カリスマ指導者故シェイク・ザイードとの親密な関係であったアル・ファヒーム・グループ(財閥)の生活(ゴールデンアラブ)に至るまでの産油国の歴史。皇帝も羨ましく思うような大理石に囲まれたリッチな住居で過ごすUAEナショナルはほんのつい最近までヤシの葉と泥土でできた原子的な小屋に住む人々だった。月の砂漠を遥々とラクダに乗ったキャラバンはベンツのような高級車が通る道路となった。カリスマと呼ばれた一人の男と国民が歩んだ波乱万丈の記録を見よう。それはアッラーが与えた奇跡の物語。ムハンマド・アル・ファヒーム氏による『ボロをまとった暮らしから一世代で裕福に』原題"From Rags To Riches″という本はまさにUAEナショナルの人々が若い世代に忘れないでもらいたいアブダビの歴史資料である。

イギリスの支配
英国は言うまでもなく石油開発以前の時代に大きな力を持った海洋通商国家だった。東インド会社による砲撃で各国を脅し、その通商ルートの確保そして地域を支配することで地位を確立していった。トゥルーシャル諸国の人々は英国の存在に自分達の生活が向上する恩恵があるのではないかと期待していたが、通貨システムはおろか医療施設も学校も作られなかった。現在では世界各国の教育機関が集まり、イングランドの教育においてもイギリス人がドバイにまで足を運んで幼児教育から熱心に教えてくれる。薬局はいたるところにあるし、病院に行くまでに何日もかけなければいけなかったのが何百年も前のことのようである。
何度も脱皮を繰り返す蛇は再生(不死身)や治癒の象徴だということで薬局はUAE(恐らくその他の国々でも)共通のマーク。
しかしアブダビに病院が建てられたのは1967年つい最近のことであった。著者の家族も事故や砂漠での旅で多くの命を失っている。7日間の駱駝の旅も今では車でたった2時間のドライブである。当時の人々は本当に何も英国に対抗できるような武器も能力も勢力も持っていなかった。各地のシェイクは砲艦外交、そして排他的な条約に調印させることによって英国に従わざる得なかった。英国は思惑通りに動かないシェイクには他のシェイクを当てて、部族の内部抗争でエネルギーと時間を使わせ特権的な立場を維持していた。時にはシェイクを策略により処分することもあった。ベドウィン部族の武人シェイク・ザイード・ビン・ハリファの時代にアブダビは英国との関係を悪化させ、その後は支配者ファミリーによる暗殺を含む権力闘争と第一次世界大戦によってドバイの発展と大きく離されることになる。これもまた当時の英国人による陰謀が見え隠れするものだった。英国人は決してシェイクを財政的に支援するつもりはなかった。それにも関わらず多くのシェイク達はアブダビの発展に貢献してもらえると英国に期待した。真珠産業は英国籍をもったインド人商人(バニヤン)達によって利益を吸い上げられ、欧州各地での真珠の需要があったのに直接的な売買は英国人によって禁止されていた(例外:カルティエを除く)。1935年シェイク・シャクブットは英国との排他的な交流(他国との交流を禁止する)協定に石油探鉱を追加する契約に署名した。そして1939年に英国籍の石油会社との砂漠と海床にある石油に対しての排他的権利を付与するコンセッション協定に署名。シェイク・シャクブットはこの代価を受け取ったが、その直後の第二次世界大戦により英国は石油開発どころではなくなった。ドバイがアブダビを侵略しようとした時にのみ英国の契約を無視することができない性格に迫り、シェイク・シャクブットは外見の見物を決めていた英国に対して協力させることができた。英国はロシアと違って契約の合意事項は守る。ロシアの人口 ロシアのハイパーインフレ 石油収入が得られた後、英国はシェイクシャクブットに収入の一部を他の石油の採れない湾岸諸国の援助にまわすように圧力をかけ、4%の献金に強制的に合意させられることになった。シェイク・シャクブットは英国人への不信感から金を貯めこんでいったのでアブダビの人々は石油が売れ始めたにも関わらず物理的な環境はほとんど改善されなかった。教育もほとんど受けられなかったのである。石油開発による急速な発展の時、約170年以上に及ぶアブダビとその周辺首長国、スエズ以東の領土支配に英国は財政的に耐えられなくなっていた。1968年英国政府の撤退を発表すると、英国が育てた市場は日本・フランス・ドイツ・イタリア・米国からのより進んだ技術製品により英国製品を追い出した。日本はこのとき冷房付きの小型車や低価格の四輪駆動車、コンパクトな発電機などの製品でアブダビの人々を魅了した。
真珠産業
1950年代頃まで真珠の生産地と言えば湾岸地域、そして海に頼った生活をする人々の生活を支えてきたのは真珠産業の労働であった。アブダビはトゥルーシャル諸国の中でも最大の船団を持ち、多くのダイバー達が真珠採りを家族を養う為の収入源であった。天然真珠の採取は想像を絶する厳しい労働条件であり、ダイバーとその家族は酷く貧困な生活をしていた。この時の質素で希望のない生活は多くの国民(UAEナショナル)にとって苦い、忘れたくなるような思い出である。真珠採りのシーズンは家族と離れ春から秋にかけての3-4ヶ月海で過ごし、ダイビングを繰り返す地獄の日々だった。英国からの制限や阻止により6人乗りのボートに4倍以上の人間が乗り、1980年代後半頃に潜水器具が開発されたにも関わらずずっと帆と人力のボート、器具は山羊の角で作った鼻クリップ、腰に巻きつけるロープ、貝を入れる袋だけでの作業を続けていた。当然ながらダイバー達は健康を害し、身体機能が未発達の少年ダイバーにとっては大人以上の負担を強いられた。目の病気、皮膚病、筋肉の痙攣等の体力を奪う長時間の潜水と、無風状態でのボート漕ぎ、そしてひたすら母貝をこじ開ける作業は、統治者シェイクのために武器を持ち戦う生活と比較しても苦しいものであった。満腹状態では潜水は難しいので夕食しか摂ることができなかったし、その水は塩分が含まれていたり錆びついた樽の臭いがするものだった。ダイバーは歯を失い、仕事が進まなくなると鞭打ちの罰や収入が減らされる状況下で暑さと湿気の中ひたすら1日12時間潜水した。真珠はインド商人の手に渡り時には高く売られたが、オフシーズンの借金と帳尻を合わせることもままならなかった。言わば、借金をしてそのためにダイブし、ダイブでもうからないのでまた借金するという借金地獄の典型である。この湾岸での生業を廃業へと追いやったのは第一次世界大戦後の日本の養殖真珠であった。世界のマーケットは日本の養殖真珠を受け入れ天然真珠の価格は暴落、資金前貸しのシステムでまわっていた真珠業者は返済不可能な状態となった。金貸しをしていたインド人は英国側であったので、インド人金貸しによる訴えで英国はシェイクに対して弁済を求め脅しの圧力をかけた。真珠産業の衰退は大きな損害をもたらしたものの苦行というべき真珠採りの生活から人々を解放することとなった。唯一の生業だった真珠採りから石油開発によって雇用が生まれるまでの20年間、生活のために人々はどんなチャンスにも挑戦するようになった。
真珠、黒真珠とダイアモンドのピアス
His Highness Shaikh Zayed bin Sultan Al Nahyan
少年時代の多くを宮殿で過ごした筆者にとってはシェイク・ザーイドは父親のような存在であった。間違いなくアブダビのカリスマ指導者であったシェイク・ザイードは亡くなられた今日でもその影響力は衰えることなく国民という熱狂的なファンを持つアイドルも真っ青の存在である。道に車に店に学校に…ありとあらゆる所に彼を見ることができ、彼の偉大さを理解することができる。アブダビの現国王シェイク・ハリーファの父親であるシェイク・ザイードはベドウィン部族の中で大変人気があった。それは彼の性格、肉体の強靭さであり、眼光の鋭さや英知という人々を魅了できる十分な迫力と存在感を持っていたからである。アラブの人々にとって特に青少年にとって白馬を乗りこなしライフル銃を持ち弾帯を身に着けた落ち着いた自信に満ち溢れた態度は憧れだった。アブダビの若者は心から見習いたいと尊敬し忠誠を誓った。今の日本にそのような存在がいるだろうか?

カリスマ指導者His Highness Shaikh Zayed bin Sultan Al Nahyan
シェイク・ザイドは愛国者であり、アブダビの発展と人々の生活の向上を心から望み、そのための努力を惜しまなかった。サウジアラビアからの個人への賄賂4200万ドルの提供を断り領土を守り、石油開発が進んだにも関わらず金を貯めることばかりしていた最年長の兄シェイク・シャクブットを1966年8月6日クーデターによって倒し退位させ、自らが首長に就任することでアブダビ国民に気前良く分け与えた。お金の恵み方に関しては世界にも類を見ない善意を見せ、少し間違えれば普通の人間にとって頭の正常な状態では決してできない行動であった。彼は宮殿の金庫を開け、トゥルーシャル諸国の何処からでも窮乏している者は誰でもアブダビにお金を取りにきてよろしいという声明を出し、宮殿の前には長蛇の列ができた。それから政府の全組織と行政機関を作り、統一し、監視目的での組織も設けた。農園と村を砂から守るため自らのお金で土地、ポンプ、農民が必要とする全てのものを分け与える人であった。アラブは砂漠ばかりの緑のないカサカサの土地だが、その生まれ故郷アル・アインの緑化では素晴らしい成果を挙げている。
Hafeet Mountain ハフィート山の緑化(後の砂だらけの崖を根気よく芝生にしていく)
対外交渉には更に力を入れ、アラブ首長国連邦を設立するため常に旅をし、それまで敵対していた首長国での交渉を重ね今まで世界地図にも乗っていなかった小さな連邦国家を世界に受け入れ承認させることに成功した。アラブ・イスラエル戦争の時にアラブの結束としてイスラエル支援の国々に対し石油の輸出全面ストップを最初に決断したのもシェイク・ザイードだった。オイルショックの結果、アラブの団結よりもオイル価格の暴騰で更なるお金を手に入れることになった。シェイク・ザイードはアブダビ開発基金というファンド圧倒的な情け深さで貧しい国々の発展プロジェクトに支援し続けた。財政的な支援を受けられるニュースはあっという間に広がり、膨大な石油資源の財源を上回った。不景気になり絶望から自殺者も出た。1980年9月イラン・イラク戦争によりオイル価格が再び高騰するまでシェイク・ザイードとその息子現国王シェイク・ハリファはアブダビ社会サービス・建造物庁の設立などでアブダビを支え続けた。それからシェイク・ザイードは都市開発計画のために住居を失った者に対し最初の受取金額の10倍を補償する勅令を発布。アブダビの人々は不況の危機から這い上がった。1979年、1980年と補償制度を行い追加資金を渡し、ローカルの住民は莫大なお金を手にすることができた。シェイク・ザイードは愛国精神から経験不足のナショナルが損をしないために会社所有の法律などその他数々の社会システムを構築し、現在のUAE社会を築いた。
アラブ男性のダンス
ビジネス
筆者の実父はシェイク・ザイードの良きアドバイザーであっただけでなく、幾度の失敗は経験しながらも食料品類の店から自動車のパーツへ移行し、成功した立派な商人であった。シェイク・ザイードがアブダビ首長に就任し、父はその忙しさから当時イギリス留学をしていた19歳の若き筆者を呼び戻し仕事を教えた。筆者にとって、そして筆者の親族からなるアル・ファヒーム・グループの商売はとても繁盛した。車のパーツから車そのもの(主にメルセデス・ベンツ)の販売に変えたことで、その後はホテル事業にも発展する。急速な発展と巨額のお金を手に入れたアブダビ国民にとって自動車は飛ぶように売れていった。輸入した車がビーチ(その頃はまだ湾岸が港として整えられていなかった)に到着すると、人々は札束を彼に手渡しキーをもらって走り去った。請求書・領収書、契約や販売の資料も何もなくただただ売れた。アラブの伝統文化のほとんどは口伝されるもので文書で残さずとも約束を果たそうとすることは当たり前である。しかしそれが故に多くの国民はアル・ファヒーム氏のように成功せずに、シェイク・ザイードから得たお金を外国人に騙し取られたり、持ち逃げされてしまった。貧乏な生活をしてきた人間がいきなり大金を持つとどのように使ったら有意義であるかを考えるのは非常に難しい。大きな家を買うのか?新車を買うのか?教育を受けてこなかた人々にとってはその運用を考えることは容易でなかった。そしてその教訓から国民は教育を大切に思うようになった。35周年を迎える今でもドバイの知識村をはじめアカデミックシティを拡大し、教育に力を入れている。筆者がファンドNISCORPの会長であった時に体験した莫大な金額の失敗談そしてそこから得た教訓も載っている。筆者がどのように世界を他人(アラブの民以外の人々)を知り、アブダビでのビジネスに成功を納めたのか?アラブの人々を財政的・精神的に支えたのはシェイク・ザイードと神への信仰心だった。アブダビの発展に伴い開発途上で多くの過ちを犯し、払った代償を振り返り、子供そして子供の子供にとって必要なのは何なのか?それは学ぶことであり、教育が鍵となることを説得力ある経験と共に書いてある。
ENVIRONMENT20072007&JAPAN TODAY2007でUAEナショナルに借りて写真撮影させてもらった本物の鷹と私
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