電撃戦


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システム革命の大戦略の続き


第二次世界大戦の概略


それでは、続いて、ドイツから見た第二次世界大戦について、駆け足で確認して見よう。ドイツは独ソ不可侵条約を締結した8月23日の1週間後に、最初の目的地であるポーランドに対する侵攻を開始した。1939年9月1日午前4時45分。100万の軍隊と2000機の飛行機がポーランド回廊とダンチヒに殺到した。これを見て、イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発することになった。1940年春になると、ドイツ軍は北欧、西欧への侵攻を開始する。デンマーク、ノルウェーに続いて、オランダ、ベルギー、そして、1940年6月にはフランスが降伏する。ドイツ軍は、戦車隊を中心とした機甲部隊を戦闘にして、猛烈なスピードで進撃したので、フランス軍はこれに対して、全く対応が取れずに敗北することになった。このドイツ軍の戦い方は電撃戦と呼ばれるが、これについては後ほど再度取り上げる。

1940年夏の段階では、ドイツは北ヨーロッパ、西ヨーロッパ全域の支配を達成し、残るはイギリスのみとなった。同年、7月頃から、ヒトラーはドイツ空軍による徹底した爆撃をイギリスに行うが、イギリスの戦闘機部隊も奮戦し、ドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、1940年12月に極秘命令を出して、西ヨーロッパに展開していた軍隊の多くを東方に移動させる。作戦開始時期は1941年3月だったが、バルカン半島の制圧に3ヶ月を要したので、独ソ戦の開始は1941年6月22日に開始されることになった(バルバロッサ作戦)。レニングラード、モスクワ、スターリングラードを目指し、ドイツ軍は当初、電撃戦により破竹の勢いで進撃した。開始の1ヶ月で実にソ連軍の30%の軍事力がドイツによって破壊されることになった。しかし、不幸だったのは、ナポレオンのロシア遠征と同様に、冬将軍がソ連の味方をしたことだった。同年10月から降り始めた雪によって、酷寒に晒されたことと、予想外の独ソ戦の勝利により戦線が伸び切ったことが災いして、ドイツ軍の前線における補給が困難な状態に陥っていた。そして、1942年6月にスターリングラードを巡る攻防戦(スターリングラード攻防戦)が開始され、双方合わせ150万人を超える戦死、戦傷者を出す壮絶な地上戦を行った結果、ソビエト軍に対し大敗北を喫したことが原因となり、ソビエトとの戦争において、モスクワまで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を余儀なくされることになった。また、この頃、ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア連合軍が北アフリカで、連戦連勝していたものの、同年7月に行われたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に対し、大敗北を喫し、ドイツ軍は、この時点で攻勢終末点を越えていたと言えるだろう。

1943年に入ると、アメリカ、イギリス連合軍はイタリアに上陸する。ムッソーリには国王と国民の支持を失って失脚し、ムッソリーニの後をうけたバドリオ内閣は連合国に対して、すぐさま無条件降伏をする。1944年4月には、ソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。一方、1944年6月、西からドイツ軍を粉砕するために、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦(ノルマンディー作戦)が開始され、多数の犠牲者を出す事にはなったが、1940年6月以来の西部戦線が再び構築されることになった。東西から挟撃されることで、その支配領土を急激に減少させていたドイツ軍は、度重なる敗北で反抗の力をほとんど失い、1945年4月30日にヒトラーはベルリンの地下壕で自殺し、5月8日にドイツは無条件降伏した。

グデーリアンの電撃戦

1939年のドイツのポーランド征服とそれに続く1940年の西ヨーロッパの蹂躙とは、高速機械化戦争の理論の決定的な実例として軍事史上の大事件である。この理論は、はじめ英国で概念化されたが、採用されたのはドイツであった。それについては、ドイツ軍の機甲部隊の創始者グーデリアン将軍の努力に負う所が大きい。(略) 戦争の部面と世界勢力の均衡と部面との両面に革命をもたらしたこれらのキャンペーンは、また間接的アプローチの戦略の非情に意義の深い実例を示したものであった。「戦略論」p247:リデルハート

第二次世界大戦においてドイツ軍が、ポーランド侵攻や、それに続くフランス侵攻、独ソ戦時のバルバロッサ作戦で採用した戦闘教義は一般的に電撃戦と呼ばれる。このドイツ軍が開発・運用した電撃戦はリデルハートによって、間接アプローチ戦略の非情に興味深い実例として紹介されている。電撃戦とは、「戦車・装甲車などの自動化された部隊を航空機の空爆支援の下に、敵の戦線の一番薄い部分に自軍の攻撃を集中させて、突破し、敵陣の奥深くに浸透し敵の退路を遮断して包囲・殲滅することを目的とした戦闘教義」である。一見した所、ドイツ軍が採用した電撃戦の何が斬新であったかということは分からないだろう。電撃戦の生みの親であるグデーリアンはリデルハートの間接的アプローチ理論及び、陸軍の大規模な機械化と少数精鋭の機甲部隊を用いたチャールズ・フラーの機甲戦理論を徹底的に学び、独自の電撃戦という戦闘教義を確立している。グデーリアンの電撃戦を理解するキーワードは「徹底した機械化」と「間接的アプローチ」である。

グデーリアンの電撃戦の斬新さについて、「無形化世界の戦略と力学 長沼伸一郎著」に分かりやすく解説されているので、以下この著書に基づいて電撃戦について紹介してみよう。まず、電撃戦を構築する上で基礎となっているのは、前216年にカルタゴとローマとの間で戦われた「カンネーの戦い」である。

ハンニバルの戦闘教義(後編) 松村 劭

「カンネーの戦い」については、第一次世界大戦ーリデルハートでも紹介したので、詳細はそのコラムを参考にして頂きたいが、ハンニバルはローマ軍の主力となる重装歩兵を中央部に配置した軽装歩兵(ガリア歩兵)及び象部隊で引きつけている間に左翼に配置した騎兵部隊がローマ騎兵部隊を突破した後、右翼のカルタゴ騎兵部隊と合流し、ローマ軍に対して、包囲網を引いて殲滅させるという戦闘教義である。第一次世界大戦において、初めて登場した戦車(タンク)というのは、象部隊としての役割を担っていたのである。当時の西部戦線では、延々と何百kmにも渡って、鉄条網と塹壕陣地が出来上がっていたので、ドイツ軍、フランス軍ともその塹壕陣地を突破できずに戦争は長期化していた。なぜなら、ひとたびその鉄状網なり塹壕陣地を突破しようとすると、相手陣地に据えられた機関銃の威力によって、攻撃突破の試みは片っ端から挫折させられてしまっていた。そこで、この膠着状態を突破するために開発されたのが、戦車(タンク)である。戦車は機関銃の弾丸を片っ端から跳ね返して、機関銃陣地の威力を無力化しながら、鉄条網と塹壕を乗り越えて、前進することができる新兵器として登場したのである。

これだけを見ると、第一次世界大戦の西部戦線において、初めて登場した戦車(タンク)は、騎兵としての役割というよりは、象隊としての役割を期待されていたことがお分かりいただけるであろう。当時の戦車は騎兵のように長距離を高速で走り抜けるような能力よりも、正面から相手側の反撃をすべてねじ伏せるという象隊としての能力が重要視されていたのである。しかし、第一次世界大戦が終わると、英国のリデルハートやチャールズ・フラーなどは、戦車を騎兵隊としての役割を期待するようになった。下手に装甲を厚くして、鈍重にするよりは、むしろ戦車の速度を速くして手薄な場所を迅速に突破した方が良いと考えたのだ。高速の戦車部隊が相手陣地を突破した後、手薄な後背地域に回り込み、相手野戦軍を包囲・殲滅させたり、相手の司令部付近まで突破した後、通信網などの中枢神経を分断し、敵軍を混乱させることを目的とするのである。こうなれば、ハンニバルの騎兵が行ったように、短時間で劇的に戦いを決着をつけてしまうことが可能となるのだ。この戦車の騎兵化を徹底した機械化により実現したのが、グデーリアンが開発した電撃戦である。第一次世界大戦において、戦車の運用思想そのものが全く一変してしまったのである。

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