撃したばあいのやり方としては、深く入りこめば団結するが浅ければ逃げ散るものである。
本国を去り国境を越えて軍を進めた所は絶地である。
四方に通ずる中心地が衢地であり、深く侵入した所が重地であり、少し入っただけの所が軽地であり、背後がけわしくて前方がせまいのが囲地であり、行き場のないのが死地である。
こういうわけで、散地ならば自分は兵士たちの心を統一しようとする。
軽地ならば自分は軍隊を連続させようとする。
争地ならば自分は後れている部隊を急がせようとする。
交地ならば自分は守備を厳重にしようとする。
衢地ならば自分は同盟を固めようとする。
重地ならば自分は軍の食糧を絶やさないようにする。
ヒ地ならば早く行き過ぎようとする。
囲地ならば自分はその逃げ道をふさごうとする。
死地ならば自分は軍隊にとても生きのびられないことを認識させようとする。
そこで、兵士たちの心としては、固まれたなら抵抗するし、戦わないではおれなくなれば激闘するし、あまりにも危険であれば従順になる。
 
そこで、諸侯たちの腹のうちが分からないのでは、前もって同盟することはできず、山林やけわしい地形や沼沢地などの地形が分からないのでは、軍隊を進めることはできず、その土地の案内役を使えないのでは、地形の利益を収めることはできない。
これら三つのことは、その一つでも知らないのでは、覇王の軍ではない。
そもそも覇王の軍は、もし大国を討伐すればその大国の大部隊も集合することができず、もし威勢が敵国を蔽えばその敵国は他国と同盟することができない。
こういうわけで、天下の国々との同盟を務めることをせず、また天下の権力を積みあげることもしないでも、自分の思いどおり勝手にふるまっていて威勢は敵国を蔽っていく。
だから敵の城も落とせるし、敵の国も破れるのである。
ふつうのきまりを越えた重賞を施し、ふつうの定めにこだわらない禁令を掲げるなら、全軍の大部隊を働かせることもただの一人を使うようなものである。
軍隊を働かせるのは任務を与えるだけにして、その理由を説明してはならず、軍隊を働かせるのは有利なことだけを知らせて、その害になることを告げてはならない。
軍隊を滅亡すべき情況に投げ入れてこそ始めて滅亡を免れ、死すべき情況におとしいれてこそ始めて生きのびるのである。
そもそも兵士たちは、そうした危難に落ちいってこそ、始めて勝敗を自由にすることができるものである。
 
そこで、戦争を行なううえでの大切な事は敵の心を十分に把握することである。
身方が一致して敵に当たり、遠く敵地に入りこんでその将軍をうちとる、それを巧妙にうまく戦争を成しとげた者というのである。
こういうわけで、いよいよ開戦となったときには、敵国との関門を封鎖し旅券を廃止して使節の往来を止めてしまい、朝廷・宗廟の堂上で厳粛にしてその軍事をはかり求める。
そして、もし敵の方に動揺したすきが見えれば必らず迅速に侵入し、敵の大切にしているところを第一の攻撃目標としてひそかにそれと心に定め、だまったまま敵情に応じて行動しながら、ついに一戦して勝敗を決するのである。
こういうわけで、はじめには少女のようにしていると敵の国では油断してすきを見せ、後には脱走する兎のようにすると敵の方では防ぐこともできないのである。
以上

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戦国期、初めて京都に入洛した織田信長が副将軍や管領の職、または所領を与えようと言われました。それを彼は断りました。
そして、「堺、大津、草津」の3ヶ所に代官を置くことを望みました。
例え関ヶ原で敗れても琵琶湖の水運を使えば包囲陣形を形成することが可能だからでしょう。
その為には琵琶湖に大きな船団を配置する必要があります。
大阪と関ヶ原を押さえるにはその周囲を取り囲むように機動情報拠点を配置すれば理想的となります。

副将軍や管領の職、または所領を断り「堺、大津、草津」の3ヶ所に代官を置き、冥加金を取る。これこそがシーパワーです。第一次産業を捨て第三次産業を柱とし、土地ではなく水運を支配する。この策を現代に置き換えたらどうなるかを思案してます。

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