倭国大乱とは、中国の複数の史書に記述がある、2世紀末に日本(倭国)で起こった大規模な戦争のことで、卑弥呼が即位することで収拾したと伝えられている。この戦争はなぜ起きたのか。王位継承をめぐる政治的闘争という通説に代わる新たな仮説を提示したい。
1. 倭国大乱はいつ起きたのか
中国の資料で「倭国大乱」の記載が最初に出てくるのは、三世紀に編纂された『魏志倭人伝』においてである。『魏志倭人伝』は、邪馬台国を紹介した上で、次のように述べている。
其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼
その国は、もともと男を王としていたが、七、八十年経った頃、倭国は混乱状態になり、長年にわたってたがいに攻め合う状態が続いた。そこで一人の女性を王とした。この女性の名を、卑弥呼という。
この記述には、倭国大乱の時期が明示されていない。五世紀に編集された『後漢書』には、次のように書かれている。
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
桓靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主
有一女子名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王 侍婢千人 少有見者 唯有男子一人給飲食 傳辭語 居處宮室・樓觀・城柵 皆持兵守衞
安帝永初元年(西暦107年)に、倭国の王である帥升が、奴隷160人を献上し、皇帝に会見することを願い出た。
桓帝と霊帝の間(西暦146-189年)に、倭国は大いに乱れ、互いに攻伐して、長年にわたって君主がいなかった。
一人の女子がいて、名を卑彌呼という。年増だが嫁がず、神鬼道に仕え、妖術を以て大衆を惑わすことができる。ここにおいて卑弥呼を王にした。侍婢は千人で、会える者は少なかった。ただ飲食を給仕し、言葉を伝える一人の男子がいる。暮らしている宮殿、楼観、城柵、いずれも武器で守衛する。
ここで、倭国大乱は、桓帝と霊帝の在位期間、西暦146-189年の間に位置づけられる。西暦107年に、倭国王帥升が後漢へ使者を出したとあるが、帥升以前に倭国王の存在が史書に記載されていないので、倭国の初代国王は帥升という見方が成り立つ。『魏志倭人伝』の記述と照らし合わせて、帥升に始まる倭国王の系統が70~80年存続した後に倭国大乱が起きたとするならば、その時期は、西暦146-189年の間の後半に位置することになるだろう。
こうした推論に基づいてのことか、7世紀に編集された『梁書』には、倭国大乱の時期が、霊帝の光和(178-184年)の間に狭められている。
靈帝光和中 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子卑彌呼爲王
漢の霊帝の光和において、倭国は乱れ、何年も攻伐しあったので、卑彌呼という一人の女性を王とした。
『梁書』の成立時期が遅いことから、「靈帝光和中」の信憑性を疑う人もいるが、倭国大乱は、後漢書が伝える「桓帝と霊帝の在位期間」の後半に起きたと考えて大過ない。
2. 倭国大乱をもたらした181年の巨大火山噴火
引用した文の中にある『後漢書』の「歴年無主」という記述から、倭国大乱は、王の死後に起きた後継者争いではないかと言われているが、私は本当の原因は国王の死ではないと考えている。倭国大乱は、内乱が起きてもおかしくない時期に起きたからだ。
倭国大乱の時期は、西暦181年に起きたタウポ湖のハテペ噴火の時期と重なっている。噴火の時期は確定しておらず、186年説や177年説もあるが、いずれにせよ、それは倭国大乱の時期である。この噴火は、ニュージーランド北島のタウポ湖というカルデラ湖の中にある火山によってなされた。
[Location map of Lake Taupo, New Zealand(著作権なし)を加工]
この湖底火山は、2万6500年前にも噴火しており、二つの噴火を区別するために、2万6500年前の噴火は、オルアヌイ噴火(Oruanui Eruption)、181年の噴火は、ハテペ噴火(Hatepe Eruption)と呼ばれている。
ハテペ噴火は、どの程度の規模のものだったのだろうか。火山噴火の規模を示す指標に火山爆発指数(VEI=Volcanic Explosivity Index)がある。VEIは、噴出物の体積で、噴火の規模を等級化する。等級には、0から8まで9段階あり、5から8までの大噴火は、以下のように区別される。
| VEI | 排出物量(km3) | 著名な噴火の例 |
|---|---|---|
| 5 | 1以上10未満 | ヴェスヴィオ山のポンペイ噴火(79年) |
| 6 | 10以上100未満 | フィリピン・ピナトゥボ山の噴火(1991年) |
| 7 | 100以上1000未満 | インドネシア・タンボラ山の噴火(1815年) |
| 8 | 1000以上 | インドネシア・トバの噴火(7万年前) |
オルアヌイ噴火の火山爆発指数は8で、ハテペ噴火の火山爆発指数は7である。つまり、ハテペ噴火の規模は1815年のタンボラ山の噴火とほぼ同じであるということである。
近代で最大規模の火山噴火は、1815年4月に起きた、インドネシア領スンバワ島のタンボラ山の噴火である。時代が近いだけあって、この時の噴火の影響は記録によく残っている。噴火後、火山灰が天を覆い、日光が遮られ、気温が下がった。影響は遠く北米やヨーロッパにまで及び、翌年7月、パリの気温は平年より3.5度低くなり、その年は“the year without a summer”と言われた。穀物不足が深刻となり、チフスやコレラなど疫病が流行した。Mary Shelley がフランケンシュタインの着想を得たのは、この暗くて悲惨な時代だった。
以下の1815年前後の気候変動のグラフを見ても、この噴火の地球規模の影響を見て取ることができる。
[原資料:2,000 Year Hemispheric Multi-proxy Temperature Reconstructions]
ハテペ噴火も、タンボラ山の噴火と同じような全地球的規模の影響を与えたと推定される。ハテペ噴火により、火山灰が天を覆い、日光が遮られ、凶作となり、疫病が流行した。この当時の日本や中国では、天変地異は、君子の不徳の致す所とされた。倭の国王は権威を失い、国は無政府状態になった。
平和な時には、王位継承は血統によってなされるが、危機の時代にものをいうのは実力とカリスマである。火山灰が天を覆い、日光が遮られる「火山の冬」を当時の人々は「太陽の死」ととらえた。死んだ太陽を蘇らせなければならない。この時、呪術をよくする少女が、太陽の巫女として、死んだ太陽を蘇らせることに成功した(と当時の人々は思った)。その日巫女(ひみこ)が、いわゆる卑弥呼である。
卑弥呼は、それ以前の国王との間に血縁関係はない。それは、『魏志倭人伝』にある「共立」という表現からわかる。『魏志倭人伝』では、本来王となることが予想されている嫡子が王位につくときは、「立」で示し、庶子のごとき人物の場合には「共立」という語が使われる。卑弥呼は、血統的正当性からではなくて、そのカリスマ的能力から支配者になったわけである。
3. ハテペ噴火から始まった民族大移動の時代
ハテペ噴火の規模はグローバルで、その影響は、中国にも及んでいる。後漢書にも、当時中国の空が赤くなったと書かれている。この時代の正確な気温の変化を再現することは難しいが、以下のグラフにも、ハテペ噴火の結果と思われる気温の低下が表れている。
そして、霊帝の時代である184年には、黄巾の乱が起きた。乱は鎮圧されたが、後漢は統治能力を失い、220年に滅びている。また、181年ごろから、北方遊牧民族の華北への移住が始まり、後の五胡十六国時代の原因となった。倭国大乱の時代は、中華大乱の時代でもあった。
ローマ帝国でも、180年に五賢帝時代が終わり、以後、帝国が衰退していくのは、たまたま、無能な暴君であったコンモドゥス帝がマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の跡を継いだからというわけではない。無能な暴君なら、五賢帝時代以前にもたくさんいた。なぜ、五賢帝時代以降、ローマ帝国が衰退していったかに関しては、既に「なぜ古代ローマ帝国は滅亡したのか」で説明した。なお、ゲルマン人が帝国内に移り住むようになったのも、181年ごろからである。これも、ハテペ噴火の結果と考えられる。ハテペ噴火は、2世紀から6世紀にかけての民族移動寒冷期の嚆矢となった事件だった。
古代ローマ帝国は、いわゆる五賢帝時代に最盛期を迎えた後、徐々に衰え、大移動を開始したゲルマン民族に蹂躙され、滅んだ。なぜ古代ローマ帝国は持続不可能になったのか。諸説を検討しながら、考えよう。
西ローマ帝国が崩壊した大きな要因に、ゲルマン民族大移動が上げられます。気象の悪化により中央アジアで食えなくなったフン族が375年に黒海北岸に侵入してきたので、しかたなく西ゴート族がドナウ川を越えてローマ帝国内に移動しました。西ゴート族はイタリア半島に進出するようになると、イタリア本土を防衛するため、国境守備隊を呼び戻した。国境地帯が手薄になり、結果として多くのゲルマン民族がヨーロッパ全土に移動してきました。西ローマ帝国は各地の独立により弱体化したというのが歴史書の伝えるところです。





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