東インド会社・2-イギリス東インド会社(上)

イギリス東インド会社(上)

イギリス東インド会社について前回書き漏らしていたことを追加したい。

1.イギリス東インド会社と株式会社

イギリス東インド会社は世界最初に作られた東インド会社で1600年のことであった。オランダ東インド会社が作られたのはその2年後の1602年である。 しかし、オランダ東インド会社が最初から株式会社として作られたのに、イギリス東インド会社はそうではなかった。ではどういう形だったか。 それは個別航海と呼ばれて、一航海ごとに資金を集めて、舟が帰ってくると売り上げ全額を出資金に応じて分割してお終い、と言う形だった。一方のオランダ東インド会社は既に株式会社であり、出資は10年間固定されると共に株主は有限責任であった。しかも資本金はイギリスの約10倍。これでは太刀打ちできる筈がない。そこでイギリスも次第に航海を集約して行くことになる。 イギリスは元来、商業的な貿易よりも、ヴァイキングの流れを汲む略奪・拿捕の海賊行為が得意だった。これが後のインド経営に生かされたとも言える。

2.取り扱い品目の変遷

イギリスは最初得意の毛織物をアジアに売り込もうとしたが、気候が違うので思うように売れなかった。そこで、仕方なく、金銀塊や貨幣で輸入品を買い込むようになった。当時のヨーロッパの生活レベルは高くなく、アジアの人たちが欲しくなるような魅力的な品物はなかったのだろう。舟や武器(銃など)はヨーロッパの方が進んでいたと思われるが何故これを輸出しようとしなかったのか不思議だ。アジア側の需要が少なかったのか、技術流出を恐れたのか? 一方輸入品は最初は胡椒、スパイス(クローブ、ナツメグ)であった。胡椒は南アジアの多くの国で作られていたが、クローブとナツメグはインドネシア東部モルッカ諸島のごく一部の島でしか作れなかった。そのためもあって、胡椒は大衆的で大量だが安価、クローブとナツメグは高級品で高価(胡椒の約10倍)だった。

クローブ(丁子) 出典

ナツメグ
出典

このインドネシアでイギリスはオランダに遅れをとり、第1回でのべた「アンボイナ事件」をきっかけにイギリスはインドネシアから撤退する。 1657年イギリス東インド会社もオランダのように利潤部分のみを株主に配当して永続的な会社組織をとることになる、これを「クロムウエルの改組」と呼ぶ。なんとピューリタン革命のクロムウエルがそんなことをしていたのだ。 インドネシアから撤退したイギリスはインドに向かう。そして、キャラコ(インド木綿)、絹織物、コーヒー、茶などを扱うようになり、これが徐々に伸び、やがて胡椒、スパイスを凌ぐことになる。

3.キャラコは何故伸びたか

東インド会社がインドから木綿製品を輸入するまで、ヨーロッパでは木綿は知られていなかった。織物の主流は毛織物であり、それ以外では麻しか知られていなかった。しかも麻はイギリスでは取れず輸入品であり、木綿の値段は麻の3分の1であった。肌触りが良く吸湿性があり、肌着には最適だった。そこでイギリス・ヨーロッパで人気を呼んだわけである。なお、キャラコと言う呼び名は、ポーランド人のヴァスコ・ダ・ガマが始めてインドに到着した時に、インド人が着ている木綿の布地を「カリカット製の布」と呼んだことに由来するそうである。 何故そんなにキャラコは安かったのか?インドの手織りの技術が高かったのとインドの労賃が安かったことによる。1700年頃のイギリスの資料によるとインドの労賃はイギリスの労賃の約6分の1であったそうだ。イギリスの生産品にインド人が興味を持たず、イギリス人がインドの各種製品に惹かれたと言うことは、当時のインドの生活水準がイギリスよりも高かったことを意味するようにも思えることに対して、労賃に当時からそのように大きな差があったことは興味深い。貧富の差が大きかったのかもしれない。 しかしこのように急激にインド産木綿がイギリスに入ってくれば、当然従来のイギリス毛織物に対するイギリス国内の需要は急減する。そこでインド産キャラコの輸入を制限しようとする意見が出てくる。当時の人たちはこれを「キャラコ論争」と呼んだ。 当時は現在のようなマスコミはまだない。そこで自分の意見を聞いてもらいたい人はその意見をパンフレットにまとめてコーヒー店等で配った。その意見に反対する人はまた別のパンフレットを作った。そしてあわよくば議会に自分に有利な法律を作らせようとした。その結果、1700年に「キャラコ輸入禁止法」が、1720年には「キャラコ使用禁止法」が下院で可決された。しかしいずれも抜け穴の多いザル法であったので、効果はなかった。これも東インド会社の力であったと言われている。 キャラコの輸入の伸びがどれだけ激しかったかはその輸入実績を見れば分かる。1620年頃には胡椒とスパイスは全輸入品の中の75パーセントを占めていた。それが1670年には41パーセント、1700年には23パーセントになってしまった。 一方、織物の輸入は1670年に36パーセント、1700年には55パーセントになっている。

 キャラコ 出典

参考文献:「東インド会社 巨大商業資本の盛衰」浅田 実著、講談社現代新書

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