東インド会社・3-イギリス東インド会社(下)

イギリス東インド会社(下)

4.発展期

東インド会社がこのような輸出品を買い入れるためにインド側に支払ったのは未だに銀地金である。(適当な輸出品がイギリスにはまだなかった)しかしその銀はアメリカ大陸から強奪してきた銀であった。そして着々と会社は成長したのである。
1670年代のイギリスの輸入額は年平均14.4パーセント上昇した。
1657年に配当制が取られるようになるとともに、社員の有限責任性が取り入れられた。
1666年の配当は40パーセント、1671-74年には90パーセント、1671年から81年までの配当は合計240パーセント。年平均21.8パーセントであった。1681年から1691年までは年平均45パーセントを配当している。しかし、これらの高配当は正確な損益計算に基づいたものではなかった。当時はまだ正確な損益計算ができなかったからである。減価償却、借入金返済のための積み立て、各商館の維持費等が正確に控除できていなかったのだ。したがって現在では当時の東インド会社が本当に儲かっていたのかどうか疑問を持つ人も多い。
一方、ロンドンではこの頃から株の売買が始まっている。東インド会社の株も当然投機の対象となった。しかも株価は経営者によって自由に操作され、営業成績とは関係無しに株価が決まり、配当金が支払われていた。また、株主の権利も平等でなく恣意的に変えられた。会社に負債を負った人が返済不能になれば会社自身が負債者の財産を差し押さえられた。株の売買も秘密で株価も公開されていなかった。恐ろしい時代である。
イギリス東インド会社社長のジョサイア・チャイルドはデマを流したり、サクラを使ったり、株価を自由に操作して莫大な財産を作った。当然反対派ができて1698年「新東インド会社」を作った。しかし、1709年両社は合併すると共に、株主は全て一人一票の投票権をもって総会に出席できるようになった。そして、取締役の権限、株主の権利、社印使用規則、株主総会議事録の書き方、総会召集手続き等を定めていく。後にこれが民主的株主総会の出現だったと言われるようになる。この会社が1858年まで存続した。
500ポンド株主は挙手で投票し、1000ポンド株主は無記名投票ができた。3000ポンド株主は2票、6000ポンド株主は3票、1万ポンド以上株主は4票を与えられた。
ロンドン本社に勤務していたのは1784年に150名、1833年に300名、インド現地で1793年から1813年の間に採用されたのは、書記40人、士官240人、医師30人であった。
1699年から1701年に輸入されたキャラコの3分の1が国内消費、3分の1がヨーロッパ各国、残りがアメリカとアフリカに再輸出された。

株式市場が未整備な中で、多くの新しい会社が計画されたり、設立されたりした。そして株式投機は次第に熱狂的な高まりを見せて、世界最初のバブルを経験することとなる。
それが「南海泡沫事件」である。南海会社は、経営危機を乗り越えるために、1719年、無限に株価が上昇し、株保有者はみるみる豊かになっていく、と言う計画「南海計画」を発表した。
これを信じた人たちによって、南海会社1株あたりの価格は、1720年1月には100ポンド強であったものが、5月には700ポンドになり、6月24日には最高値1050ポンドをつけた。イギリス国内には投機目的で無内容な泡沫会社が多数作られ、これらは1720年前半に不当な高値を付けて投機熱は極度に上がった。わずか数ヶ月でこのバブルは崩壊し、株価は元に戻り、多くの破産者、自殺者が生まれた。しかし、この騒ぎの中で東インド会社の受けた損害は僅かだった。
なお、オランダでは1634年にチューリップバブルが起っている。1633年までは正常な取引であったのが、1634年から異常な投機による価格高騰が始まり、1637年2月の初めに突然崩壊するまで続いた。チューリップの価格は高値の100分の1に下落したと言われている。

5.茶の登場

1662年、イギリス国王に嫁いだポルトガル王女が極東の茶と喫茶の風習をロンドンに持ってきた。これがイギリスでの喫茶の始まりと言われている。その後、イギリスに来たオランダ王女や18世紀のアン女王等が茶を好んだことがイギリス社会に喫茶の風習を根付かせた。
イギリスは1664年から1668年までは、オランダ東インド会社から茶を買っていた。直接インドからイギリス東インド会社が茶を輸入するのは1669年以降である。1690年になるとインドからの全輸入量の1パーセントになった。1750年には1710年代の12倍になった。茶の関税がほぼ100パーセントと高かったので、ヨーロッパ各国からイギリスへ茶の密輸が盛んに行われた。この密輸を行ったのがイギリス東インド会社である。
1697年イギリスは初めて中国アモイから茶を輸入する。1717年からは定期的に中国茶を広東から輸入するようになり、その量も爆発的に増加し、絹の輸入量を超えるようになった。18世紀後半には、茶が中国からの輸入量の80パーセント以上を占める様になった。また、イギリスに茶が広がったのは西印度諸島から安い砂糖が入るようになったことも大きかった。

英国式アフタヌーン・ティー
出典

6.ネイボッブ(インド成金)

1757年、ベンガル地方のプラッシーで現地土着勢力間の争いが起る。両者がそれぞれフランスとイギリスに助けを求めたことからこの争いはフランスとイギリスの戦争になってしまった。そして勝ったのはイギリスだった。1764年、再び両国の戦いが起き、ここでもイギリスが勝った。その結果、時のムガール皇帝はイギリス東インド会社にベンガル・ビハール・オリッサの徴税権を与えた。この権利のことを「ディーワーニ」と言う。
このことによって、イギリス東インド会社はそれまで精々年間数10万ポンドの利益しか上げられなかったところに、165万ポンドの追加利得が得られることになった。
しかし、農民が納めた税金は途中の様々な人間に掠め取られて、国庫に入るのは残りの僅かな金であった。しかも、東インド会社の現地社員の着服により、イギリス本国に送られる金は本国が期待したよりもはるかに少なかった。
そのことを知らない投機筋が東インド会社株をいじりだし、株価は急上昇を始めた。東インド会社は1765年以降の株主からの配当金増加要求を断りきれず、1717年に配当を12.5パーセントに引き上げ、金融的に苦しくなった。イギリス政府は緊急融資を行うと共に、インドを直接支配することとした。(ベンガル最高会議設立)
ベンガルはインドで最も農業生産の高い地域だったが、東インド会社がディーワーニを獲得して以来、取立てが厳しすぎて農村が疲弊し、農業生産も手工業生産も衰退に向かい始めた。そこで東インド会社の新総督ヘイスティングスは塩とアヘンの取引を全て会社で独占し専売制とした。
1784年にはインド法が成立して東インド会社に対するイギリス政府の管理は更に強くなった。ディーワーニ獲得によって東インド会社が単なる商業的な存在から領土支配権力に変身した当然の結末であったと言われている。
その頃インドから帰ってきた元東インド会社〃員たちはインド民衆から絞り取った多額の富を見せびらかし、彼らは「ネイボッブ(nabob)」と呼ばれて、羨望と蔑視の対象となった。「インド成金」である。もちろん、東インド会社のディーワーニ獲得以後、ベンガル地方を始めとするインド一般大衆の生活は貧窮のどん底に落ちた。一方、東インド会社の財政は赤字で政府にしばしば融資を願い出た。これでは社会から東インド会社が非難を受けるのは当然であろう。なお、多くのネイボッブ家庭はインドでは100人程度の人を使っていたと言う。

なお、アニメにもなった「小公女(しょうこうじょ、A Little Princess)」この中に出てくるお隣の大金持ちはネイボッブであろうと思われる。

7.産業革命とセポイの反乱

1700年のキャラコ輸入禁止法、1720年のキャラコ使用禁止法制定後もキャラコの輸入は増え続けていた。そこに1967年アークライトが水力紡績機、1769年ワットが蒸気機関を改良、1779年クロンプトンがミュール紡績機、1785年カートライトが蒸気機関を利用した力織機をそれぞれ発明し、産業革命が始まった。1790年代に入ると、これらの機械がランカシャーの綿工場で本格的に稼動し始めた。しかし、イギリス綿業が世界進出を始めるのは1820年代、30年代以降である。これらのイギリス製品はアジア方面、やがてインドにも輸出されるようになり、次第にその量を増して行く。これがマンチェスター・コットンである。これがインドの木綿産業を壊滅させた。「木綿職布工たちの骨はインドの平原を白くした」と言われている。

 アークライトの水力紡績機
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 ミュール紡績機
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 ワットの蒸気機関
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 力織機
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一方、プラッシーの戦いからセポイの反乱(1857年)までは丁度100年になるが、この間にイギリスはインド各地に対する征服戦争を行い、ついにはインド全土を支配するに至る。その時に使われたのが、東インド会社の傭兵「セポイ」だった。セポイは最初1000人だったが100年後には20万人に膨れ上がっていた。その兵力は地方制圧に使われると共に、ディーワーニとしての地税徴収にも使われ、東インド会社の収支は改善されたのである。 セポイの反乱は1859年7月までおよそ2年にわたって、南インドを除く広範囲な地域で起った大反乱であった。それだけインド民衆のイギリスに対する反感が蓄積されていたのであろう。 イギリス政府はセポイの反乱を収めるためにインドに大軍を送り、これを収束させると共に、1858年東インド会社からインド統治権を奪い、最終的に1600年東インド会社を解散させた。彼らの生き残りは香港などを拠点に活躍を続けた。例えば、ジャーディ・マセソン、である。

参考文献:「東インド会社 巨大商業資本の盛衰」浅田 実著、講談社現代新書

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