今回は、ブッシュ政権が画策する対イラク2万人増派の影響を検討してみる。
まず、この時期に増派が検討されているのは、増派によってテロ組織に大攻勢をかけ、一旦、治安が回復するとその後の撤退が可能になるという思惑からだろう。
しかし、過去の戦史を見ると、このような決定は、最悪の戦略である、「兵力の逐次投入」でしかなく、失敗することは見えている。
<参考>
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http://www.sankei.co.jp/kokusai/usa/070113/usa070113006.htm
「4つの戦争 同時進行」米国防長官、増派に理解求める
【ワシントン=有元隆志】ゲーツ米国防長官は12日、ブッシュ大統領が発表したイラク新政策をめぐる上院軍事委員会の公聴会で証言し、混迷を続けるイラクの現状について「4つの戦争が同時に進行している」との見方を示し、2万人以上の米軍増派決定への理解を求めた。
4つの戦争は具体的には(1)イスラム教シーア派同士の抗争(2)首都バグダッドなどでの宗派間の暴力(3)武装勢力による攻撃(4)国際テロ組織アルカーイダによる攻撃。武装勢力の活動は宗派対立を激化させようとの目的もあるとの見方も示した。「中東の悪い連中がみなイラクで活動している」としてアルカーイダ、イラン、シリアのほか、レバノンのイスラム教シーア派組織ヒズボラ(神の党)の存在を挙げた。
ゲーツ長官は増派による治安回復が成功した場合は「年内に撤退を開始できるかもしれない」との見通しを示した。米国がイランに武力行使する可能性については「必然性はない」と否定した。
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http://www3.nhk.or.jp/news/2007/01/14/d20070113000056.html
ライス国務長官は12日、ワシントンを出発し、19日までの日程で中東各国のほか、イギリスとドイツを訪問することにしています。今回の歴訪では、まずイスラエルとパレスチナ暫定自治区を訪問し、オルメルト首相やアッバス議長と個別に会談して、和平プロセスの推進にむけて意見を交わすことにしています。このあと、ライス長官は、エジプトをはじめ、ヨルダンやクウェート、サウジアラビアを訪問し、ブッシュ大統領が10日に発表した新しいイラク政策に基づいて、イラクの安定に向け政治・経済面での協力を呼びかけることにしています。また、アメリカは、今回の新しいイラク政策で、イランがイラク国内でアメリカ軍への攻撃に使われる兵器を供給しているなどと非難して、ペルシャ湾に新たに空母機動部隊を派遣するなど、イランとの対決姿勢を鮮明にしており、ライス長官は、イランへの包囲網づくりにむけてアラブ穏健派各国に協調を働きかけるものとみられます。
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この、「兵力の逐次投入」については、前例として、1942年8月から開始された太平洋戦争のガダルカナル戦を検討してみたい。
ガダルカナル戦は、南太平洋の小島、ガダルカナル島の飛行場を日本軍が攻略しようとした陸戦であり、日本陸軍がアメリカ軍と初めて本格的に衝突した戦いであった。
戦局の推移については、帝国陸軍は最初はわずか900名の一木支隊第1挺団、次は6,000名の川口支隊と一木支隊第二挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退された。
一般に、ガダルカナル戦は日本軍が米軍の物量に圧倒されて敗北した戦いと認識されており、それは一面において確かに事実である。しかし、必ずしもそのことがガダルカナルの敗北の本質ではない。それ以上に、限られた戦力で東部ニューギニアとガダルカナルという二正面作戦を行い、自軍の先端根拠地(ラバウル)から1,000キロ以上も離れたところに一足飛びに基地を推進しようとし、敵の戦力と戦意を根拠なく見くびり、それ故兵力を小出しにして典型的な兵力の逐次投入に陥った上に、補給の根幹となる輸送計画も作戦計画も安易であったために、同じ失敗を二度三度と繰り返した、粗雑な作戦に本質的な敗因があったと考えられる。
物量について言うと、最終的には米軍の物量は日本軍を圧倒したが、一連の戦闘の全期間でそうであったわけではない。8月頃の時点では、米軍は第一次ソロモン海戦での敗北のため、輸送船団が一時退避するなどして重装備や弾薬の揚陸が遅れており、物量はかなり欠乏を来していた。(アメリカ軍側で言う「八月危機」)また、ヘンダーソン飛行場の米軍機は60-100機前後で推移しており、ラバウルその他の日本軍の基地航空隊の方が数が多かったし、空母の艦載機を含めても同様だった。輸送船団に対する米軍機の攻撃も微弱であり、この時期か、あるいは遅くとも川口支隊の総攻撃の時期までに、一木支隊・川口支隊・第二師団の全力を揚陸して攻撃を掛けていた場合、戦闘の帰趨は全く異なっていた可能性が高い。この戦闘に参加したアメリカ軍海兵隊少将ヘンダーソン氏は後に、こう語っている「実際の手順とは逆の手順で日本軍が来襲していたら、ガダルカナルの連合軍は成す術もなく追い落とされていただろう」。
しかし、実際には日本軍は最初はわずか900名の一木支隊第1挺団、次は6,000名の川口支隊と一木支隊第二挺団という、兵力の逐次投入を行い、敵を圧倒的に下回る兵力で攻撃を掛けては撃退され、機数では米軍を上回っていた航空戦力も、ガダルカナル島から1,000キロ以上も離れたラバウル基地からの出撃では航続距離の限界で、戦場上空での滞空可能時間がわずか15分に過ぎず、その力を大幅に削がれたのだ。
つまり、ガダルカナル戦は、兵力の逐次投入と同時に、補給や兵站計画の杜撰さという、日本陸海軍の作戦計画の問題点が如実に現れた戦いだった。私には、イラク戦争のアメリカの対応が、どうしても、ガダルカナルとダブってしまう。
まず、イラクは、その地形から、海に面した部分がバスラ港だけであり、イランやシリアと長大な国境線をもつという意味でランドパワーだ。そうであれば、イラクを安定させるには、イランやシリアとの間の国境をコントロールし、テロリストの出入国を阻止しなければいけないことになる。果たして、2万人程度の増派で、長大な国境線を管理できるのか。
例えば、イラクと同じように、ソ連との間に長大な国境線を抱えた満州国において、その防衛のため、帝国陸軍は独ソ戦にあわせて関東軍特種演習(関特演)と称した準戦時動員を行った結果、同年から一時的に関東軍は74万以上に達した。精強百万関東軍と言われたのはこの時期である。
そして、戦史上最大のランドパワー同士の死闘である独ソ戦において、ナチスドイツはバルト海から黒海にいたるエリアを3個軍集団150個師団300万人で攻め込んだのだ。
このように考えると、ランドパワーを制覇するには、とかく、マンパワーが必要なことがわかる。そうすると、たった2万人程度の増派で一時的にせよ治安が安定するなどと考えているのは馬鹿げている。むしろ、増派は、その後の撤退のシグナルと解釈されれば、テロリストを勢いづかせるだけであろう。
米陸軍内部において、当初からイラク戦争には反対意見が多く、兵員も少なすぎるという考えが主流であった。それを政治に押し切られたのだ。今回も、増派が決定すれば、同じだろう。
これは、ナチスドイツにおいて、ヒトラーが国防軍の作戦に干渉しまくったため、結局は敗退したという故事を彷彿とさせる。
むしろ、もはや、アメリカはこの程度の戦略の基本すら理解できないところまで追い詰められているといえる。増派は、アメリカの断末魔の叫びとなるだろう。
以前、コラムで書いたことだが、アメリカはイラクから撤退し、サウジやクェートに兵力を集中させるしかない。そうしなければ、これら穏健派諸国がイスラム原理主義者に制圧されるという最悪のシナリオが待っている。そうすれば、イラクの内戦どころの騒ぎではない影響を世界に与える。
そして、イランとは、イラクの東半分、すなわちメソポタミアの支配を認めることで、逆にイスラエルの生存を承認させ、核兵器を放棄させる。
これが落としどころとなってイランをランドパワー陣営からシーパワー陣営に寝返らせることができれば、シーパワーの勝利は間違いない。かって、イランはパーレビ王朝下で親米国だったのだ。
私が見るところ、中東核戦争を避け、アメリカのイラク撤退を平和裏に行うには、この条件しかない。なお、私が以前から主張しているイスラエルの対イラン先制攻撃について、7日付の英紙サンデー・タイムズは複数のイスラエル軍筋の情報として、イスラエルが対立するイランの核関連施設を破壊するために、核兵器による攻撃計画を立て、空軍の2個中隊が長距離飛行などの訓練を行っていると報じた。
イスラエルはイランの核開発への危機感を強めており、同紙によると、ウラン濃縮地下施設のある中部ナタンツで、イスラエル空軍機が通常爆弾で地面に穴を開けた直後、同じ場所に核兵器を撃ち込む計画があるという。
戦史を紐解くと、アメリカがベトナムから撤退した直前、米中国交回復がキッシンジャーと周恩来との間でなされている。
アメリカのニクソン大統領(1913~94、共和党、任1969~74)は、深刻なドル危機と泥沼のヴェトナム戦争に苦しむ中で、1970年2月にニクソン=ドクトリンを発表し、海外特にアジアへの過剰介入を避けるという方針を表明した。
しかし、その一方で、カンボジャ侵攻(1970.4)・ラオス侵攻(1971.2)を行い、ヴェトナム戦争をさらに拡大した。この戦争拡大は国内で強い反発を招き、ヴェトナム反戦運動や大学紛争が激化した。
1960年代後半以降、ヴェトナム戦争の戦費の増大・海外投資の増加・貿易赤字の増大などによってアメリカの国際収支は著しく悪化し、国際通貨であるドルに対する信用が大きく低下した。
こうした内外の危機に直面したニクソンは、中国との和解なしにはアジアの平和はあり得ないと考えるようになり、1971年7月にキッシンジャー(1923~)大統領特別補佐官(任1969~73)を秘密裡に中国に派遣した。キッシンジャーは周恩来首相と会談し(7月9~11日)、15日にニクソン大統領が翌年5月までに北京を訪問すると発表した。
1971年のキッシンジャーの訪中以後アメリカは従来の政策を転換し、中華人民共和国の国連加盟は支持するが、台湾の中華民国政府の追放には反対するとの方針をとり、同年9月に中華民国政府の追放を重要事項とする逆重要事項指定決議案と、中華人民共和国と中華民国政府の二重代表制案を国連に提出し、日本も共同提案国となった。
しかし、10月に開かれた国連総会では、逆重要事項指定決議案は否決され(賛成55、反対59、棄権15)、中華人民共和国の代表権を認め、中華民国政府を追放するというアルバニア案が可決された。
1972年2月21日、ニクソン大統領は、アメリカの大統領としては初めて中国を訪問し、27日に共同声明が発表された。米中共同声明で、アメリカは平和五原則を承認し、これによって長い間敵視してきた中華人民共和国を事実上承認した。
背景として、1969(昭和44)年3月黒竜江(ウスリー河)の珍宝島(ダマンスキー島)をめぐる中国とソ連の国境武力衝突が発生し、中ソ間が極度の緊張状態に置かれていたことがあげられる。中国もこのような状況でアメリカとの関係改善を欲していたのだ。
つまり、米国のベトナム撤退には、中国との関係改善が必要であり、そのためには、中ソの対立が必要ということだ。
この歴史的事実に学ぶなら、イラクをベトナム、中国をイランと置き換えることができる。つまり、米国とイランがどのような条件で妥協できるかが、イラク情勢を占う上で、最大の焦点となろう。
最近実施された、イランの選挙では、対米関係の改善を求める穏健派が伸びたようで、この動きの先にどのようなイランに対する調略が有効かを考える必要がある。
繰り返すが、それには、「シーア派イラクの分離独立とイランによる支配あるいは保障占領の承認」しかありえない。
フセイン政権時代に弾圧されたシーア派によるフセイン元大統領の処刑は、スンニが中心のアラブ諸国とイラン(ペルシャ)との精神的な分断を、一層深めることになると考察される。イラクは、一国であることは不可能なほど、国内が割れている。これをたった2万の米軍の増派で元に戻すことは、断じて不可能だ。
むしろ、連邦の失策による州兵の死傷者数の増加はアメリカの分裂、内乱の呼び水にすらなるだろう。
<参考>
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http://www.nikkei.co.jp/news/main/20061218AT2M1800118122006.html
イラン選挙で穏健派が躍進
【ドバイ=加賀谷和樹】イラン専門家会議、地方評議会の両選挙は17日、中間開票集計でラフサンジャニ最高評議会議長(元大統領)ら保守穏健派の躍進が決まった。アハマディネジャド大統領の保守強硬路線への批判票が穏健派に流れたのは確実で、3年後の再選を目指す大統領が核開発などで路線修正を迫られる可能性もある。
両選挙の開票情勢について、保守穏健派と共闘したとみられる改革派の有力政治団体、イスラム・イラン参加党は「アハマディネジャド一派の明白な敗北」と主張した。これに対し、アハマディネジャド大統領は「敵(米欧)は(イランの)弱点を見つけたと考えただろうが、国民は知性を世界に知らしめた」と述べ、民主主義の機能を評価してみせた。
最高指導者の任免権を持つ専門家会議選では、政敵のラフサンジャニ議長がテヘラン州選挙区でのトップ当選を決めた。同議長は指導部ナンバー2として大統領を監督、指導する立場だが、核開発問題を巡って米欧との対話再開を求めており、大統領の路線とは一線を画している。 (09:33)
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http://www.nikkei.co.jp/news/main/20061218AT2M1800118122006.html
イラクでシーア派狙った自動車爆弾が相次ぎ爆発、72人が死亡
12月31日13時0分配信 ロイター
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http://www.asahi.com/international/kawakami/TKY200701090200.html
フセイン処刑の意味
2007年01月09日
編集委員・川上泰徳
2006年は12月30日のフセイン元大統領の死刑執行というショッキングなイラク発のニュースで締めくくりとなった。直後に、携帯電話のカメラで処刑の様子を収めた画像が、インターネット経由で流れた。元大統領が「アッラーフ・アクバル」(神は偉大なり)とイスラム教の聖典の言葉を唱えた後、「ガタン」という鋭い音で絞首台の床が開く瞬間が映っている生々しい内容だ。映像は絞首台の上から撮ったものと、下から撮ったものもあるが、処刑の後、暗がりのなかでロープが付いたままの元大統領の顔を執拗に、それもかなり近くから映した画像も含まれている。
映像の残酷さとともに、処刑の直前に立会人の中から、「地獄へ落ちろ」という罵声が元大統領に浴びせられたことが、元大統領が所属するスンニ派の怒りを掻き立てている。さらに世界を驚かせたのは、大統領の処刑の直前に、コーランが唱えられた後、「ムクタダ、ムクタダ、ムクタダ」と、シーア派の反米強硬派の指導者ムクタダ・サドル師の名前が、3回にわたって連呼されたことだ。
サドル師はマフディー軍という民兵を抱え、イラク戦争後、激しい反米攻撃を行った強硬派のシーア派指導者である。2005年12月の総選挙にシーア派の統一名簿に参加し、ハキーム師が率いるイスラム革命最高評議会(SCIRI)やジャファリ前首相やマリキ現首相が属するダワ党と並んで、主要勢力のひとつとなった。特にシーア派内ではマフディー軍とSCIRIの民兵のバドル軍は、シーア派聖地ナジャフの攻防で衝突したこともあり、敵対する関係だ。シーア派統一連合の首相候補の選出で、ダワ党の候補とSCIRIの候補が競った時に、サドル師派はダワ党を押した。
サドル師派が政治的に復権したばかりではない。マフディー軍は米軍占領下で反米蜂起を繰り返していたころは、シーア派の中でも「無法者」視されていた。いまではシーア派住民にとって守護者として頼られる存在にさえなっている。さらに昨年2月に、イラク中部のサーマッラにあるシーア派聖地のモスクが爆破される事件が転機となった。スンニ派とシーア派の衝突が激化し、報復合戦になった。マフディー軍がスンニ派地区を攻撃したシーア派の主力であったことは言うまでもないが、対立の状況が強まるにつれて、シーア派の民衆は頼りにならない治安部隊よりもマフディー軍に地域の警備や危険分子の排除で頼るようになる。新年早々のイラクのアッザマン紙のインターネット版を読んでいると、バグダッドでシーア派住民が集まるサドルシティーでは、マフディー軍は地域の警備のために、15歳から45歳までの男性を強制召集し始めたというニュースが出ていた。
フセイン元大統領の処刑という場に、サドル師派の関係者がいたことは、米国のイラク政策の失敗とともに、同派が現在のシーア派主導政権の中核にいるということを象徴している。シーア派住民の多くは、憎いサダム・フセインに「地獄に落ちろ」の言葉が投げつけられたことに喝采を挙げたことだろう。「ムクタダ」への連呼とあわせて、サドル師派にとっては大きな宣伝効果があったはずだ。
問題は、なぜ、マリキ政権は米国の反対を押し切ってまで、フセイン元大統領の性急な死刑執行を行ったかである。
結局、元大統領が裁判で問われたのは、82年に大統領暗殺未遂事件があったシーア派の村で約150人の村人を処刑した罪だけとなった。88年にイラク北部のクルド人の町ハラブジャに化学兵器を使用して住民5000人を虐殺した事件や、91年の湾岸戦争後にイラク南部のシーア派による大規模な蜂起を軍事弾圧して10万人とも言われる住民を虐殺した事件、さらには90年夏のクウェート侵攻など、歴史的な“犯罪”は起訴もされず、真相が明らかにされる機会は永遠に失われてしまった。
政治的に重要な意味を持つはずのフセイン元大統領が、いとも簡単に処刑されてしまったのは、言葉の繰り返しではあるが、フセイン元大統領が政治的に重要な意味を持つ時代を、完全に過去に葬ろうとする意図である。シーア派にとっては、フセイン元大統領に象徴されるスンニ派主導の旧バース体制との決別と言ってもいいだろう。つまり、現在、政権を主導しているシーア派が、旧バース党勢力と妥協して、スンニ派との暴力的な混乱を収拾するような選択はないことを、元大統領の処刑で明確に宣言したことになる。
もともとは戦後のイラク体制で、旧バース勢力を排除したのは、米国である。旧政権幹部とともにバース党の幹部、さらにフセイン体制を支えた旧政権の治安・情報機関の関係者を完全に排除した。旧政権の治安と秩序を支えてきた機構を排除すれば、混乱するのは当然であり、米国にはイラク占領に全く準備がなく、場当たり的だったことや、軍事力にたいする過信があったことなどとあわせて、致命的な失敗となった。
米軍が04年6月に占領を終わらせ、主権委譲の相手として選んだアラウィ暫定政府首相は、治安回復のために、旧治安・情報関係者など、旧政権関係者を復活させ、自らの権力基盤の強化に使うことで、態勢の立て直しを図ろうとした。アラウィ氏はシーア派の世俗派で、自らが元バース党幹部だったが、フセイン態勢の下で亡命を強いられた。その立場は、反フセイン体制ではあったが、反バース体制ではなく、治安や行政の立て直しのためには、旧バース党人脈の復活が必要だと考えていた。
アラウィ氏は国内のスンニ派の取り込みに成功して、さらに周辺アラブ諸国の支持も得た。その後、米国も、アルカイダを封じ込めるために、旧政権勢力が主力のスンニ派武装勢力への政治参加を求める方針に代わってきた。特に、ハリルザード米大使が駐バグダッド大使に就任してから、その傾向は強まり、シーア派にはハリルザード大使を「スンニ派の手先」と反発する声もでた。
今回のフセイン元大統領の処刑で、最も打撃をうけたのは、スンニ派勢力や旧政権勢力との政治的な駆け引き材料として、元大統領を使おうとしていた米国や、アラウィ氏であろう。シーア派政権は、元大統領がそのような取引材に使われる機会をつぶすために処刑を早めたのだ。
フセイン処刑で、明らかになった米国とシーア派政権の食い違いは、出口戦略を探る段階にはいった米国のイラク政策に、暗い影を投げかけることになろう。シーア派政権は旧バース党人脈の復活をゆるすような形で、混乱を収拾する意図は一切なく、あくまで旧体制を力で清算し、シーア派優位の上での秩序の再構築を貫徹するつもりだろう。シーア派は「フセインを処刑すればスンニ派は反発し、状況はさらに悪化する」という世界の危惧や心配に、耳を貸すはずもないのだ。状況悪化は、折り込み済みである。
イラクで政権を主導するシーア派が、あくまで自力で新秩序の構築をめさして動いている時に、米国には何ができるだろうか。イラクのシーア派の背後にはイランの軍事的、政治的、財政的な影響力があり、イラクでシーア派が覇権を確立することは、スンニ派主導のサウジアラビアなど湾岸アラブ諸国やヨルダンにとっては大きな脅威だ。
米国には、そのような秩序を受け入れることはできないだろうが、それをつぶすことも出来ない。米国にできることは、そのようなイラク・シーア派に対して関与し続けることである。強大なシーア派を前に米国が支えてきたアラウィ氏や、米国との協調を取り始めたスンニ派勢力を支え続ける意味もある。引くに引けない状況ということになる。
ブッシュ政権が新たに発表する新イラク政策は2万人程度の米軍増派になると報じられている。混乱収拾のために、旧バース党関係者の政権復帰を求める項目も含むという。何のための2万人増派なのか。イラクの混乱を止めるためには焼け石に水である。意味があるとすれば、米国が逃げ腰になっているという印象を打ち消すことだろう。つまり、イラクに関与しつづけるという政治的な意思を示すための2万人増派である。
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以上
