第一次世界大戦の特異点

目次

序章

第一次世界大戦の概略

第一次世界大戦と間接アプローチ戦略(1)

第一次世界大戦と間接アプローチ戦略(2)

日本経済と間接アプローチ戦略

序章

21世紀を生きる我々、日本人がリデルハートの軍事戦略理論を学ぶ必要性とは一体どこにあるのだろうか?

確かに、先の太平洋戦争において、日本軍が日本の生命線となっていた南方地帯からの「海上輸送」(海洋シーレーン)をアメリカの空母艦隊と潜水艦によって分断されたことによって、戦争継続するために必要な石油や、ボーキサイト、食料等を「東南アジア」から日本に運搬することができずに、飢餓状態に陥り、結果的に大敗北することになったのは記憶に新しい。このアメリカ軍によって実行された作戦は、リデルハートの間接アプローチの初歩的な運用方法と言える。我々がこの軍事理論を現在、学ぶべき意味について、リデルハートは著書「戦略論」について次のように言及している。

原子力は、破壊を「自殺行為」の極点にまで高めることによって、戦略の神髄である間接的方法への復帰を刺激し、促進する。そのわけは、間接的方法は、戦争を野蛮な暴力の使用よりも高尚なものに高めるところの知性の資質を戦争そのものに付与するものであるからである。そのような「間接的アプローチ」への復帰の徴候は大戦略が欠如していたとはいえ、第一次世界大戦におけるよりも戦略がより大きな役割を果たした第二次大戦において既に明らかに看取されていた。今や、原子の抑止力は、分かり切った線に沿っての直接行動を抑止する効果を発揮しているため、それは却って侵略側の戦略の巧妙化を助長する結果を招いている。こうして、この原子抑止力の開発は、その開発の進展と同じ態度にわが方における「戦略の力」に対する理解が進む事を条件として行わなければならないことが非常に重要になってくる。戦略の歴史は、根本的に見て、間接的アプローチの適用及びその発展の記録である。(「戦略論」p6:リデルハート)

人類は先の第二次世界大戦において、ウランやプルトニウムなどの原子核が核分裂反応を起こすことによって、膨大なエネルギーを爆発させる大量破壊兵器(原子爆弾)を手にするに至った。その原子爆弾の威力が今までの通常兵器と比較して、余りにも無差別でかつ、残虐的に、大量の人間を殺戮してしまうので、第二次大戦後は、兵器としての意味を逆に持ち得ず、戦争の抑止力としての効果しか果たす事はなかった。よって、原子爆弾が登場した後の戦争は、より直接的なアプローチを取る戦争よりも、間接アプローチの方を用いた戦争の方が、戦争の主流になると、リデルハートは主張している。ここで、改めて第二次世界大戦後の歴史を振り返ってみると、はっきりと時代の流れは、直接アプローチから間接アプローチへと推移していることが読者の皆様もお気づきになられるに違いない。世界は直接的な通常兵器で行われる戦争よりも、情報戦争、金融戦争、テロ戦争などと呼ばれる非対称戦争が戦争の主流になったのである。

ここで、まだピンと来られていない方のために、非対称戦争(間接アプローチ的な戦争)の中の金融戦争の一例を具体的に取り上げてみよう。

1997年7月、タイ通貨であるバーツが大暴落したことをきっかけにして、アジア各国で急激な通貨危機(通貨下落現象)が発生した。当時のタイ、マレーシアなどのASEAN諸国は新しい経済発展の象徴として、何十億ドルという多額の外国資本が投資され、その繁栄を謳歌していた。特にタイにおいては、比較的、政治が安定していたということ、タイバーツがドルリンクされており、90年代初頭にドル金利が低下する一方で、タイバーツが、その資金需要のために、金利を高水準に維持していたことも、急激な過剰投資を招いた原因であったと考えられる。しかし、この膨大な海外からの過剰投資が不動産、株式のバブルを導いたこと、また「強いドル」政策がタイバーツの通貨価値を引き上げたことで、タイの輸出が伸び悩み、貿易収支も赤字に転じたことが原因となり、タイの経済状況とタイバーツの通貨価値にズレが生じていたのである。その時、その過大評価されたバーツを売って(空売り)、安くなったタイバーツを買い戻すことによって、儲けようと考えたヘッジファンドと呼ばれる投機筋によって、大量のタイバーツの空売りが仕掛けられることになった。結果、タイ政府は、自国の通貨価値を維持するために、膨大に売りにだされるバーツを買い支えるための外貨準備(ドル)を切り崩して、ドルペッグ制を維持しようとするが、残念ながら、支え切る事ができずに信用を失ったタイバーツは一気に暴落することになった。バーツの暴落に伴うアジア通貨危機の引き金はジョージ・ソロスという投資家によって行われたとマレーシアのマハティール首相(当時)は名指しで批判している。マレーシアでは、たった数日間の金融戦争により、のべ数十億ドルの大損失が計上されたことになった。この金融戦争こそが、リデルハートによって提唱された間接アプローチ戦略を利用した第二次世界大戦後の戦争の一例である。

リデルハートは「戦略論」において様々な時代の戦争を分析しているが、最も詳細に取り上げているのは、彼が実際に生きた時代に行われた第一次世界大戦と第二次世界大戦である。本稿では、第一次世界大戦における史実を振り返ることにより、間接アプローチの理論について学ぶことを目的とする。第一次世界大戦における間接アプローチの実用例は、よりはっきりと、第二次世界大戦後の非対称戦争を理解するのに役立つに違いない。

第一次世界大戦の概略

第一次世界大戦-wikipedia

第一次世界大戦におけるリデルハートの間接的アプローチを取り上げる前に、第一次世界大戦についてその概要を以下に説明する。1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナンドがセルビア人の学生によって暗殺されるという事件が発生する。(サラエボ事件)、この事件を契機にオーストリアがセルビアと戦争を始めるが、セルビアの後見人であるロシアが、(ロシアは1909年に、オーストリアのボスニア併合を承諾する代わりにセルビア独立を支持することを誓約していた) この戦争に介入するために総動員令をかけると、ドイツがロシアに宣戦布告することになる。そして、ロシアの同盟国であるフランスがドイツに開戦することになった。

この当時、ヨーロッパには、露仏同盟(ロシアとフランス)、独墺同盟(ドイツとオーストリア)という2つの軍事同盟が存在した。オーストリアとセルビアという2ヵ国間の戦争が、これらの軍事同盟の存在により、複雑化・大規模化するこことになった。さらに、このヨーロッパの地方戦争を大規模化させたのは、イギリスとアメリカの参戦である。当初、戦争に関して中立関係を維持していたイギリスは英仏協商と英露協商を楯として、ドイツが中立国ベルギー領土を通って、フランスに向かうとドイツ・オーストリアに宣戦することになった。ドイツとオーストリアはフランスとロシアの2方面から同時攻撃されることを恐れ、西部戦線であるフランスを短期に攻略し、その全兵力を持って、東部戦線であるロシアを撃破するという作戦を計画するが、予想外の英仏軍の抵抗と、迅速なロシア軍の進撃により、ドイツは西部戦線の軍隊を東部戦線に派遣せざるを得ず、西部戦線におけるドイツの進撃は北フランスのマルヌの戦いで、阻止され、戦争は長期化・膠着化することになった。

西部戦線において、この膠着状態を打破するために、1916年に、ドイツ軍によって仕掛けられた大攻勢はヴェルダンの戦いと呼ばれる。また、同年には英仏軍による攻勢が行われ、これはソンムの戦いと呼ばれている。1915年から1917年を通じた塹壕戦により、両軍共に何百万という死傷者が出た。また、第一次世界大戦に始めて、登場した飛行機、潜水艦、機関銃、毒ガスなどの最新兵器はより戦争の被害を拡大させる原因となった。

一方で、東部戦線では、ドイツ軍が優勢であり、1914年、ロシア軍をタンネンベルクの戦いで撃破している。また、戦争は世界規模で拡大し、日英同盟を名目にした日本は英仏側(連合国)として参戦。イタリアも「未回収のイタリア」を巡るイギリスとのロンドン秘密条約により連合国側に参戦している。第一次世界大戦は長期化していったが、この戦争を終結に向かう大きな出来事が1917年に立続けに行うことになった。(1) 10月革命に伴うロシアの戦線離脱と(2) アメリカの参戦である。

(1) 10月革命に伴うロシアの戦線離脱

1917年10月にロシアではレーニンによる10月革命が勃発し、ソビエト・ロシア政府が成立する。ただちに、ソビエト・ロシア政府はドイツ・オーストリアに休戦し、翌年3月にブレスト・リトフスク条約という講和条約を結んで、大戦から離脱していくことになった。

(2) アメリカの参戦

ヨーロッパ戦線が連合国側にとって、不利に動いていた1917年において、アメリカはついに、第一次世界大戦への参戦を決意する。アフリカやアジアの領有を巡り、ドイツ・オーストリアと対立していたこと、また、戦争の長期化によって、英仏が疲弊して、アメリカが発行した大量の戦債が返済不可能になること、ドイツの無制限潜水艦作戦によって、アメリカから連合国側の支援のために送られる大量の軍需物資が届かくなったことが、アメリカ参戦の原因として挙げられている。連合国側、同盟国も1918年になると、完全に疲弊していたが、アメリカの参戦によって、同盟国側の敗北は必死となった。ドイツを除いて、続々と同盟国が連合国に降伏していく中で、1918年11月に、ドイツも降伏することになった。きっかけは、ドイツの軍港キールで起こった水兵の反乱である。この反乱を契機にして、ドイツ全体で革命が起こり、ドイツ帝国は崩壊、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。この政治的な空白に社会民主党を中心とする「ドイツ共和国臨時政府」が発足し、連合国側と休戦条約を調印、4年に渡る史上初の第一次世界大戦はここに終結することになった。

第一次世界大戦と間接アプローチ戦略(1)

第一次世界大戦の概要はすでにおわかり頂けたと思うので、次に具体的に第一次世界大戦においてリデルハートが取り上げた間接アプローチ戦略について記述していこう。地図の上かも明らかなように、ドイツとオーストリア・ハンガリー2重帝国は西はフランスに、東はロシアに挟まれている。よって、ドイツとオーストリアを中心とする同盟国が英仏露を中心とする連合国に勝利するためには、まず、露仏同盟を結んでいた大国フランスとロシアからの同時攻撃をどのように回避して、個別撃破するのかとというところが、非常に重要になってくる。

第一次世界大戦前にドイツの参謀総長であったシュリーフェンが、フランスとロシアを個別撃破するために、まず注目したのは、ドイツ国内の鉄道網である。これによって大量の兵士と物資を国内で輸送することが可能となった。まず、初戦で大量の兵士と物資を西部戦線に投入して、フランスを降伏させ、その後、鉄道網を使用する事で、迅速に東部戦線に向かい、ロシア軍を撃退するという作戦をシュリーフェンは描いている。迅速に西部戦線のフランスを攻略することで、ドイツにとって悪夢であったフランスとロシアの2正面作戦を回避しようというのが、この作戦の趣旨である。

次に、迅速に西部戦線のフランスを撃破するために、シュリーフェンは前216年にカルタゴとローマとの間で戦われた「カンネーの戦い」を参考にしている。「カンネーの戦い」はカルタゴの名将ハンニバルが両軍の兵力差をものともせず、ローマ軍を破った大包囲殲滅戦として歴史的に名高い。(カルタゴ歩兵3.2万、カルタゴ騎兵1万、ローマ歩兵6.5万、ローマ騎兵7,200)

ハンニバルの戦闘教義(後編) 松村劭

前衛の戦闘の間にハンニバルは両翼の重装甲歩兵を不動とし、自ら中央にあって中央歩兵を前進させて傘型の陣形にした。主力の戦闘は西翼の騎兵から始まった。ハスドルバルの騎兵がローマ軍騎兵を正面から攻撃して拘束した。ハンニバルはすかさずマゴの指揮する予備の騎兵に対し、ローマ軍西翼騎兵の側背から攻撃させた。ローマ軍東翼の同盟軍騎兵はハンニバル東翼騎兵は河岸にくっついているので包囲攻撃できずに正面攻撃となってハンニバルの東翼騎兵ともみ合っていた。一方、中央ではヴァロの攻撃前進の命令によってローマ軍歩兵が勢い良く前進し、カルタゴ軍を圧迫した。ハンニバルは計画とおりに中央歩兵を少しづつ後退させてローマ軍を遅滞していた。このとき西翼ではハンニバルの騎兵がローマ騎兵を撃滅した。そしてローマ軍歩兵陣の背後を迂回して駆け抜け、東翼の同盟軍騎兵に対して背後から襲い掛かった。前後から挟撃を受けた同盟軍騎兵は東北方に逃走し、ハンニバル軍のヌミディア騎兵が追撃した。この間に中央では、ヴァロが歩兵の攻撃衝力を維持するために第二線の中隊を第一線の中隊の間隙に投入していた。さらにヴァロは第三線の歩兵にすら投入の命令を下していた。ハンニバルの中央歩兵は圧倒されて凹形の薄い陣形となって辛うじて陣形を保っていた。ハンニバルは突然、歩兵陣形の両翼を形成している不動の態勢で防御戦闘を続けている重装甲歩兵に対して攻撃前進を命令した。両翼のカルタゴ歩兵はローマ軍を包囲攻撃しはじめた。ローマ軍の背後からはハスドルバルとマゴの指揮する騎兵8千が襲いかかった。攻撃前進しているローマ軍歩兵の勝利の雄叫びは驚愕の悲鳴に変わった。殺戮が始まった。約1万のローマ軍兵士が着の身着のまま囲みをすり抜けて敗走したが、日暮れまでに執政官パウルスを含み6万が戦場の露と消えた。ハンニバルの宿営陣地を攻撃したローマ軍も2千の損害を出して敗退した。不名誉にもヴァロはわずかな敗走者の中にあった。ハンニバル軍の損害は戦死・戦傷合計約5千であった。

名将ハンニバルの作戦を参考にしたシュリーフェンは、フランスに対する大包囲殲滅戦を計画した。少し長文になるが、リデルハートがシュリーフェン作戦の骨格を詳細に記述しているので、以下に取り上げてみる。

シュリーフェンの計画は、独軍の行うべき巨大な旋回の右翼方面にドイツ軍の主力を集中するものであった。この右翼は、ベルギー及び北フランスを通過した後、大規模な弧を描いて前進し、その後次第に左方、つまり東方へ旋回することになっていた。その右翼端はパリの南方を通過し、ルーアン付近でセーヌ川を渡航し、モーゼル河に向かって仏軍を圧迫し、その仏軍を、ローレンの要塞群及びスイスで国境で構成した鉄砧に押し付けてその背後から大鉄槌を加えようとするものであった。この計画の実に巧妙な間接性は、この地理上の迂回にあるのではなく、その兵力配分と作戦指導構想とにあった。作戦開始時の構成集団は予備部隊と現役部隊とを混用することにより、緒戦の奇襲を狙っていた。こうして使用可能となる72個師団のうち、53を旋回集団に割当て、ヴェルダン要塞に面する旋回軸の構成に10を当て、フランス国境に沿う左翼の構成にわずか9を当てることになっていた。このように、左翼の兵力を最小限に抑えたことは、その左翼の薄弱さそのものによって、旋回する集団の効果増大を抜け目なく計算したものである。(略)(「戦略論」p168:リデルハート)

カンネーの戦いにおいて、ハンニバルは西翼に、ローマ軍を上回る騎兵を置いて、ローマ騎兵を撃退した後、その西翼の騎兵を東翼に周りこませ、カルタゴの東翼騎兵との挟撃により、ローマの東翼騎兵部隊を殲滅させた後、ローマ軍の中央歩兵の背後を攻撃させている。これによって、ローマの重装歩兵に押し込められたカルタゴの軽装歩兵とその背後にいたカルタゴ重装歩兵と背後に回り込んだカルタゴ騎兵により包囲陣形を組み、ローマ歩兵を殲滅させたのである。シュリーフェンはこのカンネーの包囲作戦の成功を導いたカルタゴの西翼騎兵の役割をシュリーフェン作戦の右翼に72個師団のうち、53個師団を旋回集団に割り当てることによって実現しようとしたのである。

france2

まとめると、シュリーフェン作戦の概要は次のようになる。

①ドイツ軍の全兵力の8分の1で東部のロシア軍に備え、残る8分の7の兵力で西部のフランスを強襲する

②フランスを撃破するための期間は6週間を目標とする。

③短期間にフランス軍を撃破するために、カンネーの戦いを参考して、ドイツ軍右翼に、72個師団のうち、53師団を割り当てる。

④フランスを撃破した後は、迅速にロシアとの東部戦線に割り当てる。

リデルハートはこのドイツ軍の奇襲作戦を完全なる間接的アプローチであったと賞賛している。シュリーフェンは第一次世界大戦前に既に死去しているのだが、世を去ったシュリーフェンもフランス軍がワナにはまった事を知れば天国からほくそ笑んでいたに違いないとも言っているのだが、史実はシュリーフェンが天国からほくそ笑むことはなかったのである。なぜなら、シュリーフェン亡き後にドイツ軍参謀総長に任命されたヘルムート・フォン・モルトケ(モルトケの甥、叔父は大モルトケ、彼は小モルトケと呼ばれた。)によって、シュリーフェンプランは骨抜きにされたからである。シュリーフェン作戦において、右翼軍は西部戦線の前兵力の8分の7を持つものとされていたのを、小モルトケは3対1へと改め、また東部戦線にロシア軍が進出すると右翼軍からそうそうに2個軍団を引き抜き、シュリーフェンプランを台無しにしてしまったからだ。

france2

1905年から、1914年までの間に、小モルトケは、さらに多くの兵力が使用可能となるに従って、右翼に比して、不均衡なまでに左翼の兵力を増強した。彼は、左翼を安全にすることによって、計画自体を不安全にし、そしてシュリーフェン計画の基盤を掘崩し続けて遂にそれを崩壊させるに至った。(「戦略論」p169:リデルハート)

この小モルトケによる作戦変更により、シュリーフェンプランは本来の計画の徹底性を失ったまま遂行される。その後、ドイツ軍はベルギー領を通過して、で英仏軍を撃破した後、フランス領に進出する所までは計画通り良かったが、9月6日-9日にかけて戦われたマルムの会戦で前進を阻止され、西部戦線は膠着状態のまま、長期化することになったのである。第一次大戦を迅速に終結させることができずに、多大なる損害を生じさせたのは、この小モルトケによるシュリーフェン作戦の変更にあったのである。

後編に続く


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