世界史に見られるランドパワーとシーパワーの戦略VOL122

今回は、最近起きた日本のエネルギー政策についての、大失敗について検討するとともに、あるべきエネルギー戦略について考えてみる。大失敗とは、いうまでもなくサハリン1、2及びアザデガンだ。サハリン1は米エクソンモービルが主導する資源開発プロジェクトであり、サハリン2は、サハリン北東部沖大規模プロジェクトであり、ロイヤルダッチシェル・三井物産・三菱商事が出資するサハリンエナジー社が事業主体となっている。
サハリン1及びサハリン2の開発プロジェクトは、不安定さを増す中東諸国への原油輸入依存率が90%を超える日本にとって、安定的なエネルギー資源輸入先の確保や多様化を進める上でとても重要な意味合いを持つプロジェクトであった。
 それだけに、これまで三井物産や三菱商事は年間1,600万トン近いLNG(液化天然ガス)を輸入している東京電力や東京ガス、といった大量のエネルギーを消費している大口顧客との契約を取り付けることにより、プロジェクトに伴う採算を考慮した上で開発を進めて来た。
 今回のロシア政府による業務停止命令は、国営企業であるガスプロム社の参入を図るための手段であり、特にこの原油価格が高騰して売り手市場となっている現状下では欧米メジャーに負けずとも劣らない国営の石油企業創設を願うロシア政府にとっては、資源国有化は悲願だ。
この問題の根本は何であろうか。サハリン2にはロシア企業は参加していない。そして、この事業はロシアで初めて生産分与契約(PSA)を取り入れたものだ。PSAというのは、開発を請け負った企業が開発費用のすべてを負担し、生産が始まったら優先的に、石油やガスなどの売却代金から開発費用を回収する仕組みだ。回収が終わってから、利潤を一定の割合で産出国と分配する。税金も少なくて済み、開発企業にメリットがある。

 PSAを結んだ頃のロシアは、ソ連崩壊後の経済混乱の真っただ中で、エネルギー価格も安かった。それにロシアは海底の油田・ガス田開発の技術が無い。外資は巨額の先行投資が必要な資源開発をロシアで行うことに躊躇していたから、このくらいのいい条件を出さないと乗って来なかったといえる。現在は状況がまったく変わって、エネルギー価格は高騰している。PSAについてロシアでは「不平等条約だ」という不満が高まっている。
これは、例えば、日本における江戸時代の末期に植民地を世界中に拡大していた西欧諸国の、日本開国の要求の中で、徳川幕府が1958年にアメリカのペリー提督の求めに応じて鎖国から開国へ政策転換をしてから、10年にして日本の徳川幕府の体制は崩壊し、明治政府が成立した。
 明治政府は西洋からの事物を導入して近代的国家へ向けての大改革を推進し、幕府が諸外国と結んだ不平等条約の改正へ向けての努力も始めたようなものだ。
 関税権や外国人居留地における裁判管轄権など、独立国として当然持つべき諸権利を回復するためには、近代的国家としての諸制度を築かねばならず、そのためには近代化の大改革が必要だったということだ。
問題は、日本の場合、不平等条約の改正に、40年以上の月日と、法律の整備をはじめとする国内の近代化を達成し、諸外国の合意を得た上で行ったのであり、何よりも、前政権である江戸幕府の結んだ条約について、それを反故とすることなく、誠実に履行していた。

しかし、ロシアの場合、このような姿勢は微塵も見られず、エリツィン時代の条約を一方的に破棄しようとしているということだ。このようなことは、ロシアに限らず、ランドパワーの世界では、極めて一般的かつ、普通のことだ。私がランドパワーと接触すべきではないという最大の理由はここにある。では何故、彼らは、このような不誠実なことを平気で行うのか。それは、彼らの世界観、価値観が、戦国時代のものであり、彼我の関係をパワーバランス、つまり、力関係のみで捉えているからだ。簡単に言うと、ランドパワーは「強いやつのいうことは聞くが、弱いやつのいうことは聞かない」ということにつきる。プーチン大統領は、「日本は軍事力がないから交渉するまでもない」と公言している。裏を返せば、ランドパワーとの交渉には常に、「軍事力の担保」が必要ということだ。日本の諺に「わたる世間に鬼はない」というのがあるが、そのようなことは日本でしか通用せず、国際社会は「渡る世間は鬼ばかり」というのが実態だ。「シーパワーの日本とランドパワーの中国はうまく行かないという類の議論は、対米従属・改憲しかないという結論を導くためイデオロギー的意図を持って行われている。何故おおらかに隣国同士仲良くやろうという発想になれないものか?」などという意見も、日本には多いようだが、脳内お花畑も是に極まれりであり、豆腐の角に頭をぶつけてくれとしか言いようがない。

日本人は、いったい、何回、同じ経験をすれば、このことを理解できるのであろうか。天然の要塞である島国で、元寇時の壱岐、対馬、終戦時の満州やシベリアを除き、外敵の支配を受けずに来た日本人には、このようなランドパワーの精神構造は理解できない。それがために、第二次大戦において、松岡外相が独ソというランドパワーを手玉にとろうとして、逆に裏切られ、三国同盟によって日本の対英、対米関係は悪化 太平洋戦争は不可避となった。松岡は、当初ソ連を入れた4カ国同盟で英米に対抗しようとしたが、独ソ開戦に至ったため、この戦略は、ヒトラーに裏切られた。日中戦争や太平洋戦争自体が、ソビエトのコミンテルンによって操られた日中や日米の指導者が同士討ちさせられ、起きたということを考えても、全ての陰謀は実はモスクワがからんでいる。当時、蒋介石は「安内攘外」、まずは国内の共産党勢力を片付けて国内を安んじ、その後に満洲に打って出て、日本を撃退するという戦略をとっていた。日本は満洲での近代国家建設に邁進しており、当面は中国本土に侵入してくる気配はなかった。一方の中国共産党は、1931年の満洲事変勃発当初、蒋介石から抗日統一戦線の提案があっても「笑止千万」とはねつけるほど、国民政府を敵視していた。

これはソ連にとっては、きわめて都合の悪い状況であった。スターリンは、ナチス・ドイツと満洲の日本軍とによって東西から挟撃される事態を最も恐れていた。日本が中国との戦争に足をつっこんでしまえば、その恐れは遠のく。そのためにも国民政府軍を共産党ではなく、日本との全面戦争に向けさせ、両者を徹底的に消耗させた後、中共軍に天下を取らせ、共産中国を実現する。以後、スターリンは、この戦略を追求していった。スターリン=毛沢東が、日本軍をテロ・スパイ活動を通じて挑発し、蒋介石国民軍と戦わせることによって、漁夫の利を得ようとするものです。国民党と共産党の内戦によって追い詰められている中国共産党が延命するには、日本を挑発するしかないということであり、そうやって、日本を泥沼の日中戦争に引き釣り込み、挙句の果ては共産主義者ルーズベルトを裏で操り、ハルノートを出させたのだ。これが国際共産主義者コミンテルンの戦略だ。全ては、彼らの手の平の上で踊っていたわけだ。

そういった実態を露も知らず、終戦時に日ソ不可侵条約を頼って、ソ連に米英との仲介を頼み、又、裏切られる(1945年8月9日、日ソ 不可侵条約を一方的に破って参戦)という愚を犯した。脳天気もここまでいくと、日本人には国際的な謀略や調略は所詮不可能だとの結論に達せざるをえない。なお、日本は戦後、アメリカの単独支配が行われたため、分断国家の悲劇はなかったが、可能性は十分あった。そうした場合、日本の東半分は東ドイツや北朝鮮のようになっていただろう。スターリンは敗戦直後のボロボロの日本について「米国が支配しておれば30年もあれば完全に復興し再びロシアの脅威になるであろう。しかし、ソ連に任せてくれれば、100年は今のままの状態にしておける。」と語っていたという。

<参考>
b. JOG(263) 尾崎秀實 ~ 日中和平を妨げたソ連の魔手
日本と蒋介石政権が日中戦争で共倒れになれば、ソ・中・日 の「赤い東亜共同体」が実現する!
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h14/jog263.html

c. JOG(441) 中国をスターリンに献上した男
なぜ米国は、やすやすと中国を共産党の手に渡 してしまったのか?
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h18/jog441.html

有史以来、生存のための激烈な異民族との闘争を勝ち抜き、謀略やだまし討ちや裏切りが日常茶飯のランドパワーは、異民族に支配された経験を持たず、純粋無垢な日本人が手玉に取れるほど甘いものではなく、彼ら(ランドパワー)とは接触しないことが最善なのであるが、その教訓を歴史から得ているとは、到底、言い難い。十八史略や孫子を読めば、ランドパワーの戦略は分かるのだが、日本の官僚や政治家は、法学部出身が多く、このような戦略を知らずともなれてしまうところが問題だ。上述のサハリン1,2については、第二十八計上屋抽梯「屋に上げて梯を抽す(おくにあげて、はしごをはずす)」戦略そのものだ。利益があると見せかけて前進するようそそのかし、援軍を断って、死地に追いやる。この計にひっかかるとしたら、引っかかった方が悪い(『易経』噬[口盍]卦)。

青州で宋江大哥花栄哥々が清風山に上った後、慕容知府は秦統制を向かわせた。秦統制の性格を知り尽くした花栄哥々は、ちょこちょこ小策を用いて秦統制をおちょくった。何しろ短気な性格だから、そこまでされると秦統制も見境ない。ただ一騎で山の小道を駈け登ったが、落とし穴に落とされて敢え無く捕まった。この場合、秦統制を盲進させたのは利益ではないが、要は何らかの策を用いて敵を猪突させればいいわけだ。つまり、短気な敵には効果的な策と言えよう。ランドパワーはこの手をよく使う。

イランのアザデガン油田について、日本政府がこの案件から手を引く決断をしたというのは、つまり、アメリカによってイランの現体制は転覆させられると読んだということになる。
体制が変われば現政権との約束は反故になる可能性高いから、 日本資本で開発した油田の利権をアメリカにごっそりもって行かれるのを避けたということだ。 イランが日本側に早い決断を迫っていたのも大規模な投資をさせることで日本がアメリカの攻撃に対する防波堤として働いてくれることを期待してのこと。 国際情勢とは、このような冷徹なリアリズム、パワーバランスにのっかて動いており、パワーバランスの変化を読み誤ると、命取りだ。関が原の合戦に際して、東軍に与するか西軍に与するかで大名の命運は大きく分かれた。今後の国際社会も同じだろう。その意味で、日本の戦国時代と現代の国際社会は大差ない。アメリカの覇権衰退後、世界はまさに、戦国化しており、サハリン、アザデカンはその前兆にすぎない。そのことを日本人、なかんずく政府関係者は肝に銘じるべきだ。そして、今回のロシアの対応につき、日本のマスコミを使い、「ランドパワーは信用できない」というキャンペーンを徹底的に張るべきなのだ。そうすることにより、世論を覚醒していくしかない。
これで、今後の日本の資源戦略は、たった一つしかなくなったいだ。つまり、「脱石油の水素化」を官民挙げて実現することだ。これ以外のエネルギー戦略はありいえないのだから、コストを考えなくてもいいくらいだ。つまり、サハリンやアザデカンの失敗を奇貨として、日本は、全力で水素化を推し進めるべきだし、石油代替エネルギーを実現すべきだ。ランドパワーにエネルギー源を握られるということがどういうことか、今回のことを教訓にしなければならない。今後は、エクソンやロイヤルダッチシェルといった、本来のシーパワーに属する企業も、ロシアに対して、一切の取引を行うべきではなく、水素化のパートナーとしていくべきだ。まさに、世界はエネルギーの観点から、ランドパワー(カーボン)VSシーパワー(アクエリアス)の闘争の時代に入った。
決戦正面はいうまでもなく、中東、インド洋であり、日本を始めとするシーパワー連合はアラビア諸国の水素化による水の供給と砂漠の緑化を一刻も早く実現すべきだ。ここに、シーパワー連合を結成し、アラブ諸国調略の可能性がある。
まさに、海に乗り出し、東南アジア、インド洋を経てインド、アラビア半島に至る海路の「海のシルクロード」と陸のシルクロードの競争だ。かっては、陸のシルクロードは諸国の戦争でしばしば中断を余儀なくされたのに対し、海のシルクロードを遮るものはなかった。
日本はかっての、オイルショックや円高を全て、技術革新や企業努力で乗り切ってきた。そのことが、省エネや省コストの新たな技術を生み、マーケットを生んだように、サハリンやアザデカンの失敗も、同様に、日本人の技術と努力で乗り切っていくしかない。そのための、高い授業料だと思うべきだ。
そして、今回の件で、ロシアに対する日英米EUの見方は、冷戦時代のソ連と同じになったであろう。これは、かっての西側諸国と言われた、日米西欧諸国による、対ソ封じ込め政策の発動につながることは間違いない。つまり、新たな冷戦の始まりだ。ロシアは目先の資源という利権のため、海洋国家連合を全て敵に回した。これで、私も心置きなく、対露戦略を構築、立案できる。
手始めに、ロシアにとって、柔らかい下腹である、コーカサス中近東道に位置するグルジアが揺れだした。
ロシアを北方の雄である上杉謙信とすると、アメリカは織田信長、イギリスは豊臣秀吉、中国は武田信玄、日本は徳川家康に相当する。
そうすると、グルジアは、織田信長と上杉謙信の勢力限界である、加賀や能登に相当し、謙信が手をやいた越中の一向一揆はまさに、チェチェンのイスラム原理主義勢力だろう。 史実では、上杉謙信が越後国境を越えて、加賀、能登に攻め込んだのは、信玄病没(73年)、長篠の役(75年)で武田が弱体化した後の1577年だ。これは、現代に置き換えれば、中国が強大な間は、ロシアは南下政策を取れないことを意味している。ここに、ロシアのアキレス腱があり、英米つまり、信長が、グルジアに親米政権を樹立し、ロシアの中近東への南下を防ぐ防波堤にしている理由だ。信長も能登の七尾城畠山氏家臣長続連を利用し、同じことをしようとした。

畠山家は能登の地理的な位置からから、越後の上杉家とは有効関係を保っていたが、畠山家の第一の勢力である長家が上杉家ではなく、織田家と連携していたのである。これは、なぜだろうか。おそらくは、長家と対立関係にある遊佐派への牽制と考えられる。1566(永禄9)年までは、義綱と連携することによって家中の主導的な地位を維持してきた続連であったが、その義綱を続連自身が永禄九年の政変で義綱の追放したのである。であるから、続連は新たな後ろ盾を探す必要に迫られていたのである。そうでなければ、従来から守護代として越後上杉氏(及び長尾氏)と懇意にしていた遊佐派に家中の主導権を握られると思ったのであろう。
こうして、続連は上杉に反して織田家を結ぶわけであるが、それが結果として1576(天正4)年からの上杉謙信の能登侵攻を招いたと言える。上杉謙信は、日本海海上交通の物流の観点から、能登の勢力を敵に回す事はなんとしても避けたく、そのため長続連ら重臣勢力の排除を求めて行くが、それが叶わぬと見るや、武力侵攻を開始したのである。謙信の侵攻に対して長家は、堅固な七尾城に戦力を集中し、持久戦に持ち込みつつ、長家の連携相手である織田信長に弟の連龍を使者を立てて援軍を請うたのである。援軍を派遣されたのだが、結局間に合わず七尾城は開城し、能登畠山家は滅亡した。織田信長は畠山家を利用して北陸への基盤を築こうとするのであるが、それを知っていてそれを逆に利用しようと織田家と連携したとするなら、続連はかなりの先見の銘を有していたと思われる。

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