峯山政宏の最近のブログ記事

2009年2月21日

補給戦-後半


自動車時代とヒットラーの時代


時代はヒットラーの時代に入り、兵站の主流も鉄道から自動車へと移行していく。鉄道というのは、爆破が非常に簡単であるという欠点がある。第一次世界大戦のベルギー国内の場合、鉄道網は無数のトンネル、鉄橋、立体交差点を通過しなければいけないので、それらのどれかが爆破されてしまえば、修復に莫大な時間がかかってしまうことになった。1939年9月1日に開始されるポーランド戦においても、敵味方両軍による鉄道破壊が余りにも激しかったので、鉄道によって物資を運ぶことが全くできなかったという。

しかし、ここで一つの疑問が生じる。兵站の主流が鉄道から自動車に変更されたと言っても、ドイツ軍の主力部隊は電撃戦を採用した戦車部隊である。相手陣地を突破した後、高速のスピードで敵の主力に対して包囲陣形を敷き、殲滅戦を実施するのだから、兵站部隊も相当訓練されていなければ、自動車部隊といえども追いつく事はできなかったであろう。ポーランド戦における詳細については以下を参考にして頂きたい。

ポーランド侵攻作戦 秘匿名称「ケース・ホワイト」

ポーランド侵攻作戦における実際の経過を確認してみよう。ポーランド侵攻は1939年9月1日に開始される。まず、第4軍クルーゲの前進によって、ポーランド回廊は遮断され、ヴィッスラ河下流に到達。一方、第3軍キュヒラーが、東プロシアからナレフ側に向かって進行した。さらに、第10軍ライヘナウの機甲部隊はヴァールタ河にまで突破を行い、第14軍のリスト軍はクラコフに向かう分進合撃を実施していた。9月4日までに、第10軍ライヘナウの機甲部隊は国境から内側へ50マイル入ったピリーツァ河を渡河し、その2日後には彼の左翼はトマーショフを超えてそのかなり前方まで前進し、その右翼はケェルツェへ進入していた。ドイツ軍の作戦計画が順調に実施されているので、ドイツ陸軍総司令官ブラウヒッチは、首都ワルシャワがあるビスワ河まで、この前進行動を東方へと継続させることを指示した。しかし、南方軍ルントシュテット上級大将とその参謀長マンシュタインは、ポーランド軍主力が依然として、ビスワ河の西方にあり、その場所で補足可能である事を知り、計画の変更を主導した。第10軍ライヘナウの機甲部隊の左翼はロッズ付近にあったポーランド軍大兵力の集中地の背後を目指し、北方へ旋回し、ロッズ及びワルシャワ間にあるブズーラ河沿いに狙塞陣地を確立するように指示。この北方への旋回行動の結果、このポーランド軍の大兵力は退路を遮断されて、ビスワ河を超えて撤退することができなくなった。この第10軍の旋回行動によって、名将ハンニバルのカンネーの戦いにおける「包囲陣形」が完成したのである。

ドイツ軍はこの時点で、ビスワ河を目指して、突進してくるポーランド軍を迎え撃ちさえすれば良かったのである。ポーランド軍は首都ワルシャワからは遮断されており、補給物資は運搬されず、その背後と両翼にはプラスコヴィッツの第8軍とクルーゲの第4軍によって逐次圧迫を受けつつあった。ポーランド軍は敵をも感嘆させたほど勇敢に戦って、ワルシャワ守備軍と合流しようとしたが、ほとんが果たせず、ドイツ軍の包囲陣形の餌食となった。9月10日、ポーランド陸軍総司令官スミグリー・リッツは、長期抵抗のため比較的狭い正面の防御戦を編成しようと望み、残余の兵力に対して、ポーランドの東南部へ向かい総退却を実施するように命令した。しかし、この退却するポーランド軍に対して、ドイツ軍はさらなる大包囲陣形を敷くことによって、ポーランド軍を殲滅することを計画する。大包囲陣形の左翼を担ったのはクルーゲの第4軍の先鋒をつとめたグーデリアンの機甲師団である。ポーランドの侵入にあたっては、ポーランド西北部にある回廊地帯を横断する突進を行って、孤立していた東プロシアに到達した。その後、9月9日に、グーデリアンはナーレフ河の線を越えて、さらに南に突進し、14日にはブーク河に沿うブレスト=リトフスクに到達した。そらに、40マイル先にあるグロータヴァを目指して進撃し、南方からせり上がって来るもう1つの鋏である第14軍第22装甲軍団クライストと合流して、大包囲陣形を完成させた。ロシア軍がポーランドの東部国境を越えた9月17日までには、ポーランド陸軍はドイツ機甲師団による二重の包囲陣形により崩壊させられていたのである。

ポーランド戦において、自動車による兵站作戦はほとんど機能しなかったという。確かに、自動車が鉄道よりも柔軟に、前線部隊に物資を運搬することができるのは間違いなかったが、問題は輸送能力である。一本の複線の鉄道輸送能力に匹敵するには、1600台ものトラックが必要だったからだ。当時のドイツの経済力では、民需に加えて、軍隊の需要をまかなうほどに、自動車産業が発展していなかったのである。しかも構造的な問題がある。ドイツにはトラックを動かすための石油がないのである。兵站を担うトラックの動力源が自分の国で産出できないのだから、その時点でかなり問題があることは推測できる。

1)戦争に必要なトラックをすべて製造することができない。
2)トラックを動かす石油をドイツで産出することができない。

この2つの点から、ドイツの兵站システムはかなり不十分であったのだ。実際、トラックが足りないので、補給物資の大部分は1200台の馬車によって運ばれていた。馬車で機械化部隊に追いつこうというのは少し無理があったに違いない。それでも、ドイツ軍がポーランド軍を3週間以内に崩壊させることができたのは、早期にポーランド戦が終了したために、兵站問題がおこらなかったためである。ポーランド戦が、1ヶ月、2ヶ月と長期戦になっていれば、歴史はまた違ったものになっていたに違いない。

次に、独ソ戦について確認してみよう。独ソ戦前後の戦史についての詳細は以前コラムにまとめたので、参考にして頂きたい。

それでは、続いて、ドイツから見た第二次世界大戦について、駆け足で確認して見よう。ドイツは独ソ不可侵条約を締結した8月23日の1週間後に、最初の目的地であるポーランドに対する侵攻を開始した。1939年9月1日午前4時45分。100万の軍隊と2000機の飛行機がポーランド回廊とダンチヒに殺到した。これを見て、イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発することになった。1940年春になると、ドイツ軍は北欧、西欧への侵攻を開始する。デンマーク、ノルウェーに続いて、オランダ、ベルギー、そして、1940年6月にはフランスが降伏する。ドイツ軍は、戦車隊を中心とした機甲部隊を戦闘にして、猛烈なスピードで進撃したので、フランス軍はこれに対して、全く対応が取れずに敗北することになった。このドイツ軍の戦い方は電撃戦と呼ばれるが、これについては後ほど再度取り上げる。

1940年夏の段階では、ドイツは北ヨーロッパ、西ヨーロッパ全域の支配を達成し、残るはイギリスのみとなった。同年、7月頃から、ヒトラーはドイツ空軍による徹底した爆撃をイギリスに行うが、イギリスの戦闘機部隊も奮戦し、ドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、1940年12月に極秘命令を出して、西ヨーロッパに展開していた軍隊の多くを東方に移動させる。作戦開始時期は1941年3月だったが、バルカン半島の制圧に3ヶ月を要したので、独ソ戦の開始は1941年6月22日に開始されることになった(バルバロッサ作戦)。レニングラード、モスクワ、スターリングラードを目指し、ドイツ軍は当初、電撃戦により破竹の勢いで進撃した。開始の1ヶ月で実にソ連軍の30%の軍事力がドイツによって破壊されることになった。しかし、不幸だったのは、ナポレオンのロシア遠征と同様に、冬将軍がソ連の味方をしたことだった。同年10月から降り始めた雪によって、酷寒に晒されたことと、予想外の独ソ戦の勝利により戦線が伸び切ったことが災いして、ドイツ軍の前線における補給が困難な状態に陥っていた。そして、1942年6月にスターリングラードを巡る攻防戦(スターリングラード攻防戦)が開始され、双方合わせ150万人を超える戦死、戦傷者を出す壮絶な地上戦を行った結果、ソビエト軍に対し大敗北を喫したことが原因となり、ソビエトとの戦争において、モスクワまで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を余儀なくされることになった。また、この頃、ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア連合軍が北アフリカで、連戦連勝していたものの、同年7月に行われたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に対し、大敗北を喫し、ドイツ軍は、この時点で攻勢終末点を越えていたと言えるだろう。

1943年に入ると、アメリカ、イギリス連合軍はイタリアに上陸する。ムッソーリには国王と国民の支持を失って失脚し、ムッソリーニの後をうけたバドリオ内閣は連合国に対して、すぐさま無条件降伏をする。1944年4月には、ソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。一方、1944年6月、西からドイツ軍を粉砕するために、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦(ノルマンディー作戦)が開始され、多数の犠牲者を出す事にはなったが、1940年6月以来の西部戦線が再び構築されることになった。東西から挟撃されることで、その支配領土を急激に減少させていたドイツ軍は、度重なる敗北で反抗の力をほとんど失い、1945年4月30日にヒトラーはベルリンの地下壕で自殺し、5月8日にドイツは無条件降伏した。

1941年6月22日に、バルバロッサ作戦(独ソ戦における最初の軍事作戦)が開始された。ドイツ軍は合計300万人の兵員を動員し、史上最大の陸上作戦を展開した。ソビエト連邦という広大な地域で、膨大な兵員に物資の補給を行う事は、ドイツ軍の最大の課題であったが、ポーランド、デンマーク、ノルウェーに続いて、オランダ、ベルギー、フランスを戦車部隊による電撃戦によって、短期間に破っていたドイツ軍は、物資の不足という問題が生じる前に短期決戦でソ連軍を降伏させることを目的としていた。



バルバロッサ作戦

しかし、電撃戦を得意とするドイツ軍でも、広大なソ連の領土内では、物資の補給問題に悩ませられることになり、ドイツ軍が目指した短期決戦での勝利は絵に描いた餅となった。ナポレオン軍のロシア遠征と全く同じ轍をナチス・ドイツ軍も歩むことになる。例えば、ドイツ軍の占領地域から、ソ連のスモレンスクまでの距離は300マイルを越える。300マイルを進撃した時点で、ドイツ軍の自動車補給部隊の能力では、1日に、1師団あたり、70トンの物資しか運ぶことができなかったという。実際、ドイツ軍の全師団は144個存在して、1日に、1師団あたり必要な物資は300トンであったことから、スモレンスクの時点で自動車部隊による物資の補給はすでに困難を極めていたのである。ドイツ軍によるモスクワへの攻略戦「タイフーン作戦(バルバロッサの第二作戦)」では実際に使用した車両の数より最低、10倍の量が必要であったと推測されている。どのような貧弱な物資補給でドイツ軍が戦っていたのかがよく分かる。物資の不足の中でも、特に深刻だったのは石油で、ドイツ軍は1942年夏から1942年初冬にかけてカスピ左岸のバクー油田を占領することで、慢性的な石油不足を解消しようとするが、カフカス山脈の中央部まで進出した時点で、これも補給難に陥り撤退している。(ブラウ作戦)

自動車部隊があまり役に立たないので、ドイツ軍は物資の輸送の主力を鉄道に振り向けたが、兵站問題を解消するには至らなかった。なぜなら、ドイツの鉄道車両を走らせようとしても、ソ連のレールはドイツのものと、軌間が異なっていたので、修復するには時間と手間がかかり、枕木の数も3分の1少ないために、それを補ってやらなければ大型機関車を走らせることはできなかったのである。また、ソ連の機関車は撤退時にことごとく破壊されていたことも鉄道による物資の補給をさらに困難にしたと言えよう。慢性的な物資の不足に喘いでいたドイツ軍は、1942年6月にスターリングラードを巡る攻防戦(スターリングラード攻防戦)において、双方合わせ150万人を超える戦死者、戦傷者を出す壮絶な地上戦を行った結果、ソビエト軍に対し大敗北を喫したことが原因となり、独ソ戦敗北は必至となった。

上記の史実を振り返ってみるならば、電撃戦の弱点は物資の補給が追いつかない事及び物資の補給が軽視されることにあるのではないだろうか?ナチス・ドイツ軍も独ソ戦が開始されるまでは、電撃戦によって短期間に勝利していたので、兵站が問題になることはなかったが、広大なソ連領では電撃戦の弱点が露呈することになったと言えるのではないだろうか?


ロンメルは名将だったか


ロンメルは第二次世界大戦で、最も有名なドイツ軍人の一人である。特に1941年2月にイタリア軍支援のために砂漠の北アフリカに派遣されたロンメル将軍は巧みな戦車部隊で英軍を圧倒し、英首相チャーチルからも「ナポレオン以来の戦術家」とまで評され、彼の神出鬼没な戦い方は「砂漠の狐」という異名を持って呼ばれるようになった。しかし、天才ロンメルは、なぜ北アフリカで敗北することになったのか?物資の補給という観点からこの問題を確認してみよう。

エルウィン・ロンメル


ロンメル将軍の北アフリカ戦線における北アフリカ到着から撤退までの軌跡は以下。

1941 2/3~

2/3 ロンメル、ドイツ・アフリカ軍団司令官に就任

2/12 ロンメル少将トリポリに到着

3/31 ロンメルはキレナイカ(ベンガジ東方)へ進出しトゥブルクを包囲しエジプト国境にせまる。

6/15 チャーチルは地中海経由で戦車300両を英軍に補給し「バトルアクス作戦」を発動させる。2日後作戦は失敗に終わる。

11/18 英軍オーキンレック司令官、「クルーセイダー作戦」を開始。当初ロンメルは優位に戦局を進めたが結局一時的にキレナイカより後退する。

1942 1~

1/5 本国より補給船団が到着

20 ロンメル、英軍に大攻勢をかける。

29 ベンガジを再占領。

5/26 トゥブルク攻略作戦開始

5/31 緊要拠点、大釜陣地占領

6/20 北アフリカ戦略拠点トゥブルク要塞を陥落させる。

6/22 ロンメル、元帥に叙される。

7/1 ロンメル元帥、エル・アラメインへ攻勢に出るも失敗

10/23 英軍の大反抗作戦開始 「ライトフット作戦」

11/ 1 英軍「スーパーチャージ作戦」を発動 ロンメル軍後退する。

8 米軍アイゼンハワーが北アフリカ、アルジェリア方面に上陸「トーチ作戦」

1943 2~

2/~  ドイツ・アフリカ軍集団チェニジア方面に撤退する。

3/9  ロンメル元帥、アフリカを去る。


北アフリカ戦線当時のイギリス軍は、アレキサンドリア周辺の沿岸部のみを支配しており、残りの拠点としては、マルタ島とジブラルタル海峡を保有するにとどまっていた。しかし、戦略上の観点からはこの2つの拠点を抑えていたことはイギリス軍にとって非常に大きな意味があった。まず第一に、英軍はジブラルタル海峡を保有していたので、地中海の細い入り口を通って、ドイツの艦艇が増援のために地中海の入る事は極めて難しかった。さらに、マルタ島を保有していたので、潜水艦と航空機を出撃して、枢軸国(ドイツとイタリア軍)の海上補給路を脅かし、ロンメル軍の補給を困難なものにしていた。これに対して、ドイツ軍もクレタ島やシシリー島から、「シュトゥーカ」急降下爆撃機を出撃させて、英艦艇を次々と攻撃することで応戦している。マルタ島は全島穴だらけになるほど激しい空襲を受けながらも、何とか持ちこたえ、ロンメルを敗退させる最も主要な役割の一つを果たしたと言われている。ロンメル自身も兵站の重要性を認識しており、次のような言葉を残している。

軍隊が戦闘の緊張に耐えるためには、まず第一に不可欠の条件として武器、石油、弾薬を十分に貯えることである。実際のところ打ち合いが始まる前に、戦闘は兵站将校によって行われ決定されるのである。いかなる勇敢な兵士といえども銃なしでは何事もなしえず、銃は十分な弾薬なしには何事もできない。だが、機動戦においては、車両とそれを動かす石油が十分になければ、銃も弾薬も大して役に立たない。保守修繕も、敵のそれに対して量的にも質的にも同等でなければならない。

兵站の補給問題は北アフリカ戦においても最大の課題であったことは間違いないが、補給戦の著者、マーチン・ファン・クレファルトはロンメル軍の兵站の困難は海上での損害よりも、むしろアフリカ内陸での遠距離-かつ脆弱な補給線に原因があったと指摘している。つまり、トリポリからエルアラメインまでに、補給線がのびきってしまい、それに対して確実な兵站システムを持たなかったことがロンメル軍の敗因であったというのだ。

実際のところ、ロンメル軍の参戦初期において、ドイツ軍もクレタ島やシシリー島から、「シュトゥーカ」急降下爆撃機で、マルタ島を出撃する英艦艇を何度も撃沈させていたので、イタリアから、トリポリやベンガシに対する補給ラインはそれほど攻撃されることはなかった。マーチン・ファン・クレファルトが指摘するように、ロンメル軍が物資補給に悩んだ本当の原因は沙漠の北アフリカで物資の補給がうまくできなかったためである。たとえば、エルアラメインの戦闘に際して、アフリカ装甲軍の限られた貯蔵物資の3分の1もが、エルアラメインではなく、背後のベンガシになお滞留していたという。

なぜこのようなことが起こったのだろうか。まず第一にドイツ軍の一部しか自動車化されていなかったので、砂漠地域で物資を運搬するトラックの数が圧倒的に不足していたという事実がある。せっかくイタリアから地中海を渡って、北アフリカのトリポリに物資を運搬してもそこから前線地域にまで、それを運ぶことが至難の業だったのである。2つ目として、砂漠地域では兵器等の消耗速度が通常の戦争よりも速くなってしまうということも挙げられる。ドイツ製の戦車のエンジンの寿命は、暑熱や悪路の影響のために、1400-1600マイルから、実に300-900マイルまで短くなっていた。ロンメル軍が前線で勝ち進めるほど、物資の補給は困難になっていたのである。

しかし、状況はさらにドイツ・ロンメル軍に対して不利になっていく。それまでアフリカ行きの護送船団をシシリー島の基地から守っていたドイツ第10航空軍が1941年6月始めに大部分ギリシャに移動させられた。それ以降、地中海の輸送船団の被害が急激に増え始めた。7月には、リビアに送られた全補給物資の19%が沈められた。8月には9%、9月には25%、10月には再び23%の被害を受けた。また、ベンガシはイギリス空軍の行動半径に入っているので、同年9月に大爆撃され、トゥブルクは大型船が乗り付けることができないので、ロンメル軍が前線で戦闘を開始しても、補給線は常にトリポリから運ばなければいけなかったので、兵站が大問題となった。トリポリから最前線、エルアラメインまでの距離は実に1,000マイルを超え、輸送途中で車両の35%が故障していたのだから、補給業務が非常に困難であった事は想像される。そして、物資が十分に前線部隊にまで供給できなかったので、1942年11月にロンメル軍は撤退を開始した。兵站というのがいかに難しいかということがこの戦史から伺い知る事ができるだろう。

以上のことから、ロンメル軍が北アフリカ戦線において、補給困難に陥った理由には次の3つが考えられる。
1) 北アフリカの港の港湾能力が低い事。
2) トリポリから前線までの補給ラインが長い事。
3) マルタ島を攻略できなかったので、イギリス空軍によって輸送船が沈められたこと。

最後に

戦争というのは、激しい弾薬の応酬をイメージしてしまうが、物資の補給が戦争の9割を占めると言われている。この非常に地味で勝つ重要な数学問題に対して、常に軍隊は悩まされてきたと言えるだろう。補給戦の著者、マーチン・ファン・クレファルトは最後に、将軍ウェーベルの次の言葉を引用している。物資の補給がいかに難しいのかということが端的にわかる名文ではないだろうか

戦争を見れば見るほど、いかに戦争がすべて管理と輸送に依存しているかが分かる。諸君が軍隊をどこへ、いつ移動させたいと思っているかを知るには、熟練も想像力もほとんど必要としない。だが、諸君がどこに軍隊を位置させることができるか、また諸君がそこに軍隊を維持させることができるかどうか知るには、たくさんの知識と刻苦勉励とが必要である。補給と移動の要素について本当に知ることが、統率者のすべての計画の根底とならなければならない。そうなって初めて統率者は、これらの要素について危険を冒す方法と時期とを知ることができるし、戦闘は危険を冒すことによって初めて勝利が得られる。

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2009年2月19日

補給戦-前半

序文

補給戦―何が勝敗を決定するのかを読んだ。それにしても興味深い一冊である。戦争を実行する上で、まず、戦争当事者が考えなければいけないことがある。それは物資の補給(兵站)である。戦争をするには、まず航空機や戦車や動かすガソリンが必要だし、兵士に供給する大量の食料が必要だ。武器も弾薬もなければ敵と戦うことができない。つまり、物資の補給がなければどんなに素晴しい戦略を打ち立てても実行することができないのだ。当たり前のことを言うなと苦言を呈する人もいるに違いない。しかし、しばしば戦争当事者であっても、この至極当然のことを忘れてしまいがちなのだから、恐ろしいものだ。

戦争と石油(8)


例えば、日本は資源が無いというハンデを負いながら、今から60年以上前にアメリカと太平洋戦争を開始した。資源がない日本は、戦争を継続させるために必要な石油も石炭もボーキサイトもスズも食料も東南アジアの資源地帯から輸入でまかなっていた。しかし、この日本と東南アジアを結ぶ長大なシーレーンを行き来していた補給船を守るために、日本海軍が護衛艦隊を創設したのは、戦争を開始してから、すでに2年(1943年11月)が経過した後だったのだ。念願の護衛艦隊が創設されたものの、もう時は既に遅く、日本の護衛艦隊は数、能力ともに飛躍的性能の向上を遂げて来たアメリカ潜水艦隊の敵ではなかったのだ。そして、物資が極端にまで不足し、国民生活の維持と戦争の継続ができなくなった1944年夏に東条英機内閣は瓦解したのである。物資補給という戦争当時者が最優先で考えなければいけないことが軽視していた好例であると言える。

補給戦の著者、マーチン・ファン・クレフェルトは兵站術を19世紀の軍事理論家ジョミニの定義から総合して、「軍隊を動かし、かつ軍隊に補給する実際的方法」と位置づけている。そして、司令官がまず戦争をするに当たってまず最初にすべきことを次のように指摘している。なかなかの至言である。

司令官が作戦行動とか戦闘発起、前進、浸透、包囲、殲滅、消耗など、要するに長々と続く全戦略の実行を頭に描き始める以前に、彼にはしなければならないし当然すべき事柄がある。それは麾下の兵卒に対して、それなくしては兵として生きられない一日あたり3000キロカロリーを補給できるかどうか、自分の才能を確かめることである。すなわちそれらの食料を正しい時間に正しい場所に送る道があるかどうか、また、これらの道路上での移動が、輸送手段の不足あるいは過剰によって妨げられることがないかどうかを確かめなければならない。

つまり、司令官の仕事とはまず第一に兵士に飯を食わせることができるかどうかということだ。それができなければ、どんなに素晴しい戦略も絵に描いた餅でしかない。補給戦の著者、マーチン・ファン・クレフェルトは、兵站の問題が技術や組織あるいは他の関係諸要因の変化によって、歴史的にどのような影響を受けたのか、また兵站術が戦略にどのような影響を与えたのかを明らかにしていく。本著を読みながら、物資補給の観点から戦争というものを改めて考えてみよう。

16-17世紀の略奪戦争

16-17世紀に行われた戦争の特徴を著者、マーチン・ファン・クレフェルトは「略奪戦争」と定義している。なぜ、戦争してまで、相手国から略奪しなければいけないのか、それは物資が無いから相手から奪うしか方法がなかったのだ。つまり生産体制が十分でないから貧乏だったのである。この時代の戦争を永井俊哉氏はディスインフレ型として位置づけているので、参考までにご確認いただきたい。

ディスインフレ型の戦争では、使用火薬量に対する戦死者数の割合が高い。資源の獲得が目的であるから、敵が所有していた資源(土地を含む)を戦利品として略奪することが頻発し、かつ容認されている。捕虜は、戦勝者のために資源を生産する奴隷として使役されたり、それができない場合には殺されたりすることが多い。

この時代の戦争は、相手から物資を奪うために戦争をするのであるから、こちら側にも当然、物資がないわけである。では、どうやって、戦争をするのっていったら、略奪しながら戦争をするということになる。そして、1つの場所で略奪を終えたら、次の場所に行って、また略奪を行うことになる。当時の軍隊は中国などで、頻繁に発生するイナゴの大群のようなものだったと考えればイメージ通りなのではないかと思う。民衆にとって、軍隊ほどやっかい存在はなかったであろう。マーチン・ファン・クレフェルトも著書の中で、当時の軍隊は、恐らく史上において最も補給が劣悪で、武装したならず者の略奪集団が、通る道々の田野を荒廃させることになったと指摘している。

このような状況だったので、当時の兵站制度が戦略に及ぼした影響と言うのは、常に移動しなければいけないということだった。胃袋の命じるままに物資がありそうな移動し続けることが当時の軍隊の行動パターンだったのである。さらに、兵站という観点から、軍隊の行動に影響を及ぼしたことがことがある。これは、河川の流れに沿って、行軍するというものだ。どういうことかというと、略奪した物資を輸送する場合、地上で行うよりも河川に船を浮かべて運ぶ方がずっと簡単だったのである。どれくらい河川沿いの輸送の方が楽だったのかは計算例が記載されてあるので参考にして頂きたい。

17世紀の軍事技術家として一流だった人の計算によれば、200トンの小麦粉と600トンの飼料を詰め込むのにたった9隻の船で足りたが、陸上だと200トンの小麦粉を運ぶだけで、600台もの荷馬車が必要だとしている。(重量単位のラストをトンに変換して記載しているので注意)

さらに、当時の戦争風景として面白い実例が挙げられている。食料を現地調達するとしても、それがコンビニエンスストアのように完成品が存在しているわけではない。その多くは原材料のままなのだ。キュウリやトマトなどの野菜はそのまま食べることができるので問題がないが、小麦などはどうしたのだろうか?

人馬に必要な食料のごく一部しか、完成品の形で手に入らなかったために、一カ所に長く駐留する軍隊は、必然的に食料生産機械と化した。穀物をひき、材木を集め、パンを焼き、かいばを刈ったのである。それらの作業は、数日おきごとに規則的に行わなければならなかったから、軍隊の通常の機能がいかに損なわれたかは明らかである。兵站のために、一軍の戦闘機能が全期間実質的に停止することが、実際に起こりえたのだ。

16-17世紀の長引く戦争において、ヨーロッパが疲弊したというのは、軍隊同士の激しい応酬の結果というよりは、軍隊の移動によって、多くの物資が現地調達されたので、民衆が食料不足に陥ったというのがどうやら実情のようだ。明日の食料も一から自分たちで製造しなければいけないのだから、相手の軍隊に打ち勝つための戦略・戦術も二の次でしかなかったということがよくわかる。よって、食料も十分に確保できなかったことから、戦争に必要な弾薬もほとんど使用されなかったのだそうだ。弾薬が十分に使用される戦争は1870年の普仏戦争まで待たなければいけない。

軍事の天才ナポレオンと補給

時代は18世紀の後半に移る。この時代にかの有名なナポレオンがヨーロッパに登場することになる。軍事の天才ナポレオンは兵站問題をどのように解決したのだろうか!?

今日は何の日?徒然日記

ここで、少し話しはそれるのが、戦争には包囲戦というものがある。日本では一般的に、兵糧攻めと呼ばれるのだが、これは豊臣秀吉が最も得意としていた戦法で、北条氏に対する小田原城攻めが最も有名である。しかし、16-17世紀のヨーロッパの戦争では、基本的にこの包囲戦というものはほとんど採用されることはなかった。なぜかというと、包囲戦というのは、兵糧攻めというだけあって、相手の食料がなくなるまでの我慢比べなのである。よって、包囲戦は時間がかかってしまうし、この当時の軍隊は食料はほとんど現地調達していたのだから、常に移動し続けなければならないのだ。結論として、包囲戦をしたいのであれば、本国からの常に補給を受け続ける事が前提となるのである。ナポレオンはこの包囲戦というものをどのように解決したのであろうか。

ナポレオンは、その生存中、包囲戦を行ったのは、たったの2回に過ぎず、イタリアのマントゥア包囲で軍隊を補給した際の彼の経験によれば、包囲戦での兵站上の問題を解決するのは、ボナパルトにとってさえ決して容易なことではなかった。

つまり、ナポレオンは補給の問題が解決不可能な包囲戦などは行わず、常に野戦で相手の軍隊を撃滅できる戦略を編み出したのである。ここらへんの割り切り方が、天才の天才の所以といえるかもしれない。

アウステルリッツ三帝会戦


ナポレオン戦争において、最も芸術的だと呼ばれたのはアウステルリッツの戦いである。これは、オーストリアのアウステルリッツ郊外で、ナポレオン率いるフランス軍が、オーストリア・ロシア連合軍を破った戦いのだが、一般的にはプラツェン高地をどれだけ完璧な方法で、フランス軍がオーストリア・ロシア連合軍から奪取して、敗退させたのかということが、注目を集める。アウステルリッツの戦いがどのような戦いであったのかということは、wikipediaに詳細に記載されているので、興味のある方はそちらをご確認いただきたい。ナポレオンはわざと自軍の右翼を薄くして、ロシアのアレクサンドル1世がプラツェン高地を捨てて、ダヴーを攻撃させるという罠をしかけている。これはナポレオンの戦略が素晴しかったというのが定説である。しかし、著者、マーチン・ファン・クレフェルトは、次のような面白い説明をしている。

ナポレオンにとって、幸いなことには、敵の同盟軍の補給はいっそう悪く、遂に崩壊を覚悟して「大陸軍」に対し攻撃をかけざるをえなくなった。その結果戦闘が行われた。そしてブローニュからアウステルリッツに至る「電撃戦」は終わったのである。

つまり、こういうことだ。ナポレオンの大陸軍より、オーストリア・ロシア連合軍の方がアウステルリッツの戦いにおいて、腹が減っていたのである。日本にも、「腹が減っては戦ができぬ」という素晴しい名言がある。腹が減った連合軍は、部隊が崩壊する前に一時も早くフランス軍に勝利しなければいけなかったのである。総指揮官であるロシアのクトゥーゾフ元帥は、プラッツェン高地を空白にする事に難色を示したが勝利を確信していたアレクサンドルⅠ世は聞き入れなかったという。腹が満たされていればもう少し冷静な判断もできたかもしれないと思うと歴史を見る視点も少し変わって来るのが面白い。しかし、兵站システムの点のみで、天才が天才と言われる所以を説明できないのは当り前のことだが一応指摘しておく。

それでは、兵站制度において、ナポレオンの大陸軍はオーストリア・ロシア連合軍よりも画期的なシステムを採用していたのだろうか? 残念ながら、ナポレオンはメモを取る習慣が無かったので、ほとんど資料は残っていないという。しかし、次のような命令書が残っていることから、基本的に食料は現地調達で、軍団長の責任だったようである。

ライン川から、ドナウ川までの前進の間、補給についてのほとんどの問題は、必然的に各軍団長の責任となっており、ナポレオン自身は部下を叱責するか、あるいは必需品を即席で作れとか、他の物で代替せよとか、「いかなる手段を用いても」軍に食料を確保せよとかの訓戒を垂れる以外には、ほとんど何も力を貸す事はできなかった。しかし、このような兵站制度の危険をナポレオンも十分に理解しており、ウルムの戦いを経て、アウステルリッツ戦いに至るまでは、積極的に軍需品倉庫を作るように命令し、そこに軍隊の18日間を養うことができる食料を集積できるように絶え間ない努力をしたようだ。このように、天才と呼ばれるナポレオンが軍隊への補給に対して、血のにじむような苦心をしても、ウィーンには入る前のフランス軍への物資はほとんど底をついていたみたいだ。軍需物資の確保は本当に命がけである。

The Downfall of Napoleon's Empire 1810 - 1814

Napoleon I: statistical map of Russian campaign


次に、ナポレオン戦争の転換点となった、1812年のロシア遠征について見てみよう。ナポレオンが率いるフランス軍が、1812年6月23日に、ネマン川を越えて、ロシア領ポーランドへの進軍を開始した時の兵力はおよそ47万5千人、同年12月10日、ネマン川をこえて、ロシア領から帰還したときの兵数はわずか5千であったと言われる。

完全なフランス軍の敗北である。ナポレオンはアウステルリッツの戦いと比較しても十分な物資を用意した後に、ロシア遠征を開始している。ナポレオンがロシアに持っていた食料は24日分であったという。この内、20日分は補給部隊によって運ばれ、残りの4日分は兵士の背中で運ばれた。この24日分というのが、ロシア遠征前に準備できる最大限の物量だったと言われている。このことから、ナポレオンはおよそ3週間で相手軍を撃滅した後、降伏させる計画を立案していた。

Napoleon's Moscow Campaign: 1812

ものすごい速度でモスクワまで進撃するフランス軍に対して、ロシア側がとった作戦は持久戦である。フランス軍に対して、兵力が十分でなかったということもあり、畑などを焼払いながら、撤退し続けたのである。このことによって、フランス軍は食料を現地調達することはほとんど不可能になってしまった。8月16日にスモンレスクで戦いが行われた際には、飢えと疲労で、フランス軍は15万人程度にまで激減していた。食料が3週間分しか持ってきていなかったのだから、この戦いの時には、ほとんど飲まず食わずで行軍していたであろうことが想像できる。9月7日、首都防衛のために、モスクワ郊外のボロジノというところで、会戦が行われる。ロシア軍はあえなく敗れ、首都を放棄して撤退する。よって、9月14日に、フランス軍は念願のモスクワ入場を果たしたのである。

しかし、モスクワに入場しても、モスクワの街は大きな火災が起こり、食料や軍事物資を十分に補給することはできなくなった。しかも、モスクワを退去したロシア皇帝に降伏勧告書を送付するも相手は無視を続けたのである。モスクワ入場から1ヶ月が経ち、食料補給の観点から限界に達していたナポレオンは撤退か、相手に再度戦いを挑むのかを決断しなければならなかった。ナポレオンが選択したのは撤退である。なぜなら、初雪が降り始めたからである。このままモスクワにいれば、全軍が飢えと凍死で全滅してしまうからだ。しかし、これに対して怒濤の追撃戦をロシア軍は開始した。寒さと飢えとロシア軍の攻撃で、フランス軍はさらに激減して行き、ロシア領から帰還できたのはたった5千名しかいなかったのである。

現地で食料補給もできず、相手の軍隊を撃滅して降伏させることもできなかったのだから、ナポレオンはボロジノの会戦が終わった段階で、すぐにフランスに帰還すべきだっただろう。なぜなら、モスクワに残ってもフランス軍を待ち構えているのは餓死でしかないのだから。この決断ができなかったことが、ナポレオンのモスクワ遠征の敗因であったように思う。

鉄道全盛時代のモルトケ戦略

時は経て、19紀後半のプロイセンの参謀総長モルトケの時代に移る。この時代には、ナポレオン時代にはなかった鉄道というものが、軍事史にようやく登場することになる。モルトケは,鉄道を活用し,主戦場に迅速に大量の兵士を投入できる仕組みを作ったことでドイツ史にその名を残している。1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争に勝利し、モルトケはドイツ各地の諸邦をプロイセンの主導するドイツ帝国に統一した。

鉄道の利用により、軍隊と食料を戦線に迅速に送ることができた結果、ドイツ軍は勝利を獲得することができたというのが歴史の通説である。しかし、著者のマーチン・ファン・クレフェルトは兵站という意味において、当時のプロイセン軍の鉄道はほとんど機能していなかったと断言している。例えば、補給戦の中に次のような記述がある。

1866年戦役中での鉄道利用は、成功したとはとても言えないであろう。確かに動員はスムーズに進んだ。すなはち21日間の間に、兵員19万7千人、馬5万5千頭、あらゆる種類の車両5300台が展開され、この時期にモルトケを訪問したある士官は、モルトケがソファーに寝転んで読書しているのを見たという。しかしながら、その後に続いた鉄道作戦は決して満足すべきものではなかった。この時初めて明らかになったのは、兵站駅に補給物資を送るよりも、そこから前線の軍隊に補給物資を送る方が、はるかに難しいということだった。

全体の補給担当者が鉄道管理をうまくできなかったようだ。兵站駅から前線までの物資補給がうまくいかなかったので、各軍団の補給将校が兵站駅に物資を求めて突進してくるのが当たり前のような状態になり、兵站駅は常に混乱していたようである。そのため、鉄道に物資を積み込み、前線近くの兵站駅に送ろうとしても、途中で停止し、1万7920トンもの補給物資が線路上で立ち塞がりになり、そのうちパンもかいばも腐り、牛は栄養不足で倒れていったという。兵站システムに鉄道を使用するというアイデアは良かったのだが、それをうまく活用するだけの訓練がプロイセン軍はしていなかったということだ。

それでは、4年後に行われた普仏戦争では、プロイセン軍の兵站問題は解決されていたのであろうか。著者のマーチン・ファン・クレフェルトによると、補給面において、プロイセン軍の進歩はほとんどなかったいう。1870-1871年のドイツの全作戦(普仏戦争)は、結局のところ対戦国のフランスがヨーロッパ中、最も豊かな農業であること、そして戦争が1年のうちで条件のよいシーズンに開始されたからこそ可能になったのである。

つまり、どういう事かと言えば、モルトケの時代には、十分に鉄道が発達していたと言っても、プロイセン軍がフランスと戦争を行うことができたのは、フランスが農業国で食料が十分にあり、そこで現地調達をすることができたからというのが現実だったようだ。プロイセン軍の第二軍兵站官が、「敵国では本国にいる時のように物を節約する必要はない」と言っているほど、プロイセンとフランスで食料供給量は異なっていたのだ。

よって、プロイセン軍は結局のところ、食料をフランスで現地調達しなければいけなかったので、昔の軍隊と同様に常に移動しなければならなかったのである。ナポレオンが補給の問題から、包囲戦をできなかったことは既に紹介したが、兵站であくせくしなければいけない軍隊は常に食料を求めて移動しつづけなければいけないので、一カ所に止まる事はできないでのある。

普仏戦争で、プロイセン軍がフランスを包囲した時にこの問題が起こった。包囲戦が長期化したので、包囲している側の食料が底をついたのである。パリ包囲の場合は2ヶ月間にわたって、実質的に軍隊の軍事機能を停止させ、そのかわりに各部隊に命じて自分の食料を探させることが必要だった。

軍隊を食料生産手段として展開させたのは、著者の知識によれば、1789年以来軍事史上類のないことであり、もしナポレオンが生きていたらびっくり仰天しただろう。(略) モルトケの軍隊は移動の間だけ食を手に入れることができたこと、一カ所に数日間以上留まると大きな困難が生じたこと、モルトケの手中に軍事機構は結局のところ近代的ではなかったのである。

プロイセン陸軍の兵站制度の欠点は著書の中で取り上げられている。主なところは以下に抜粋してみよう。

1. 鉄道守備隊は武装が十分でなく、自分を守ることができなかった。

2. 進軍の規律は弛緩しており、車両の整備はあまりに不十分だった。

3. 鉄道と軍隊の補給に余り関係がなく、野戦官は列車の所在に無関心だった。

4. 弾薬の消費量が少なかったため、列車の補給がなくても問題が起こらなかった。

5. 鉄道そのものに問題があった。

6. 兵站駅が軍隊の進撃に歩調を合わせることができなかった。

7. 兵站駅から前線まで補給物資を移動させることができなかった。

結局、モルトケの兵站制度における鉄道の利用は、兵站制度が歩兵の足から、車輪に移すその最初の発端となった点が画期的だったのであり、それ以上の意味をこの時点では持ち得なかったということになる。


壮大な計画と貧弱な輸送と

第一次世界大戦において実行されたシュリーフェン作戦を、著者、マーチン・ファン・クレフェルトは兵站面において非常に杜撰な作戦であっと位置づけている。さらに著者は、このシュリーフェン作戦を補給の面から、改善を行ったのが、小モルトケであったと指摘している。しかし、この主張は間接アプローチを書いたリデルハートの意見とはまっこうから反対するものである。小モルトケによって、シュリーフェン作戦が骨抜きにされた結果、ドイツ軍は短期間にフランスを降伏させることができなかったというのがリデルハートの主張だからだ。史実はどうだったのであろうか? 

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それでは、シュリーフェン作戦について簡単に説明しよう。第一次世界大戦当時のヨーロッパの情勢を知りたい方は以下のコラムを参考にして頂きたい。第一次世界大戦の特異点  

第一次世界大戦前にドイツの参謀総長であったシュリーフェンは、フランスとロシアを個別撃破するために、まず注目したのは、ドイツ国内の鉄道網である。これによって大量の兵士と物資を国内で輸送することが可能となった。まず、初戦で大量の兵士と物資を西部戦線に投入して、フランスを降伏させ、その後、鉄道網を使用する事で、迅速に東部戦線に向かい、ロシア軍を撃退するという作戦をシュリーフェンは描いていた。迅速に西部戦線のフランスを攻略することで、ドイツにとって悪夢であったフランスとロシアの2正面作戦を回避しようというのが、この作戦の趣旨である。

まとめると、シュリーフェン作戦の概要は次のようになる。

①ドイツ軍の全兵力の8分の1で東部のロシア軍に備え、残る8分の7の兵力で西部のフランスを強襲する。

②フランスを撃破するための期間は6週間を目標とする。

③短期間にフランス軍を撃破するために、カンネーの戦いを参考して、ドイツ軍右翼に、72個師団のうち、53師団を割り当てる。

④フランスを撃破した後は、迅速にロシアとの東部戦線に割り当てる。

この作戦を小モルトケは、右翼軍は西部戦線の全兵力の8分の7を持つものとされていたのを、3対1へと改め、また東部戦線にロシア軍が進出すると、右翼軍からそうそうに2個軍団を引き抜いてしまった。この小モルトケによる作戦変更により、シュリーフェンプランは本来の計画の徹底性を失ったまま遂行される。その後、ドイツ軍はベルギー領を通過して、英仏軍を撃破した後、フランス領に進出する所までは計画通り良かったが、9月6日-9日にかけて戦われたマルムの会戦で前進を阻止され、西部戦線は膠着状態のまま、長期化することになったのである。

それでは、シュリーフェン作戦が原案通りに実行された場合、ドイツ軍はフランス軍を短期間に打ち破ることができたろうのであろうか? まず、ドイツ軍の右翼は短時間の間に、長距離を行軍しなければならない。作戦期間は6週間(42日間)、行軍距離は400マイルである。さらに、そのような大規模な軍隊への食料を現地調達で確保することができたのかどうかという疑問が残る。食料が現地調達できなければ、ドイツ軍はドイツ国内から輸送する物資を安全に前線に運ぶためにベルギー、フランスにおける鉄道網を爆破されないように死守しなければいけない。 物資補給の観点から、この2つの問題を解決しなければシュリーフェン作戦は成功しなかったことになる。

第一次世界大戦当時において、一箇軍団に期待できる最大の進撃速度は15マイルであったと言われている。そこで、シュリーフェンは25日間でセーヌ川に到達するように命令していたいう。25×15=375マイルとなり、全く休息をせず進軍を続けても、最右翼の第一軍は25日間で、セーヌ川にまで到達することができない計算になる。さらに、途中でベルギー軍、フランス軍との間で戦闘が開始されれば、到着日時はさらに遅れることになるのだ。すさまじい速度でドイツ軍の最右翼は進撃しなければいけないので、敵軍と対峙しても疲労のために相手と戦闘することさえできなかったかもしれない。

シュリーフェンは作戦を実行する上で、物資の補給について感心をほとんど示さなかったようだ。ベルギー国内の鉄道網は無数のトンネル、鉄橋、立体交差点から成り立っており、爆破するのは簡単だったのだが、それらが爆破されないという希望的観測の基にシュリーフェン作戦は立案されていたのである。よって、シュリーフェン作戦においては、補給線を維持する部隊に武器を与えることは考えられていたなかったし、ベルギーの鉄道線が爆破された場合に、それを回復するために、ドイツ民間会社を動員することも考慮する事もしなかったという。よって、シュリーフェン作戦が成功するかどうかは、ドイツ軍の最右翼の非常なまでの努力と、ベルギー、フランス国内の鉄道網が敵軍によって爆破されないという幸運と、爆破された場合でもドイツ軍が現地で大量の食料を確保できるという奇跡が重ならなければ成功しなかったであろう。

ナポレオンの時代には軍隊が第一次世界大戦時と比較して、小規模であったことから、本国からの物資の輸送が十分ではなくても、現地調達を繰り返すことで、シュリーフェン作戦は実行可能であったかもしれない。第一次世界大戦以後においても、自動車輸送部隊が活躍することから、鉄道が破壊されても軍隊への物資の補給はかなりの面で解決されたに違いない。しかし、この第一次世界大戦において、このシュリーフェン作戦を実行するのは兵站システムの問題から、実行不可能であったと言うのが、補給戦の著者の結論である。おそらくそうであったのだろうと個人的にも考えている。

しかし、シュリーフェン作戦が意外な功を奏したのは第一次世界大戦ではなくて、第二次世界大戦であっというのが歴史の面白いところである。第二次世界において、ベルギー軍はシュリーフェン作戦の亡霊に取り憑かれるあまり、ベルギーがドイツに占領された場合でも相手の補給システムを麻痺させるために、国内の鉄道網に大量の爆薬をしかけていたのであるが、ドイツ軍の主力はアルデンヌの森を越えたのである。ベルギーだけではなく、フランスまでもがドイツの電撃戦の前になす術が全くなく、1ヶ月程度で降伏することになった。第二次世界大戦のヨーロッパ戦に興味のある方は、 第二次世界大戦の間接アプローチ をご参照いただきたい。

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2009年2月17日

第二次世界大戦とリデルハート


目次


序章

第二次世界大戦の前夜

第二次世界大戦の概略

グデーリアンの電撃戦

第二次世界大戦と間接アプローチ戦略(1)

第二次世界大戦と間接アプローチ戦略(2)

序章

リデルハートが提唱した「間接的アプローチ」理論は、軍事に止まらず、今日においても、情報戦争、金融戦争、テロ戦争などと呼ばれる非対称戦争の中核となる理論である。リデルハートは「戦略論」において様々な時代の戦争を分析しているが、最も詳細に取り上げているのは、彼が実際に生きた時代に起こった第一次世界大戦と第二次世界大戦である。第一次大戦については前回のコラムで既に取り上げたので、本稿では、第二次世界大戦における史実を振り返ることにより、間接アプローチの理論について学ぶことを目的とする。ただし、特にリデルハートは第二次世界大戦において、ナチスのヒトラーの政権の軍事理論に多くのページを費やしている。よって、まずは、ナチスがドイツの政権を奪取し、連合軍に降伏するまでの史実を簡単に振り返り、その後、第二次世界大戦における間接アプローチの実際をナチス・ドイツに焦点を当てて考えてみよう。

第二次世界大戦の前夜

1918年11月に、ドイツの軍港キールで起こった水兵の反乱をきっかけにして、ドイツ全体で革命が起こり、ドイツ帝国は崩壊、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。この政治的な空白に社会民主党を中心とする「ドイツ共和国臨時政府」が発足し、連合国側と休戦条約を調印、4年に渡る史上初の第一次世界大戦はここに終結することになった。第一次世界大戦が終結してから、1939年に、第二次世界大戦が開始されるまでのドイツを中心とする戦間期(Inter War Period)は大きく次のように分類されるであろう。

(1)1918年-1923年: 戦後混乱期
(2)1924年-1928年: 相対的安定期
(3)1929年-1939年: 大混乱期 (ナチスの台頭)

この史実の流れに沿って、第一次世界大戦が終了してから、第二次世界大戦が開始されるまでの概略を振り返ってみよう。


(1)1918年-1923年: 戦後混乱期
連合国と、休戦条約を調印した社会民主党を中心とする「ドイツ共和国臨時政府」はドイツ国内の治安の回復に努めるが、1919年1月、敗戦後のドイツを一挙に、社会主義に転換させようとするスパルタクス団の反乱(ドイツ共産党の前身)により大混乱する。このスパルタクス団による武装蜂起が、軍部と結託した臨時政府により、鎮圧された後、新しい憲法を制定するための憲法制定議会の選挙が行われる。そして、1919年6月には、ベルサイユ条約に調印し、1919年8月に新生ドイツの基本方針となる憲法(ヴァイマル憲法) が採択される。ちなみにこの憲法の下で運営されるドイツ共和国は、ヴァイマル共和国と呼ばれる。

ヴァイマル共和国においても、ドイツ国内は継続して不安定な状態に見舞われる。1920年には、ベルリンで帝政復活を目指す政治家が武装蜂起し(カップ一揆)、1923年にはヒトラー・ナチスが波乱を起こす(ミュンヘン一揆)。また一方で、ルールやザクセンなどの工業地帯においても、ドイツ共産党が反乱を起こし、成立直後のヴァイマル体制は常に動揺に見舞われることになる。また、1923年頃から、ドイツ国内において、急激なインフレーションが加速し、国民生活は破滅的な状態に見舞われることになった。この急激なインフレがドイツ国内で起こった原因は1919年のベルサイユ条約において、敗戦国ドイツに課せられた1320億金マルクという天文学的な賠償金にある。当然ながら、敗戦国のドイツがそれだけ巨額の賠償金を支払うことはできず、常に戦勝国であるフランスなどには支払いを拒絶していたが、怒ったフランスはドイツ工業地帯の心臓部である「ルール地方」を実行支配した。しかし、これに対して、ドイツ政府はルール地方の労働者に対して、徹底した仕事のサポータージュを呼びかける。この消極的抵抗によって、ルール工業地帯の生産は完全にストップしてしまうが、ドイツ政府は、復員兵士のための年金や、ルールの労働者・公務員・失業者に大量の支援金を支給しなければいけなかったので、紙幣の増発に歯止めをかけることができなかった。したがって、ルール工業地帯の生産停止と紙幣の増発という事態が爆発的なインフレを加速させる要因となった。この加速的な国家の危機を克服するために、当時のシュトレーゼマン首相は、マルクに代わり、新紙幣レンテンマルクを発行。ただちに、ルール工業地帯における消極的抵抗を中止し、外国に向かって、ベルサイユ条約に基づく賠償義務の履行を宣言する事により、生産力と国際的信用の回復を図ることに成功した。

(2)1924年-1928年: 相対的安定期
1924年になると、ドーズ案というドイツに対する経済復興案が発表される。このドーズ案に対して、ドイツに対する賠償金の支払い期間の延長と、アメリカによるドイツに対する資本援助が決定される。英仏が第一次世界大戦における戦債の支払いをアメリカに行い、このアメリカがドイツにドーズ案に基づく、資本提供をし、ドイツが英仏に対して賠償金を支払うという資金循環(ベルサイユ条約循環)は、ヨーロッパ諸国を混乱から、安定と協調に導く大きな原動力となった。その後、1926年にドイツは国際連盟の加盟がようやく認められ、1927年にはジュネーブ海軍軍縮会議、1928年にはパリ不戦条約によって、ヨーロッパは軍事的にも安定化の方向へと向かった。

(3)1929年-1939年: 大混乱期 (ナチスの台頭)
1929年になると、1928年まで、 ヨーロッパが相対的に安定していたのが嘘のように、世界は大混乱に陥ることになる。大混乱の引き金となったのは、1929年10月に起こったアメリカ発の世界大恐慌である。これによって、1924年以来、ドーズ案によって、アメリカから輸出されていた資本が停止。ドイツはまたたく間に生産がストップされ、600万人に及ぶ失業者が生み出された。

大恐慌勃発時のドイツ大統領はヒンデンブルクはこの経済的混乱を鎮静化するために、憲法第48条に基づいて、大統領緊急令を行使し、ブリューニング以下、3人の首相を任命するが、事態の打開を図る事はできず、1933年、4人目の首相としてヒトラーを任命した。大恐慌時におけるナチスの広報宣伝能力は他の追随を全く寄せ付けないほど卓越したものであったと言える。それはこの期間におけるナチスの議会における議席数の獲得によって証明される。

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1928年5月20日
共産党(54) 社会民主党(153) 民主党(25) 中央党(62) 人民党(45) 国家人民党(73) ナチス(12)

1930年9月14日
共産党(77) 社会民主党(143) 民主党(20) 中央党(68) 人民党(30) 国家人民党(41) ナチス(107)

1932年7月31日
共産党(80) 社会民主党(133) 民主党(4) 中央党(75) 人民党(7) 国家人民党(37) ナチス(233)

1932年11月6日
共産党(100) 社会民主党(121) 民主党(2) 中央党(70) 人民党(11) 国家人民党(52) ナチス(196)

1933年5月5日
共産党(81) 社会民主党(120) 民主党(5) 中央党(74) 人民党(2) 国家人民党(52) ナチス(288)
()は議会における議席数
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1933年1月30日にヒンデンブルクによって、首相に任命されたヒトラーはドイツ国内における権力を獲得することに成功する。その後、ヒトラーは反ナチス派をドイツ国内から、追放するために国会議事堂放火事件を口実にして、ドイツ共産党を弾圧し、非合法化する。そして、3月5日に、総選挙を行い、ナチスは288議席を獲得し、非合法化された共産党を除いて、ナチスの単独過半数が成立、一党独裁体制への道が開かれることになった。1933年3月23日には、ヒトラー政府に独裁を認める全権委任法が成立したことにより、議会は機能停止、ヴァイマル憲法と共和制は完全に崩壊することになった。1934年になると、ヒトラーはナチス党内の反ヒトラー勢力を一掃するため、突撃隊隊長エルンスト=レームの一派を粛正を図り、実行を成功させる。同年、大統領のヒンデンブルクが死去したことから、ヒトラーは首相と大統領を兼ね揃えた総統(ヒューラー)の地位へと上り詰める事についに成功する。ヒトラーは卓越した広報宣伝能力による議会工作と党内における反ヒトラー派の一掃を行うのと同時に、際立った経済政策を成功させた。600万人の失業者を救済するために、ヴェルサイユ条約で制限されていた軍需産業を復興し、高速道路建設などの大土木工業事業などを行った。その結果、ドイツ国内の失業者の数は0となり、ドイツ国民のヒトラー政権への期待はますます強まることになった。

次に、ナチス・ドイツ政権における対外的な動きを確認していこう。まず、1933年にドイツ国内における権力を掌握したヒトラーは1934年に、国際連盟を脱退する。1935年になると、体制固めに成功したヒトラーは住民投票を通じてザール地方をドイツ領に編入し、(注:ザール地方はヴェルサイユ条約に従って、15年間国際連盟による管理が行われていた所、その年限が終了したので、住民投票によってドイツへの帰属が認められた。)そして、この年のヒトラーはヴェルサイユ条約を無視して、再軍備宣言を発表。この動きに対して、ナチス・ドイツの膨張を阻止することを目的として、イギリス、フランス、イタリアはストレーザ戦線と呼ばれる軍事提携を樹立。さらに、1935年5月には仏ソ相互援助条約が締結され、イギリス、フランス、イタリア、ソ連による対ドイツ包囲網が完成。この時点で、ナチス・ドイツの対外的な膨張は完全に阻止されるかと思われたが、ここで、イギリスがドイツに対して、宥和政策を行うようになった。イギリス首相のボールドウィンはベルサイユ条約海軍条項の破棄という結果をもたらす英独海軍協定を結び、ドイツが対英35%の海軍力を持つ事と、対英45%の潜水艦を持つ事を認めた。1935年の段階では、イギリスにとって、ドイツよりもソビエト連邦の存在の方が脅威であり、仏ソ相互援助条約を締結したソ連が、イギリスの最重要植民地であるインドと、多額の資本を投じて油田開発を行っているイランに進出するのを警戒して、ドイツに対して一定の軍事力の保持を認めるということになった。このイギリスの思惑によって、対独包囲網の一角がもろくも崩れさることになった。1936年に入ると、ドイツはロカルノ条約を破り、ラインラント(ドイツとフランスの国境線のドイツ側の領土)に進駐する。さらに状況はドイツ側に有利に変化していった。対独包囲網の一角を担っていたイタリアがドイツとの間に、ベルリン=ローマ枢軸と呼ばれる友好関係が成立。イタリアは、エチオピアを侵略したことが国際的な非難の対象となり、孤立感を強めていたので、同じファシズム国家であるナチス・ドイツと提携する道を選ぶ。一方、同じ1936年に、日本とナチス・ドイツは、共産主義の拡大を防ぐという名目で、日独防共協定を締結、翌年、1937年にはこの協定にイタリアが加盟し、三国防共協定が締結される。そして、同年イタリアが国際連盟からの脱退を発表する。日本、ドイツ、イタリア三者の関係はこの後も強化されていく。1939年にイタリアとドイツの間で、鋼鉄条約という軍事同盟が結ばれ、この翌年1940年には、このドイツとイタリアの軍事同盟に加わる形で、日独伊三国軍事同盟が締結される。この時はすでに、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦は開始されている。

少し時代を前に戻し、1938年のドイツを中心とする国際的な動向を確認してみよう。1938年2月、ヒトラーは長年の念願であったオーストリアを併合し、同年3月に隣国のチェコスロバキアを脅迫し、その領土内にあるズデーテン地方の併合を強圧的に要求する。ズデーテン地方は、兵器産業が特に発展していたので、ヒトラーの強圧的な領土割譲の原因となったが、ナチス・ドイツの軍事的脅威が英仏を上回るような危機に対して、英仏首脳はミュンヘン会談をドイツ、イタリアに呼びかけ、この4ヵ国でチェコの領土問題に話し合われることになった。この席上で、ヒトラーは「ズデーテン地方こそは最後の領土要求である」と発言し、イギリス、フランスからの妥協を引き出したが、これが虚言であったことは翌年、1939年に証明されることになる。

1939年は世界の歴史において、最も激動の時代と位置づけられるに違いない。1939年3月、ヒトラーはチェコスロバキアを事実上、軍事占領下に置いた。これによって、ヒトラーはチェコという"武器庫"を完全に掌握することに成功した。さらにリトアニアに対して、ヒトラーはヴェルサイユ条約によってドイツから分離させられていたメーメル地方を要求し、これを獲得する。またポーランドに対しては、ポーランド回廊を横断する陸上交通路、そして回廊の突端にある港ダンチヒの返還を要求した。この要求をポーランド側が拒否したことによって、ドイツとポーランド間に戦争の危機が高まり、全世界の注目を集めることになる。そして、1939年8月23日に驚愕の出来事が起こる。ナチス・ドイツが「不倶戴天の敵」であるソ連と「独ソ不可侵条約」を締結したのである。ドイツはポーランド侵攻時にフランスとソ連から挟撃されるという第一次世界大戦前夜に見た悪夢をひどく恐れ、ソ連は日本とドイツに挟撃されることを回避したかったので、両者の思惑が一致し、この条約が結ばれることになった。少し長くなったが、ここまでが第二次世界大戦が開始されるまでの概略である。

第二次世界大戦の概略

それでは、続いて、ドイツから見た第二次世界大戦について、駆け足で確認して見よう。ドイツは独ソ不可侵条約を締結した8月23日の1週間後に、最初の目的地であるポーランドに対する侵攻を開始した。1939年9月1日午前4時45分。100万の軍隊と2000機の飛行機がポーランド回廊とダンチヒに殺到した。これを見て、イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発することになった。1940年春になると、ドイツ軍は北欧、西欧への侵攻を開始する。デンマーク、ノルウェーに続いて、オランダ、ベルギー、そして、1940年6月にはフランスが降伏する。ドイツ軍は、戦車隊を中心とした機甲部隊を戦闘にして、猛烈なスピードで進撃したので、フランス軍はこれに対して、全く対応が取れずに敗北することになった。このドイツ軍の戦い方は電撃戦と呼ばれるが、これについては後ほど再度取り上げる。

1940年夏の段階では、ドイツは北ヨーロッパ、西ヨーロッパ全域の支配を達成し、残るはイギリスのみとなった。同年、7月頃から、ヒトラーはドイツ空軍による徹底した爆撃をイギリスに行うが、イギリスの戦闘機部隊も奮戦し、ドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、1940年12月に極秘命令を出して、西ヨーロッパに展開していた軍隊の多くを東方に移動させる。作戦開始時期は1941年3月だったが、バルカン半島の制圧に3ヶ月を要したので、独ソ戦の開始は1941年6月22日に開始されることになった(バルバロッサ作戦)。レニングラード、モスクワ、スターリングラードを目指し、ドイツ軍は当初、電撃戦により破竹の勢いで進撃した。開始の1ヶ月で実にソ連軍の30%の軍事力がドイツによって破壊されることになった。しかし、不幸だったのは、ナポレオンのロシア遠征と同様に、冬将軍がソ連の味方をしたことだった。同年10月から降り始めた雪によって、酷寒に晒されたことと、予想外の独ソ戦の勝利により戦線が伸び切ったことが災いして、ドイツ軍の前線における補給が困難な状態に陥っていた。そして、1942年6月にスターリングラードを巡る攻防戦(スターリングラード攻防戦)が開始され、双方合わせ150万人を超える戦死、戦傷者を出す壮絶な地上戦を行った結果、ソビエト軍に対し大敗北を喫したことが原因となり、ソビエトとの戦争において、モスクワまで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を余儀なくされることになった。また、この頃、ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア連合軍が北アフリカで、連戦連勝していたものの、同年7月に行われたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に対し、大敗北を喫し、ドイツ軍は、この時点で攻勢終末点を越えていたと言えるだろう。

1943年に入ると、アメリカ、イギリス連合軍はイタリアに上陸する。ムッソーリには国王と国民の支持を失って失脚し、ムッソリーニの後をうけたバドリオ内閣は連合国に対して、すぐさま無条件降伏をする。1944年4月には、ソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。一方、1944年6月、西からドイツ軍を粉砕するために、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦(ノルマンディー作戦)が開始され、多数の犠牲者を出す事にはなったが、1940年6月以来の西部戦線が再び構築されることになった。東西から挟撃されることで、その支配領土を急激に減少させていたドイツ軍は、度重なる敗北で反抗の力をほとんど失い、1945年4月30日にヒトラーはベルリンの地下壕で自殺し、5月8日にドイツは無条件降伏した。

グデーリアンの電撃戦

1939年のドイツのポーランド征服とそれに続く1940年の西ヨーロッパの蹂躙とは、高速機械化戦争の理論の決定的な実例として軍事史上の大事件である。この理論は、はじめ英国で概念化されたが、採用されたのはドイツであった。それについては、ドイツ軍の機甲部隊の創始者グーデリアン将軍の努力に負う所が大きい。(略) 戦争の部面と世界勢力の均衡と部面との両面に革命をもたらしたこれらのキャンペーンは、また間接的アプローチの戦略の非情に意義の深い実例を示したものであった。「戦略論」p247:リデルハート

第二次世界大戦においてドイツ軍が、ポーランド侵攻や、それに続くフランス侵攻、独ソ戦時のバルバロッサ作戦で採用した戦闘教義は一般的に電撃戦と呼ばれる。このドイツ軍が開発・運用した電撃戦はリデルハートによって、間接アプローチ戦略の非情に興味深い実例として紹介されている。電撃戦とは、「戦車・装甲車などの自動化された部隊を航空機の空爆支援の下に、敵の戦線の一番薄い部分に自軍の攻撃を集中させて、突破し、敵陣の奥深くに浸透し敵の退路を遮断して包囲・殲滅することを目的とした戦闘教義」である。一見した所、ドイツ軍が採用した電撃戦の何が斬新であったかということは分からないだろう。電撃戦の生みの親であるグデーリアンはリデルハートの間接的アプローチ理論及び、陸軍の大規模な機械化と少数精鋭の機甲部隊を用いたチャールズ・フラーの機甲戦理論を徹底的に学び、独自の電撃戦という戦闘教義を確立している。グデーリアンの電撃戦を理解するキーワードは「徹底した機械化」と「間接的アプローチ」である。

グデーリアンの電撃戦の斬新さについて、「無形化世界の戦略と力学 長沼伸一郎著」に分かりやすく解説されているので、以下この著書に基づいて電撃戦について紹介してみよう。まず、電撃戦を構築する上で基礎となっているのは、前216年にカルタゴとローマとの間で戦われた「カンネーの戦い」である。

ハンニバルの戦闘教義(後編) 松村 劭

「カンネーの戦い」については、第一次世界大戦ーリデルハートでも紹介したので、詳細はそのコラムを参考にして頂きたいが、ハンニバルはローマ軍の主力となる重装歩兵を中央部に配置した軽装歩兵(ガリア歩兵)及び象部隊で引きつけている間に左翼に配置した騎兵部隊がローマ騎兵部隊を突破した後、右翼のカルタゴ騎兵部隊と合流し、ローマ軍に対して、包囲網を引いて殲滅させるという戦闘教義である。第一次世界大戦において、初めて登場した戦車(タンク)というのは、象部隊としての役割を担っていたのである。当時の西部戦線では、延々と何百kmにも渡って、鉄条網と塹壕陣地が出来上がっていたので、ドイツ軍、フランス軍ともその塹壕陣地を突破できずに戦争は長期化していた。なぜなら、ひとたびその鉄状網なり塹壕陣地を突破しようとすると、相手陣地に据えられた機関銃の威力によって、攻撃突破の試みは片っ端から挫折させられてしまっていた。そこで、この膠着状態を突破するために開発されたのが、戦車(タンク)である。戦車は機関銃の弾丸を片っ端から跳ね返して、機関銃陣地の威力を無力化しながら、鉄条網と塹壕を乗り越えて、前進することができる新兵器として登場したのである。

これだけを見ると、第一次世界大戦の西部戦線において、初めて登場した戦車(タンク)は、騎兵としての役割というよりは、象隊としての役割を期待されていたことがお分かりいただけるであろう。当時の戦車は騎兵のように長距離を高速で走り抜けるような能力よりも、正面から相手側の反撃をすべてねじ伏せるという象隊としての能力が重要視されていたのである。しかし、第一次世界大戦が終わると、英国のリデルハートやチャールズ・フラーなどは、戦車を騎兵隊としての役割を期待するようになった。下手に装甲を厚くして、鈍重にするよりは、むしろ戦車の速度を速くして手薄な場所を迅速に突破した方が良いと考えたのだ。高速の戦車部隊が相手陣地を突破した後、手薄な後背地域に回り込み、相手野戦軍を包囲・殲滅させたり、相手の司令部付近まで突破した後、通信網などの中枢神経を分断し、敵軍を混乱させることを目的とするのである。こうなれば、ハンニバルの騎兵が行ったように、短時間で劇的に戦いを決着をつけてしまうことが可能となるのだ。この戦車の騎兵化を徹底した機械化により実現したのが、グデーリアンが開発した電撃戦である。第一次世界大戦において、戦車の運用思想そのものが全く一変してしまったのである。

第二次世界大戦と間接アプローチ戦略(1)

ポーランド侵攻作戦 秘匿名称「ケース・ホワイト」

ポーランドにとっては不幸なことであったが、同国は、間接的アプローチの戦略と機械化部隊との双方の結合にとっての理想的な展示場となった。ポーランドとドイツとの国境線は1200マイルであったが、その後、ドイツがチェコスロヴァキアを占領したので、さらに500マイル延長されていた。これによって、これまでポーランドの南側もまた、ドイツの侵略に暴露する結果となった。「戦略論」p248:リデルハート

それでは、第二次世界大戦のポーランド戦を題材にして、リデルハートによって、間接アプローチの興味深い実例と紹介された電撃戦についてその詳細を見てみよう。まずは、国境戦に配置されたポーランド軍に対して、ドイツ軍はボック上級大将率いる北方軍集団(第3軍、第4軍)とルントシュテット上級少将率いる南方軍集団(第8軍、第10軍、第14軍)上記の地図のように配置させている。南部におけるルントシュテット軍集団はボック上級少将の率いる北方軍集団に比べて、歩兵において、2倍の兵力を与えられて、機甲兵力ではさらにそれを上回る兵力が与えられていた。一方で、航空兵力の重点は北方に置かれていた。ドイツ軍の作戦意図は、国境付近で対峙しているポーランド軍が、首都ワルシャワとビスワ川まで後退して、塹壕線を構築することを阻止し、国境付近で敵を包囲・殲滅することを目的としている。そのために、ドイツ軍はワルシャワを陥落させる前に北方第4軍と南方第10軍によって、国境付近のポーランド軍を包囲・殲滅し、この包囲陣によって、補足できなかったポーランド軍を東プロイセンから進撃する第3軍と南方第14軍によって、2重包囲した後、殲滅させる作戦を取った。名将ハンニバルが指揮した「カンネーの戦い」で、最左翼に位置した騎馬兵が対峙するローマ騎馬兵を打ち破った後、ローマ重装歩兵の背後に回り込み大包囲陣形を形成したのは、間接的アプローチ戦略として、有名だが、ナチス・ドイツ軍はこの機械化した機甲師団及び自動車化師団を左翼と右翼に持ってくることによって、「カンネーの戦い」におかる騎馬兵の役割をこの機械化師団に担わせている。しかし、このドイツ軍による電撃戦は包囲陣形が2重になっているということから、ハンニバルの包囲陣形よりも完成度が高かったと言える。



 ドイツ陸軍


  北方軍集団 (司令官・フェドル・フォン・ボック上級大将)


    第3軍 (キュヒラー大将)


       歩兵師団 (第1、11、12、21、61、217、228の6個師団)

       第10装甲師団 (開戦後、第4装甲旅団から改編)


    第4軍 (ギュンター・フォン・クルーゲ砲兵大将)


       歩兵師団 (第3、23、32、50、207、218の6個師団)


      第19装甲軍団 (ハインツ・クデーリアン装甲兵大将)


       第3装甲師団

       第2自動車化歩兵師団

       第20自動車化歩兵師団  


   軍集団予備


       歩兵師団 (第73、206、268の3個師団)



  南方軍集団 (ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)


    第8軍 (ブラスコヴィッツ大将)


       歩兵師団 (第10、17、24、30の4個師団)


    第10軍 (ヴァルター・フォン・ライヘナウ大将)


       歩兵師団 (第4、14、18、19、31、46の6個師団)


      第14装甲軍団 (ヴィッテルスハイム大将)


       第13自動車化歩兵師団

       第29自動車化歩兵師団


      第15装甲軍団 (ヘルマン・ホト大将)


       第1軽快師団 (軽装備の装甲師団)

       第3軽快師団


      第16装甲軍団 (エーリッヒ・へプナー騎兵大将)


       第1装甲師団

       第4装甲師団


     第10軍予備


       第2軽快師団


    第14軍 (ヴィルヘルム・リスト上級大将)


       歩兵師団 (第7、8、28、44、45、239の6個師団)

       第1騎兵師団


      第22装甲軍団 (エヴァルト・フォン・クライスト大将)


       第2装甲師団

       第4軽快師団


     第14軍予備


       第5装甲師団

   軍集団予備


       歩兵師団 (第27、62、68、213、221の5個師団)


  以上、

  装甲師団6個、軽快師団4個、自動車化歩兵師団4個、

  歩兵師団37個、騎兵師団1個


  総計52個師団


   (一個師団は通常約1万~2万名から成り、その兵員数は兵科、

   国籍によって異なる)




 ドイツ空軍


  第1航空軍 (アルベルト・ケッセリング大将)


     北方軍集団の支援を担当


    第1航空師団 (ウールリッヒ・グラウアート中将)


      第4軍の支援を担当


     第1爆撃航空団

     第26爆撃航空団

     第27爆撃航空団

     第2急降下爆撃航空団 第2、第3飛行隊

     第1駆逐機航空団 第1、第2飛行隊

     第1教導航空団 第4飛行隊

     第2教導航空団 第1飛行隊


   東プロシア方面航空部隊 (ヴィルヘルム・ヴィマー大将)


      第3軍の支援を担当


     第1戦闘航空団 第1飛行隊

     第21戦闘航空団 第1飛行隊

     第2爆撃航空団

     第3爆撃航空団

     第1急降下爆撃航空団 第1飛行隊


    教導師団 (ヘルムート・フェルスター中将)


     第1教導航空団(一部欠)

     第2教導航空団(一部欠)

  第4航空軍 (レール上級大将)


     南方軍集団の支援を担当


    第2航空師団 (レルツァー中将)


     第4爆撃航空団

     第76爆撃航空団

     第77爆撃航空団

     第76駆逐機航空団 第1飛行隊


  特別任務航空部隊 (ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将)


       第10軍の支援を担当


     第77急降下爆撃航空団(一部欠)

     第2駆逐機航空団 第1飛行隊

     第2教導航空団 第2飛行隊



 以上

 第1航空軍計  795機 (爆撃機は519機)

 第4航空軍計  507機 (爆撃機は360機)

 総計     1302機 (爆撃機879機)


*各航空団は司令部小隊と3~4個飛行隊から編制され、一個飛行隊の配備定数は30~36機であった。

 

それでは、ポーランド侵攻作戦における実際の経過を確認してみよう。ポーランド侵攻は1939年9月1日に開始される。まず、第4軍クルーゲの前進によって、ポーランド回廊は遮断され、ヴィッスラ河下流に到達。一方、第3軍キュヒラーが、東プロシアからナレフ側に向かって進行した。さらに、第10軍ライヘナウの機甲部隊はヴァールタ河にまで突破を行い、第14軍のリスト軍はクラコフに向かう分進合撃を実施していた。9月4日までに、第10軍ライヘナウの機甲部隊は国境から内側へ50マイル入ったピリーツァ河を渡河し、その2日後には彼の左翼はトマーショフを超えてそのかなり前方まで前進し、その右翼はケェルツェへ進入していた。ドイツ軍の作戦計画が順調に実施されているので、ドイツ陸軍総司令官ブラウヒッチは、首都ワルシャワがあるビスワ河まで、この前進行動を東方へと継続させることを指示した。しかし、南方軍ルントシュテット上級大将とその参謀長マンシュタインは、ポーランド軍主力が依然として、ビスワ河の西方にあり、その場所で補足可能である事を知り、計画の変更を主導した。第10軍ライヘナウの機甲部隊の左翼はロッズ付近にあったポーランド軍大兵力の集中地の背後を目指し、北方へ旋回し、ロッズ及びワルシャワ間にあるブズーラ河沿いに狙塞陣地を確立するように指示。この北方への旋回行動の結果、このポーランド軍の大兵力は退路を遮断されて、ビスワ河を超えて撤退することができなくなった。この第10軍の旋回行動によって、名将ハンニバルのカンネーの戦いにおける「包囲陣形」が完成したのである。

ドイツ軍はこの時点で、ビスワ河を目指して、突進してくるポーランド軍を迎え撃ちさえすれば良かったのである。ポーランド軍は首都ワルシャワからは遮断されており、補給物資は運搬されず、その背後と両翼にはプラスコヴィッツの第8軍とクルーゲの第4軍によって逐次圧迫を受けつつあった。ポーランド軍は敵をも感嘆させたほど勇敢に戦って、ワルシャワ守備軍と合流しようとしたが、ほとんが果たせず、ドイツ軍の包囲陣形の餌食となった。9月10日、ポーランド陸軍総司令官スミグリー・リッツは、長期抵抗のため比較的狭い正面の防御戦を編成しようと望み、残余の兵力に対して、ポーランドの東南部へ向かい総退却を実施するように命令した。しかし、この退却するポーランド軍に対して、ドイツ軍はさらなる大包囲陣形を敷くことによって、ポーランド軍を殲滅することを計画する。大包囲陣形の左翼を担ったのはクルーゲの第4軍の先鋒をつとめたグーデリアンの機甲師団である。ポーランドの侵入にあたっては、ポーランド西北部にある回廊地帯を横断する突進を行って、孤立していた東プロシアに到達した。その後、9月9日に、グーデリアンはナーレフ河の線を越えて、さらに南に突進し、14日にはブーク河に沿うブレスト=リトフスクに到達した。そらに、40マイル先にあるグロータヴァを目指して進撃し、南方からせり上がって来るもう1つの鋏である第14軍第22装甲軍団クライストと合流して、大包囲陣形を完成させた。ロシア軍がポーランドの東部国境を越えた9月17日までには、ポーランド陸軍はドイツ機甲師団による二重の包囲陣形により崩壊させられていたのである。

第二次世界大戦と間接アプローチ戦略(2)

それでは、次にナチス・ドイツのフランス侵攻作戦を確認しよう。1939年10月上旬、ポーランドの蹂躙を終わった後、ヒトラーは西ヨーロッパ攻勢のための最初の指令を発している。ヒトラー・スターリン間の条約によって、ロシアの中立性が保たれるのは時間の問題であることから、ドイツは西部戦線のフランス、イギリスをできるだけ早く撃退して、東部戦線のロシア戦に備えなければならなかった。

-フランス侵攻作戦- 秘匿名称「ケース・イェロー」

-フランス侵攻作戦- 秘匿名称「ケース・イェロー」

それでは、西部戦線におけるドイツ軍の原計画案を確認してみよう。ハルダーを総長とする参謀本部が立案した原計画は、主攻はボックの指揮する「B軍集団」によって遂行され、他方、ルントシュテットの指揮する「A軍集団」がその左翼において、丘陵森林地帯アルデンヌを経て助攻を行うことになっていた。参謀本部はアルデンヌを戦車の通過至難な地区と見なしていたので、この助攻方面には何らの成果を期待しておらず、機甲師団の全部をボックの「B軍集団」に割当てていた。つまり、参謀本部が作成した原計画案とは、1914年の第一次世界大戦において採用されたシュリーフェン作戦の焼き直しでしかなかったのである。

-フランス侵攻作戦- 秘匿名称「ケース・イェロー」

しかし、本作戦は敵の最も予期しない所を、攻撃して相手の意表をつくという「間接アプローチ」ではなく、相手の予測している所を、予測通りに攻撃するという「直接アプローチ」作戦なので、早急にフランスを降伏させることは難しくなる。ルンシュテットの参謀長であったマンシュタインは、この計画があまりにも1914年の計画の繰り返しに似ており、そのため連合側が予期する攻撃の路線であり、連合側がこの攻撃に対処する準備を整えていると指摘し、攻勢重心を右翼から、中央へ移されるべきことと、主要な突出作戦が最も予期せられない路線であるアルデンヌを経て前進させられるべきと主張した。アルデンヌ高原は一見すると地形上機甲部隊の通過が困難に見えるが、機甲部隊を同地方で有効に使用することは可能であると考えていた。そして、彼のこの見解は機甲の権威グーデリアンの判決によって支持されていたが、マンシュタインの作戦案がドイツ参謀本部に採用されることはなかった。

しかし、ここで事件が起こる。1940年1月10日、ドイツ空軍第二航空艦隊参謀将校が飛行機事故に遭遇、ベルギー領内へ不時着してベルギー軍憲兵に逮捕され、作戦計画案が記載された書類の一部を押収されてしまったのである。1月16日ヒトラーは作戦内容の変更を決意した。第一次世界大戦に従事し、塹壕戦の悲惨さを経験していたヒトラーはマンシュタインによる電撃戦を採用することを決定したのである。マンシュタインの計算は鋭い。ドイツ軍のB軍集団を主攻と勘違いした連合軍がベルギー領内に深く推進すればするほど、ドイツ軍がアルデンヌを通過して連合軍の背後に迫り挟撃することが可能となるのである。

アルデンヌの森の写真

-フランス侵攻作戦- 秘匿名称「ケース・イェロー」

次に、実際の戦いの経過を確認しよう。機甲師団の多くはA軍集団に配置され、B軍集団の侵攻ルートにはベルギー、オランダの要塞が各地に存在するので、空挺部隊による制圧が行われることになった。オランダでは、5月10日早朝に、ドイツ軍空挺部隊が、首都のヘーグと同国の交通中心地ロッテルダムの奇襲降下を行うと同時にロッテルダムの東方100マイルにある国境防御線に対して地上軍による強襲を実施した。前線と背後への同時攻撃によって、オランダは混乱状態に陥り、戦闘が始まってから、5日目には、オランダは降伏した。ベルギーへの地上攻撃はライヘナウ指揮する第6軍によって開始され、この攻撃支援として500名の空挺隊員が参加した。ドイツ軍の進撃により、ベルギー軍はディール河の線まで後退したが、ここで、イギリス、フランス軍と合流することになった。

その間に、ルンシュテット率いるA軍集団の機甲部隊はフランス国境を目指して、ルクセンブルグ及びベルギー領ルクセンブルグを迅速に移動した。このルンシュテットの機甲部隊は、70マイル幅のアルデンヌを通過し、途中で弱い抵抗をはねのけながら、フランス国境を超え、攻勢開始第4日早朝にはミューズ河の河畔に到達した。5月14日の午後までにルンシュテット軍集団のグーデリアン機甲部隊はミューズ河の渡河を完了し、フランス軍の反撃を撃退した後、フランスの首都パリではなく、英仏海峡諸港を目指して、さらに西へ進撃したのである。この後、グーデリアンの機甲師団はさらには速さを増し、5月20日には疾駆して、アミアンに入り、アッペヴィルを越えて海岸に到達し、ベルギーにある連合軍の交通線を遮断することに成功したのである。これによってベルギーで、ドイツB軍集団と戦っていた英仏軍に完全に前後から挟撃できる体制を整えることに成功した。

5月16日、A軍集団が背後へなだれ込んだことを知らされた連合軍は総退却を開始するが、機動力に勝るA軍集団にパリ方面への退却を阻まれ、イギリス海峡方面への脱出を試みる。英軍に残された最後の脱出港湾であるダンケルクへの突進の継続は23日ヒトラーの命令によって停止された。英仏軍はヒトラーの謎の停止命令により、九死に一生を得たことになる。2日後に命令は撤回され、前進が再開されたが、それまでに連合軍の防御態勢も強化されており、英軍22万4千人、連合軍11万4千人が脱出することに成功した。ドイツ軍はダンケルクを制圧したのは6月5日のことである。5月28日にはベルギーはドイツに降伏している。このマンシュタインの発案した作戦計画により、ドイツは6万人の死傷という少ない犠牲において、100万人の捕虜を獲得する事に成功したのである。その後、フランスは残存部隊とマジノ要塞から引き抜いた歩兵主体の軍隊で戦うしかなかった。ダンケルクの包囲戦が終わり、ドイツ軍がフランスへ進撃すると、6月10日にフランス政府はパリを放棄、14日にはドイツ軍はパリへ入場してフランス政府は崩壊し、本土のペタン元帥率いる和平派政府とイギリスで樹立されたド・ゴール率いる自由フランス政府に分裂した。

以上で、第二次世界大戦におけるドイツ軍によるポーランド侵攻とフランス侵攻の概略を確認した。これらの戦争において、ドイツ軍が短期間に大勝利を挙げる事ができた最大の根拠はグデリーアンにより開発された新戦闘教義「電撃戦」のおかげと言っても言い過ぎではないであろう。リデルハートの「間接的アプローチ」を徹底的に学んだグデーリアンは戦車部隊の徹底した機械化と集中運用を押し進めた。また、航空機を長距離砲のように使用し、敵を攪乱せしめた後に、戦車隊を相手陣地に進撃させたことで、より迅速な戦車部隊の機動を可能にした。また、前線にいる戦車部隊に無線通信が配備され、中央による集権的な指揮系統よりも、自らの判断で部隊を動かすことが奨励されたのも、「電撃戦」の効果をより増大させた要因と言えるであろう。

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参考コラム:【取材】環境覇権国を目指す政治団体の戦略

警告書籍:原発と地震―柏崎刈羽「震度7」の警告 新潟日報社 特別取材班 (著)

2009年2月10日

リデルハート: 戦略及び大戦略の基本的事項


目次


序章

戦略と大戦略の相違点

戦略(軍事的な純戦略)について

戦略における行動について

交通線の遮断

戦略及び戦術の神髄

ゲリラ戦争

軍事における革命と間接アプローチ理論

序文

前回までは第一次、第二次世界大戦における間接アプローチ戦略の実際の運用方法について学んだ。本稿では、リデルハートの「戦略論-間接アプローチ」の第4部を学習することで、間接アプローチ理論の本質について学ぶことを目的とする。

戦略と大戦略の相違点

まず、「戦略」という言葉の意味について学んでみよう。戦略という言葉はビジネスシーンや日常生活でもよく使用される言葉であるが、英語ではstrategyとなり、日本語では長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法という意味合いで用いられる (goo辞書より)。 一方、クラウゼヴィッツは「戦争論」において、戦略を「戦争の目的を達成するための手段として、諸戦闘を用いる術。言い換えれば、戦争の計画を形成し、戦争を構成する数個のキャンペーン(一連の密接に関連する戦闘)の取るべき予定のコースを描き上げ、そしてそれぞれのキャンペーンの取るべき予定のコースを描き上げ、そしてそれぞれのキャンペーン中において戦われるべき諸戦闘を規制するものである (戦略論-間接アプローチ)」として定義している。

まず、戦争というものには目的がある。例えば、太平洋戦争において、アメリカと戦争をした日本の戦争目的の1つは間違いなく「自存自衛」であった。1937年7月、北京の盧溝橋で起きた発砲事件を契機に、日中戦争という戦争状態に突入し、泥沼状態に陥っていた日本軍はアメリカ、イギリスからの対蒋介石への援助ルートを断ち切るために、南部仏印に進駐した。日本軍のこの行動に対して、即座にアメリカのルーズベルト大統領は在米日本資産の完全凍結と石油輸出全面禁止という強行措置に出たために、資源のない日本は、対米戦争を決意し、東南アジアにおける南方資源の確保と継続した日本本土への資源の運搬及びアメリカとの早期和解を実現しなければならなかった。これが太平洋戦争を決意した日本国の最重要の目的の1つだった。つまり戦争目的とは政治において決定されるべきものであることがわかる。しかし、クラウゼヴィッツは、戦争の目的を軍事指導者が決定すべきかのように戦略を定義している。(少なくともそのように見える。) この点に関して、リデルハートはクラウゼヴィッツの戦略の定義について、戦略そのものが、政策の分野すなわち戦争を遂行すべき最高の分野に冒し入っていることが誤りであると指摘している。もともとこの分野は必然的に政府の責任に属するべきものであり、軍人に責任を負わせるべきではないと言及している。

また、クラウゼヴィッツの戦略の定義の欠陥として、戦争目的を達成する手段を諸戦闘に限定していまっていることが挙げられる。(少なくともそのように誤解される書き方である。)この戦争の目的と諸戦闘という手段が混合した結果として、「戦争においては一個の決定的戦闘に対して、他のあらゆる考慮を従属させるべきである」という考えに至るクラウゼヴィッツの信奉者を増加させ、第一次世界大戦の大被害を招いたのだとリデルハートは指摘する。

一方で、ドイツのモルトケは、「戦略」の定義をクラウゼヴィッツよりも明確かつ賢明に述べている。政治が軍事部面に干渉することを可能にするため、モルトケは戦略の定義を「見通し得る目的の達成のために、一将帥にその処分を委任されたところの諸手段の実際的運用」であると規定した。これによって、軍司令官の責任は、その委任された作戦域内において、分与された兵力を戦争政策の利益に対し最も有利に適用することに限定される。よって、戦争は政府の政策に基づいて制限されることになるので、クラウゼビッツのように、必ずしも戦略は敵の軍事力の覆滅の要望をその単一目的すべきものではないということになるのだ。

以上を踏まえた上で、リデルハートは戦略を次のように簡潔に定義している。「戦略とは、政略上の諸目的を達成するために軍事的手段を分散し、適用する術である。」リデルハートにとって、戦略とはあくまで、軍事指導者が責任を負うべき範囲で限定されるべきで、戦略を制限する戦争目的は政治の政策に分野において決定されるべきものである。次に、リデルハートは戦略の高次元の存在として、大戦略というものを定義している。大戦略とはある戦争のための政治目的を達成に向かって調整し、かつ指向することことであり、軍事分野の戦略をより高次元から限定すべきものである。よって、大戦略とは軍隊を維持するために、国家の経済資源及び人的資源を計量し、開発すること、国民の意欲を高揚させること、各軍隊間及び軍・産業間における資源の配分を決定することなどがあり、以上の例から、戦略は大戦略の目的を達成する手段の1つにしか過ぎないということがわかる。


戦略(軍事的な純戦略) について


以上のように、戦略と大戦略の定義を踏まえた上で、戦略(軍事的な純戦略) について考えてみよう。まず、戦略とは軍事的手段を利用して、政略上の目的を達成にすることにある。よって、政略上の目的が何であれ、戦争している当事者が軍事力を使用する事で、自己の目的を達成するために考える事は「相手の抵抗の可能性を消滅させること」と言い換えることができるだろう。戦略はこの目的を達成するために、「運動」及び「奇襲」の要素を利用する。リデルハートは運動と奇襲を次のように定義している。

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運動:物質的分野に属し、時間・地勢・輸送力という諸条件についての計算に依拠するもの

奇襲:心理的分野に属し、物質的分野よりもはるかに困難な計算であるところの、それぞれの場合により変化して敵の意志にも影響を与えると考えられる多種多様の諸条件の計算に依拠するもの
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ここで、戦略の目的「相手の抵抗の可能性を消滅させること」について考えてみよう。戦略の目的がこのように定義された場合、敵の武装兵力の破砕のみが戦争における堅実な目的であると考えるクラウゼヴィッツの思想もリデルハートが定義する戦略の目的の一部を構成するに過ぎないことがわかる。敵の武装兵力を破砕することによって、相手の抵抗可能性を消滅させることは可能であるが、逆に相手の抵抗可能性を消滅させるために、敵の武装兵力を破砕することのみが最も有用であると限らないからだ。逆にそのような固定的な観念に囚われることで大失敗した史実が日本にも存在する。大日本帝国海軍の艦隊決戦主義がそれである。太平洋戦争は空母の時代であり、より端的に言えば、航空機の時代であったにも関わらず、海軍内の官僚的硬直性から艦隊決戦主義を見直すことができなかった大日本帝国海軍が、本国を滅亡させたことは歴史の教訓として我々は記憶に留めておかなければいけない。一方で「相手の抵抗の可能性を消滅させること」に重点をおいて、正面突破を避けることで、少ない犠牲で多大な功績を与えた史実も存在する。第二次世界大戦におけるドイツ軍の対フランス戦略プラン(マンシュタインプラン)は前回のコラムでも紹介したので、是非今一度ご確認頂きたいと思う。この戦争は世界の戦略の歴史において、最も驚異的で劇的であった戦いとして数えることができる。



-フランス侵攻作戦-
秘匿名称「ケース・イェロー」

1940年、ドイツ軍はグーデリアンのセダンにおける奇襲的中央突破に引き続いて、アミアンに入り、アッペヴィルを越えて海岸に到達し、ベルギーにある連合軍の交通線を遮断することに成功した。これによって、欧州大陸における連合軍の全面的崩壊を確実にしたのである。本作戦において、ドイツは6万人の死傷という少ない犠牲で、100万人の捕虜を獲得する事に成功したのだから、敵の破砕は必ずしも事態の決着や戦争目的の達成のために不可欠なものでないことが証明された。「軍事的手段が大戦略の目的にとって諸手段のうちの1つの手段に過ぎないのと全く同様に、戦闘は戦略の目的にとって諸手段のうちの1つであるに過ぎない。戦闘に訴えることが適している状況においてはそうすれば通常最も迅速に効果をおさめる事ができるが、状況がそれに適していない場合に戦闘手段に訴えることは稚拙である。」とリデルハートは指摘する。グデーリアンによるセダンにおける奇襲的中央突破によって、戦略の目的は「相手の抵抗の可能性を消滅させること」であることは証明されたが、「相手の抵抗の可能性を消滅させること」とは一体どのような状態になることを意味するのだろうか? 将棋で言う所の"詰んだ状態"になれば、相手の王将を取らなくても相手の敗北は決定する。つまり、これは味方が敵軍よりも、有利な戦略的状況に位置した事を意味する。そのような状況になるためには、相手を撹乱させることが重要となってくる。「撹乱の結果として敵の崩壊又は戦闘における敵破砕の容易化が起こるであろう。敵の崩壊のためには一部において、戦闘手段を必要とするかも知れないが、しかしそれは戦闘の性格を持つということではない。」とリデルハートは指摘する。つまり、戦略の目的は相手を"撹乱すること"にあると言い換えることができる。


戦略における行動について

それでは、どうすれば相手を撹乱させることができるのであろうか?

「物質的分野又は兵站的分野においては(a)敵の配備を混乱させ、敵に正面の急遽変更を強制することによって敵兵力の配備及び組織を撹乱し、(b)敵兵力を分断し (c)敵の補給を危機に陥れ、(d)敵がその必要に応じて撤退して基地又は本国内に地歩を占めるために利用し得る路線を脅威するという運動の結果としてこの戦略的撹乱が生み出される。(戦略論-間接アプローチ)」

撹乱はこれらの数個の諸効果のうちの1つによっても生み出されるかもしれないが、数個の諸効果の結果として生み出される方がずっと多いとリデルハートは指摘する。先ほど言及したグデーリアンによるセダンへの奇襲的中央突破は、(a)-(d)における全ての条件を満たしていたのだから、英仏軍がどれほど混乱状態に陥ったのかということは想像に難くないであろう。そのような物理的効果を敵軍に与え続けた結果として、敵軍が不意に不利な状態に陥れられたと認識して、相手のこの行動に対して、対抗できないと感じた場合、その印象は強烈なものとなり、物理的な効果が敵軍を心理的に撹乱させることになる。これとは逆に敵の正面に対して、直進的に運動する行動は敵の心的状態及び行動をどのように変化させるかというと、「敵の正面に対して、直進する運動は敵の物理的及び心理的バランスを固めさせるものであり、固めさせることは敵が抵抗力を強化する事である。(略)この方式では、その最大限においても敵に対してショックを与えるというよりもむしろ緊張を課するものである。(戦略論-間接アプローチ)」

先の第一次世界大戦で、西部戦線は塹壕戦に突入する事で、多大な被害を生む結果となったが、これは敵の正面に対して、単に直進する行動でしかなかった。それでは、敵の正面を迂回して、敵の背後の周りこみさえすれば、相手を撹乱させることができるので、多大な戦果を得ることはできるのではないのかというと、その背後に回り込む行動自身が、直接的に指向されている場合(相手の予測通りの行動)、簡単に敵は配備戦線を変更する事ができるので、その結果、その行動は敵の正面に対する直接的アプローチにしかなり得ないのである。

よって、撹乱攻撃を成功させるためには、牽制と定義される行動が必要とされる。第二次世界大戦における西部戦線において、ドイツ軍(A軍)はアルデンヌを通過して連合軍の背後回り込むことを企画・実行したが、本作戦が成功したのはB軍集団が、ベルギー、オランダへの正面攻撃を行い、十分にイギリス、フランス軍を引きつけていたからである。間接アプローチを成功させる重要な要素として、この牽制と呼ばれる行動は重要になってくるが、この牽制の目的についてリデルハートは、「牽制の目的は、敵から行動の自由を奪うことであり、そしてこれは物理的及び心理的な両分野において実施すべきことである。物理的分野においては、牽制は敵の兵力の拡散又は敵の中の無益な目的への逸脱を生起させるべきであり、その結果、敵はその兵力を過広に分散するとともに至る所に突っ込みすぎるため、自らの決定的に企画していた運動に出る事が出来なくなってしまうのである。(戦略論-間接アプローチ)」と指摘している。またリデルハートは戦略の柔軟性を確保するためにも、主要な作戦と予備の作戦を常に切り替えるように作戦をそれに沿った形で進めなければならないことも強調している。

交通線の遮断

太平洋戦争において、対米戦争を決意した大日本帝国は民族の「自存自衛」を東南アジアからの海上輸送 (石油、石炭、ボーキサイトなどの資源輸送)に依存していた。よって、この東南アジアと日本を結ぶ海上シーレーンは日本の生命線となっていたのだが、アメリカは日米開戦後すぐに、「無制限潜水艦作戦」を発動し、日本の輸送船をことごとく沈める作戦を取った。この海上シーレーンという生命線の命脈が途絶えた1945年8月に大日本帝国はポツダム宣言を受諾し、連合軍に降伏した。

海上における交通線の破壊は主に潜水艦隊によって行われたが、リデルハートは陸上における交通線の破壊を機械化部隊に期待した。補給の流れを阻止するために、路線を爆破するのみではなく、列車及びトラック輸送団に対する迎撃や迎撃の脅威が機械化師団の最も効果的な目標点として有効であるとリデルハートは認識していたのである。彼の理論が実践で成功した実例として、ドイツ軍の対フランス侵攻作戦(マンシュタインプラン)が取り上げられている。「これらの演繹的結論は第二次世界大戦の経験によって実証された。なかんずく、独軍主力の遥か前方を先駆していたグーデリアンのパンツァー(機甲)部隊が、連合軍の遥か後方の地点であるアミアン及びアッペヴィル(この両地で連合軍の2本の交通線がソンム河を超えていた。)において、連合軍の交通戦を遮断し、連合軍を物理的にも心理的にも破滅的な麻痺状態に陥れたことは、その最たる実証であった。(戦略論-間接アプローチ)」とリデルハートは指摘している。


戦略及び戦術の神髄


以上より、戦略の目的は相手を"撹乱させること"とリデルハートは定義したが、一方で戦争の原則として、戦力を集中させることの重要性を指摘している。事実上これは、「相手の弱点」に対する戦力の集中である。「弱点に対する力の集中は対手の力の分散によって左右されるべきものであり、対手の力の分散はまたわが方の外見上の分散及び分散の部分的効果によって引き起こされる。わが方の分散、敵の分散、わが方の集中ーこれらは因果関係を構成するものであり、その1つ1つが結果として生まれる。真の集中は計算された分散のもたらす結実である。(戦略論-間接アプローチ)」この原則を実践するために、リデルハートは次の積極面6ヶ条、消極面2ヶ条を提示している。これらの原則の底流にある真理は、「撹乱」と「戦果の拡大」であるとリデルハート指摘している。まず、撹乱によって味方の好機を作り出し、この時に、敵が受けた打撃から、立ち直らない間に、戦果を拡張させることが重要であるという。敵軍を混乱させ、味方の戦果を拡大させるに際して、わが方の分散、敵の分散、わが方の集中を効果的に実行しなければいけないのだが、1つ使用方法を間違えば、ナポレオンが得意とした内線作戦によって、各個撃破される可能性もあり、十分な訓練が戦争の原則のもとで行われなければいけないことは言うまでもないであろう。


積極面6ヶ条
1.目的を手段に適合させよ。
「目的を決定をするにあたっては、明確な見通しと冷静な計算とを重視すべきである。「消化能力以上の貪欲」は愚である。軍事的英知は「何が可能か」を第一義とする。それゆえ、誠実を旨としつつ、事実に直面することを学ぶべきである。(略) 」無理な作戦立ててはいけないということ。不可能な作戦を精神論でなせばなる的に押し通すのはやめなさいということを積極面第1ヶ条で、リデルハートは述べている。

2.目的を常に銘記せよ。
「計画を状況に適合させる間、常に目的を明記しなければいけない。目的達成のために方法は1つではなくてそれ以上あるが、しかしいかなる目標も必ず目的に指向されるように細心の注意を払う事を忘れてはならない。(略)」
目標が目的に取って変わるということは日常生活の中でしばしば体験することがある。例えば、環境問題を解決するために、大学に行きたいと考えていた学生が、その目的を忘れ,受験勉強で成功するという目標自体が目的に取って変わられて、名声の高い大学に入学したものの、他の大学の方が環境問題を学ぶ上で適しているなんてことはよくある。リデルハートは積極面第2ヶ条で「初心忘れるべからず」と戒めているのである。

3.最小予防線(最小予期コース)を選択せよ。
「敵の立場に立ってみる事に努め、敵が先見し又は先制することが最も少ないコースはどれであるかを見よ。(略)」
計算だけでは決して計測することはできない相手の心理面を考慮に入れろということをリデルハートは積極面第3ヶ条で述べている。常に相手の立場に立って相手がどのように行動するのかを予測することが重要なのだ。

4.最小抵抗線を乗ぜよ。
「わが方の基本的な目的に対し寄与すべき目標へ指向されているという条件を充たすところの最小抵抗線を利用すべきである。(戦術においては、この金言は予備兵力の使用に適用し、戦略においては随時の戦術的成功の利用に適用するものである。)」
相手の弱点を徹底的に攻撃せよとリデルハートは積極面第4ヶ条で述べている。

5.代替目標への変更を可能にする作戦線をとれ。
「こうすれば、敵をジレンマの立場に追い込み、敵の守備の最も薄い目標を少なくとも1つは攻略できる機会を確保するところまで、進む事ができ、またそれを手がかりとして逐次攻略することが可能となろう。(略)」
例えば、攻撃目標が1つしかないのであれば、攻撃される側にとってはその目標地点に全兵力を集中すればよいので防備することは比較的用意であると言える。しかし、相手がどこを攻めてくるのか全くわからないとしたら、守備兵を分散しなければいけないので、攻撃する側にとっては、各目標地点を個別撃破することも可能になる。

6.計画および配置が状況に適応するよう、それらの柔軟性を確保せよ。
「わが方の計画は、成功を収めた場合もしくは失敗に陥いった場合又は部分的に成功を収めた場合において次のステップを予見し、それを生み出すべきである。わが方の配備(又は隊形)は最も短時間のうちに次のステップの利用、換言すれば状況への適合を許すようなものにすべきである。(略)」
作戦が成功した場合、失敗した場合、部分的に成功した場合など、結果がどのようになってもそれらに対して対応できるように、作戦に対して十分な柔軟性を確保すべきだとリデルハートは積極面第6ヶ条で述べている。


消極面2ヶ条
1.対手が油断していないうちはー対手がわが攻撃を撃退し又は回避できる態勢にあるうちは、わが兵力を打撃に投入するな
「非常に劣勢な対手に対する以外には、対手の抵抗力又は回避行動が麻痺状態に陥らない限り、効果的打撃を加えることは不可能であるということは歴史上の経験の示すところである。であるからこのような麻痺状態が十分に進行していない限り、いかなる指揮官も敵に対する真面目な攻撃を発起すべきではない。麻痺状態は敵の組織の崩壊及び精神面での組織崩壊の同等物である指揮崩壊によって引き起こされる。(略)」
正面突破の攻撃方法は味方の被害が甚大であるから、極力避けよとリデルハートは消極面第1ヶ条で述べている。まずは心理面などの間接アプローチで相手の抵抗力削いだ上で、効果的な打撃を相手に与えることが非常に重要なのである。

2.一たん失敗した後は、同一の線(又は同一の形式)に沿う攻撃を再開するな。
「単なる兵力の増強は必ずしも新規の線に沿う攻撃を意味しない。そのわけは、敵もまたその休止の間において自己の兵力を増強しているであろうことはありうべきことであるからである。わが方を撃退した敵の成功が敵を精神的に強化するであろうことは、さらにもっと有り得べきことである。(略)」
人間というのは一たん、失敗した時に、その原因を自分の努力不足に結論づけてしまい、全く同じ方法で、全く同じ相手と対戦して、また敗北してしまうというケースはよくある。対戦相手も前回と同じ方法で攻撃してくれるのであるから、防御するのも、相手の攻撃方法の予測がつくので、非常に簡単になる。なぜなら、失敗した方法を再度繰り返すのは、相手を心理的に安心させる直接アプローチになってしまっているからだ。一たん失敗した後は同じ方法や形式で再度攻撃を再開するなとリデルハートは消極面第2ヶ条で述べているのである。


ゲリラ戦争


リデルハートは「戦略論-間接的アプローチ」の最終章において、ゲリラ戦争を取り上げている。最も顕著なゲリラ戦の実例としては、ナポレオン軍に対するスペイン民衆の抵抗が有名であるが、第二次世界大戦以後においても、「平和を欲する者は戦争を理解せよ、特にゲリラ形式及び内部撹乱形式の戦争を理解することが重要」とリデルハートは繰り返し強調している。リデルハートがゲリラ戦争を強調する理由は原子爆弾が第二次世界大戦において登場したからである。原子爆弾の登場以前とそれ以後において、戦争のそれ自体に対してどのような変化を及ぼしたのかということを我々は学ばなければならない。

「原子力は、破壊を「自殺行為」の極点にまで高めることによって、戦略の神髄である間接的方法への復帰を刺激し、促進する。そのわけは、間接的方法は、戦争を野蛮な暴力の使用よりも高尚なものに高めるところの知性の資質を戦争そのものに付与するものであるからである。そのような「間接的アプローチ」への復帰の徴候は大戦略が欠如していたとはいえ、第一次世界大戦におけるよりも戦略がより大きな役割を果たした第二次大戦において既に明らかに看取されていた。今や、原子の抑止力は、分かり切った線に沿っての直接行動を抑止する効果を発揮しているため、それは却って侵略側の戦略の巧妙化を助長する結果を招いている。こうして、この原子抑止力の開発は、その開発の進展と同じ態度にわが方における「戦略の力」に対する理解が進む事を条件として行わなければならないことが非常に重要になってくる。戦略の歴史は、根本的に見て、間接的アプローチの適用及びその発展の記録である。(戦略論-間接アプローチ)」

長崎への原子爆弾投下

太平洋戦争末期の1945年に日本の広島市と長崎市に2発の原子爆弾が投下された。その原子爆弾の威力が今までの通常兵器と比較して、余りにも無差別でかつ、残虐的に、大量の人間を殺戮してしまうので、第二次大戦後は、兵器としての意味を逆に持ち得ず、戦争の抑止力としての効果しか果たす事はなかった。第二次世界大戦において、世界史に初めて登場した原子爆弾の存在は、第一次世界大戦の西部戦線における塹壕戦と類似していると言えるであろう。当時の西部戦線には、延々と何百kmにわたる鉄条網と塹壕陣地が出来上がり、そこに据え付けられた機関銃の威力によって、ドイツ軍、フランス軍双方のいかなる攻撃突破も片っ端から挫折させてしまったのである。1914年9月にベルギーを突破したドイツ軍が、マルヌ河畔でフランス軍と戦って、シュリーフェン作戦に失敗した後、4年間に亘る塹壕戦が展開されることになった。戦線は数万の人名を犠牲にしても、数十mぐらいしか動かせない有様だったという。この絶望的な膠着状態から脱出する新兵器として、第一次世界大戦末期に登場したのが戦車であった。機関銃の弾丸を全て跳ね返すという特徴を持つ戦車の存在によって、西部戦線において、遂に幾ばくかの機動性が確保されたということになる。一方で、戦争の抑止力として登場した原子爆弾に対して、戦争の機動性を確保するために注目されるようになったのが、ゲリラ戦ということになる。

「ゲリラ戦を抑制するために核兵器使用の脅威をほのめかすことは、蚊の大群を大鉄槌で追い払おうとする話しのように道理に合わない。そういう政策は意味がないことで、その当然の結果は、対抗手段として核兵器を使用できない侵蝕による侵略様式の生起を刺激し助長する事であった。(戦略論-間接アプローチ)」

ゲリラ戦を仕掛けて来る相手に対して、核爆弾を投下するという行為は余りに度が過ぎているため、この時点で核の戦争抑止力としての効果は無効化されたということになる。しかし、ここで、1つ大きな疑問が生じる。ゲリラ戦によって、戦争は第二次世界大戦における「電撃戦」のごとく、機動性を取り戻したと言っても、戦力的に劣っているゲリラ兵が正規兵に勝つ事は果たして可能なのかということだ。筆者は以前から兵器技術によって圧倒的に優越したアメリカ軍が、圧倒的技術に劣ったベトナムのゲリラ兵に敗北したのかが不思議で仕方がなかったのだが、実はこのゲリラ戦というのはアメリカ軍の弱点をついた非情に巧妙な戦い方なのだ。軍事革命(中村好寿著)によると、アメリカ軍の弱点は主に以下の3つが存在するという。

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アメリカ軍の弱点

1. 戦闘による死傷者の発生や民間施設の破壊に対する極度の嫌悪感

2. 国内および国際世論に対する敏感さ

3. 長期戦に戦う用意も意志もない

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これらのアメリカ軍の弱点を踏まえて、ベトナムのゲリラ兵が取った作戦は「ヒット・アンド・ラン」方式である。ベトナムのゲリラ兵はアメリカ軍の爆撃を長距離火力が威力を発揮する前に、部隊を集結し、展開し、攻撃をかけ、急いで撤退することを繰り返した。忍耐強く時間をかけて、相手に出血を強いる戦い方である。ベトナム戦争において、長期戦に持ち込まれたアメリカは結局、当初の目的を果たす事なく、屈辱的な敗退をすることになった。

しかし、ゲリラ戦が戦争の主流となることはないとリデルハートは指摘している。ゲリラ戦は大国に対する弱者の戦略としては非情に有効であるが、一度その戦法が採用されてしまうと、若い世代を中心に大国に対する闘争を通じて、一般的な公衆道徳の規範を破る事を学び、「法及び秩序」の軽視を生じ、その行動は戦争が終わった後でも継続して行われるので、それらの国が国家を再建し、安定状態をもたらすことは非情に困難であるためだ。

軍事における革命と間接アプローチ理論

今までは、リデルハートの戦略論に基づいて、間接アプローチ理論を学んできたが、21世紀において間接アプローチ理論はどのように発展するのであろうか? ここからはリデルハートの「戦略論」以後の話しであるから、現在を生きる我々自身が考えなければいけないのだが、軍事革命 (中村好寿著)によると、情報化社会の到来によって、軍事分野においても革命的な変化(軍事革命)が起きたという。軍事革命が起きる条件としては、

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軍事革命が起きる条件

1. 革命的な兵器が登場し、その兵器の影響を受けて、軍隊の運用法や編成・組織にも大きな変化が起こった場合

2. 軍隊の運用法や編成・組織における革新が「軍事革命」をもたらした場合

3. 社会の生産様式が変化し、その影響が軍事分野に及んで起こった大変化で、戦いの性格を変えた場合

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1の例としては、核兵器の登場によって、「抑止戦略」といわれる軍隊の運用法と軍隊組織が生み出されたことが挙げられる。2の例としては、グーデリアンによる電撃戦が有名である。そして、3の事例として、産業革命を挙げることができる。産業革命によって、大量生産が可能となり、工業型の「軍事革命」が生み出されたのである。今回、情報化社会の到来によって引き起こされる軍事革命はこの3に分類されることになる。

「工業化時代の戦争では、相手国の「軍隊の撃破」が戦争の目標として追求されてきた。軍隊を撃破すれば、国民や領土を、攻撃側は自動的に手中に収めることができるし、反対に防御側は、撃破に成功すれば、相手国の手に落ちる事を拒否する事ができるからである。しかし、情報化社会における戦争では、「軍隊の撃破」ではなく、非軍事目標を攻撃して、相手国の国家機能を麻痺させることが追求されるであろう。軍事革命(中村好寿著)」

21世紀の軍事革命は間接アプローチ理論の延長上にあると言えるであろう。なぜなら、戦争の目標は相手国の陸海空軍を撃滅させることではなく、相手の国家機能を麻痺させた後、情報革命によって編成・訓練された軍隊によってその国を征服してしまうことなのである。例えば、この本には日本が情報革命によって組織化された国に攻撃された場合を次のように想定している。軍事革命軍(RMA軍)の政府が開戦を日本に決意した場合、兜町の証券取引所や、東京駅の輸送指令センター、さらにKDDIやNTTの中継所といった目標に対して、同時にサイバー攻撃をかけて、日本の金融機能、交通機能、情報・通信機能を麻痺させて大混乱に陥れるというものである。

21世紀の軍事革命軍の戦い方は、第一次世界大戦で戦車と急降下爆撃機を一体にして、運用しかつ戦車部隊と自動車化歩兵部隊からなる新組織、機甲師団を編成して、敵の指揮・統制機能を麻痺させる戦闘教義を開発したドイツの電撃戦を連想させる。今世紀は情報革命によって誕生した新たなサイバー攻撃という間接アプローチが戦闘方式の主流となるというのだ。情報化社会の軍事指導者は、敵国を次のような5つの組織が有機的に結びついた組織体として捉えると中村好寿氏は指摘する。

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国家を構成する5つの有機的組織

1. 政府機関のような国家指導組織

2. 食料、資金、電力、天然資源といった、国家のエネルギー組織

3. 交通、通信、教育、製造施設といったインフラストラクチャー組織

4. 敵愾心や絶望感を生む住民組織

5. 打撃に対して対応力のある軍事組織

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国家をこれらの有機的な組織体と捉えるならば、情報化社会の軍事指導者はこれらの5つの組織のうち、戦争目的に直接的に影響を及ぼしかつ、もっとも脆弱な組織に打撃を加えようとする。リデルハートは積極面第4ヶ条:最小抵抗線を乗ぜよという金言がここで適用されることになる。例えば、戦争の指導の役割を担っている国家指導組織の情報システムが完全に敵軍のサイバー攻撃によって遮断された場合、その機能は無能化し、一気に大混乱状態の陥ることになる。それに迅速に移動して来た軍事革命軍(RMA軍)によって、国家の主要地域が制圧された場合、戦わずして敗北を喫することになるであろう。第二次世界大戦において、ドイツの電撃戦によって、予想外の短期間で降伏することになったポーランド、ベルギー、フランスの敗北が、今世紀においても再現されることになるに違いない。リデルハートの「戦略論-間接アプローチ」を学ぶことは、現在においても、ある一定の知識層の人間にとって必要不可欠であると私は考える。

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2008年12月23日

第一次世界大戦-リデルハート

峯山政宏後援会オフ会開催記念

出典:東京オフ会(2008/12/22 in Tokyo)


重要関連:この会議による未来ラインを知りたい方は秋月便り年末及び年末の両号をお読み下さい。更に遠隔学習『御蔵』にても対応しております。後は大阪オフ会で、日本国内における汎用レベルにおける知識の検索、その知識の組織化、その知識のコンピュータ上での集合が終わります。後は統合整理です。(関連コラム:CyberULS - 連山



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目次


序章

第一次世界大戦の概略

第一次世界大戦と間接アプローチ戦略(1)

第一次世界大戦と間接アプローチ戦略(2)

日本経済と間接アプローチ戦略

序章

21世紀を生きる我々、日本人がリデルハートの軍事戦略理論を学ぶ必要性とは一体どこにあるのだろうか?
確かに、先の太平洋戦争において、日本軍が日本の生命線となっていた南方地帯からの「海上輸送」(海洋シーレーン)をアメリカの空母艦隊と潜水艦によって分断されたことによって、戦争継続するために必要な石油や、ボーキサイト、食料等を「東南アジア」から日本に運搬することができずに、飢餓状態に陥り、結果的に大敗北することになったのは記憶に新しい。このアメリカ軍によって実行された作戦は、リデルハートの間接アプローチの初歩的な運用方法と言える。我々がこの軍事理論を現在、学ぶべき意味について、リデルハートは著書「戦略論」について次のように言及している。

原子力は、破壊を「自殺行為」の極点にまで高めることによって、戦略の神髄である間接的方法への復帰を刺激し、促進する。そのわけは、間接的方法は、戦争を野蛮な暴力の使用よりも高尚なものに高めるところの知性の資質を戦争そのものに付与するものであるからである。そのような「間接的アプローチ」への復帰の徴候は大戦略が欠如していたとはいえ、第一次世界大戦におけるよりも戦略がより大きな役割を果たした第二次大戦において既に明らかに看取されていた。今や、原子の抑止力は、分かり切った線に沿っての直接行動を抑止する効果を発揮しているため、それは却って侵略側の戦略の巧妙化を助長する結果を招いている。こうして、この原子抑止力の開発は、その開発の進展と同じ態度にわが方における「戦略の力」に対する理解が進む事を条件として行わなければならないことが非常に重要になってくる。戦略の歴史は、根本的に見て、間接的アプローチの適用及びその発展の記録である。(「戦略論」p6:リデルハート)

人類は先の第二次世界大戦において、ウランやプルトニウムなどの原子核が核分裂反応を起こすことによって、膨大なエネルギーを爆発させる大量破壊兵器(原子爆弾)を手にするに至った。その原子爆弾の威力が今までの通常兵器と比較して、余りにも無差別でかつ、残虐的に、大量の人間を殺戮してしまうので、第二次大戦後は、兵器としての意味を逆に持ち得ず、戦争の抑止力としての効果しか果たす事はなかった。よって、原子爆弾が登場した後の戦争は、より直接的なアプローチを取る戦争よりも、間接アプローチの方を用いた戦争の方が、戦争の主流になると、リデルハートは主張している。ここで、改めて第二次世界大戦後の歴史を振り返ってみると、はっきりと時代の流れは、直接アプローチから間接アプローチへと推移していることが読者の皆様もお気づきになられるに違いない。世界は直接的な通常兵器で行われる戦争よりも、情報戦争、金融戦争、テロ戦争などと呼ばれる非対称戦争が戦争の主流になったのである。

ここで、まだピンと来られていない方のために、非対称戦争(間接アプローチ的な戦争)の中の金融戦争の一例を具体的に取り上げてみよう。

1997年7月、タイ通貨であるバーツが大暴落したことをきっかけにして、アジア各国で急激な通貨危機(通貨下落現象)が発生した。当時のタイ、マレーシアなどのASEAN諸国は新しい経済発展の象徴として、何十億ドルという多額の外国資本が投資され、その繁栄を謳歌していた。特にタイにおいては、比較的、政治が安定していたということ、タイバーツがドルリンクされており、90年代初頭にドル金利が低下する一方で、タイバーツが、その資金需要のために、金利を高水準に維持していたことも、急激な過剰投資を招いた原因であったと考えられる。しかし、この膨大な海外からの過剰投資が不動産、株式のバブルを導いたこと、また「強いドル」政策がタイバーツの通貨価値を引き上げたことで、タイの輸出が伸び悩み、貿易収支も赤字に転じたことが原因となり、タイの経済状況とタイバーツの通貨価値にズレが生じていたのである。その時、その過大評価されたバーツを売って(空売り)、安くなったタイバーツを買い戻すことによって、儲けようと考えたヘッジファンドと呼ばれる投機筋によって、大量のタイバーツの空売りが仕掛けられることになった。結果、タイ政府は、自国の通貨価値を維持するために、膨大に売りにだされるバーツを買い支えるための外貨準備(ドル)を切り崩して、ドルペッグ制を維持しようとするが、残念ながら、支え切る事ができずに信用を失ったタイバーツは一気に暴落することになった。バーツの暴落に伴うアジア通貨危機の引き金はジョージ・ソロスという投資家によって行われたとマレーシアのマハティール首相(当時)は名指しで批判している。マレーシアでは、たった数日間の金融戦争により、のべ数十億ドルの大損失が計上されたことになった。この金融戦争こそが、リデルハートによって提唱された間接アプローチ戦略を利用した第二次世界大戦後の戦争の一例である。

リデルハートは「戦略論」において様々な時代の戦争を分析しているが、最も詳細に取り上げているのは、彼が実際に生きた時代に行われた第一次世界大戦と第二次世界大戦である。本稿では、第一次世界大戦における史実を振り返ることにより、間接アプローチの理論について学ぶことを目的とする。第一次世界大戦における間接アプローチの実用例は、よりはっきりと、第二次世界大戦後の非対称戦争を理解するのに役立つに違いない。


第一次世界大戦の概略



第一次世界大戦-wikipedia

第一次世界大戦におけるリデルハートの間接的アプローチを取り上げる前に、第一次世界大戦についてその概要を以下に説明する。1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドがセルビア人の学生によって暗殺されるという事件が発生する。(サラエボ事件)、この事件を契機にオーストリアがセルビアと戦争を始めるが、セルビアの後見人であるロシアが、(ロシアは1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた) この戦争に介入するために総動員令をかけると、ドイツがロシアに宣戦布告することになる。そして、ロシアの同盟国であるフランスがドイツに開戦することになった。

この当時、ヨーロッパには、露仏同盟(ロシアとフランス)、独墺同盟(ドイツとオーストリア)という2つの軍事同盟が存在した。オーストリアとセルビアという2ヵ国間の戦争が、これらの軍事同盟の存在により、複雑化・大規模化するこことになった。さらに、このヨーロッパの地方戦争を大規模化させたのは、イギリスとアメリカの参戦である。当初、戦争に関して中立関係を維持していたイギリスは英仏協商と英露協商を楯として、ドイツが中立国ベルギー領土を通って、フランスに向かうとドイツ・オーストリアに宣戦することになった。ドイツとオーストリアはフランスとロシアの2方面から同時攻撃されることを恐れ、西部戦線であるフランスを短期に攻略し、その全兵力を持って、東部戦線であるロシアを撃破するという作戦を計画するが、予想外の英仏軍の抵抗と、迅速なロシア軍の進撃により、ドイツは西部戦線の軍隊を東部戦線に派遣せざるを得ず、西部戦線におけるドイツの進撃は北フランスのマルヌの戦いで、阻止され、戦争は長期化・膠着化することになった。

西部戦線において、この膠着状態を打破するために、1916年に、ドイツ軍によって仕掛けられた大攻勢はヴェルダンの戦いと呼ばれる。また、同年には英仏軍による攻勢が行われ、これはソンムの戦いと呼ばれている。1915年から1917年を通じた塹壕戦により、両軍共に何百万という死傷者が出た。また、第一次世界大戦に始めて、登場した飛行機、潜水艦、機関銃、毒ガスなどの最新兵器はより戦争の被害を拡大させる原因となった。

一方で、東部戦線では、ドイツ軍が優勢であり、1914年、ロシア軍をタンネンベルクの戦いで撃破している。また、戦争は世界規模で拡大し、日英同盟を名目にした日本は英仏側(連合国)として参戦。イタリアも「未回収のイタリア」を巡るイギリスとのロンドン秘密条約により連合国側に参戦している。第一次世界大戦は長期化していったが、この戦争を終結に向かう大きな出来事が1917年に立続けに行うことになった。(1) 10月革命に伴うロシアの戦線離脱と(2) アメリカの参戦である。

(1) 10月革命に伴うロシアの戦線離脱
1917年10月にロシアではレーニンによる10月革命が勃発し、ソビエト・ロシア政府が成立する。ただちに、ソビエト・ロシア政府はドイツ・オーストリアに休戦し、翌年3月にブレスト・リトフスク条約という講和条約を結んで、大戦から離脱していくことになった。

(2) アメリカの参戦
ヨーロッパ戦線が連合国側にとって、不利に動いていた1917年において、アメリカはついに、第一次世界大戦への参戦を決意する。アフリカやアジアの領有を巡り、ドイツ・オーストリアと対立していたこと、また、戦争の長期化によって、英仏が疲弊して、アメリカが発行した大量の戦債が返済不可能になること、ドイツの無制限潜水艦作戦によって、アメリカから連合国側の支援のために送られる大量の軍需物資が届かくなったことが、アメリカ参戦の原因として挙げられている。連合国側、同盟国も1918年になると、完全に疲弊していたが、アメリカの参戦によって、同盟国側の敗北は必死となった。ドイツを除いて、続々と同盟国が連合国に降伏していく中で、1918年11月に、ドイツも降伏することになった。きっかけは、ドイツの軍港キールで起こった水兵の反乱である。この反乱を契機にして、ドイツ全体で革命が起こり、ドイツ帝国は崩壊、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。この政治的な空白に社会民主党を中心とする「ドイツ共和国臨時政府」が発足し、連合国側と休戦条約を調印、4年に渡る史上初の第一次世界大戦はここに終結することになった。

第一次世界大戦と間接アプローチ戦略(1)

第一次世界大戦の概要はすでにおわかり頂けたと思うので、次に具体的に第一次世界大戦においてリデルハートが取り上げた間接アプローチ戦略について記述していこう。地図の上かも明らかなように、ドイツとオーストリア・ハンガリー2重帝国は西はフランスに、東はロシアに挟まれている。よって、ドイツとオーストリアを中心とする同盟国が英仏露を中心とする連合国に勝利するためには、まず、露仏同盟を結んでいた大国フランスとロシアからの同時攻撃をどのように回避して、個別撃破するのかとというところが、非常に重要になってくる。

第一次世界大戦前にドイツの参謀総長であったシュリーフェンが、フランスとロシアを個別撃破するために、まず注目したのは、ドイツ国内の鉄道網である。これによって大量の兵士と物資を国内で輸送することが可能となった。まず、初戦で大量の兵士と物資を西部戦線に投入して、フランスを降伏させ、その後、鉄道網を使用する事で、迅速に東部戦線に向かい、ロシア軍を撃退するという作戦をシュリーフェンは描いている。迅速に西部戦線のフランスを攻略することで、ドイツにとって悪夢であったフランスとロシアの2正面作戦を回避しようというのが、この作戦の趣旨である。

次に、迅速に西部戦線のフランスを撃破するために、シュリーフェンは前216年にカルタゴとローマとの間で戦われた「カンネーの戦い」を参考にしている。「カンネーの戦い」はカルタゴの名将ハンニバルが両軍の兵力差をものともせず、ローマ軍を破った大包囲殲滅戦として歴史的に名高い。(カルタゴ歩兵3.2万、カルタゴ騎兵1万、ローマ歩兵6.5万、ローマ騎兵7,200)


ハンニバルの戦闘教義(後編) 松村 劭

前衛の戦闘の間にハンニバルは両翼の重装甲歩兵を不動とし、自ら中央にあって中央歩兵を前進させて傘型の陣形にした。主力の戦闘は西翼の騎兵から始まった。ハスドルバルの騎兵がローマ軍騎兵を正面から攻撃して拘束した。ハンニバルはすかさずマゴの指揮する予備の騎兵に対し、ローマ軍西翼騎兵の側背から攻撃させた。ローマ軍東翼の同盟軍騎兵はハンニバル東翼騎兵は河岸にくっついているので包囲攻撃できずに正面攻撃となってハンニバルの東翼騎兵ともみ合っていた。一方、中央ではヴァロの攻撃前進の命令によってローマ軍歩兵が勢い良く前進し、カルタゴ軍を圧迫した。ハンニバルは計画とおりに中央歩兵を少しづつ後退させてローマ軍を遅滞していた。このとき西翼ではハンニバルの騎兵がローマ騎兵を撃滅した。そしてローマ軍歩兵陣の背後を迂回して駆け抜け、東翼の同盟軍騎兵に対して背後から襲い掛かった。前後から挟撃を受けた同盟軍騎兵は東北方に逃走し、ハンニバル軍のヌミディア騎兵が追撃した。この間に中央では、ヴァロが歩兵の攻撃衝力を維持するために第二線の中隊を第一線の中隊の間隙に投入していた。さらにヴァロは第三線の歩兵にすら投入の命令を下していた。ハンニバルの中央歩兵は圧倒されて凹形の薄い陣形となって辛うじて陣形を保っていた。ハンニバルは突然、歩兵陣形の両翼を形成している不動の態勢で防御戦闘を続けている重装甲歩兵に対して攻撃前進を命令した。両翼のカルタゴ歩兵はローマ軍を包囲攻撃しはじめた。ローマ軍の背後からはハスドルバルとマゴの指揮する騎兵8千が襲いかかった。攻撃前進しているローマ軍歩兵の勝利の雄叫びは驚愕の悲鳴に変わった。殺戮が始まった。約1万のローマ軍兵士が着の身着のまま囲みをすり抜けて敗走したが、日暮れまでに執政官パウルスを含み6万が戦場の露と消えた。ハンニバルの宿営陣地を攻撃したローマ軍も2千の損害を出して敗退した。不名誉にもヴァロはわずかな敗走者の中にあった。ハンニバル軍の損害は戦死・戦傷合計約5千であった。

名将ハンニバルの作戦を参考にしたシュリーフェンは、フランスに対する大包囲殲滅戦を計画した。少し長文になるが、リデルハートがシュリーフェン作戦の骨格を詳細に記述しているので、以下に取り上げてみる。

シュリーフェンの計画は、独軍の行うべき巨大な旋回の右翼方面にドイツ軍の主力を集中するものであった。この右翼は、ベルギー及び北フランスを通過した後、大規模な弧を描いて前進し、その後次第に左方、つまり東方へ旋回することになっていた。その右翼端はパリの南方を通過し、ルーアン付近でセーヌ川を渡航し、モーゼル河に向かって仏軍を圧迫し、その仏軍を、ローレンの要塞群及びスイスで国境で構成した鉄砧に押し付けてその背後から大鉄槌を加えようとするものであった。この計画の実に巧妙な間接性は、この地理上の迂回にあるのではなく、その兵力配分と作戦指導構想とにあった。作戦開始時の構成集団は予備部隊と現役部隊とを混用することにより、緒戦の奇襲を狙っていた。こうして使用可能となる72個師団のうち、53を旋回集団に割当て、ヴェルダン要塞に面する旋回軸の構成に10を当て、フランス国境に沿う左翼の構成にわずか9を当てることになっていた。このように、左翼の兵力を最小限に抑えたことは、その左翼の薄弱さそのものによって、旋回する集団の効果増大を抜け目なく計算したものである。(略)(「戦略論」p168:リデルハート)

カンネーの戦いにおいて、ハンニバルは西翼に、ローマ軍を上回る騎兵を置いて、ローマ騎兵を撃退した後、その西翼の騎兵を東翼に周りこませ、カルタゴの東翼騎兵との挟撃により、ローマの東翼騎兵部隊を殲滅させた後、ローマ軍の中央歩兵の背後を攻撃させている。これによって、ローマの重装歩兵に押し込められたカルタゴの軽装歩兵とその背後にいたカルタゴ重装歩兵と背後に回り込んだカルタゴ騎兵により包囲陣形を組み、ローマ歩兵を殲滅させたのである。シュリーフェンはこのカンネーの包囲作戦の成功を導いたカルタゴの西翼騎兵の役割をシュリーフェン作戦の右翼に72個師団のうち、53個師団を旋回集団に割り当てることによって実現しようとしたのである。

france2

まとめると、シュリーフェン作戦の概要は次のようになる。
①ドイツ軍の全兵力の8分の1で東部のロシア軍に備え、残る8分の7の兵力で西部のフランスを強襲する
②フランスを撃破するための期間は6週間を目標とする。
③短期間にフランス軍を撃破するために、カンネーの戦いを参考して、ドイツ軍右翼に、72個師団のうち、53師団を割り当てる。
④フランスを撃破した後は、迅速にロシアとの東部戦線に割り当てる。

リデルハートはこのドイツ軍の奇襲作戦を完全なる間接的アプローチであったと賞賛している。シュリーフェンは第一次世界大戦前に既に死去しているのだが、世を去ったシュリーフェンもフランス軍がワナにはまった事を知れば天国からほくそ笑んでいたに違いないとも言っているのだが、史実はシュリーフェンが天国からほくそ笑むことはなかったのである。なぜなら、シュリーフェン亡き後にドイツ軍参謀総長に任命されたヘルムート・フォン・モルトケ(モルトケの甥、叔父は大モルトケ、彼は小モルトケと呼ばれた。)によって、シュリーフェンプランは骨抜きにされたからである。シュリーフェン作戦において、右翼軍は西部戦線の前兵力の8分の7を持つものとされていたのを、小モルトケは3対1へと改め、また東部戦線にロシア軍が進出すると右翼軍からそうそうに2個軍団を引き抜き、シュリーフェンプランを台無しにしてしまったからだ。

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1905年から、1914年までの間に、小モルトケは、さらに多くの兵力が使用可能となるに従って、右翼に比して、不均衡なまでに左翼の兵力を増強した。彼は、左翼を安全にすることによって、計画自体を不安全にし、そしてシュリーフェン計画の基盤を掘崩し続けて遂にそれを崩壊させるに至った。(「戦略論」p169:リデルハート)

この小モルトケによる作戦変更により、シュリーフェンプランは本来の計画の徹底性を失ったまま遂行される。その後、ドイツ軍はベルギー領を通過して、で英仏軍を撃破した後、フランス領に進出する所までは計画通り良かったが、9月6日-9日にかけて戦われたマルムの会戦で前進を阻止され、西部戦線は膠着状態のまま、長期化することになったのである。第一次大戦を迅速に終結させることができずに、多大なる損害を生じさせたのは、この小モルトケによるシュリーフェン作戦の変更にあったのである。

第一次世界大戦と間接アプローチ戦略(2)

次に、第一次世界大戦においてリデルハートが取り上げた間接アプローチ戦略の2つ目の事例をご紹介したいと思うが、その前に私から読書の皆様に1つ次のような質問をさせていただこう。「なぜ、ドイツを中心とする同盟国は、英仏を中心とする連合国に敗北したのか?」ドイツの軍港キールで水兵の反乱が起こったからだというのは大学の入試試験で合格点をもらえても、歴史の真実に迫るという点では、残念ながらとても満点を与えることはできない。なぜなら、なぜ、キールで水兵が反乱するような事件が起こったのかということを一度考えなければいけないからだ。ドイツが敗戦したのは、4年に渡る大戦によって、経済が疲弊しきっていたからではないのかという解答もあるかと思うが、それでは逆に英仏を中心とする連合国は全く疲弊していなかったのかという新たな疑問が浮かび上がる。第一次世界大戦において、消費された大砲の弾丸だけでも、イギリス3億発、ドイツとフランスで2億以上にのぼり、両者とも戦時経済は相当なまでに圧迫されていたことは間違いない。(ちなみに、日露戦争で、日本が売った大砲の弾丸は200万発だったという。)そこで、「なぜ、ドイツを中心とする同盟国は、英仏を中心とする連合国に敗北したのか?」という質問に対して、リデルハートは次のように著書の中で回答をしている。

ドイツの降伏の諸々の原因のうちで、海上封鎖が最も基本的な原因であると考えられる。もしも革命が起こらなかったとすれば、ドイツの軍隊は確固として自国の国防を防衛することができたのではないかという設問に対しては、海上封鎖の存在が最も確実な解答を与えてくれる。そのわけは、たとえドイツ国民が、自らの国土の防衛という明瞭な目的の下に、最大の努力を捧げるために立ち上がったとすれば、連合軍を寄せ付けない事は可能であろうが、それはただ敗戦を延期するだけにに過ぎなかったであろう。その理由は、ドイツ国民は、英国の伝統的武器-海軍力-の把握の下にあったからである。(略)「戦争の真の目的は敵側支配層の心にあり、その軍隊という身体に当たるものにあるのではない。勝利と敗北の間のバランスは心理的印象のほうに傾くものであり、物理的打撃についてはそれが間接的であった場合にのみ、そのほうへ傾くものである」(略) 捕虜、銃砲、及び土地などの損害以上にルーデンフルフの精神を動揺させたのは、奇襲を受けたという衝撃であり、自分は敵側の潜在的戦略運動に対抗し得る力がないと感じたその感じ方である。(略) ドイツ国民の半飢餓状態がドイツの「銃後戦争」の最後的崩壊の生起に果たした直接的効果を過小評価する史家は一人もいないであろう。「戦略論」p206等:リデルハート

ドイツが第一次世界大戦に敗北した原因に対するリデルハートの考察を要約すると、ドイツはイギリス海軍による「海上封鎖」という間接的アプローチにより、食料が輸入できないため飢餓状態に陥り、結果、その精神的な圧迫により、ドイツ水兵が戦争に勝利することに対して絶望し、反乱を起こした。そして、その後起こった革命によりドイツは敗北に至ったというのである。このドイツ軍に対する「海上封鎖」こそが、リデルハートが第一次世界大戦の事例で取り上げる間接アプローチ戦略の2つ目の事例である。1915年に5月7日にイギリス客船ルシタにア号がドイツのUボートにより放たれた魚雷によって沈没した事件(ルシタニア号事件)は、アメリカ国内の世論を対独戦争へ傾ける事になったことになったということは日本の歴史の教科書でも説明されている。

このドイツの潜水艦作戦は一般的に「無制限潜水艦作戦」と呼ばれ、ドイツ軍が如何に非人道的であったかということの代名詞として、いまだによく取り上げられるのだが、なぜドイツがこのような潜水艦作戦をとらなければいけなかったというと、北海がイギリス艦隊によって、封鎖され、海外からの物資の補給が断たれたことによって、ドイツ国内が食料や軍事物資が不足による飢餓状態に陥ったからだ。よって、ドイツはイギリスへの報復作戦のために、潜水艦によって敵国・中立国を問わず軍需物資を積んだ船舶を無警告で撃沈する作戦に出たのである。これによって、ドイツは英米仏間の海上輸送を封鎖することができた。しかし、ルシタニア号事件に対する国際的な非難の結果、ドイツは「無制限潜水艦作戦」を中止していたが、その2年後に再びこの作戦を開始することになる。再び、この「無制限潜水艦作戦」を行えば、アメリカが参戦してくるかもしれないという状況の中で、苦渋の選択肢として、作戦再開の決断をした裏側には、1916年5月、デンマークのユトランド半島沖で、イギリス海軍の海上封鎖に苦しめられていたドイツ軍が、その封鎖体制の打開のために、イギリス海軍との海戦を行ったが勝てなかったという原因があった。(ユトランド沖海戦) 交戦の結果は物別れに終わったが、ドイツ海軍はイギリス海軍に勝てなかったので、その封鎖体制を破ることができなかったのである。戦争を継続するためには、ドイツは鉄鉱石を確保しなければいけない。ドイツにとって、この鉄鉱石の輸入国が北欧のスウェーデンだが、冬季にスウェーデンの鉄鉱石積み出し港が凍結してしまうので、鉄鉱石を自国に運搬するためには、ノルウェーのナルヴィク港経由でしかドイツに輸出することができなかった。よって、北海がイギリス海軍によって、制海権を抑えられている間は、ドイツは戦争継続に必要な鉄鉱石を、逐次安全にドイツに持って来る事ができなかったのでる。

そして、次にこのドイツ軍による潜水艦作戦の再開によって、どのくらい、イギリスの戦時経済が追いつめられていたのか、以下のような記載がある。

船舶の喪失は1917年に2月に、50万トンであったのが、4月には87万5千トンに達した。独側の潜水艦資源が不足して、その潜水艦活動が次第に低下した事にあい応じて英国が対抗策を講じ始めた際に、英国は自国民のための食料備蓄を向こう6週間しか持たなかった。「戦略論」p206等:リデルハート

イギリスにとっても、国民の生存と自国軍の維持はすべて、海上補給に依存していたので、ドイツによる無制限潜水艦作戦によって、イギリスは敗北寸前まで追い込まれていたことになる。しかし、ドイツが1917年2月に無制限潜水艦作戦を宣言すると、アメリカはその2日後にドイツとの国交を断絶し、1914年4月6日にドイツに宣戦を布告している。参戦後にアメリカは、ヨーロッパへ200万を超える大軍を送り込み、莫大な軍需物資の供給や借款などの経済援助を行ったことによって、ヨーロッパ戦線は英仏有利に傾き、追い込まれたドイツ軍は1918年に軍事攻勢に出るが及ぼず、同年11月のキール軍港で水兵の反乱が発生したことが、ドイツ革命につながり、第一次世界大戦に敗北することになったのである。

絶望は絶望を呼ぶものであり、生命の喪失ではなく希望の喪失が戦争の帰趨を決するものであることは歴史が証明している。「戦略論」p206:リデルハート

英仏米軍による「海上封鎖」という間接的アプローチがドイツの水兵のみならず、ドイツ軍全体の希望を奪ったと言えるだろう。1918年の段階において、ドイツは英海軍の海上封鎖によって、国内で大量の餓死者を出すまでに経済が破綻しており、もはやこれ以上の戦争継続は不可能だったのである。この希望の喪失こそがドイツを中心とする同盟国が敗北した原因であったのだ。

日本経済と間接アプローチ戦略

冒頭で、第二次大戦以後における、原子爆弾の登場は、国家間同士の戦争の在り方を直接的なものから、より間接的なものへと変貌させたことは、すでに紹介した。情報戦争、金融戦争、テロ戦争などと呼ばれる非対称戦争が、現在世界中で行われている事実はご周知の通りである。しかし、現在の日本経済は既に、この非対称戦争に敗北して莫大な不良債権を抱えることになったことを我々、日本人は深く認識しなくていけないだろう。日本人は、第二次世界大戦の敗戦から、何も学ばなかったのだ。

すでに読者は、日本が経済敗戦を喫したことは、ご存知であろう。1985年9月、アメリカ、日本、イギリス、西ドイツ(当時)、フランスの先進5ヵ国の大蔵大臣と中央銀行総裁が、米国の対外赤字のさらなる悪化を食い止めるために、為替市場に介入し、ドルを押し下げることに合意した。いわゆるプラザ合意である。この合意直前に241円だったドルは、約1年後に150円台に、1年半後には約130円台となり、日本経済はパブルに突入した。そして、1990年代についにバブルが弾けると、日本経済は長期低迷の「失われた10年」に突入し、アメリカに経済的な敗戦を喫したのである。しかし、この敗戦はそれだけでは終わらず、2003年6月に、日本の新発10年物国債の利回りは、なんと0.43%となり、人類史最低を記録した。こうした経緯を、神奈川大学の故・吉川元忠教授は「マネー敗戦」と呼んだが、この時点で金融と財政が行き詰まり、もはや日本国はほぼ打つ手がなくなってしまったのである。したがって、残された道は破綻処理だけであり、これをするのはIMFをおいて他になかろうと考えた結果、私はこのペーパーバックスで「2008年IMF占領」を書いた。(略)

現在の世界的同時不況の中で、行き先を失ったマネーが穀物市場や石油市場などに流れ込むことにより、さらなる物価高騰が起こり、インフレが加速することはまず間違いない。そうなると当然インフレを抑制するために金利は上げざるをえない。そうなると、既に約800兆円(政府保証型債務残高含む)を超えている日本政府の国債及び借入金残高に対する利払いは日本国政府の税収入を超える日もやってくるのもそう遠い先の未来のことではない。森本氏の言う日本国政府の財政破綻がすぐにやって来るというもの納得できる。そうなると、森本氏が指摘するように、日本の財政破綻を防ぐために、政府はさらなる増税を日本国民に負担させてくるに違いない。ここ数年の増税路線の結果を見てみると、この流れがどこまで加速するのか心配になって来る。

2002年10月 雇用保険料:引き上げ3000億円
2003年4月 医療:健保の本人負担3割、保険料引き上げ1兆3000億円
      年金給付:物価スライド(0.9%引き下げ) 3700億円
     介護保険料:引き上げ(65歳以上) 2000億円
2003年5月 雇用保険:失業給付額削減 3400億円
      発泡酒・ワイン増税770億円
2003年7月 たばこ税増税(1本1円程度) 2600億円
2004年1月 所得税:配偶者特別控除は石 4790億円
2004年10月 厚生年金保険料:引き上げ(13年毎年) 6000億円
2005年1月 所得税:公的年金等控除縮小、老年者控除廃止 2400億円
2005年度 住民税:配偶者特別控除は石2554億円
2006年度 住民税:公的年金等控除縮小、老年者控除廃止1426億円
2006年1月 定率減税:2年で廃止が決定
2007年度 定率減税が廃止(所得税で1兆3000億円、住民税で4000億円、2年間で3兆4000億円の増税)
2007年11月 政府税制調査会は2008年度の税制改正に向けた答申を発表。配偶者控除を廃止・縮小の方向

第二次世界大戦の敗戦においても、今回のマネー戦争の敗戦においても、戦争に負けた"つけ"は全て日本国民が背負わなければいけないことを覚悟しなければいけない。太平洋戦争に引き続き、今回も「日本国政府」のマネー戦争の敗戦により、日本国民は塗炭の苦しみをしばらくの間、味わらなければいけないであろうが、それで、日本国自体が消滅するわけではない。我々は過去の敗戦とリデルハートの間接アプローチ戦略を学ぶことが、次の日本を作る上で非常に重要になってくるに違いない。

2008年12月22日

[検証]太平洋戦争、失敗の研究 第一回 -太平洋シーレーン-

峯山政宏後援会オフ会開催特集

目次


序章

リデルハートの間接アプローチ

艦隊決戦主義と太平洋シーレーンの破壊

序章

日本はなぜ、太平洋戦争(大東亜戦争における日米戦争の呼び名)に敗北したのだろうか? おそらくほとんどの日本人はこの問いに答えることはできない。なぜなら、戦後の学校教育の中で、日本軍が太平洋戦争に敗北した理由について、

「軍部が馬鹿だったから。」
「軍部が、政府の命令を無視して暴走したから。」
程度のことしか学ぶことがなかったのだから、日本人の太平洋戦争に対する無知についても当然のことと言える。では、なぜ日本人はこれほど太平洋戦争について、何も教育されていないのだろうか? 少し考えればこれだけ、不思議なことはない。日本人だけで、およそ230万人の軍人と、80万人の民間人が犠牲になった戦争について何も知らないなんて、かなり異常であるとは言えないだろうか?

例えば、1993年10月28日、翌年(1994年)のアメリカワールドカップの出場をかけて、カタールのドーハで、日本代表とイラク代表がアジア地区の最終予選を行ったが(サッカーのお話)、終了間際のロスタイムで、イラク代表の同点ゴールが入り、日本のサッカー代表が予選敗退することになった一連の出来事は「ドーハの悲劇」と呼ばれるが、この時、日本がワールドカップに出場できなかった理由が

「選手が馬鹿だったから。」
「選手の能力がなかったから。」
「選手が監督の命令を無視して、暴走したから。」
程度でしかその敗因研究がされなかったならば、1998年フランスワールドカップに出場することはできなかっただろう。

成功したことについては過信せず、失敗したことについてはその原因を追及するということは日常生活の中でも当たり前に行われているにも関わらず、膨大な犠牲を出した太平洋戦争についてはその失敗の原因が語られることはなかった。太平洋戦争の失敗の研究がなされなかったのは、敗戦国の日本を半永久的に同じ過ちを繰り返し行わせようという戦勝国側の故意的な意図があったとのではないかと、個人的にに考えている。

「日本はなぜ、太平洋戦争(大東亜戦争における日米戦争の呼び名)に敗北したのか?」
1992年12月~93年8月にNHK総合テレビで放送され、今年8月にDVDで発売されることが決定したNHKスペシャル「ドキュメント太平洋戦争」と、戦略の古典的バイブルと言われるリデルハート「戦略論」から、太平洋戦争における敗北の理由を考えてみよう。

「ドキュメント太平洋戦争」は、その完成度とインパクトの強さからシリーズをめぐって様々な意見が寄せられ、単に50年前の戦場での問題ということを越えて、今日の私たち日本人に多くのことを問いかけた。インパール作戦の裏でどの様なことがあったのか追った「第4集 責任なき戦場」は、文化庁芸術作品賞を受賞し、改めて内外からの評価の高さを示した。キャスター:山本 肇 語り:長谷川勝彦

[ドキュメント太平洋戦争」の内容紹介より

日本人とはどのような民族特性があり、その特性ゆえに極限の戦場の中で、どのような決断がなされ、戦争をどのように好転もしくは悪化させていったのか、我々、日本人が太平洋戦争の敗北について学ぶことは我々自身について学ぶことなのである。

リデルハートの間接アプローチ

リデルハート 1895年10月31日 - 1970年1月29日)とは第一次世界大戦に従事した経験もあるイギリスの軍事評論家である。彼の著書『戦略論―間接アプローチ』が戦略論の古典的バイブルとして、有名なのは、第二次世界大戦において、ドイツ国防軍がリデルハートの間接アプローチを応用して、電撃戦を組み立て、少ない国力で、フランス西部戦線、オランダ侵攻、ベルギー侵攻など多大な功績をおさめたからである。第二次世界大戦後においても主流となったのは彼の間接アプローチ理論であり、1991年のイラク戦争においても彼の間接アプローチ理論が採用されている。

間接アプローチ(Indirect approach strategy)とは正面衝突を避け、間接的に相手を無力化・減衰させる戦略(wikipediaより抜粋)のことである。これだけでは、少しわかりずらいかもしれないが、間接アプローチとは、「将を射んとせば先ず馬を射よ(しょうをいんとせばまずうまをいよ)」のことだと言い換えれば、日本人にとっても、馴染み深くなると思う。大きな目的を達成するためには、その目的そのものに直進するのではなくて、その周囲から攻めるのがよいということを日本人なら過去の歴史から知っているからである。

例えば、大阪城を落城させるために、徳川家康は大阪冬の陣の和議において、大阪城の外堀を埋めさせたのは間接アプローチの代表例である。また、織田信長が石山本願寺を攻略する際に、本願寺に物資補給する毛利水軍を、織田の九鬼水軍による鉄甲船で撃退(1978)し、大阪湾の制海権を握った後、兵糧攻めを行ったのも間接アプローチの代表例として、日本史に燦然と輝いている。難攻不落だと思われた石山本願寺が信長に和議を結ぶことになったのは、制海権を失った2年後の1580年(天正8年)である。

しかし、間接アプローチとは、間接的でありさえすれば、何でもありなのかと言えば決してそうではない。リデルハートは「戦略論」第20章の「戦略及び戦術の真髄」において、次のように戦争の原則をまとめている。


積極面6ヶ条
1.目的を手段に適合させよ。
「目的を決定をするにあたっては、明確な見通しと冷静な計算とを重視すべきである。「消化能力以上の貪欲」は愚である。軍事的英知は「何が可能か」を第一義とする。それゆえ、誠実を旨としつつ、事実に直面することを学ぶべきである。(略)」
無理な作戦立ててはいけないということ。不可能な作戦を精神論でなせばなる的に押し通すのはやめなさいということを積極面第1ヶ条で、リデルハートは述べている。

2.目的を常に銘記せよ。
「計画を状況に適合させる間、常に目的を明記しなければいけない。目的達成のために方法は1つではなくてそれ以上あるが、しかしいかなる目標も必ず目的に指向されるように細心の注意を払う事を忘れてはならない。(略)」
目標が目的に取って変わるということは日常生活の中でしばしば体験することがある。例えば、環境問題を解決するために、大学に行きたいと考えていた学生が、その目的を忘れ,受験勉強で成功するという目標自体が目的に取って変わられて、名声の高い大学に入学したものの、他の大学の方が環境問題を学ぶ上で適しているなんてことはよくある。リデルハートは積極面第2ヶ条で「初心忘れるべからず」と戒めているのである。

3.最小予防線(最小予期コース)を選択せよ。
「敵の立場に立ってみる事に努め、敵が先見し又は先制することが最も少ないコースはどれであるかを見よ。(略)」
計算だけでは決して計測することはできない相手の心理面を考慮に入れろということをリデルハートは積極面第3ヶ条で述べている。常に相手の立場に立って相手がどのように行動するのかを予測することがが重要なのだ。

4.最小抵抗線を乗ぜよ。
「わが方の基本的な目的に対し寄与すべき目標へ指向されているという条件を充たすところの最小抵抗線を利用すべきである。(戦術においては、この金言は予備兵力の使用に適用し、戦略においては随時の戦術的成功の利用に適用するものである。)」
相手の弱点を徹底的に攻撃せよとリデルハートは積極面第4ヶ条で述べている。

5.代替目標への変更を可能にする作戦線をとれ。
「こうすれば、敵をジレンマの立場に追い込み、敵の守備の最も薄い目標を少なくとも1つは攻略できる機会を確保するところまで、進む事ができ、またそれを手がかりとして逐次攻略することが可能となろう。(略)」
例えば、攻撃目標が1つしかないのであれば、攻撃される側にとってはその目標地点に全兵力を集中すればよいので防備することは比較的用意であると言える。しかし、相手がどこを攻めてくるのか全くわからないとしたら、守備兵を分散しなければいけないので、攻撃する側にとっては、各目標地点を個別撃破することも可能になる。

6.計画および配置が状況に適応するよう、それらの柔軟性を確保せよ。
「わが方の計画は、成功を収めた場合もしくは失敗に陥いった場合又は部分的に成功を収めた場合において次のステップを予見し、それを生み出すべきである。わが方の配備(又は隊形)は最も短時間のうちに次のステップの利用、換言すれば状況への適合を許すようなものにすべきである。(略)」
作戦が成功した場合、失敗した場合、部分的に成功した場合など、結果がどのようになってもそれらに対して対応できるように、作戦に対して十分な柔軟性を確保すべきだとリデルハートは積極面第6ヶ条で述べている。


消極面2ヶ条
1.対手が油断していないうちはー対手がわが攻撃を撃退し又は回避できる態勢にあるうちは、わが兵力を打撃に投入するな
「非常に劣勢な対手に対する以外には、対手の抵抗力又は回避行動が麻痺状態に陥らない限り、効果的打撃を加えることは不可能であるということは歴史上の経験の示すところである。であるからこのような麻痺状態が十分に進行していない限り、いかなる指揮官も敵に対する真面目な攻撃を発起すべきではない。麻痺状態は敵の組織の崩壊及び精神面での組織崩壊の同等物である指揮崩壊によって引き起こされる。(略)」
正面突破の攻撃方法は味方の被害が甚大であるから、極力避けよとリデルハートは消極面第1ヶ条で述べている。まずは心理面などの間接アプローチで相手の抵抗力削いだ上で、効果的な打撃を相手に与えることが非常に重要なのである。

2.一たん失敗した後は、同一の線(又は同一の形式)に沿う攻撃を再開するな。
「単なる兵力の増強は必ずしも新規の線に沿う攻撃を意味しない。そのわけは、敵もまたその休止の間において自己の兵力を増強しているであろうことはありうべきことであるからである。わが方を撃退した敵の成功が敵を精神的に強化するであろうことは、さらにもっと有り得べきことである。(略)」
人間というのは一たん、失敗した時に、その原因を自分の努力不足に結論づけてしまい、全く同じ方法で、全く同じ相手と対戦して、また敗北してしまうというケースはよくある。対戦相手も前回と同じ方法で攻撃してくれるのであるから、防御するのも、相手の攻撃方法の予測がつくので、非常に簡単になる。なぜなら、失敗した方法を再度繰り返すのは、相手を心理的に安心させる直接アプローチになってしまっているからだ。一たん失敗した後は同じ方法や形式で再度攻撃を再開するなとリデルハートは消極面第2ヶ条で述べているのである。


艦隊決戦主義と太平洋シーレーンの破壊


「日本はなぜ、太平洋戦争(大東亜戦争における日米戦争の呼び名)に敗北したのか?」その理由をリデルハートの戦略論に基づいて、以下詳細に考えていこう。

ところで、まず日本はなぜアメリカと戦争をしたのかお分かりだろうか?意外にこれほど基本的な質問にさせ答えを窮する人が多いと思うので、日本がアメリカとの戦争を決意した経緯とその理由について簡単に振り返ってみよう。

1937年7月、北京の盧溝橋で起きた発砲事件を契機に、日本軍と国民党政府が日中戦争という戦争状態に突入し、しだいにその戦場は拡大していった。その後、中国国民党率いる中華民国政府の首都・南京を陥落させたが、アメリカやイギリス、ソ連からの軍需物資や人的援助を受けた蒋介石は首都を重慶に移し、国共合作により中国共産党とも連携して徹底した抗日戦を継続することになる。この連合国による中華民国政府に対する人的、物的支援によって、日中戦争は泥沼化していく。アメリカ、イギリスは日本が戦争継続に必要な軍事物資、石油と鉄鋼の輸出制限を行うという強硬な対日政策を行う。1941年4月から日本の近衛文麿内閣はアメリカとの関係改善のために渡米するが、事態の改善を図ることはできず、「資源のない日本」は戦争を継続するために必要な資源の獲得と、英米の物資の輸送大動脈である援蒋ルートを断ち切るために、1941年7月、南部仏印に進駐した。

これに対し、アメリカのルーズベルト大統領は在米日本資産の完全凍結と石油輸出全面禁止という更なる強行措置に出る。当時、アメリカに90%の石油とほぼ100%のくず鉄を輸入していた日本にとって、取りうる選択肢は「中国からの完全撤退」か「対米戦争の決意」という2つの選択肢しか残されていなかった。

それでは、アメリカが中国と戦争している日本に対して、なぜこれほど強圧的な態度を取っていたのかというと、アメリカは、1929年に始まる世界大恐慌から脱出するために、大規模なデフレ対策としての公共事業として、大規模な戦争を必要としたためである。そのスケープゴートに日本が選ばれたのである。アメリカが世界大恐慌を克服したのはニューディール政策という公共事業を行ったからだという神話を今でも信じている人が多いが、実際は、対日戦争によってアメリカはその未曾有の大恐慌から脱出することに成功したのである。本稿では、日本がなぜアメリカと戦争をしたのかを述べることが目的ではなく、「日本はなぜ、太平洋戦争(大東亜戦争における日米戦争の呼び名)に敗北したのか?」をリデルハートの戦略論を基に、明かにすることが目的なので、以下の永井俊哉氏の論文を紹介するに留めておく。

ルーズベルト大統領は、ニューディールという平和的な公共事業で、アメリカ経済を世界大恐慌から救うことができたという神話をいまだに信じている人もいるが、実際には、ニューディールは失敗に終わっており、アメリカ経済を世界大恐慌から救ったのは、第二次世界大戦の特需である。戦争は、民族・宗教・イデオロギーの対立が原因で起きるわけではない。それらはたんに戦争主体を区別するのに役立つ徴標に過ぎない。戦争、とりわけ大規模な戦争の原因はデフレである。

デフレ局面においては、供給が需要に対して過大であるから、働き盛りの男性である兵士に殺し合いをしてもらって、労働市場における供給過剰を削減することが求められる。しかし男性労働者は消費者でもあるから、デフレ解消という点では逆効果の面もある。だから、リフレ型戦争では、大量破壊兵器を用いて、人間以上に施設を攻撃し、過剰になった生産設備を削減することに力が注がれる。

そして、「中国からの完全撤退」もしくは「対米戦争の決意」を決定する国策再検討会議が1941年10月に開催された。その国策会議で決定されたのは前者ではなく、後者の「対米戦争の決意」である。日米開戦と同時に日本は東南アジアの資源地帯を抑え、ドイツがヨーロッパ戦線で勝利する事を前提に戦争を継続して、有利な条件でアメリカと講和するという作戦がその会議で決定されたのである。

しかし、資源のない日本が、この作戦を成功させる唯一の鍵は「海上輸送」である。当時において、日本とアメリカの国力は全く桁外れに差があった。戦争を継続させるために必要な石油も石炭もボーキサイトもスズも食料もすべて海外に依存している日本はそれらの資源を日本に運ぶ「海上輸送」こそが最大の課題であったのだ。

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日本とアメリカの継続力比(1941年:左の数値が日本、右がアメリカ)
石油 1 : 721
鉄鋼 1 : 18
GNP 1 : 13
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ここで、リデルハートの積極面第4ヶ条:最小抵抗線を乗ぜよを思い出して頂きたい。
「わが方の基本的な目的に対し寄与すべき目標へ指向されているという条件を充たすところの最小抵抗線を利用すべきである。(戦術においては、この金言は予備兵力の使用に適用し、戦略においては随時の戦術的成功の利用に適用するものである。)」
相手の弱点を徹底的に攻撃するのは戦略の初歩中の初歩である。つまり、日本の最大の弱点は資源がないゆえの「海上輸送」だったのであるから、このシーレーンを破壊することが、アメリカの対日戦争において、最優先事項であったことは、容易にご理解いただけると思う。アメリカはリデルハートの間接アプローチに従って、日本の「海上輸送」の破壊という作戦を開戦以後、忠実に実行している。

しかし、日本軍も「海上輸送」が日本の生命戦線であることは認識していた。1941年11月15日の御前会議において、枢密院議長である原嘉道によって、日本の海上輸送が問題なく実行できるかどうか、軍令部総長の永野修身と企画院総裁の鈴木貞一に対して質問している。軍令部総長の永野修身は防御強化の対策をしているので、海上輸送に問題はないと返答し、企画院総裁の鈴木貞一は船舶の損耗率は陸海軍の共同研究で正確な数値が見積もられているので、対米戦争に全く支障はないと返答している。企画院総裁の鈴木貞一が提出した陸海軍共同研究による船舶の損耗量と実際の損耗量は以下の通りである。

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開戦時1年目の船舶損耗量(見込み/実際):80万トン/96万トン
開戦時2年目の船舶損耗量(見込み/実際):60万トン/169万トン
開戦時3年目の船舶損耗量見込み/実際):70万トン/392万トン
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船舶損耗量の見込みと実際とで、大きな違いがあるのにお気づきになられると思う。極めていい加減な見込みを基にして、1941年11月15日の御前会議において、日米戦争が決意されたのである。開戦時における日本の船舶は600万トンあったが、この内300万トンを南方からの資源や食料を運ぶ資源輸送船に、残りの300万トンを兵士や武器を運ぶ軍用船に割り振ることになった。詳細な戦争の経緯を述べる前に、なぜ日本の船舶はこれほどまでに、損耗していったのかと不思議に思われたに違いない。陸軍省戦備課の田辺俊雄少佐は当時の船舶損耗量の決定方法は極めて、希望的観測的であり、杜撰以外の何者でもなかったと断罪している。

日本は対米戦争に当たり、その戦争遂行目的を民族の「自存自衛」と「大東亜共栄圏建設」と位置づけていた。日本民族が「自存自衛」するためには、アメリカと戦争を行うに際して石油、石炭、ボーキサイトを輸送する東南アジアから長い海上シーレーンを防御しなければいけない。しかし、この長いシーレーンをどのように守るかという極めて重要な問題に対して、日本には戦略も装備も全くなかったのである。

そんな馬鹿なことはあるのかと多くの方はお考えになられるだろう。あれだけ多くの日本人を死に追いやった太平洋戦争において、日本の生命線である東南アジアから5,000kmにも渡る輸送レーンの護衛に対して、戦略も装備もなかったなんて一体どうなっているんだと著者自身もこの戦争を勉強する際に再三不思議で仕方がなかったのである。開戦時に輸送船を護衛する海防艦はたったの4隻しかなく、海上護衛総司令部が出来たのは1943年9月の御前会議以後である。日本は海上輸送において、防御強化の対策をしているという永野修身の発言は全く虚言だったということになる。

しかし、大本営が海上シーレーンの防御を軽視していたのには理由がある。日米開戦において、日本は未だ醒めやらぬ「大鑑巨砲主義」の夢の中にいたのだ。「大鑑巨砲主義」とは海軍力の主力として、戦艦が最重要視され、この戦艦同士の戦いにより戦争の勝敗を決定するという考え方である。相手の戦艦に対して、より強力な戦艦を作り、相手の重心を打ち砕くという「大鑑巨砲主義」の考え方は極めて直接アプローチ的な発想である。これに対して、海上シーレーンを破壊することで、日本の戦争遂行を不可能にするというアメリカが取った方法は間接アプローチ的な発想である。「大鑑巨砲主義」の夢の中にいた日本は頭では、海上シーレーンを護衛することは極めて重要であると認識していたのだが、それが実行に移される事もなく、輸送船の航海は護衛艦のない単独航行で行われていた。これに対し、アメリカは日米開戦後すぐに、「無制限潜水艦作戦」を発動し、日本の輸送船をことごとく沈める作戦を取った。

日本は開戦前に日本の弱点である海上輸送を認識しながら、その防衛に対して、何ら戦略も装備もなかったという時点で日本は戦う前から敗北していたのである。、リデルハートの積極面第4ヶ条:最小抵抗線を乗ぜよを忠実に遂行したアメリカに対して、何ら対策を講じなかった「資源なき」日本が勝利することなどできるはずがなかったのである。


しかし、アメリカ側にも、「無制限潜水艦作戦」という間接アプローチを実現するに際して、大きな誤算があった。魚雷の性能に大きな問題があったためである。開戦1年目に、日本側の実際の船舶損耗量が陸海軍共同研究で事前に提出された数値と大きく異ならないのは、アメリカの魚雷性能の性能に問題があったからである。歴史の悲劇というか、開戦初期における、アメリカの魚雷性能の欠陥問題によって、日本はより「海上輸送」を軽視することになった。開戦初期の南方作戦の大成功に乗じて、日本は作戦地域をアッツ、ミッドウェー、ガタルカナルと拡大させたのだが、これが日本の命取りになることになった。1942年6月、日本はミッドウェー海戦で大敗北を被り、同年8月のガタルカナルではラバウルから輸送船団をアメリカの潜水艦隊にことごとく沈められ、日本陸軍は飢餓に追い込まれるという大失態を演じることになった。

ここで、積極面第1ヶ条:目的を手段に適合させよから、この時の日本軍の作戦を考えてみよう。
「目的を決定をするにあたっては、明確な見通しと冷静な計算とを重視すべきである。「消化能力以上の貪欲」は愚である。軍事的英知は「何が可能か」を第一義とする。それゆえ、誠実を旨としつつ、事実に直面することを学ぶべきである。(略)」
資源のない日本が、アッツ、ミッドウェー、ガタルカナルまで作戦地域を拡大させることははたして、可能であったのだろうか?遠方に物資を運ぶには大量の石油が必要であるし、輸送距離が長くなればなるほど、アメリカ海軍の潜水艦によって、輸送船が撃沈される可能性が高くなのである。実際に、ガダルカナル島争奪戦において、 補給基地ラバウルからガタルカナル島までの距離はたった1,000Kmしかないのに、輸送船はことごくアメリカ潜水艦隊によって撃沈されているのである。作戦を遂行するためにはリデルハートが述べているように明確な見通しと冷静な計算とを重視されなければならない。一体どのような作戦が実行可能で、どのような作戦が実行不可能であるのかということの見極めこそ大本営の重要な仕事なのだが、不可能な作戦を精神論で無理矢理実行すればなんとかなるという馬鹿の論理が、大本営ではまかり通っていたのである。

一方、アメリカは、開戦初期の魚雷性能の欠陥という問題点の改善を、陸軍兵器局の軍事顧問であったアインシュタインに依頼し、この天才物理学者は起爆装置の改善によって、アメリカ軍の魚雷性能は飛躍的に向している。また「SJレーダー」の開発を成功させたことによって、アメリカの潜水艦隊は闇夜でも日本の輸送船を攻撃できるようになったのである。

ここで、リデルハートは積極面第6ヶ条:計画および配置が状況に適応するよう、それらの柔軟性を確保せよ。を取り上げてみよう。作戦が成功した場合、失敗した場合、部分的に成功した場合など、結果がどのようになってもそれらに対して対応できるように、作戦に対して十分な柔軟性を確保すべきだとリデルハートは積極面第6ヶ条で述べている。作戦が十分に柔軟性を確保できるために、アメリカ軍は現場の報告書を十分に取り入れ、魚雷性能の向上などに取り組んでいたが、日本軍はどれだけ輸送船がアメリカ潜水艦に沈没されても、大本営が何ら早急にその対策を講じることはなかった。

1942年の12月の御前会議において、「海上輸送」の大問題により、東南アジアの米に依存していた国民生活が窮乏に追い込まれ、鉄鉱石不足のために、新たに生産される船舶が性能が著しく劣るという粗悪品になっているということが報告されるが、大本営は戦争を継続させるために、国民生活に必要な資源輸送船の内、58万トンを軍事用へ回す事を決断する。しかし、この御前会議においても日本の輸送船に護衛艦隊をつけるということが全く話し合われることはなく、「海上輸送」の大問題はさらに深刻化していくことになった。

1943年秋頃から、日本-シンガポール間という日本の生命線である「海上輸送」の大動脈がアメリカ潜水艦隊によって、甚大なる損害を被ることになる。1943年9月の御前会議において、本土防衛と戦争継続のために必要不可欠である絶対国防圏を定め、同地域において輸送船を護衛することが決定される。そして、御前会議の2ヶ月後に海上護衛総司令部がようやく設置されることになったが、日本側の「海上輸送」問題に対する対応は余りにも時期が遅すぎた。開戦時に4隻しか存在しなかった海防艦(輸送船団の護衛を任務)の建造に拍車がかかったのは1944年に入ってからのことであった。しかし、日本の海防艦建造能力には問題があり、1つの輸送船団に対して、護衛できる海防艦の数は1-3隻でしかなく、数、能力ともに飛躍的性能の向上を遂げて来たアメリカ潜水艦隊の敵ではなかったのである。浮上して来たアメリカの潜水艦に、多くの日本の海防艦が沈められる事例が多数あったのである。日本側の「海上輸送」に対する問題が余りにも遅かった事が悔やまれる。

しかし、1944年になると、日本軍にとって事態はさらに深刻化していく。アメリカの潜水艦隊よりも恐ろしい、アメリカの高速空母艦隊が中部太平洋に進出してきたからである。1944年2月にアメリカの高速空母艦隊はトラック島を攻撃し、輸送船が34隻、20万トン沈められるという大惨事になった。1944年2月はたった1ヶ月で、日本が保有する船舶の10%(54万トン)が撃沈するという記録的な被害が報告された。1944年3月の時点で、戦争継続に必要な資源輸送船は開戦時の300万トンから200万トンにまで落ち込み、さらに30万トンが軍用船に配分されることになり、国民生活はさらに窮乏することになった。1944年夏における軍需省の報告書によると、国民生活の維持と戦争の継続はすでに困難な状況に達していると記載されているが、1944年7月にサイパンの陥落により、東条英機内閣が退陣すると、小磯内閣が発足する事になるが、終戦工作が行われることもなく、戦争は日本国民の1億玉砕を合い言葉に更なる悲劇を迎えることになったのである。

1944年末には、日本とシンガポールを結ぶ「海上輸送シーレーン」はアメリカ軍の攻撃によって、命脈つきかえていたが、1945年になると、南シナ海にアメリカ空母艦隊の中でも、史上最強と呼ばれたハルゼー艦隊が登場することになる、1945年1月に、資源輸送の大船団と練習巡洋艦「香椎」,海防艦大東,鵜来,海防艦23,27,51号はハルゼー艦隊の標的となり、海の藻屑となった。ここに日本の「海上輸送」ルートは完全に途絶えたのである。



練習巡洋艦「香椎」(司令:渋谷紫郎少将),海防艦大東,鵜来,海防艦23,27,51 合計六隻
タンカー さんるいす丸 7,268t 原油12,000t
極運丸 10,045t 原油12,000t
大津山丸 6,859t B重7,100t,航空燃料400t,揮発油100t,1号重油200t,生ゴム1250t,
優清丸 600t 原油 800t
貨物船 辰鳩丸 5,396t 生ゴム,錫,ボーキサイト,染料
建部丸 4,519t 航空燃料,生ゴム,マンガン,コプラ,ヒマ,牛皮など3,400t等
豫州丸 5,711t 生ゴム,ボーキサイト
永萬丸 6,968t 生ゴム,ボーキサイト
昭永丸 2,764t 重油2,569t,生ゴム400t
No63播州丸 533t 原油 430t

戦後、戦略爆撃調査団・副団長のP・ニッツェ元国務次官補は、日本を降伏させるためには、「海上封鎖」のみを行えば十分で、ソビエトの対日参戦も、本土上陸も、原爆投下も必要なかったと証言している。つまり、「海上封鎖」を完全に行われた時点で日本の敗北は決定したということになる。さらに言えば、「海上輸送」が重要であると認識していたにも関わらず、何ら対策を講じようとしなかった大本営の組織的怠慢のために、日本は開戦前にすでに負けていたのである。太平洋戦争において、日本が失った総船舶は2,600隻、860万トン、船員死亡率は50%(死亡者6万2千人)に達し、陸海軍の軍人より死亡率が高かった。終戦後、満足に残った日本の船舶31万トンしかなかったという惨憺たる結果を残すことになった。


日本海軍の戦略思想
一. 大艦巨砲で敵艦隊を制圧し制海権を握る。
二. 制海権を握れば船団の護衛は必要ない。
三. よって最優先攻撃目標は敵艦隊。輸送船は攻撃目標ではない。
四. 船の安全は集団で行うものでなく個艦(船)であり、傭船先の海運会社が 考える問題だ。

米国海軍の戦略思想
一. 補給なくして、戦闘に勝利した例はない。
二. 太平洋の戦いで、最優先すべきは輸送船の安全。
三. 敵の輸送船を阻止すれば戦いに勝てる。
四. 自国の船団の護衛は海軍の役務。operations research [策略研究]対象。

本稿の中でも、何回も紹介してきたが、日本軍の戦略思想は直接アプローチ、アメリカ軍の戦略思想は間接アプローチであった。日本はドイツ軍と同盟関係にあり、ドイツ国防軍が採用し、大成功をおさめたリデルハートの間接アプローチを学ぶことができたにも関わらず、柔軟性にかける官僚組織となった日本陸海軍はそれを積極的に取り入れようとはしなかった。現在の日本の官僚組織も過去に捕われすぎて硬直性を欠いてはいないだろうか?積極的に新しい戦略を採用する柔軟性を組織として確保しているだろうか?太平洋戦争の敗戦から我々、日本国民が学ぶべき事は多い。

2008年9月14日

知っている人と行動する人

知行合一 知って行わないのは、未だ知らないことと同じである

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国家ビジョンなき自民党

自民党の政治が完全に機能障害を起こしている。なぜなら、解決しなければいけない様々な諸問題に対して、自民党の代議士が何ら有効な手段を取ることができないからだ。唯一できることは、首相の改革か内閣改造という人事移動でしかないのだが、どんなに人を入れ替えても日本の未来をどうすればいいのかというビジョンを自民党が持っていないのだから、全ての対応を場当たり的にするしかなくなり、どんどん泥沼にはまっていく感がある。

1853年、アメリカのペリー提督が黒船に乗って江戸湾の浦賀に来航し、武力によって開国を迫ったことを思い出していただきたい。この時の幕府は何ら有効な対応策を取ることができず、薩長同盟による新政府により滅亡させられることになった。幕府と藩という封建的主従関係によって成立していた幕藩体制(平和な時代の政治体制)はすでに時代遅れの産物となり、当時の日本は長い鎖国時代の間に大きく溝を開けられた軍事力と経済力を増強する必要があった。つまり当時の新国家ビジョンは「富国強兵」だったのである。

私は政治家を選択する上で、最も重要視しているのは、「政権を担当すべき政党が国家百年の計を持っているかどうか」という点である。「郵政民営化」も「聖域なき構造改革」も所詮目標ではなく手段でしかない。郵政を民営化することでどのような日本にしたいのか?聖域なき構造改革をした後で目指すべき日本像というのは一体何なのかということは全く見えてこない。

自民党が政権を担当すべきでないと私は考えている。その最大の理由は未来に対するビジョンを持っていないからだ。1850年代の江戸幕府と全く構造は同じではないだろうか?

責任感皆無の政党

自民党が政権を担当すべきでないと私が考える理由は他にもある。

平成17年12月20日~平成18年1月10日の間に国土交通省がモニター791名に対して行ったアンケート調査を見てみた。 日本の将来に対する不安・不透明感を持っているかという質問に対して、実に91%の人が持っていると回答している。その理由として挙げられている1位から5位の回答を列挙してみると次のようになる。

1位 年金などの社会保障制度が破綻してしまうのではないか 2位 財政の悪化によって、公共サービスや社会資本の水準が低下するのではないか 3位 環境問題が一層深刻化するのではないか 4位 地震や水害などの自然災害やテロなどによって自ら生命や財産が脅かされるのではないか 5位 所得の格差が拡大していくのではないか
 「国土交通行政インターネットモニター」アンケート調査


国土交通省のアンケート調査から、国民が最も不安に思っていることは年金が本当にもらえるのかということだ。どんなに頑張って働いても定年退職をした後に年金をもらえなければ生活できないではないか!という国民の怒りは至極まっとうであり、安倍前首相も舛添要一厚生労働大臣も約5000万件の消えた年金について「2008年3月までに最後の1人までチェックし、支払う」と言っていたが、2000万件が解明できないことが判明した時に、福田首相は「公約違反というほど大げさなものなのかどうか」と述べ、野党の批判に反論したり、「正直申し上げて、公約でどう言っていたのか、頭にさっと思い浮かばなかった」と釈明したり、態度があまりにも不誠実であり責任感が全くない。国民が年金をもらえなくて、餓死しても知らんと開き直っているようにも取れる。

挙句の果てに福田首相は9月1日に突然辞意を表明して政権を放り出した。安倍首相に引き続き2人の首相が1年以内で政権を放り出すという異常事態である。無責任を通り越して呆れ返るしかない。自民党が政権を担当すべきでないと私が考える2つ目の理由は自民党は政治に責任を持っていないからだ。

弱者を切り捨ててきた政党

自民党が政権を担当すべきでないと私が考える3つ目の理由は弱者切捨てである。1990年代後半に自民党と経済界は結託してワーキングプアと呼ばれる貧困層を構造的に作り出してきた経緯がある。

かつては禁じられていた民間の職業紹介や労働供給業が96、99年の「労働者派遣法の改正」によって、自由化され、04年には製造現場への派遣も解禁された。2008年1~3月期のデータによると、全労働者の内、非正規社員の割合は実に3人に1人を超えており、非正規社員の多くの人が年収200万円以下という生活保護レベルの生活を強いられている。今から考えると、2002年2月から2007年末頃までのおよそ57ヶ月続いた戦後最長の好景気に、多くの企業が過去最大の収益を上げることができたのは賃金の安い派遣労働者を大量に利用できたからだ。つまり食うや食わずのワーキングプア層の犠牲の下に日本の好景気は演出されていたということになる。

さらに、人件費を削減したいという経団連と自民党の計画は非正規社員だけにとどまらず正規社員にも対象になろうとしていた事実を忘れてはいけない。

前安倍政権の時に検討されていた「残業代なしでただ働きを法律に従って強制させる」という、自律的労働時間制度(ホワイトカラー・エグゼンプション)の導入である。経済アナリストの森永 卓郎氏によると、経団連は、「年収400万円以上のホワイトカラー」を対象とするように求めていたという。前安倍政権は国民の理解がまだ十分ではないという理由で通常国会に提出する新しい労働基準法改正案の中に、自律的労働時間制度(ホワイトカラー・エグゼンプション)を導入することを見送っているが、人件費を抑えたい経団連が自民党と結束してこの法案を通すように再び画策してくるだろう。労働者とは小林多喜二の「蟹工船」のような単なる使い捨ての存在へと歴史回帰しているのだろう。

しかし、その一方で経済繁栄を謳歌している人たちもいた。大企業の役員である。

日本では2002年1月から景気回復が始まり、名目GDPが14兆円増える一方、雇用者報酬は5兆円減った。だが、大企業の役員報酬は1人当たり5年間で84%も増えている。また、株主への配当は2.6倍になっている。
構造改革をどう生きるか。

(勝ち組)企業役員、政治家、公務員
↓↑
(負け組)労働者(正規社員、非正規社員、パート、派遣労働者、フリーター)

という図式が形成されつつある。自民党の政治とは強者と結託して弱者をばっさりと切り捨てるもの以外の何者でもないと言えるだろう。

民主党は明治政府になり得るのか

ビジョンが無い。
責任感が無い。
弱者切捨て。

という自民党はもはや政権を担当する資格はないことは明らかではないだろうか。自民党が政権を長くやれば、やるほど日本は路頭に迷っていく。では、ここで一つの疑問がある。「民主党は自民党からの大政奉還を経て、国家百年の計を立てることができる明治政府のような存在になり得るのあろうか?」

私の答えはNOである。

民主党は元を正せば、院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)に参加していた旧民主党(さきがけ、新進党、社民党の一部議員)、民政党、新党友愛、民主改革連合が合流して結成され、2003年9月に小沢一郎氏率いる自由党と合併した寄り合い政党である。悪い表現を使えば単なる烏合の衆であると言い換えることができる。

思想に一貫性とういものが無い。民主党副代表の岡田克也氏の「政権交代―この国を変える (単行本)」を読んでみて、わかったことは民主党の政治目標とは「政権交代」以上でも以下でもない。つまり、「政権交代」のみが民主党の史上命令なのだ。しかし、それでは困る。例えば薩長同盟が幕府を倒すことが目標でありそれ以外のことを考えていなかったならば、幕府を打倒した後に帝国の植民地になっていたに違いない。「政権交代」とは単なる手段に過ぎず、目標ではない。

それでは、民主党は新国家ビジョンを持っているのだろうか?実は民主党のマニフェストをじっくり読めば、この政党のビジョンというのは明らかになってくる。一言で言おう。

「日本を中国と韓国の植民地にする」というものだ!
民主党3つの約束、7つの提言に書かれた甘い言葉に騙されてはいけない。

1. 「年金通帳」で消えない年金。 国が責任を持って全額支給します。 2. 安心して子育てできる社会。 1人月額2万6000円の「子ども手当」を支給します。 3. 農業の元気で、地域を再生。 農業の「戸別所得補償制度」を創設します。

民主党7つの提言
1. 雇用を守り、格差を正す。
2. 医師不足を解消して、安心の医療をつくる。
3. 行政のムダを徹底的になくす。
4. 地域のことは地域で決める「分権国家」を実現する。
5. 中小企業を元気にして、日本経済を生き返らせる。
6. 地球環境で世界をリードする。
7. 主体的な外交を確立する。


民主党の政権政策マニフェスト

民主党の本音が2007政策リストの中に見え隠れしているのでお時間がある人は熟読されるのいいだろう。しかし、手っ取り早く民主党の本性を知りたい方は次のサイトを参考にされるのが良いと思う。

1:永住外国人の地方選挙権 これについては言うまでもなく危険な法案です。民潭や総連といった組織を中心に、これほど反日的思想を持った在日韓国人、朝鮮人が蔓延る日本の現状ではこれを実現させることはできません。総連が拉致問題に深く関わっていたことが明らかになり、また中国人の永住権取得者が増大している現状ではなおさらです。

2:戦後処理問題 
詳細はこの法案の中身 をご覧下さい。民主党はこの中で、慰安婦に対する謝罪と賠償による解決を明記しています。


3:靖国問題・国立追悼施設の建立
この内容中国や韓国の主張に完全に迎合する政策だと言って良いでしょう。

4:沖縄政策
この政策は以前に当Blogでもその危険性を指摘しました が、沖縄を特例地区とし、ビザ免、備蓄原油をアジアへ放出、中国・韓国との交流拠点、地域通貨の導入、日本との時差の設定、中国語教育など、まるで沖縄を日本から切り離し、中国や韓国へ売り渡すとでも言っているような政策です。沖縄は中国領土であるというニュアンスの発言をことあるごとに繰り返す中国を前に、この政策は正気の沙汰とは思えません。


民主党マニフェストに書かれた売国政策~民主党に投票できない理由~

なんで民主党って中国と韓国の肩ばかり持つのだろうと疑問に思われるかもしれない。これに関しても次の本を読めば理由がよくわかる。簡単にその理由を言えば、民主党議員の多くが「金や女性で、中国や韓国に弱みをつかまれている」からなのだ。この事実から私は民主党が明治政府になり得ないと断定している。

蠢く!中国「対日特務工作」マル秘ファイル (単行本)
袁 翔鳴 (著)


日本の未来への提言

私は次回の衆議院選挙で自民党が惨敗し、民主党がその他野党と連立を組むことで新しい内閣を組むと予想している。しかし、その新内閣も様々な政治問題を結局は解決することができず、何もできないまま右往左往して、遂には民主党の本性を暴露して、国民の猛烈な怒りをかうことになるのではないだろうか。あくまでも個人的な予測に過ぎないが。となると、民主党の歴史的ポジションとしては、明治政府ではなく、「安政の大獄」を引き起こした井伊直弼であり、日本の希望というのはその絶望の先にあるのだと確信している。

私個人としての日本が歩むべき未来をいかに少し提案したい。まず、日本という国は島国である。島国ゆえに日本人に生活で必要な食料もエネルギーも海外から輸入してこなければいけない。日本は年間8億トンの物資を輸入して、年間2億トンの物資を輸出している大貿易国である。よって、これらの物資を輸送する手段として、船というものがどうしても必要になってくる。

しかし、ここからが問題なのだが、現在、船の動力源となる石油は枯渇し始めていて、いつまで持つのかわからないし、戦争が中東地域で勃発しても日本人は石油を輸入することができない。そうなると、日本人は物資を輸入することができないので、飢えて死んでしまうことになる。日本を再建する政治家は、まずこの事実を深く認識しなければいけない。私としてはこの新しい船の動力源となるのは水素だと確信している。水素は石油だけではなく、石炭、天然ガスなどの化石資源からも製造することができるし、風力発電や太陽光発電、水力発電の余剰電力で水を電気分解しても製造できる。その他様々な媒体から水素の製造に関する研究は日夜進んでいる。この水素によって、日本人にとっての生命線である船の動力源を確保することは最重要の政治課題に挙げられるだろう。まず、日本の政治家は日本人の生存を保障しなければいけない。

そして、船の動力源を水素に切り替えることができれば、国内のインフラ設備である、鉄道、自動車、飛行機などを全て水素化させていきたい。これにより日本は世界の最先端の技術を持つ国として尊敬されることになる。日本は限りのある工業事業費を従来型の土木工事に使用するのではなく、一気に傾斜配分して日本列島の水素化に全予算をつぎこむ覚悟あるなら、それにより新たな雇用が日本に生まれ、それが税収増加につながり、高齢者医療費や年金の支払金を準備することも可能になるだろう。しかも、世界の最先端の技術を持つ研究者や知識人は世界各国から招聘されることになるに違いない。そう考えてみれば日本の未来を悲観する必要などない。

日本の夜明けは近い。しかし、その前には大きな一歩と決断が必要だ。日本人の総意が結集して、「日本のエネルギー革命」を引き起こす時、日本のみならず世界は確実によい方向へと変化するだろう。

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関連サイト:観たくても観られない

著者近況

大東島(1)ご紹介

著者書籍

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2008年8月31日

ビジネスの攻勢終末点

このコラムは、知識人の補給戦の続編です。

自動車時代とヒットラーの時代

時代はヒットラーの時代に入り、兵站の主流も鉄道から自動車へと移行していく。鉄道というのは、爆破が非常に簡単であるという欠点がある。第一次世界大戦のベルギー国内の場合、鉄道網は無数のトンネル、鉄橋、立体交差点を通過しなければいけないので、それらのどれかが爆破されてしまえば、修復に莫大な時間がかかってしまうことになった。1939年9月1日に開始されるポーランド戦においても、敵味方両軍による鉄道破壊が余りにも激しかったので、鉄道によって物資を運ぶことが全くできなかったという。

しかし、ここで一つの疑問が生じる。兵站の主流が鉄道から自動車に変更されたと言っても、ドイツ軍の主力部隊は電撃戦を採用した戦車部隊である。相手陣地を突破した後、高速のスピードで敵の主力に対して包囲陣形を敷き、殲滅戦を実施するのだから、兵站部隊も相当訓練されていなければ、自動車部隊といえども追いつく事はできなかったであろう。ポーランド戦における詳細については以下を参考にして頂きたい。

ポーランド侵攻作戦 秘匿名称「ケース・ホワイト」

ポーランド侵攻作戦における実際の経過を確認してみよう。ポーランド侵攻は1939年9月1日に開始される。まず、第4軍クルーゲの前進によって、ポーランド回廊は遮断され、ヴィッスラ河下流に到達。一方、第3軍キュヒラーが、東プロシアからナレフ側に向かって進行した。さらに、第10軍ライヘナウの機甲部隊はヴァールタ河にまで突破を行い、第14軍のリスト軍はクラコフに向かう分進合撃を実施していた。9月4日までに、第10軍ライヘナウの機甲部隊は国境から内側へ50マイル入ったピリーツァ河を渡河し、その2日後には彼の左翼はトマーショフを超えてそのかなり前方まで前進し、その右翼はケェルツェへ進入していた。ドイツ軍の作戦計画が順調に実施されているので、ドイツ陸軍総司令官ブラウヒッチは、首都ワルシャワがあるビスワ河まで、この前進行動を東方へと継続させることを指示した。しかし、南方軍ルントシュテット上級大将とその参謀長マンシュタインは、ポーランド軍主力が依然として、ビスワ河の西方にあり、その場所で補足可能である事を知り、計画の変更を主導した。第10軍ライヘナウの機甲部隊の左翼はロッズ付近にあったポーランド軍大兵力の集中地の背後を目指し、北方へ旋回し、ロッズ及びワルシャワ間にあるブズーラ河沿いに狙塞陣地を確立するように指示。この北方への旋回行動の結果、このポーランド軍の大兵力は退路を遮断されて、ビスワ河を超えて撤退することができなくなった。この第10軍の旋回行動によって、名将ハンニバルのカンネーの戦いにおける「包囲陣形」が完成したのである。

ドイツ軍はこの時点で、ビスワ河を目指して、突進してくるポーランド軍を迎え撃ちさえすれば良かったのである。ポーランド軍は首都ワルシャワからは遮断されており、補給物資は運搬されず、その背後と両翼にはプラスコヴィッツの第8軍とクルーゲの第4軍によって逐次圧迫を受けつつあった。ポーランド軍は敵をも感嘆させたほど勇敢に戦って、ワルシャワ守備軍と合流しようとしたが、ほとんが果たせず、ドイツ軍の包囲陣形の餌食となった。9月10日、ポーランド陸軍総司令官スミグリー・リッツは、長期抵抗のため比較的狭い正面の防御戦を編成しようと望み、残余の兵力に対して、ポーランドの東南部へ向かい総退却を実施するように命令した。しかし、この退却するポーランド軍に対して、ドイツ軍はさらなる大包囲陣形を敷くことによって、ポーランド軍を殲滅することを計画する。大包囲陣形の左翼を担ったのはクルーゲの第4軍の先鋒をつとめたグーデリアンの機甲師団である。ポーランドの侵入にあたっては、ポーランド西北部にある回廊地帯を横断する突進を行って、孤立していた東プロシアに到達した。その後、9月9日に、グーデリアンはナーレフ河の線を越えて、さらに南に突進し、14日にはブーク河に沿うブレスト=リトフスクに到達した。そらに、40マイル先にあるグロータヴァを目指して進撃し、南方からせり上がって来るもう1つの鋏である第14軍第22装甲軍団クライストと合流して、大包囲陣形を完成させた。ロシア軍がポーランドの東部国境を越えた9月17日までには、ポーランド陸軍はドイツ機甲師団による二重の包囲陣形により崩壊させられていたのである。

ポーランド戦において、自動車による兵站作戦はほとんど機能しなかったという。確かに、自動車が鉄道よりも柔軟に、前線部隊に物資を運搬することができるのは間違いなかったが、問題は輸送能力である。一本の複線の鉄道輸送能力に匹敵するには、1600台ものトラックが必要だったからだ。当時のドイツの経済力では、民需に加えて、軍隊の需要をまかなうほどに、自動車産業が発展していなかったのである。しかも構造的な問題がある。ドイツにはトラックを動かすための石油がないのである。兵站を担うトラックの動力源が自分の国で産出できないのだから、その時点でかなり問題があることは推測できる。

1)戦争に必要なトラックをすべて製造することができない。
2)トラックを動かす石油をドイツで産出することができない。

この2つの点から、ドイツの兵站システムはかなり不十分であったのだ。実際、トラックが足りないので、補給物資の大部分は1200台の馬車によって運ばれていた。馬車で機械化部隊に追いつこうというのは少し無理があったに違いない。それでも、ドイツ軍がポーランド軍を3週間以内に崩壊させることができたのは、早期にポーランド戦が終了したために、兵站問題がおこらなかったためである。ポーランド戦が、1ヶ月、2ヶ月と長期戦になっていれば、歴史はまた違ったものになっていたに違いない。

次に、独ソ戦について確認してみよう。独ソ戦前後の戦史についての詳細は以前コラムにまとめたので、参考にして頂きたい。

それでは、続いて、ドイツから見た第二次世界大戦について、駆け足で確認して見よう。ドイツは独ソ不可侵条約を締結した8月23日の1週間後に、最初の目的地であるポーランドに対する侵攻を開始した。1939年9月1日午前4時45分。100万の軍隊と2000機の飛行機がポーランド回廊とダンチヒに殺到した。これを見て、イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発することになった。1940年春になると、ドイツ軍は北欧、西欧への侵攻を開始する。デンマーク、ノルウェーに続いて、オランダ、ベルギー、そして、1940年6月にはフランスが降伏する。ドイツ軍は、戦車隊を中心とした機甲部隊を戦闘にして、猛烈なスピードで進撃したので、フランス軍はこれに対して、全く対応が取れずに敗北することになった。このドイツ軍の戦い方は電撃戦と呼ばれるが、これについては後ほど再度取り上げる。

1940年夏の段階では、ドイツは北ヨーロッパ、西ヨーロッパ全域の支配を達成し、残るはイギリスのみとなった。同年、7月頃から、ヒトラーはドイツ空軍による徹底した爆撃をイギリスに行うが、イギリスの戦闘機部隊も奮戦し、ドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、1940年12月に極秘命令を出して、西ヨーロッパに展開していた軍隊の多くを東方に移動させる。作戦開始時期は1941年3月だったが、バルカン半島の制圧に3ヶ月を要したので、独ソ戦の開始は1941年6月22日に開始されることになった(バルバロッサ作戦)。レニングラード、モスクワ、スターリングラードを目指し、ドイツ軍は当初、電撃戦により破竹の勢いで進撃した。開始の1ヶ月で実にソ連軍の30%の軍事力がドイツによって破壊されることになった。しかし、不幸だったのは、ナポレオンのロシア遠征と同様に、冬将軍がソ連の味方をしたことだった。同年10月から降り始めた雪によって、酷寒に晒されたことと、予想外の独ソ戦の勝利により戦線が伸び切ったことが災いして、ドイツ軍の前線における補給が困難な状態に陥っていた。そして、1942年6月にスターリングラードを巡る攻防戦(スターリングラード攻防戦)が開始され、双方合わせ150万人を超える戦死、戦傷者を出す壮絶な地上戦を行った結果、ソビエト軍に対し大敗北を喫したことが原因となり、ソビエトとの戦争において、モスクワまで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を余儀なくされることになった。また、この頃、ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア連合軍が北アフリカで、連戦連勝していたものの、同年7月に行われたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に対し、大敗北を喫し、ドイツ軍は、この時点で攻勢終末点を越えていたと言えるだろう。

1943年に入ると、アメリカ、イギリス連合軍はイタリアに上陸する。ムッソーリには国王と国民の支持を失って失脚し、ムッソリーニの後をうけたバドリオ内閣は連合国に対して、すぐさま無条件降伏をする。1944年4月には、ソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。一方、1944年6月、西からドイツ軍を粉砕するために、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦(ノルマンディー作戦)が開始され、多数の犠牲者を出す事にはなったが、1940年6月以来の西部戦線が再び構築されることになった。東西から挟撃されることで、その支配領土を急激に減少させていたドイツ軍は、度重なる敗北で反抗の力をほとんど失い、1945年4月30日にヒトラーはベルリンの地下壕で自殺し、5月8日にドイツは無条件降伏した。

1941年6月22日に、バルバロッサ作戦(独ソ戦における最初の軍事作戦)が開始された。ドイツ軍は合計300万人の兵員を動員し、史上最大の陸上作戦を展開した。ソビエト連邦という広大な地域で、膨大な兵員に物資の補給を行う事は、ドイツ軍の最大の課題であったが、ポーランド、デンマーク、ノルウェーに続いて、オランダ、ベルギー、フランスを戦車部隊による電撃戦によって、短期間に破っていたドイツ軍は、物資の不足という問題が生じる前に短期決戦でソ連軍を降伏させることを目的としていた。



バルバロッサ作戦

しかし、電撃戦を得意とするドイツ軍でも、広大なソ連の領土内では、物資の補給問題に悩ませられることになり、ドイツ軍が目指した短期決戦での勝利は絵に描いた餅となった。ナポレオン軍のロシア遠征と全く同じ轍をナチス・ドイツ軍も歩むことになる。例えば、ドイツ軍の占領地域から、ソ連のスモレンスクまでの距離は300マイルを越える。300マイルを進撃した時点で、ドイツ軍の自動車補給部隊の能力では、1日に、1師団あたり、70トンの物資しか運ぶことができなかったという。実際、ドイツ軍の全師団は144個存在して、1日に、1師団あたり必要な物資は300トンであったことから、スモレンスクの時点で自動車部隊による物資の補給はすでに困難を極めていたのである。ドイツ軍によるモスクワへの攻略戦「タイフーン作戦(バルバロッサの第二作戦)」では実際に使用した車両の数より最低、10倍の量が必要であったと推測されている。どのような貧弱な物資補給でドイツ軍が戦っていたのかがよく分かる。物資の不足の中でも、特に深刻だったのは石油で、ドイツ軍は1942年夏から1942年初冬にかけてカスピ左岸のバクー油田を占領することで、慢性的な石油不足を解消しようとするが、カフカス山脈の中央部まで進出した時点で、これも補給難に陥り撤退している。(ブラウ作戦)

自動車部隊があまり役に立たないので、ドイツ軍は物資の輸送の主力を鉄道に振り向けたが、兵站問題を解消するには至らなかった。なぜなら、ドイツの鉄道車両を走らせようとしても、ソ連のレールはドイツのものと、軌間が異なっていたので、修復するには時間と手間がかかり、枕木の数も3分の1少ないために、それを補ってやらなければ大型機関車を走らせることはできなかったのである。また、ソ連の機関車は撤退時にことごとく破壊されていたことも鉄道による物資の補給をさらに困難にしたと言えよう。慢性的な物資の不足に喘いでいたドイツ軍は、1942年6月にスターリングラードを巡る攻防戦(スターリングラード攻防戦)において、双方合わせ150万人を超える戦死者、戦傷者を出す壮絶な地上戦を行った結果、ソビエト軍に対し大敗北を喫したことが原因となり、独ソ戦敗北は必至となった。

上記の史実を振り返ってみるならば、電撃戦の弱点は物資の補給が追いつかない事及び物資の補給が軽視されることにあるのではないだろうか?ナチス・ドイツ軍も独ソ戦が開始されるまでは、電撃戦によって短期間に勝利していたので、兵站が問題になることはなかったが、広大なソ連領では電撃戦の弱点が露呈することになったと言えるのではないだろうか?


ロンメルは名将だったか


ロンメルは第二次世界大戦で、最も有名なドイツ軍人の一人である。特に1941年2月にイタリア軍支援のために砂漠の北アフリカに派遣されたロンメル将軍は巧みな戦車部隊で英軍を圧倒し、英首相チャーチルからも「ナポレオン以来の戦術家」とまで評され、彼の神出鬼没な戦い方は「砂漠の狐」という異名を持って呼ばれるようになった。しかし、天才ロンメルは、なぜ北アフリカで敗北することになったのか?物資の補給という観点からこの問題を確認してみよう。

エルウィン・ロンメル


ロンメル将軍の北アフリカ戦線における北アフリカ到着から撤退までの軌跡は以下。

1941 2/3~

2/3 ロンメル、ドイツ・アフリカ軍団司令官に就任

2/12 ロンメル少将トリポリに到着

3/31 ロンメルはキレナイカ(ベンガジ東方)へ進出しトゥブルクを包囲しエジプト国境にせまる。

6/15 チャーチルは地中海経由で戦車300両を英軍に補給し「バトルアクス作戦」を発動させる。2日後作戦は失敗に終わる。

11/18 英軍オーキンレック司令官、「クルーセイダー作戦」を開始。当初ロンメルは優位に戦局を進めたが結局一時的にキレナイカより後退する。

1942 1~

1/5 本国より補給船団が到着

20 ロンメル、英軍に大攻勢をかける。

29 ベンガジを再占領。

5/26 トゥブルク攻略作戦開始

5/31 緊要拠点、大釜陣地占領

6/20 北アフリカ戦略拠点トゥブルク要塞を陥落させる。

6/22 ロンメル、元帥に叙される。

7/1 ロンメル元帥、エル・アラメインへ攻勢に出るも失敗

10/23 英軍の大反抗作戦開始 「ライトフット作戦」

11/ 1 英軍「スーパーチャージ作戦」を発動 ロンメル軍後退する。

8 米軍アイゼンハワーが北アフリカ、アルジェリア方面に上陸「トーチ作戦」

1943 2~

2/~  ドイツ・アフリカ軍集団チェニジア方面に撤退する。

3/9  ロンメル元帥、アフリカを去る。


北アフリカ戦線当時のイギリス軍は、アレキサンドリア周辺の沿岸部のみを支配しており、残りの拠点としては、マルタ島とジブラルタル海峡を保有するにとどまっていた。しかし、戦略上の観点からはこの2つの拠点を抑えていたことはイギリス軍にとって非常に大きな意味があった。まず第一に、英軍はジブラルタル海峡を保有していたので、地中海の細い入り口を通って、ドイツの艦艇が増援のために地中海の入る事は極めて難しかった。さらに、マルタ島を保有していたので、潜水艦と航空機を出撃して、枢軸国(ドイツとイタリア軍)の海上補給路を脅かし、ロンメル軍の補給を困難なものにしていた。これに対して、ドイツ軍もクレタ島やシシリー島から、「シュトゥーカ」急降下爆撃機を出撃させて、英艦艇を次々と攻撃することで応戦している。マルタ島は全島穴だらけになるほど激しい空襲を受けながらも、何とか持ちこたえ、ロンメルを敗退させる最も主要な役割の一つを果たしたと言われている。ロンメル自身も兵站の重要性を認識しており、次のような言葉を残している。

軍隊が戦闘の緊張に耐えるためには、まず第一に不可欠の条件として武器、石油、弾薬を十分に貯えることである。実際のところ打ち合いが始まる前に、戦闘は兵站将校によって行われ決定されるのである。いかなる勇敢な兵士といえども銃なしでは何事もなしえず、銃は十分な弾薬なしには何事もできない。だが、機動戦においては、車両とそれを動かす石油が十分になければ、銃も弾薬も大して役に立たない。保守修繕も、敵のそれに対して量的にも質的にも同等でなければならない。

兵站の補給問題は北アフリカ戦においても最大の課題であったことは間違いないが、補給戦の著者、マーチン・ファン・クレファルトはロンメル軍の兵站の困難は海上での損害よりも、むしろアフリカ内陸での遠距離-かつ脆弱な補給線に原因があったと指摘している。つまり、トリポリからエルアラメインまでに、補給線がのびきってしまい、それに対して確実な兵站システムを持たなかったことがロンメル軍の敗因であったというのだ。

実際のところ、ロンメル軍の参戦初期において、ドイツ軍もクレタ島やシシリー島から、「シュトゥーカ」急降下爆撃機で、マルタ島を出撃する英艦艇を何度も撃沈させていたので、イタリアから、トリポリやベンガシに対する補給ラインはそれほど攻撃されることはなかった。マーチン・ファン・クレファルトが指摘するように、ロンメル軍が物資補給に悩んだ本当の原因は沙漠の北アフリカで物資の補給がうまくできなかったためである。たとえば、エルアラメインの戦闘に際して、アフリカ装甲軍の限られた貯蔵物資の3分の1もが、エルアラメインではなく、背後のベンガシになお滞留していたという。

なぜこのようなことが起こったのだろうか。まず第一にドイツ軍の一部しか自動車化されていなかったので、砂漠地域で物資を運搬するトラックの数が圧倒的に不足していたという事実がある。せっかくイタリアから地中海を渡って、北アフリカのトリポリに物資を運搬してもそこから前線地域にまで、それを運ぶことが至難の業だったのである。2つ目として、砂漠地域では兵器等の消耗速度が通常の戦争よりも速くなってしまうということも挙げられる。ドイツ製の戦車のエンジンの寿命は、暑熱や悪路の影響のために、1400-1600マイルから、実に300-900マイルまで短くなっていた。ロンメル軍が前線で勝ち進めるほど、物資の補給は困難になっていたのである。

しかし、状況はさらにドイツ・ロンメル軍に対して不利になっていく。それまでアフリカ行きの護送船団をシシリー島の基地から守っていたドイツ第10航空軍が1941年6月始めに大部分ギリシャに移動させられた。それ以降、地中海の輸送船団の被害が急激に増え始めた。7月には、リビアに送られた全補給物資の19%が沈められた。8月には9%、9月には25%、10月には再び23%の被害を受けた。また、ベンガシはイギリス空軍の行動半径に入っているので、同年9月に大爆撃され、トゥブルクは大型船が乗り付けることができないので、ロンメル軍が前線で戦闘を開始しても、補給線は常にトリポリから運ばなければいけなかったので、兵站が大問題となった。トリポリから最前線、エルアラメインまでの距離は実に1,000マイルを超え、輸送途中で車両の35%が故障していたのだから、補給業務が非常に困難であった事は想像される。そして、物資が十分に前線部隊にまで供給できなかったので、1942年11月にロンメル軍は撤退を開始した。兵站というのがいかに難しいかということがこの戦史から伺い知る事ができるだろう。

以上のことから、ロンメル軍が北アフリカ戦線において、補給困難に陥った理由には次の3つが考えられる。
1) 北アフリカの港の港湾能力が低い事。
2) トリポリから前線までの補給ラインが長い事。
3) マルタ島を攻略できなかったので、イギリス空軍によって輸送船が沈められたこと。

最後に

戦争というのは、激しい弾薬の応酬をイメージしてしまうが、物資の補給が戦争の9割を占めると言われている。この非常に地味で勝つ重要な数学問題に対して、常に軍隊は悩まされてきたと言えるだろう。補給戦の著者、マーチン・ファン・クレファルトは最後に、将軍ウェーベルの次の言葉を引用している。物資の補給がいかに難しいのかということが端的にわかる名文ではないだろうか

戦争を見れば見るほど、いかに戦争がすべて管理と輸送に依存しているかが分かる。諸君が軍隊をどこへ、いつ移動させたいと思っているかを知るには、熟練も想像力もほとんど必要としない。だが、諸君がどこに軍隊を位置させることができるか、また諸君がそこに軍隊を維持させることができるかどうか知るには、たくさんの知識と刻苦勉励とが必要である。補給と移動の要素について本当に知ることが、統率者のすべての計画の根底とならなければならない。そうなって初めて統率者は、これらの要素について危険を冒す方法と時期とを知ることができるし、戦闘は危険を冒すことによって初めて勝利が得られる。

汝、望むなら下記を読みクリックせよ

Per me si va ne la città dolente,
per me si va ne l'etterno dolore,
per me si va tra la perduta gente.
Giustizia mosse il mio alto fattore;
fecemi la divina podestate,
la somma sapïenza e 'l primo amore.
Dinanzi a me non fuor cose create
se non etterne, e io etterno duro.
Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate' .


出典:AFP

今年行動する人はクリック→ワシントンD.C時間 2008年20年11月4日より歴史が加速する

関連書籍

2008年8月29日

知識人の補給戦(2)

このコラムは、知識人の補給戦(1)の続きです。

連山編集部


出典:算術する革命家
◆大学院生倍増計画 大学院生が増えた背景には、大学院生の数を倍にすべきとした1991年の大学審議会の答申がある。大学院を新設する大学への補助金が増額され、大学院が作られた。91年時点で320だった大学院の数は、昨年5月には598に。院生も約10万人から約26万人に増加した。
出典:末は博士も就職難
1. 大学院重点化で量産された博士
余剰博士問題が深刻化した原因を作ったのは、文部科学省の大学院重点化政策である。1996年に大学審議会は、「大学院の一層の量的な拡大が求められる中で,質的な面での抜本的な充実と改革が必要となっている」[文部科学省:大学院の教育研究の質的向上に関する審議のまとめ] と大学院重点化の理念を語ったが、量的拡大を行った結果、質が大幅に低下したというのが現実である。略
もちろん、本音と建前は別である。法科大学院設立の表向きの理由はプロセス重視の法曹養成である。従来の司法試験は一発勝負の性格が強く、受験生は、受験技術の詰め込みに走る傾向があったが、法曹には、専門的な法律知識の他、高い倫理や教養も求められるので、真に優秀な法曹を育てるには、全人的な接触のなかで、対話重視・プロセス重視の教育を行う必要があるというわけである。略
4. プロセス重視だと茶坊主が有利になる
プロセス重視の教育で、子供たちは勉強しなくなり、代わりに、教師に対して「良い子」を演じるのがうまくなった。略
出典:末は博士かホームレスか

産業革命時代、労働者は奴隷状態でした。彼らは労働組合や労働争議、選挙を通じて権利を獲得してきました。教育利権の為に搾取される学生達はどうでしょうか。もし、自分が知識階級であり、尚且つ、生活が貧しいと考えるなら行動をするべきでしょう。高齢化し貧困化した知識人ほど惨めな存在はありません。5年後の日本は高齢化による年金医療問題により貴方達はもっと惨めになるでしょう。商品価値のない人間はいらないというのが確定した日本の未来です。そんな未来を変更するなら自分で決断して行動してください。軍隊における補給問題は知識人への生活費や社会における知的情報の供給という意味があります。知識人が貧しいのは知的でないか、知的を活かす場と繋がっていないか、のどちらかです。良い商品があっても市場に出せなければ意味がありません。
関連コラム:ロシアのエネルギー危機が核戦争を誘発するか?

鉄道全盛時代のモルトケ戦略

時は経て、19紀後半のプロイセンの参謀総長モルトケの時代に移る。この時代には、ナポレオン時代にはなかった鉄道というものが、軍事史にようやく登場することになる。モルトケは,鉄道を活用し,主戦場に迅速に大量の兵士を投入できる仕組みを作ったことでドイツ史にその名を残している。1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争に勝利し、モルトケはドイツ各地の諸邦をプロイセンの主導するドイツ帝国に統一した。

鉄道の利用により、軍隊と食料を戦線に迅速に送ることができた結果、ドイツ軍は勝利を獲得することができたというのが歴史の通説である。しかし、著者のマーチン・ファン・クレフェルトは兵站という意味において、当時のプロイセン軍の鉄道はほとんど機能していなかったと断言している。例えば、補給戦の中に次のような記述がある。

1866年戦役中での鉄道利用は、成功したとはとても言えないであろう。確かに動員はスムーズに進んだ。すなはち21日間の間に、兵員19万7千人、馬5万5千頭、あらゆる種類の車両5300台が展開され、この時期にモルトケを訪問したある士官は、モルトケがソファーに寝転んで読書しているのを見たという。しかしながら、その後に続いた鉄道作戦は決して満足すべきものではなかった。この時初めて明らかになったのは、兵站駅に補給物資を送るよりも、そこから前線の軍隊に補給物資を送る方が、はるかに難しいということだった。

全体の補給担当者が鉄道管理をうまくできなかったようだ。兵站駅から前線までの物資補給がうまくいかなかったので、各軍団の補給将校が兵站駅に物資を求めて突進してくるのが当たり前のような状態になり、兵站駅は常に混乱していたようである。そのため、鉄道に物資を積み込み、前線近くの兵站駅に送ろうとしても、途中で停止し、1万7920トンもの補給物資が線路上で立ち塞がりになり、そのうちパンもかいばも腐り、牛は栄養不足で倒れていったという。兵站システムに鉄道を使用するというアイデアは良かったのだが、それをうまく活用するだけの訓練がプロイセン軍はしていなかったということだ。

それでは、4年後に行われた普仏戦争では、プロイセン軍の兵站問題は解決されていたのであろうか。著者のマーチン・ファン・クレフェルトによると、補給面において、プロイセン軍の進歩はほとんどなかったいう。1870-1871年のドイツの全作戦(普仏戦争)は、結局のところ対戦国のフランスがヨーロッパ中、最も豊かな農業であること、そして戦争が1年のうちで条件のよいシーズンに開始されたからこそ可能になったのである。

つまり、どういう事かと言えば、モルトケの時代には、十分に鉄道が発達していたと言っても、プロイセン軍がフランスと戦争を行うことができたのは、フランスが農業国で食料が十分にあり、そこで現地調達をすることができたからというのが現実だったようだ。プロイセン軍の第二軍兵站官が、「敵国では本国にいる時のように物を節約する必要はない」と言っているほど、プロイセンとフランスで食料供給量は異なっていたのだ。

よって、プロイセン軍は結局のところ、食料をフランスで現地調達しなければいけなかったので、昔の軍隊と同様に常に移動しなければならなかったのである。ナポレオンが補給の問題から、包囲戦をできなかったことは既に紹介したが、兵站であくせくしなければいけない軍隊は常に食料を求めて移動しつづけなければいけないので、一カ所に止まる事はできないでのある。

普仏戦争で、プロイセン軍がフランスを包囲した時にこの問題が起こった。包囲戦が長期化したので、包囲している側の食料が底をついたのである。パリ包囲の場合は2ヶ月間にわたって、実質的に軍隊の軍事機能を停止させ、そのかわりに各部隊に命じて自分の食料を探させることが必要だった。

軍隊を食料生産手段として展開させたのは、著者の知識によれば、1789年以来軍事史上類のないことであり、もしナポレオンが生きていたらびっくり仰天しただろう。(略) モルトケの軍隊は移動の間だけ食を手に入れることができたこと、一カ所に数日間以上留まると大きな困難が生じたこと、モルトケの手中に軍事機構は結局のところ近代的ではなかったのである。

プロイセン陸軍の兵站制度の欠点は著書の中で取り上げられている。主なところは以下に抜粋してみよう。

1. 鉄道守備隊は武装が十分でなく、自分を守ることができなかった。

2. 進軍の規律は弛緩しており、車両の整備はあまりに不十分だった。

3. 鉄道と軍隊の補給に余り関係がなく、野戦官は列車の所在に無関心だった。

4. 弾薬の消費量が少なかったため、列車の補給がなくても問題が起こらなかった。

5. 鉄道そのものに問題があった。

6. 兵站駅が軍隊の進撃に歩調を合わせることができなかった。

7. 兵站駅から前線まで補給物資を移動させることができなかった。

結局、モルトケの兵站制度における鉄道の利用は、兵站制度が歩兵の足から、車輪に移すその最初の発端となった点が画期的だったのであり、それ以上の意味をこの時点では持ち得なかったということになる。


壮大な計画と貧弱な輸送と

第一次世界大戦において実行されたシュリーフェン作戦を、著者、マーチン・ファン・クレフェルトは兵站面において非常に杜撰な作戦であっと位置づけている。さらに著者は、このシュリーフェン作戦を補給の面から、改善を行ったのが、小モルトケであったと指摘している。しかし、この主張は間接アプローチを書いたリデルハートの意見とはまっこうから反対するものである。小モルトケによって、シュリーフェン作戦が骨抜きにされた結果、ドイツ軍は短期間にフランスを降伏させることができなかったというのがリデルハートの主張だからだ。史実はどうだったのであろうか? 

france2

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それでは、シュリーフェン作戦について簡単に説明しよう。第一次世界大戦当時のヨーロッパの情勢を知りたい方は以下のコラムを参考にして頂きたい。第一次世界大戦の特異点  

第一次世界大戦前にドイツの参謀総長であったシュリーフェンは、フランスとロシアを個別撃破するために、まず注目したのは、ドイツ国内の鉄道網である。これによって大量の兵士と物資を国内で輸送することが可能となった。まず、初戦で大量の兵士と物資を西部戦線に投入して、フランスを降伏させ、その後、鉄道網を使用する事で、迅速に東部戦線に向かい、ロシア軍を撃退するという作戦をシュリーフェンは描いていた。迅速に西部戦線のフランスを攻略することで、ドイツにとって悪夢であったフランスとロシアの2正面作戦を回避しようというのが、この作戦の趣旨である。

まとめると、シュリーフェン作戦の概要は次のようになる。

①ドイツ軍の全兵力の8分の1で東部のロシア軍に備え、残る8分の7の兵力で西部のフランスを強襲する。

②フランスを撃破するための期間は6週間を目標とする。

③短期間にフランス軍を撃破するために、カンネーの戦いを参考して、ドイツ軍右翼に、72個師団のうち、53師団を割り当てる。

④フランスを撃破した後は、迅速にロシアとの東部戦線に割り当てる。

この作戦を小モルトケは、右翼軍は西部戦線の全兵力の8分の7を持つものとされていたのを、3対1へと改め、また東部戦線にロシア軍が進出すると、右翼軍からそうそうに2個軍団を引き抜いてしまった。この小モルトケによる作戦変更により、シュリーフェンプランは本来の計画の徹底性を失ったまま遂行される。その後、ドイツ軍はベルギー領を通過して、英仏軍を撃破した後、フランス領に進出する所までは計画通り良かったが、9月6日-9日にかけて戦われたマルムの会戦で前進を阻止され、西部戦線は膠着状態のまま、長期化することになったのである。

それでは、シュリーフェン作戦が原案通りに実行された場合、ドイツ軍はフランス軍を短期間に打ち破ることができたろうのであろうか? まず、ドイツ軍の右翼は短時間の間に、長距離を行軍しなければならない。作戦期間は6週間(42日間)、行軍距離は400マイルである。さらに、そのような大規模な軍隊への食料を現地調達で確保することができたのかどうかという疑問が残る。食料が現地調達できなければ、ドイツ軍はドイツ国内から輸送する物資を安全に前線に運ぶためにベルギー、フランスにおける鉄道網を爆破されないように死守しなければいけない。 物資補給の観点から、この2つの問題を解決しなければシュリーフェン作戦は成功しなかったことになる。

第一次世界大戦当時において、一箇軍団に期待できる最大の進撃速度は15マイルであったと言われている。そこで、シュリーフェンは25日間でセーヌ川に到達するように命令していたいう。25×15=375マイルとなり、全く休息をせず進軍を続けても、最右翼の第一軍は25日間で、セーヌ川にまで到達することができない計算になる。さらに、途中でベルギー軍、フランス軍との間で戦闘が開始されれば、到着日時はさらに遅れることになるのだ。すさまじい速度でドイツ軍の最右翼は進撃しなければいけないので、敵軍と対峙しても疲労のために相手と戦闘することさえできなかったかもしれない。

シュリーフェンは作戦を実行する上で、物資の補給について感心をほとんど示さなかったようだ。ベルギー国内の鉄道網は無数のトンネル、鉄橋、立体交差点から成り立っており、爆破するのは簡単だったのだが、それらが爆破されないという希望的観測の基にシュリーフェン作戦は立案されていたのである。よって、シュリーフェン作戦においては、補給線を維持する部隊に武器を与えることは考えられていたなかったし、ベルギーの鉄道線が爆破された場合に、それを回復するために、ドイツ民間会社を動員することも考慮する事もしなかったという。よって、シュリーフェン作戦が成功するかどうかは、ドイツ軍の最右翼の非常なまでの努力と、ベルギー、フランス国内の鉄道網が敵軍によって爆破されないという幸運と、爆破された場合でもドイツ軍が現地で大量の食料を確保できるという奇跡が重ならなければ成功しなかったであろう。

ナポレオンの時代には軍隊が第一次世界大戦時と比較して、小規模であったことから、本国からの物資の輸送が十分ではなくても、現地調達を繰り返すことで、シュリーフェン作戦は実行可能であったかもしれない。第一次世界大戦以後においても、自動車輸送部隊が活躍することから、鉄道が破壊されても軍隊への物資の補給はかなりの面で解決されたに違いない。しかし、この第一次世界大戦において、このシュリーフェン作戦を実行するのは兵站システムの問題から、実行不可能であったと言うのが、補給戦の著者の結論である。おそらくそうであったのだろうと個人的にも考えている。

しかし、シュリーフェン作戦が意外な功を奏したのは第一次世界大戦ではなくて、第二次世界大戦であっというのが歴史の面白いところである。第二次世界において、ベルギー軍はシュリーフェン作戦の亡霊に取り憑かれるあまり、ベルギーがドイツに占領された場合でも相手の補給システムを麻痺させるために、国内の鉄道網に大量の爆薬をしかけていたのであるが、ドイツ軍の主力はアルデンヌの森を越えたのである。ベルギーだけではなく、フランスまでもがドイツの電撃戦の前になす術が全くなく、1ヶ月程度で降伏することになった。第二次世界大戦のヨーロッパ戦に興味のある方は、 第二次世界大戦の間接アプローチ をご参照いただきたい。




2008年8月28日

知識人の補給戦(1)

連山編集部


出典:算術する革命家
◆大学院生倍増計画 大学院生が増えた背景には、大学院生の数を倍にすべきとした1991年の大学審議会の答申がある。大学院を新設する大学への補助金が増額され、大学院が作られた。91年時点で320だった大学院の数は、昨年5月には598に。院生も約10万人から約26万人に増加した。
出典:末は博士も就職難
1. 大学院重点化で量産された博士
余剰博士問題が深刻化した原因を作ったのは、文部科学省の大学院重点化政策である。1996年に大学審議会は、「大学院の一層の量的な拡大が求められる中で,質的な面での抜本的な充実と改革が必要となっている」[文部科学省:大学院の教育研究の質的向上に関する審議のまとめ] と大学院重点化の理念を語ったが、量的拡大を行った結果、質が大幅に低下したというのが現実である。略
もちろん、本音と建前は別である。法科大学院設立の表向きの理由はプロセス重視の法曹養成である。従来の司法試験は一発勝負の性格が強く、受験生は、受験技術の詰め込みに走る傾向があったが、法曹には、専門的な法律知識の他、高い倫理や教養も求められるので、真に優秀な法曹を育てるには、全人的な接触のなかで、対話重視・プロセス重視の教育を行う必要があるというわけである。略
4. プロセス重視だと茶坊主が有利になる
プロセス重視の教育で、子供たちは勉強しなくなり、代わりに、教師に対して「良い子」を演じるのがうまくなった。略
出典:末は博士かホームレスか

産業革命時代、労働者は奴隷状態でした。彼らは労働組合や労働争議、選挙を通じて権利を獲得してきました。教育利権の為に搾取される学生達はどうでしょうか。もし、自分が知識階級であり、尚且つ、生活が貧しいと考えるなら行動をするべきでしょう。高齢化し貧窮化した知識人ほど惨めな存在はありません。5年後の日本は高齢化による年金医療問題により貴方達はもっと惨めになるでしょう。商品価値のない人間はいらないというのが確定した日本の未来です。そんな未来を変更するなら自分で決断して行動してください。軍隊における補給問題は知識人への生活費や社会における知的情報の供給という意味があります。知識人が貧しいのは知的でないか、知的を活かす場と繋がっていないか、のどちらかです。良い商品があっても市場に出せなければ意味がありません。

序文

補給戦―何が勝敗を決定するのかを読んだ。それにしても興味深い一冊である。戦争を実行する上で、まず、戦争当事者が考えなければいけないことがある。それは物資の補給(兵站)である。戦争をするには、まず航空機や戦車や動かすガソリンが必要だし、兵士に供給する大量の食料が必要だ。武器も弾薬もなければ敵と戦うことができない。つまり、物資の補給がなければどんなに素晴しい戦略を打ち立てても実行することができないのだ。当たり前のことを言うなと苦言を呈する人もいるに違いない。しかし、しばしば戦争当事者であっても、この至極当然のことを忘れてしまいがちなのだから、恐ろしいものだ。

戦争と石油(8)


例えば、日本は資源が無いというハンデを負いながら、今から60年以上前にアメリカと太平洋戦争を開始した。資源がない日本は、戦争を継続させるために必要な石油も石炭もボーキサイトもスズも食料も東南アジアの資源地帯から輸入でまかなっていた。しかし、この日本と東南アジアを結ぶ長大なシーレーンを行き来していた補給船を守るために、日本海軍が護衛艦隊を創設したのは、戦争を開始してから、すでに2年(1943年11月)が経過した後だったのだ。念願の護衛艦隊が創設されたものの、もう時は既に遅く、日本の護衛艦隊は数、能力ともに飛躍的性能の向上を遂げて来たアメリカ潜水艦隊の敵ではなかったのだ。そして、物資が極端にまで不足し、国民生活の維持と戦争の継続ができなくなった1944年夏に東条英機内閣は瓦解したのである。物資補給という戦争当時者が最優先で考えなければいけないことが軽視していた好例であると言える。

補給戦の著者、マーチン・ファン・クレフェルトは兵站術を19世紀の軍事理論家ジョミニの定義から総合して、「軍隊を動かし、かつ軍隊に補給する実際的方法」と位置づけている。そして、司令官がまず戦争をするに当たってまず最初にすべきことを次のように指摘している。なかなかの至言である。

司令官が作戦行動とか戦闘発起、前進、浸透、包囲、殲滅、消耗など、要するに長々と続く全戦略の実行を頭に描き始める以前に、彼にはしなければならないし当然すべき事柄がある。それは麾下の兵卒に対して、それなくしては兵として生きられない一日あたり3000キロカロリーを補給できるかどうか、自分の才能を確かめることである。すなわちそれらの食料を正しい時間に正しい場所に送る道があるかどうか、また、これらの道路上での移動が、輸送手段の不足あるいは過剰によって妨げられることがないかどうかを確かめなければならない。

つまり、司令官の仕事とはまず第一に兵士に飯を食わせることができるかどうかということだ。それができなければ、どんなに素晴しい戦略も絵に描いた餅でしかない。補給戦の著者、マーチン・ファン・クレフェルトは、兵站の問題が技術や組織あるいは他の関係諸要因の変化によって、歴史的にどのような影響を受けたのか、また兵站術が戦略にどのような影響を与えたのかを明らかにしていく。本著を読みながら、物資補給の観点から戦争というものを改めて考えてみよう。

16-17世紀の略奪戦争

16-17世紀に行われた戦争の特徴を著者、マーチン・ファン・クレフェルトは「略奪戦争」と定義している。なぜ、戦争してまで、相手国から略奪しなければいけないのか、それは物資が無いから相手から奪うしか方法がなかったのだ。つまり生産体制が十分でないから貧乏だったのである。この時代の戦争を永井俊哉氏はディスインフレ型として位置づけているので、参考までにご確認いただきたい。

ディスインフレ型の戦争では、使用火薬量に対する戦死者数の割合が高い。資源の獲得が目的であるから、敵が所有していた資源(土地を含む)を戦利品として略奪することが頻発し、かつ容認されている。捕虜は、戦勝者のために資源を生産する奴隷として使役されたり、それができない場合には殺されたりすることが多い。

この時代の戦争は、相手から物資を奪うために戦争をするのであるから、こちら側にも当然、物資がないわけである。では、どうやって、戦争をするのっていったら、略奪しながら戦争をするということになる。そして、1つの場所で略奪を終えたら、次の場所に行って、また略奪を行うことになる。当時の軍隊は中国などで、頻繁に発生するイナゴの大群のようなものだったと考えればイメージ通りなのではないかと思う。民衆にとって、軍隊ほどやっかい存在はなかったであろう。マーチン・ファン・クレフェルトも著書の中で、当時の軍隊は、恐らく史上において最も補給が劣悪で、武装したならず者の略奪集団が、通る道々の田野を荒廃させることになったと指摘している。

このような状況だったので、当時の兵站制度が戦略に及ぼした影響と言うのは、常に移動しなければいけないということだった。胃袋の命じるままに物資がありそうな移動し続けることが当時の軍隊の行動パターンだったのである。さらに、兵站という観点から、軍隊の行動に影響を及ぼしたことがことがある。これは、河川の流れに沿って、行軍するというものだ。どういうことかというと、略奪した物資を輸送する場合、地上で行うよりも河川に船を浮かべて運ぶ方がずっと簡単だったのである。どれくらい河川沿いの輸送の方が楽だったのかは計算例が記載されてあるので参考にして頂きたい。

17世紀の軍事技術家として一流だった人の計算によれば、200トンの小麦粉と600トンの飼料を詰め込むのにたった9隻の船で足りたが、陸上だと200トンの小麦粉を運ぶだけで、600台もの荷馬車が必要だとしている。(重量単位のラストをトンに変換して記載しているので注意)

さらに、当時の戦争風景として面白い実例が挙げられている。食料を現地調達するとしても、それがコンビニエンスストアのように完成品が存在しているわけではない。その多くは原材料のままなのだ。キュウリやトマトなどの野菜はそのまま食べることができるので問題がないが、小麦などはどうしたのだろうか?

人馬に必要な食料のごく一部しか、完成品の形で手に入らなかったために、一カ所に長く駐留する軍隊は、必然的に食料生産機械と化した。穀物をひき、材木を集め、パンを焼き、かいばを刈ったのである。それらの作業は、数日おきごとに規則的に行わなければならなかったから、軍隊の通常の機能がいかに損なわれたかは明らかである。兵站のために、一軍の戦闘機能が全期間実質的に停止することが、実際に起こりえたのだ。

16-17世紀の長引く戦争において、ヨーロッパが疲弊したというのは、軍隊同士の激しい応酬の結果というよりは、軍隊の移動によって、多くの物資が現地調達されたので、民衆が食料不足に陥ったというのがどうやら実情のようだ。明日の食料も一から自分たちで製造しなければいけないのだから、相手の軍隊に打ち勝つための戦略・戦術も二の次でしかなかったということがよくわかる。よって、食料も十分に確保できなかったことから、戦争に必要な弾薬もほとんど使用されなかったのだそうだ。弾薬が十分に使用される戦争は1870年の普仏戦争まで待たなければいけない。

軍事の天才ナポレオンと補給

時代は18世紀の後半に移る。この時代にかの有名なナポレオンがヨーロッパに登場することになる。軍事の天才ナポレオンは兵站問題をどのように解決したのだろうか!?

今日は何の日?徒然日記

ここで、少し話しはそれるのが、戦争には包囲戦というものがある。日本では一般的に、兵糧攻めと呼ばれるのだが、これは豊臣秀吉が最も得意としていた戦法で、北条氏に対する小田原城攻めが最も有名である。しかし、16-17世紀のヨーロッパの戦争では、基本的にこの包囲戦というものはほとんど採用されることはなかった。なぜかというと、包囲戦というのは、兵糧攻めというだけあって、相手の食料がなくなるまでの我慢比べなのである。よって、包囲戦は時間がかかってしまうし、この当時の軍隊は食料はほとんど現地調達していたのだから、常に移動し続けなければならないのだ。結論として、包囲戦をしたいのであれば、本国からの常に補給を受け続ける事が前提となるのである。ナポレオンはこの包囲戦というものをどのように解決したのであろうか。

ナポレオンは、その生存中、包囲戦を行ったのは、たったの2回に過ぎず、イタリアのマントゥア包囲で軍隊を補給した際の彼の経験によれば、包囲戦での兵站上の問題を解決するのは、ボナパルトにとってさえ決して容易なことではなかった。

つまり、ナポレオンは補給の問題が解決不可能な包囲戦などは行わず、常に野戦で相手の軍隊を撃滅できる戦略を編み出したのである。ここらへんの割り切り方が、天才の天才の所以といえるかもしれない。

アウステルリッツ三帝会戦


ナポレオン戦争において、最も芸術的だと呼ばれたのはアウステルリッツの戦いである。これは、オーストリアのアウステルリッツ郊外で、ナポレオン率いるフランス軍が、オーストリア・ロシア連合軍を破った戦いのだが、一般的にはプラツェン高地をどれだけ完璧な方法で、フランス軍がオーストリア・ロシア連合軍から奪取して、敗退させたのかということが、注目を集める。アウステルリッツの戦いがどのような戦いであったのかということは、wikipediaに詳細に記載されているので、興味のある方はそちらをご確認いただきたい。ナポレオンはわざと自軍の右翼を薄くして、ロシアのアレクサンドル1世がプラツェン高地を捨てて、ダヴーを攻撃させるという罠をしかけている。これはナポレオンの戦略が素晴しかったというのが定説である。しかし、著者、マーチン・ファン・クレフェルトは、次のような面白い説明をしている。

ナポレオンにとって、幸いなことには、敵の同盟軍の補給はいっそう悪く、遂に崩壊を覚悟して「大陸軍」に対し攻撃をかけざるをえなくなった。その結果戦闘が行われた。そしてブローニュからアウステルリッツに至る「電撃戦」は終わったのである。

つまり、こういうことだ。ナポレオンの大陸軍より、オーストリア・ロシア連合軍の方がアウステルリッツの戦いにおいて、腹が減っていたのである。日本にも、「腹が減っては戦ができぬ」という素晴しい名言がある。腹が減った連合軍は、部隊が崩壊する前に一時も早くフランス軍に勝利しなければいけなかったのである。総指揮官であるロシアのクトゥーゾフ元帥は、プラッツェン高地を空白にする事に難色を示したが勝利を確信していたアレクサンドルⅠ世は聞き入れなかったという。腹が満たされていればもう少し冷静な判断もできたかもしれないと思うと歴史を見る視点も少し変わって来るのが面白い。しかし、兵站システムの点のみで、天才が天才と言われる所以を説明できないのは当り前のことだが一応指摘しておく。

それでは、兵站制度において、ナポレオンの大陸軍はオーストリア・ロシア連合軍よりも画期的なシステムを採用していたのだろうか? 残念ながら、ナポレオンはメモを取る習慣が無かったので、ほとんど資料は残っていないという。しかし、次のような命令書が残っていることから、基本的に食料は現地調達で、軍団長の責任だったようである。

ライン川から、ドナウ川までの前進の間、補給についてのほとんどの問題は、必然的に各軍団長の責任となっており、ナポレオン自身は部下を叱責するか、あるいは必需品を即席で作れとか、他の物で代替せよとか、「いかなる手段を用いても」軍に食料を確保せよとかの訓戒を垂れる以外には、ほとんど何も力を貸す事はできなかった。しかし、このような兵站制度の危険をナポレオンも十分に理解しており、ウルムの戦いを経て、アウステルリッツ戦いに至るまでは、積極的に軍需品倉庫を作るように命令し、そこに軍隊の18日間を養うことができる食料を集積できるように絶え間ない努力をしたようだ。このように、天才と呼ばれるナポレオンが軍隊への補給に対して、血のにじむような苦心をしても、ウィーンには入る前のフランス軍への物資はほとんど底をついていたみたいだ。軍需物資の確保は本当に命がけである。

The Downfall of Napoleon's Empire 1810 - 1814

Napoleon I: statistical map of Russian campaign


次に、ナポレオン戦争の転換点となった、1812年のロシア遠征について見てみよう。ナポレオンが率いるフランス軍が、1812年6月23日に、ネマン川を越えて、ロシア領ポーランドへの進軍を開始した時の兵力はおよそ47万5千人、同年12月10日、ネマン川をこえて、ロシア領から帰還したときの兵数はわずか5千であったと言われる。

完全なフランス軍の敗北である。ナポレオンはアウステルリッツの戦いと比較しても十分な物資を用意した後に、ロシア遠征を開始している。ナポレオンがロシアに持っていた食料は24日分であったという。この内、20日分は補給部隊によって運ばれ、残りの4日分は兵士の背中で運ばれた。この24日分というのが、ロシア遠征前に準備できる最大限の物量だったと言われている。このことから、ナポレオンはおよそ3週間で相手軍を撃滅した後、降伏させる計画を立案していた。

Napoleon's Moscow Campaign: 1812

ものすごい速度でモスクワまで進撃するフランス軍に対して、ロシア側がとった作戦は持久戦である。フランス軍に対して、兵力が十分でなかったということもあり、畑などを焼払いながら、撤退し続けたのである。このことによって、フランス軍は食料を現地調達することはほとんど不可能になってしまった。8月16日にスモンレスクで戦いが行われた際には、飢えと疲労で、フランス軍は15万人程度にまで激減していた。食料が3週間分しか持ってきていなかったのだから、この戦いの時には、ほとんど飲まず食わずで行軍していたであろうことが想像できる。9月7日、首都防衛のために、モスクワ郊外のボロジノというところで、会戦が行われる。ロシア軍はあえなく敗れ、首都を放棄して撤退する。よって、9月14日に、フランス軍は念願のモスクワ入場を果たしたのである。

しかし、モスクワに入場しても、モスクワの街は大きな火災が起こり、食料や軍事物資を十分に補給することはできなくなった。しかも、モスクワを退去したロシア皇帝に降伏勧告書を送付するも相手は無視を続けたのである。モスクワ入場から1ヶ月が経ち、食料補給の観点から限界に達していたナポレオンは撤退か、相手に再度戦いを挑むのかを決断しなければならなかった。ナポレオンが選択したのは撤退である。なぜなら、初雪が降り始めたからである。このままモスクワにいれば、全軍が飢えと凍死で全滅してしまうからだ。しかし、これに対して怒濤の追撃戦をロシア軍は開始した。寒さと飢えとロシア軍の攻撃で、フランス軍はさらに激減して行き、ロシア領から帰還できたのはたった5千名しかいなかったのである。

現地で食料補給もできず、相手の軍隊を撃滅して降伏させることもできなかったのだから、ナポレオンはボロジノの会戦が終わった段階で、すぐにフランスに帰還すべきだっただろう。なぜなら、モスクワに残ってもフランス軍を待ち構えているのは餓死でしかないのだから。この決断ができなかったことが、ナポレオンのモスクワ遠征の敗因であったように思う。


重要関連 知識人の補給戦(2)に続く

2008年8月15日

ゲリラ戦と軍事における革命


ゲリラ戦争


リデルハートは「戦略論-間接的アプローチ」の最終章において、ゲリラ戦争を取り上げている。最も顕著なゲリラ戦の実例としては、ナポレオン軍に対するスペイン民衆の抵抗が有名であるが、第二次世界大戦以後においても、「平和を欲する者は戦争を理解せよ、特にゲリラ形式及び内部撹乱形式の戦争を理解することが重要」とリデルハートは繰り返し強調している。リデルハートがゲリラ戦争を強調する理由は原子爆弾が第二次世界大戦において登場したからである。原子爆弾の登場以前とそれ以後において、戦争のそれ自体に対してどのような変化を及ぼしたのかということを我々は学ばなければならない。

「原子力は、破壊を「自殺行為」の極点にまで高めることによって、戦略の神髄である間接的方法への復帰を刺激し、促進する。そのわけは、間接的方法は、戦争を野蛮な暴力の使用よりも高尚なものに高めるところの知性の資質を戦争そのものに付与するものであるからである。そのような「間接的アプローチ」への復帰の徴候は大戦略が欠如していたとはいえ、第一次世界大戦におけるよりも戦略がより大きな役割を果たした第二次大戦において既に明らかに看取されていた。今や、原子の抑止力は、分かり切った線に沿っての直接行動を抑止する効果を発揮しているため、それは却って侵略側の戦略の巧妙化を助長する結果を招いている。こうして、この原子抑止力の開発は、その開発の進展と同じ態度にわが方における「戦略の力」に対する理解が進む事を条件として行わなければならないことが非常に重要になってくる。戦略の歴史は、根本的に見て、間接的アプローチの適用及びその発展の記録である。(戦略論-間接アプローチ)」

長崎への原子爆弾投下

太平洋戦争末期の1945年に日本の広島市と長崎市に2発の原子爆弾が投下された。その原子爆弾の威力が今までの通常兵器と比較して、余りにも無差別でかつ、残虐的に、大量の人間を殺戮してしまうので、第二次大戦後は、兵器としての意味を逆に持ち得ず、戦争の抑止力としての効果しか果たす事はなかった。第二次世界大戦において、世界史に初めて登場した原子爆弾の存在は、第一次世界大戦の西部戦線における塹壕戦と類似していると言えるであろう。当時の西部戦線には、延々と何百kmにわたる鉄条網と塹壕陣地が出来上がり、そこに据え付けられた機関銃の威力によって、ドイツ軍、フランス軍双方のいかなる攻撃突破も片っ端から挫折させてしまったのである。1914年9月にベルギーを突破したドイツ軍が、マルヌ河畔でフランス軍と戦って、シュリーフェン作戦に失敗した後、4年間に亘る塹壕戦が展開されることになった。戦線は数万の人名を犠牲にしても、数十mぐらいしか動かせない有様だったという。この絶望的な膠着状態から脱出する新兵器として、第一次世界大戦末期に登場したのが戦車であった。機関銃の弾丸を全て跳ね返すという特徴を持つ戦車の存在によって、西部戦線において、遂に幾ばくかの機動性が確保されたということになる。一方で、戦争の抑止力として登場した原子爆弾に対して、戦争の機動性を確保するために注目されるようになったのが、ゲリラ戦ということになる。

「ゲリラ戦を抑制するために核兵器使用の脅威をほのめかすことは、蚊の大群を大鉄槌で追い払おうとする話しのように道理に合わない。そういう政策は意味がないことで、その当然の結果は、対抗手段として核兵器を使用できない侵蝕による侵略様式の生起を刺激し助長する事であった。(戦略論-間接アプローチ)」

ゲリラ戦を仕掛けて来る相手に対して、核爆弾を投下するという行為は余りに度が過ぎているため、この時点で核の戦争抑止力としての効果は無効化されたということになる。しかし、ここで、1つ大きな疑問が生じる。ゲリラ戦によって、戦争は第二次世界大戦における「電撃戦」のごとく、機動性を取り戻したと言っても、戦力的に劣っているゲリラ兵が正規兵に勝つ事は果たして可能なのかということだ。筆者は以前から兵器技術によって圧倒的に優越したアメリカ軍が、圧倒的技術に劣ったベトナムのゲリラ兵に敗北したのかが不思議で仕方がなかったのだが、実はこのゲリラ戦というのはアメリカ軍の弱点をついた非情に巧妙な戦い方なのだ。軍事革命(中村好寿著)によると、アメリカ軍の弱点は主に以下の3つが存在するという。

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アメリカ軍の弱点

1. 戦闘による死傷者の発生や民間施設の破壊に対する極度の嫌悪感

2. 国内および国際世論に対する敏感さ

3. 長期戦に戦う用意も意志もない

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これらのアメリカ軍の弱点を踏まえて、ベトナムのゲリラ兵が取った作戦は「ヒット・アンド・ラン」方式である。ベトナムのゲリラ兵はアメリカ軍の爆撃を長距離火力が威力を発揮する前に、部隊を集結し、展開し、攻撃をかけ、急いで撤退することを繰り返した。忍耐強く時間をかけて、相手に出血を強いる戦い方である。ベトナム戦争において、長期戦に持ち込まれたアメリカは結局、当初の目的を果たす事なく、屈辱的な敗退をすることになった。

しかし、ゲリラ戦が戦争の主流となることはないとリデルハートは指摘している。ゲリラ戦は大国に対する弱者の戦略としては非情に有効であるが、一度その戦法が採用されてしまうと、若い世代を中心に大国に対する闘争を通じて、一般的な公衆道徳の規範を破る事を学び、「法及び秩序」の軽視を生じ、その行動は戦争が終わった後でも継続して行われるので、それらの国が国家を再建し、安定状態をもたらすことは非情に困難であるためだ。

軍事における革命と間接アプローチ理論

今までは、リデルハートの戦略論に基づいて、間接アプローチ理論を学んできたが、21世紀において間接アプローチ理論はどのように発展するのであろうか? ここからはリデルハートの「戦略論」以後の話しであるから、現在を生きる我々自身が考えなければいけないのだが、軍事革命 (中村好寿著)によると、情報化社会の到来によって、軍事分野においても革命的な変化(軍事革命)が起きたという。軍事革命が起きる条件としては、

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軍事革命が起きる条件

1. 革命的な兵器が登場し、その兵器の影響を受けて、軍隊の運用法や編成・組織にも大きな変化が起こった場合

2. 軍隊の運用法や編成・組織における革新が「軍事革命」をもたらした場合

3. 社会の生産様式が変化し、その影響が軍事分野に及んで起こった大変化で、戦いの性格を変えた場合

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1の例としては、核兵器の登場によって、「抑止戦略」といわれる軍隊の運用法と軍隊組織が生み出されたことが挙げられる。2の例としては、グーデリアンによる電撃戦が有名である。そして、3の事例として、産業革命を挙げることができる。産業革命によって、大量生産が可能となり、工業型の「軍事革命」が生み出されたのである。今回、情報化社会の到来によって引き起こされる軍事革命はこの3に分類されることになる。

「工業化時代の戦争では、相手国の「軍隊の撃破」が戦争の目標として追求されてきた。軍隊を撃破すれば、国民や領土を、攻撃側は自動的に手中に収めることができるし、反対に防御側は、撃破に成功すれば、相手国の手に落ちる事を拒否する事ができるからである。しかし、情報化社会における戦争では、「軍隊の撃破」ではなく、非軍事目標を攻撃して、相手国の国家機能を麻痺させることが追求されるであろう。軍事革命(中村好寿著)」

21世紀の軍事革命は間接アプローチ理論の延長上にあると言えるであろう。なぜなら、戦争の目標は相手国の陸海空軍を撃滅させることではなく、相手の国家機能を麻痺させた後、情報革命によって編成・訓練された軍隊によってその国を征服してしまうことなのである。例えば、この本には日本が情報革命によって組織化された国に攻撃された場合を次のように想定している。軍事革命軍(RMA軍)の政府が開戦を日本に決意した場合、兜町の証券取引所や、東京駅の輸送指令センター、さらにKDDIやNTTの中継所といった目標に対して、同時にサイバー攻撃をかけて、日本の金融機能、交通機能、情報・通信機能を麻痺させて大混乱に陥れるというものである。

21世紀の軍事革命軍の戦い方は、第一次世界大戦で戦車と急降下爆撃機を一体にして、運用しかつ戦車部隊と自動車化歩兵部隊からなる新組織、機甲師団を編成して、敵の指揮・統制機能を麻痺させる戦闘教義を開発したドイツの電撃戦を連想させる。今世紀は情報革命によって誕生した新たなサイバー攻撃という間接アプローチが戦闘方式の主流となるというのだ。情報化社会の軍事指導者は、敵国を次のような5つの組織が有機的に結びついた組織体として捉えると中村好寿氏は指摘する。

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国家を構成する5つの有機的組織

1. 政府機関のような国家指導組織

2. 食料、資金、電力、天然資源といった、国家のエネルギー組織

3. 交通、通信、教育、製造施設といったインフラストラクチャー組織

4. 敵愾心や絶望感を生む住民組織

5. 打撃に対して対応力のある軍事組織

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国家をこれらの有機的な組織体と捉えるならば、情報化社会の軍事指導者はこれらの5つの組織のうち、戦争目的に直接的に影響を及ぼしかつ、もっとも脆弱な組織に打撃を加えようとする。リデルハートは積極面第4ヶ条:最小抵抗線を乗ぜよという金言がここで適用されることになる。例えば、戦争の指導の役割を担っている国家指導組織の情報システムが完全に敵軍のサイバー攻撃によって遮断された場合、その機能は無能化し、一気に大混乱状態の陥ることになる。それに迅速に移動して来た軍事革命軍(RMA軍)によって、国家の主要地域が制圧された場合、戦わずして敗北を喫することになるであろう。第二次世界大戦において、ドイツの電撃戦によって、予想外の短期間で降伏することになったポーランド、ベルギー、フランスの敗北が、今世紀においても再現されることになるに違いない。リデルハートの「戦略論-間接アプローチ」を学ぶことは、現在においても、ある一定の知識層の人間にとって必要不可欠であると私は考える。

明後日、平成20年8月17日は、→ 『水素文明の夜明け』の発売会(橘みゆき in 東京ビッグサイト)

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2008年8月13日

交通の遮断と戦略及び戦術の神髄


交通線の遮断


太平洋戦争において、対米戦争を決意した大日本帝国は民族の「自存自衛」を東南アジアからの海上輸送 (石油、石炭、ボーキサイトなどの資源輸送)に依存していた。よって、この東南アジアと日本を結ぶ海上シーレーンは日本の生命線となっていたのだが、アメリカは日米開戦後すぐに、「無制限潜水艦作戦」を発動し、日本の輸送船をことごとく沈める作戦を取った。この海上シーレーンという生命線の命脈が途絶えた1945年8月に大日本帝国はポツダム宣言を受諾し、連合軍に降伏した。

海上における交通線の破壊は主に潜水艦隊によって行われたが、リデルハートは陸上における交通線の破壊を機械化部隊に期待した。補給の流れを阻止するために、路線を爆破するのみではなく、列車及びトラック輸送団に対する迎撃や迎撃の脅威が機械化師団の最も効果的な目標点として有効であるとリデルハートは認識していたのである。彼の理論が実践で成功した実例として、ドイツ軍の対フランス侵攻作戦(マンシュタインプラン)が取り上げられている。「これらの演繹的結論は第二次世界大戦の経験によって実証された。なかんずく、独軍主力の遥か前方を先駆していたグーデリアンのパンツァー(機甲)部隊が、連合軍の遥か後方の地点であるアミアン及びアッペヴィル(この両地で連合軍の2本の交通線がソンム河を超えていた。)において、連合軍の交通戦を遮断し、連合軍を物理的にも心理的にも破滅的な麻痺状態に陥れたことは、その最たる実証であった。(戦略論-間接アプローチ)」とリデルハートは指摘している。


戦略及び戦術の神髄


以上より、戦略の目的は相手を"撹乱させること"とリデルハートは定義したが、一方で戦争の原則として、戦力を集中させることの重要性を指摘している。事実上これは、「相手の弱点」に対する戦力の集中である。「弱点に対する力の集中は対手の力の分散によって左右されるべきものであり、対手の力の分散はまたわが方の外見上の分散及び分散の部分的効果によって引き起こされる。わが方の分散、敵の分散、わが方の集中ーこれらは因果関係を構成するものであり、その1つ1つが結果として生まれる。真の集中は計算された分散のもたらす結実である。(戦略論-間接アプローチ)」この原則を実践するために、リデルハートは次の積極面6ヶ条、消極面2ヶ条を提示している。これらの原則の底流にある真理は、「撹乱」と「戦果の拡大」であるとリデルハート指摘している。まず、撹乱によって味方の好機を作り出し、この時に、敵が受けた打撃から、立ち直らない間に、戦果を拡張させることが重要であるという。敵軍を混乱させ、味方の戦果を拡大させるに際して、わが方の分散、敵の分散、わが方の集中を効果的に実行しなければいけないのだが、1つ使用方法を間違えば、ナポレオンが得意とした内線作戦によって、各個撃破される可能性もあり、十分な訓練が戦争の原則のもとで行われなければいけないことは言うまでもないであろう。


積極面6ヶ条
1.目的を手段に適合させよ。
「目的を決定をするにあたっては、明確な見通しと冷静な計算とを重視すべきである。「消化能力以上の貪欲」は愚である。軍事的英知は「何が可能か」を第一義とする。それゆえ、誠実を旨としつつ、事実に直面することを学ぶべきである。(略) 」無理な作戦立ててはいけないということ。不可能な作戦を精神論でなせばなる的に押し通すのはやめなさいということを積極面第1ヶ条で、リデルハートは述べている。

2.目的を常に銘記せよ。
「計画を状況に適合させる間、常に目的を明記しなければいけない。目的達成のために方法は1つではなくてそれ以上あるが、しかしいかなる目標も必ず目的に指向されるように細心の注意を払う事を忘れてはならない。(略)」
目標が目的に取って変わるということは日常生活の中でしばしば体験することがある。例えば、環境問題を解決するために、大学に行きたいと考えていた学生が、その目的を忘れ,受験勉強で成功するという目標自体が目的に取って変わられて、名声の高い大学に入学したものの、他の大学の方が環境問題を学ぶ上で適しているなんてことはよくある。リデルハートは積極面第2ヶ条で「初心忘れるべからず」と戒めているのである。

3.最小予防線(最小予期コース)を選択せよ。
「敵の立場に立ってみる事に努め、敵が先見し又は先制することが最も少ないコースはどれであるかを見よ。(略)」
計算だけでは決して計測することはできない相手の心理面を考慮に入れろということをリデルハートは積極面第3ヶ条で述べている。常に相手の立場に立って相手がどのように行動するのかを予測することが重要なのだ。

4.最小抵抗線を乗ぜよ。
「わが方の基本的な目的に対し寄与すべき目標へ指向されているという条件を充たすところの最小抵抗線を利用すべきである。(戦術においては、この金言は予備兵力の使用に適用し、戦略においては随時の戦術的成功の利用に適用するものである。)」
相手の弱点を徹底的に攻撃せよとリデルハートは積極面第4ヶ条で述べている。

5.代替目標への変更を可能にする作戦線をとれ。
「こうすれば、敵をジレンマの立場に追い込み、敵の守備の最も薄い目標を少なくとも1つは攻略できる機会を確保するところまで、進む事ができ、またそれを手がかりとして逐次攻略することが可能となろう。(略)」
例えば、攻撃目標が1つしかないのであれば、攻撃される側にとってはその目標地点に全兵力を集中すればよいので防備することは比較的用意であると言える。しかし、相手がどこを攻めてくるのか全くわからないとしたら、守備兵を分散しなければいけないので、攻撃する側にとっては、各目標地点を個別撃破することも可能になる。

6.計画および配置が状況に適応するよう、それらの柔軟性を確保せよ。
「わが方の計画は、成功を収めた場合もしくは失敗に陥いった場合又は部分的に成功を収めた場合において次のステップを予見し、それを生み出すべきである。わが方の配備(又は隊形)は最も短時間のうちに次のステップの利用、換言すれば状況への適合を許すようなものにすべきである。(略)」
作戦が成功した場合、失敗した場合、部分的に成功した場合など、結果がどのようになってもそれらに対して対応できるように、作戦に対して十分な柔軟性を確保すべきだとリデルハートは積極面第6ヶ条で述べている。


消極面2ヶ条
1.対手が油断していないうちはー対手がわが攻撃を撃退し又は回避できる態勢にあるうちは、わが兵力を打撃に投入するな
「非常に劣勢な対手に対する以外には、対手の抵抗力又は回避行動が麻痺状態に陥らない限り、効果的打撃を加えることは不可能であるということは歴史上の経験の示すところである。であるからこのような麻痺状態が十分に進行していない限り、いかなる指揮官も敵に対する真面目な攻撃を発起すべきではない。麻痺状態は敵の組織の崩壊及び精神面での組織崩壊の同等物である指揮崩壊によって引き起こされる。(略)」
正面突破の攻撃方法は味方の被害が甚大であるから、極力避けよとリデルハートは消極面第1ヶ条で述べている。まずは心理面などの間接アプローチで相手の抵抗力削いだ上で、効果的な打撃を相手に与えることが非常に重要なのである。

2.一たん失敗した後は、同一の線(又は同一の形式)に沿う攻撃を再開するな。
「単なる兵力の増強は必ずしも新規の線に沿う攻撃を意味しない。そのわけは、敵もまたその休止の間において自己の兵力を増強しているであろうことはありうべきことであるからである。わが方を撃退した敵の成功が敵を精神的に強化するであろうことは、さらにもっと有り得べきことである。(略)」
人間というのは一たん、失敗した時に、その原因を自分の努力不足に結論づけてしまい、全く同じ方法で、全く同じ相手と対戦して、また敗北してしまうというケースはよくある。対戦相手も前回と同じ方法で攻撃してくれるのであるから、防御するのも、相手の攻撃方法の予測がつくので、非常に簡単になる。なぜなら、失敗した方法を再度繰り返すのは、相手を心理的に安心させる直接アプローチになってしまっているからだ。一たん失敗した後は同じ方法や形式で再度攻撃を再開するなとリデルハートは消極面第2ヶ条で述べているのである。

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