しかし、日本軍も「海上輸送」が日本の生命戦線であることは認識していた。1941年11月15日の御前会議において、枢密院議長である原嘉道によって、日本の海上輸送が問題なく実行できるかどうか、軍令部総長の永野修身と企画院総裁の鈴木貞一に対して質問している。軍令部総長の永野修身は防御強化の対策をしているので、海上輸送に問題はないと返答し、企画院総裁の鈴木貞一は船舶の損耗率は陸海軍の共同研究で正確な数値が見積もられているので、対米戦争に全く支障はないと返答している。企画院総裁の鈴木貞一が提出した陸海軍共同研究による船舶の損耗量と実際の損耗量は以下の通りである。
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開戦時1年目の船舶損耗量(見込み/実際):80万トン/96万トン
開戦時2年目の船舶損耗量(見込み/実際):60万トン/169万トン
開戦時3年目の船舶損耗量見込み/実際):70万トン/392万トン
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船舶損耗量の見込みと実際とで、大きな違いがあるのにお気づきになられると思う。極めていい加減な見込みを基にして、1941年11月15日の御前会議において、日米戦争が決意されたのである。開戦時における日本の船舶は600万トンあったが、この内300万トンを南方からの資源や食料を運ぶ資源輸送船に、残りの300万トンを兵士や武器を運ぶ軍用船に割り振ることになった。詳細な戦争の経緯を述べる前に、なぜ日本の船舶はこれほどまでに、損耗していったのかと不思議に思われたに違いない。陸軍省戦備課の田辺俊雄少佐は当時の船舶損耗量の決定方法は極めて、希望的観測的であり、杜撰以外の何者でもなかったと断罪している。
日本は対米戦争に当たり、その戦争遂行目的を民族の「自存自衛」と「大東亜共栄圏建設」と位置づけていた。日本民族が「自存自衛」するためには、アメリカと戦争を行うに際して石油、石炭、ボーキサイトを輸送する東南アジアから長い海上シーレーンを防御しなければいけない。しかし、この長いシーレーンをどのように守るかという極めて重要な問題に対して、日本には戦略も装備も全くなかったのである。
そんな馬鹿なことはあるのかと多くの方はお考えになられるだろう。あれだけ多くの日本人を死に追いやった太平洋戦争において、日本の生命線である東南アジアから5,000kmにも渡る輸送レーンの護衛に対して、戦略も装備もなかったなんて一体どうなっているんだと著者自身もこの戦争を勉強する際に再三不思議で仕方がなかったのである。開戦時に輸送船を護衛する海防艦はたったの4隻しかなく、海上護衛総司令部が出来たのは1943年9月の御前会議以後である。日本は海上輸送において、防御強化の対策をしているという永野修身の発言は全く虚言だったということになる。
しかし、大本営が海上シーレーンの防御を軽視していたのには理由がある。日米開戦において、日本は未だ醒めやらぬ「大鑑巨砲主義」の夢の中にいたのだ。「大鑑巨砲主義」とは海軍力の主力として、戦艦が最重要視され、この戦艦同士の戦いにより戦争の勝敗を決定するという考え方である。相手の戦艦に対して、より強力な戦艦を作り、相手の重心を打ち砕くという「大鑑巨砲主義」の考え方は極めて直接アプローチ的な発想である。これに対して、海上シーレーンを破壊することで、日本の戦争遂行を不可能にするというアメリカが取った方法は間接アプローチ的な発想である。「大鑑巨砲主義」の夢の中にいた日本は頭では、海上シーレーンを護衛することは極めて重要であると認識していたのだが、それが実行に移される事もなく、輸送船の航海は護衛艦のない単独航行で行われていた。これに対し、アメリカは日米開戦後すぐに、「無制限潜水艦作戦」を発動し、日本の輸送船をことごとく沈める作戦を取った。
日本は開戦前に日本の弱点である海上輸送を認識しながら、その防衛に対して、何ら戦略も装備もなかったという時点で日本は戦う前から敗北していたのである。、リデルハートの積極面第4ヶ条:最小抵抗線を乗ぜよを忠実に遂行したアメリカに対して、何ら対策を講じなかった「資源なき」日本が勝利することなどできるはずがなかったのである。

しかし、アメリカ側にも、「無制限潜水艦作戦」という間接アプローチを実現するに際して、大きな誤算があった。魚雷の性能に大きな問題があったためである。開戦1年目に、日本側の実際の船舶損耗量が陸海軍共同研究で事前に提出された数値と大きく異ならないのは、アメリカの魚雷性能の性能に問題があったからである。歴史の悲劇というか、開戦初期における、アメリカの魚雷性能の欠陥問題によって、日本はより「海上輸送」を軽視することになった。開戦初期の南方作戦の大成功に乗じて、日本は作戦地域をアッツ、ミッドウェー、ガタルカナルと拡大させたのだが、これが日本の命取りになることになった。1942年6月、日本はミッドウェー海戦で大敗北を被り、同年8月のガタルカナルではラバウルから輸送船団をアメリカの潜水艦隊にことごとく沈められ、日本陸軍は飢餓に追い込まれるという大失態を演じることになった。
ここで、積極面第1ヶ条:目的を手段に適合させよから、この時の日本軍の作戦を考えてみよう。
「目的を決定をするにあたっては、明確な見通しと冷静な計算とを重視すべきである。「消化能力以上の貪欲」は愚である。軍事的英知は「何が可能か」を第一義とする。それゆえ、誠実を旨としつつ、事実に直面することを学ぶべきである。(略)」
資源のない日本が、アッツ、ミッドウェー、ガタルカナルまで作戦地域を拡大させることははたして、可能であったのだろうか?遠方に物資を運ぶには大量の石油が必要であるし、輸送距離が長くなればなるほど、アメリカ海軍の潜水艦によって、輸送船が撃沈される可能性が高くなのである。実際に、ガダルカナル島争奪戦において、 補給基地ラバウルからガタルカナル島までの距離はたった1,000Kmしかないのに、輸送船はことごくアメリカ潜水艦隊によって撃沈されているのである。作戦を遂行するためにはリデルハートが述べているように明確な見通しと冷静な計算とを重視されなければならない。一体どのような作戦が実行可能で、どのような作戦が実行不可能であるのかということの見極めこそ大本営の重要な仕事なのだが、不可能な作戦を精神論で無理矢理実行すればなんとかなるという馬鹿の論理が、大本営ではまかり通っていたのである。
一方、アメリカは、開戦初期の魚雷性能の欠陥という問題点の改善を、陸軍兵器局の軍事顧問であったアインシュタインに依頼し、この天才物理学者は起爆装置の改善によって、アメリカ軍の魚雷性能は飛躍的に向している。また「SJレーダー」の開発を成功させたことによって、アメリカの潜水艦隊は闇夜でも日本の輸送船を攻撃できるようになったのである。
ここで、リデルハートは積極面第6ヶ条:計画および配置が状況に適応するよう、それらの柔軟性を確保せよ。を取り上げてみよう。作戦が成功した場合、失敗した場合、部分的に成功した場合など、結果がどのようになってもそれらに対して対応できるように、作戦に対して十分な柔軟性を確保すべきだとリデルハートは積極面第6ヶ条で述べている。作戦が十分に柔軟性を確保できるために、アメリカ軍は現場の報告書を十分に取り入れ、魚雷性能の向上などに取り組んでいたが、日本軍はどれだけ輸送船がアメリカ潜水艦に沈没されても、大本営が何ら早急にその対策を講じることはなかった。
1942年の12月の御前会議において、「海上輸送」の大問題により、東南アジアの米に依存していた国民生活が窮乏に追い込まれ、鉄鉱石不足のために、新たに生産される船舶が性能が著しく劣るという粗悪品になっているということが報告されるが、大本営は戦争を継続させるために、国民生活に必要な資源輸送船の内、58万トンを軍事用へ回す事を決断する。しかし、この御前会議においても日本の輸送船に護衛艦隊をつけるということが全く話し合われることはなく、「海上輸送」の大問題はさらに深刻化していくことになった。
1943年秋頃から、日本-シンガポール間という日本の生命線である「海上輸送」の大動脈がアメリカ潜水艦隊によって、甚大なる損害を被ることになる。1943年9月の御前会議において、本土防衛と戦争継続のために必要不可欠である絶対国防圏を定め、同地域において輸送船を護衛することが決定される。そして、御前会議の2ヶ月後に海上護衛総司令部がようやく設置されることになったが、日本側の「海上輸送」問題に対する対応は余りにも時期が遅すぎた。開戦時に4隻しか存在しなかった海防艦(輸送船団の護衛を任務)の建造に拍車がかかったのは1944年に入ってからのことであった。しかし、日本の海防艦建造能力には問題があり、1つの輸送船団に対して、護衛できる海防艦の数は1-3隻でしかなく、数、能力ともに飛躍的性能の向上を遂げて来たアメリカ潜水艦隊の敵ではなかったのである。浮上して来たアメリカの潜水艦に、多くの日本の海防艦が沈められる事例が多数あったのである。日本側の「海上輸送」に対する問題が余りにも遅かった事が悔やまれる。

しかし、1944年になると、日本軍にとって事態はさらに深刻化していく。アメリカの潜水艦隊よりも恐ろしい、アメリカの高速空母艦隊が中部太平洋に進出してきたからである。1944年2月にアメリカの高速空母艦隊はトラック島を攻撃し、輸送船が34隻、20万トン沈められるという大惨事になった。1944年2月はたった1ヶ月で、日本が保有する船舶の10%(54万トン)が撃沈するという記録的な被害が報告された。1944年3月の時点で、戦争継続に必要な資源輸送船は開戦時の300万トンから200万トンにまで落ち込み、さらに30万トンが軍用船に配分されることになり、国民生活はさらに窮乏することになった。1944年夏における軍需省の報告書によると、国民生活の維持と戦争の継続はすでに困難な状況に達していると記載されているが、1944年7月にサイパンの陥落により、東条英機内閣が退陣すると、小磯内閣が発足する事になるが、終戦工作が行われることもなく、戦争は日本国民の1億玉砕を合い言葉に更なる悲劇を迎えることになったのである。
1944年末には、日本とシンガポールを結ぶ「海上輸送シーレーン」はアメリカ軍の攻撃によって、命脈つきかえていたが、1945年になると、南シナ海にアメリカ空母艦隊の中でも、史上最強と呼ばれたハルゼー艦隊が登場することになる、1945年1月に、資源輸送の大船団と練習巡洋艦「香椎」,海防艦大東,鵜来,海防艦23,27,51号はハルゼー艦隊の標的となり、海の藻屑となった。ここに日本の「海上輸送」ルートは完全に途絶えたのである。
練習巡洋艦「香椎」(司令:渋谷紫郎少将),海防艦大東,鵜来,海防艦23,27,51 合計六隻
タンカー さんるいす丸 7,268t 原油12,000t
極運丸 10,045t 原油12,000t
大津山丸 6,859t B重7,100t,航空燃料400t,揮発油100t,1号重油200t,生ゴム1250t,
優清丸 600t 原油 800t
貨物船 辰鳩丸 5,396t 生ゴム,錫,ボーキサイト,染料
建部丸 4,519t 航空燃料,生ゴム,マンガン,コプラ,ヒマ,牛皮など3,400t等
豫州丸 5,711t 生ゴム,ボーキサイト
永萬丸 6,968t 生ゴム,ボーキサイト
昭永丸 2,764t 重油2,569t,生ゴム400t
No63播州丸 533t 原油 430t
戦後、戦略爆撃調査団・副団長のP・ニッツェ元国務次官補は、日本を降伏させるためには、「海上封鎖」のみを行えば十分で、ソビエトの対日参戦も、本土上陸も、原爆投下も必要なかったと証言している。つまり、「海上封鎖」を完全に行われた時点で日本の敗北は決定したということになる。さらに言えば、「海上輸送」が重要であると認識していたにも関わらず、何ら対策を講じようとしなかった大本営の組織的怠慢のために、日本は開戦前にすでに負けていたのである。太平洋戦争において、日本が失った総船舶は2,600隻、860万トン、船員死亡率は50%(死亡者6万2千人)に達し、陸海軍の軍人より死亡率が高かった。終戦後、満足に残った日本の船舶31万トンしかなかったという惨憺たる結果を残すことになった。
日本海軍の戦略思想
一. 大艦巨砲で敵艦隊を制圧し制海権を握る。
二. 制海権を握れば船団の護衛は必要ない。
三. よって最優先攻撃目標は敵艦隊。輸送船は攻撃目標ではない。
四. 船の安全は集団で行うものでなく個艦(船)であり、傭船先の海運会社が 考える問題だ。米国海軍の戦略思想
一. 補給なくして、戦闘に勝利した例はない。
二. 太平洋の戦いで、最優先すべきは輸送船の安全。
三. 敵の輸送船を阻止すれば戦いに勝てる。
四. 自国の船団の護衛は海軍の役務。operations research [策略研究]対象。
本稿の中でも、何回も紹介してきたが、日本軍の戦略思想は直接アプローチ、アメリカ軍の戦略思想は間接アプローチであった。日本はドイツ軍と同盟関係にあり、ドイツ国防軍が採用し、大成功をおさめたリデルハートの間接アプローチを学ぶことができたにも関わらず、柔軟性にかける官僚組織となった日本陸海軍はそれを積極的に取り入れようとはしなかった。現在の日本の官僚組織も過去に捕われすぎて硬直性を欠いてはいないだろうか?積極的に新しい戦略を採用する柔軟性を組織として確保しているだろうか?太平洋戦争の敗戦から我々、日本国民が学ぶべき事は多い。
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