世直しの本流 第一章 人口の変化と社会変遷(下) ~必然としてのイジメ~

前回の世直しの本流 第一章 人口の変化と社会変遷(上) ~侘び、寂び、萌え~の続き

世直しの本流(2/11)

世直しの本流 第一章 人口の変化と社会変遷(下) ~必然としてのイジメ~

スケープゴートとは「贖罪の山羊」と言われています。自然災害や経済的混乱が発生した時、その社会は共同体の危機となります。近年で有名なのはナチス・ドイツですが旧ユーゴスラビア内戦をはじめ類似の事件は世界中で発生しています。共同体が必要とするのは犠牲者なのであってその対象は誰でもよく、その犠牲者を血祭りにする事によって共同体は一時的な安定を取り戻します。この犠牲者は共同体の内部でもよければ外部でもよく、共同体の危機に瀕した国家は外敵を求めて戦争をするか、内部において弾圧をするかという形を持って共同体の安定をはかります。最近の日本でよく見られるのは学校や職場内での「イジメ」です。ナチスや日本、アメリカが対外膨張政策を取ったのも、スターリンや毛沢東が自国民2000万人以上を粛清したのもこれらの流れの一つです。


現在の日本は技術停滞・成長停滞・人口減少の時期です。共同体の危機といえるでしょう。このような状態はスケープゴートを必要とします。外に向かっては排外的民族主義的になり内側に向かっては「イジメ」が多発します。これの改善策は大局的に見れば新技術の開発・導入となります。然し、新技術と言うものはそれほど頻繁には生まれないし、既得権益と衝突します。つまり、力の三要素でいう法的関係の問題となり政治問題次第となります。個人が個人として環境に従属するのでなければどのようにすれば良いのでしょうか。環境が変化するというのは寒かった地域が暑かったり、暑かった地域が寒くなったりする事です。つまり、快適な場所へと移動するか、汗をかくか、運動するか、服を着るかという選択になります。選択する事によって逆に選択されると言う形へと変化します。移動型なのか、どんなモードの服が好みなのか、などです。それらを選択すると言う事は自己が変化すると言う事です。変わらないためには変わらなければならないという命題が発生します。幕末の志士の多くは尊皇攘夷派でしたが後に多くが尊王開国派へと変化しました。それは変わらないためには変わらなければならないという宿命に従ったのです。もし、環境に従属していれば個である自我は消滅し、自由な意思というものは存在しなくなります。



『哲学の世界では、長らく因果論的機械的世界観と目的論的有機的世界観が対立してきた。多世界解釈に基づく人間原理はこの二律背反を止揚することができる。 すなわち、宇宙開闢以来、あらゆる可能性が実在する宇宙として機械的に分岐し、そのうちの一つとして私たちが存在する宇宙が生まれたに過ぎない。しかし、 その宇宙一つだけを取ってみるならば、現在の私たちの存在を前提に宇宙の過去を説明する目的論的説明が許される。』

『人々の生命が不確実性に晒される時、社会システムのエントロピーが増大し、社会システムが死に近づく。社会保障制度等によって、このようなエントロピーを減らすことは、社会システムというメタレベルの情報システムの役割である。』

スケープゴートである「贖罪の山羊」は短期的見れば共同体を維持する良い方法です。しかし、その対象は誰でもよく無限連鎖的な状態に発展します。現在の人口は減少していますが何れ適正水準になれば止まるという意見があります。しかし、私は現状ではその可能性は少ないと考えています。人は最後の資源を取り合い、資本の多い人間が生き残り、その生き残った高資本の人間同士が戦い続ける。そう考えるのが一番自然だと思います。

『イースター島の森林はもともと消滅しやすい素地を持っていた。イースター島には高い山がなく、中緯度高圧帯に位置するために、降雨量は少ない。また、周囲の陸地と隔絶しているので、無機栄養分となる火山灰が他から供給されることもない。人口が増えすぎたからといって、容易に他の島に移住するということもできない。 森林破壊は、16世紀から17世紀にかけてピークに達した。このころ、部族間の紛争が起こり、モアイを倒し合う破壊合戦が起き、人肉食すら行われたと伝えられている。木材不足のため、カヌーが作れなくなり、他の島に逃げることもできなくなった。最盛期には、イースター島の人口は1万人前後となり、千体近いモアイが建てられたと推定されているが、1774年にイギリス人のジェームズ・クックがこの島の調査をした時には、森林は消滅し、モアイは半数が倒され、人口は600-700人程度になっていたと言われる。持続不可能な資源の搾取が惹き起こした悲劇である。』

現在の地球環境の問題は人口が多すぎる事が問題であるという人がいます。それならば人類など一人もいない方が良いということになりかねません。また、人は20億人ぐらいがちょうどよく現在の60億人は多すぎると言う人もいます。確かに現在の社会的制約から考えればそうかもしれません。その場合、江戸時代の日本は姥捨て山や間引きによって人口を調整していました。現在の日本においても人工中絶や老人問題で似たような状況になってきています。それならば老人専用の阿片窟を作ったほうが本人の為になるでしょう。

「第一章 人口の変化と社会変遷」について私が言いたいことは「ストーリーの数だけヒストリーがある」と言う事です。社会は激変していく。共同体を維持するためにスケープゴートが必要となりイジメ社会になる。姥捨て山や間引き、多夫多妻(離婚の増加)が発生していく。個々の個人がどうすれば良いという事はそれぞれがそれぞれのストーリーとヒストリーを作ればよい。しかし、「選択した事によって選択される」と言う事だけは忘れないで欲しいと言うことです。組織を守る為に情報を隠蔽しても、それは個が消滅する事であり、自我の消滅した個は既に自由な意思を持つ人間ではないと言う事です。太平洋戦争中、日本人は大衆としてその政治システムを選択し、絶望的な総力戦によって原子爆弾を落とされました。今回はそれ以上の被害が考えられます。半世紀の間、核兵器が使用されなかったのは単純に新しい兵器だからです。ダイナマイトが発明された時、あまりに破壊力があるので戦争では使用されないだろうと言われていましたが第一次世界大戦で何千万人もの人々を殺傷する為に使用されました。同じく原子力兵器もこれから使用段階に移行します

『軍事史の世界では、第一分水嶺は火薬の発明である。そして第二分水嶺は内燃機関の発明であり、第三分水嶺は原子力兵器の開発である。第一分水嶺における火薬が武器として成熟するのに一世紀以上を必要とした。内燃機関がジェット・エンジンやロケット・エンジンとして軍事的に成熟するのに一世紀以上を必要としている。今日、原子力兵器も成熟するのに二一世紀一杯かかると見通してよいだろう。』

「人間は不完全な動物である」「弱い人間ほど危機に直面すると、理性を失って凶暴になる」「人間は、弱く、はかなく、そのくせ強欲で、怖がり」という事を松村劭氏は「戦争学」の16頁に記しています。人間は理性のある知的な動物である前に感情的な動物だと言う前提に立ち「人口の変化と社会の変遷」を考えてヒストリーを楽しむようにしてください。最後にイースター文明は血縁集団による先祖を祭る多神教でしたが最終的に一神教へと移る時に滅亡しました。もう少し島に余力があれば多神教から一神教になったのかもしれません。モアイ崇拝では世襲で司祭を選んでいましたが最高神が実力で決まる構造でした。実力で決まる場合、モアイの倒しあいのような浪費的なことはしません。「強」「美」「正」は同じものであると考えています。美しい社会構造は強く、それは危機管理力が高く正しいと言うことです。人は神を選ぶ事によって神からも逆に選ばれています。イースター島や古代文明の末路を見るまでも無く、人々は疲れきるまで争いやイジメを止めないでしょう。海洋民族でも大陸民族でも常に一つの原理があります。「移動する民族は、移動しない民族より強い」ということです。

次章は、第二章 環境変化と移動と農耕 ~絶滅種の挽歌~