ハンニバルの戦闘教義(中編)
部隊の編制はマケドニアのファランクスとほとんど変化はない。戦闘ドクトリンはテーベのエパミノンダスの戦闘ドクトリンを左右に連接したような考え方である。その運用を戦史で眺めてみよう。
ハンニバルのもう一つの特色は、ローマ軍が愛国心に燃える市民兵によって構成されているのに対比して、ほとんどが多国籍の傭兵で構成されていたにもかかわらず高い訓練練度、団結・規律・士気を維持させる統御能力に優れていたことである。兵士はカルタゴ兵、スペイン兵、ゴール(ケルト)兵、ヘルヴェチア兵、象を扱うベルベル兵が混ざっていた。

トレビアの戦闘
紀元前219年、ハンニバルはローマがギリシャのイリリア王セルディライダスの挑発に乗って、大軍を送って第二次イリリア戦争を始めた機会を捕らえて、ローマ覇権下にあるスペインにおけるギリシャ植民地を攻略し、彼のローマに対する地上侵攻の背後を安全にした。
紀元前218年、スペインのハンニバルは、制海権を保持しているローマの戦略の裏をかいてスペインから南部ゴール(フランス)を通り、アルプスを越えて北部イタリーのポー河流域に進軍する計画を立てた。スペインには約2万の兵力を残して背後を安全にした。
先ず、先遣隊を南部ゴール(トランスアルパイン)と北西部イタリー高原(シスアルパイン)に派遣してローマ人に反感を持つ同調者を確保した。彼らゴール兵はのちにハンニバル軍に入った。さらにギリシャのイリリア王フィリップ五世と軍事同盟を組んで東からローマを牽制した。
これに対してハンニバルの戦略を想定できなかったローマは、優勢な海洋戦力を活用して地中海を渡洋してアフリカに侵攻し、カルタゴを攻略しようと計画した。兵力は約3万を割り当てた。
そして有力な一部をスペインに派遣してスペインのハンニバル軍を拘束しようとした。これはスキピオ兄弟の指揮する兵力約2万の軍であった。
まさかハンニバル軍が陸地を機動して北部イタリーに進撃するとは考えていなかったローマはルキウス・マンリウスの指揮する兵力約2万をもって北部イタリーの反ローマ分子の鎮圧を計画した。
ハンニバルは騎兵6千、歩兵5万、戦象80を率いて南部ゴールの基地に前進した。ローマ軍はハンニバルがローヌ河を渡河したとの報告を受け、スペインのスキピオ(弟)に命じてゴール地域においてハンニバル軍を撃破するように命令した。スキピオ(弟)は兵力約2万を率いてマッシリア(マルセイユ)に上陸したが、ハンニバル軍はもぬけの殻であった。彼は海上から急いで北部イタリーに移動し、ハンニバル軍を待ち構えた。
ハンニバルは10月のアルプスを越えて北イタリーに進出した。アルプスを越えた地点は多分、トラベルセット峠と思われる。山岳民族との戦闘で兵力を消耗したハンニバル軍は歩兵2万、騎兵6千、戦象40であった。
ハンニバルとスキピオ(弟)軍の最初の戦闘は「ティキヌス河の騎兵遭遇戦」となったが、騎兵戦力に優勢なハンニバル軍が勝利し、スキピオ(弟)が負傷して敗走した。
ハンニバルが北部イタリーに姿を現したという報告を受けたセンプロニュウスの指揮するアフリカ進攻軍約4万はアドリア海から北イタリーのポー河流域に転進した。
ハンニバルはこの間に北部イタリーのケルト兵を募集して歩兵兵力を約3万にまで回復した。彼はポー河に南方から注ぐ支流の東岸から少し離れて宿営地を張り背後連絡線を曝して、ローマ軍が西岸から攻撃するように誘致した。きわめて危険な態勢であるが、敵に決戦を誘う大胆な軍事戦略である。「計略の極意」の一つと言ってよい。
センプロニュウスは戦略的誘惑に勝てなかった。彼はポー河の北岸を機動してトレビア河の西岸地区に進出した。これでローマ軍もハンニバル軍に背後連絡線を曝すことになった。態勢が東西入れ替わったのだ。
兵力優勢なセンプロニュウスは決戦に誘惑には勝てない。負傷したスキピオ(弟)の忠告を聞かずトレビア河を渡河攻撃するに決心した。
ハンニバルはトレビア河畔から少し離れてローマ軍が渡河して地歩を獲得できるように誘った。兵力約2.6万の横隊に展開する。そして戦闘ドクトリンの通り、両翼を重装甲歩兵で堅固に保持し、その外側にそれぞれ騎兵1200を持って掩護されるとともに中央を軽歩兵で、少し前方に張り気味に配置した。
そして「隠し予備」としてハンニバルの弟マゴの指揮する騎兵3600、軽歩兵400、戦象40を左翼(南翼)から遠く離れた峡谷に伏兵した。
12月の北部イタリーは寒い。凍りつくような浅瀬を渡ってローマ軍約4万が東岸に進出して戦陣を展開する。ハンニバルは中央を少し下げてローマ軍の攻撃開始を誘った。寒さに焦ったローマ軍は攻撃を急いだ。
ハンニバル軍の中央が弱いと判断したセンプロニュスは主攻を中央におき、攻撃前進を命令した。ローマ軍は喚声を上げて攻撃前進する。このとき、ハンニバルはマゴに急襲を命じた。伏兵マゴ軍はローマ軍の背後にまわりこみ襲撃する。左翼(南)の騎兵もうろたえるローマ軍騎兵を撃破してマゴ軍に参加する。ローマ軍左翼(北翼)の騎兵は正面騎兵に押され、右翼騎兵の敗北を見て、ポー河の渡河点を求めて敗走した。いまや両翼の騎兵がマゴ軍に参加してローマ軍歩兵を両翼と背後から攻め立てた。両翼と背後が丸裸になったローマ軍歩兵陣は辛うじてハンニバル軍中央歩兵を圧迫していたが、ほとんど勝利の希望を失い悲鳴をあげていた。
ハンニバルは中央歩兵陣の一部を開放した。完全包囲ではなく、逃げ道(黄金の橋)を与えたのだ。孫子の「囲師は欠く」である。ローマ軍は武器を捨ててローマを目指し、逃げ道からローマに向かって敗走した。ローマ軍の損害は約3万、敗走できたのは約1万であった。ハンニバル軍の損害は騎兵・歩兵など合計5千であった。この戦闘パターンは、後の「カンネの殲滅戦」のパターンとほぼ同形であったが、ローマ軍は何の戦訓も学ばなかった。
北部イタリーを制したハンニバルは兵を休め、歩兵と騎兵を募集して戦力の回復に努めた。
翌年の紀元前217年、ハンニバルはイタリーに張り巡らした情報網から新しいローマ軍にローマの元老院が新しい執政官を任命したことを承知した。北部イタリーからローマに通ずる主経路はアペニン山脈の西側を通っている。フラミニウスの指揮する約4万のローマ軍がアレチウム(アレッツォ)に、セルヴィリウムの指揮する2万がアルミニウム(リミニ)に集結し、それぞれ中央イタリーとローマに通ずる2本の主要経路を制しているとのことであった。
3~4月、ハンニバルは西欧軍事史上、最初の意識的かつ戦略的な迂回機動を実施した。ハンニバルは約4万の兵力を率いてゼノア北方の峠から雪のアペニン山脈を越えてイタリー西岸に出て、そこから南下し中央イタリーに進軍した。そして春の洪水期間、通過不能とさえ言われていた危険なアルヌスの湿原を4日間で踏破し、クルシウム(チウシ)の近くにおいてアレチウムからローマに通ずる主要経路を抑え、フラミニウス軍4万の退路を遮断した。ハンニバルはこの迂回機動の間に眼病に罹り、独眼になった。
トラシメネ湖の伏撃戦
4月、頑固なフラミニウスは敵が迂回して退路を遮断したことに気付くのが遅く、慌てて強行軍によってハンニバルとの決戦を求めて南下した。警戒は速度を求めたために犠牲にされた。
ローマ軍の作戦行動の特性を熟知していたハンニバルはトラシメネ湖の東岸に沿っている主要道路に斜めに西面して戦闘展開した。隘路の南出口に左翼重装甲歩兵を配置した。隘路の北入り口をいつでも閉塞する攻撃の態勢に右翼重装甲歩兵を配置した。中央の軽歩兵は主要道路を攻撃する態勢で待ち伏せた。そして眞予備(騎兵3600、歩兵400)をもってローマ軍の最後尾を襲う態勢に配置した。
それとは知らないローマ軍約4万の主力が4列縦隊で約4.6キロの長隘路に詰め掛けた。先頭がハンニバル軍左翼の重装甲歩兵によって前進を阻止された。それを知ったフラミニウスは出口を突破するために兵力を前方に詰め掛けさせた。約3万のローマ軍が隘路に入る。
ハンニバルは眞予備を投入してローマ軍の最後尾を攻撃させた。この一撃でローマ軍は組織的戦闘態勢が崩壊した。次いで右翼重装甲歩兵によってローマ軍を切断し、軽装甲歩兵が隘路に詰まって身動きがとれないローマ軍に襲い掛かった。
約1万のローマ兵が武器を捨てて山中に散り散りになって逃亡し、約3万のローマ兵が虐殺されるか、捕虜になった。フラミニウスも捕虜になっていた。

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