1914年の第一次世界大戦は歩兵による銃器の使用(火薬)を最大限生す戦略がとられていた。27年後の1941年、第二次世界大戦では急速な内燃機関の発達により戦車、航空機、戦艦などを使用(石油)した戦略へとシフトしていた。無資源国日本は弱点である資源を求め、戦いを始め、初の総力戦において完敗した。開戦理由は米国の石油禁輸との説が一般的だが根は深い。まずは日中の争いから入りたい。
満州事変がもたらした「三つの誤算」
1931年(昭和6年)柳条湖付近で鉄道線路を関東軍が破壊した事がきっかけで満州事変が始まった。これは石原莞爾が関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した際、自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画をしたものである。
関東軍は満州占領作戦を進める一方で三二年二月以降、連日のように新国家建設幕僚会議を開き、建国構想を論議した。そして味方にしうる旧奉天軍閥系の領将を担ぎ出し、清朝最後の皇帝だった宣統帝溥儀を執政するという名の傀儡にすえて、国際連盟が派遣するリットン調査団が満州に到着する直前の三二年三月、「満州国建国」を内外に宣伝したのである。同年九月十五日には、日本政府は満州国を正式に承認して日満議定書に調印した。
満州事変から満州国成立までの経緯はおよそこのようなものだが、ここで留意すべき事が三つある。
一つめは、満州事変は日本にとって、英米などの強国の事前諒解なくして大規模な領土拡張戦争を開始した最初のケースだということである。
元来、近代を迎えてからの日本は、日清・日露戦争から第一次大戦にいたるまで、戦争開始前に英米などの国際的承認を取り付けてから作戦を開始していた。ところが、満州事変ではそうした手続きを無視したのである。
(中略)
二つめは、関東軍と比較して奉天軍閥の軍事力は圧倒的だったにもかかわらず、関東軍が短期的に満州を制圧できたことである。
当時の関東軍の兵力が約一万人だったのに対し、奉天軍閥は三十六万余。さらに小銃三十万、機関銃、追撃砲それぞれ一千以上、火砲五百余、航空機百九十余という戦力は、単純な数の比較でいえば関東軍にとって勝てる相手ではなかった。
(中略)
三つめは、満州国において関東軍が、これまで朝鮮や台湾でおこなってきた総督による直接軍政という統治形態を放棄し、実態はともかくとしても溥儀を執政にすえた独立国という形態をとったことである。
満州事変推進に重要な役割を演じた関東軍参謀の石原莞爾らは、当初は満州の直接軍事占領、つまり朝鮮や台湾と同様の総督統治を考えていた。ところが事変勃発からわずか四日後の九月二十二日には「宣統帝を頭首とする支那政権」構想へと転換している。
1940年石原莞爾が書いた「戦争史大観」には短期決戦を目差す殲滅戦争(Niederwerfung Strategie)と長期(持久戦、消耗戦)決戦を目差す消耗戦争(Ermattungs Strategie)の2つの概念を使って説明しているが、当時日本が想定していたものは短期決戦のみであり長期という発想は無かった。上記の通り初期は諸外国と軋轢が生じるものの奇襲作戦が功を奏し今後の戦いの成功も絶対視する結果に至った。しかし蒋介石 の巧みな消耗戦略によって徐々に消耗戦に引きずり込まれてしまう。
戦線が拡大する日中戦争
満州事変の勃発から1945年(昭和20年)の日中戦争の終戦までを一体の戦争と捉えた「十五年戦争」という呼称は議論の余地を残し、現在は少数意見となっている。むしろ満州事変から日中戦争開始までの7年間は断続的に発生する短期戦の連続だったといえる。限りなく中国戦線が拡大し日本が目差した短期決戦は絶望的となり、以後未経験の消耗戦略戦争へとはまり込んで行く。
消耗戦略型指導者が多い中国を侮った日本の指導者たちは国際情勢に疎い為、敵の実力を把握できなかった。柔軟に戦略展開できる指導者は数えるほどであり、この状況は事がうまく運んでいる場合は問題が表面化されないが、戦況が悪くなると同時に欠陥が露呈される。日本国のように狭い地域では局地線により外交が作用する余地はごく僅かである。しかし中国のような陸国は国境間との駆け引きの出来次第で勝敗を決定づける事になる。柔軟な交渉術と的確な妥協点の見極めが必要であるが日本の迷走した国策はその後、ドイツと手を結びアメリカを牽制しようと考え1940年(昭和15年)に日独伊三国軍事同盟が締結されたが、かえって日独伊と英米などとの対立に拍車をかける結果となった。
次回は日米の争いに移ろうと想う
続く
<関連コラム>

コメントする