今回は、前回に引き続き、アメリカの中東戦略を検討したい。六カ国協議が決着した事で、二正面作戦の恐れが無くなったアメリカは、完全にイランとの戦争モードに入ったようだ。
戦争前のお家芸であり、お約束イベントの「在米資産凍結」と「情報操作」を始めたのだ。戦前のアメリカが1941年8月1日、日本陸軍の南部仏印侵攻に対して、石油全面禁輸、在米邦人の資産凍結を実施した事などが参考になるだろう。
<参考> ------------引用-------------- http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070217-00000019-jij-int イラン3企業の資産凍結=核開発関与で-米財務省 2月17日7時0分配信 時事通信 ワシントン16日時事】米財務省は16日、イランの核開発に関与しているとして、新たに同国の3企業に対し、米国内資産の凍結や在米企業・個人との取引を停止する制裁措置を発動した。 ------------引用--------------イラク駐留米軍当局者らが匿名を条件に、イランが指導部公認で高性能爆弾をイラクに密輸しているなどと主張、「証拠」のロケット砲弾などを公開したことについて、米側による意図的な情報操作ではないかとの批判が再燃している。
イラク戦争では、開戦の大義名分となった同国の大量破壊兵器開発疑惑をめぐり、ブッシュ政権による情報操作疑惑がくすぶる。ブッシュ大統領は14日の記者会見で、イラン指導部の密輸関与の有無を「知らない」として「勇み足」を認め、火消しに乗り出したが、騒動は尾を引きそうだ。
駐留米軍側は11日、バグダッドの一部外国人記者を集め、高性能爆弾の密輸にイラン政府の「最も高いレベル」がかかわっていると説明。ワシントン・ポストによると、同席した爆発物の専門家らは肩書や身元を明らかにせず、録音や「証拠」の撮影も認めない物々しさだったという。
イラン側は早速、関与を否定。13日付のニューヨーク・タイムズは社説で「イランと匿名の会見者」との見出しを掲げ、イラン指導部がかかわった証拠は示されなかったとし、「この政権が過去の失敗から何も学んでいないことは驚きだ」と疑問を投げかけた。
ペース統合参謀本部議長は13日、訪問先のジャカルタで「イラン政府の直接関与を必ずしも意味しない」と説明。見解の「食い違い」をめぐり、イランへの揺さぶりを狙った戦術ではないかとの憶測が飛び交うなど混乱が深まっており、同国への対決姿勢を強める米政権に手痛い失点となったことは間違いない。(共同)
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ここで、アメリカがイランの攻撃に踏み切る理由を考えてみたい。端的に言って、イラン攻撃の目的は、核施設の破壊のみならずイラク領内の武装勢力への補給ルート遮断にある。より根本的には、冒頭の地図に見られるように、紀元前のアレクサンダー大王の東征が、当初の目的であるペルシャ征討達成後、インダス川に至るまで止まらなかったように、この地域の安定支配には、インダイス川から地中海にいたる地域を全て支配する必要があるということだ。すなわち、地勢上の勢力限界として、インダスから地中海にいたる文明圏の全てを統一支配しないと、局地的支配は達成できない。しかし、この地域を長期にわたり統一支配した例は歴史上皆無だ。アレキサンダーが築いた大帝国も、彼の死後、後継者争いにより、あっという間に消滅した。
ここで、「一つのランドパワーがハートランドを長期支配することは不可能」という地政学上の命題を思い出す必要がある。マッキンダーは「東欧を制するものはハートランドを制し、ハートランドを制するものは世界島を制し、世界島を制するものは世界を制す」・・・ハルフォード・マッキンダー(英、1861-1947)(注:ハートランド=ユーラシア大陸中央部、世界島=ユーラシア大陸)と述べた。
洋の東西を問わず、ランドパワーはハートランド(大陸の中央部)を目指す本能をもつ。これは、西洋ではアレクサンダーやナポレオン、ヒトラーが例である。第一次世界大戦における、ドイツの3B政策もこれに含まれる。
東洋では中原といわれた華北平原の争奪を漢民族と北方騎馬民族が歴史的に行ってきたことが例である。三国志を読めば、いかにこの中原の支配が重要かわかる。
日本においてハートランドといえば、関が原であろう。壬申の乱、関が原の戦いがともに、ここを巡って争われたことは偶然ではない。関が原が日本のハートランドだからだ。
なぜ、彼らはハートランド支配に拘るのか?それは、海軍戦略を考慮に入れずランドパワーの理論のみで考えるならば、ハートランドの支配が死活的に重要だからだ。
ハートランドは陸上交通の要衝であり、この地域を敵対勢力に握られると周辺のランドパワーはその圧力にさらされ、生存が困難になる。ハートランドと地続きの地域に棲んでみないと、これは、理解できない。
しかし、ここに落とし穴がある。それは、一旦ハートランドを支配してしまうと今度は周辺地域が全て敵対勢力になり多正面作戦になるということだ。このため、ハートランドの長期間の支配に成功した例はない。ハートランドのSustainability(維持可能性)が限りなく低いことは歴史上数え切れない例で実証されている。
歴史的に見て、中国や中近東で政権、王朝の交代が激しい最大の理由はこれである。このような観点から、EU東方拡大、アメリカの中東戦争はともにハートランド支配権をかけて衝突することが確実であり、ともに失敗すると考える。ユーラシア大陸の歴史は、このハートランドを巡る闘争の歴史でもある。
要約しよう。「ハートランドを敵対勢力に握られたら生存できないランドパワーはハートランドの支配を目指す。しかし、一旦支配してしまうと、敵に囲まれ、崩壊する。」ということだ。すなわち、ハートランドを支配できても、できなくても、ランドパワーに生存は困難であり、安全保障コストが高くつく。経済発展ができない理由もそこにある。
アフガニスタンやイラクに介入したアメリカは、このランドパワーの法則に完全に嵌っている。戦前の日本陸軍が大陸で嵌ったのと同じように。これは、伝統的な水際でしか戦わないという米軍の"From the Sea" ドクトリンをネオコンが捻じ曲げ、イスラエルとドル価値防衛のため、イラク攻撃を実施した事の結果だ。満州国建国がノモンハンやシナ事変に繋がったように。
補給ルート遮断戦略の前例として、ベトナム戦争における、「ホーチミン・ルート」遮断のための、カンボジアやラオスへのアメリカの介入を以下に見てみる。
<参考>
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http://www.combat.ch/modules/org_library_tinyd4/content/index.php?id=17
現代の戦争において、勝敗を決する要素の一つは軍需物資の量である。ベトナム戦争の場合、アメリカ・南政府軍 ― 近代兵器と物量は南ヴェトナム解放戦線(NLF)・北正規軍 ― ゲリラ戦、戦闘意欲を主要な武器としていたとする分析が一般的である。
これは戦争の初期には間違いとは言えなかったであろうが、1966年頃からこの図式は形を変えている。
アメリカ・南軍の兵器と物量は常に豊富であったが、対する共産側も新しく威力のある武器を大量に装備するようになっていた。インドシナ戦争、朝鮮戦争においても、共産側の勝利は優れた戦術と新しく威力のある兵器、そして充分とはいえないが多数の武器によって得られているのである。とくに砲兵部隊は、常にアメリカ・南軍より優れた兵器を持ち、砲弾量も決して劣るものではなかった。
例えば120㎜ロケット砲のような兵器は当時の西側には存在しない。また西側の標準的な野砲であるM2A1は口径105㎜であったが、東側のそれはM46で口径130㎜もあり、威力はずっと大きかった。一方、対空砲、SAMなどの量は、北ベトナム一国で自由主義陣営のすべてに匹敵する量を有していた事実を見逃してはならない。
ベトナム戦争の期間中、中国は50億ドル、ソ連は90億ドル分の軍事・経済援助を北ベトナム・南ヴェトナム解放戦線(NLF)に渡したとされている。また、北ベトナムと中国は国境を接していたので、物資の引渡しはスムースに行なわれた。
問題となるのは、北ベトナムから南ベトナム領内の反政府勢力への輸送方法である。このための輸送路がホー・チ・ミン・ルートである。あらゆる軍事物資はハノイからトラック、鉄道で運ばれる。そしてそこからDMZ(非武装地帯)を避けてラオス領内に入り、南ベトナムとの国境沿いに南下する。このルートは南ベトナム中部高原地帯の西側でラオス-カンボジア国境を横切り、プノンペン、サイゴンの中間地点まで続く。
DMZを基点と考えると、直線距離として1,400㎞、総延長では4,000㎞を越える長い補給線である。もちろん、ルートは1本ではなく主要なものだけでも5本、そしてそれぞれに無数の枝道が百足のように繋がっている。このホー・チ・ミン・ルートこそ、南ヴェトナム解放戦線(NLF)にとっての生命線であった。
ベトナム戦争に介入したアメリカ軍は、この補給路の重要性を熟知していたので、あらゆる手段を用いてルートの切断を図った。空からは多数の航空機を使って爆撃し、陸上からは地上部隊を進攻させてルートを遮断し、海上からは北ベトナムの海岸沿いの交通路を艦砲射撃した。
それにもかかわらず、北からの物資の流れの総てを断ち切ることはできなかった。この理由には大きな二つの原因が考えられる。
まずルートが山岳地帯(アンナン山脈)の中を通っていたこと。これは空中からの発見を困難にし、また密集した樹木は爆撃の効果を大幅に減少させる。また輸送中の物資を敵の眼から隠して、集積しておく場所に困らない。このホー・チ・ミン・ルートが大平原の中を通っていたら、ルートは維持できなかったことは疑う余地がない。
次にラオス、カンボジアという国家の存在である。この2カ国が、完全な独立国として存在していれば、これまたホー・チ・ミン・ルートは存在できなかったはずである。
ともかく自国の領土内を、他国の軍隊が勝手に通過し、それだけではなく補給路、基地を国内に建設したことに対し、何の対抗手段もとることができなかったのである。
両国とも政情は常に不安定であり、また軍事力からいっても北ベトナムとは比較にならないほど弱体であったので、南ヴェトナム解放戦線(NLF)、北ベトナムの自国内での勝手な行動に対し、口頭・文書で抗議の意思を示すだけであった。
さてホー・チ・ミン・ルートに対するアメリカ・南政府軍の攻撃は空軍が主となって行われた。最盛期に北ベトナムは1万台のトラック、2万台の自転車をこのルートに投入した。自転車は特に頑丈に製造されており、特性の木枠によって一度に200kgの荷物を積むことができた。したがってこの数値が正しいとすれば、1日当り5,000~1万tの軍需品が南ベトナム領内に運び込まれたことになる。また20万名以上の人々が、ルートの新設、補修に従事したと北ベトナムは公表している。
一方、アメリカ軍は持てる航空戦力の25%をこの補給路の破壊に使用した。B-52爆撃機から攻撃ヘリコプター、それに加えて輸送機を改造した地上攻撃機(ガンシップ)まで投入している。
とくに1970年の秋から春にかけては、前述のガンシップAC-130、AC-47を投入して"コマンドー・ハント"作戦を実施して合計25,000台の北のトラックを破壊している。最大の戦果としては同年5月の最後の一週間だけで3,150台の車輌(1日当り450台)を破壊した。
これに対し共産側はすぐに多くの代替車輌を投入するとともに、大量の対空火器を持ち込んだ。1971年秋にはその数は1,600門にまで増加し、アメリカ軍機の低空攻撃を著しく困難にさせたのである。
戦争の全期間中、アメリカ空軍はホー・チ・ミン・ルート上で15万台を越えるトラックを破壊したが、それでも輸送量の約半分を破壊、阻止したにすぎないと発表している。
このように、大きな損害を出しながらも、北ベトナムの指導者の名をとったこのルートは、ベトナム戦争に決定的な役割を果たした。
そのうえ、共産側は別な補給線を持っていた。これはハイフォン港から海路南下し、南ベトナム南部のメコン・デルタ地帯に物資を搬入するもである。
しかし、これはすぐに南政府の察知されるところとなり、北側はより南方のシャム湾を陸揚げ地とした。この地はカンボジア領であるから、南ベトナムやアメリカ軍としては、正式にはこの陸揚げ作業は阻止できない。カンボジア南部からの物資は同国の領内を北上し、サイゴン西方で南ベトナムに運び込まれた。このルートを西側ではカンボジアの旧元首の名から、"シアヌーク・ルート"と呼んだ。このルートは、ハイフォンからカンボジア南部の港まで海上路は2,500㎞以上あるが、いったん陸揚げされてしまえば、サイゴン西方地域までは約300㎞で、ホー・チ・ミン・ルートの1/5の距離しかない。
したがって、戦場までの輸送時間は量ルートともほぼ同じか、シアヌーク・ルートの方が短かった。
アメリカ軍はこのルートの輸送力を軽視していたようだが、戦後西側へ亡命してきたNLF高官の証言によると、1969年以降の輸送量はシアヌーク・ルート40%、ホー・チ・ミン・ルート60%となっており、前者はほとんど妨害されなかったとのことである。
このような事実が明らかになると、アメリカ軍が1970年5月に実施したカンボジア進攻作戦は、―アメリカ・南側から見れば―当然の結果といえる。いかなる時代の戦争であっても、敵の補給路を破壊することこそ勝利への第一歩であるからである。
1970年4月26日、35,000名のアメリカ軍と25,000名び南ベトナム軍は、四方向からカンボジアに進攻した。目的は前述のごとく北・NLFの拠点攻撃および北からのホー・チ・ミン・ルート、南からのシアヌーク・ルートの切断である。
この進攻作戦は、宣戦布告無しにアメリカ軍が他国へ侵入するため、できるだけ短期間に切り上げる必要があった。徹底的な攻撃には2ヶ月を要する見通しであったが、アメリカ国内の世論を刺激してはならなかったのである。
当時、これらの地域には合計4万名のNLF・北軍兵士が存在すると予想されていた。攻撃は例のごとくB-52や戦闘爆撃機によって火蓋が切られた。爆撃は数時間続き、そのあと武装ヘリの大軍が輸送ヘリを護衛しながら国境を越えた。4月26日の1日だけで、延べ6,000回以上のヘリ輸送が行なわれた。
また南政府軍の舟艇隊とMRFは400隻の軍用艇を投入してメコン川を遡行して共産側の拠点を襲った。
この付近のNLFは歴戦の4個師団(合計2万名)であったが、南・アメリカ軍の作戦行動が迅速であったために、有効な反撃は不可能であった。特に、大量に投入されたアメリカ軍のヘリコプターに対する火器が不足しており、これが共産側を著しく不利に追い込んだ。
作戦発動後わずか1週間にして共産側は大きな損害を受け、その後できるだけ戦闘を回避することになった。
5月にはいると、一部の南・アメリカ軍は目的の敵拠点を完全に破壊し、撤退を開始した。しかし、大部分の部隊は6月上旬までカンボジア領内に留まり、作戦を続行した。
この進攻作戦の結果、カンボジア領内にあった共産側の補給ルートのかなりの部分が破壊、切断された。そして、アメリカ・南ベトナム軍は2万点近い各種兵器、6,000tを超す食料、その他11,000tの軍需品を押収した。
またNLF、北ベトナム軍の戦死者は10,721名、捕虜は1,216名にのぼった。これに対してアメリカ軍の損害は戦死243名、負傷者931名、南政府軍は戦死575名、負傷者2,367名となっている。
この戦闘で注目すべき点は、共産側の捕虜数が多かったことである。ベトナム戦争を通じて共産側はほとんど捕虜を出さずに戦い続けが、このカンボジアの戦いについては、アメリカ・南軍の進攻スピードが速かったため、1,000名を超す捕虜を出している。
この作戦は、南・アメリカ軍共同のものとしては、成功裡に終わった最後のものとなった。拠点を喪失し、補給ルートが遮断されたため、1970年春から夏にかけて共産側の攻勢はほとんどなかった。しかし夏・秋頃には両輸送ルートは再び修復・整備され前にも増して高い輸送能力を発揮するようになる。
同時にNLF・北ベトナム軍はこれらの失敗から多くの教訓を学んでいたのである。それは、ルートの複数化、拠点の分散、カンボジア、ラオス領内の陣地の強化などである。とくに、大量に飛来するアメリカ軍のヘリコプターに対抗するための対空火器の増強であった。
これらの処置は、翌1971年1月末に開始されたラオス進攻作戦"ラムソン719"の時に生かされることになった。
カンボジア進攻作戦は南・アメリカ軍にとって大きな勝利であったが、一方では翌年のラオス進攻の失敗と深く結びついているのである。
この作戦は「ラムソン719」と名付けられ、南・アメリカ軍共同の戦闘としては実質的に最後のものとなった。また作戦の規模としてもベトナム戦史上最も大きなものであった。
カンボジア進攻作戦についてはアメリカ国内から猛烈な反対の声があがったが、南・アメリカ軍による戦果は大きく、作戦の評価は成功と認められた。しかし、それ以上のスケールで実施された「ラムソン719」は―作戦終了後の大戦果の発表にもかかわらず―失敗であった。
カンボジアにおいてかなりの損害を出したNLFとベトナム軍は、次に敵がラオスに侵攻してくることを予想し、充分な反撃を準備していたのである。それでは、実質的に南政府軍、アメリカ軍にとって最後の大攻撃となったこの軍事行動をもう少し詳細に見てみよう。
「ラムソン719」は70年初めから計画され、同年秋から準備がすすめられていた。
当時この地区には、共産側4~5万名の兵士が存在すると推定されていた。一方、投入される南、アメリカ軍は2~3万名で、地上戦闘は"ベトナム化"されつつある南政府軍が受け持ち、輸送および航空攻撃をアメリカ軍が担当するということになっていた。
2月8日から、政府軍はDMZ沿いにラオスに侵入した。そして2日後、たいした抵抗もなしに共産側最大の拠点チュボン市を占領した。作戦はその後も順調に進行し、チュボン市の西方30㎞あたりまでラオス領内深く進んだ。
しかし、作戦開始後1週間目の2月15日頃から急に北ベトナム正規軍による抵抗が激化し始めた。折りしも天候が悪化し、アメリカ空軍機の活動が低下したこともあり、反撃は一層効果をあげた。北正規軍は数十台の戦車を使用し、その多くはアメリカ軍機に撃墜されたものの、南の兵士に大きな動揺を与えた。
この戦域において本格的な道路は国道9号線以外にはなく、したがって地上戦闘部隊への補給はもっぱらアメリカ軍のヘリコプターに頼ることになっていた。しかし、それを見越した北正規軍は3,000機に達する対空火器を搬入していた。アメリカ軍と南ベトナム軍は、合計700機という大量のヘリコプターを用意して作戦を開始したものの、1ヵ月以内に100機以上を失なった。
こうなると進攻した地上部隊への補給は途絶えがちになり、このため2月末には作戦成功の望みは薄らいだ。
3月10日頃から、北ベトナム軍はそれまで以上の反撃に移り、南政府軍は圧倒された。そして一部の部隊が崩れ出すと、それは全軍の退却につながった。そして3月中旬には北軍が約1万名の新戦力を投入したため、南軍は撤退を決め、ヘリによる脱出を開始した。この状況においては共産側の攻撃は極めて激しく、いくつかの地域では部隊輸送用のヘリコプターが着陸できず、数百名の南兵士が置き去りにされるという事態も発生している。
結局3月末までにラオス進攻作戦は失敗に終わった。南、アメリカ軍は敵の戦死者13,700名、味方の戦死者1,540名であり、「ラムソン719」作戦は成功であると発表したが、客観的に見て共産側の勝利というべきであろう。
このようにしてラオス領内の共産勢力を壊滅させるという目的は完全に失敗し、同時にベトナムにおけるアメリカ軍の大規模な戦闘は幕を降ろすことになるのである。
さて、南ベトナム軍、アメリカ軍のラオス進攻作戦はそれが報じられると、アメリカの反戦デモは再び燃え上がった。また作戦が続いてる3月初め、ソンミ村虐殺事件のカリー中尉に禁固2年の有罪判決がだされたこともアメリカ人の反戦ムードに油を注いだ。4月24日に行なわれた反戦デモの参加者は実に百万人を越えたのである。
6月には別の報道が、またまた反戦を訴える人々を元気付けた。ニューヨーク・タイムズ新聞が"ペンタゴン・ペーパー"と呼ばれる国防総省の秘密文書の内容を連載しはじめたのである。
これは、国防総省が議会の承認なしに南ベトナムへのテコ入れを決定していたことを証拠だてるものであった。アメリカ国民の自国政府、軍首脳に対する不信感はますます増大した。
8月に公表された経済白書によると、アメリカ国内のインフレーションが戦争経済のために広がりつつあり、公務員、完了の給料凍結が実施されるであろうと記されていた。アメリカ人の多くは、これらの事実と状況により―南ベトナムの将来よりも―自分の生活に不安を抱きはじめていた。
8月18日、オーストラリアとニュージーランドがベトナムから軍隊を引き揚げる旨の声明を発表9月に5万名という大兵力を送っている韓国もこれに倣うことを発表した。
1971年秋、南ベトナムでは10月に総選挙があり、グエン・バク・チューが大統領が再選されたがこのとき軍部を代表するグエン・カオ・キ将軍との軋轢が再燃し、陸軍、警察軍、空軍の将兵が小競り合いを繰り返した。
自由世界から見放される瀬戸際にあっても、南の首脳は相変わらず権力争いを忘れる事はなかった。
12月にはいるとラオスの北ベトナム軍は再び攻勢に出て南ベトナム北部を脅かした。このときの攻撃においては、コウサン側はゲリラ戦術から脱皮し、戦車、重火器による正規戦を採用していた。
しかしこのような戦いになれば、まだ数多く駐留していたアメリカ軍と南政府軍の空軍力はそれなりの効果を発揮し、戦果をあげる。北軍の攻勢は2週間ほどで多くの損害を出し、翌年春まで停滞気味となった。
この攻撃への報復として、12月26日アメリカはしばらく休止していた北爆を再開した。しかしアメリカ国内の反戦ムードを考慮して、爆撃地帯を北ベトナム南部(いわゆるパン・ハンドル、南部の細長い部分)に限っている。そして爆撃の規模も決して大きなものではなかった。
1971年は、南ベトナムにとって崩壊への予兆におびえる年でもあった。大国アメリカも自国の内部から揺さぶられ、ベトナム化という名目に頼って兵力を徐々に削減させて行った。もはや南ベトナムは、否応なく独力で民族解放戦線と北ベトナム軍(そしてラオス、カンボジアの共産勢力)と戦わなければいけなくなったのである。
冷静に見ても、1971年は前年に続いて南ベトナムの存在そのものが、最早"時間の問題"となった年といえよう。
さて、歴史的には、1971年はこの戦争に関する情報が多く入手できた最後の年ともいえる。アメリカ軍の撤退とともに、それまで全世界に流し続けていたアメリカの報道機関のベトナムに対する関心が、休息に薄れて行くのである。
南政府は自国の窮状を世界に向けてアピールすることにあまり熱心ではなく、アメリカがそれを一手に引き受けていた。しかし、南ベトナムから自国の軍隊が順次撤収して行けば、当然のことながらアメリカ報道界の関心はそれに比例して減少して行くのである。
1972年の8月、最後のアメリカ軍地上部隊がベトナムを離れる事と並行して、アメリカ国民の関心は遠く離れたアジアの小国から、ウォーターゲート事件へと転化してしまう。そして日本の報道界も、国民の関心もアメリカに追従するのである。しかし、忘れ去られたベトナムでの戦争はその後3年間にわたって続くことになる。
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いかがであろうか、このように、ホーチミンルート遮断を狙った、カンボジア侵攻とそれに続くラオス侵攻を目指した71年の「ラムソン719」が実質的にベトナム戦争の天王山であり、決定的な意義を有したことが分かるであろう。
前号で述べたが、六カ国協議が日米の譲歩で終わった背景は、対イラン戦のため、「二正面作戦の回避」にある。
そのように考えると、六カ国協議直後からアメリカによるイランの在米資産凍結が発表された理由は、ひとつしかない。つまり、本年における対イラン開戦だ。今回のイラン攻撃も、「ラムソン719」と同じような補給ルート遮断という意味を戦略的に有している。
私は、戦略的観点から、アメリカが取りうる選択肢は、VOL132で述べたような、サウジに兵力を集中し、スンニ派イラクをサウジに支援させるというやり方しか、ありえないだろうと考えている。そのためには、シーア派イランの脅威が大きければ大きいほどよい。
穏健派の親米湾岸諸国の立場で考えると、イラクの東西分割により、シーア派の勢力がチグリス・ユーフラテスまで伸張してくることは好ましくはないが、現時点でそれを防ぐ手立ては存在せず、むしろ、メソポタミア地域の支配権をイランに譲ることで、イランの妥協を引き出し、停戦への合意をとりつけるしかない。イランにとっても、長年の宿願であった、メソポタミア地域の支配権が確立できるのだから、悪い話ではない。
このように考えると、イラクを東西に分割し、チグリス・ユーフラテスを自然の国境にすると、冷戦期の欧州と同じような均衡と安定が中東にもたらされることになる。その過程で、アメリカの湾岸諸国への軍事駐留が正当化され、政権の傀儡化が進むのではないかと考えている。これは、おそらく、米陸軍の総意でもあるだろう。なぜなら、米陸軍は、既に兵力不足に陥っており、徴兵を実施していたベトナムでのような「ラムソン719」を中東で実施する事は、物理的に不可能だからだ。しかし、米国政府は、そのような現実的なリアリズム戦略をとらず、対イラン戦争開始を決定したようだ。以前から指摘しているように、対イラン戦争は核戦争になることが必至だ。イスラエルを巻き込んで、私が恐れていたアルマゲドンが現実化するだろう。
問題は、開戦の口実だ。アメリカは真珠湾攻撃やトンキン湾事件(1964(昭和39)年1月 アメリカ中央情報局(CIA)は秘密作戦計画34Aにより北ベトナム軍の基地、補給路への攻撃、レーダー網の攪乱を開始8月2日 アメリカ海軍はトンキン湾公海上に駆逐艦「マドックス」(USS Maddox DD-731,艦長ハーバート・L・オジェ中佐)を展開。北ベトナム軍魚雷艇3隻が「マドックス」に魚雷攻撃を加える
8月4日 「マドックス」への再度の魚雷攻撃が報告されアメリカ軍はこれを口実に北ベトナムを攻撃。空母「タイコンデロガ」(USS Ticonderoga CV-14)艦載機が北ベトナム沿岸の魚雷艇基地を空襲した。8月7日 連邦議会は事実上の宣戦布告となる「トンキン湾決議」を採択し、報復攻撃にゴー・サインを出したリンドン・ジョンソン大統領の演説を承認。現在では8月4日の北ベトナム軍の攻撃はなかったとする説が有力
(ロバート・マクナマラ国防長官(当時)が1995(平成7)年に「北ベトナム軍による二度目の攻撃はなかった」と著書で暴露))のような、「イランによる先制攻撃」を捏造するだろう。
問題は、このような対イラン戦が、どのような影響を与えるかだ。イラクで消耗した米陸軍にイラン展開の能力は無い。それを埋めるために、日本や英国やEUの参戦が求められるだろう。
当然、英国を含むEUや日本が、イラン戦争に協力するとは思えない。逆に、日本は、英国やEUと協力し、対イラン開戦を阻止するための連携が必要だ。そして、その連携に米軍を組み込むのだ。
日本、英国、EU、米軍の総意でもって、米国政府に圧力をかける。
アメリカとイランの両国が徹底的に対立し、キューバ危機のように開戦直前までいって、講和が妥結する可能性もないではないが、現状では望み薄だ。
日本がとるべきは、イラク戦争時のような「盲目的な開戦支持」であってはならない。久間防衛大臣のイラク戦争批判もこのような文脈で考えるべきだ。既にレイムダックと化したハリバートンの代理人チェィニーと会談する必要は、「全く無い」のだから。
むしろ、今後のアメリカは、軍VS国際金融資本の死闘の中で、何らかの形でイラク撤退を模索する軍が優勢になっていくのではないかと予測する。世論も反戦に傾いている。この事を示すように、米下院本会議は2月16日午後(日本時間17日早朝)、ブッシュ政権が進めるイラクへの米軍増派に反対する超党派の決議案を246対182の賛成多数で可決した。与党共和党からも10人以上が賛成票を投じた。ブッシュ大統領のイラク政策は議会から"不信任"を突きつけられた格好で、政権にとって大きな打撃となった。
今後の展開を予測する上で、最も重要な点は、前号で検討した「州兵を含む米軍が国際金融資本に操られた連邦政府に対し、いつ、どのような形で反撃にでるか」だ。私の分析はこの一点のみを注視することにある。参考として、戦前の日本は政党政治の腐敗堕落から軍部独裁が生まれたということを思い出す必要がある。
対イラン戦争の有無は、米軍VS国際金融資本の死闘の結果により左右される。事態は、全く、予断を許さない。
<参考>
------------引用--------------
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20070124AT3S2400M24012007.html
久間防衛相「米のイラク開戦判断は間違い」
久間章生防衛相は24日、東京・内幸町の日本記者クラブで記者会見し、イラク戦争について「(米国はイラクに)大量破壊兵器がさもあるかのように戦争に踏み切ったが、判断が間違っていたのではないか」と述べ、ブッシュ米政権の開戦当時の判断を批判した。戦後処理を巡っても「どう処理するか処方せんがないまま戦争に入った」と指摘した。
イラク開戦の批判は久間氏の持論だが、大統領が一般教書演説で新しいイラク政策へ理解を求めた直後だけに、波紋を広げる可能性もある。
安倍晋三首相は同日、記者団の質問に答え「防衛相の感想を述べたと思う。イラク戦争の評価や復興支援について、内閣は皆一致した考え方を持っている」と語り、閣内不一致には当たらないとの考えを示した。(19:26)
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日米関係の今後は、いかに、二国間同盟を、英国や豪といった英連邦を加えた「三国同盟」に改変するかにかかっている。三国同盟の利点は、突出した一カ国の暴走を残りの二カ国で阻止できる点だ。三すくみ状態にし、相互にけん制させる構図といってもいい。イラン戦争を阻止できる可能性があるとすれば、日英が共同で戦争反対に動くことだけだ。
日本史上、「三国同盟」によるパワーバランスの安定の重要性を熟知し、実現したのは、私が日本史で最も高く評価する軍師である、駿河今川家の外交軍事統括僧、太源崇孚雪斎だ。駿府臨済寺の住持であり、今川義元の教育係。 若年の頃から稀に見る秀才として有名だった。
今川家のお家騒動「花倉の乱」では義元の庶兄・玄広恵探を破り、義元に家督を相続させる事に成功。
今川氏の分国法である今川仮名目録追加21箇条の制定に協力。
武田・北条両氏との三国同盟の締結を成功させ、今川家の基盤をより磐石なものにした。 領内の宗教政策や商業政策でも功績あり。
軍事面でも多大な功績があり、 第二次小豆坂の戦いでは総大将を務め、信長の父、織田信秀に完勝。 安祥城の戦いでは織田信広を捕縛し、織田家に奪われていた松平竹千代を今川家に取り戻した。
この戦いで織田家の勢力は減退し、今川家の勢力が尾張にまで及ぶようになった。
また、竹千代の教育係も務めたとも言われる。 まさに文武両道の人物。
彼が生存していたら、桶狭間の敗戦が無かったと言われることもあるが、それも頷けると思う。 家康も彼を見て、あれだけ大きな人物になったのだろう。
太源崇孚雪斎が締結に成功した、甲相駿三国同盟とは、天文23年(1554年)に結ばれた、日本の戦国時代における和平協定のひとつである。甲相駿はそれぞれ甲斐・相模・駿河を指し、この時それぞれを治めていた武田信玄・北条氏康・今川義元の3者の合意によるもの。締結時に3者が会合したという伝説から善徳寺の会盟とも呼ばれている。
同盟締結による三者の利益は明らかで、武田氏では、信濃における覇権を確固たるものにするため、天文22年(1553年)から始まる川中島の戦いで上杉氏との争いが本格的になった。この合戦には今川氏からも援軍が派遣されている。
北条氏では、今川氏との友好関係を取り戻し、武田氏とは上杉氏という共通の敵を持つことで後背の憂いをなくし、上杉を名目上の主と仰ぐ、佐竹・宇都宮・長野・里見などに対して関東の平定を押し進めていった。
今川氏では、新たに影響を及ぼした三河の経営など、領内の支配体制を確立しつつ、戦略面においては争う相手を織田氏のみに絞ることが容易になった。この三国同盟の成立こそが、今川義元の尾張侵攻から、桶狭間に通じるのだ。なお、太源雪斎が没するのは1555年に没しており、その後、桶狭間が会ったのは1560年だ。太源雪斎が存命であれば、桶狭間も無く、今川家の没落も無かったであろう。
そして、重要な点として特筆すべきは、太源雪斎こそが、幼少時の人質時代の松平竹千代、後の徳川家康の家庭教師兼養育であり、竹千代の学問の基礎を築き、人格形成に大きな影響を与えたのだ。家康がこの駿府時代を青年時代のよき思い出として記憶していたであろうことは、晩年の大御所時代、駿府に拠点を定めていたことからもうかがえる。
なお、本年のNHK大河ドラマ「風林火山」では、太源雪斎は主要人物として登場し、伊武雅刀が演じている。
以上




コメント
>逆に、日本は、英国やEUと協力し、対イラン開戦を阻止するための
>連携が必要だ。そして、その連携に米軍を組み込むのだ。
確かに、イラン戦争=究極の消耗線かつ絶滅戦争を防ぐには、これしかありませんね。
しかし、安倍首相にそれができるかどうかは疑問です。彼は支持母体が支持母体だけに、アメリカの意向には逆らえないと見ます。
もっとも、選挙を考えれば、憲法改正もなく地上戦に自衛隊を投入したら、自民党は向こう10年は勝てないでしょう。
かといって、日本人を(何の対立もないイランとの)戦争一色、もしくは改憲一色にするような工作は、短期間では困難です。憲法改正のためには、次の参院選で105議席(改選議席の86%!!)を取らなくてはいけないのです。
そこに、唯一の救いを見ます。戦後我が国の主権保持を妨げてきた平和憲法が、もしかしたら我が国を救う手段になりうるかもしれないのです。あとは、佐藤栄作がやったような、「今自衛隊を出したら社会党に負ける」というようなハッタリを、日本の指導者ができるかどうかですが・・・久間大臣を罷免しなかったという点に、希望を見いだすのは楽観的すぎるでしょうか?
Posted by ろろ at 2007年2月20日 00:03
まさに、吉田や佐藤がやった、「社会党に政権をとられる」といって朝鮮やベトナムへの派兵拒否は、弱者の外交として、必要な裏技です。
このようなぎりぎりの決断と交渉の上に戦後日本の平和と繁栄は達成されたのです。
55年体制の野党や左翼は使いようです。
いずれにせよ、イラン攻撃を止めないと、大変なことになります
Posted by 孔明 at 2007年2月20日 00:59
イラン攻撃は何月の予想ですか?
副大統領は何を話しに日本にきているのでしょう。
Posted by エア at 2007年2月21日 14:11
あるとすれば五月でしょう
ないとすれば、北京とモスクワをテヘランと離間させることで米イランの握手ができた場合です。
どう転ぶか分かりません
Posted by 孔明 at 2007年2月21日 23:12
復活!三輪のレッドアラート!日本は中東大戦の引き金を引いた
http://klingon.blog87.fc2.com/blog-entry-134.html
こちらで今回の記事への論評を書いて置きました。
ちょっと尻切れトンボかも知れませんが・・・。
Posted by 三輪耀山 at 2007年2月24日 13:41
時代は急いでいるようですがあなたは何をしているの?
Posted by 幕末の三舟 at 2007年6月 9日 01:09
A surprise。偽りの黒き月の継承者が白き月の継承者に変わる約束の時が近い。少なくともアメリカとペルシャの原理主義者はそのように考えている。
Posted by ライオネル at 2007年7月 8日 03:32
予定通りですね
原油の円建て決済を要請 イラン、日本の石油業界に
http://www.sankei.co.jp/keizai/sangyo/070714/sng070714002.htm
原油価格、最高値に迫る
http://www.nikkei.co.jp/news/kaigai/20070715AT2M1401K14072007.html
米、3隻目の空母を異例の派遣 ペルシャ湾
http://www.asahi.com/international/update/0711/TKY200707110049.html
Posted by クセルクセス at 2007年7月15日 21:27
約束の日は近いと思います。
株安連鎖止まらず、NYダウ208ドル安
http://www.asahi.com/business/update/0728/TKY200707280064.html
Posted by anderson at 2007年7月28日 03:50
見事な分析です。ここのコメントは本当に価値がある。
国際金融マーケットから中東情勢まで将に...
http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-29.html
全ては予定調和の揺らぎの中にある。
Posted by ヴォータン at 2007年8月18日 23:33
多国籍軍の弱点である英軍の補給ルートを断つ。
エージェント小沢とその参謀は策士ですね。
Posted by 湯場 at 2007年9月10日 11:32
いよいよですんか?
Posted by 小野田 at 2008年1月 8日 22:27
終わりの始まりですね
Posted by 哲人 at 2008年6月 1日 02:49