第二次世界大戦とリデルハート


目次


序章

第二次世界大戦の前夜

第二次世界大戦の概略

グデーリアンの電撃戦

第二次世界大戦と間接アプローチ戦略(1)

第二次世界大戦と間接アプローチ戦略(2)

序章

リデルハートが提唱した「間接的アプローチ」理論は、軍事に止まらず、今日においても、情報戦争、金融戦争、テロ戦争などと呼ばれる非対称戦争の中核となる理論である。リデルハートは「戦略論」において様々な時代の戦争を分析しているが、最も詳細に取り上げているのは、彼が実際に生きた時代に起こった第一次世界大戦と第二次世界大戦である。第一次大戦については前回のコラムで既に取り上げたので、本稿では、第二次世界大戦における史実を振り返ることにより、間接アプローチの理論について学ぶことを目的とする。ただし、特にリデルハートは第二次世界大戦において、ナチスのヒトラーの政権の軍事理論に多くのページを費やしている。よって、まずは、ナチスがドイツの政権を奪取し、連合軍に降伏するまでの史実を簡単に振り返り、その後、第二次世界大戦における間接アプローチの実際をナチス・ドイツに焦点を当てて考えてみよう。

第二次世界大戦の前夜

1918年11月に、ドイツの軍港キールで起こった水兵の反乱をきっかけにして、ドイツ全体で革命が起こり、ドイツ帝国は崩壊、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。この政治的な空白に社会民主党を中心とする「ドイツ共和国臨時政府」が発足し、連合国側と休戦条約を調印、4年に渡る史上初の第一次世界大戦はここに終結することになった。第一次世界大戦が終結してから、1939年に、第二次世界大戦が開始されるまでのドイツを中心とする戦間期(Inter War Period)は大きく次のように分類されるであろう。

(1)1918年-1923年: 戦後混乱期
(2)1924年-1928年: 相対的安定期
(3)1929年-1939年: 大混乱期 (ナチスの台頭)

この史実の流れに沿って、第一次世界大戦が終了してから、第二次世界大戦が開始されるまでの概略を振り返ってみよう。


(1)1918年-1923年: 戦後混乱期
連合国と、休戦条約を調印した社会民主党を中心とする「ドイツ共和国臨時政府」はドイツ国内の治安の回復に努めるが、1919年1月、敗戦後のドイツを一挙に、社会主義に転換させようとするスパルタクス団の反乱(ドイツ共産党の前身)により大混乱する。このスパルタクス団による武装蜂起が、軍部と結託した臨時政府により、鎮圧された後、新しい憲法を制定するための憲法制定議会の選挙が行われる。そして、1919年6月には、ベルサイユ条約に調印し、1919年8月に新生ドイツの基本方針となる憲法(ヴァイマル憲法) が採択される。ちなみにこの憲法の下で運営されるドイツ共和国は、ヴァイマル共和国と呼ばれる。

ヴァイマル共和国においても、ドイツ国内は継続して不安定な状態に見舞われる。1920年には、ベルリンで帝政復活を目指す政治家が武装蜂起し(カップ一揆)、1923年にはヒトラー・ナチスが波乱を起こす(ミュンヘン一揆)。また一方で、ルールやザクセンなどの工業地帯においても、ドイツ共産党が反乱を起こし、成立直後のヴァイマル体制は常に動揺に見舞われることになる。また、1923年頃から、ドイツ国内において、急激なインフレーションが加速し、国民生活は破滅的な状態に見舞われることになった。この急激なインフレがドイツ国内で起こった原因は1919年のベルサイユ条約において、敗戦国ドイツに課せられた1320億金マルクという天文学的な賠償金にある。当然ながら、敗戦国のドイツがそれだけ巨額の賠償金を支払うことはできず、常に戦勝国であるフランスなどには支払いを拒絶していたが、怒ったフランスはドイツ工業地帯の心臓部である「ルール地方」を実行支配した。しかし、これに対して、ドイツ政府はルール地方の労働者に対して、徹底した仕事のサポータージュを呼びかける。この消極的抵抗によって、ルール工業地帯の生産は完全にストップしてしまうが、ドイツ政府は、復員兵士のための年金や、ルールの労働者・公務員・失業者に大量の支援金を支給しなければいけなかったので、紙幣の増発に歯止めをかけることができなかった。したがって、ルール工業地帯の生産停止と紙幣の増発という事態が爆発的なインフレを加速させる要因となった。この加速的な国家の危機を克服するために、当時のシュトレーゼマン首相は、マルクに代わり、新紙幣レンテンマルクを発行。ただちに、ルール工業地帯における消極的抵抗を中止し、外国に向かって、ベルサイユ条約に基づく賠償義務の履行を宣言する事により、生産力と国際的信用の回復を図ることに成功した。

(2)1924年-1928年: 相対的安定期
1924年になると、ドーズ案というドイツに対する経済復興案が発表される。このドーズ案に対して、ドイツに対する賠償金の支払い期間の延長と、アメリカによるドイツに対する資本援助が決定される。英仏が第一次世界大戦における戦債の支払いをアメリカに行い、このアメリカがドイツにドーズ案に基づく、資本提供をし、ドイツが英仏に対して賠償金を支払うという資金循環(ベルサイユ条約循環)は、ヨーロッパ諸国を混乱から、安定と協調に導く大きな原動力となった。その後、1926年にドイツは国際連盟の加盟がようやく認められ、1927年にはジュネーブ海軍軍縮会議、1928年にはパリ不戦条約によって、ヨーロッパは軍事的にも安定化の方向へと向かった。

(3)1929年-1939年: 大混乱期 (ナチスの台頭)
1929年になると、1928年まで、 ヨーロッパが相対的に安定していたのが嘘のように、世界は大混乱に陥ることになる。大混乱の引き金となったのは、1929年10月に起こったアメリカ発の世界大恐慌である。これによって、1924年以来、ドーズ案によって、アメリカから輸出されていた資本が停止。ドイツはまたたく間に生産がストップされ、600万人に及ぶ失業者が生み出された。

大恐慌勃発時のドイツ大統領はヒンデンブルクはこの経済的混乱を鎮静化するために、憲法第48条に基づいて、大統領緊急令を行使し、ブリューニング以下、3人の首相を任命するが、事態の打開を図る事はできず、1933年、4人目の首相としてヒトラーを任命した。大恐慌時におけるナチスの広報宣伝能力は他の追随を全く寄せ付けないほど卓越したものであったと言える。それはこの期間におけるナチスの議会における議席数の獲得によって証明される。

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1928年5月20日
共産党(54) 社会民主党(153) 民主党(25) 中央党(62) 人民党(45) 国家人民党(73) ナチス(12)

1930年9月14日
共産党(77) 社会民主党(143) 民主党(20) 中央党(68) 人民党(30) 国家人民党(41) ナチス(107)

1932年7月31日
共産党(80) 社会民主党(133) 民主党(4) 中央党(75) 人民党(7) 国家人民党(37) ナチス(233)

1932年11月6日
共産党(100) 社会民主党(121) 民主党(2) 中央党(70) 人民党(11) 国家人民党(52) ナチス(196)

1933年5月5日
共産党(81) 社会民主党(120) 民主党(5) 中央党(74) 人民党(2) 国家人民党(52) ナチス(288)
()は議会における議席数
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1933年1月30日にヒンデンブルクによって、首相に任命されたヒトラーはドイツ国内における権力を獲得することに成功する。その後、ヒトラーは反ナチス派をドイツ国内から、追放するために国会議事堂放火事件を口実にして、ドイツ共産党を弾圧し、非合法化する。そして、3月5日に、総選挙を行い、ナチスは288議席を獲得し、非合法化された共産党を除いて、ナチスの単独過半数が成立、一党独裁体制への道が開かれることになった。1933年3月23日には、ヒトラー政府に独裁を認める全権委任法が成立したことにより、議会は機能停止、ヴァイマル憲法と共和制は完全に崩壊することになった。1934年になると、ヒトラーはナチス党内の反ヒトラー勢力を一掃するため、突撃隊隊長エルンスト=レームの一派を粛正を図り、実行を成功させる。同年、大統領のヒンデンブルクが死去したことから、ヒトラーは首相と大統領を兼ね揃えた総統(ヒューラー)の地位へと上り詰める事についに成功する。ヒトラーは卓越した広報宣伝能力による議会工作と党内における反ヒトラー派の一掃を行うのと同時に、際立った経済政策を成功させた。600万人の失業者を救済するために、ヴェルサイユ条約で制限されていた軍需産業を復興し、高速道路建設などの大土木工業事業などを行った。その結果、ドイツ国内の失業者の数は0となり、ドイツ国民のヒトラー政権への期待はますます強まることになった。

次に、ナチス・ドイツ政権における対外的な動きを確認していこう。まず、1933年にドイツ国内における権力を掌握したヒトラーは1934年に、国際連盟を脱退する。1935年になると、体制固めに成功したヒトラーは住民投票を通じてザール地方をドイツ領に編入し、(注:ザール地方はヴェルサイユ条約に従って、15年間国際連盟による管理が行われていた所、その年限が終了したので、住民投票によってドイツへの帰属が認められた。)そして、この年のヒトラーはヴェルサイユ条約を無視して、再軍備宣言を発表。この動きに対して、ナチス・ドイツの膨張を阻止することを目的として、イギリス、フランス、イタリアはストレーザ戦線と呼ばれる軍事提携を樹立。さらに、1935年5月には仏ソ相互援助条約が締結され、イギリス、フランス、イタリア、ソ連による対ドイツ包囲網が完成。この時点で、ナチス・ドイツの対外的な膨張は完全に阻止されるかと思われたが、ここで、イギリスがドイツに対して、宥和政策を行うようになった。イギリス首相のボールドウィンはベルサイユ条約海軍条項の破棄という結果をもたらす英独海軍協定を結び、ドイツが対英35%の海軍力を持つ事と、対英45%の潜水艦を持つ事を認めた。1935年の段階では、イギリスにとって、ドイツよりもソビエト連邦の存在の方が脅威であり、仏ソ相互援助条約を締結したソ連が、イギリスの最重要植民地であるインドと、多額の資本を投じて油田開発を行っているイランに進出するのを警戒して、ドイツに対して一定の軍事力の保持を認めるということになった。このイギリスの思惑によって、対独包囲網の一角がもろくも崩れさることになった。1936年に入ると、ドイツはロカルノ条約を破り、ラインラント(ドイツとフランスの国境線のドイツ側の領土)に進駐する。さらに状況はドイツ側に有利に変化していった。対独包囲網の一角を担っていたイタリアがドイツとの間に、ベルリン=ローマ枢軸と呼ばれる友好関係が成立。イタリアは、エチオピアを侵略したことが国際的な非難の対象となり、孤立感を強めていたので、同じファシズム国家であるナチス・ドイツと提携する道を選ぶ。一方、同じ1936年に、日本とナチス・ドイツは、共産主義の拡大を防ぐという名目で、日独防共協定を締結、翌年、1937年にはこの協定にイタリアが加盟し、三国防共協定が締結される。そして、同年イタリアが国際連盟からの脱退を発表する。日本、ドイツ、イタリア三者の関係はこの後も強化されていく。1939年にイタリアとドイツの間で、鋼鉄条約という軍事同盟が結ばれ、この翌年1940年には、このドイツとイタリアの軍事同盟に加わる形で、日独伊三国軍事同盟が締結される。この時はすでに、ドイツはポーランドに侵攻し、第二次世界大戦は開始されている。

少し時代を前に戻し、1938年のドイツを中心とする国際的な動向を確認してみよう。1938年2月、ヒトラーは長年の念願であったオーストリアを併合し、同年3月に隣国のチェコスロバキアを脅迫し、その領土内にあるズデーテン地方の併合を強圧的に要求する。ズデーテン地方は、兵器産業が特に発展していたので、ヒトラーの強圧的な領土割譲の原因となったが、ナチス・ドイツの軍事的脅威が英仏を上回るような危機に対して、英仏首脳はミュンヘン会談をドイツ、イタリアに呼びかけ、この4ヵ国でチェコの領土問題に話し合われることになった。この席上で、ヒトラーは「ズデーテン地方こそは最後の領土要求である」と発言し、イギリス、フランスからの妥協を引き出したが、これが虚言であったことは翌年、1939年に証明されることになる。

1939年は世界の歴史において、最も激動の時代と位置づけられるに違いない。1939年3月、ヒトラーはチェコスロバキアを事実上、軍事占領下に置いた。これによって、ヒトラーはチェコという"武器庫"を完全に掌握することに成功した。さらにリトアニアに対して、ヒトラーはヴェルサイユ条約によってドイツから分離させられていたメーメル地方を要求し、これを獲得する。またポーランドに対しては、ポーランド回廊を横断する陸上交通路、そして回廊の突端にある港ダンチヒの返還を要求した。この要求をポーランド側が拒否したことによって、ドイツとポーランド間に戦争の危機が高まり、全世界の注目を集めることになる。そして、1939年8月23日に驚愕の出来事が起こる。ナチス・ドイツが「不倶戴天の敵」であるソ連と「独ソ不可侵条約」を締結したのである。ドイツはポーランド侵攻時にフランスとソ連から挟撃されるという第一次世界大戦前夜に見た悪夢をひどく恐れ、ソ連は日本とドイツに挟撃されることを回避したかったので、両者の思惑が一致し、この条約が結ばれることになった。少し長くなったが、ここまでが第二次世界大戦が開始されるまでの概略である。

第二次世界大戦の概略

それでは、続いて、ドイツから見た第二次世界大戦について、駆け足で確認して見よう。ドイツは独ソ不可侵条約を締結した8月23日の1週間後に、最初の目的地であるポーランドに対する侵攻を開始した。1939年9月1日午前4時45分。100万の軍隊と2000機の飛行機がポーランド回廊とダンチヒに殺到した。これを見て、イギリスとフランスはドイツに対して宣戦布告し、ここに第二次世界大戦が勃発することになった。1940年春になると、ドイツ軍は北欧、西欧への侵攻を開始する。デンマーク、ノルウェーに続いて、オランダ、ベルギー、そして、1940年6月にはフランスが降伏する。ドイツ軍は、戦車隊を中心とした機甲部隊を戦闘にして、猛烈なスピードで進撃したので、フランス軍はこれに対して、全く対応が取れずに敗北することになった。このドイツ軍の戦い方は電撃戦と呼ばれるが、これについては後ほど再度取り上げる。

1940年夏の段階では、ドイツは北ヨーロッパ、西ヨーロッパ全域の支配を達成し、残るはイギリスのみとなった。同年、7月頃から、ヒトラーはドイツ空軍による徹底した爆撃をイギリスに行うが、イギリスの戦闘機部隊も奮戦し、ドイツ空軍に大打撃を与えた。その結果、ヒトラーはイギリス上陸作戦を無期延期にし、1940年12月に極秘命令を出して、西ヨーロッパに展開していた軍隊の多くを東方に移動させる。作戦開始時期は1941年3月だったが、バルカン半島の制圧に3ヶ月を要したので、独ソ戦の開始は1941年6月22日に開始されることになった(バルバロッサ作戦)。レニングラード、モスクワ、スターリングラードを目指し、ドイツ軍は当初、電撃戦により破竹の勢いで進撃した。開始の1ヶ月で実にソ連軍の30%の軍事力がドイツによって破壊されることになった。しかし、不幸だったのは、ナポレオンのロシア遠征と同様に、冬将軍がソ連の味方をしたことだった。同年10月から降り始めた雪によって、酷寒に晒されたことと、予想外の独ソ戦の勝利により戦線が伸び切ったことが災いして、ドイツ軍の前線における補給が困難な状態に陥っていた。そして、1942年6月にスターリングラードを巡る攻防戦(スターリングラード攻防戦)が開始され、双方合わせ150万人を超える戦死、戦傷者を出す壮絶な地上戦を行った結果、ソビエト軍に対し大敗北を喫したことが原因となり、ソビエトとの戦争において、モスクワまで迫っていたドイツ軍は徐々に後退を余儀なくされることになった。また、この頃、ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア連合軍が北アフリカで、連戦連勝していたものの、同年7月に行われたエル・アラメインの戦いでイギリス軍に対し、大敗北を喫し、ドイツ軍は、この時点で攻勢終末点を越えていたと言えるだろう。

1943年に入ると、アメリカ、イギリス連合軍はイタリアに上陸する。ムッソーリには国王と国民の支持を失って失脚し、ムッソリーニの後をうけたバドリオ内閣は連合国に対して、すぐさま無条件降伏をする。1944年4月には、ソビエト軍はクリミアやウクライナ地方のドイツ軍を撃退し、ほぼ完全に開戦時の領土を奪回することに成功し、更にバルト三国、ポーランド、ルーマニアなどに侵攻していった。一方、1944年6月、西からドイツ軍を粉砕するために、イギリス軍とアメリカ軍を中心に6,000を超える艦艇と延べ12,000機の航空機、17万5000人の将兵を動員した大陸反攻作戦(ノルマンディー作戦)が開始され、多数の犠牲者を出す事にはなったが、1940年6月以来の西部戦線が再び構築されることになった。東西から挟撃されることで、その支配領土を急激に減少させていたドイツ軍は、度重なる敗北で反抗の力をほとんど失い、1945年4月30日にヒトラーはベルリンの地下壕で自殺し、5月8日にドイツは無条件降伏した。

グデーリアンの電撃戦

1939年のドイツのポーランド征服とそれに続く1940年の西ヨーロッパの蹂躙とは、高速機械化戦争の理論の決定的な実例として軍事史上の大事件である。この理論は、はじめ英国で概念化されたが、採用されたのはドイツであった。それについては、ドイツ軍の機甲部隊の創始者グーデリアン将軍の努力に負う所が大きい。(略) 戦争の部面と世界勢力の均衡と部面との両面に革命をもたらしたこれらのキャンペーンは、また間接的アプローチの戦略の非情に意義の深い実例を示したものであった。「戦略論」p247:リデルハート

第二次世界大戦においてドイツ軍が、ポーランド侵攻や、それに続くフランス侵攻、独ソ戦時のバルバロッサ作戦で採用した戦闘教義は一般的に電撃戦と呼ばれる。このドイツ軍が開発・運用した電撃戦はリデルハートによって、間接アプローチ戦略の非情に興味深い実例として紹介されている。電撃戦とは、「戦車・装甲車などの自動化された部隊を航空機の空爆支援の下に、敵の戦線の一番薄い部分に自軍の攻撃を集中させて、突破し、敵陣の奥深くに浸透し敵の退路を遮断して包囲・殲滅することを目的とした戦闘教義」である。一見した所、ドイツ軍が採用した電撃戦の何が斬新であったかということは分からないだろう。電撃戦の生みの親であるグデーリアンはリデルハートの間接的アプローチ理論及び、陸軍の大規模な機械化と少数精鋭の機甲部隊を用いたチャールズ・フラーの機甲戦理論を徹底的に学び、独自の電撃戦という戦闘教義を確立している。グデーリアンの電撃戦を理解するキーワードは「徹底した機械化」と「間接的アプローチ」である。

グデーリアンの電撃戦の斬新さについて、「無形化世界の戦略と力学 長沼伸一郎著」に分かりやすく解説されているので、以下この著書に基づいて電撃戦について紹介してみよう。まず、電撃戦を構築する上で基礎となっているのは、前216年にカルタゴとローマとの間で戦われた「カンネーの戦い」である。

ハンニバルの戦闘教義(後編) 松村 劭

「カンネーの戦い」については、第一次世界大戦ーリデルハートでも紹介したので、詳細はそのコラムを参考にして頂きたいが、ハンニバルはローマ軍の主力となる重装歩兵を中央部に配置した軽装歩兵(ガリア歩兵)及び象部隊で引きつけている間に左翼に配置した騎兵部隊がローマ騎兵部隊を突破した後、右翼のカルタゴ騎兵部隊と合流し、ローマ軍に対して、包囲網を引いて殲滅させるという戦闘教義である。第一次世界大戦において、初めて登場した戦車(タンク)というのは、象部隊としての役割を担っていたのである。当時の西部戦線では、延々と何百kmにも渡って、鉄条網と塹壕陣地が出来上がっていたので、ドイツ軍、フランス軍ともその塹壕陣地を突破できずに戦争は長期化していた。なぜなら、ひとたびその鉄状網なり塹壕陣地を突破しようとすると、相手陣地に据えられた機関銃の威力によって、攻撃突破の試みは片っ端から挫折させられてしまっていた。そこで、この膠着状態を突破するために開発されたのが、戦車(タンク)である。戦車は機関銃の弾丸を片っ端から跳ね返して、機関銃陣地の威力を無力化しながら、鉄条網と塹壕を乗り越えて、前進することができる新兵器として登場したのである。

これだけを見ると、第一次世界大戦の西部戦線において、初めて登場した戦車(タンク)は、騎兵としての役割というよりは、象隊としての役割を期待されていたことがお分かりいただけるであろう。当時の戦車は騎兵のように長距離を高速で走り抜けるような能力よりも、正面から相手側の反撃をすべてねじ伏せるという象隊としての能力が重要視されていたのである。しかし、第一次世界大戦が終わると、英国のリデルハートやチャールズ・フラーなどは、戦車を騎兵隊としての役割を期待するようになった。下手に装甲を厚くして、鈍重にするよりは、むしろ戦車の速度を速くして手薄な場所を迅速に突破した方が良いと考えたのだ。高速の戦車部隊が相手陣地を突破した後、手薄な後背地域に回り込み、相手野戦軍を包囲・殲滅させたり、相手の司令部付近まで突破した後、通信網などの中枢神経を分断し、敵軍を混乱させることを目的とするのである。こうなれば、ハンニバルの騎兵が行ったように、短時間で劇的に戦いを決着をつけてしまうことが可能となるのだ。この戦車の騎兵化を徹底した機械化により実現したのが、グデーリアンが開発した電撃戦である。第一次世界大戦において、戦車の運用思想そのものが全く一変してしまったのである。

第二次世界大戦と間接アプローチ戦略(1)

ポーランド侵攻作戦 秘匿名称「ケース・ホワイト」

ポーランドにとっては不幸なことであったが、同国は、間接的アプローチの戦略と機械化部隊との双方の結合にとっての理想的な展示場となった。ポーランドとドイツとの国境線は1200マイルであったが、その後、ドイツがチェコスロヴァキアを占領したので、さらに500マイル延長されていた。これによって、これまでポーランドの南側もまた、ドイツの侵略に暴露する結果となった。「戦略論」p248:リデルハート

それでは、第二次世界大戦のポーランド戦を題材にして、リデルハートによって、間接アプローチの興味深い実例と紹介された電撃戦についてその詳細を見てみよう。まずは、国境戦に配置されたポーランド軍に対して、ドイツ軍はボック上級大将率いる北方軍集団(第3軍、第4軍)とルントシュテット上級少将率いる南方軍集団(第8軍、第10軍、第14軍)上記の地図のように配置させている。南部におけるルントシュテット軍集団はボック上級少将の率いる北方軍集団に比べて、歩兵において、2倍の兵力を与えられて、機甲兵力ではさらにそれを上回る兵力が与えられていた。一方で、航空兵力の重点は北方に置かれていた。ドイツ軍の作戦意図は、国境付近で対峙しているポーランド軍が、首都ワルシャワとビスワ川まで後退して、塹壕線を構築することを阻止し、国境付近で敵を包囲・殲滅することを目的としている。そのために、ドイツ軍はワルシャワを陥落させる前に北方第4軍と南方第10軍によって、国境付近のポーランド軍を包囲・殲滅し、この包囲陣によって、補足できなかったポーランド軍を東プロイセンから進撃する第3軍と南方第14軍によって、2重包囲した後、殲滅させる作戦を取った。名将ハンニバルが指揮した「カンネーの戦い」で、最左翼に位置した騎馬兵が対峙するローマ騎馬兵を打ち破った後、ローマ重装歩兵の背後に回り込み大包囲陣形を形成したのは、間接的アプローチ戦略として、有名だが、ナチス・ドイツ軍はこの機械化した機甲師団及び自動車化師団を左翼と右翼に持ってくることによって、「カンネーの戦い」におかる騎馬兵の役割をこの機械化師団に担わせている。しかし、このドイツ軍による電撃戦は包囲陣形が2重になっているということから、ハンニバルの包囲陣形よりも完成度が高かったと言える。



 ドイツ陸軍


  北方軍集団 (司令官・フェドル・フォン・ボック上級大将)


    第3軍 (キュヒラー大将)


       歩兵師団 (第1、11、12、21、61、217、228の6個師団)

       第10装甲師団 (開戦後、第4装甲旅団から改編)


    第4軍 (ギュンター・フォン・クルーゲ砲兵大将)


       歩兵師団 (第3、23、32、50、207、218の6個師団)


      第19装甲軍団 (ハインツ・クデーリアン装甲兵大将)


       第3装甲師団

       第2自動車化歩兵師団

       第20自動車化歩兵師団  


   軍集団予備


       歩兵師団 (第73、206、268の3個師団)



  南方軍集団 (ゲルト・フォン・ルントシュテット上級大将)


    第8軍 (ブラスコヴィッツ大将)


       歩兵師団 (第10、17、24、30の4個師団)


    第10軍 (ヴァルター・フォン・ライヘナウ大将)


       歩兵師団 (第4、14、18、19、31、46の6個師団)


      第14装甲軍団 (ヴィッテルスハイム大将)


       第13自動車化歩兵師団

       第29自動車化歩兵師団


      第15装甲軍団 (ヘルマン・ホト大将)


       第1軽快師団 (軽装備の装甲師団)

       第3軽快師団


      第16装甲軍団 (エーリッヒ・へプナー騎兵大将)


       第1装甲師団

       第4装甲師団


     第10軍予備


       第2軽快師団


    第14軍 (ヴィルヘルム・リスト上級大将)


       歩兵師団 (第7、8、28、44、45、239の6個師団)

       第1騎兵師団


      第22装甲軍団 (エヴァルト・フォン・クライスト大将)


       第2装甲師団

       第4軽快師団


     第14軍予備


       第5装甲師団

   軍集団予備


       歩兵師団 (第27、62、68、213、221の5個師団)


  以上、

  装甲師団6個、軽快師団4個、自動車化歩兵師団4個、

  歩兵師団37個、騎兵師団1個


  総計52個師団


   (一個師団は通常約1万~2万名から成り、その兵員数は兵科、

   国籍によって異なる)




 ドイツ空軍


  第1航空軍 (アルベルト・ケッセリング大将)


     北方軍集団の支援を担当


    第1航空師団 (ウールリッヒ・グラウアート中将)


      第4軍の支援を担当


     第1爆撃航空団

     第26爆撃航空団

     第27爆撃航空団

     第2急降下爆撃航空団 第2、第3飛行隊

     第1駆逐機航空団 第1、第2飛行隊

     第1教導航空団 第4飛行隊

     第2教導航空団 第1飛行隊


   東プロシア方面航空部隊 (ヴィルヘルム・ヴィマー大将)


      第3軍の支援を担当


     第1戦闘航空団 第1飛行隊

     第21戦闘航空団 第1飛行隊

     第2爆撃航空団

     第3爆撃航空団

     第1急降下爆撃航空団 第1飛行隊


    教導師団 (ヘルムート・フェルスター中将)


     第1教導航空団(一部欠)

     第2教導航空団(一部欠)

  第4航空軍 (レール上級大将)


     南方軍集団の支援を担当


    第2航空師団 (レルツァー中将)


     第4爆撃航空団

     第76爆撃航空団

     第77爆撃航空団

     第76駆逐機航空団 第1飛行隊


  特別任務航空部隊 (ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将)


       第10軍の支援を担当


     第77急降下爆撃航空団(一部欠)

     第2駆逐機航空団 第1飛行隊

     第2教導航空団 第2飛行隊



 以上

 第1航空軍計  795機 (爆撃機は519機)

 第4航空軍計  507機 (爆撃機は360機)

 総計     1302機 (爆撃機879機)


*各航空団は司令部小隊と3~4個飛行隊から編制され、一個飛行隊の配備定数は30~36機であった。

 

それでは、ポーランド侵攻作戦における実際の経過を確認してみよう。ポーランド侵攻は1939年9月1日に開始される。まず、第4軍クルーゲの前進によって、ポーランド回廊は遮断され、ヴィッスラ河下流に到達。一方、第3軍キュヒラーが、東プロシアからナレフ側に向かって進行した。さらに、第10軍ライヘナウの機甲部隊はヴァールタ河にまで突破を行い、第14軍のリスト軍はクラコフに向かう分進合撃を実施していた。9月4日までに、第10軍ライヘナウの機甲部隊は国境から内側へ50マイル入ったピリーツァ河を渡河し、その2日後には彼の左翼はトマーショフを超えてそのかなり前方まで前進し、その右翼はケェルツェへ進入していた。ドイツ軍の作戦計画が順調に実施されているので、ドイツ陸軍総司令官ブラウヒッチは、首都ワルシャワがあるビスワ河まで、この前進行動を東方へと継続させることを指示した。しかし、南方軍ルントシュテット上級大将とその参謀長マンシュタインは、ポーランド軍主力が依然として、ビスワ河の西方にあり、その場所で補足可能である事を知り、計画の変更を主導した。第10軍ライヘナウの機甲部隊の左翼はロッズ付近にあったポーランド軍大兵力の集中地の背後を目指し、北方へ旋回し、ロッズ及びワルシャワ間にあるブズーラ河沿いに狙塞陣地を確立するように指示。この北方への旋回行動の結果、このポーランド軍の大兵力は退路を遮断されて、ビスワ河を超えて撤退することができなくなった。この第10軍の旋回行動によって、名将ハンニバルのカンネーの戦いにおける「包囲陣形」が完成したのである。

ドイツ軍はこの時点で、ビスワ河を目指して、突進してくるポーランド軍を迎え撃ちさえすれば良かったのである。ポーランド軍は首都ワルシャワからは遮断されており、補給物資は運搬されず、その背後と両翼にはプラスコヴィッツの第8軍とクルーゲの第4軍によって逐次圧迫を受けつつあった。ポーランド軍は敵をも感嘆させたほど勇敢に戦って、ワルシャワ守備軍と合流しようとしたが、ほとんが果たせず、ドイツ軍の包囲陣形の餌食となった。9月10日、ポーランド陸軍総司令官スミグリー・リッツは、長期抵抗のため比較的狭い正面の防御戦を編成しようと望み、残余の兵力に対して、ポーランドの東南部へ向かい総退却を実施するように命令した。しかし、この退却するポーランド軍に対して、ドイツ軍はさらなる大包囲陣形を敷くことによって、ポーランド軍を殲滅することを計画する。大包囲陣形の左翼を担ったのはクルーゲの第4軍の先鋒をつとめたグーデリアンの機甲師団である。ポーランドの侵入にあたっては、ポーランド西北部にある回廊地帯を横断する突進を行って、孤立していた東プロシアに到達した。その後、9月9日に、グーデリアンはナーレフ河の線を越えて、さらに南に突進し、14日にはブーク河に沿うブレスト=リトフスクに到達した。そらに、40マイル先にあるグロータヴァを目指して進撃し、南方からせり上がって来るもう1つの鋏である第14軍第22装甲軍団クライストと合流して、大包囲陣形を完成させた。ロシア軍がポーランドの東部国境を越えた9月17日までには、ポーランド陸軍はドイツ機甲師団による二重の包囲陣形により崩壊させられていたのである。

第二次世界大戦と間接アプローチ戦略(2)

それでは、次にナチス・ドイツのフランス侵攻作戦を確認しよう。1939年10月上旬、ポーランドの蹂躙を終わった後、ヒトラーは西ヨーロッパ攻勢のための最初の指令を発している。ヒトラー・スターリン間の条約によって、ロシアの中立性が保たれるのは時間の問題であることから、ドイツは西部戦線のフランス、イギリスをできるだけ早く撃退して、東部戦線のロシア戦に備えなければならなかった。

-フランス侵攻作戦- 秘匿名称「ケース・イェロー」

-フランス侵攻作戦- 秘匿名称「ケース・イェロー」

それでは、西部戦線におけるドイツ軍の原計画案を確認してみよう。ハルダーを総長とする参謀本部が立案した原計画は、主攻はボックの指揮する「B軍集団」によって遂行され、他方、ルントシュテットの指揮する「A軍集団」がその左翼において、丘陵森林地帯アルデンヌを経て助攻を行うことになっていた。参謀本部はアルデンヌを戦車の通過至難な地区と見なしていたので、この助攻方面には何らの成果を期待しておらず、機甲師団の全部をボックの「B軍集団」に割当てていた。つまり、参謀本部が作成した原計画案とは、1914年の第一次世界大戦において採用されたシュリーフェン作戦の焼き直しでしかなかったのである。

-フランス侵攻作戦- 秘匿名称「ケース・イェロー」

しかし、本作戦は敵の最も予期しない所を、攻撃して相手の意表をつくという「間接アプローチ」ではなく、相手の予測している所を、予測通りに攻撃するという「直接アプローチ」作戦なので、早急にフランスを降伏させることは難しくなる。ルンシュテットの参謀長であったマンシュタインは、この計画があまりにも1914年の計画の繰り返しに似ており、そのため連合側が予期する攻撃の路線であり、連合側がこの攻撃に対処する準備を整えていると指摘し、攻勢重心を右翼から、中央へ移されるべきことと、主要な突出作戦が最も予期せられない路線であるアルデンヌを経て前進させられるべきと主張した。アルデンヌ高原は一見すると地形上機甲部隊の通過が困難に見えるが、機甲部隊を同地方で有効に使用することは可能であると考えていた。そして、彼のこの見解は機甲の権威グーデリアンの判決によって支持されていたが、マンシュタインの作戦案がドイツ参謀本部に採用されることはなかった。

しかし、ここで事件が起こる。1940年1月10日、ドイツ空軍第二航空艦隊参謀将校が飛行機事故に遭遇、ベルギー領内へ不時着してベルギー軍憲兵に逮捕され、作戦計画案が記載された書類の一部を押収されてしまったのである。1月16日ヒトラーは作戦内容の変更を決意した。第一次世界大戦に従事し、塹壕戦の悲惨さを経験していたヒトラーはマンシュタインによる電撃戦を採用することを決定したのである。マンシュタインの計算は鋭い。ドイツ軍のB軍集団を主攻と勘違いした連合軍がベルギー領内に深く推進すればするほど、ドイツ軍がアルデンヌを通過して連合軍の背後に迫り挟撃することが可能となるのである。

アルデンヌの森の写真

-フランス侵攻作戦- 秘匿名称「ケース・イェロー」

次に、実際の戦いの経過を確認しよう。機甲師団の多くはA軍集団に配置され、B軍集団の侵攻ルートにはベルギー、オランダの要塞が各地に存在するので、空挺部隊による制圧が行われることになった。オランダでは、5月10日早朝に、ドイツ軍空挺部隊が、首都のヘーグと同国の交通中心地ロッテルダムの奇襲降下を行うと同時にロッテルダムの東方100マイルにある国境防御線に対して地上軍による強襲を実施した。前線と背後への同時攻撃によって、オランダは混乱状態に陥り、戦闘が始まってから、5日目には、オランダは降伏した。ベルギーへの地上攻撃はライヘナウ指揮する第6軍によって開始され、この攻撃支援として500名の空挺隊員が参加した。ドイツ軍の進撃により、ベルギー軍はディール河の線まで後退したが、ここで、イギリス、フランス軍と合流することになった。

その間に、ルンシュテット率いるA軍集団の機甲部隊はフランス国境を目指して、ルクセンブルグ及びベルギー領ルクセンブルグを迅速に移動した。このルンシュテットの機甲部隊は、70マイル幅のアルデンヌを通過し、途中で弱い抵抗をはねのけながら、フランス国境を超え、攻勢開始第4日早朝にはミューズ河の河畔に到達した。5月14日の午後までにルンシュテット軍集団のグーデリアン機甲部隊はミューズ河の渡河を完了し、フランス軍の反撃を撃退した後、フランスの首都パリではなく、英仏海峡諸港を目指して、さらに西へ進撃したのである。この後、グーデリアンの機甲師団はさらには速さを増し、5月20日には疾駆して、アミアンに入り、アッペヴィルを越えて海岸に到達し、ベルギーにある連合軍の交通線を遮断することに成功したのである。これによってベルギーで、ドイツB軍集団と戦っていた英仏軍に完全に前後から挟撃できる体制を整えることに成功した。

5月16日、A軍集団が背後へなだれ込んだことを知らされた連合軍は総退却を開始するが、機動力に勝るA軍集団にパリ方面への退却を阻まれ、イギリス海峡方面への脱出を試みる。英軍に残された最後の脱出港湾であるダンケルクへの突進の継続は23日ヒトラーの命令によって停止された。英仏軍はヒトラーの謎の停止命令により、九死に一生を得たことになる。2日後に命令は撤回され、前進が再開されたが、それまでに連合軍の防御態勢も強化されており、英軍22万4千人、連合軍11万4千人が脱出することに成功した。ドイツ軍はダンケルクを制圧したのは6月5日のことである。5月28日にはベルギーはドイツに降伏している。このマンシュタインの発案した作戦計画により、ドイツは6万人の死傷という少ない犠牲において、100万人の捕虜を獲得する事に成功したのである。その後、フランスは残存部隊とマジノ要塞から引き抜いた歩兵主体の軍隊で戦うしかなかった。ダンケルクの包囲戦が終わり、ドイツ軍がフランスへ進撃すると、6月10日にフランス政府はパリを放棄、14日にはドイツ軍はパリへ入場してフランス政府は崩壊し、本土のペタン元帥率いる和平派政府とイギリスで樹立されたド・ゴール率いる自由フランス政府に分裂した。

以上で、第二次世界大戦におけるドイツ軍によるポーランド侵攻とフランス侵攻の概略を確認した。これらの戦争において、ドイツ軍が短期間に大勝利を挙げる事ができた最大の根拠はグデリーアンにより開発された新戦闘教義「電撃戦」のおかげと言っても言い過ぎではないであろう。リデルハートの「間接的アプローチ」を徹底的に学んだグデーリアンは戦車部隊の徹底した機械化と集中運用を押し進めた。また、航空機を長距離砲のように使用し、敵を攪乱せしめた後に、戦車隊を相手陣地に進撃させたことで、より迅速な戦車部隊の機動を可能にした。また、前線にいる戦車部隊に無線通信が配備され、中央による集権的な指揮系統よりも、自らの判断で部隊を動かすことが奨励されたのも、「電撃戦」の効果をより増大させた要因と言えるであろう。

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