前回(日本国内の石油事情)に引き続き、今回は国外の石油獲得に注目したい。
北樺太石油
サハリン事件でおなじみの樺太石油だが、当時日本は唯一とも言える海外の石油権益を樺太に保有していた。北樺太石油は明治3年(1870)に発見されたが、商業的開発には移行していなかった。
時系列は下記の通り
1919年(大正8年)日露合弁でオハ地域の試掘を開始したが、翌年に革命派パルチザンの北樺太占領、尼港日本守備隊の全滅、尼港日本人惨殺事件、日本軍の北樺太進駐等が起こり、一時作業を中断した。
1923年(大正12年)に再開した試掘作業でオハ油田を発見した。
1925年(大正14年)、日ソ基本条約が北京で締結され、北樺太の既開発油田の採掘権および東海岸での試掘権(大正14年より11年間:利権契約)が認められた。
1926年(大正15年)、北樺太石油株式会社を設立し、北辰会の権益を引き渡した。
1933年(昭和8年)度の3,860バレル/日、日本への持込量はソ連国営石油会社からの購入分を含め同年6,260バレル/日であったが、
1936年(昭和11年)、日独伊防共協定の調印、張鼓峰での国境紛争戦闘、
1939年(昭和14年)、ノモンハン事件等によりソ連側の圧力が増加し、原油生産量は徐々に低下をたどる。
南方(スマトラ、ボルネオ、ジャワ)資源
結論は戦争と石油(5)の通りだが、詳しい状況に触れておこうと思う。
交渉決裂
開戦前、東南アジアの主要産業国であった蘭印(現:インドネシア)は、宗主国オランダのドイツへの降伏によって政治的な空白地帯となっていた。そこで1940年(昭和15年)日本政府は小林一三商工相(阪急電鉄の創業者)を特派大使に任命して、石油使節の向井忠明(三井物産会長)と石油専門家や陸軍中野学校出身者などを加えた交渉団をバタビア(現:ジャカルタ)へ派遣した。目的は石油の鉱区権益の取得と輸入石油の確保で、日蘭印会商と呼ばれる交渉が行なわれた。同9月に日独伊三国同盟が調印により、当時事務的に対応していた蘭印側に態度が硬化させるなど交渉は行き詰まり最終的には合意には至らなかった。
石油の輸入については陸・海軍の要員も加わり、米国編重の石油輸入を蘭印に切り替える指令を受けていたこともあり、目標量の確保には高圧的態度で臨んでいた。購入交渉相手は英蘭系ロイヤル・ダッチ・シェルの現地子会社のバタフセ石油と米国のスタンダード系のNKPMであり、日本の要求に対し70パーセントの回答を得ていた。だが松岡洋介外相は不服との事で交渉の打ち切りと帰国を指示している。この蘭印との交渉は最終的にオランダが米国と英国に強調して日本資産の凍結措置を行なった為、米国に代替する石油輸入とはならなかった。これ以降、陸・海軍は交渉による石油確保を放棄した。
制圧作戦
南方と一言でいっても西はビルマ(現:ミャンマー)、南はインドネシア、と大陸国から島国と広範囲に渡る。
日本軍は南方油田確保のため、落下傘部隊が検討されていた。これは開戦の1年前から全陸軍から選抜された要員が訓練していたもので、米国の石油禁輸が実施される前から、陸・海軍で準備されていたものである。
開戦1週間後には、早くもボルネオ島のミリ油田、セリア油田、ルトン製油所を制圧した。落下傘部隊が最初に行なわれたのはメナドへの降下作戦からであった。1942年(昭和17年)1月にはボルネオをサンガサンガ油田、タラカン油田を占領し、同年2月14日にパレンバンへの降下作戦が行なわれた。石油地帯の占領とともに、日本から石油技術者が送られ破壊された石油と精製所の設備復興に取り組んでいる。
南方(スマトラ、ボルネオ、ジャワ)の原油生産量は、開戦前年の1940年(昭和15年)度には17.8万バレル/日(年1,033万キロリットル)で、日本軍が上陸・占領した1942年(昭和17年)度は7.1万バレル/日(年412万キロリットル)と、対15年比39.8パーセントに激減している。その後石油部隊の活動により、1943年(昭和18年)度には13.6万バレル/日(年788万キロリットル)、対15年比76.7パーセントと、占領期間の最高生産量を記録している。南方原油の生産量のピークは1943年(昭和18年)第3四半期(10~12月)で、14.6万バレル/日と開戦前の82パーセントにまで回復していた。高品位の石油製品の生産が期待されたパレンバンの第1製油所は、1942年(昭和17年)5月には航空ガソリン(オクタン価87)の生産を開始し第1製油所は同年9月に、第2製油所は翌年1月に部分操業を開始している。なお、中部スマトラでは昭和19年9月、帝国石油隊により戦後インドネシア最大の油田となるミナス油田(カルテックス鉱区)が発見されている。
サウジアラビアの油田
その他海外からの石油輸入の努力として1939年(昭和14年)、駐エジプトの横山正幸公使等(横山使節団)がサウジアラビアで油田が発見されたとの情報を聞いてリヤドを訪問している。横山使節団一向はカイロを出発した時から日本の石油利権取得を懸念する米国側に監視されており、リヤド滞在中の行動も常駐員に見張られ随時、米国に報告されていた。米国の横槍もあり進展は見出せなかった。
日本は石油権益確保の為に対象国の政治的人脈の把握や、優良な権益条件の掲示、または開発計画への支援など、助成が複雑に絡み合った忍耐強い交渉力は経験した事がなかったのである。
次回は海上輸送路の推移に移る
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