このコラムは、知識人の補給戦(1)の続きです。
連山編集部

出典:算術する革命家
◆大学院生倍増計画 大学院生が増えた背景には、大学院生の数を倍にすべきとした1991年の大学審議会の答申がある。大学院を新設する大学への補助金が増額され、大学院が作られた。91年時点で320だった大学院の数は、昨年5月には598に。院生も約10万人から約26万人に増加した。
出典:末は博士も就職難
1. 大学院重点化で量産された博士
余剰博士問題が深刻化した原因を作ったのは、文部科学省の大学院重点化政策である。1996年に大学審議会は、「大学院の一層の量的な拡大が求められる中で,質的な面での抜本的な充実と改革が必要となっている」[文部科学省:大学院の教育研究の質的向上に関する審議のまとめ] と大学院重点化の理念を語ったが、量的拡大を行った結果、質が大幅に低下したというのが現実である。略
もちろん、本音と建前は別である。法科大学院設立の表向きの理由はプロセス重視の法曹養成である。従来の司法試験は一発勝負の性格が強く、受験生は、受験技術の詰め込みに走る傾向があったが、法曹には、専門的な法律知識の他、高い倫理や教養も求められるので、真に優秀な法曹を育てるには、全人的な接触のなかで、対話重視・プロセス重視の教育を行う必要があるというわけである。略
4. プロセス重視だと茶坊主が有利になる
プロセス重視の教育で、子供たちは勉強しなくなり、代わりに、教師に対して「良い子」を演じるのがうまくなった。略
出典:末は博士かホームレスか
産業革命時代、労働者は奴隷状態でした。彼らは労働組合や労働争議、選挙を通じて権利を獲得してきました。教育利権の為に搾取される学生達はどうでしょうか。もし、自分が知識階級であり、尚且つ、生活が貧しいと考えるなら行動をするべきでしょう。高齢化し貧困化した知識人ほど惨めな存在はありません。5年後の日本は高齢化による年金医療問題により貴方達はもっと惨めになるでしょう。商品価値のない人間はいらないというのが確定した日本の未来です。そんな未来を変更するなら自分で決断して行動してください。軍隊における補給問題は知識人への生活費や社会における知的情報の供給という意味があります。知識人が貧しいのは知的でないか、知的を活かす場と繋がっていないか、のどちらかです。良い商品があっても市場に出せなければ意味がありません。
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鉄道全盛時代のモルトケ戦略
時は経て、19紀後半のプロイセンの参謀総長モルトケの時代に移る。この時代には、ナポレオン時代にはなかった鉄道というものが、軍事史にようやく登場することになる。モルトケは,鉄道を活用し,主戦場に迅速に大量の兵士を投入できる仕組みを作ったことでドイツ史にその名を残している。1866年の普墺戦争、1870年の普仏戦争に勝利し、モルトケはドイツ各地の諸邦をプロイセンの主導するドイツ帝国に統一した。鉄道の利用により、軍隊と食料を戦線に迅速に送ることができた結果、ドイツ軍は勝利を獲得することができたというのが歴史の通説である。しかし、著者のマーチン・ファン・クレフェルトは兵站という意味において、当時のプロイセン軍の鉄道はほとんど機能していなかったと断言している。例えば、補給戦の中に次のような記述がある。
1866年戦役中での鉄道利用は、成功したとはとても言えないであろう。確かに動員はスムーズに進んだ。すなはち21日間の間に、兵員19万7千人、馬5万5千頭、あらゆる種類の車両5300台が展開され、この時期にモルトケを訪問したある士官は、モルトケがソファーに寝転んで読書しているのを見たという。しかしながら、その後に続いた鉄道作戦は決して満足すべきものではなかった。この時初めて明らかになったのは、兵站駅に補給物資を送るよりも、そこから前線の軍隊に補給物資を送る方が、はるかに難しいということだった。
全体の補給担当者が鉄道管理をうまくできなかったようだ。兵站駅から前線までの物資補給がうまくいかなかったので、各軍団の補給将校が兵站駅に物資を求めて突進してくるのが当たり前のような状態になり、兵站駅は常に混乱していたようである。そのため、鉄道に物資を積み込み、前線近くの兵站駅に送ろうとしても、途中で停止し、1万7920トンもの補給物資が線路上で立ち塞がりになり、そのうちパンもかいばも腐り、牛は栄養不足で倒れていったという。兵站システムに鉄道を使用するというアイデアは良かったのだが、それをうまく活用するだけの訓練がプロイセン軍はしていなかったということだ。
それでは、4年後に行われた普仏戦争では、プロイセン軍の兵站問題は解決されていたのであろうか。著者のマーチン・ファン・クレフェルトによると、補給面において、プロイセン軍の進歩はほとんどなかったいう。1870-1871年のドイツの全作戦(普仏戦争)は、結局のところ対戦国のフランスがヨーロッパ中、最も豊かな農業であること、そして戦争が1年のうちで条件のよいシーズンに開始されたからこそ可能になったのである。
つまり、どういう事かと言えば、モルトケの時代には、十分に鉄道が発達していたと言っても、プロイセン軍がフランスと戦争を行うことができたのは、フランスが農業国で食料が十分にあり、そこで現地調達をすることができたからというのが現実だったようだ。プロイセン軍の第二軍兵站官が、「敵国では本国にいる時のように物を節約する必要はない」と言っているほど、プロイセンとフランスで食料供給量は異なっていたのだ。
よって、プロイセン軍は結局のところ、食料をフランスで現地調達しなければいけなかったので、昔の軍隊と同様に常に移動しなければならなかったのである。ナポレオンが補給の問題から、包囲戦をできなかったことは既に紹介したが、兵站であくせくしなければいけない軍隊は常に食料を求めて移動しつづけなければいけないので、一カ所に止まる事はできないでのある。
普仏戦争で、プロイセン軍がフランスを包囲した時にこの問題が起こった。包囲戦が長期化したので、包囲している側の食料が底をついたのである。パリ包囲の場合は2ヶ月間にわたって、実質的に軍隊の軍事機能を停止させ、そのかわりに各部隊に命じて自分の食料を探させることが必要だった。
軍隊を食料生産手段として展開させたのは、著者の知識によれば、1789年以来軍事史上類のないことであり、もしナポレオンが生きていたらびっくり仰天しただろう。(略) モルトケの軍隊は移動の間だけ食を手に入れることができたこと、一カ所に数日間以上留まると大きな困難が生じたこと、モルトケの手中に軍事機構は結局のところ近代的ではなかったのである。
プロイセン陸軍の兵站制度の欠点は著書の中で取り上げられている。主なところは以下に抜粋してみよう。
1. 鉄道守備隊は武装が十分でなく、自分を守ることができなかった。
2. 進軍の規律は弛緩しており、車両の整備はあまりに不十分だった。
3. 鉄道と軍隊の補給に余り関係がなく、野戦官は列車の所在に無関心だった。
4. 弾薬の消費量が少なかったため、列車の補給がなくても問題が起こらなかった。
5. 鉄道そのものに問題があった。
6. 兵站駅が軍隊の進撃に歩調を合わせることができなかった。
7. 兵站駅から前線まで補給物資を移動させることができなかった。
結局、モルトケの兵站制度における鉄道の利用は、兵站制度が歩兵の足から、車輪に移すその最初の発端となった点が画期的だったのであり、それ以上の意味をこの時点では持ち得なかったということになる。
壮大な計画と貧弱な輸送と
第一次世界大戦において実行されたシュリーフェン作戦を、著者、マーチン・ファン・クレフェルトは兵站面において非常に杜撰な作戦であっと位置づけている。さらに著者は、このシュリーフェン作戦を補給の面から、改善を行ったのが、小モルトケであったと指摘している。しかし、この主張は間接アプローチを書いたリデルハートの意見とはまっこうから反対するものである。小モルトケによって、シュリーフェン作戦が骨抜きにされた結果、ドイツ軍は短期間にフランスを降伏させることができなかったというのがリデルハートの主張だからだ。史実はどうだったのであろうか?


それでは、シュリーフェン作戦について簡単に説明しよう。第一次世界大戦当時のヨーロッパの情勢を知りたい方は以下のコラムを参考にして頂きたい。第一次世界大戦の特異点
第一次世界大戦前にドイツの参謀総長であったシュリーフェンは、フランスとロシアを個別撃破するために、まず注目したのは、ドイツ国内の鉄道網である。これによって大量の兵士と物資を国内で輸送することが可能となった。まず、初戦で大量の兵士と物資を西部戦線に投入して、フランスを降伏させ、その後、鉄道網を使用する事で、迅速に東部戦線に向かい、ロシア軍を撃退するという作戦をシュリーフェンは描いていた。迅速に西部戦線のフランスを攻略することで、ドイツにとって悪夢であったフランスとロシアの2正面作戦を回避しようというのが、この作戦の趣旨である。
まとめると、シュリーフェン作戦の概要は次のようになる。
①ドイツ軍の全兵力の8分の1で東部のロシア軍に備え、残る8分の7の兵力で西部のフランスを強襲する。
②フランスを撃破するための期間は6週間を目標とする。
③短期間にフランス軍を撃破するために、カンネーの戦いを参考して、ドイツ軍右翼に、72個師団のうち、53師団を割り当てる。
④フランスを撃破した後は、迅速にロシアとの東部戦線に割り当てる。
この作戦を小モルトケは、右翼軍は西部戦線の全兵力の8分の7を持つものとされていたのを、3対1へと改め、また東部戦線にロシア軍が進出すると、右翼軍からそうそうに2個軍団を引き抜いてしまった。この小モルトケによる作戦変更により、シュリーフェンプランは本来の計画の徹底性を失ったまま遂行される。その後、ドイツ軍はベルギー領を通過して、英仏軍を撃破した後、フランス領に進出する所までは計画通り良かったが、9月6日-9日にかけて戦われたマルムの会戦で前進を阻止され、西部戦線は膠着状態のまま、長期化することになったのである。
それでは、シュリーフェン作戦が原案通りに実行された場合、ドイツ軍はフランス軍を短期間に打ち破ることができたろうのであろうか? まず、ドイツ軍の右翼は短時間の間に、長距離を行軍しなければならない。作戦期間は6週間(42日間)、行軍距離は400マイルである。さらに、そのような大規模な軍隊への食料を現地調達で確保することができたのかどうかという疑問が残る。食料が現地調達できなければ、ドイツ軍はドイツ国内から輸送する物資を安全に前線に運ぶためにベルギー、フランスにおける鉄道網を爆破されないように死守しなければいけない。 物資補給の観点から、この2つの問題を解決しなければシュリーフェン作戦は成功しなかったことになる。
第一次世界大戦当時において、一箇軍団に期待できる最大の進撃速度は15マイルであったと言われている。そこで、シュリーフェンは25日間でセーヌ川に到達するように命令していたいう。25×15=375マイルとなり、全く休息をせず進軍を続けても、最右翼の第一軍は25日間で、セーヌ川にまで到達することができない計算になる。さらに、途中でベルギー軍、フランス軍との間で戦闘が開始されれば、到着日時はさらに遅れることになるのだ。すさまじい速度でドイツ軍の最右翼は進撃しなければいけないので、敵軍と対峙しても疲労のために相手と戦闘することさえできなかったかもしれない。
シュリーフェンは作戦を実行する上で、物資の補給について感心をほとんど示さなかったようだ。ベルギー国内の鉄道網は無数のトンネル、鉄橋、立体交差点から成り立っており、爆破するのは簡単だったのだが、それらが爆破されないという希望的観測の基にシュリーフェン作戦は立案されていたのである。よって、シュリーフェン作戦においては、補給線を維持する部隊に武器を与えることは考えられていたなかったし、ベルギーの鉄道線が爆破された場合に、それを回復するために、ドイツ民間会社を動員することも考慮する事もしなかったという。よって、シュリーフェン作戦が成功するかどうかは、ドイツ軍の最右翼の非常なまでの努力と、ベルギー、フランス国内の鉄道網が敵軍によって爆破されないという幸運と、爆破された場合でもドイツ軍が現地で大量の食料を確保できるという奇跡が重ならなければ成功しなかったであろう。
ナポレオンの時代には軍隊が第一次世界大戦時と比較して、小規模であったことから、本国からの物資の輸送が十分ではなくても、現地調達を繰り返すことで、シュリーフェン作戦は実行可能であったかもしれない。第一次世界大戦以後においても、自動車輸送部隊が活躍することから、鉄道が破壊されても軍隊への物資の補給はかなりの面で解決されたに違いない。しかし、この第一次世界大戦において、このシュリーフェン作戦を実行するのは兵站システムの問題から、実行不可能であったと言うのが、補給戦の著者の結論である。おそらくそうであったのだろうと個人的にも考えている。
しかし、シュリーフェン作戦が意外な功を奏したのは第一次世界大戦ではなくて、第二次世界大戦であっというのが歴史の面白いところである。第二次世界において、ベルギー軍はシュリーフェン作戦の亡霊に取り憑かれるあまり、ベルギーがドイツに占領された場合でも相手の補給システムを麻痺させるために、国内の鉄道網に大量の爆薬をしかけていたのであるが、ドイツ軍の主力はアルデンヌの森を越えたのである。ベルギーだけではなく、フランスまでもがドイツの電撃戦の前になす術が全くなく、1ヶ月程度で降伏することになった。第二次世界大戦のヨーロッパ戦に興味のある方は、 第二次世界大戦の間接アプローチ をご参照いただきたい。

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