戦争と石油(10)

前回、戦時中の不可解な事件を数点あげた。今回は戦時中の石油資源の見落としに注目したい。

満州での石油探鉱

1929年(昭和4年)、満州炭鉱は満州里近辺のジャライノール地区で地質調査を行なったが商業化にまで至らない結論となった。アスファルト鉱床は存在するが鉱量が少ない為である。満州事変勃発後も再調査が行なわれるが成果を得ないまま1931年(昭和6年)に作業は終了した。続いて場所を変え1932年(昭和7年)に瀋陽西の阜新地区で調査を行った。そこでは1,000メートル級の試掘井を掘って200リットルの油兆を発見した。この報に満州石油、日本石油等が協力することになり、ダイアモンド・ボーリング坑を使用した2,000メートル級の試掘井を掘ったりと努力を重ねたが成果は上がらなかった。後に、南方石油の確保の指揮が優先され掘削機材と石油技術者が南方に移動されこの地域での石油探鉱作業は終了した。

満州での石油探鉱

戦後に中国の石油探鉱により中国3大油田の大慶油田(2004年生産量:93万バレル/日)、遼河油田(同:30万バレル/日)、勝利油田:同53万バレル/日)が発見される。

遼河石油

大満州での石油探鉱

満州での石油探鉱の図の通り、遼河石油は戦前、日本が集中的な石油探鉱を行った阜新地域より東に山一つ超えた位置と非常に近かった事が分かる。 原油生産量はピーク時の1995年で1,552万トン(31万バレル/日)である。戦争直前の日本が国内原油生産量と輸入量を合わせて450万キロリットル(8万バレル/日)であった事を考えると驚異的な規模である事が分かる。これは1995年と戦前の石油技術差異を無視した比較であるし、そもそも遼河石油の高流動点原油の貯留層深度が6000メートルである事を考えると当時の石油開発技術では遼河石油の真上地点を探索したとしても検知できなかった可能性もあるだろう。しかし石油不足が敗戦への大きな問題のひとつであった事を考えると取上げて見ても良いのではないだろうか。当時の日本軍が阜新地域を探索箇所に選択した理由は定かでないが、広大な大陸国(満州国)のそれも日本列島に近い海岸近くにあった事は確かである。

石油増産の努力

戦時中、国内石油増産の努力として人造石油の方向性を模索したが失敗に終わった。(参考:戦争と石油(6)
時は流れ1998年8月に遼河油田は石油回収率向上技術のひとつであるEOR(石油増進回収)を適用している。遼河油田は蒸気やボイラーからの排出ガスを圧入し、昨今は二酸化炭素隔離を狙う新たな目論見が行なわれている。
※サウジアラビアにある世界最大の埋蔵量を誇るガワール油田(1951年生産開始以来、平均約500万バレル/日)やカフジ油田では海水や地層水を使用した圧入が行なわれている

原油回収法の分類

圧入物質として二酸化炭素を使用する場合、液体や気体を通さないキャップロック層下の帯水槽に圧入する必要がある。その点で採掘不能になった炭層の再利用や採掘中油田に使用する事で、回収率向上と地球温暖化対策の面でメリットがある。しかし現在は貯蔵コストが高く、また地中に封じ込めた二酸化炭素が漏れ出す可能性など危険性を指摘する意見もあり、20年後の炭酸水素イオンへ化学変化仮定も含めて引き続きモニタリングが必要である。コラム本題からは反れてしまうので詳しくは別の機会で纏めたいと思う。

それでは次回、現代に話を移す事にする。


<関連コラム>

戦争と石油(1)

戦争と石油(2)

戦争と石油(3)

戦争と石油(4)

戦争と石油(5)

戦争と石油(6)

戦争と石油(7)

戦争と石油(8)

戦争と石油(9)

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