原 亨の最近のブログ記事

2008年5月25日

【秋月】遠隔教育

1.遠隔教育とは

離島、過疎地など学校から遠い場所に住んでいる学生や、働きながら学びたい人たちでも教育を受けられるようにすること、および引退後の人たちの生涯教育が主目的である。従来はそのような目的のためには、主に郵便による通信教育が行われてきた。それがインターネットの発達とブロードバンドの普及によって革命的に変化した。

実例としては、慶應義塾大学の School of Internet(SOI)が有名である。これは1997年から始まっている。恐らく日本では最初だろう。アメリカのMIT がその講義をインターネットに乗せたのも、この頃だったと思う。私の記憶では、SOIの方が早かったかのではなかったか。

 出典

2.School of Internet(SOI)

主催者は  WIDE(会長:村井 純慶応義塾大学教授)。慶應義塾大学の多くの講義がSOIのホームページから視聴できる。2001年4月現在、半数以上が社会人の7000人以上が学生としてSOIに登録しており、授業のアーカイブは800時間であった。現在では恐らく1000時間を越えているのではないだろうか。

SOIは無料で参加できる。ただし、単位は取れない。課題の提出はできるし、成績を付けてもらえる場合もある。これは文部省の指示によるもので、SOIでは全学生との面接はしていないので文部省からは大学として認められていないためである。慶應義塾大学の在学生も一緒に受講する。かれらは授業料を払っているので当然単位がもらえる。講義のレベルは学部および大学院レベルである。

大部分の講義はアーカイブだが、中にはリアルタイムで参加できる講義もある。アーカイブもリアルタイムも使うソフトはReal Playerである。アーカイブの場合は講義資料がReal Playerの講義画面の左横に表示される。講義資料はPower Pointで作られており、講義の進行に同期してページが自動的に変わる。リアルタイムの場合は、SOIの授業ページからダウンロードしてPower Pointで開く。ページ送りは自分でやらなければならない。いずれの場合も教官が教室でレーザーポインターによって講義資料の何処を指して講義しているのかは分からない。

リアルタイムで受講する場合は、 Chocoa によって、アシスタントとチャットができるので、教師に対して質問することも可能である。

 出典

半年が1学期だがその間に何回か課題が出る。課題は普通1週間以内に提出しなければならない。提出はSOIの課題提出のページにtxt文をコピイアンドペーストするか、自分のホームページに貼り付けてそのURLを書き込むことによって行う。

提出した課題の内、教官が選んだ提出課題を次回学生が教壇で発表し、担当教官の評価や質問を貰えることがある。これは学外のSOI学生にも許されることがある。

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3.SFC Global Campus

SOIの他に、慶應義塾湘南藤沢キャンパス(SFC)は、SOIの経験を生かして、 Global Campus(SFC-GC)を2002年度から始めた。これはSFC在学生の勉学の補助として、講義内容を何時でも復習できるようにしたものではあるが、学外者もインターネットで聴講することができる。2007年秋学期には合計37科目の講義が公開されている。そしてその内の4科目が「e-科目」となっている。

 出典

e-科目とは、有料で、インターネット経由で受講して単位を取得できるものである。履修にかかる費用は、下記のとおり。(2008年度現在)

o 審査料 : 18,000円(1年間有効)

o 登録料 : 40,000円(1学期あたり)

o 聴講料 : 31,000円(1単位あたり)

ただし、「現在のところ、e-科目等履修生制度にて取得した単位は、慶應義塾大学政策・メディア研究科修士課程に入学後、 8単位を上限として認定されることがあります。」ということで実質的なメリットは少ないとも言える。大学当局としては多分に試行的な段階なのだろう。

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4.早稲田大学の遠隔教育

早稲田大学は2002年4月に「遠隔教育センター」を設立した。Distance Learning Center(DLC)と呼んでいる。ホームページには2003年度から2005年度までの対象科目が載っている。2006年度以降どうなっているのかは分からない。

5.北陸先端科学技術大学

石川県能美市にある北陸先端科学技術大学 も遠隔教育研究センターを持っている。講義ビデオは学内からしか利用できない。大学間の利用を行っているようだ。

6.サイバー大学

ソフトバンク株式会社がサイバー大学の主要株主として71%の株を持っている。インターネットで受講して単位が取れ、学位が取れることになっている。2008年1月、在学生620人のうち約200人の本人確認を行っていなかったことが発覚した。文部省から注意を受けてマスコミをにぎわした。

7.八洲学園大学

通信制大学と称している。インターネットだけで卒業できるそうだ。スクーリングを行っており、各種の資格が取れると謳っている。

参考

8.たがやeカレッジ

「世田谷区内の大学と区教育委員会は協働で、世田谷の豊かな知識財を、インターネットを通じて区民や全国に向けて発信する、文化創造型の新しい学習サービス「せたがやeカレッジ」を運営しています。」とのことである。アーカイブのみ。有料だが受講料は安い。私が受講した講座は確か1000円だったと思う。世田谷区が運営にどの程度関与しているのかはホームページからは明かでない。ボランティアを募集している。単位は出ない。

9.NOVAお茶の間留学

英会話学校のNOVAは「お茶の間留学」と名付けて遠隔教育による英会話指導を行っていた。一時不適正な経理処理を指摘されて閉鎖していたが最近再開したようだ。

10.遠隔教育サポートシステム

(1)NECが、SaaS型のeラーニングサービス「 Cultiiva Global」を発売している。数十万人規模の一斉教育も可能とのこと。

(2)西宮市の株式会社 アップがE-Lectureと言う名前の遠隔授業システムを販売している。 主に進学塾を狙っているようである。

参考

(3)株式会社デジタル・ナレッジ・ユニバーシティ・ラーニング

ここは遠隔教育に留まらず、大学運営全般のIT化をサポートすることを業務としているようで、東北大学、神奈川大学、デジタルハリウッド大学、八州学園大学に納入実績があるといっている。

参考

11.その他

一部をインターネット授業にした通信課程を併設している大学としては、産業能率大学、帝京大学、北海道情報大学があり、一部授業をインターネットにしている大学としては、信州大学、大阪市立大学、園田学園女子大学等がある。

『秋月』の遠隔生涯学習システム (連山編集部の取材)

関連情報平成20年6月22日より、『秋月』のサービスが開始されます。希望者は→ クリック
『秋月』の会員は2つの言語、2つの仕事を得ることが目的の一つになっています。 これを量子力学でいえば重ね合わせといえます。コラムでいえば半農Xとか、兼業作家ということになるでしょうか。 知的な内容を日本語及び英語(ロシア語、中国語、フランス語、ドイツ語など)で読み書きができる。 既にプロとして文筆作家や情報技術者、医師や科学者、教育者や金融コンサルタントとして安定的な知的収益を得ながらも、新しいコラボレーションにより、新しい仕事や社会の方向性を生み出す事が目的です。 これをビジネスやスポーツクラブ、学問知識と連携したい方々も対象となります。 組織(地球や社会)を組織内組織(企業や個人)を重視する価値観が必要です。 自社の利益のために捏造したり、個人の利益のためにインサイダー取引は御法度です。   『秋月』の制御者はプロの制御理論を駆使します。負ける戦いは決してしません。 人間(ホモ•サピエンス)には3種類が存在します。

  • 武者タイプ---資本財は経験理論による統率、資本財としての移動システムと鍛えられた兵士
  • 知者タイプ---資本財は学習による知識、資本財としての書物やデジタルアーカイブ、教え子
  • 富者タイプ---資本財は蓄積による動産不動産、資本財としては通貨、土地、有価証券、奴隷

電脳空間ワイヤードにそれぞれの資本財を集め、TV会議(電脳クリルタイ)で社会の方向性を決める。 資源の枯渇や紙幣の乱発、財政破綻などから影響を受けないあの世(ワイヤード情報空間)にそれらをストックする。メンバーが持つ余剰な資本財を出し合い、それを融合させ、価値ある知的デジタル財産へと昇華させるのだ。 ワイヤードで統一グランドデザイン(辞書)とウィキ(wiki)を作成して、情報智識格差を埋める。 不足する資本財 は『連山』や『天山』を使って集める。そして、オペレーションを開始する。 次に、現実世界(リアルワールド)に出現させる機動部隊を編成する。その活動人員の主体は青年であろう。ビジネスから教育、政治家に至まで縦横無尽に出現する。 最適な時、最適な場所に、経験豊富な武将と鍛え抜かれた戦士が投入される。そして、必ず勝利する。 それらは映像クリエーターによってデジタルアーカイブ化され公開される。そして洗脳奴隷たちは覚醒する。 戦う目的は炭素文明から水素文明へのスムーズな移行である。環境破壊により炭素文明では人口崩壊が起きる。 既に安定的な収入源を持つ『秋月』メンバーは参加•不参加を自由に選択する事ができる。 選択しても、選択から除外されることもある。選択する事によって選択されるのが情報社会である。 人はできるからするのではない。人はせざる得ないからするのである。人や故郷を愛すれば故に...... 『連山』編集部も精力的に取材を申し込みます。

出典:上杉鷹山公が子息に教訓として詠み与えたもの
なせば成る為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり
その心得は・・
 やろうと思えば何でもできます。 できないのはやろうと思わないからです。
 やろうとすることは他人のためではなく、自分のためになるのです。


主要アクセス先(平成20年5月17日)



関連コラム


新しい軍隊:【情報体系】ポスト資本主義の世界(下記映像参照)



上記は、海外でプロジェクト会議に参加している伝説の覇者イメージ図です。(出典:陸軍中野学校

2008年5月18日

【実録】ミャンマー(ビルマ)で出会ったサイクロン

私は2008年4月24日から5月7日までミャンマー(ビルマ)にいた。ミャンマーを記録的なサイクロンが襲ったのが5月2日と3日。私はその時ミャンマーの首都のヤンゴン(ラングーン)の北の町、バガンにいた。そして5月5日、運行停止していた航空機の運行再開とともにヤンゴンに向かった。
航空機がヤンゴンに近づくに連れて、洪水の様子が見えてきた。

5月5日





ヤンゴン空港に着陸し市内に入る。多くの街路樹が倒れている。

ホテルに入る。部屋の窓から裏町の様子が見える。屋根が飛んで部屋が丸見えの家が何軒かある。

台風以前に泊まった部屋とは違っているので全く同じではないが、大体同じ場所を台風前に撮ったのがこちら。

5月6日
そこで翌日町に出てみた。ガラス張りのビル窓が破れている。

広告塔は曲がってしまった。

ガラスの割れたビルの前では、大きな木が根こそぎになっている。風の強さが分かる。

ところが驚いたことに人は何事もなかったかのように道端で商売をしている。

倒木の横で店を拡げる逞しさ。

確かに台風が来ても腹は空く。

給水車も来ている。

店の前では発電機がうなりを上げている。普段から停電の多いことが幸いした。(だけどガソリンステーションは長蛇の列、値段も暴騰している)

これは町の公衆電話屋(電話が普及していない国で良く見る)も商売している。書入れ時か?

港に行ってみる。船が沈んでいる。

桟橋も壊滅状態。

だから、対岸に渡る渡し舟に人が殺到する。船が着く場所もいつもの場所ではない。

そしてホテルに戻って驚いた。昨日飛んでいた屋根がもう直っている(白く光っている屋根が新しい屋根)。

軍服は殆ど見掛けなかった。僧侶も。

バガンで出会った親子


参考コラム: 原亨のアラブ・勝手に美人コンテスト(美女の写真多数)



変な記事ミャンマー、外交団の被災地視察を初許可...批判回避狙う(読売新聞)マスコミが真実を曲げて報道できる時代は終わりました。一部の企業はマスコミを信じて酷い目にあったそうです。本当に必要な情報は、伝統的日本人なら『飛龍』『流星』『秋月』で集めましょう。真実を知るのは消費者や株主に対する義務でしょう。
後、十数名、『秋月』会員の空きがあります。希望者は→クリック


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2008年5月 3日

台湾と中国

中華人民共和国(以下中国)は台湾が中国領であると主張している。この主張には合理的な根拠があるのだろうか?

友人が以前からそのことに興味を持ち、調べていた。彼は台灣へよく行くのだが、台灣には中華人民共和国の役所など何も無い、それでどうして中華人民共和国領土と言えるのか、疑問に思っていたそうだ。そして台灣国際放送での東大講師、昭和医大名誉教授、黄昭堂氏のインタビュー
を聞き、納得したということで、これを要約し私に紹介してくれた。その内容は私にとっても大変納得できる合理的なものであった。しかも、現在普通言われている考え方とはことなるので、広く知って頂く必要があると思った。以下はこの要約を更に私が要約し、若干の補足を加えたものである。文責は私にあるが、基本は黄昭堂氏と友人に負っているのでここに記して感謝の意を表したい。
黄昭堂氏
出典

1.台湾も支那も満州人に支配されていた

台灣は清朝の康熙帝(1654年~1722年)の時代に清国領土となった。それ以前の王朝では支那(この時代にはまだ中国は存在しない)の領土になったことはない。しかしこのことは台灣が支那の一部であることを意味しない。なぜならば清朝は満州人の王朝であって支那人の王朝ではない。逆に満州人が支那を支配していたのが清朝である。したがって支那も台灣もどちらも満州人に支配されていたのであり、被支配地の支那が同じ被支配地の台灣に対して自分の一部だというのは成り立たない。それゆえ台灣は支那の一部であったわけではない。


 清の康熙帝
出典

2.日本への台湾の割譲は合法的だった

1895年に終わった日清戦争の講和条約である下関条約(馬關條約)によって台灣は日本に割譲された。それ以降1945年に日本がポツダム宣言を受諾するまで、台湾は国際法上日本によって合法的に統治されていた。

 下関条約(馬關條約)調印式
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3.ポツダム宣言受諾とカイロ宣言

1945年8月14日に日本政府はポツダム宣言を受諾する。それを受けてアメリカ合衆国ではGeneral Order No.1が作成された。これは各地で戦う日本軍に対し、連合軍司令官マッカーサー将軍よりどのように降伏するかを指示したものである。それによると、各地で戦う日本軍はその場所に拠って降伏、武装解除を受ける相手が違っており、支那と台灣、北緯15度以北のインドシナでは国府軍蒋介石への降伏することとなった。ここで、蒋介石将軍はGeneral Order No.1によって降伏の受付を連合軍司令官マッカーサーによって委任された。

 ポツダム宣言受諾
出典

その後、台灣に上陸した蒋介石国府軍は、台灣を自国領土と宣言し、その根拠はカイロ宣言であると言った。しかしカイロ宣言には実効力は無い。

その根拠は、
1)カイロ宣言は単に報道向け声明であり拘束力は無い。
2)チャーチル、ルーズベルト、蒋介石の署名が無い
3)戦時中に約束したことは履行義務を伴わない。この場合は米英が蒋介石国府軍に台灣を渡すということを言っているが、米英にはその履行義務は無い。General Order No.1による日本軍の武装解除委任が終わると蒋介石は台灣占領を連合軍にゆだねるべき立場にあった。

 カイロ宣言出席者
出典

たとえば満州や北朝鮮はソ連がGeneral Order No.1に従って日本の降服を受付け武装解除し、それが終わったら自国領土とすることなく引き上げた。これと同じように在台灣日本軍を武装解除した後、蒋介石軍は台湾を自国領にすることはできず、中国本土に戻るべきであった。(蒋介石が中国共産党軍に敗れて台湾に敗走したのは1949年であリ、この4年後)

4.サンフランシスコ講和条約

太平洋戦争は1952年のサンフランシスコ講和条約批准で終了した。これで日本本土を武装解除して占領していた連合軍も撤退した。もちろんこの段階で蒋介石国府軍も台灣から撤退すべきだった。サンフランシスコ講和条約に署名した国の中には蒋介石国府軍の中華民國はない。また日本が本州、四国、北海道、九州以外の領土を放棄するとは書いてあっても台灣を中華民國に返還するということは書いてない。ということは台灣は日本が領土放棄した後、どの国にも未所属であるという意味になる。

このサンフランシスコ講和条約批准前の国会で、日本が領土放棄した後台灣がどうなるのかという質問が出て、政府は「領土を放棄したのであって、放棄した領土はわが国が与り知るところではありません。」と答えている。

もしも日本が中華民國に台灣の領土権を与えたのであれば、日本政府の答弁では日本の領土放棄後に中華民國に渡したと答えた筈だ。しかしこのように答弁するというのは、国際法上は台灣の地位は日本の領土放棄後未確定であるということを意味する。

 サンフランシスコ講和条約調印
出典

5.日中国交回復

1972年、日本は支那の事実上の政権である中華人民共和国と国交回復する。中華民國は1949年に台灣に亡命済みで、その後継政権は中華人民共和国となる。そこで中華人民共和国も後継政権としてカイロ宣言を根拠に台灣の領有権を主張した。しかしながら日本はそのことを「尊重し理解する」と言っただけだ。これは「同意していない」ということを意味する。そしてこれは2008年の今でも変わっていない。それなのに報道機関や一部の学者が、台灣は中華人民共和国の領土であるかのような言い方をするのは、間違いであり、意識的に行われているとすれば嘘である。

以上により、台灣は中華人民共和国の一部ではない、と言える。

6.では台湾は誰のものか?

法的に日本が放棄した台湾の領有権を持っているのは、いまでも終戦時の「主要占領国アメリカ」しかない。そのアメリカも台湾を「暫定的に預かった」だけだから、台湾人民の同意なしに何処にも譲渡・割譲する権利はない。

アメリカは半世紀以上も台湾の主権について曖昧な政策をとっているが、台湾人はアメリカに対して明確な解決を要求するべきであり、台湾人自身がその帰属を決めるべきである。

7.日本の防衛は?

台湾が中国領になれば、万一中国が日本を攻めようとした時、今まではは西からだけしか攻められなかったのが、今度は南からも攻められるようになる。日本は西と南の2方面の守りを固める必要が出る。

日本は自国を護るためにも、台湾を中国に渡すべきでない。日本が台湾を中国から護ることは日本自身を護ることなのだ。


推薦書籍


特選書籍:地獄のドバイと伝説の覇者

2008年3月 3日

【緊急】イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策 Ⅰ・Ⅱ:ジョン・J・ミアシャイマー、スティーヴン・M・ウォルト著、副島 隆彦訳、講談社



重要:  米大統領選 崖っぷちの3月4日 クリントン氏、撤退予測も(産経新聞)

ニュース:ロシアのガスプロム、ウクライナ向けガス供給25%削減(日経新聞)

1.感想

先ず、アメリカのタブーに果敢に切り込んだ勇気に感動しました。出版後、イスラエル・ロビー側からの執拗な脅迫・嫌がらせがあったことでしょう。そして、この本の出版によって、アメリカがどのように変わるか、或いは変わらないのか?大変興味のあるところです。

イスラエル・ロビーがアメリカでこれほどの力を持っているのは、ユダヤ系アメリカ人の財力、その寄付に拠っています。要するにお金の力で議員を動かし、マスコミを動員し、大統領を動かして、アメリカの政策をイスラエルよりに偏らせています。その組織力は大したものです。アメリカはイスラエルの属国ではないのか?アメリカの大統領はシャロンなのではないか?と思わせるほどです。しかし、その組織力に比べて、政策立案能力は大したことがないのかも知れません。彼らの推す政策はアメリカの利益を損ない、イスラエル自身の利益にもなっていないと筆者達は見ているからです。私の目にもイスラエルは武力に頼りすぎて、対等な立場での外交を疎かにしているように見えます。

そして私が興味を持ったのは、イスラエルの手口が中国の手口と共通点が多いことです。恐らく中国はこの本を教科書として、アメリカにチャイナ・ロビーを作り、中国現政権の利益を増そうとするに違いありません。そしてその時わが日本は?多分、ただあれよあれよと状況が悪化するのを見守るだけで、何も対抗手段を打とうとしないのでしょうね。大変残念なことです。

2.要約

ここで「イスラエル・ロビー」とは単一のまとまりを持った団体ではなく、イスラエルの利益を増やすことを最大の目標とする個人と団体の緩やかな結合である。大部分はユダヤ系アメリカ人からなり、これにキリスト教シオニストが含まれている。AIPACがその代表である。

彼らの活動の結果、どのようなことが起っているか?

1976年以降、イスラエルは一貫して最大の米国対外援助受給国である。最初は借款だったがその後、援助金になった。その大部分は軍事支援である。イスラエル国民一人当たり年間500ドル、第2位のエジプトは20ドル、桁が違う。しかもその他に便宜供与があり、援助金の支給条件が他国よりもはるかに良い。イスラエルは一人当たり所得が韓国・台湾を上回る富裕国である。エジプトとヨルダンはイスラエルに次ぐ米国対外援助受給国だが、それはイスラエルとの平和条約に調印したご褒美である。

過去には、イスラエルを支援することが米国の利益になったこともあったが、現在ではその利益は、ソ連崩壊と共に終っており、経済的・外交的な負担だけが増大している。

米国がイスラエルを支持した結果、テロの問題が起った。米国がイスラエルの近隣諸国を脅威とする理由は、米国のイスラエルへの支援にある。

イスラエルは自国の利益を優先し、アメリカの利益に反してもその政策を遂行してきた。

イスラエルは米軍の軍事機密を常に盗もうとしてきた。

現在、イスラエルは中東最大の軍事大国である。

イスラエルは人種差別国家である。イスラム教徒アラブ人が閣僚になったことはないし、イスラエル人と結婚したパレスチナ人はイスラエル国民になれない。イスラエルに住むこともできない。イスラエルはデモ鎮圧を理由に、多くのデモに参加していなかったパレスチナ人の子供を狙い撃ちして殺した。

イスラエルの政策を批判すると、ユダヤ系アメリカ人の支持を失い、政治家は政治資金集めが困難になる。

ネオコンは米国の利害よりもイスラエルの利害に関心が強い。

イスラエル・ロビーの力の源泉は連邦議会を動かす力にある。イスラエルは連邦議会で批判されることが殆どない世界ただ一つの国だ。議員は皆、イスラエルに関する議論を避ける。

 アメリカ連邦議会
出典

イスラエル・ロビーはイスラエルに味方する議員に政治献金をする他、有能なスタッフを送り込んで、問題分析、法案立案、議会戦術の提案、法案共同提出者の募集、投票の誘導、スピーチの下書きなどを行う。議員の海外視察旅行の行き先の10%がイスラエルである。

民主党大統領候補者への個人献金の60%はユダヤ系米国人からのものだと言われている。

米国の新聞には親イスラエル派の主張だけが掲載され、アラブやパレスチナの主張は掲載されない。

ワシントンの主なシンクタンクの多くはイスラエル支持である。

イスラエル・ロビーは全米の大学にイスラエル研究プログラムを設置させようと寄付を行っており、それは成功して大学内でイスラエルの良いイメージを宣伝している。さらに大学管理者に圧力をかけて、人事決定に影響を及ぼそうとしている。このような親イスラエルキャンペーンは高校でも行われている。

イスラエル・ロビーの最強の武器は「反ユダヤ主義」というレッテルを貼ることである。

米国のイスラエル支援と米軍の駐留が、アラブ社会とイスラム社会の米国に対する怒りを掻き立てて、アル・カイダの活動を拡大させている。

ブッシュ大統領は2002年4月4日、シャロン首相に対して「ヨルダン川西岸への侵攻を止め、撤退する」よう求めた。その日、パウエル長官はイスラエル説得のために中東に向かった。イスラエルとイスラエル・ロビーは激しく反発し、最初ブッシュに同調していたライスのパウエルへの電話の内容は次第に変化た。パウエルへのブッシュ政権内の力関係が変り、パウエルは何も成果を得られずに帰国、4月11日、ブッシュ大統領は「シャロン首相を支持する」と明言した。イスラエル軍の西岸地区制圧は続いた。2002年5月9日にはイスラエルへの2億ドルの追加支援がイスラエル・ロビーの強力な支援の下に議会で可決され、ブッシュ大統領は署名した。

 イスラエル シャロン元首相
出典

ブッシュはパレスチナが独立国家を作ってイスラエルと共存すべきだと考えていたが、シャロンはパレスチナが独立した国家を持つことには反対であった。そして、議会工作により、ブッシュの考えを次々と覆した。そしてブッシュも次第にシャロンに反対しなくなり、その考えに従うようになっていった。ブッシュのこのような態度に対して中東全域に怒りが充満した。しかし、このようなブッシュの変更は米国の世論調査によると、米国の世論に反している。

イラク戦争はネオコンの画策によって生まれた。イスラエルとイスラエル・ロビーがこれを支援した。国務省、情報機関、制服組の軍人がイラクに対する戦争を熱望することはなかった。

イスラエルはイラクの次の標的をシリアに定めた。しかし、シリアはヒズボラ等のテロリスト組織を支援して、イスラエルに脅威を与えているだけで、アメリカの脅威にはなっていない。それどころか、シリアはアル・カイダに関する重要な情報をアメリカに提供している。シリアからのイスラエルに対する交渉再開の提案は、シャロン、オルメルトに拒否され続けている。しかもオルメルトはそれをブッシュからの要請であると言っている。しかしそれに反する多くの証言がある。しかし、反シリア法案が議会に提出されると、大差で可決され、ブッシュ大統領は2003年12月に署名した。

イスラエルとイスラエル・ロビーは米国がイランと友好関係にならないように画策している。実際には米国はアフガニスタンとイラクの状況を救うためにはイランの協力が必要なのだ。しかし、イスラエルとイスラエル・ロビーはこのような動きを懸命に妨害している。

2006年夏、イスラエルは34日間レバノンと戦争した。イスラエル兵十数人を殺害された報復として、イスラエル軍は大規模な空爆を行い、1800人のレバノン人(大部分は一般市民、三分の一は子供)を殺すと共に、レバノンのインフラを壊滅状態にした。悪名高いクラスター爆弾さえ大量に使った。この期間、アメリカが無条件でイスラエルを支援したことによって、中東全域の反米感情が高まった。国連安保理のイスラエル非難決議案はアメリカの拒否権発動により葬られた。民主党も大統領のイスラエル支援に反対しなかった。主要報道機関は断固としてイスラエルを支持した。この戦争によって、レバノンとヒズボラの政治的立場は逆に向上した。

アメリカは中東地域から軍隊を引き上げ、地域外から均衡を図った方が、米国・イスラエルの両国に良い結果をもたらすだろう。イスラエルが現在占領しているヨルダン川西岸地区、ガザ地区、ゴラン高原から撤退すれば、反イスラエル同盟を分断し、弱体化させることができる。イスラエルがパレスチナ人の独立国家建設に反対し、一方的で不公正な解決策を強行するならば、米国はイスラエルに対する経済的、軍事的支援を減らすべきだ。

公的資金を選挙資金として候補者に与えればイスラエル・ロビーと政治家のつながりを弱めることができるだろう。

 イスラエル オルメルト首相

出典

今必要なことはイスラエル・ロビーの影響力に関する率直でルールに則った議論と、中東における米国の利益についてより開かれた議論を行うことである。

主要アクセス先(2008/3/3)



関連書籍



2007年12月17日

【長崎とキリスト教】浦上四番崩れ

1. 隠れ切支丹

織田信長は南蛮人を歓迎し、その文明に興味を示したが、徳川家康は1612年にキリシタン禁令を出してその布教を禁止した。その後、徳川幕府が倒れて、明治政府になっても、キリスト教は禁止されたままだった。明治政府が欧米諸国からの度重なる抗議に耐えかねて、キリスト教に対する弾圧を止めたのは1873年(明治6年)のことである。実に、260年以上日本ではキリスト教が禁止されていたことになる。

キリスト教弾圧に当たって、徳川幕府および明治政府のとった弾圧方法は、想像を絶する凄惨なもので、日本人がこれほど残虐であったのかと戦慄するばかりである。

しかし、どのように弾圧されようとも信仰を捨てない人たちがいた。彼らは表向きは仏教徒として振舞いながら、ひそかに観音像を聖母マリアに見立てキリスト教の信仰を守ったのである。彼らを人は「隠れ切支丹」と呼んだ。

天草で発見されたマリア観音

出典

隠れ切支丹が最も多かったのは、長崎であるが、その他にも、新潟県、大阪府茨木市、岩手県などにいたと言われており、その遺物が残されている。

2. 浦上四番崩れ

江戸時代始めにキリスト教は禁止された。隠れキリシタンはキリスト教が禁止されていた260年間に3回摘発され、過酷な拷問を受けて、拷問に耐え切れずに仏教に改宗するもの、あくまでもキリスト教を捨てずに殉教するものに分かれた。このことを当時の人たちは「崩れ」と呼んだ。四番崩れは、長崎・浦上で起った、最後で、最大の崩れだった。

隠れキリシタンの中には次のような言い伝えがあった。「七代の孫のころにパーパ様(ローマ教皇)から遣わされた神父様が、サンタ・マリアの印の付いた帆を上げて、長崎へはいって来て、それからはその教えを信じてもよいように、規則が変わる。 」というものだ。

そして、1864年、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のために大浦天主堂が建てられ、ベルナール・プティジャン神父が派遣されてきた。1865年にプチジャン神父が、門をあけ、祭壇の前で祈っていると、一人の女性がそばに来て、胸に手をあてて「ワレラノムネ、アナタノムネトオナジ」 と言い、「サンタ マリアノ ゴゾウハ ドコ?」と尋ねた。これが『信徒発見』と呼ばれる、プチジャン神父と浦上からやってきた信徒との出会いである。この女性の名は、岩永マキ、森内てる(通称・川上のてる)などと言われ、はっきりしない。

創建当時の大浦天主堂

出典

しかし、この時はまだキリスト教は禁止されていた。しかし、隠れていたキリスト教徒は先祖の伝えた時がきた、と思ったか、或いは真の カソリックに接して、仏教徒の仮面を被っていることが嫌になったのか、隠れキリシタンの仲間の死亡を契機に、仏式の葬儀を断ってしまう。隠れることを止めて、素顔を出したのだ。その直後、幕府が倒れて明治政府になるのだが、明治政府はキリスト教については幕府の政策を踏襲して、井上博文がキリスト教徒を禁圧するために四番崩れを起こした。

浦上村の農民3,384人を20藩に分けて移し、そこで入牢させてキリシタン信仰を捨てさせるように説得や拷問を行うという「一村総流罪」に処したのである。その後、明治政府は欧米諸国からの厳重な抗議により、宗教弾圧が不平等条約改訂の最大の障害になっていることを悟り、明治6年にキリスト教の布教を認め、流されていた浦上村民の帰村を認めた。村民3,384人中、613人が拷問によって殉教し、1,900人が信仰を守った。信仰を捨てた1,011人も浦上に帰ってから、ほとんど人が信仰を取り戻した。この長い流浪の時を、浦上キリシタンたちは「旅」と呼んだ。これが「浦上四番崩れ」である。

しかし、浦上の信徒達の受難はこれだけでは終らなかった。

1945年8月9日、米軍が雲の切れ目に投下した原爆により、浦上天主堂は壊滅し、参堂していた信徒30数人が全員即死、1万2000人の信徒のうち8500人が被爆死したといわれている。人はこれを「浦上五番崩れ」と呼んだ。

浦上の信徒達が何故これほどの受難に耐えなければいけなかったのか?知っているのは彼らの信じる神だけである。私には分からない。


被爆した浦上天主堂のマリア

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被爆前のマリア

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3. 日本人とキリスト教

浦上の人たちを「幸せであった」というには、かなり無理な論理が必要だろう。多分キリスト教の側の人はそうしているのだろうが。

私には単純に彼らは不幸な人たちに思える。一番不幸なのは多分彼らがキリスト教に出会ってしまったことなのだ。

彼らの時代に、キリスト教は様々なものを背負っていた、西欧の技術、医術、哲学、その輝きを全て当時のキリスト教は担っていたのだろうと思う。現在我々が見るキリスト教と、彼らが見た切支丹伴天連とは同じものではなかった。

そう思えば、彼らが切支丹伴天連に幻惑されたのは良く分かる。しかし、それが彼らに塗炭の苦しみを招き寄せた。結果的にイエス・キリストは彼らにとって悪魔と同じ働きをした。彼らは伴天連に会わない方が幸せであった。

キリスト教の布教は日本では成功しなかった。この戦国末期の一時期を除いて。それは何故だろうか?

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の砂漠の三兄弟は、その激しさで共通する。それに比べると、仏教も神道もはるかに穏やかだ。

日本人は直感的にキリスト教の激しさを嫌ったのではないかと思う。

キリシタンに対する拷問は日本の中では特異なもののように思う。

日本で昔から行われていた拷問は、1742年以降、笞打(むちうち)・石抱き・海老責(えびぜめ)・釣責に限定され、しかもその実行に当たっては様々な制約が課されていた。それに対して、切支丹に対して行われた拷問は穴釣り、水磔、逆さ十字など他では聞いたことがない凄惨な方法が多い。

これは当時の日本人がキリスト教の激しさに対して抱いた驚きと敵意を表しているのではないだろうか?

そしてそれは今に続いており、日本におけるキリスト教布教の不振につながっているように、私には見える。

再建された現在の大浦天主堂

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再建された大浦の「信徒発見のマリア像」

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プログラム




出典:37歳容疑者、教会で自殺 佐世保、被害男性と同級生


【号外】テロルの時代と哲学の使命(アメリカ銃乱射事件)


バージニア工科大学銃乱射事件・・・・・33名(教員5名、容疑者1名を含む学生28名)が死亡し、アメリカの学校が現場となった銃乱射事件では史上最悪の犠牲者


松本清張の短編に「黒地の絵」と佐世保乱射事件


参考文献




関連コラム:希望の船


革命者としてのプロジャーナリストの情報転記





今年も残すところあと僅かとなりました。同じ志を持つ皆が集まって、真剣に世界平和について考えてみませんか?ベンジャミンフルフォードによる“日本をよくするための提案”も発表しますので、皆で意見を交換しあいましょう。この機会にベンジャミンフルフォードと本音で話し合い、交流を深める場にしたいと思います。その他アイディアのある方は積極的にお持ちください。ベンジャミンフルフォードへの質問も大歓迎です!!


尚、会場の都合上、先着80名様で締め切らせていただきます。(※お一人様参加も大歓迎です)

~ベンジャミンフルフォード忘年会~

テーマ: 世界平和のために、日本を変えるために、私達ができることは何か?

日時: 2007年12月27日(木) 19:00~22:00(受付は18時半からです)

場所: 渋谷駅 T‘s salon 2F (東京都渋谷区渋谷1-6-8渋谷井上ビル)

アクセス: JR渋谷駅「東口」より徒歩5分

地図: http://www.tsrental.jp/access/index_salon.html

費用:  4500円 (フリードリンク3時間 軽食付き)

申し込み方法: 氏名、連絡先 、参加人数を明記の上、

          メール(benjaminoffice88@gmail.com)にてお申し込み下さい。

お問い合わせ: ベンジャミンフルフォード事務所 (benjaminoffice88@gmail.com)

2007年12月 8日

ラビア・カーディルと東トルキスタン

1. 東トルキスタンと言う国

「東トルキスタン」という国をご存知だろうか?地図には載っていない。現在地図上では、「中国人民共和国・新疆ウイグル自治区」となっている。シルクロードの通過点、「彷徨える湖」として有名なロプ湖は、この中に含まれる。

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1949年、中国共産党軍が国民党軍に勝つと、毛沢東は東トルキスタン共和国政府に書簡を送り、首脳陣を北京の政治協商会議に招いた。しかし、8月27日、北京に向かった東トルキスタン共和国政府首脳陣の乗った飛行機はソ連領内で消息を断った。残された政府幹部が、急遽政治協商会議に赴き、中国共産党への服属を表明した。12月までに共産党の人民解放軍が東トルキスタン全域に展開し、東トルキスタンを中国に統合した。ウイグル人には、これを漢族による征服であると言うものもいる。そして1955年には新疆ウイグル自治区と名前が変わった。しかし、自治区とはいえ実際の政治・政策は北京の中国共産党政府が行っている。
東トルキスタン地域の中国帰属を拒否する人々は、中華人民共和国の東トルキスタン編入の過程に国際法上の問題がある為、現在の中国共産党政府による東トルキスタン領有は違法・無効であると主張し、多種の東トルキスタンの独立運動組織を結成している。中国政府はこれら独立運動をテロリストグループとして弾圧している。

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中国政府は、同化政策のもと、ウイグルの独立をとなえる者をテロリスト(恐怖分子)として処刑し、またウイグル人を大量に自治区外に移住させ、管理下において工場などで過酷な労働を課している。有名なのがウイグルの若い女性を10万人単位で中国内陸部の工場に移動させ、強制労働を行わせると共に、中国人と結婚させてウイグル人を民族として消滅させようとしていることである。漢民族のウイグル地区への移住奨励、ウイグル語の教育を行わせない、等の政策も同じ狙いから出ているものと思われる。中国の東トルキスタン占領以前、この地区での漢民族の比率は、2%だったが、現在では45%になって、割の良い職業を独占している。



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中国政府に虐殺された東トルキスタン人は、およそ1000万人と言われている。その内訳は、
「一人っ子政策」により、850万人の胎児が強制中絶された。50回の核実験により75万人が死亡した。「政治犯の」名目の下に50万人が拷問により虐殺された。と言われている。
1950年には、中国政府の統治を嫌ったカザフ族は、投票の結果、自分達の生活様式を保つためカシミールのステップ地帯に脱出することを決めた、これが1回目のカザフ脱出である。
カミシールを目指すカザフ部族は中国人員軍の支配域を通過する際に2回攻撃を受け、生き残ったカザフ族はチベットに逃げ込んだ。結局3ヶ月かけてチベットの山々を越えカシミールにたどり着いたカザフ族の数は400家族から350家族ほどになった。
1962年、2回目の脱出が行われた。今回、カザフ民族及び他の少数民族達はソビエト連邦に脱出した、新疆で起こった集団暴動や共産党政府がカザフなどの少数民族に押し付けた彼らの生活様式に反する改革のためであった。

   

出典                          出典

なお、ウイグル人は中国から与えられた「新疆」という言葉を嫌って自分達の国を「東トルキスタン」と呼んでいる。そのため、ここではこの呼び方に従った。また、ウイグル人は、東トルキスタンだけでなく、また中国だけでなく、広く他の国々にも住んでいる。

2. ラビア・カーディル



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ラビア・カーディルは1947年に東トルキスタン、アルタイで生まれた。父母は小さい商店をやっていた。1962年父母は全財産を没収され、ラビア・カーディル母子は砂漠に置き去りにされたが何とか生き延びた。15歳のとき最初の結婚をしたが、家計を助ける為に行った商売を理由に共産党政府から離婚命令が出た。

離婚後、洗濯屋をはじめる。その元手で始めた物々交換の事業で成功する。1978年に再婚、前夫の子供6人と合わせて計11人の子供をもうける。事業の傍ら、ウイグル女性の起業を支援する「千の母運動」を始めた。
その後中国十大富豪の一人とり、中国政治協商会議委員など中国政治の要職を務めたが、北京の共産党中央会議で党首脳に中国共産党政府のウイグル政策の実態を訴えて改善を要望したことから、その地位を剥奪され、財産を奪われ、政治犯として約六年間投獄された。2005年3月、ライス長官訪中の直前に突然釈放され、米国に引き渡された。米国はこれにより国連での中国人権問題の追及の手を緩めることとなった。彼女はその後、米国で中国に独立を奪われたウイグル族の独立運動を行っている。

彼女は自分の生い立ちを水谷尚子氏とのインタビューで語っている。


その彼女が来日し、アムネスティ主催で11月10日~25日、各地で講演会を行った。 16日間に東京、和歌山、神戸、岡山、島根、山口、大阪、北海道、新潟で講演を行って東トルキスタンの現状を説明した。

3. 中国を追われたウイグル人―亡命者が語る政治弾圧

本書で取り上げている人たちは、
ラビア・カーディル、世界ウイグル会議の秘書長、中国政府によるウイグル人弾圧の「イリ事件」関連で逮捕され、国外に逃れた人たち、ウイグル地区で何回も行われた核爆発実験とその被爆者の状況、アフガニスタンに逃れたウイグル人がグアンタナモ基地に収監されるまでの経緯とその後、そして日本の東大留学中に中国で現地調査中に逮捕されテロリストとして逮捕されたままのウイグル人の話、など。
これらの中で紹介される、中国人によるウイグル人差別の実態は生々しい。ウイグル人が差別撤退を訴え、中国人との平等を望むのは当然だと思わせる力がある。

中国政府は911以降、ウイグル人活動家をテロリストと称して逮捕・監禁・拷問・殺害を繰り返している。その状況を亡命ウイグル人の口から語らせている。彼らの言い分は中国政府の発表とは正反対だそうだが、彼らの証言を証拠立てる客観的な証拠は、彼らの体に残る、拷問の傷跡、くらいしかない。

4.ラビア・カーディル暗殺未遂(?)

「2006年1月5日ニューヨーク時間午後7時ごろ、人権活動家ラビア・カーディル女史が秘書とワシントンD.C.のオフィスからバージニア州の自宅に帰る途中、交通事故に遭って負傷した。(自由アジアラジオ1月10日の放送による)
 アメリカ警察の調べなどによると、ラビア・カーディル女史の車に、突然向かいから走ってきた不審なマイクロバスが、ぶつかってきたという。第一撃ではラビア・カーディル女史も秘書も負傷しなかったため、マイクロバスはバックして再びぶつけてきた。
 これが決定的打撃となり、ラビア・カーディル女史は頭部と胸部を打撲し、肋骨を骨折した。ラビア・カーディル女史の秘書で乗用車を運転していたスレイヤさんは軽傷。
(中略)
 マイクロバスは盗難車だったことが判明しており、運転手は逃走中。また、ラビア・カーディル女史の乗用車は大破。不自然な点が多いことからアメリカ警察は暗殺未遂の線からも捜査を開始している。
 暗殺犯についてはまだはっきりしないが、中国当局が計画したという疑いも濃厚なのである。」

この事故により、ラビア・カーディルは脊椎を損傷した。その直後の写真。



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中国関連ニュース



出典:日経新聞

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2007年11月 1日

グアダルーペの褐色の聖母

メキシコ、ニュメキシコ市の教会に残る褐色の聖母。メキシコ人の熱心な信者が毎日列をなして参拝に来る。

グアダルーペの聖母

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動く歩道まで設置されているそうで、メキシコ一の人気スポットだそうだ。巡礼の目的地でもある。メキシコ全土からカトリック信者が集まってくる。

1.グアダルーペ寺院

グアダルーペ寺院への巡礼団

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膝行参拝も行われている

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もとは、ここに聖母マリアが現れ、インディオの男に、ここに教会を建てるようにと言ったことから始まる。彼らは教会を建て(グアダルーペ寺院)、そして自分たちと同じ肌の色を持つ聖母像を祀った。

昔のグアダルーペ寺院

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今は老朽化して危険なので一般信者、観光客は中に入れない。代わりに隣に新しい建物を建て、聖母像もそちらに移された。

新たに作られたグアダルーペ寺院

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グアダルーペ寺院の内部              聖母像はこのように飾られている

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2.見捨てられた神

この話を聞いて私は、ここに現れたメキシコ人の不幸を思った。 メキシコはもともとアステカであった。

アステカの神は、人間の犠牲を要求する無慈悲な神である。アステカ人はスペイン人に攻め立てられたときに当然この神に多くの人間の犠牲を捧げ、アステカをスペインの手から救ってくれと祈ったに違いない。

しかし、アステカの神にいくら犠牲を捧げても、アステカの神はアステカを救ってくれなかった。アステカはスペイン人によって滅ぼされたが、その時にアステカ人はアステカの神を捨てたのではないか?

その結果か、メキシコのスペインからの独立運動の時には、グアダルーペの聖母が独立のシンボルにされ、独立軍の旗に描かれたと言う。

何故このとき、アステカの神を持ち出さないで、敵国スペインの神を持ち出したのだろう。

多分、それほどアステカの神は一般のメキシコ人の人気を失っていたのだとしか思えない。敵国の神を自分たちの神に借りてこざるを得なかったメキシコの人たちの不幸を私は思う。アステカの神はアステカを見捨て、アステカ人はアステカの神を見捨てた。

そしてその時、頼れるものは、憎い敵の神しかいなかったのである。

先日、テレビでグアダルーペの聖母を見た。そこに出てくるメキシコ人信者の顔には、純粋な聖母への信仰が溢れているように見えた。

或いはアステカの神は為政者のための神であって、一般民衆にとってはただ恐ろしいだけでご利益の薄い神だったのかもしれない。

テスカトリポカの神

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テノチティトランの神殿では日常的に人身御供が行われ、さまざまな祭においても多くの生贄が神 テスカトリポカに奉納された。生贄は祭壇の前に据えられた石のテーブルの上に生きたまま仰向けにされ、神官達が四肢を抑え、その胸を黒曜石のナイフで切開して心臓を摘出した。その心臓は、半分横たわり、半分座った状態で虚空を見つめるチャック・モールが腹の辺りに支えている皿の上に置かれた。

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チャック・モール

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16世紀初め、アステカ帝国では、生け贄の犠牲者はさらに増え、その数は毎年25万人にのぼったといわれており、テノチティトランの神殿の階段は、したたり落ちた生け贄の犠牲者の血で、今も染まっているそうである。

3.日本

日本はキリスト教が布教に失敗した唯一と言える国ではないだろうか?

何故日本ではキリスト教が受け入れられなかったのか?

日本古来の神、仏が充分に魅力的だったからかもしれない。それは日本が江戸時代に既にかなりな文化レベルに達していて、充分キリスト教に対抗できたからだろうと私は思う。

そして、日本はアメリカに負けたのだが、その時もアステカ人のように、日本古来の神や仏を捨てて、アメリカの神に乗り換えることはなかった。

考えてみれば、アステカ人はアステカの神がスペインの神に敗れた、と考えたのかもしれない。その結果自分たちを守れなかった神を捨てて、自分たちを滅ぼした神を選んだのかも知れない。どちらにしても不幸なことだと私は思う。 そして日本人であることの幸せを思うのだ。

鎮守様
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山寺
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2007年10月25日

マグダラのマリア

1.娼婦出身?

マグダラのマリアは長い間、カソリック教会によって娼婦出身であるとされてきた。しかし、そのことは聖書には書かれていない。


グリューネワルト
イーゼンハイムの祭壇画(部分) イエスの十字架上の死を嘆くマグダラのマリア

聖書には、イエスの足に香油を塗って自分の髪で拭う女性が何人か出てくる。彼女らは悔い改めた娼婦であったとされる。

591年、当時のローマ教皇グレゴリウス1世はこれらをマグダラのマリアであると断定した。同時に、マルコの福音書16:9やルカの福音書8:2が、マグダラのマリアのことをイエスに「七つの悪霊を追い出してもらった」と書いていることから、この「七つの悪霊」を、「七つの大罪」として、マグダラのマリアがこれらの罪をを犯していた、とした。その結果、マグダラのマリアは娼婦出身とされ、「罪の女」(the Sinner)と呼ばれるようになった。

しかしこれは全く根も葉もない捏造であった。グレゴリウス1世は何故このような罪深いことをしたのか?それは政治的な思惑であって、宗教的な理由ではなかったと思われる。

それから1400年!

カトリック教会は、1969年、パウロ6世の時に、聖女マグダラのマリアの日に読むべき聖書の一節を、これまでの「罪深い女」の節から、マグダラのマリアが復活したイエスと出会う場面(ヨハネ20:1-2, 11-18)に変更した。これが聖女の名誉回復の第一歩であった。

「罪深い女」とマグダラのマリアを同一人物としたのは、もともとカトリックだけであったので、現在、これらを同一人物とする教派はほとんど無いが、長年の記憶は欧米にも日本にも、根強く残っている。

一方、カトリック信仰の強い国々を中心に、娘を名付けるにあたってこの聖女の名が好んで使われており、彼女が娼婦の出身であると広く信じられていたとすると理解しにくい。

· フランス語では「マリー・マドレーヌ」(Marie Madeleine) となる。お菓子のマドレーヌもこの名に由来する。
· 愛称は「マルレーン」もしくは「マレーネ」(Marlene)。マレーネ・ディートリッヒもこの名前である。
· 聖女の名は教会だけでなく教育機関などにも冠されることが多い。また地名も多くある。 (ただし、上記の誤解から、元娼婦の更生施設にもこの名前が使われている)

2.本当の姿

マグダラのマリアについて聖書には、悪霊に憑かれた病をイエスによって癒されたこと、磔にされたイエスを遠くから見守ったこと、その埋葬を見届けたこと、復活したイエスに最初に会って使徒たちに伝えたことが書かれている。このため彼女は初期キリスト教父たちから「使徒たちへの使徒」(the Apostle to the Apostles)と呼ばれた。

20世紀になって、『マリアによる福音書』(断片)、『トマスによる福音書』、『フィリポによる福音書』などが発見された。これらはカトリック教会によって異端文書として正典から排除され、長い間、廃棄・湮滅が意図的に行われてきたものであった。

『マリアによる福音書』の内容:

・イエスが弟子たち(使徒)に宣教を頼むと、弟子たちは怯んで承諾できない。それをマリアが励まして、宣教に向かわせ、自分自身も宣教にでる。

・ペテロがマグダラのマリアに対し、「救い主が他の女性たちに勝ってあなたを愛したことを私たちは知っています。」として、彼女が救い主から授かった教えを他の人々にも話すよう求める。

・マリアは救い主の啓示について話す。

・アンデレとぺテロはその内容を信じない。

・レビがぺテロをたしなめ、使徒たちは宣教に出発する。

『フィリポによる福音書』の内容:

・三人の者がいつも主と共に歩んでいた。それは彼の母マリアと彼女の姉妹と彼の伴侶と呼ばれていたマグダレーネーであった。(§32)

・主はマリアをすべての弟子たちよりも愛していた。そして彼(主)は彼女の口にしばしば接吻した。(§55b)

マグダラのマリアは裕福で、イエスの宣教を経済的に援助したとも言われている。

『ルカによる福音書』は彼女について次のように書いている(ルカ8:1-3, 23:55)。彼女の出自についてそれ以上のことは、後世の想像である。

「イエスに七つの悪霊を追い出してもらった。多くの婦人たちと一緒に、ガリラヤからイエスに付き従い、自分の持ち物を出し合ってイエスの一行に奉仕していた。」

1969年にカトリック教会はマグダラのマリアが「罪深い女」ではなかったとするなど、その見直しが始まった。

聖書には「イエスの愛しておられた弟子」がしばしば出てくる。これがマグダラのマリアではないかとの説は、ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」よりも以前から囁かれていた。

3.陰謀?

イエスには多くの女性の信者が付き従っていた。その中でいつも最初に名前を上げられるのはマグダラのマリアである。彼女は女性信者のリーダーであった可能性が高い。

イエスが処刑される時、男性の弟子達は皆逃げ出したが、マリアを始めとする女性達は踏みとどまってイエスの最後を見届けた。

そしてマグダラのマリアは復活したイエスの姿を誰よりも早く見て仲間達に伝える。

ペテロに関してはマリアへの嫌悪を口外した話がいくつか残っている。ペテロはマリアを女としての立場を弁えていないと感じていたようだ。

マリアは優秀な福音の伝え手であり、使徒たちを元気付ける役割を持っていた。そして自分自身も宣教の旅に出ている。このような彼女が12使徒から除かれているのは異様である。

何らかの意図を感ぜざるを得ない。やはり当時のペテロが代表する男性優位の考え方が大勢を占めていったのだろう。このような差別はイエスの存命中には見られなかった。

そしてカトリック教会はマグダラのマリアを娼婦にまで貶めたのだ。そのことを思うと、庶民の感覚の鋭さには驚かざるを得ない。彼らはカトリック教会が懸命に隠してきたマグダラのマリアの偉大さを直感的に感じ取って、自分たちの娘の名前に使ってきたのだ。

4.イエスの棺

1980年3月28日、エルサレムでブルドーザーが岩盤を砕くと墓の前室が現れた。中にあったのは10の骨棺、刻印されていた死者の名前はマリア、ヨセ、ヨセフの息子イエス、マタイ、イエスの息子ユダ、マリアムネ(ギリシャ文字)であった。イエスの棺が見付かった瞬間である。

イスラエル政府は簡単な調査の後、「特別なものはない」として、この墓を鉄板とコンクリートで封印した。(キリストの棺、シンハ・ヨコボヴィッチ、チャールズ・ペルグリーノ著、沢田博訳、イーストプレス刊)

その後の簡単な調査によると、マリアムネはマグダラのマリアであり、イエスとマグダラのマリアのDNAを分析した結果、二人には血縁関係が無かったことが分かった。これは二人が結婚していたことを強く示唆する。

残念ながら、イエスの息子ユダとイエス、マグダラのマリアのDNA分析はまだ行われていない。

参考文献:

2007年10月 2日

ヒュパティア

1.ヒュパティア

ヒュパティア
ヒュパティア
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カール・セーガンのコスモスでこの人の存在を知った。

ヒュパティア(またはヒパティア、Hypatia)は3~4世紀、アレクサンドリアに生きた女性の数学者・天文学者・哲学者であった。

父は数学者・哲学者(テオン)。400年頃アレクサンドリアの哲学校の校長になった。彼女はプラトンやアリス トテレスらについて講義を行ったという。そして、彼女の知的な才能と雄弁、謙虚さ、美しさは、多数の生徒を魅了した。

彼女は天体観測儀や液体比重計を発明したが、科学的で神秘主義を拒絶したために、当時のキリスト教徒から神に対する冒涜の象徴とされた。

キリスト教徒であったテオドシウス1世は、ローマンカトリック以外の宗教・哲学・科学を迫害する方針を定め、当時のアレクサンドリアのキリスト教司教の求めに答えて、エジプトの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊することを許可した。キリスト教の暴徒は、サラピス寺院やアレクサンドリア図書館や他の異教の記念碑・神殿を破壊した。

キリスト教徒の集団により、414年、アレクサンドリアからのユダヤ人の違法で強制的な追放が行われ、415年、総司教キュリオスの部下である修道士たちは、馬車で学園に向かっていたヒュパティアを馬車から引きずりおろし、教会に連れ込んだあと、彼女を裸にして、カキの貝殻で、生きたまま彼女の肉を骨から削ぎ落として殺害した。死骸はばらばらに切り刻まれ、高々と往来へと運ばれ、そして焼かれた。しかも誰もこの殺人のかどで罰せられることはなかった。

370年代には、きわめて厳格な司教エビファニオスが著書『バナリオン』で異端と同様ギリシア哲学も攻撃するようになる。四世紀半ば頃、ナグ・ハマディ文書として知られる異端文書がエジプトの砂漠のなかに隠された。
  五世紀はじめになると、異教徒と認められた者は一連の皇帝の勅令によって徐々に高位の行政職・軍事職を追われた。異教の知識人たちの多くはひっそりと社会から身を退くか、もしくはペルシアのようなキリスト教圏外の国々へ流れるようになった。彼女の死を契機として、エジプトにおける異教的な学問研究に終止符が打たれた。

アレクサンドリアに集まっていた多くの学者たちは迫害に耐えかねて次々に亡命し、古代の学問の中心地であったアレクサンドリアは凋落した。しかもこのような暴挙を行ったアレクサンドリアのキリスト教司教キュリオスはアレクサンドリアから異教徒を追放した功績者として大いに讃えられ、その死後、教皇レオ13世により「教会の博士」として聖人の列に加えられた。

これらの事件により、ピタゴラスの 誕生から続いてきたギリシャの数学・科学・哲学の歴史は終焉する。そしてヨーロッパの科学的な思考は、14~16世紀のルネッサンスまで長い、1000年前後の眠りに入る。

ヒュパティア
ヒュパティアの最後
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2.アレクサンドリア図書館

なおこの時キリスト教徒によって放火されて失われたアレクサンドリア図書館は、紀元前300年頃、プトレマイオス1世によってエジプトのアレクサンドリアに建てられたものである。世界中の文献を収集することを目的として建設され、古代最大にして最高の図書館であったと言われている。その蔵書はおよそ70万巻にものぼった。アルキメデスやエウクレイデスら世界各地から優秀な学者が集まった一大学術機関としても知られ、薬草園が併設されていた。

アルキメデスもアレクサンドリア図書館に留学していた。幾何学を大成したエウクレイデス、地球の直径を計測したエラトステネス、天動説 の集大成『アルマゲスト』を著し、千数百年にわたってヨーロッパに影響を持ち続けたプトレマイオスら、古代における学芸の巨人もこの図書館で研究していた。

アレクサンドリア図書館は、書物の収集のためには手段を選ばず、そのためには万金が費やされていた。例えば図書館は写字生を多数抱えており、組 織的に写本を作っていた。当時はまだ製紙技術も印刷技術もなかったため、その蔵書は、ナイル川のデルタで栽培されていたパピルスを原料としたパピルス紙 に手書きされた巻物が中心であった。アレクサンドリアに入港した船の荷物に書物があれば没収し、写本を作成して原本は図書館に、写本は元の持ち主のもとに戻す、などという手段すら取られていた。多額の担保金をかけてよその市から貴重な文献を借りた時には、原本を返さずに写本を戻し、莫大な違約金を支払ったという逸話もある。
しかしその後、キリスト教徒による焼き討ちによって図書館の莫大な蔵書のほとんどは、併設されていた薬草園共々灰燼に帰してしまった。そして後世の略奪や侵略による度重なる破壊で、やがて建物自体も失われた。ヒュパティアが虐殺されたのも同じ頃である。

3.イデオロギー

このようなキリスト教徒の残虐性と知性に対する憎悪は恐るべきものであると私は思う。そして、このような伝統が、中世の魔女狩り、異端審問、十字軍の虐殺、大航海時代のアメリカ大陸・アフリカ大陸での虐殺に直接つながっているように思われる。

或いはそれは現在のイスラム原理主義者の行動にもつながっているのかもしれない。彼らの立場には理解できる点もあるが、その極端な行動は理解の範囲を超えている。

ナチスのユダヤ人ホロコーストもそうだが、元共産圏のスターリン、毛沢東、ポルポトの大虐殺も常軌を逸しているように見える。

これらの人たちは全く思想をことにしているようだが実はそうではないのではないか?彼らの共通点は彼らが特定のイデオロギーに奉仕していた、または奉仕する振りをしていた、と言うことだ。

それが大虐殺の行われていた時代には口実として利用できた。 つまり、イデオロギーはその思想内容が何であれ、悪であるのかもしれない、ということだ。

では「イデオロギー」とは何か?

私の見るところでは、それは人間の自然の感性を歪める超越的な存在だ。一度特定のイデオロギーのとりこになると、人は本来持っていた感性が告げることを、イデオロギーに反するものとして圧殺してしまう。内心の声に耳を傾けることができなくなる。そして反人道的な行動が正義であると思い込む。

したがって、私達はあくまでも世俗的でなければならないのではないか?人間の本来持っている動物としての直感的な判断力を失わないためには、世俗を超越した一切のイデオロギーから自分を切り離すべきなのではないか? これが私が「ヒュパティアの無残な死」から学んだ教訓だ。

ヒュパティア
ヒュパティア

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関連本



2007年9月 5日

【警鐘】韓国の対外収支

本当はヤバイ!韓国経済―迫り来る通貨危機再来の恐怖―、三橋貴明著、彩国社刊、を読んだ。興味深かったので以下に内容を紹介する。国際収支に関する初歩的な説明は省略する。

1.経常収支

韓国の貿易収支は黒字が2004年以降毎年減少し、2007年の第一四半期は赤字。今年度は通年で赤字になる恐れがある。しかしこれはコストダウンを求めて海外に工場を移転したことによる物かも知れない。そうだとしたら一概に心配する必要はない (資本収支)。

サービス収支は04年以来一貫して赤字であり、しかも赤字幅は増えている。これは海外旅行も増えているのだが、韓国国内の教育事情に絶望した親達が子供達を海外留学させているからだ。韓国の教育は、日教組の元祖の全教組による、北朝鮮賛美教育と平準化教育によって壊滅状態になっている。韓国は母親が子供について小学校から海外留学をしているので、父親が韓国に残って、生活費の仕送りそしている。これがまた韓国の経常収支を悪化させている(経常移転収支)。

さらに、韓国では国民の海外移住が進んでいる。移住すれば当然資産を海外に持ち出すことになる。また、移住しないまでも海外投資、資産逃避が増えている。これでも経常収支は悪化する(資本移転及び非金融資産収支)。韓国に投資していた外国資本が、儲からないので資本を引き上げれば当然経常収支が悪化する(直接投資収支)。 数字を示せば下記のようになる。

 
2004年
2005年
2006年
2007年1・3月
経常収支 281.7億ドル 149.8億ドル 60.9億ドル ▲15.2億ドル
貿易収支 375.6億ドル 326.8億ドル 292.1億ドル 61.8億ドル
サービス収支 ▲80.4億ドル ▲136.5億ドル ▲187.6億ドル ▲61.8億ドル
所得収支 10.8億ドル ▲15.6億ドル ▲5.3億ドル ▲6.9億ドル
経常移転収支 ▲24.3億ドル ▲24.8億ドル ▲38.1億ドル ▲8.3億ドル
資本収支 75.9億ドル 47.5億ドル 186.1億ドル 48.4億ドル
直接投資収支 45.8億ドル 6.7億ドル ▲34.8億ドル ▲9.6億ドル
証券投資収支 86.1億ドル ▲17.2億ドル ▲225.4億ドル ▲101.5億ドル
その他投資収支 ▲38.5億ドル 68.1億ドル 476.7億ドル 167.6億ドル
資本移転及び
非金融資産収支
▲17.5億ドル ▲23.4億ドル ▲30.3億ドル ▲8.1億ドル
外貨準備高 387.1億ドル 198.0億ドル 221.1億ドル 39.9億ドル

2.円キャリトレード

現在日本では歴史的な低金利が続いている。この低利で円を借り出し、外貨に換えて、高利な国に投資する。これが円キャリトレードである。この時、円をウオンに換えれば、円が下がり、ウオンが上がる。 円キャリトレードを続けていると、継続的に円安となる。そこで円建て融資を返す時に、返済額が借りた額よりも少なくなる。これが円キャリトレードのメリットである。日本の経常収支は黒字だから、その分の外貨が円に両替されて、円高になる筈である。それがそうならないのは、この円キャリトレードが大規模に行われているからだ。 これが、日銀の利上げ等によって、円高の不安が起ると、円キャリトレードを止めて、円を返済する者が出てくる。そうなると円高になるので、膨大な損失が円キャリトレードを行っていた金融機関に生じる。そしてその被害をまともに受けそうなのが韓国だ。 2006年の韓国の短期対外債務(1年以内に返さないといけない借金)は対外債務全体の43.1%である。1997年にアジア通貨危機のきっかけを作ったタイの短期外債比率は43%であった。 韓国政府はウオン高を操作してウオン安にするために、ドルを大量に買ってきた。この資金を作ったのが「外国為替平衡基金債券」と言う名の国債で、18兆ウオン(約2兆円)の発行残高がある。 しかし、そのままではウオンが国内に溢れてしまい、インフレになる恐れがある。そこで韓国銀行(中央銀行)は「通貨安定証券」を発行してウオンを市場から回収しようとした。その発行残高は2007年4月で157兆400億ウオン(20兆円以上)である。年間の利子負担だけで6兆ウオンとなり、韓国銀行は3年連続の赤字を出している。しかも、通貨安定証券の債務は国家債務に算入されていない。これを算入すれば韓国は今既に「純債務国」である可能性がある。 2006年末、韓国の円キャリトレード残高は1兆2261億円であった。これは企業の設備投資には使われず、不動産投機と株投機に向かった。

3.労働組合

韓国企業は国内価格と海外価格が全く乖離している。その結果、サムソン電子の2004年売上高営業利益率は国内56%、海外2.4%となっている。それで少し通貨高になると海外市場が赤字化するのだ。 韓国では労働組合専従員の給与は会社が支払う。またストライキ中も会社が給与を支払わなければいけない。このように強い労組のために韓国製造業の人件費は日本を除くアジアで一番高くなった。大卒初任給は日本と同レベルである。しかも韓国労働者の労働生産性はOECD加盟国平均の38.6%である。

4.教育

韓国の大学の授業料は高い。一人あたり国民総所得に対する大学授業料の割合は日本の2倍以上になる。しかも、4年制大学卒業者の就職率は5割以下、日本の大卒への求人倍率1.9に対して韓国は0.25である。 大学1年生に対する数学テストでは日本の最低点と韓国の最高点が略同じであった。 韓国には全教組(全国教職員労働組合)があって、そのホームページは北朝鮮礼賛の言葉で埋められている。彼らが進めているのが、平準化教育による教育レベルの低下と北朝鮮賛美教育である。その結果、韓国の親達は小学生時代から子供達を海外に留学させている。2005年に海外留学した小中高生は2万400人であった。子供が小さいので多くの場合、母親が一緒について行く。そのために生活費を海外送金しなければならない。しかも、留学生の多くが卒業後も帰国せず現地で就職してしまう。2002年の博士学位取得者の内、帰国したのは48.7%であった。 また、1998年以降の北朝鮮支援は総計で約2911億円である。

5.外国資本

韓国の銀行に対する外資系ファンドの出資率は極めて高い。 銀行名 外資比率 国民銀行 85.68% ウリィ銀行 11.10% ハナ銀行 72.27% 新韓銀行 57.05% 外換銀行 74.16% 韓美銀行 99.90% 第一銀行 100.00% アジア通貨危機とその後のIMF管理により、韓国の金融はアメリカの大手に抑えられたのである。 外換銀行は1996年以来無配だったが2007年に10年ぶりに配当を行った。その結果、大株主の米国ローンスターは投資額の6分の1の配当を受け取った。他の銀行、企業でも多額の配当を海外投資家(主にファンド)に対して支払っている。韓国は既に経済的な植民地になっている。

6.工場の海外展開

韓国の2001年から2005年までの設備投資増加率は平均1.1%である。特に中小企業の設備投資が減少している。しかし、これは国内の話で、海外投資は急増している。中国、米国、ベトナム等への投資が大きい。しかし韓国の高すぎる人件費を抑えるには、経営者が労働組合の要求をそのまま呑まずに、もっと上手に交渉する必要がある。また、技術力不足を補うためには、むしろ国内投資をして、国内の技術レベルを上げるべきであろう。

7.株価操作

韓国企業は自社の株価を維持するために自社株を購入している。そのため、個人投資家、機関投資家、外国人投資家の全てが株式を売り越したときにも株価指数(KOSPI)が上昇している。自社株買いとは本来、企業が1株当たりの価値を高めて株主に報いるためのものだが、韓国では違っている。

つまり、韓国の証券市場はあまりにも信頼性が低いので、韓国人投資家は国内株式市場に投資せず、海外証券投資を急増させている。

8. 短期借入

2006年に韓国に流入した融資の内、80%以上が韓国の金融機関による短期借入(返済1年以内)であった。そしてこの借入金は不動産投資と家計への貸出に廻った。しかもこの家計への貸出が再び不動産投資に廻った。つまり、韓国の個人は銀行から借り入れをして不動産投機を行い、更にこうやって購入した不動産を担保にして借金して別の不動産を購入する、と言うことをやっている。 韓国の法定利息は66%である。しかし、貸し金業者の平均金利は年利200%を越しており、その利用者は564万名と言われている。返済が滞った時の取立てには、暴言、暴行、拉致、監禁、殺害、臓器売買の強制、身体放棄覚書(売春承諾書)、人身売買が行われている。このような韓国の消費者金融ではグレイゾーン金利禁止により、儲け口を失った日本の消費者金融業者が60%を占めているとの報道もある。

9.韓国脱出

2000年以降、海外に移住する人による人口の純流出が続いている。しかも20代以下が全体の86.7%を占めている。2005年の出国超は8万1千人、しかも大部分は若者である。移住先はアメリカ、カナダ、オーストラリア、欧州など。2005年にアメリカの永住権を取得した韓国人は約2万5千人、2006年に米国連邦人口統計局が発表した韓国人合法移民者数は100万人に迫った。梨花女子大生に対するアンケートでは3分の2が生まれ変わるなら韓国以外の国に生まれたいと答えている。 海外移住者は移住に際して韓国から資産を持ち出す。これが「資本移転及び非金融資産収支」の赤字を増やしている。

10.感想

(1)確かに韓国では著者が警告するように、近未来にデフォルトが起る可能性がありそうである。 その時に、再度IMFが救済に乗り出すかもしれないし、反米的な韓国を嫌気して断るかもしれない。その場合には中国が救済に乗り出す可能性がある。そして、北朝鮮と韓国を合併させて実質的な中国植民地にするのではないか。アメリカがその時まだイラクに足を取られていれば、実現してしまう可能性がある。次は台湾、更にその次は日本の植民地化を狙うだろう。それに対する対抗策を今から考えておく必要がある。

(2)実は私は書いていて薄ら寒くなった。「これはまるで近未来の日本の姿ではないか?」と感じたからだ。日本政府が現在の安易な政策を続けていれば、そうなる可能性が高い。もちろん、韓国のように露骨なごまかしはやらないにしても、国民が日本の政治に愛想を尽かして日本脱出する可能性は高い。政治家ももう少し国民と危機感を共有してもらわなければ困る。国民が危機感を持ち、政治家と官僚が目先の利権を追って安穏としている国には未来はないと思う。


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2007年8月28日

原子力発電所

1.個人的な意見

原子力発電は炭酸ガス排出量が少ない、といって宣伝している。本当だろうか?ウラン鉱石の採掘・精錬から燃料棒の作成までには相当のエネルギーが使われているはずだ、そして巨大な原子力発電所の建設とその廃棄処分、または長期間の密閉保管。放射能ゴミの処理。これらに要するエネルギーが発生する炭酸ガスの量を計算しなければ、原子力発電は炭酸ガス排出量が少ないとは断言できない。おそらく、石油の方が少ないのではないかと私は思う。

原子力発電はその発生エネルギーの3分の1しか電気にできず、残り3分の2を廃熱として捨てている。これは直接地球を暖めている。原子力発電が地球温暖化を進めているのだ。逆ではない。

左翼系の人達は一貫して原子力発電に反対している。しかし、彼らは中国・韓国・北朝鮮のために反対しているのであって、日本のため、地球のために反対しているのではない。したがって彼らの意見には政治的な偏りが見られる。

原子力発電は極めて不経済な発電方法だ。純経済的な立場からは到底許容できるものではない。しかも地震国日本では地震による被害・事故を防ぐことはできそうもない。廃棄物処理も良い方法は見付かっていない。
只一つ長所があるとすれば、それはプルトニウムを作り出し、核武装を行うのを容易にすることだ。中国は何十発と言われる核ミサイルの照準を常時日本に合わせて威嚇しているし、北朝鮮もいつ核ミサイルを手に入れるか分からない。日本が中国の属国になりたくないのならば、核攻撃の標的にされる可能性は極めて高い。これに対抗するためには日本も核武装をする必要が出るかもしれない。その時のためには原子力発電をやっていて良かった、と言うことになる可能性はある。逆にこれしか原子力発電のメリットは見当たらない。

日本の電力料金は、産業用、家庭用ともに、世界で一番高い。業務用に限っても、フランスの3倍、イギリスの2.2倍、アメリカの3.7倍、スエーデンの4倍である。これは、世界一不経済な原子力発電に膨大な資金を投じているためではないかと思われる。高い電力料金は日本の産業競争力を奪い、家庭生活の豊かさを奪っているのではないか。

チェルノブイリ原子力発電所
出典

2.原子力発電所とはどういうものか


日本で稼動している原子力発電所は54基(内、柏崎刈羽原子力発電所7基は停止中)、アメリカ、フランスに次ぐ第三位である。総発電量の約35%を占める。いずれも1970年以前に計画されたものである。

原子炉では中性子をウラン235にぶつけてその原子核から更に中性子を飛び出させる。その内の1個だけを別のウラン235にぶつけて核分裂がつながるように制御する。これが連鎖反応でその時の状態が臨界である。臨界を越えると核分裂がどんどん大きくなって暴走し爆発する。これをわざとやるのが核爆弾である。

アルファ線はヘリウムの原子核が飛び出したもので、紙1枚で止まる。ベータ線は電子が飛び出したもので金属や板で止まる。ガンマ線は強い電磁波で厚い鉄板、コンクリート、鉛などでやっと止められる。中性子線は中性子が飛び出すもので、コンクリートは通り抜けるが水やパラフィンなど、水素を多く含むもので止まる。人体は多くの水を含むので、中性子線を良く吸収し大きな影響を受ける。どの放射線も生き物の身体に当たるとその細胞を傷つける。そして、セシウムは筋肉や生殖腺に、沃素は甲状腺に、ストロンチウムは骨に集まる。

日本の商業用原子力発電所はすべて軽水炉である。軽水炉には沸騰水型と加圧水型とがあり、沸騰水型は東芝と日立が作っており、東北電力、東京電力、中部電力、北陸電力、中国電力が利用している。加圧水型は三菱重工が作っており、北海道電力、関西電力、四国電力、九州電力が利用している。

日本では商業規模でウラン鉱を採鉱できるところはないので、カナダ、オーストラリア、南アフリカなどから精錬ウラン(イエローケーキ)を輸入している。しかし、この中には原子炉で使えるウラン235は0.7%しか含まれていないので、3~5%にまで濃縮する必要がある。国内施設では能力が不足するので、アメリカやフランスから濃縮ウランも輸入している。濃縮工場では濃縮カスの「劣化ウラン」が大量に出るが、使い道がないのでゴミとして溜めている。濃縮ウランから燃料棒を作り、原子炉には数万本の燃料棒を入れる。

使用済み燃料の中にはまだ燃せるウランの燃え残りと新しくできたプルトニウムが含まれている。世界的には危険を避けて、この使用済み燃料は高レベル放射性廃棄物として処分するのが主流だが、日本ではこれを再処理して再び燃料として使う。これが再処理だが、日本の東海村の施設では能力が不足なので、イギリスとフランスに依頼していた。しかし、その契約も終了するので青森県六ヶ所村に大型工場を建設中であるが、トラブル続きで計画が再々延期されている。

原子力発電では発生した熱の3分の1しか電気にならず、3分の2は廃熱として地球を暖めている。そして大量の放射能を出すゴミが出る。このゴミは捨てられないので、放射能が減るまで貯蔵し、ある程度の放射能をフィルターで取り除いた上で、空気や水で薄めて捨てている。それでも残る高レベル放射性廃棄物や固体ないしドラム缶に詰めて固体化した放射性廃棄物は、海に捨てようとしたが、1993年の国際会議で禁止された。そこで日本原燃と言う会社が作られ、そこが六ヶ所村に埋設センターを作った。ここで300~400年貯蔵することになる。約300万本のドラム缶を埋める計画だ。貯蔵中に老朽化して、ひび割れなどから放射能漏れが起ることが心配である。

プルトニウム239の半減期は24,100年、ウラン235の半減期は7億年。使用済み燃料を再処理した後に残る高レベル放射性廃棄物には半減期が214万年のネプツニウム237、21万年のテクネチウム99、1600万年の沃素129などが含まれている。

原子力発電所は出力を細かく調節できないので、フル出力で動かし続ける。そこであまった電気は揚水発電に使うことになる。しかし、揚水発電所では揚水に使った電気の7割くらいしか発電できない上に、現在の設備稼働率は数パーセントである。つまり揚水発電所は大変コストの高い発電所なのだが、原子力発電所を動かすためには無くてはならないものなのだ。

火力発電の稼働率は現在43%程度であり、火力の稼働率を70%程度上げれば原子力発電をすべて止めても需要を満たすことができる。現在の原子力は過剰設備であるとも言える。

天然ウランの99.3%を占めるウラン238にプルトニウムを混ぜて、中性子をぶつけるとプルトニウム238に変わる。つまりプルトニウムが増える可能性がある。これを実現しようとしたのが高速増殖炉(フランスのフェニックス、日本のもんじゅ)だがいずれも大事故を起こし、フランスは断念、日本は中断している。アメリカ、イギリス、ドイツはその前に撤退。いずれにせよ高速増殖炉が実現できなければ、ウランは40年で枯渇すると言われているし、原子力の存在理由はなくなると言う識者もいる。

そこで、従来の原子炉でプルトニウムを燃やそうというのがプルサーマルだ。しかし危険性が高くなる上に原価も高く付くので、実施は遅れ続けている。

放射性廃棄物は現状地中に埋める以外に処分の方法がない。しかし、問題は地下水である。地下水がしみこむ所では地下水が放射能に汚染され、やがて地上または海に出て行く。しかし、日本中で地下水の流れていないところはない。地下1000メートル以下なら良いかと思うと、廃棄物を埋めるための竪穴が、もっと上の層の地下水の導管になってしまう。そこでドイツでは地層全体を冷凍して固めようとしたが失敗した。

このため、ドイツ、アメリカでは地層処分を断念して、使用済み核燃料としてとしてそのまま地上に保管し、万一の場合は取り出し、点検ができるようにする方向に動いている。

もう運転できなくなって閉鎖した原子炉(廃炉)は燃料や冷却水を取り出してコンクリートやアスファルトで密封して放置するのが世界の主流である。しかし、日本では外側の建物も全て解体撤去することになっている。何十万トンの放射性廃棄物が発生する。放射能レベルの高い所を解体するには遠隔操作機器を使う必要があるから、これも放射能に汚染されて放射性廃棄物となる。強い放射能を持った鉄材はプールの水の中で切断しないといけないので、そのプールや水も放射性廃棄物となる。運転停止から5~10年間は放射能が減るのを待ち、その後30年程度をかけて解体撤去を行うことになる。

3.地震


1995年の兵庫県南部地震はマグニチュード7.2であった。ところが原子力発電所が直下型地震に耐えられる基準として定められているのはマグニチュード6.5でこれよりはるかに低い。1854年の安政東海大地震、安政南海大地震は推定マグニチュード8.4である。 このたび地震被害にあって、現在まだ停止されている柏崎刈羽発電所の危険性も早くから指摘されていたが無視されていた

関東大震災は神奈川県西部の岩盤が大破壊することによって発生したことを思えば、原子力発電所を岩盤の上に建てても安全とは言えない。しかもマグニチュード8の地震が伝わる速度は時速1万キロに達すると言われる。核分裂を止めるために制御棒を挿入する時間はない。

プレート運動による地震発生メカニズムを考慮して原子炉設置基準が定められたのは1981年である。一方、1966年に東海原子力発電所、70年に福井県の敦賀1号、美浜1号が運転を開始している。これら初期の発電所は極めて小さな揺れにしか対応していない。2000年時点では、基準に従って設計された原子炉は19基に過ぎなかった。

原子力発電所は加圧水型の場合、原子炉、蒸気発生器、タービンからなり、その間が金属パイプで接続され、その中を高温の熱水や水蒸気が激しく流れている。地震で一番恐ろしいのはこれらのパイプが一瞬で破壊される「ギロチン破断事故」である。この場合には、緊急炉心冷却装置が働いて冷水が炉心に送り込まれることになっているがこれもまた金属パイプで接続されている。大地震のときにこのパイプだけが破断しないとは思えない。

さらに所内完全停電が恐ろしい。所内完全停電を誘発する可能性があるのは、送電系統やタービンなど、周辺の装置であり、これらは一般建造物とさして変わらない耐震性しか持たされていない。これらが被害を受ければ、所内は停電し、コンピュータも一切の自動安全装置も停止する恐れがある。


4.事故対応

1999年東海村JCOで臨界事故が起った。このようなときにはできるだけ広範囲の人を公共交通機関で安全な場所まで輸送する必要がある。

2000年の有珠山噴火のときには、付近を走っていた特急列車が乗客を途中で降ろし、路線を変更して住民を救出した。チェルノブイリ事故では、バス数百台を半日で動員して数万人の市民を避難させたなどの例がある。

事故後放置されたチェルノブイリの農家
出典

JCO臨界事故当時の原子力問題最高責任者であった、科学技術庁長官の有馬朗人は臨界事故発生の報告を受けたあとも事務室の後片付けを続けていただけだった。屋内にいては中性子被爆を防ぐことはできないにも関わらず、政府は住民に対して「屋内待避」命令を出しただけであった。これは外出禁止と同じで、チェルノブイリ事故で取られた対策とは正反対のものである。日本政府は住民の安全よりも、混乱が起きないことを望んだのである

事故後に決められた「原子力災害対策特別措置法」でも住民の安全を守ることではなく、情報を管理し、住民を制御することに重点が置かれている。次に大事故が起っても住民には何も知らされず、避難対策も取られないだろう。しかも事故調査委員会は被ばく線量を事後的に修正して故意に被害を低く見せていると言われている。

チェルノブイリ事故ではチェルノブイリから300キロ離れた地点の住民にも避難命令が出た。浜岡原子力発電所から300キロと言うと茨城県水戸から千葉全域、東京、大阪、名古屋が含まれる。またその汚染地域は日本本州の6割以上になる。

スリーマイル島では事故発生に気付いて作業員が制御棒を挿入し、核分裂を止めたのに、次々と異常が発生し最後には燃料棒が熔け落ちるメルトダウンが起った。制御棒では事故を食い止めることができないと言うことが明らかになった

スリーマイル島原子力発電所
出典

5.参考文献

原子力発電で本当に私が知りたい120の基礎知識、広瀬隆、藤田祐幸著、東京書籍
新版 原発を考える50話、西尾漠著、岩波ジュニア新書
手に取るようにエネルギー問題がわかる本、有馬朗人監修、かんき出版
必然の選択―地球環境と工業社会、河宮信郎著、海鳴社

連山最後の警告コラム

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2007年8月 9日

支倉常長

1.忘却

1873年、岩倉具視を長とする日本政府の渡欧使節はヴェネチアで支倉関係の文書を発見した。しかし彼らはそれが何であるか全く分からなかった。また、1876年に明治天皇が東北を巡航した際にも、展示されている支倉常長の県央使節の遺品を地元の人は誰も説明できなかった。完全に忘れ去られていたのである。

仙台藩の公式記録にも支倉常長の遣欧使節についての言及はない。僅かに朝鮮戦争に参加したことが記されているだけである。

彼自身は19冊の記録を残し、明治時代まで保存されて来たが、明治維新の際に仙台藩によって紛失され、現在は何も残っていない。あるいは支倉常長の遣欧使節は、鎖国と言う当時の国策に反する恥ずべき企画としてタブーとなり、長らく封印されることになったのかもしれない。

ローマ・ボルゲーゼ宮に残る支倉常長像
支倉常長 武士、ローマを行進す 田中英道著、ミネルヴァ書房 口絵より引用

仙台市博物館の支倉常長像
支倉常長 武士、ローマを行進す 田中英道著、ミネルヴァ書房 口絵より引用

2.サン・ファン・バウティスタ号

支倉常長がヨーロッパに行くのに使ったのがサン・ファン・バウティスタ号である。この船は聖フランシスコ会の僧フライ・アロンソ・ムニョスの指導の下に、江戸・徳川幕府の船手奉行・向井将監が遣わした公儀大工・与十郎と仙台藩の大工が、約4,400人の労力と6カ月の月日をかけて1613年に作り上げた。長さ35メートル、幅10.8メートル、主帆31.5メートルのガレオン船であり、高い船尾楼と2本のマストを持っていた。当時のヨーロッパの一般的な遠洋航海船と同規模であった。材料はスペイン船はチーク材だったが、これは東北の杉と松を使っていた。排水量500トン、大砲16門、定員180名。

家康がウイリアム・アダムス(三浦按針)に1607年に作らせたサン・ブエナ・ベンテュラ号は排水量120トンであり、日本に漂着したフィリッピン知事とその船員をメキシコまで送った。(しかしこの船は日本の太平洋進出を恐れたスペイン政府によって没収されてしまう)この船はウイリアム・アダムス(三浦按針)が乗ってきて難破したリーフデ号をモデルにして作られたと言われている。
サン・ブエナ・ベンテュラ号

出典

幕末1860年に勝海舟を乗せてアメリカに渡った咸臨丸は、排水量625トンと言われているがオランダ製であり、当時既に日本では250年前にサン・ファン・バウティスタ号を作った造船技術は失われていた。
 咸臨丸

出典

支倉常長はこのサン・ファン・バウティスタ号に乗って、メキシコまで行き、スペイン、ローマを廻って日本に帰ってきたのである。

支倉常長遣欧使節の航路

出典

しかし、その船の姿を書いた当時の絵は残っていない。下の絵は、ローマ・ボルゲーゼ宮に残る支倉常長像の背景に描かれたサン・ファン・バウティスタ号と思われる船の絵を取り出したものである。

サン・ファン・バウティスタ号

支倉常長 武士、ローマを行進す 田中英道著、ミネルヴァ書房 口絵より部分引用

その他には、支倉常長が出航したと言われる、宮城県月の浦にある「宮城県慶長遣欧使節ミュージアムで復元されたレプリカがあるだけである。図面は一切残っていない。

復元されたサン・ファン・バウティスタ号

出典

復元されたサン・ファン・バウティスタ号が帆を張ったところ

出典


3.失敗者か?

今まで支倉常長は失敗者として書かれてきた。

(1) 信長・秀吉・家康と続いた南蛮ブームに便乗して仙台藩がヨーロッパに使節を出したが帰ってきた時には既に時代が変わってキリシタンは弾圧されていたので彼の努力は徒労であった。

(2) 日本からヨーロッパへの外交使節としては、支倉常長の20年以上前の1582年に天正少年使節が既にローマに行っているので、支倉常長は二番煎じであり意義は少ない。

(3) 伊達政宗の真意はメキシコとの通商にあり、支倉常長は罪人の子供であり、ローマに行けずに途中で死んでも良いと思われていた。

等の見方が殆どだった。

しかし、(1)については、彼は単なる宗教使節ではなく、通商・外交使節であった点を見落としている。メキシコ・スペイン・ローマでの大歓迎は、彼が外交使節として大きな成功を収めたことを示している。

(2)については、天正少年使節はイエズス会のヴァリニャーノが主導した日本布教成功の宣伝部隊であって、日本が自発的に欧米に送った最初の外交使節は支倉常長であると言うべきだろう。

(3)については、当時の日本ではキリスト教側もイエズス会と聖フランシスコ会とが勢力争いをしており、支倉常長に同行したのが聖フランシスコ会のソテロであったことから、イエズス会側の資料はことさらに支倉使節の意義を過小評価しようとする傾向がある。従来の論者はイエズス会側の資料を偏重して、公平な評価ができなかった恐れがある。

イエズス会はイグナチウス・ロヨラが創設した軍隊式な男子修道会で、プロテスタントの勃興に脅威を感じたカソリック側にとっては心強いグループであり、「教皇の精鋭部隊」と呼ばれることもあった。アジアへのキリスト教の布教の中心となったのはこのイエズス会であり、有名なフランシスコ・ザビエルもイエズス会に所属していた。アジアでのイエズス会はアジアにキリスト教を広めるために、ポルトガル・スペインのアジア植民地化に協力することが多く、それが秀吉・家康の猜疑心を呼んで、やがて鎖国につながっていった。
イエズス会の目的は、宣教と共に侵略であった。一方、聖フランシスコ会は同じカソリック系の修道院であったが、イエズス会よりも歴史が古く、ヨーロッパ本国での勢力はイエズス会よりも大きかった。そして布教と貿易によってキリスト教を広めようとしていた。

特に当時の日本の銀の生産高は世界の生産高の3分の1を占め、ポルトガル・スペイン両国はこれを狙っていた。そしてイエズス会の僧侶がその探索に協力することが多かった。イエズス会の日本への進出も常に布教の他に、金・銀の鉱山探索を目指していた。聖フランシスコ会はイエズス会よりもアジアへの進出は遅れたが、布教を中心としてイエズス会よりは自由な活動を行うことができた。

支倉常長の父は確かに切腹させられているが、1608年には支倉家は所領を持っていた記録がある。また、政宗は常長を政宗からの使者として何回か使っている。その目的は偵察であった。

4.出発・メキシコ

サン・ファン・バウティスタ号は1613年に宮城県月の浦をメキシコに向けて出航した。乗り組んだのは、スペイン人30人、メキシコまでの商人(堺、京都、名古屋の商人を含む)135人、ローマまで行くもの15人であった。徳川幕府からは、贈り物として具足、屏風等が与えられると同時に、10名の参加者が派遣されていた。造船に対する協力、贈り物、参加者派遣から、この使節派遣が仙台藩のみの単独行動ではなく、徳川幕府との協同作業であったことが分かる。

マストには支倉家の家紋、船尾には伊達家の家紋があり、キリスト教の船であることを示すものは何もなかった(前述の支倉常長像背景より)。3ヵ月後に船はメキシコに到着した。
一行はアカプルコ及びメキシコ市で歓迎され、メキシコ総督に面会している。同行した商人は持参した商品を販売した。しかしフィリッピン関係のスペイン商人はこれが気にいらず、その販売を妨害しようとしたらしい。
約120人はその後約1年以上メキシコに留まり、翌年の1615年にサン・ファン・バウティスタ号でフィリッピンを経由して日本に戻った。

一方ローマに向かう支倉常長の一行30名は一ヶ月ほど遅れてメキシコ市を出発し、スペインの軍艦で60日後にスペインに着いた。

メキシコ アカプルコに立つ支倉常長の銅像

出典


5.スペイン

一行はセビリアで歓迎を受け、マドリードまでの費用の提供を受けている。マドリードではスペイン国王フェリペ3世の謁見を受け、伊達政宗の手紙を渡した。内容は日本とメキシコとの通商の許可を求めたものである。また国王はローマ法王宛の手紙、ローマまでの旅費、帰国の経費、人員、船の手配を約束した。常長はここで国王一家立会いの下にキリスト教の洗礼を受けた。

スペイン コリア・デル・リオに立つ支倉常長の銅像

出典


6.ローマ

1615年に一行はローマに到着する。直ちに法王パウロ5世に謁見を許され、ローマ市内で、ローマ、フランス、スペイン、の貴族らと共に一行16人はアンジェリカ門からサンピエトロ広場を通って、カンピドリオの丘の市庁舎の広場まで、大行進を行った。
その後、常長はローマ市の公民権を与えられ、貴族に列せられた。

使節は旅費として金貨6000スクード、伊達政宗宛の書簡数通、帰途のキリスト教君主国宛の紹介状を与えられて、1616年1月にローマを立った。

この間、イエズズ会は支配下のインド顧問会議を通じて、この使節の行動を様々に妨害するとともに、悪評を広めようとした。支倉常長に対する評価がこれまで低かったのはこのようなイエズス会側の資料によることが大きい。
ローマ教皇に謁見の図

出典

7. 帰路

支倉常長とソテロは体調を崩してスペインに1年間滞在し、5名で1617年セビリアからメキシコに向かった。残りの人達は先に日本に帰国していた。

メキシコでは政宗の命により、サン・ファン・バウティスタ号が待機していた。この船は胡椒、漆器、磁器などを満載していた。日本―メキシコ間の通商が始まっていたのである。一行を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、フィリッピン総督の要望に従って、兵員輸送のためにマニラに立ち寄った。

このマニラで、常長が宿泊した修道院のある町には当時3000人の日本人が住んでいたと言われる。そのマニラにオランダの攻撃が近づいていたために、フィリッピン総督は、サン・ファン・バウティスタ号を借りて、軍艦に改造したいと言い出した。常長はこれを受け入れたが、1619年、スペイン軍はオランダ軍の攻撃を受けて敗れた。サン・ファン・バウティスタ号はイスパニア戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったとされるがその後の消息は不明である。スペインの敗戦により、伊達藩、徳川幕府は共にスペインとの通商を諦めてキリシタン弾圧を強めると共に、オランダとのみ外交・通商を行うこととなった。

ソテロはメキシコに追放され、支倉はマニラから長崎向けの朱印船で日本に帰国した。

8.帰国

仙台に帰ったのは1620年、出発から7年後であった。
一方ソテロは1622年長崎に潜入して捕らえられ、1624年政宗の救援の試みも及ばず、長崎で火あぶりの刑に処された。

その後支倉常長は表舞台に立つことはなかった。

9.忘却の果て

以後、日本は二度とサン・ファン・バウティスタ号を作ろうとせず、1853年のペルリ来航まで230年間、太平洋を忘れて国内に閉じこもるのである。サン・ファン・バウティスタ号の造船技術も忘れ去られ、明治維新以後に学び直さねばならなかった。

実は1588年のアルマダの海戦で、スペイン無敵艦隊はイギリスに壊滅的な負け方をしている。その敗因は、スペイン艦隊はガレー船が主体であり、帆船への移行遅れていると共に、1000トン級の大型船で多数の重砲を装備していた。それに対するイギリス艦隊は小型船で破壊力に劣る軽砲を主力としていたが 射程距離は長かった。スペイン艦隊が、伝統的な接舷しての白兵戦に拘ったのに対し、イギリス艦隊は距離をとって砲撃を集中する海賊戦法をとった。イギリス艦隊を指揮したのは海賊上がりのドレーク提督である。

スペイン無敵艦隊

出典

この敗戦を機に、スペインの没落が既に始まっていたのである。

参考文献:

支倉常長 武士、ローマを行進す 田中英道著、ミネルヴァ書房

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