当時、ソ連によって、ドイツの仕業だと捏造された虐殺事件 カティンの森事件
第二次世界大戦と間接アプローチ戦略(1)

ポーランド侵攻作戦 秘匿名称「ケース・ホワイト」
ポーランドにとっては不幸なことであったが、同国は、間接的アプローチの戦略と機械化部隊との双方の結合にとっての理想的な展示場となった。ポーランドとドイツとの国境線は1200マイルであったが、その後、ドイツがチェコスロヴァキアを占領したので、さらに500マイル延長されていた。これによって、これまでポーランドの南側もまた、ドイツの侵略に暴露する結果となった。「戦略論」p248:リデルハート
それでは、第二次世界大戦のポーランド戦を題材にして、リデルハートによって、間接アプローチの興味深い実例と紹介された電撃戦についてその詳細を見てみよう。まずは、国境戦に配置されたポーランド軍に対して、ドイツ軍はボック上級大将率いる北方軍集団(第3軍、第4軍)とルントシュテット上級少将率いる南方軍集団(第8軍、第10軍、第14軍)上記の地図のように配置させている。南部におけるルントシュテット軍集団はボック上級少将の率いる北方軍集団に比べて、歩兵において、2倍の兵力を与えられて、機甲兵力ではさらにそれを上回る兵力が与えられていた。一方で、航空兵力の重点は北方に置かれていた。ドイツ軍の作戦意図は、国境付近で対峙しているポーランド軍が、首都ワルシャワとビスワ川まで後退して、塹壕線を構築することを阻止し、国境付近で敵を包囲・殲滅することを目的としている。そのために、ドイツ軍はワルシャワを陥落させる前に北方第4軍と南方第10軍によって、国境付近のポーランド軍を包囲・殲滅し、この包囲陣によって、補足できなかったポーランド軍を東プロイセンから進撃する第3軍と南方第14軍によって、2重包囲した後、殲滅させる作戦を取った。名将ハンニバルが指揮した「カンネーの戦い」で、最左翼に位置した騎馬兵が対峙するローマ騎馬兵を打ち破った後、ローマ重装歩兵の背後に回り込み大包囲陣形を形成したのは、間接的アプローチ戦略として、有名だが、ナチス・ドイツ軍はこの機械化した機甲師団及び自動車化師団を左翼と右翼に持ってくることによって、「カンネーの戦い」におかる騎馬兵の役割をこの機械化師団に担わせている。しかし、このドイツ軍による電撃戦は包囲陣形が2重になっているということから、ハンニバルの包囲陣形よりも完成度が高かったと言える。
ドイツ陸軍
北方軍集団 (司令官・フェドル・フォン・ボック上級大将)
第3軍 (キュヒラー大将)
歩兵師団 (第1、11、12、21、61、217、228の6個師団)
第10装甲師団 (開戦後、第4装甲旅団から改編)
第4軍 (ギュンター・フォン・クルーゲ砲兵大将)
歩兵師団 (第3、23、32、50、207、218の6個師団)
第19装甲軍団 (ハインツ・クデーリアン装甲兵大将)
第3装甲師団
第2自動車化歩兵師団
第20自動車化歩兵師団
軍集団予備
歩兵師団 (第73、206、268の3個師団)
南方軍集団 (ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)
第8軍 (ブラスコヴィッツ大将)
歩兵師団 (第10、17、24、30の4個師団)
第10軍 (ヴァルター・フォン・ライヘナウ大将)
歩兵師団 (第4、14、18、19、31、46の6個師団)
第14装甲軍団 (ヴィッテルスハイム大将)
第13自動車化歩兵師団
第29自動車化歩兵師団
第15装甲軍団 (ヘルマン・ホト大将)
第1軽快師団 (軽装備の装甲師団)
第3軽快師団
第16装甲軍団 (エーリッヒ・へプナー騎兵大将)
第1装甲師団
第4装甲師団
第10軍予備
第2軽快師団
第14軍 (ヴィルヘルム・リスト上級大将)
歩兵師団 (第7、8、28、44、45、239の6個師団)
第1騎兵師団
第22装甲軍団 (エヴァルト・フォン・クライスト大将)
第2装甲師団
第4軽快師団
第14軍予備
第5装甲師団 軍集団予備
歩兵師団 (第27、62、68、213、221の5個師団)
以上、
装甲師団6個、軽快師団4個、自動車化歩兵師団4個、
歩兵師団37個、騎兵師団1個
総計52個師団
(一個師団は通常約1万~2万名から成り、その兵員数は兵科、
国籍によって異なる)
ドイツ空軍
第1航空軍 (アルベルト・ケッセリング大将)
北方軍集団の支援を担当
第1航空師団 (ウールリッヒ・グラウアート中将)
第4軍の支援を担当
第1爆撃航空団
第26爆撃航空団
第27爆撃航空団
第2急降下爆撃航空団 第2、第3飛行隊
第1駆逐機航空団 第1、第2飛行隊
第1教導航空団 第4飛行隊
第2教導航空団 第1飛行隊
東プロシア方面航空部隊 (ヴィルヘルム・ヴィマー大将)
第3軍の支援を担当
第1戦闘航空団 第1飛行隊
第21戦闘航空団 第1飛行隊
第2爆撃航空団
第3爆撃航空団
第1急降下爆撃航空団 第1飛行隊
教導師団 (ヘルムート・フェルスター中将)
第1教導航空団(一部欠)
第2教導航空団(一部欠)
第4航空軍 (レール上級大将)
南方軍集団の支援を担当
第2航空師団 (レルツァー中将)
第4爆撃航空団
第76爆撃航空団
第77爆撃航空団
第76駆逐機航空団 第1飛行隊
特別任務航空部隊 (ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将)
第10軍の支援を担当
第77急降下爆撃航空団(一部欠)
第2駆逐機航空団 第1飛行隊
第2教導航空団 第2飛行隊
以上
第1航空軍計 795機 (爆撃機は519機)
第4航空軍計 507機 (爆撃機は360機)
総計 1302機 (爆撃機879機)
*各航空団は司令部小隊と3~4個飛行隊から編制され、一個飛行隊の配備定数は30~36機であった。
それでは、ポーランド侵攻作戦における実際の経過を確認してみよう。ポーランド侵攻は1939年9月1日に開始される。まず、第4軍クルーゲの前進によって、ポーランド回廊は遮断され、ヴィッスラ河下流に到達。一方、第3軍キュヒラーが、東プロシアからナレフ側に向かって進行した。さらに、第10軍ライヘナウの機甲部隊はヴァールタ河にまで突破を行い、第14軍のリスト軍はクラコフに向かう分進合撃を実施していた。9月4日までに、第10軍ライヘナウの機甲部隊は国境から内側へ50マイル入ったピリーツァ河を渡河し、その2日後には彼の左翼はトマーショフを超えてそのかなり前方まで前進し、その右翼はケェルツェへ進入していた。ドイツ軍の作戦計画が順調に実施されているので、ドイツ陸軍総司令官ブラウヒッチは、首都ワルシャワがあるビスワ河まで、この前進行動を東方へと継続させることを指示した。しかし、南方軍ルントシュテット上級大将とその参謀長マンシュタインは、ポーランド軍主力が依然として、ビスワ河の西方にあり、その場所で補足可能である事を知り、計画の変更を主導した。第10軍ライヘナウの機甲部隊の左翼はロッズ付近にあったポーランド軍大兵力の集中地の背後を目指し、北方へ旋回し、ロッズ及びワルシャワ間にあるブズーラ河沿いに狙塞陣地を確立するように指示。この北方への旋回行動の結果、このポーランド軍の大兵力は退路を遮断されて、ビスワ河を超えて撤退することができなくなった。この第10軍の旋回行動によって、名将ハンニバルのカンネーの戦いにおける「包囲陣形」が完成したのである。
ドイツ軍はこの時点で、ビスワ河を目指して、突進してくるポーランド軍を迎え撃ちさえすれば良かったのである。ポーランド軍は首都ワルシャワからは遮断されており、補給物資は運搬されず、その背後と両翼にはプラスコヴィッツの第8軍とクルーゲの第4軍によって逐次圧迫を受けつつあった。ポーランド軍は敵をも感嘆させたほど勇敢に戦って、ワルシャワ守備軍と合流しようとしたが、ほとんが果たせず、ドイツ軍の包囲陣形の餌食となった。9月10日、ポーランド陸軍総司令官スミグリー・リッツは、長期抵抗のため比較的狭い正面の防御戦を編成しようと望み、残余の兵力に対して、ポーランドの東南部へ向かい総退却を実施するように命令した。しかし、この退却するポーランド軍に対して、ドイツ軍はさらなる大包囲陣形を敷くことによって、ポーランド軍を殲滅することを計画する。大包囲陣形の左翼を担ったのはクルーゲの第4軍の先鋒をつとめたグーデリアンの機甲師団である。ポーランドの侵入にあたっては、ポーランド西北部にある回廊地帯を横断する突進を行って、孤立していた東プロシアに到達した。その後、9月9日に、グーデリアンはナーレフ河の線を越えて、さらに南に突進し、14日にはブーク河に沿うブレスト=リトフスクに到達した。そらに、40マイル先にあるグロータヴァを目指して進撃し、南方からせり上がって来るもう1つの鋏である第14軍第22装甲軍団クライストと合流して、大包囲陣形を完成させた。ロシア軍がポーランドの東部国境を越えた9月17日までには、ポーランド陸軍はドイツ機甲師団による二重の包囲陣形により崩壊させられていたのである。
第二次世界大戦と間接アプローチ戦略(2)
それでは、次にナチス・ドイツのフランス侵攻作戦を確認しよう。1939年10月上旬、ポーランドの蹂躙を終わった後、ヒトラーは西ヨーロッパ攻勢のための最初の指令を発している。ヒトラー・スターリン間の条約によって、ロシアの中立性が保たれるのは時間の問題であることから、ドイツは西部戦線のフランス、イギリスをできるだけ早く撃退して、東部戦線のロシア戦に備えなければならなかった。

それでは、西部戦線におけるドイツ軍の原計画案を確認してみよう。ハルダーを総長とする参謀本部が立案した原計画は、主攻はボックの指揮する「B軍集団」によって遂行され、他方、ルントシュテットの指揮する「A軍集団」がその左翼において、丘陵森林地帯アルデンヌを経て助攻を行うことになっていた。参謀本部はアルデンヌを戦車の通過至難な地区と見なしていたので、この助攻方面には何らの成果を期待しておらず、機甲師団の全部をボックの「B軍集団」に割当てていた。つまり、参謀本部が作成した原計画案とは、1914年の第一次世界大戦において採用されたシュリーフェン作戦の焼き直しでしかなかったのである。

しかし、本作戦は敵の最も予期しない所を、攻撃して相手の意表をつくという「間接アプローチ」ではなく、相手の予測している所を、予測通りに攻撃するという「直接アプローチ」作戦なので、早急にフランスを降伏させることは難しくなる。ルンシュテットの参謀長であったマンシュタインは、この計画があまりにも1914年の計画の繰り返しに似ており、そのため連合側が予期する攻撃の路線であり、連合側がこの攻撃に対処する準備を整えていると指摘し、攻勢重心を右翼から、中央へ移されるべきことと、主要な突出作戦が最も予期せられない路線であるアルデンヌを経て前進させられるべきと主張した。アルデンヌ高原は一見すると地形上機甲部隊の通過が困難に見えるが、機甲部隊を同地方で有効に使用することは可能であると考えていた。そして、彼のこの見解は機甲の権威グーデリアンの判決によって支持されていたが、マンシュタインの作戦案がドイツ参謀本部に採用されることはなかった。
しかし、ここで事件が起こる。1940年1月10日、ドイツ空軍第二航空艦隊参謀将校が飛行機事故に遭遇、ベルギー領内へ不時着してベルギー軍憲兵に逮捕され、作戦計画案が記載された書類の一部を押収されてしまったのである。1月16日ヒトラーは作戦内容の変更を決意した。第一次世界大戦に従事し、塹壕戦の悲惨さを経験していたヒトラーはマンシュタインによる電撃戦を採用することを決定したのである。マンシュタインの計算は鋭い。ドイツ軍のB軍集団を主攻と勘違いした連合軍がベルギー領内に深く推進すればするほど、ドイツ軍がアルデンヌを通過して連合軍の背後に迫り挟撃することが可能となるのである。


次に、実際の戦いの経過を確認しよう。機甲師団の多くはA軍集団に配置され、B軍集団の侵攻ルートにはベルギー、オランダの要塞が各地に存在するので、空挺部隊による制圧が行われることになった。オランダでは、5月10日早朝に、ドイツ軍空挺部隊が、首都のヘーグと同国の交通中心地ロッテルダムの奇襲降下を行うと同時にロッテルダムの東方100マイルにある国境防御線に対して地上軍による強襲を実施した。前線と背後への同時攻撃によって、オランダは混乱状態に陥り、戦闘が始まってから、5日目には、オランダは降伏した。ベルギーへの地上攻撃はライヘナウ指揮する第6軍によって開始され、この攻撃支援として500名の空挺隊員が参加した。ドイツ軍の進撃により、ベルギー軍はディール河の線まで後退したが、ここで、イギリス、フランス軍と合流することになった。
その間に、ルンシュテット率いるA軍集団の機甲部隊はフランス国境を目指して、ルクセンブルグ及びベルギー領ルクセンブルグを迅速に移動した。このルンシュテットの機甲部隊は、70マイル幅のアルデンヌを通過し、途中で弱い抵抗をはねのけながら、フランス国境を超え、攻勢開始第4日早朝にはミューズ河の河畔に到達した。5月14日の午後までにルンシュテット軍集団のグーデリアン機甲部隊はミューズ河の渡河を完了し、フランス軍の反撃を撃退した後、フランスの首都パリではなく、英仏海峡諸港を目指して、さらに西へ進撃したのである。この後、グーデリアンの機甲師団はさらには速さを増し、5月20日には疾駆して、アミアンに入り、アッペヴィルを越えて海岸に到達し、ベルギーにある連合軍の交通線を遮断することに成功したのである。これによってベルギーで、ドイツB軍集団と戦っていた英仏軍に完全に前後から挟撃できる体制を整えることに成功した。
5月16日、A軍集団が背後へなだれ込んだことを知らされた連合軍は総退却を開始するが、機動力に勝るA軍集団にパリ方面への退却を阻まれ、イギリス海峡方面への脱出を試みる。英軍に残された最後の脱出港湾であるダンケルクへの突進の継続は23日ヒトラーの命令によって停止された。英仏軍はヒトラーの謎の停止命令により、九死に一生を得たことになる。2日後に命令は撤回され、前進が再開されたが、それまでに連合軍の防御態勢も強化されており、英軍22万4千人、連合軍11万4千人が脱出することに成功した。ドイツ軍はダンケルクを制圧したのは6月5日のことである。5月28日にはベルギーはドイツに降伏している。このマンシュタインの発案した作戦計画により、ドイツは6万人の死傷という少ない犠牲において、100万人の捕虜を獲得する事に成功したのである。その後、フランスは残存部隊とマジノ要塞から引き抜いた歩兵主体の軍隊で戦うしかなかった。ダンケルクの包囲戦が終わり、ドイツ軍がフランスへ進撃すると、6月10日にフランス政府はパリを放棄、14日にはドイツ軍はパリへ入場してフランス政府は崩壊し、本土のペタン元帥率いる和平派政府とイギリスで樹立されたド・ゴール率いる自由フランス政府に分裂した。
以上で、第二次世界大戦におけるドイツ軍によるポーランド侵攻とフランス侵攻の概略を確認した。これらの戦争において、ドイツ軍が短期間に大勝利を挙げる事ができた最大の根拠はグデリーアンにより開発された新戦闘教義「電撃戦」のおかげと言っても言い過ぎではないであろう。リデルハートの「間接的アプローチ」を徹底的に学んだグデーリアンは戦車部隊の徹底した機械化と集中運用を押し進めた。また、航空機を長距離砲のように使用し、敵を攪乱せしめた後に、戦車隊を相手陣地に進撃させたことで、より迅速な戦車部隊の機動を可能にした。また、前線にいる戦車部隊に無線通信が配備され、中央による集権的な指揮系統よりも、自らの判断で部隊を動かすことが奨励されたのも、「電撃戦」の効果をより増大させた要因と言えるであろう。

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