これまで日中戦争から太平洋戦争と移りゆく開戦から終戦に至るまで戦線の推移や石油獲得について注目してきた。今回は、戦時中の不可解な事件について注目したい。
ワード号事件
真珠湾攻撃の前日である1941年(昭和26年)12月7日に日本海軍が禁止区域でアメリカ海軍(駆逐艦ワード号)に攻撃された事件である。禁止区域とは米国潜水艦の潜航が完全に禁止される区域(航行制限区域)のことである。日本海軍の侵入は明らかに攻撃の意思があったものとし米海軍による正当防衛として処理されている。日本海軍が真珠湾攻撃を開始するまで時間にして45分前の事である。これは国際慣習法上、不審船の撃沈に相当すると解されている。攻撃された日本海軍(潜航艇)の実被害状況は明らかにされていない。米海軍は砲撃・爆雷攻撃で国籍不明の潜水艦を撃沈したとハワイ太平洋艦隊司令部に報告している。
当時、米海軍は日本海軍の外交暗号(パープル暗号)の解読に成功しており、コーデル・ハル国務長官は開戦時期を察知していたと言われている。それとは逆に、開戦時期は察知可能だったが真珠湾攻撃である予測までは不可能だったとの見解もある。事前の警告無しに攻撃した日本海軍は不評を買うわけだが、ワード号事件を見ると米海軍は真珠湾攻撃タイミングは十分把握していたととれよう。戦争にスムーズに移行したい米国上層部は事前に察知していた情報は公開せず、真珠湾攻撃後に情報公開する事で、自国の戦争参加の票を効率よく集める事に成功する。結果として戦争反対派の勢力を抑え国をひとつにまとめあげている。
阿波丸事件
緑十字は工事現場などで掲示されている安全第一の標語中央に安全の象徴として用いられる十字のマークでご存知かと思うが、当時”緑十字船”、”阿波丸”という安全航行を保証(安導権)された船があった。
この船は米国から届いた米国人捕虜への救援物質を香港やシンガポール等に寄港しながら届けていた船である。役目を終えての帰路に、南方地域から人員や政府、企業関係の便乗者が”阿波丸”に乗船した事があった。これだけであれば問題にならなかったが、軍部は船長の反対を押し切って、最終寄港地のシンガポールで重油やガソリンなど合計9800トンの軍事物質を同船に積み込んだのである。この軍事物資の輸送は”緑十字船”の協定違反で、安導権が保証されなくなる。
(100パーセント違反とはいえない説が多い)
そして1945年(昭和20)4月1日、台湾海峡で米潜水艦クィーン・フィッシュ号の攻撃を受けて”阿波丸”は沈没した。日本政府は米国に対して緑十字船への攻撃を抗議し米国はこれを認めた。しかし戦争中であり、戦後の協議事項としていた。その後1949年(昭和24年)4月、連合軍最高司令官総司令部(GHQ)の要請を受けて、日本国は国会で米国に対する損害賠償請求権の放棄を決定。米軍の占領下とはいえ、”阿波丸”事件は不可解な結末に終わった。
盧溝橋事件
1937年(昭和12年)7月7日に盧溝橋で起きた発砲事件である。
これが日中戦争の発端となり戦争状態に突入していった事で知られている。戦争と石油(3)で石原莞爾が関東軍作戦主任参謀として満州に赴任した際、自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画をしたものと書いたが、この事件の謎は最初の1発目を誰が撃ったか?に集約される。中国側研究者は日本軍の陰謀説を、日本側研究者は中国軍の陰謀説を唱える論者も存在するがいずれも大勢とはなっていない。
戦時中の不可解な事件は戦後処理にて協議され、結論が導き出されてきた。引き続き協議、研究される未解決分野も多い。米国が本格的に参戦した1941年(昭和26年)12月8日の日本軍のマレー半島上陸と真珠湾攻撃から終戦までの期間を数えると3年8ヶ月。1931年(昭和6年)の満州事変まで遡ると15年になる。満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争(大東亜戦争)の流れを断続的な戦争として十五年戦争との総評もあるが今はそう呼ばれる事は少なくなった。しかし戦後処理に至っては、終戦から1978年(昭和53年)の日中平和友好条約までとして数えても確実に23年間という膨大な時間がかかっているわけである。そもそも他国の戦後処理は賠償はおろか謝罪さえしてないケースが殆どであり、この事実は如何なものかと想う次第である。
次回、戦時中の石油資源の見落としに移る
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