イースター文明を造ったのは、どこから来た民族だったのか。あの巨大な石の人像は、何のために作られたのか。あの巨石文明は、なぜ崩壊したのか。人々は、崩壊を防ぐために、どのような努力をしたのか。イースター文明にまつわる謎を解こう。
1. 誰がイースター文明を作ったのか
イースター島(ラパ・ヌイ)は、海底噴火によってできた、太平洋南東に位置する孤島で、火山噴火が終了して、しばらくして人間が定住を始めた。最初の定住がいつごろかに関しては諸説があり、西暦300年から1200年までの幅がある。
[Wikimedia:photo taken at 17:04, 29 March 2006 ]
イースター島での口承伝説によれば、ヒヴァ島(マルキーズ諸島の島)の首長であったホツ・マツアが、戦いに敗れて、あるいは別の説によると、ヒヴァ島が沈んだために、二艘のカヌーで、家族とともに、多くの動植物を携え、西方からイースター島に来たということになっている。
しかし、多くの人はこの伝承を信用しなかった。ヨーロッパ人がイースター島を発見した1722年当時、わずかな数の人々が、草葺きの小屋や洞窟で原始的な生活を送っていたことから、原住民がこのような巨石文明を築くことができたはずがないということで、ムー大陸説や宇宙人説などが出されたが、中でも多くの人の心を魅了したのは、ノルウェーの冒険家、トール・ヘイエルダールが提唱した南米説である。アメリカ大陸には、巨石文明があったから、その文明の担い手なら、イースター文明の担い手としてもふさわしいというわけだ。
ヘイエルダールは、この仮説を実証するべく、インディオが使っていた筏船と同様のコンチキ号で漂流実験を行い、イースター島よりも西にあるツアモツ諸島のラロイア環礁に到着した。但し、コンチキ号は、北上するフンボルト海流(ペルー海流)を自力で乗り越えたわけではなく、軍艦に曳航されたわけだから、この漂流実験が、筏船によるイースター島への南米人の渡航を実証したとは言いがたい。
ヘイエルダールは、イースター文明と南米の巨石文明の類似性に注目するのだが、彼が類似性として注目する性質の多くは、他のポリネシアの島々に見られる。例えば、アフに関していえば、ソシエテ諸島やマルキーズ(マルケサス)諸島にも、類似の石壇があり、その石壇ないしは祭祀場全体が「アフ」と呼ばれ、さらに、その上には、石製ないし木製の人像が立てられた。マルキーズ諸島のヒバ・オア島の石像は、腕をL字型に曲げ、腹に当てている点でモアイ像と似ている 。
典型的なイースター島のモアイは、最初の写真にあったように、細長い顔をしているが、最初からあのような形をしていたわけではない。上の写真は、ラノ・ララクにあるイースター島の古い石像である。これを見てもわかるように、モアイは、最初は、ビバ・オア島の石像と同様に、丸い顔をしていて、脚まであった(もしかすると、手と一体になった脚かもしれないが)。ここに、イースター島とマルキーズ諸島あるいはソシエテ諸島との連続性を見出すことができる。
イースター島の原住民は、その言語においても、DNAにおいても、完全にポリネシア人であり、過去において使用されていた石斧や釣針なども、ポリネシア的である [篠遠 喜彦,荒俣 宏:楽園考古学, 第一章]。だが、他方で、ポリネシアと南米の交易の証拠となる物もある。例えば、サツマイモである。サツマイモの原産は、南米のアンデス山脈であるが、イースター島をはじめとして、ポリネシアの島々では、広く栽培されている。
だから、ポリネシアと南米の交流の可能性も考えなければならない。フンボルト海流があるから、南米からイースター島に直接渡ることは困難かもしれないが、赤道海流に沿って、南米からマルキーズ諸島に行くことなら容易だし、赤道反流に乗って、マルキーズ諸島から南米に行くことも可能だったかもしれない。
木村重信氏は、ミクロネシア、ポリネシア、メラネシアの各オセアニア諸族の由来を次のような経路図で説明する。
[木村 重信:巨石人像(モアイ)を追って―南太平洋調査の旅, p.173]
この説によれば、オセアニア諸族の起源は、中国南部で、漢族に圧迫される形で、太平洋に進出していった。ポリネシアでは、サモアとトンガで最初に定住が始まり、その後マルキーズ諸島に移住し、ここを拠点に、ソシエテ、イースター、ハワイ、ニュージーランドへと分散していった。そして、南米とは、マルキーズで一時的な接触があったとするならば、ポリネシアでのサツマイモの栽培が説明できる。
2. アフとモアイは何のために作られたのか
イースターの文化がマルキーズやソシエテの文化と連続性を持つとするならば、前者において石壇と石像が持つ意味は、後者とほとんど同じと考えることができる。すなわち、石壇は、死者の遺骨を埋める墓であり、石像は、神的な祖先を象徴したものと考えることができる。実際、イースター島のアフの下からは人骨が見つかっているし、いくつかのアフがある特定の家系に属していることを原住民は記憶していた。
この点、イースター島のアフは、日本の祖霊社や合祀墓に近い。祖霊社というのは、子孫によって祖先代々の霊を祀るために、縁故の場所に設けられた祠である。合祀墓とは、表面に「何々家之墓」などと刻んだ墓碑を一基だけ建てて、その家代々の死者の遺骨を納める共同墓地のことである。
ソシエテ諸島のタヒチ島では、石像が所有地の境界を示すために立てられたりしていたから、家系のシンボルとして示差的機能まで持っていた。だから、モアイも、祖霊の像であると同時に、自分たちの家系集団のシンボルでもあるという、トーテムポール的な役割を果たしていたことだろう。しかし、この程度の理解では、モアイの宗教的意味を本当に把握したとは言えない。
モアイ崇拝の意味を知るためにも、モアイ崇拝の代替となった後継宗教の分析を行おう。イースター島では、資源の枯渇により、アフとモアイを建設することができなくなった1680年ごろ、軍事クーデターがあり、古い創造神であるマケマケを崇拝する新しい宗教が興り、それまで成人式などに行われていた鳥人(タンガタ・マヌ)儀礼が、宗教的意義を帯びるようになった。これは、モアイを建設し、倒しあって実力者を決めるよりもはるかに資源節約的な競争的儀式だった。
鳥人儀礼は、毎年9月に、戦士階級が主催した。彼らは、体力のある若者を選び、島の南西端にあるオロンゴ岬から対岸のモツ・ヌイ島まで、フカの群れる荒海を泳いで渡らせた。途中で命を落とす者もいたが、若者たちは、モツ・ヌイ島で、アジサシが産む最初の卵を手に入れようと競い合った。卵を手に入れて最初に泳いで戻ってきた若者の所属する地域集団は、鳥人(タンガタ・マヌ)の称号を取得し、その年の宗教的・世俗的権利を掌握する。
鳥人という称号は、鳥の卵を手に入れたという以上の意味があると私は思う。上の写真を見てほしい。青い海はまるで青い空のようであり、青い海を泳ぐ若者は、まるで青い空を飛ぶ鳥のようだ。海に浮かぶ島は、羊水の中の胎児のようであり、空の彼方にある異界のように見える。自分の若者が、この世とあの世を往ったり来たりすることができるということは、異界との通信能力があるということであり、それゆえ、鳥人は、宗教的権威を持つことができる。
日本の神道でも、人は死んだ後、山中や海上の他界といった生者の世界のすぐ近くにいて、盆や正月に子孫の元に帰ってくるとされている。そして、祖霊とこの世の子孫を媒介する神職や巫女は、宗教的権威を持つ。日本の天皇の本来の役割は、そうした媒介者である。
オロンゴの岩面には、マケマケ・鳥人や海・空を往来する動物とともに、女陰の絵が刻まれている。テペウの井戸の岩面にも、マケマケや鳥人とともに女陰の絵が刻まれて、その井戸の水を飲むとマナ(神秘的な力)を得るとの伝承がある [木村 重信:巨石人像(モアイ)を追って―南太平洋調査の旅, p.143] 。井戸が膣で、水が羊水だとするならば、あの世である胎内に戻って、羊水を持って帰ってくることで、マナが得られると考えられているわけである。
人は胎内から産まれ出てくる。だから、死ねば、胎内に戻ると考えることは極めて自然である。胎内があの世だとするならば、ペニスは、この世とあの世をつなぐ橋である。ここからペニス信仰が生まれる。鳥人信仰の前にあったモアイ信仰も、この信仰に基づいているのではないだろうか。そう考えれば、なぜ、モアイの顔が長細くなっていったのかが理解できる。
左の写真[Bjarte Sorensen:A close up of the moai at Ahu Tahai]に見られるように、後期のモアイの頭上には、プカオと呼ばれる赤色凝灰岩でできた帽子のようなものが載せられている。プカオには、モアイの頭の形状に合わせてくぼみがあり、さながらペニスを挿入された女陰のようだ。前期のモアイの頭には、プカオがないが、そのことは、前期のモアイにペニス的な意味がなかったことを意味するわけではない。プカオがない場合のモアイは、母なる大地に突き刺さったペニスとして見ることができる。だから、プカオが付けられるようになった背景には、あの世が地下ではなくて、天上にあると思念されるようになったことを示唆している。こうした異界観の変遷は、他の文化にも見られることである[永井俊哉:あの世は縄文時代どこにあったのか]。
モアイは、以下の地図に示されているように、海岸の近くに立てられている。
モアイは、海と陸の境界上に位置する。このことは、モアイが、あの世に相当する海とこの世に相当する陸との架け橋であることが意識されているからだろう。この点でも、モアイはペニス的なのである。
3. なぜイースター文明は崩壊したのか
花粉分析の研究から、イースター島は、かつては、椰子の木が生い茂る、豊かな森の島であったが、1300-1200年前ごろから、椰子の木が減少し始め、この島にはもともとなかったオオバコ、ナデシコ科、ギシギシ属など、牧畜や農耕に関係する植物が増え始めたということがわかっている[Flenley, J.R.et al (1991) The Late Quaternary vegetational and climatic history of Easter Island, Journal of Quaternary Science 6:85-115]。これは、イースター島に上陸した人々が、農耕牧畜のため、カヌーや家屋などを作るため、燃料を得るために、とりわけ、アフとモアイの建造のために、森林を大量に伐採したためと考えられる。
イースター島の森林はもともと消滅しやすい素地を持っていた。イースター島には高い山がなく、中緯度高圧帯に位置するために、降雨量は少ない。また、周囲の陸地と隔絶しているので、無機栄養分となる火山灰が他から供給されることもない。人口が増えすぎたからといって、容易に他の島に移住するということもできない。
森林破壊は、16世紀から17世紀にかけてピークに達した。このころ、部族間の紛争が起こり、モアイを倒し合う破壊合戦が起き、人肉食すら行われたと伝えられている。木材不足のため、カヌーが作れなくなり、他の島に逃げることもできなくなった。最盛期には、イースター島の人口は1万人前後となり、千体近いモアイが建てられたと推定されているが、1774年にイギリス人のジェームズ・クックがこの島の調査をした時には、森林は消滅し、モアイは半数が倒され、人口は600-700人程度になっていたと言われる。持続不可能な資源の搾取が惹き起こした悲劇である。
しかし、悲劇はそれで終わらなかった。1836年頃、ヨーロッパ人がもたらした天然痘で、多数の島民が命を落とし、さらに生存者の半数がペルーによって拉致され、奴隷として競売にかけられた。1872年には、島民の数は111人にまで減っていた。また、ヨーロッパ人が持ち込んだ羊が牧草を食べ、土壌浸食が起き、自生植物のほとんどが1934年には姿を消した。現在、生態系の回復が試みられているが、一度破壊された生態系を元に戻すことは容易ではない。
4. なぜ森林伐採が続けられたのか
それにしても、なぜ、あれほど高度な巨石建築物を造った文明人が、森林を破壊すれば、自分たちの生活が脅かされることになるという程度のことがわからなかったのだろうか。『文明崩壊』の著者、ジャレド・ダイアモンドもそうした問いを立てている。
I have often asked myself, "What did the Easter Islander who cut down the last palm tree say while he was doing it?" Like modern loggers, did he shout "Job, not trees!"? Or:"Technology will solve our problems, never fear, we'll find a substitute for wood"? Or: "We don't have proof that there are't palms somewhere else on Easter, we need more research, your proposed ban on logging is premature and driven by fear-mongering"?
私は、しばしば「最後の椰子の木を切り倒したイースター島民は、そうしながら何と言ったのだろうか」と自問した。現代のきこりのように「これは仕事なんだ、木なんてどうでもいい」と叫んだのか。あるいは「技術が問題を解決してくれる。心配無用。そのうち木の代わりが見つかるさ」なのか。あるいは「イースター島の他のどこかに椰子の木がないという証拠はない。もっと調査が必要だ。君の伐採禁止令は時期尚早であり、扇動屋にたぶらかされた産物だ」なのか。
これは森林伐採を続ける現代人に対する皮肉なのだろうが、当時のイースター島民が考えていたことは、このどれでもないだろう。彼らは、資源となる生命が次々と死に絶えていくという危機を悪化させるためにではなくて、その危機から救われるためにモアイを建てていたはずだ。彼らが、あの世とこの世の通路であるモアイに期待していたのは、祖霊があの世からこの世へ回帰することで、生命を死から再生させるマナであったに違いない。
それならば、なぜモアイ像は倒されたのか。ダイアモンドは、次のように言う。
Easter Islander's toppling of their ancestral moai reminds me of Russians and Romanians toppling the statues of Stalin and Ceau?escu when the Communist governments of those countries collapsed. The islanders must have been filled with pent-up anger at their leaders for a long time, as we know that Russians and Romanians were. I wonder how many of the statues were thrown down one by one at intervals, by particular enemies of a statue's owner, as described for Paro; and how many were instead destroyed in a quickly spreading paroxysm of anger and disillusionment, as took place at the end of communism.
イースター島民が祖先伝来のモアイ像を倒したことを聞いて私が思い出すことは、ロシア人やルーマニア人が、これらの国々の共産主義政府が崩壊した時に、スターリンやチャウシェスクの像を倒したことである。島民は、ロシア人やルーマニア人のように、長い間鬱積した指導者への怒りに満ちていたにちがいない。パロに関して記述されていたように、像の所有者の特定の敵によって、一つ一つ、間隔を置いて倒された像はいくつあったのだろうか、そうではなくて、共産主義の終末で起きたような、怒りと幻滅の爆発的な発作の中で、破壊された像はいくつあったのだろうかと思う。
パロというのは、最後に倒されたモアイ像で、ある妻が夫の慰霊碑として建造したパロが、妻の一族の敵によって倒されたと伝えられている。これに対して、自分の家系のモアイ像を自分たちで倒したという話はない。だから、ロシア人やルーマニア人が、スターリンやチャウシェスクの像を倒したというのとは、わけが違う。一番最後ですら、モアイ像は、幻滅から倒されたのではなかったのだ。島民は、宗教を変えることはしても、宗教を捨てることはしなかった。
モアイ像の倒し合いは、むしろ、多神教が一神教へと収斂していくプロセスで生じた神々の争いではなかったのか。モアイは、自分たちの子孫しか庇護しないから、モアイ崇拝は、血縁関係に基づく多神教にとどまる。資源が豊富で、各部族が共存できる時は、多神教が維持される。しかし、ちょうど、経済環境が悪化すると、企業が淘汰・整理されるように、生活環境が悪化すると、神々も淘汰・整理されるようになる。あるいは、少なくとも、神々に序列ができる。
私がそう想像するのは、モアイ崇拝の後に生まれた鳥人儀礼が、そうした構造を持っているからだ。モアイ崇拝では、司祭が世襲で地位を引き継いでいた。だが、新たに生まれた宗教では、最高神が実力で決まる。実力で決まるといっても、モアイ像を建てて倒すというような浪費的なことはしない。その意味では、私たちは、ここに、多神教から一神教への宗教の合理化の一例を見て取ることができる。
子供が成長するにつれ、関心が母から父へと移っていくように、人類もまた、文明時代になると、地母神に代わって天父神を崇拝するようになる。かつて地下や海にあった理想郷としての地母神の子宮は、地獄へと貶められ、理想郷は、天国に求められるようになる。母なるものへのノスタルジックな思いは、抑圧され、忘れ去られていく。





コメント
>多神教から一神教への宗教の合理化
確かに、ローマ帝国(ジュピターを中心とする多神教→キリスト教)やアラブの例がこれにピッタリあてはまりますね。どちらも、蛮族の侵入や中東における環境破壊によって、社会内部の資源が枯渇し、教条的な命令という形で資源配分を行う必要があったのだということでしょう。
しかし、日本ではなぜこれが明治時代まで行われなかったのかが不思議です。神道自体に森林を守るメカニズムが内包されていたということでしょうか。
Posted by ろろ at 2007年2月18日 18:28
日本でも戦国時代から江戸時代の初期にかけてイースター島と似たような状況が生じましたが、日本列島には、イースター島よりも砂漠化しにくい自然的条件があり、結局のところ、そうした恵まれた自然環境が日本の多神教的文化を温存したといえるでしょう。
Posted by Nagai Tosiya at 2007年2月19日 09:34
つまり、近代化以前は自然環境が主に宗教を規定する主な条件となっていたわけですね。それに対して、近代以降というのは、人間の作り出した宗教が自然環境を作りかえるようになっている。それが可能となったのは、やはり人間の持つ「移動・輸送能力」が革新的に向上し、社会と資源の流動性が飛躍的に高まったことと、デカルトに代表されるような機械論的自然観が浸透したからでしょう。そこにプロテスタントのカルバン主義が合流して、自然資源(宗教的異端者としての人間を含む)を収奪し利益を得ようとする行為は「善」だとする「新興宗教」ができる。私たちが一般に近代化と呼ぶ流れの基盤には、実はこの「新興宗教」がある。近代化における「科学技術の進歩」は重要であるが、それは近代化を推し進めた一因、あるいは結果であって、基盤ではない。
他の執筆者の方のエントリーにあるようにアメリカという国家自体がこの「新興宗教」を基盤として建国されており、それゆえ南北戦争からはじまる宗教的「絶滅戦争」が現在でも進行している。日本も明治以降、そのレジームに組み込まれ、日本古来の伝統的宗教感との相克に民衆は長いこと悩まされてきた。これは正常な身体が引き起こすアレルギー反応のようなものだ。しかもそのアレルギー反応は時に日本全体を揺るがすほど激烈である。しかし、それでもなお今まで日本はかなりラッキーな方「だった」といえる。
自然の則に沿った生き方を「善」とする神道的「アイデア」が、自然の収奪を是とするカルバン主義的「アイデア」と相容れないのは当然だろう。現実の地球の有限性が目の当たりとなってきた今、イースター島のように地上の宗教の一元化はさらに加速されていく。そもそも大東亜戦争自体が、そういう「宗教戦争」的側面を持っていた(だから、現実的合理性よりも精神世界の都合が優先された)。そして戦後、日本の知性は敗戦のトラウマを抱えて、哲学的に引きこもり、小説やアニメなどの「二次元世界」でのみ宗教的ジレンマが昇華されていった(例えば「ジブリアニメ」がその成功例)。しかし、そうした二次元的昇華には限界があり、「オウム事件」その他近年の社会異常に見るように、しばしば現実的世界がそのトラウマにより侵される事件が表出する。精神世界の崩壊は、間違いなく現実を浸食する(感性の鋭い人は「引きこもり」、感性の鈍い人は自らのコンプレックスを利用されていく。多少極論に走った見方ではありますが)。
21世紀のイースター島を救う宗教があるとすれば、どんなものでしょうか。「資源収奪を是」とするカルバン主義的アイデアも、「自然資源の豊穣さ」に支えられた神道的アイデアも、「地球の有限性」や「資源・資本の流動性」を前に限界に達し始めていることだけは確かのようだ。人間にとって「真の自由」とは何か?「持続可能な利益」とは何か?両者を並立するための人間と自然のあるべき関係性とはどのようなものか?これらの多次元方程式を地上資源の多様性・将来性や社会(資本)の流動性を考慮した上で満足する解を与える「統一理論」が今求められているのかもしれない。
しかし、そんな都合の良い「解」などそもそも存在しないとしたら?残された選択はどんどん上昇して「宇宙に資源を求める」か、地上に「できる限り」ソフトランディングするか、の二者択一でしょう(北朝鮮のような未開地の資源・市場を当てにしてもそれは当面の問題を先延ばしにして、より厄介な問題を生むだけと思います)。やはり現実にはソフトランディングのための具体論が、必要と思います。例えば「バイオマスエネルギーの限度内に人口規模を収める」ためのロードマップや、そのために我々が実施すべきことや覚悟すべきこと、など。
こちらのサイトには、色々とヒントが詰まっていますね。今後も楽しみにしています。
Posted by banabuna at 2007年2月19日 17:26
「自然を保護する」という欧米のエコロジストたちの発想は、「自然を征服する」という父権宗教の考えと同じ地平上の思想であり、背後には人類の傲慢があります。自然の恵みに浴するだけの母権宗教でもだめで、重要なことは、人間と自然の相互利用だと私は思います。
Posted by Nagai Tosiya at 2007年2月19日 19:23
人間にできない事は何か?
自然を作り出す事。
人間が手を触れたものはなんによらず自然ではなくなってしまう。
人間とはある意味「反自然の権化」なのだ。
とまあ、これは「人間特別論」の言い方なのですがね。
少しだけ正しく、少しだけ間違っていると思います。
人間も自然の一部であると言う事を考えてみるとね。
珪藻類だって、硫黄や二酸化炭素の世界を酸素の世界に変更したのですから、人間も同じ様に自然を弄り回す事はあるでしょう。
珪藻類は古代の生物を死滅させました。
人間も同じ事をするかも知れない。すでに沢山の生物を絶滅させていますがね。
さて、何故日本がイースター島の様にならなかったのか?
日本人は「人間は自然の一部ではない」と言う感覚を持っていたと思われます。
その結果、日本人が取った手段は「自然ではない人間が自然と共棲する」「自然ではない人間が自然と調和する」と言う道を選んだ事です。
日本人には古代から「自然を大きく改変すると祟りがある」と言う事に気が付くだけの「余裕」があったようです。
循環の基本が水であり、水を保全するための知識や知恵を駆使して日本の国土を守ってきました。
現在も日本人はその遺産を受け継いでいます。
中華文明圏に取っては「自然は資源であり使う物であり、それがなくなれば移住するもの」でした。
秦帝国のカンヨウの都はすぐに打ち捨てられました。
あまりに盛大に自然を壊したからです。
インドのタージマハールは、完成を待たずして自然破壊で退去せざるを得なくなりました。
ローマも七つの丘の恵みを使い果たした時点で衰退しました。
日本人は便利さよりも文化的な何かを自然に感じていた様です。
失ってはならないものを自然に感じていた。
だから日本の国土は美しいのです。
文化とは心の拠り所となる何かです。
それに対して、文明とは便利さの別名です。
決して心の拠り所とはなりえないのです。
Posted by 三輪耀山 at 2007年2月24日 13:54
>永井様
>人間と自然の相互利用
つまり、人間が自己に対する限界を認識(超越論的自己)した上で自然(≒ガイア)というシステムのオートポイエーシス(≒自己創出)に参画するというイメージでしょうか。http://www.nagaitosiya.com/b/entropy.html
父権宗教vs母権宗教のように一見二律背反するアイデアをうまく駆使して、地球上のエントロピー増加を抑える。例えて言えば、易経の「陰陽」の哲学を、グローバル時代版へとルネッサンスする、と考えてよろしいでしょうか。
現在、循環型社会の形成推進という言葉ばかりが先行していますが、この辺りから根本的に考えていかないと、結局うまく行かないかもしれませんね。
>三輪様
>少しだけ正しく、少しだけ間違っていると思います。
その自覚があります(笑)。でもうまく語るのは、きわめて難しい。
上記では議論を単純化するために、宗教の特質を永井さんがおっしゃるように私も二分化して語っていますが、日本の宗教はそう簡単に割り切れるようなものでなく、自然従属的「母権宗教」の中に「自然ではない人間」という「父権的」自覚が含まれていたと私も思っています。
そうでないと鎌倉仏教や当時の武士の哲学等が説明できない。
また、特攻隊についても、永井さんは「日本人はなぜ幼児的なのか(http://www.nagaitosiya.com/a/japanology.html)」において、その多くが「お母さん」と叫ぶような「胎内回帰願望によって動機付け」られると語っていますが、特攻隊の上原良司氏の手記などからは、そうした限界をすでに客観的に捉えたうえで、戦地に赴いた人がかなりいたことをうかがわせます。零戦エースパイロットの坂井三郎氏の著書からも、その「父権的」精神が彼の戦闘を支えていたことがわかります。またもっと時代をさかのぼって、日本書紀にある相撲の神、野見宿禰と当麻蹴速の「死闘」についても、決して「母権的」でない宗教の存在を感じます。
つまり、日本の宗教あるいは風土について、確かに「母権的」なものがベースにあるとしても、ある時期や状況においてはプレモダンな「母権or父権社会」にはない萌芽があったと私は考えています。日本には確かに恵まれた自然がありましたが、一方で天災や季節変化の幅が大きく、食糧生産や地域の安全保障にはそれなりの「リスク」があり、単なる「母権宗教」ではうまくいかなかったと想像します。よって、かつての日本人は「母権・父権」をバランスさせる、あるいはそれを超える宗教的萌芽があり、少なくとも近代化以前(遅くは戦前)まで、そこそこ上手にこのアイデアは活用されていたのではないか、というのが私の「直感」です。(もちろんこの部分はさらに日本の国史・精神史の研究を通して検証されるべきと思いますが)。
問題は、私を含む多くの人々がその「日本教」とも言うべき根っこを正確に覚えていない(or説明できない)こと、そして近代化・グローバル化の加速の中で、どこかで過剰に「母権宗教」(あるいはその反発としての「似非」父権宗教)側に落ち込むトリガーが引かれ続けていること、だと思います。
これが私の「仮説」で、上記の問題を知的・精神的に突破することが、日本人に課せられた使命ではないかと思っています。(生兵法は大怪我のもと、に注意しながら)
>永井様
コメントが論文の主題からはずれ大変申し訳ありません。この議論については、別途話す機会があれば幸いです。
Posted by banabuna at 2007年2月25日 21:40
この図をご存知でしょうか?
http://www.geocities.jp/can_you_go_now/onm1.jpg
陰の中にも小さな陽、
陽の中にも小さな陰。
両方が絡まり陰陽を形成する。
日中のろうそくの火は陰だが、暗闇では陽となる。
文明が崩壊するする前に異端な思想が現れるかどうかがその文明の分岐点になると考えています。
戦後は日本文明も多様性が少なくなり環境の変化に弱くなっていると感じています。
気のせいだと良いのですけど...
Posted by 陸遜 at 2007年2月26日 07:41
“何故日本がイースター島の様にならなかったのか”
日本が沙漠化しなかった理由の一つとして、放牧をほとんど行わなかったことを挙げることができます。これについては、「沙漠を緑化するにはどうすればよいのか」を参照してください。
“つまり、人間が自己に対する限界を認識(超越論的自己)した上で自然(≒ガイア)というシステムのオートポイエーシス(≒自己創出)に参画するというイメージでしょうか。”
私が言っている「自然」とは、他の生物ということです。環境保護主義者の中には、人間が利己的な動機から行う営みが生態系の維持に役立っているという側面を見落としている人がいるので、人間と自然の相互利用ということを言ったのです。これも、以下のように「沙漠を緑化するにはどうすればよいのか」で指摘したことです。
“私たちは、ともすれば、人間を自然にとって有害な存在とみなし、人間の影響を最小にすれば、それで自然が守られると考えがちである。そして、環境保護運動家は、そうした考えに基づき、自然を守るために私たちに自己犠牲的な禁欲を求める。しかし、人間は、本来エコシステムを破壊する存在ではなくて、それを維持する存在である。人間が本来のライフスタイルに戻るなら、むしろ欲望を満たすことで自然を守ることができる。人間が、自己犠牲的なボランティア活動によってではなくて、普段の生活を通じて、知らないうちにエコシステムの保護に貢献しているというのが一番長続きのする、その意味で一番望ましい環境保護のあり方である。”
Posted by Nagai Tosiya at 2007年2月26日 09:19
>陸遜様
>この図をご存知でしょうか?
太極図ですよね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E6%A5%B5
『太極とは、『易』の生成論において陰陽思想と結合して宇宙の根源として重視された概念である。』
陰中の陽、陽中の陰。
母権・父権宗教の相克、交じり合いから、新しいアイデアが生まれるのを期待したいですね。「文明の崩壊」を避けるために。
(しかし、この図のあらわすものは男女の交じり合いから、複雑系・量子論にも通用しそうな深い概念ですね)
>戦後は日本文明も多様性が少なくなり環境の変化に弱くなっていると感じています。
>気のせいだと良いのですけど...
そうですね・・・
>永井様
>人間は、本来エコシステムを破壊する存在ではなくて、それを維持する存在である。
日本の白神山地のマタギの方と山を登り、色々とかつての生活について話をしたことがあります。また、インドのマングローブ地帯の調査とかにも行きました。
その時に永井さんと同じことを感じました。環境保全のためには、自然の保護ではなく、そうした人間と自然の「係りの文化」を残し、現代に生かすことの方が重要だと思いました。
>普段の生活を通じて、知らないうちにエコシステムの保護に貢献しているというのが一番長続きのする
そう思います。一連のご教示ありがとうございます。
Posted by banabuna at 2007年2月26日 10:27
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