なぜ古代ローマ帝国は滅亡したのか

古代ローマ帝国は、いわゆる五賢帝時代に最盛期を迎えた後、徐々に衰え、大移動を開始したゲルマン民族に蹂躙され、滅んだ。なぜ古代ローマ帝国は持続不可能になったのか。諸説を検討しながら、考えよう。

1. 古代ローマ帝国はいつ滅びたのか

古代ローマ帝国がなぜ滅んだのかを考える前に、そもそも古代ローマ帝国の滅亡とは何かから考えなければいけない。ローマ帝国自体は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)として、オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノポリスを陥落させた1453年まで続くわけだが、 定説では、古代ローマ帝国は、西ローマ帝国が滅亡した、すなわち幼帝ロムルス・アウグストゥルスが、ゲルマン人オドアケルの圧力で退位した476年をもって終焉を迎え、そこから中世が始まったということになっている。だから、その後の東ローマ帝国は「中世ローマ帝国」と呼ばれることがある。

もっとも、476年というのは、ローマ帝国の歴史にとって特別に画期的な年ではなかった。そもそも、ロムルス・アウグストゥルス帝は、正統な西ローマ皇帝であるネポス帝をクーデターで追放したゲルマン人オレステスが擁立した、傀儡皇帝(実の息子)で、東ローマ帝国皇帝をはじめ、周囲は正当な皇帝とは認めていなかった。だから、最後の正統な西ローマ帝国皇帝であるネプス帝が殺害された480年を西ローマ帝国が滅んだ年とみなす学者もいる。

しかし、それ以降も西ローマ帝国は存続したとする見解もある。800年に、フランク王国のカール大帝が、ローマ教皇より西ローマ帝国皇帝の称号を得たことで、西ローマ帝国が復活し、それは神聖ローマ帝国として引き継がれたという事実がその根拠である。1453年に東ローマ帝国が滅びた後も、オスマン帝国やロシア帝国がローマ皇帝の継承を主張した。もちろん、それは形式的な継承に過ぎないが、こうした事情もあって、ローマ帝国がいつ滅びたかに関しては、明快に答えることができない。

一つ確実に言えるのは、ローマ帝国はトラヤヌス帝(在位:98年-117年)の時に版図が最大となったが、その後、辺境の蛮族の攻撃を受け、変質し、段階的に衰退していったということである。ここでは、古代ローマ帝国の滅亡の年を特定することなく、5世紀ごろに事実上消滅したとみなしつつ、その段階的衰退の原因を探りたい。

2. 様々な説の検討

古代ローマ帝国滅亡の原因としては、様々なものが挙げられている、中には、結果と原因を混同しているものもあるのだが、ここでは、代表的なものを挙げて、論評しよう。

2.1. 蛮族侵入説

最もポピュラーな説は、古代ローマ帝国は、周辺の蛮族、特にゲルマン民族に滅ぼされたという説である。確かに、4世紀から5世紀にかけて「ゲルマン民族の大移動」と日本で呼ばれている現象が、主として西ローマ帝国の領土内で起きており、これが直接の原因であったことは、私も否定しない。問題は、なぜ、ゲルマン民族の大移動が惹き起こされ、なぜ西ローマ帝国は、東ローマ帝国とは異なり、それを撃退し続けることができなかったかである。

なお、この説を補強するものとして、3世紀にゲルマニアで蹄鉄が発明され、ゲルマン民族の騎馬勢力が強力となり、歩兵中心のローマ軍を圧倒したという説があるが、当時のゲルマン民族には歩兵も多かったし、またこれと戦っていたローマ軍の中にも、大量のゲルマン人の傭兵がいたから、あまり説得力はない。

2.2. 士気低下説

『ローマ帝国衰亡史』の著者として有名なエドワード・ギボンは、ローマ市民の道徳の低下が、根本的な原因だと見ていた。ローマ市民は、国防をゲルマン傭兵に頼るようになり、それが命取りになったというわけである。またキリスト教が普及するに連れて、人々の関心がこの世からあの世に行き、こうした精神的な変質も原因の一つとして挙げられている。

これもあまり説得力のない説明である。ローマ帝国が、領土を拡張するにつれて、被征服民を軍団に参入していくことは不可避的である。ゲルマン民族と一口に言っても、ローマ帝国の国境近くにいる文明化された近蛮族とその背後にいる遠蛮族がいて、近蛮族がローマ帝国内に侵入してくる原因の一つは、遠蛮族による圧迫があったわけだから、近蛮族を使って遠蛮族を攻撃するという戦略は決して悪くはなかった。また、キリスト教が原因で西ローマ帝国が滅んだとするならば、同じ原因で、キリスト教徒がもっと多かった東ローマ帝国も早々と滅んだはずだが、そうではなかったから、これも原因とは考えられない。

2.3. 貨幣改悪説

経済的側面から、ローマ帝国の滅亡を説明しようとする人もいる。例えば、3世紀以降、貨幣の銀含有率が大幅に低下し、これがインフレをもたらしたという事実がよく指摘される。しかし、もし国家財政が豊かなら、発行している通貨に金や銀が一分子も含まれなくても、インフレを惹き起こさないはずである。金や銀が不足したから、商品経済が衰退したわけではなかった。

問題は、蛮族侵入の頻発化で、歳出は増える一方なのに、農作物が不作で、歳入が落ち込んでいたことである。古代ローマ時代も末期になると、ローマの軍隊は、 かつての三十万から六十万に倍増し、借地料は、10%から50%以上に跳ね上がっていた。このため、耕作を放棄する農民が続出し、農地が荒れ果て、収入の不足を補うために、さらに借地料が上げられるという悪循環が続いた。

古代ローマ時代末期のインフレは、経済成長をもたらすインフレではなくて、スタグフレーションの様相を呈していた。

なぜなら、三世紀後半になって、金利の低下現象が起こっているのだ。「パクス・ロマーナ」が完璧に機能していた時代の金利は年率十二パーセントが普通であったのが、この時代四パーセントにまで下がっているのである。これも、投資意欲の減少傾向の反映ではなかったか。

スタグフレーションは、物不足が深刻になった、敗戦や石油危機のときの日本に起きたような、景気後退をもたらすインフレで、実質金利は低くなる。では、なぜスタグフレーションの原因となる物不足が起きたのか、この点が問われなければならない。

2.4. 疫病流行説

古代ローマ帝国では、2世紀から7世紀にかけて人口が減少した。これは、疫病の流行が原因だと言う人がいる。144-6年、171-4年にエジプトの人口が2/3になり、165-180年には、マケドニアから始まって、ローマ帝国のほぼ全土に「アントニヌスの疫病」が、251-266年には、一日に5千人が死ぬ、より悪質な「キプリアヌスの疫病」が流行した。こうした疫病が人口を減少させ、それが税収の不足をもたらしたという説が唱えられることがある。

しかし、古代ローマ帝国の衰退が決定的になる3-5世紀には、大きな疫病の流行はなかった。もしも農作物が十分実っていたのなら、疫病で一時的に人口が減っても、すぐに回復することができたはずである。問題は、なぜ、人口を回復させるだけの食料が生産できなくなったかである。

3. ローマ帝国衰退の気候的原因

ローマ帝国が、衰退した原因は、二つある。一つは、ゲルマン民族の侵入の頻繁化とそれに伴う軍事支出の増大であり、もう一つは、作物の不作による税収入の減少である。歳入が減り続け、歳出が増え続ければ、当然のことながら、国家財政は破綻する。この二つの現象は、一つの原因で説明できる。気候の寒冷化である。気温が下がると、凶作となる。また、北方の騎馬民族は、南の暖かい気候を求めて、南下してくる。

振り返ってみると、ローマ帝国は、温暖化により膨張し、寒冷化により収縮したと言えそうである。紀元前800-400年の精神革命寒冷期において花開いたギリシャ文明は、ローマ帝国に受け継がれ、その後の温暖化とともに、ローマ帝国の版図は拡大し、トラヤヌス帝の時に最大になった。しかし、トラヤヌス帝が死去したあたりから、気温は再び下がり始めた。

以下の図は、古代ギリシャの黎明期から中世初期にいたるまでのヨーロッパの気候の変遷を説明した図である。

The Long Summer: How Climate Changed Civilization

左上は、精神革命寒冷期の頃のヨーロッパの気候である。地中海性気候の北限を示すライン(Mediterranean)が、現代よりも南にあることがわかる。右上の図は、ローマが繁栄していた頃のヨーロッパの気候である。地中海性気候のラインが、現代よりも北にあることがわかる。ローマ人たちは、地中海性気候の北上に合わせるかのように、ケルト人を駆逐して、北方へと膨張して行った。そして左下の図は、ゲルマン民族が南下して、建国した頃のヨーロッパの気候である。地中海性気候のラインは再び南下している。あたかもこのラインの南下に合わせて、ゲルマン民族は南下したかのようである。

もしも、寒冷化が西ローマ帝国を滅ぼしたのだとするならば、なぜ東ローマ帝国は、同じ原因で滅びなかったのかと読者は訝しく思うかもしれない。東ローマ帝国は、西ローマ帝国とは異なって、高度な文明国であるペルシアと国境を接していた。このため、税源を農作物のみに頼る必要はなく、交易による富にも依存することができた。このため、凶作による税収入の落ち込みが、西ローマ帝国ほどひどくはなかったと考えられる。

4. ローマ帝国と漢の運命

ローマ帝国の衰退期に当たる西暦100-700年の寒冷期を日本では、「古墳寒冷期」と呼んでいる[阪口豊:日本の先史・歴史時代の気候,科学雑誌,1984年5月号,p.18-36]。日本国内で古墳が造成された時代と重なるから、こう呼ばれているのだが、世界的な寒冷化を呼ぶ名称としては、「民族大移動寒冷期」の方がふさわしいのではないだろうか。なぜなら、この時代、北方騎馬民族が南下するという現象がユーラシア大陸全土で見られたからである。

江上波夫氏の有名な騎馬民族征服王朝説も、この世界史的出来事を背景に、4世紀の日本における大和朝廷の成立を説明したものである。彼は、古墳時代後期の副葬品に、前期とは異なって、馬具類が見られることなどから、ユーラシア大陸の騎馬民族が、朝鮮半島を南下して、北九州に上陸し、さらに畿内に遠征して、大和政権を樹立したのではないかという仮説を立てた。私はこの仮説を支持しないが、いわゆる神武東征は、気候悪化を原因とする一種の民族大移動であったと解釈している。

他方で、中国では、地中海世界とパラレルな現象が起きた。精神革命寒冷期において、ギリシャのポリスが争いながらも高度の哲学や学問が栄えていた頃、中国では、春秋戦国時代で、諸子百家が様々な思想を唱えていた。アレキサンダー大王、続いて、ローマがギリシャ文明を継承して、広大な帝国を築いていた温暖期には、秦の始皇帝、続いて漢が高度な中国文明を継承して広大な帝国を築いた。

しかし、民族大移動寒冷期になると、ローマ帝国にゲルマン民族が移住を開始したように、中国の華北地方に北方遊牧民族が移住を開始した。そして、旧西ローマ帝国の領土が、ゲルマン民族の群雄割拠状態となっていた頃、華北は、五胡十六国時代と呼ばれる、北方遊牧民族による群雄割拠状態となっていた。700年以降の温暖期にフランク王国による統一王国ができた頃、中国には唐という統一王朝ができた。

最後に、もう一つ類似性を示そう。凶作と治安の悪化という絶望的な時代に、ヨーロッパでキリスト教が普及した頃、中国では仏教が普及しだした。キリスト教の原型である古代ユダヤ教と仏教の原型である原始仏教が精神革命寒冷期において誕生し、民族大移動寒冷期において、ヨーロッパと中国という新天地で信者を獲得したことは、偶然とはいえない。キリスト教と仏教は、ともに去勢宗教である。母なる自然が冷たくなった時、去勢が行われるのだ。

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コメント

なかなか素晴らしい分析ですが、神武東征は、民族大移動とは全く違うだろう?

神武天皇(イワレヒコ)の曽祖父のニニギの兄のアメノホアカリ(男神の太陽神・アマテル)が、大和で勢力で拡大して、主君だった出雲王権を打倒したのが、およそ紀元元年前後のことだった。

それから数十年後の紀元1世紀後半、大和王家で内紛が起こって、そこへ日向で分家していたニニギの曾孫のイワレヒコが東征した。

これが神武東征。

だからこそ、三種の神器の草薙の剣の本物は、アメノホアカリ(男神の太陽神・アマテル)の嫡流である尾張氏が、熱田神宮で長い間、保管してきたんだろう? ニニギの子孫である天皇家の保管している草薙の剣は、あくまでもレプリカだからね。

これは、アメノホアカリ(男神の太陽神・アマテル)の子孫で傍流の海部氏の子孫がそれを第二次世界大戦後、明かしてから、古代の天皇家の歴史の謎が解き明かされつつある。

もともと、紀元前1世紀に出雲王権が最初の日本全国規模の王権を作ったが、それから間もなく、出雲→北九州→大和へ派遣されていたアメノホアカリ(男神の太陽神・アマテル)が大和で革命を起こして出雲王権を倒して政権を奪取した。

しかし、それから数十年後、大和のアメノホアカリ(男神の太陽神・アマテル)の曾孫の間で内紛が起こり、アメノホアカリの弟で日向に派遣されていたニニギの曾孫のイワレヒコが東征する。この時、イワレヒコを受け入れたのは、アメノホアカリの曾孫で傍流だったヤマトスクネで、彼は兄の大和国王を裏切って、遠い親戚のイワレヒコと共闘した。

結局、祭祀の部分はアメノホアカリの嫡流である尾張氏の先祖が受け継ぎ、実際の政治はニニギの子孫であるイワレヒコが受け継ぐことになった。つまり、権威はアメノホアカリの後胤、権力はニニギの後胤が握った。

しかし、それから数代がたつにしたがって、アメノホアカリの子孫は尾張氏・海部氏も含めて弱体化していき、ニニギの子孫が徐々に権威・権力の両方を握って真の大和国王になっていった。このへんが欠史八代といわれるところだろう。

で、ニニギの子孫は、孝麗天皇の代の時に、彼の娘のヤマトトトヒモモソヒメを巫女として祭祀も完全に掌握した。これが西暦200年前後であり、彼女は、孝麗、孝元、開化、崇神の4代の天皇の祭祀の長として250年ごろまで活躍した。ヤマトトトヒモモソヒメはこの間、中国の魏王朝とも外交するなど大活躍し、特に死の直前(247年ころ)に起こった武埴安彦(開化天皇の庶兄であり、ヤマトトトヒモモソヒメの甥であり、時の崇神天皇の伯父にあたる)の謀反では、彼女の占いが力を発揮し、この乱の様子は魏志倭人伝にも卑弥呼(邪馬台国女王)と卑弥弓呼(狗奴国男王)の戦いとして記されている。

古墳時代は、所謂古墳寒冷期と呼ばれる寒冷期ですから、それが所謂「神武東征」を含めた日本列島における諸戦争の根本原因になったと私は考えています。

最近、気候が寒冷になると戦争が起きやすくなることを実証した論文が発表されました。1000年から1911年までの中国における899の戦争を分析した結果得られた結論ですが、同じ傾向は、日本にもあったと推測してよいでしょう。

“We explore the association between climate change and warfare in eastern China over the past millennium from a macro-historic perspective. High-resolution palaeo-temperature reconstructions and the complete record of warfare incidence in eastern China were compared. Results show that warfare frequency in eastern China (its southern portion in particular) significantly correlated with the Northern Hemisphere temperature oscillations. Almost all peaks of warfare frequency and dynastic changes occurred in cooling phases. We suggest that in historic China, the reduction of thermal energy during cooling phases significantly shrank agricultural production. Such ecological stress interacted with population pressure and China’s unique historic and geographic setting to bring about the high frequencies of warfare over the last millennium. We recommend scholars take climate change into account as they consider the anthropology of warfare in the historic past. ”

D.D. Zhang, J. Zhang, H.F. Lee, Y. He (2007) Climate Change and War Frequency in Eastern China over the Last Millennium, Human Ecology, Volume 35, Issue 4, p.403

私も、気候変動と戦争の関係については、永井さんと同じような考えであり、基本的に賛成です。このサイトでの永井さんの論説は、気候変動と戦争との関係がメインなので、その大枠については賛成なので敢えて反論はするつもりはなかったのですが...

ただ、なぞの古代史については、私は拘りがあり、それで、ここの論説のメインの話から外れますが、それについては反論しようと思ったのです。

だいたい、日本で戦国時代だった時代は、中国では明王朝による統一政権の時代だったし、必ずしも日本と中国は一致していませんし...

単純に、神武東征を環境変動と一致させて考えるのは間違っていると思ったものですから...

神武東征は、考古学(纏向遺跡の解明化)・文献(記紀の干支没年・旧事本紀・海部氏系図・新撰姓氏録・延喜式・中国史書など)などを総合的に判断して、西暦1世紀後半の出来事だと推測しており、卑弥呼の時代よりも150年以上前の話だと思う。

西暦107年の倭の面土(めた)国王の帥升については、神武とは直接的には関係なくて、面土が上古音・中古音から想像してメタと読み、おそらく、旧事本紀に記載されている、現在の佐賀県吉野ヶ里付近にあった筑志米多(めた)国だと思います。吉野ヶ里付近には、今でも目達原(めたちばる)とか、中世までは米多郷という地名も残っていました。

後漢書には、帥升は生口(戦争捕虜?)を160人(100年以上あとの卑弥呼ですら生口は30人)も連行したのに、中国の後漢から金印をもらったような記述がない。おそらく、佐賀平野の吉野ヶ里の米多(面土)国の帥升は、博多湾沿岸にあった奴国を侵略したのではないのか?だからこそ、奴国が57年にもらった金印は北端の志賀島に隠してあり、南の吉野ヶ里から逃げるように隠してあった。というのは、あの生口というのは面土国が奴国から奪った戦争捕虜かもしれません。だからこそ、後漢は帥升の侵略行為(後漢が金印をあたえた国を侵略・占領)を認めず、金印を与えなかったのでは?

http://yamatonokuni.seesaa.net/article/32720152.html
http://yamatonokuni.seesaa.net/article/34007829.html

ちなみに、最近の考古学の研究だと、吉野ヶ里の最盛期は西暦100年頃までで、その後、縮小の一途をたどり、卑弥呼が大活躍した3世紀には、完全に廃棄され衰退していたことが分かっています。

で、その帥升の乱については、基本的に、神武東征などとは直接的には関係のないところで動いた話だと思います。こういうことは、中世の戦国時代でもあった。おそらく、このへんの時代は、中央の大和王権のほうでも皇位継承争いでゴタゴタがあって、大和王権の地方への統制力が弱体化して、地方の豪族が勝手な行動に出れるような時代だったのでは?と思います。ちょうど、応仁の乱の前後と似たような状態だったのでは?

で、神武東征は西暦70~90年くらいのどこかであったのでは?と推測しています。しかし、ここで重要なのでは、いわゆる東征伝承は、神武天皇よりも前にもあって、アメノホアカリやニギハヤヒのものもあり、神武が日向からの東征なのに対して、アメノホアカリやニギハヤヒは北九州からの東征だという違いにも注目です。

アメノホアカリとは、海部氏系図では、ヒコホアカリとあり、おそらく本名はホアカリなんでしょう。彼の兄弟には、神武の曽祖父であるホノニニギがいて、ホアカリとホノニニギの父親は、アメノオシホミミです。私は、ミミがつく名前は、出雲系の官位の名称と関係があるのでは?と思っています。後の魏志に登場する5万余戸の大国である投馬(ツマ)国は、出雲(いつま)国のことであり、ここの官はミミ、副官はミミナリだったそうで、おそらく、アメノオシホミミは、オシホミミという出雲系の官だった可能性が高いと思います。

自分の推測では、西暦元年前後に、出雲王朝は、オシホミミという官の息子たちを北九州と南九州に派遣したのでは?と思っています。(降臨伝承)そのうち、兄のホアカリが北九州、弟のホノニニギのほうは南九州(日向)だったのでは?と思う。で、ホアカリのほうは、やがて息子と一緒に、畿内のほうへ転属になったように思う。これが、神武より前のアメノホアカリによる東征伝承であり、その大和で力をつけて、出雲に変わる最初の大和の王が、アメノホアカリだったように思う。一方、ホノニニギのほうは、曾孫のイワレヒコ(神武天皇)まで日向の知事として収まっていたように思う。


ちなみに、草薙の剣の本名は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)であり、三種の神器の一つで、熱田神宮の神体である。(天皇家が保持している草薙の剣のほうはレプリカであり、熱田神宮のほうが本物である。)熱田神宮の宮司は、初期の頃は尾張氏が勤めていた。

天叢雲剣・・・尾張氏の先祖には、天村雲命という剣と同じ名前の人物がいる。
天村雲命は、天火明命(アメノホアカリのミコト)の孫に当たる人物だ。

つまり、尾張氏は天火明命の後胤である。

《天火明命裔氏族綱要》 尾張氏・津守氏・海部氏などの系図
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02116.htm

そして、天火明命─天香語山命─天村雲命 の三世代には、畿内の諸地域(河内・大和・丹波など)への降臨伝説がある。そして、面白いことに、この天村雲命には、再び畿内から日向へ降臨し、その子供である天忍人命と天忍男命は日向で産まれた伝承があるそうだ。世代的に考えたら、天火明命(アメノホアカリのミコト)の曾孫の天忍人命と天忍男命は、ホノニニギ(天火明命の兄弟)の曾孫の神武天皇(同じく日向産まれ)と同世代である。

出雲神族・海部氏と丹後
http://hw001.gate01.com/sangatu/tango.htm#sentou_tango


で、もし、これが事実なら、出雲に倒した大和の初代国王は、アメノホアカリ(天火明)であり、アメノホアカリは別名をアマテルという。日本全国には、男の太陽神・アマテルを祀る神社が多く存在し、このアマテルというのは、尾張氏・津守氏・海部氏の祖であるアメノホアカリのことである。

よく、天皇家が祀っていたアマテラスという女の太陽神は、もともとはアマテルという男の太陽神だったという説がよくあるが、これは半分正解・半分間違いで、アマテラスとアマテルは別物で、女神・アマテラス(本名はオオヒルメ?)の孫が男神アマテル(ホアカリ)である。実際に、纏向遺跡で有名な箸墓古墳の近くにも、男の太陽神・アマテル(ホアカリ)を祀る神社があり、大和朝廷は、昔はアマテル(ホアカリ)を大和の始祖として敬っていたのかもしれない。

しかし、ここで問題が生じるのだ。もし、男神アマテル(ホアカリ)が大和の始祖なら、古事記や日本書紀を編纂した天皇家にとっては非常に都合が悪いのだ。何故なら、天皇家の始祖は、男神アマテル(ホアカリ)の弟であるホノニニギのほうであり、天皇家は、男神アマテル(ホアカリ)の男系の子孫ではないのである。つまり、万世一系ではないのだ。そこで、先祖をさらに遡らせて神格化する必要が出てきたのでは?そこで、ホアカリとホノニニギの祖母であるオオヒルメを女神・アマテラスとして祀る必要が出てきたように思う。

“だいたい、日本で戦国時代だった時代は、中国では明王朝による統一政権の時代だったし、必ずしも日本と中国は一致していませんし...”

明王朝は、1449年の土木の変以降、北虜南倭で衰退し、室町政権は、1467年の応仁の乱以降、戦国の動乱で衰退します。どちらも、シュペーラー極小期からマウンダー極小期にかけての近代小氷期の最盛期に無秩序化しましたが、その後、17世紀の初頭に、日本では江戸幕府が、中国では清が再秩序化を行いました。

なるほどね。確かに、明代は統一国家の時代でしたが、その内情は戦国時代そのものの混乱の時代でもありましたか...

ところで、永井さんは古代の日本や中国の気候による混乱期は、西暦で言うとどのあたりだと思っていますか?たしか、寒冷化のピークって240年くらいだったと見たように思うんですが...


ちなみに、纏向遺跡の年代は、180年~330年くらいと見方がされているようで、180年というのは倭国大乱の時期に近い。その期間を、孝霊、孝元、開化、崇神、垂仁、景行の6代の天皇の時代だと踏み込んで言う人もいる。


九州の神社に残る天皇の伝承なんかでは、神武天皇の伝承は南九州や宇佐に残っているのですが、その後、空白期間があって、7代目の孝霊天皇まで出てこない。

都道府県別調査対象神社数及び伝承数一覧表
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Kikyo/1527/dennsyousuu.html

で、この孝霊天皇、後につけられたこの漢風の名前から考えても、かなり象徴的な天皇です。祭祀の統一と関係あるのでしょうか?結構、戦争をして死者を多く出した天皇なのか?

実際に、古事記で欠史八代といわれる部分の中では、この孝霊天皇の部分だけ記述があって、播磨から入って吉備を平定したとある。(日本書紀のほうでは、欠史八代の部分では、二代目の綏靖天皇が兄弟で皇位継承争いをしたという記述が詳しくある)

また、彼のお兄さん(大吉備諸進命)が吉備の国主になっていたらしく、また、彼の庶子(彦五十狭芹彦命=吉備津彦命)も吉備の国主になっている。で、中国地方には、孝霊天皇が平定軍を派遣してきた伝承も残っている。

そして何よりも、孝霊天皇は、ヤマトトトヒモモソヒメ(卑弥呼か?)の父親でもある。戦争と祭祀の統一には関係があるのか?

そして、世代的にはだいたい、この孝霊天皇~崇神天皇の時代(ヤマトトトヒモモソヒメが巫女として大活躍した時代か?)に、初代大和国王アマテル(ホアカリ)の嫡流である尾張氏が、大和国葛城郡高尾張邑から尾張へ転属になった(左遷された?)もようである。

そして、それから後に、250年ごろ、最初の本格的な前方後円墳である箸墓古墳(ヤマトトトヒモモソヒメの墓)が作られ、彼女の墓の建造の様子は日本書紀にも象徴的な出来事として記載されている。墓の建造の様子が詳しく記載されているのは、崇神天皇などの天皇ですら無いことであり、それだけヤマトトトヒモモソヒメの影響力の大きさが推測できる。さらにその後に、尾張を中心に前方後方墳(前方後円墳とは少し違う)が作られる。これは、ホアカリの嫡流である尾張氏のささやかな主張なのか?

ここは、古代日本史を議論する場ではないので、深入りは避けますが、私は、卑弥呼は、ヤマトトトヒモモソヒメではなくて、アマテラスに相当すると考えています。また神武東征は、西暦300年前後の出来事と考えています。これについては、9月以降、永井俊哉ドットコムで詳しく論じる予定ですので、それまでお待ちください。

すいません。つい、本題からずれてしまいした。ただ、私もその古代史については興味を持って考えを持っているものですから。

で、最後に一回だけ、お話して終わります。あとは永井さんのHPのほうも楽しみにしています。むろん、連山の本題のほうも楽しみにしています。

で、永井さんのサイトを見てみました。なかなか、面白い説だと思います。安本氏のようなアマチュアの歴史愛好家とか、井沢氏のような歴史小説家とか、いわゆる在野の歴史愛好家が好きそうな説ですよね。私もちょっと昔までは支持していたと思います。

ただ、日食からアマテラス=卑弥呼説を掲げていますが、永井さんが示されている日食があった年代というのは、あれは市販の天文学系ソフトから算出された数字であって、誤差があり、正しくはないと思います。

あの天文学系ソフトの結果を高々に宣言されたのは、安本氏だったと思いますが、その後、天文学の専門家から、違うぞといわれていたと思います。インターネット上でも、天文学系の掲示板などで聞いてみたのですが、あれ(247年、248年に二回たて続け)は間違いだと断言されてしまいました。

日食があった場所についてはNASAのHPにも掲載されていて、日本では西暦248年にはあったみたいですが(西暦247年には観測されていない)、場所は北陸から北関東にかけた一部だけで、畿内でも九州でも観測されなかったみたいです。

http://sunearth.gsfc.nasa.gov/eclipse/SEatlas/SEatlas1/SEatlas0241.GIF

それで、私もこの説から距離を置いてしまいました。その後、文献の原文を読み漁ったり、考古学の学術書(一万円以上するようなやつ)を読み漁ったり、海部氏系図や海部氏が保管していた鏡など、新しい知識を得ていき、ここにコメントした考えになりつつあります。

最近は、考古学の学会とか、中国の考古学会とか、西欧の大和王権を研究している学者さんなんかも、徐々に卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメだろうなという考えになりつつあるそうです。

以上、それだけは言っておいて、あとは永井さんのHPや連山のHPを楽しみにしておきます。私もどれか一つの思想に固まっているわけではなく、今後、いろいろ変わっていくかもしれません。私のようなもののコメントに返事していただいてありがとうございました。今後とも御活躍を応援しています。

とにかく、連山のHPは貴重なサイトです。フランス語になっても、なんとか翻訳ソフトを使ってでも読んでいきたいです。

アマテラス=卑弥呼説に関するコメントは、ここではなくて、「天照大神とは誰か」あるいは「なぜ天皇は日本国民統合の象徴なのか」に投稿してください。

永井さんのHPにコメントをしましたよ。続きは永井さんのHPで。

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