米国の石油禁輸状態のままでは日本の石油の備蓄は底をつくだけであった。南方油田の占領、日本への還送により”石油は残る”との結論に達し、1941年(昭和16年)御前会議で日米戦争(太平洋戦争)が決定された。果たして計画通り南方資源を安定確保し、日本へ資源を還送できたのであろうか。今回は太平洋戦争中の資源(石油)獲得、還送の行方について注目したい。
刹那的な成功
日本の真珠湾攻撃など太平洋戦争当初の攻撃は米軍の準備不足もあり、大勝利の連続となった。最小限の損害で米国艦隊を追い払い南方油田、海上輸送路の確保に成功する。これは戦争と石油(3)で書いた満州事変の一時的成功と非常に良く似ている。つまり大艦隊相手に僅かな兵力で打ち破った功績は、作戦を巧みに展開すれば数倍の兵力差は撃破できるという海戦の法則を無視した根拠のない確信を得る事になる。客観的、長期的視野を持たず、短期的な勝利に酔いしれる日本に徐々に魔の手が迫る事となる。
護衛が付かないタンカーの行方
艦隊決戦主義の海軍に海上保護思想はなかった。よって護衛艦が殆ど付かない状態でタンカー還送が行なわれた。米国からすると願ったりかなったりである。タンカーは動く燃料の塊である。雷撃や空爆でいとも簡単に炎上した。その状況が続き1943年(昭和18年)には日本のタンカーは喪失に製造が追いつかなくなった。少ないタンカーは航空戦艦でまかなうが、速度が遅く効率は非常に悪かった。次第に環送される石油の量も減少の一歩を辿りたどる事となる。
※余談だが最後の還送船は富士山丸と光島丸で、光島丸が輸送した重油が戦艦大和に積載されたと言われている。
底をつく石油
日本は58万トンのタンカー保有量で太平洋戦争へ突入した。貨物船、客船等を含む船舶の合計は634万トンでタンカーの占める割合は9パーセントであった。石油を求めて南方に侵略したにもかかわらず、その輸送手段としてのタンカー保有数は少なく、戦争開始年の昭和16年度でも建造タンカーはゼロに近かった。この保有タンカーのうち大型の優良タンカーの半数以上は海軍に徴用(艦艇給油用)され、小型タンカーは海洋航海が困難であったため実際に南方石油の還送に使用出来たのは20万総トン前後であった。後に護衛艦不足による非戦略的な展開に対し、米国にタンカーを集中的に狙われる事になる。開戦2年後に日本は護衛艦隊を設立するが予定していた462隻の新造計画も実際に製造されたのは167隻であった。また新造された護衛艦の速度が16.5ノットと遅く、浮上してディーゼル航行する米潜水艦20ノットを追いかけられず、また搭載火力が米潜水艦に劣りなかった為逆襲を受けるという致命的な問題があった。
結論として冒頭の問いに答えると、開戦当初は計画通り南方資源を確保し日本へ資源を還送していたが、海上保護思想が無かった海軍は、タンカーを五月雨式に失っていき(元々海軍の占める割合少なかった)、生産が追いつかず二進も三進もいかなくなったと言える。 後手後手の対応に南方油田を占拠しても海軍の燃料は常に不足した。開戦時58万トンのタンカーが1945年(昭和20年)8月には25万トン(うち稼動6.3万トン)に減少している。いかに無謀な戦略であったかが分かるであろう。戦争と石油(4)で書いた日本の迷走戦略のうち、石油還送の点は失敗に終わった。
次回、日本国内の石油事情に移る
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