1.オランダ東インド会社以前の香料貿易
中世以降のヨーロッパでアジアの香料が珍重されたのは、食用肉の貯蔵のためである。当時のヨーロッパでは冬の間家畜を養うことが困難なので、秋に大量に殺して解体し貯蔵した。その際、塩漬けだけでは美味しくないので香料を追加した。当時はモルッカ諸島やバンダで作られた香料は一旦ジャワのクレシグに集められ、それからマラッカを通ってヨーロッパに運ばれた。香料諸島は食料その他の生活必需品の自給ができず、外部からの輸入に頼っていた。しかもパンダ諸島の住民以外は航海が不得意だったので、香料諸島に食料等を運び入れるものは香料を輸入できたのである。

現在もお祭りとして当時の風習が各地に残っている。これはスペインのマタンサ祭。
出典
1512年~1515年の記録によるとマラッカには毎年大船100隻、小船30~40隻が集まっていた。これらの船は風待ちで数ヶ月間も停泊することがあったらしい。当時のマラッカの港には大小の船約2000隻が同時に停泊できたと言う人も居る。当時世界最大の港であったと言われている。
711年、当時イベリア半島を支配していた西ゴート王国はアラブの軍隊に負ける。以後約500年間アラブのイベリア半島統治が続いた後、1247年にポルトガルが、1492年にスペインが、当時モール人と呼ばれていたアラブ人を撃退した。なお、コロンブスがアメリカを発見したのはこの年である。ポルトガルは逆周りでアフリカ航路を開拓し、1488年喜望峰に達し、1498年ヴァスコ・ダ・ガマがインドに達した。従来からの東西交通は地域ごとに荷物の積み替えが必要だったが、ポルトガルは遠回りとはいえ、アジアから本国まで一貫した海上交通を可能にすると共に、経路上に要塞を設けて経路の確保に努めた点が新しい。

インドネシア西部
オランダ東インド会社 永積昭著 講談社学術文庫
ポルトガルは1511年にマラッカを占領して、香料諸島で香料等の買い入れを始め、1521年にはスペインも太平洋周りでモルッカ諸島に達して香料の買い付けを始めた。しかしイスラム商人も以前と同じように買い付けを続けたので、ポルトガル人の貿易独占の望みは実現できず、マラッカの港までアジア商人が運んできた商品を買い取るようになっていった。ポルトガルはマラッカ占領後、高い関税をかけると共に、煩わしい拘束を取り決めたので、アジア商人はマラッカを嫌って、スマトラ西北端のアチェーを利用するようになった。そして1596年にオランダ艦隊が初めてパンテンに到着する。
2.オランダ東インド会社誕生
ネーデルランド(オランダを含む)は15世紀末以来ハプスブルグ家の支配下にあり、1556年にはスペイン王・フェリペ2世が植民地として相続した。彼はスペインの貴族を重んじ、カソリックを庇護して厳しく異端審問を行うと共にネーデルランドに重税を課した。そこでネーデルランドの貴族層はカルヴァン派の市民と共に1566年に反スペインの暴動を起こした。スペイン王・フェリペ2世はこれを厳しく弾圧したが、暴動は次第に、独立戦争・宗教戦争の色彩を帯びるようになり、80年戦争となった。1579年のユトレヒト同盟を基礎として「ネーデルランド連邦共和国」が成立したが、建国宣言や独立宣言のようなものはなかったので、成立年は明確ではない。
この間、オランダでは海運業が発達し、17世紀初頭にはオランダ一国の船舶所有数はヨーロッパ11カ国の総数に匹敵すると言われていた。交易の相手は主にバルト海沿岸諸国でアムステルダムは西ヨーロッパ一の穀物市場となった。1590年には地中海貿易にも進出した。風車の技術と帆船の技術には共通点が多く、これがオランダの技術的優位を生んだと言われている。スペインは新大陸との貿易に必要なヨーロッパの工業生産物をネーデルランドやイギリスの商人から入手しており、そのためにオランダと戦争しながらも、同時にその軍資金を提供するような取引を行わざるを得なかった。
そしてネーデルランドの毛織物工業がスペインを凌ぐようになると、新大陸の銀はスペインを素通りしてオランダに流入するようになった。この銀はまた東インド貿易でアジアの香料を買うために必要であったので、オランダの商人たちは東インド貿易に魅力を感じるようになった。このようにして最初の航海会社(「遠国会社」)が1594年に9人のオランダ商人によって設立された。オランダ商人は最初ポルトガルとの衝突を避けて、北回りで東インドに到達しようとしたが、シベリア北方まで行って挫折、ポルトガルの開拓した喜望峰周りの航路を取ることになった。1595年にオランダの4隻の艦隊が14カ月をかけてジャワのパンテン港に到着した。しかし、双方の不慣れのため貿易は直ちには始められなかった。1598年、同社は他社と合併した後に8隻の艦隊を派遣した。到着したパンテン王国は丁度ポルトガルと交戦中でオランダはパンテン側を援助したために、大量の胡椒を買い取ることができ莫大な利益を上げた。この成功を見てオランダ各地に似たような会社が多数設立され、競争が激化した。そのために生じた過当競争を避けるために1602年にオランダ東インド会社が設立された。その資本金は2年前に設立されたイギリス東インド会社の略10倍であり、次のような特徴があった。
(1)取締役、株主が有限責任となった。
(2)出資者は直接会社に出資した。
(3)株式の譲渡は自由であった。
これらの特徴から、オランダ東インド会社は「世界最初の株式会社」と呼ばれている。イギリス東インド会社の組織は当時ここまで整備されておらず、一航海ごとに精算・解散する「当座企業」であった。ただし、オランダ東インド会社も
(4)株式の譲渡証書を所有するのは会社であり、証券化はまだ不完全であった。
(5)株式は等額に分割されず、資本金も確定していなかった。
等の未発達の要素を残していた。
オランダ東インド会社は東インドにおける条約締結、自衛戦争の遂行、要塞の構築、貨幣の鋳造等の権限を与えられていた。その対象地域は「喜望峰の東、マゼラン海峡の西」であった。定員60名の取締役会があり、その上に「17人会」と呼ばれる重役会があって会社の方針を決定したが、経理内容は公開されず、配当は利潤とは無関係に恣意的に決定された。
オランダ東インド会社アムステルダム本社とそのロゴ
出典
3.会社の発展

インドネシア東部
オランダ東インド会社 永積昭著 講談社学術文庫
1605年オランダはアンポンをポルトガル人から奪った。これが東インドにおけるオランダの最初の領土である。アジアの原住民はポルトガルの一方的な買い付け方式と共にキリスト教の布教を嫌っていた。オランダも清廉潔白ではなかったがポルトガルよりは腐敗の程度が低く、キリスト教布教に固執しなかったので当初は原住民に歓迎された。
オランダ独立戦争は1609年に12年休戦に入り、オランダはスペイン・ポルトガルの支配から脱して独立すると共に、海外領土も保証されることとなった。
イギリス東インド会社は設立こそオランダよりも2年早かったが、海上進出はオランダの方が数年早かった。また、オランダのようにはっきりした永続的な組織を持たず、航海ごとに臨時的に編成された。設立当初の資本金もイギリスはオランダの10分の1であったが、1613年になっても約半分の規模であった。イギリス東インド会社の強みはその海軍力にあった。
オランダは1610年にジャカルタ(じゃがたら)との間に有利かつ詳細な条約を結ぶことができた。
イギリスは香料諸島への進出を強め、1616年にパンダ諸島のルン島を占領すると共に、パンテンでも勢力を伸ばした。そのような情勢の中で、オランダ東インド会社では第3代総督(現地責任者)に武断派ク-ンが就任する。クーンはジャカルタからイギリス軍を追い払ってジャワにおけるオランダの最初の占領地とし、バタヴィアと改名した。
東インド会社・1で触れた「アンボイナ事件」が起ったのはこの頃である。イギリスはこの事件をきっかけにジャワ及び香料貿易から手を引き、インドに専念することになる。1622年にクーンは一旦総督を辞任するが、1627年に再び着任する。既にイギリスは去り、スペイン・ポルトガルの貿易も不振で、オランダの問題は、無統制なオランダ自由民(オランダ東インド会社員以外のオランダ人)であった。オランダは1641年マラッカを占領し、ポルトガルの衰退を決定的なものとした。
オランダ東インド会社は最盛期の1669年には、戦艦40隻、商船150隻、兵士1万人を擁し、1602~1696年までに、同社が支払った年間配当はおおむね20%以上で、ときには50%を越えることもあった。
4.日本との関係
1600年九州の豊後海岸にオランダのリーフデ号が漂着する。1598年にロッテルダムを出航し西回り航路を取っていた途中で遭難したのである。110人の乗組員中生存者は24人、そのなかにイギリス人ウイリアム・アダムス(後、三浦按針)がいた。ポルトガル船が種子島に漂着したのは1543年、まもなくスペイン船がこれに続いたのでオランダは約60年近く遅れたことになる。
1603年オランダ東インド会社がマライ半島のパタニにオランダ商館を開いたことを知って、家康はこのオランダ商館に日本との交易を許可する意向を伝えた。1609年オランダの公式な使節が家康に面会し、朱印状をもらった。そして平戸にオランダ商館を開くこととなり、オランダとの貿易が1612年に始まった。1613年にはイギリス船も平戸に入港し、平戸に商館を開いたが良い成績を上げることができず、1633年に閉鎖された。しかし日本の輸入品の主なものは中国産の絹織物や生糸であったので、オランダは中国貿易を行う必要があった。オランダはこのため台湾の西海岸に基地を作った。これがすでに台湾で中国貿易を行っていた日本商人(末次平蔵)との軋轢を生むこととなる。
平戸
出典
しかし、1637年に島原の乱に際して、オランダが船に載せた大砲によって原城を砲撃したことによって徳川幕府はオランダがキリスト教布教の意志がないことを認め、日本来航の継続を許した。なおオランダ商館は1641年に幕府の命令で平戸から長崎出島に移転した。

長崎の出島
1633年には、スペイン・ポルトガルのキリスト教宣教を恐れて、最初の鎖国令が出された。朱印船の渡航は禁止され、日本人の海外渡航、海外在住の日本人の帰国が禁止された。海外在住の日本人は配偶者を現地に求める他なく、次第に現地に埋没して行った。
オランダ東インド会社は喜望峰から日本までの間に約20箇所のオランダ商館を持っていたが、その中で日本貿易による利益は群を抜いて一位であった。日本は輸出品に乏しく、輸入代金として銀、金、銅の地金や貨幣を輸出した。この時代の乱掘によって日本は現在鉱物資源に乏しくなったと言われている。
5.忍び寄る衰退
オランダ東インド会社の特許状には、条約締結、要塞建築、戦争については規定されているが領土については何も規定されていない。このことと符節を合わせるように、会社は商業活動だけに興味をもっており、定着農耕には興味がなかった。会社だけでなく、オランダ市民も農業をやろうとはしなかった。周辺諸国との条約においても境界線は明確に定義されなかった。
しかし、現地の王朝の紛争に関与することが重なると共に、オランダは領土への関心を深めて行った。そしてオランダの強圧に対する現地人の反感も高まって行ったのである。一方、オランダ人以外のヨーロッパ人はインドネシア全土から次第に駆逐された。
コーヒーはもともとエチオピア原産だが、1699年にジャワに移植され、各地に広がった。
オランダ東インド会社はこの頃、戦争の費用、領土拡大に伴う人員・施設の増加などで支出は増える一方であったが貿易額はむしろ減少しつつあった。会社の勢力拡大により、製品を買い叩かれた原住民は疲弊し、購買力が低下した。オランダにとってインドネシアは原料買い付け市場であって、オランダ製品の販売市場とは考えられなかった。そのためにオランダはイギリスよりも近代化に乗り遅れることとなる。
1721年にエルベルフェルトの陰謀事件が起った。彼はドイツ系の混血の資産家であったが、仲間と共に反乱を企て、オランダ人を殺してバタヴィアの首領になろうとしたと言うのだが、真相は定かでない。彼は残虐に処刑され、その首は槍に貫かれて自宅跡に晒された。(現在復元され観光地になっている)

記念碑
バタヴィアの外国人で最も数の多いのは中国人であった。しかもその数は増え続けた。貧しい者も多かったために、治安が悪くなったので、中国人に対する取締りが強化され、中国本国送還やセイロンへの送還が行われた。1740年、既に多数の中国人がセイロンに農業労働者として送られていたが、「セイロンに送られるのではなくて、沖合いで海に投げ込まれるのだ」と言う噂が流れ、暴動が始まった。オランダ人は中国人を無差別に殺した。これが「バタヴィアの狂暴」である。この余波が各地に及び、1745年まで動乱が続いたが結局オランダ東インド会社側が勝利を収めた。この頃東インド総督府内では権力争いが激しく、泥仕合が続いていた。
また、この間ずっとオランダ東インド会社が悩まされてきたのが、イギリス東インド会社と同様に「私貿易」である。東インド会社はいずれも対象地域の貿易を独占するために努力してきたのだが、この私貿易とは、社員が個人的に貿易を行うもので、莫大な利益が得られるために、会社が止めさせようとしても遂に根絶することはできなかった。収賄も同様に根絶できなかった。それどころか、時代を経るにつれて、益々横行していった。会社が原住民から富を奪うのを見習って、社員は会社の富を掠め取っていたのかもしれない。
6.そして終末
オランダ本国では80年にわたった独立戦争が1648年に終った。レンブラント、フェルメール、ハルス等の画家はこの頃一斉に現れた。そしてその後何故か後継者は現れなかった。
イギリスの清教徒革命を起こしたクロムウェル時代のイギリスは、オランダの中継貿易を根絶するために1651年「航海法」を発布した。これはイギリス及びその植民地に入港できる船を下記の条件を満たす船に限定するものであった。
(1) 乗務員の4分の3以上がイングランド人であること。
(2) イングランド製の船であること。
(3) 所有者がイングランド人であること。
この法律は狙い通りの効果を発揮し、オランダの海運に大打撃を与え、1652年の蘭英戦争を引き起こすこととなった。これは一度では終らず、1665年、1672年、1780年と4回にわたって行われた。これらの戦いによりオランダは国力を大きく消耗するのである。
オランダではこの頃漁船が減少している。イギリス、スコットランド、デンマーク、ノルウエー等との競争が激しくなったためである。その結果、遠洋漁業に従事する人が減少し、造船技術の進歩が止まり、イギリスに太刀打ちできなくなった。地図作成技術についても同様である。それが18世紀後半のオランダの状況であった。
毛織物業も衰退していた。毛織物の全工程を行っていたのが、次第にイギリスの毛織物の仕上げ工程だけを行って販売するようになった。オランダには商業優先の気風があり、工業で富を蓄えた者は商人に転向する者が多かった。貧富の格差も大きく開いて行き、享楽的な風潮が広がった。オランダの資本家がイギリスやフランスに投資するようになった。こうして、長い間ヨーロッパの商業・金融の中心地であったアムステルダムはロンドンにその地位を奪われる。
この間、オランダ東インド会社のスマトラ、カリマンタン、モルッカの貿易は一向に振るわなかったが改善策は何も取られなかった。第4次蘭英戦争中にイギリスはオランダ東インド会社の船を拿捕し、オランダ本国の港も封鎖したのでオランダは植民地との連絡ができなくなった。オランダ東インド会社の損失は膨らむ一方であった。この状況の中でオランダ東インド会社を解散せよという意見が現れたのは当然であろう。
オランダ本国では1794年フランス革命軍が侵攻し、オランダ全土を制圧、バタヴィア共和国を建設した。革命政府はオランダ東インド会社の重役を解任し、1798年正式に会社は解散された。以後のインドネシア支配は会社でなく国家が行うこととなった。
参考文献:オランダ東インド会社 永積昭著 講談社学術文庫

コメント
問い合わせ先として適当かどうか分かりません。適当でなければ没にしてください。
当方、1632-1677年のオランダに興味があります。
1600年頃からのことがお分かりのようなので、当時の様子がなかなか分からないのでお聞きしたいのです。
1。フェルメールは日本の着物と思われる人物像を5枚ほど描いています。これについて日本の着物と判断できるでしょうか。
例は 真珠の耳飾りの少女、天文学者、地理学者、絵画芸術、赤い帽子の少女 など
2。スピノザは「神学・政治論」に出島のオランダ人には幸福があると書いています。異教徒の日本ですから当時スピノザは考えていることをそのまま表明することは難しかったと思います。日本についてどのようなことまで知っていたのか、当時の背景から、どのようなものから何処まで推定できるでしょうか。
スピノザの父はポルトガルでのカトリックの迫害が酷かったのでそれを避け、オランダに亡命したユダヤ人でした。オランダでは貿易商人で裕福だったと言います。
3。レンブラントはエッチングの印刷に和紙を使用していますが、どのようにして手に入れたと考えられますか。
お分かりでしたらお教え願えれば幸いです。
Posted by 岩波八尋 at 2008年4月18日 10:03