1.忘却
1873年、岩倉具視を長とする日本政府の渡欧使節はヴェネチアで支倉関係の文書を発見した。しかし彼らはそれが何であるか全く分からなかった。また、1876年に明治天皇が東北を巡航した際にも、展示されている支倉常長の県央使節の遺品を地元の人は誰も説明できなかった。完全に忘れ去られていたのである。
仙台藩の公式記録にも支倉常長の遣欧使節についての言及はない。僅かに朝鮮戦争に参加したことが記されているだけである。
彼自身は19冊の記録を残し、明治時代まで保存されて来たが、明治維新の際に仙台藩によって紛失され、現在は何も残っていない。あるいは支倉常長の遣欧使節は、鎖国と言う当時の国策に反する恥ずべき企画としてタブーとなり、長らく封印されることになったのかもしれない。
ローマ・ボルゲーゼ宮に残る支倉常長像
支倉常長 武士、ローマを行進す 田中英道著、ミネルヴァ書房 口絵より引用
仙台市博物館の支倉常長像
支倉常長 武士、ローマを行進す 田中英道著、ミネルヴァ書房 口絵より引用
2.サン・ファン・バウティスタ号
支倉常長がヨーロッパに行くのに使ったのがサン・ファン・バウティスタ号である。この船は聖フランシスコ会の僧フライ・アロンソ・ムニョスの指導の下に、江戸・徳川幕府の船手奉行・向井将監が遣わした公儀大工・与十郎と仙台藩の大工が、約4,400人の労力と6カ月の月日をかけて1613年に作り上げた。長さ35メートル、幅10.8メートル、主帆31.5メートルのガレオン船であり、高い船尾楼と2本のマストを持っていた。当時のヨーロッパの一般的な遠洋航海船と同規模であった。材料はスペイン船はチーク材だったが、これは東北の杉と松を使っていた。排水量500トン、大砲16門、定員180名。
家康がウイリアム・アダムス(三浦按針)に1607年に作らせたサン・ブエナ・ベンテュラ号は排水量120トンであり、日本に漂着したフィリッピン知事とその船員をメキシコまで送った。(しかしこの船は日本の太平洋進出を恐れたスペイン政府によって没収されてしまう)この船はウイリアム・アダムス(三浦按針)が乗ってきて難破したリーフデ号をモデルにして作られたと言われている。
サン・ブエナ・ベンテュラ号
幕末1860年に勝海舟を乗せてアメリカに渡った咸臨丸は、排水量625トンと言われているがオランダ製であり、当時既に日本では250年前にサン・ファン・バウティスタ号を作った造船技術は失われていた。
咸臨丸
支倉常長はこのサン・ファン・バウティスタ号に乗って、メキシコまで行き、スペイン、ローマを廻って日本に帰ってきたのである。
支倉常長遣欧使節の航路
しかし、その船の姿を書いた当時の絵は残っていない。下の絵は、ローマ・ボルゲーゼ宮に残る支倉常長像の背景に描かれたサン・ファン・バウティスタ号と思われる船の絵を取り出したものである。
サン・ファン・バウティスタ号
支倉常長 武士、ローマを行進す 田中英道著、ミネルヴァ書房 口絵より部分引用
その他には、支倉常長が出航したと言われる、宮城県月の浦にある「宮城県慶長遣欧使節ミュージアムで復元されたレプリカがあるだけである。図面は一切残っていない。
復元されたサン・ファン・バウティスタ号
復元されたサン・ファン・バウティスタ号が帆を張ったところ
3.失敗者か?
今まで支倉常長は失敗者として書かれてきた。
(1) 信長・秀吉・家康と続いた南蛮ブームに便乗して仙台藩がヨーロッパに使節を出したが帰ってきた時には既に時代が変わってキリシタンは弾圧されていたので彼の努力は徒労であった。
(2) 日本からヨーロッパへの外交使節としては、支倉常長の20年以上前の1582年に天正少年使節が既にローマに行っているので、支倉常長は二番煎じであり意義は少ない。
(3) 伊達政宗の真意はメキシコとの通商にあり、支倉常長は罪人の子供であり、ローマに行けずに途中で死んでも良いと思われていた。
等の見方が殆どだった。
しかし、(1)については、彼は単なる宗教使節ではなく、通商・外交使節であった点を見落としている。メキシコ・スペイン・ローマでの大歓迎は、彼が外交使節として大きな成功を収めたことを示している。
(2)については、天正少年使節はイエズス会のヴァリニャーノが主導した日本布教成功の宣伝部隊であって、日本が自発的に欧米に送った最初の外交使節は支倉常長であると言うべきだろう。
(3)については、当時の日本ではキリスト教側もイエズス会と聖フランシスコ会とが勢力争いをしており、支倉常長に同行したのが聖フランシスコ会のソテロであったことから、イエズス会側の資料はことさらに支倉使節の意義を過小評価しようとする傾向がある。従来の論者はイエズス会側の資料を偏重して、公平な評価ができなかった恐れがある。
イエズス会はイグナチウス・ロヨラが創設した軍隊式な男子修道会で、プロテスタントの勃興に脅威を感じたカソリック側にとっては心強いグループであり、「教皇の精鋭部隊」と呼ばれることもあった。アジアへのキリスト教の布教の中心となったのはこのイエズス会であり、有名なフランシスコ・ザビエルもイエズス会に所属していた。アジアでのイエズス会はアジアにキリスト教を広めるために、ポルトガル・スペインのアジア植民地化に協力することが多く、それが秀吉・家康の猜疑心を呼んで、やがて鎖国につながっていった。
イエズス会の目的は、宣教と共に侵略であった。一方、聖フランシスコ会は同じカソリック系の修道院であったが、イエズス会よりも歴史が古く、ヨーロッパ本国での勢力はイエズス会よりも大きかった。そして布教と貿易によってキリスト教を広めようとしていた。
特に当時の日本の銀の生産高は世界の生産高の3分の1を占め、ポルトガル・スペイン両国はこれを狙っていた。そしてイエズス会の僧侶がその探索に協力することが多かった。イエズス会の日本への進出も常に布教の他に、金・銀の鉱山探索を目指していた。聖フランシスコ会はイエズス会よりもアジアへの進出は遅れたが、布教を中心としてイエズス会よりは自由な活動を行うことができた。
支倉常長の父は確かに切腹させられているが、1608年には支倉家は所領を持っていた記録がある。また、政宗は常長を政宗からの使者として何回か使っている。その目的は偵察であった。
4.出発・メキシコ
サン・ファン・バウティスタ号は1613年に宮城県月の浦をメキシコに向けて出航した。乗り組んだのは、スペイン人30人、メキシコまでの商人(堺、京都、名古屋の商人を含む)135人、ローマまで行くもの15人であった。徳川幕府からは、贈り物として具足、屏風等が与えられると同時に、10名の参加者が派遣されていた。造船に対する協力、贈り物、参加者派遣から、この使節派遣が仙台藩のみの単独行動ではなく、徳川幕府との協同作業であったことが分かる。
マストには支倉家の家紋、船尾には伊達家の家紋があり、キリスト教の船であることを示すものは何もなかった(前述の支倉常長像背景より)。3ヵ月後に船はメキシコに到着した。
一行はアカプルコ及びメキシコ市で歓迎され、メキシコ総督に面会している。同行した商人は持参した商品を販売した。しかしフィリッピン関係のスペイン商人はこれが気にいらず、その販売を妨害しようとしたらしい。
約120人はその後約1年以上メキシコに留まり、翌年の1615年にサン・ファン・バウティスタ号でフィリッピンを経由して日本に戻った。
一方ローマに向かう支倉常長の一行30名は一ヶ月ほど遅れてメキシコ市を出発し、スペインの軍艦で60日後にスペインに着いた。
メキシコ アカプルコに立つ支倉常長の銅像
5.スペイン
一行はセビリアで歓迎を受け、マドリードまでの費用の提供を受けている。マドリードではスペイン国王フェリペ3世の謁見を受け、伊達政宗の手紙を渡した。内容は日本とメキシコとの通商の許可を求めたものである。また国王はローマ法王宛の手紙、ローマまでの旅費、帰国の経費、人員、船の手配を約束した。常長はここで国王一家立会いの下にキリスト教の洗礼を受けた。
スペイン コリア・デル・リオに立つ支倉常長の銅像
6.ローマ
1615年に一行はローマに到着する。直ちに法王パウロ5世に謁見を許され、ローマ市内で、ローマ、フランス、スペイン、の貴族らと共に一行16人はアンジェリカ門からサンピエトロ広場を通って、カンピドリオの丘の市庁舎の広場まで、大行進を行った。
その後、常長はローマ市の公民権を与えられ、貴族に列せられた。
使節は旅費として金貨6000スクード、伊達政宗宛の書簡数通、帰途のキリスト教君主国宛の紹介状を与えられて、1616年1月にローマを立った。
この間、イエズズ会は支配下のインド顧問会議を通じて、この使節の行動を様々に妨害するとともに、悪評を広めようとした。支倉常長に対する評価がこれまで低かったのはこのようなイエズス会側の資料によることが大きい。
ローマ教皇に謁見の図
7. 帰路
支倉常長とソテロは体調を崩してスペインに1年間滞在し、5名で1617年セビリアからメキシコに向かった。残りの人達は先に日本に帰国していた。
メキシコでは政宗の命により、サン・ファン・バウティスタ号が待機していた。この船は胡椒、漆器、磁器などを満載していた。日本―メキシコ間の通商が始まっていたのである。一行を乗せたサン・ファン・バウティスタ号は、フィリッピン総督の要望に従って、兵員輸送のためにマニラに立ち寄った。
このマニラで、常長が宿泊した修道院のある町には当時3000人の日本人が住んでいたと言われる。そのマニラにオランダの攻撃が近づいていたために、フィリッピン総督は、サン・ファン・バウティスタ号を借りて、軍艦に改造したいと言い出した。常長はこれを受け入れたが、1619年、スペイン軍はオランダ軍の攻撃を受けて敗れた。サン・ファン・バウティスタ号はイスパニア戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったとされるがその後の消息は不明である。スペインの敗戦により、伊達藩、徳川幕府は共にスペインとの通商を諦めてキリシタン弾圧を強めると共に、オランダとのみ外交・通商を行うこととなった。
ソテロはメキシコに追放され、支倉はマニラから長崎向けの朱印船で日本に帰国した。
8.帰国
仙台に帰ったのは1620年、出発から7年後であった。
一方ソテロは1622年長崎に潜入して捕らえられ、1624年政宗の救援の試みも及ばず、長崎で火あぶりの刑に処された。
その後支倉常長は表舞台に立つことはなかった。
9.忘却の果て
以後、日本は二度とサン・ファン・バウティスタ号を作ろうとせず、1853年のペルリ来航まで230年間、太平洋を忘れて国内に閉じこもるのである。サン・ファン・バウティスタ号の造船技術も忘れ去られ、明治維新以後に学び直さねばならなかった。
実は1588年のアルマダの海戦で、スペイン無敵艦隊はイギリスに壊滅的な負け方をしている。その敗因は、スペイン艦隊はガレー船が主体であり、帆船への移行遅れていると共に、1000トン級の大型船で多数の重砲を装備していた。それに対するイギリス艦隊は小型船で破壊力に劣る軽砲を主力としていたが 射程距離は長かった。スペイン艦隊が、伝統的な接舷しての白兵戦に拘ったのに対し、イギリス艦隊は距離をとって砲撃を集中する海賊戦法をとった。イギリス艦隊を指揮したのは海賊上がりのドレーク提督である。
スペイン無敵艦隊
この敗戦を機に、スペインの没落が既に始まっていたのである。
参考文献:
支倉常長 武士、ローマを行進す 田中英道著、ミネルヴァ書房
