アレキサンダー大王の戦闘教義(後編)〔アレクサンドロス3世のバトルドクトリン(2)〕
(前編に続く)
ギリシャの地形は錯雑していて一つの戦場が大きくなかった。フィリップ二世は一つの戦闘陣形の兵力を戦場の平均的広さに適応できるように約八〇〇〇名とした。基本戦闘陣形を説明しよう。前衛は軽歩兵が四列横隊一〇二四名で中央に展開し、両翼にそれぞれ一隊六四騎の騎兵四隊が援護した。全正面幅約四五〇メートルである。本隊は中央に歩兵陣、両翼に騎兵四個大隊計二五六騎が展開した。中央の歩兵陣一六列の横隊四〇九六名で左半分が重装甲歩兵、右半分が軽装甲歩兵であった。本隊の後方には、八列横隊の傭兵の歩兵二〇四八名が展開して予備となった。左翼の全騎兵はテッサリー騎兵四個大隊五一二名で右翼の全騎兵はマゲドニア貴族で編成したカンパニオン騎兵四個騎兵大隊五一二名である。この戦闘陣形の戦い方はヘッドを右側にしたゴルフクラブに似ている。カンパニオン騎兵がヘッドで右翼の軽歩兵がシャフト、左翼重歩兵がグリップ、左翼のテッサリー騎兵がボディに相当した。右から強烈に相手を打撃するのである。後方の予備は後方からの包囲に備えていた。

ファランクス(歩兵戦闘陣形)の戦闘配置には厳格なルールを設けた。二つ以上の基本ファランクスが一体化して戦闘陣形を組むときは重装甲歩兵と軽装甲歩兵および騎兵はそれぞれ一体化することになっていた。主力の戦闘陣形の基本単位は「大隊」であった。大隊と大隊との間は少し広い間隔を取り、前衛部隊が主力の隙間を通り抜けることができるようにした。大隊は中隊を重ねた。中隊は小隊を重ねた。小隊は正面一六名の四列横隊である。これで大隊は正面一六名、縦深一六列の正方形の陣形になる。主力は八個重装甲歩兵大隊と八個軽装甲歩兵大隊が横一線に並んだ。アレキサンダー大王が小アジアを経て中東に作戦したときは四個基本ファランクスを二段に重ねて大ファランクスとして運用した。そのときに騎兵はファランクスの両翼に集結して展開した。
なぜこのように二~四編制にしたかは興味深いところである。これは戦術において“計略が樹たないときには、先ず防御を行え!”という原則にもとづいている。従って敵がどの方向から攻めてくるか判別できないときには四角形に部隊を配置する。各正面に一個単位を配置すると独立して戦闘する部隊は四個単位の部隊が必要になるわけである。騎兵はファランクスの外周四面にそれぞれ集結し、前衛はその外側に警戒幕を構成した。相対的に兵力優勢な敵が接近するときは、その正面に二個単位を配置し、両脇にそれぞれ一個単位を横向きに配置してコの字形の陣に戦闘展開した。このように柔軟に部隊運用するためには最適の部隊数が四個であるという考え方である。戦闘陣形の単位である大隊は四個小隊となるから大隊が単独で行動するときには四列横隊の小隊をもって四角形を構成することになる。このような機動的な戦闘の利点を活用するために、フィリップ二世もアレキサンダー大王も戦場を平地に選んだ。
前衛の軽歩兵は敵に接触すると両側に移動して両翼を警戒・援護した。前衛の両翼の騎兵は本隊の騎兵と合体した。本隊の左翼はテッサリー騎兵が防護した。そして戦闘が始まると本隊左翼の重装甲歩兵は前進を停止し、不動の態勢で防御戦闘し攻撃の支撓点となった。打撃の主役はカンパニオン騎兵である。そしてカンパニオン騎兵の攻撃に連携してしなやかに右翼の軽装甲歩兵が協同攻撃し助攻となった。状況によっては右翼を警戒・援護している前衛の軽歩兵がカンパニオン騎兵の右側に助攻として協同攻撃した。なぜ攻撃の主役となるカンパニオン騎兵を右翼に配置したかについては、槍(パイク)を持つ利き手が右手であるからである。逆に防御を主任務とするテッサリーの騎兵は左手に盾を持つから左翼に配置された。騎兵の主兵器は通常パイクであったが、ときには長槍(ランス)を使用した。槍を落としたときは短剣で乗馬格闘した。騎兵のよろいと兜は重装甲歩兵のそれとほぼ同じであった。騎馬も頭部と胸部にウロコ式よろいを付けていた。あぶみはまだ開発されていなかった。騎馬の背中に毛布をかぶせてその上に乗馬した。騎兵の養成には訓練に長い期間を必要とした。
マケドニア軍は世界で最初に野戦砲兵として軽量のカタパルトとバリスタを使用したが、進撃するときは戦闘部隊の後方を分解して荷車に乗せて攻城段列とともに行軍した。
アレキサンダーの工兵技師デアデスは城壁の上部(ランパート)を破壊する櫓形の梃子と櫓から吊るされた振り子の兵士篭(テレノン)を開発した。櫓形の梃子でランパートを破壊し、次いでテレノンに乗った軽装甲歩兵が城壁に乗り込んだ。この間、カタパルトとバリスタが砲撃を続けた。マケドニア軍は砲兵部隊の後方をこのような工兵装備を荷車に搭載した部隊が続行した。砲兵と工兵の部隊を攻城段列という。攻城段列はギリシャの諸都市を攻略するのに不可欠の部隊であった。工兵部隊は攻城のみならず、河川の渡河や橋梁の建設にも活用された。基本ファランクスは管理自営部隊に編制されていた。すなわち、戦闘部隊の後方に奴隷が荷車に大量の弓矢や糧食・水を載せて行軍した。そして戦闘前夜に野営地を開設した。アレキサンダー大王は戦術に優れていたが、父王フィリップ二世から受け継いだ戦術ドクトリンと、それにもとづく編制・装備において当時のギリシャや中東の軍隊に比して群を抜いて優れていたのである。マケドニア軍の参謀組織は明らかではない。しかしアレキサンダー大王没後に大王の帝国を分割統治したディアドコイたちの顔ぶれからみると、参謀長がペルデッカス、作戦参謀はリシマカス、後方支援参謀はプトレミイであった。
大王の指揮はラッパと狼煙と信号旗によって行われたほか、指揮所には戦場通信のために七名の副官を使用し、さらに騎兵見習の小姓団を起用した。この騎兵見習部隊は今日の士官学校に似た将校養成学校でもあった。校長はのちのディアドコイの一人、セリュウカスである。見習士官たちは、実戦場においてアレキサンダー大王の戦術や指揮・統率を体得的に勉強した。彼らは主要参謀と同じようにアレキサンダー大王が作戦指揮に選んだ主要な部下であり、頑強で実行力に富み、希有の天才である大王から指導を受けた。しかし、人間の性格と才能は、その七〇パーセントが生来のものであることを見事に証明した。彼らは大王の構想力も天才の閃きも学ぶことができなかった。大王の没後、相互に醜い争いをはじめ、策謀と詐欺と買収を駆使して帝国を破壊し、共倒れした。
さて、アレキサンダー大王は天才であったが、彼の父フィリップ二世も英才であった。大王が父から学んだ期間はわずか四年足らずであったが、父王を通して戦術の父と称せられエパミノンダスの奥義を把握した。古今東西、戦闘は陣形を組んで戦う。そこで戦闘陣形の一ヶ所に穴が開くと、その穴を契機として敗勢が拡大し、最後に全軍の戦闘陣形が崩壊することは歴史の経験則である。だから最初の一撃がしばしば勝敗分岐点となる。長い激闘ののちに勝敗分岐点が訪れてこれに乗り勝利しても決定的な勝利にならない。なぜなら勝敗分岐点までの激闘に両軍とも戦闘力を消耗して勝利しても戦果を拡張する戦闘力と気力が残っていなんいからである。だから戦闘開始直後の早い時期に勝敗分岐点を迎えるように計略を講ずることが戦術の極意である。それは敵陣に小さな穴を開けることである。エパミノンダスは敵スパルタ軍一.一万の右翼を粉砕することに狙いを付けた。彼はテーベ軍左翼を他の部分の四倍の兵力を集中し、正面三二名、縦深四八名の縦隊隊形とし、約四〇〇の予備隊をその後方に配置した。そして残りの四〇〇〇名を四列横隊の薄い陣形として展開した。傭兵と騎兵を歩兵陣の前方に展開してスパルタ軍から本隊の陣形が見えないように遮掩幕を構成させた。彼は左翼の計約二〇〇〇名の戦闘に勝負を賭けた。残りの部隊は敵軍が押してくれば戦うふりをして斜め方向に右翼を後退させることにしたのだ。この意味で中央と右翼は決戦部隊ではなく持久部隊である。敵の攻撃に対して接触を維持して拘束し、時間を稼ぐだけが仕事である。だからエパミノンダスの陣形は正面からみると横隊であるが、実態は縦隊なのだ。横隊に見えるのは欺騙にほかならない。「斜行陣の本質は縦隊」なのである。アレキサンダー大王は父王フィリップ二世が開発した編制の本質をエパミノンダスの斜行陣と理解した。従って彼は前衛を左翼が前方に出て右下がりの斜め隊形で運用した。これで敵軍は自然のうちにマケドニア軍の左翼の方向に引きずられることになる。そうしておいてマケドニア軍右翼からカンパニオン騎兵で攻撃して手薄になった敵陣の左翼を最初に粉砕することを戦闘ドクトリンとしたのである。

紀元前三三三年のイッススの戦闘では、ペルシャ軍が狭い海岸平地に流れるピナルス河の北側に東西二.五キロに広がった大横隊で展開してマケドニア軍三万に対し決戦を挑んだ。縦深は約四〇列であった。しかし、アレキサンダー大王の巧みな前衛の運用によってペルシャ軍は右翼(西翼)と中央の約半数がピナルス河を渡って南岸に攻撃前進したのでその左翼は中央と分離した。このとき大王はファランクスの左翼の縦深を半分に減らして右翼の騎兵と協同して孤立したペルシャ軍左翼の約二五〇メートルを突破した。そして騎兵は敵軍の背後に回り込んでペルシャ軍を襲撃・撃破した。決勝点が左翼と右翼と逆であるがエパミノンダスのレウクトラの戦闘を再現したような戦闘となった。紀元前三三四年の有名なアルベラ(ガウガメラ)の戦闘でも、同じ戦闘ドクトリンによって再び兵力四倍ペルシャ軍を撃破した。この戦闘では敵前においてアレキサンダー大王は前進方向を斜行に切り替えた。これに対応しようとしたペルシャ軍左翼が中央陣と分離して生じた間隙に乗じてカンパニオン騎兵が突撃した。マケドニア軍の左翼のテッサリー騎兵は包囲攻撃してくるペルシャ騎兵を阻止し、左翼の重装甲歩兵陣は圧倒的なペルシャ歩兵の攻撃を押さえていた。カンパニオン騎兵の襲撃軸にダリウス王が指揮所を設けていたので敗走した。国王が敗走したのでペルシャ軍は総崩れになったのである。アレキサンダー大王は彼の戦闘ドクトリンを徹底的に秘匿した。そうでなければペルシャ軍には多くのギリシャ将校が傭兵として働いていたので、たちまちダリウス王の対応策を講じられることになった。「能ある鷹は爪隠す」ということわざは机上の空論ではなく歴史の経験則なのである。彼は父王から憎まれないためではなく、ギリシャの諸都市国家の指導者から警戒されないために幼いときからこの経験則を厳格に守った。大王の戦闘ドクトリンは長く解明されなかったが、一八世紀においてプロシャのフレデリック大王に受け継がれることになった。
次回は「ハンニバルの戦闘教義(前編)」です。
『松村劭書店 』
【参照】

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