伊達政宗の黒船

1613年、伊達政宗 の命を受け、支倉常長を団長とする慶長遣欧使節団をメキシコからイスパニア、ローマにまで派遣した。彼らの乗った サン・フアン・バウティスタ号 は、日本初の西洋式大型帆船(ガレオン船)であった。彼らは1620年に帰国したが、日本はキリシタン禁止と鎖国への道を歩んでいたため、海外と大々的に貿易をしようとした試みは失敗に終わった。

ウィリアム・アダムス、日本へ漂着

1600年4月19日(慶長5年3月7日)、ウィリアム・アダムスの乗るリーフデ号が豊後の臼杵に漂着した。臼杵城主太田一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報。寺沢はアダムスらを拘束し、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収した。徳川家康の指示により、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。徳川家康は、彼を外交顧問として江戸に招いた。江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて西洋式の帆船を建造することを要請される。伊東の造船所で80トンの帆船を建造(1604年完成)した。次いで120トンの帆船を建造(1607年完成)した。この船は1610年、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられ、イスパニアとの交流を深める要因となった。

西太平洋は海賊だらけの海

戦国時代、九州や瀬戸内海の武士や海賊達は、支那や朝鮮半島で倭寇として恐れられていた。16世紀後半、南蛮貿易が活発になるに従い、日本人も東南アジアと貿易するようになった。1588年、アルマダの海戦でイスパニアの無敵艦隊がイギリスに大敗してから、イスパニアは大西洋の制海権を失った。オランダの事実上の独立は1609年であるから、イスパニア・ポルトガルによる大航海時代が終わり、イギリス・オランダの新興国が力をつけつつある時代が、ちょうど1600年前後である。東アジア(西太平洋)は、オランダ、イギリス、イスパニア、ポルトガルによる貿易戦争の真っ只中であった。相手国の商船に海賊行為をするのが頻発していた。そのため、速度も出て積載量も多く、また砲撃戦にも適したガレオン船を西欧各国はこぞって戦艦・大型商船として運用した。アダムスが建造したサン・ブエナ・ベントゥーラ号もガレオン船である。ガレオン船として日本で最初に建造された西洋式の大型帆船は、伊達政宗が建造したサン・フアン・バウティスタ号(500トン)である。種子島に鉄砲が伝来した時、すぐに同等品を作り、量産ベースにもっていった技術力の賜物か、造船技術においても、遭難した船を模して同等品を作ったりする、船大工の技術水準は高いものがあった。アダムスが伊東の造船所で帆船を作った時も、短期間のうちに帆船を完成させている。鎖国政策がなければ、日本製ガレオン船で日本は太平洋を我が物顔といった歴史のIFもありそうだ。

朱印船貿易の開始と終了

天下統一を達成した豊臣秀吉は日本人の海外交易を統制し、倭寇を禁圧する必要から、1592年に初めて朱印状を発行してマニラ、アユタヤ、パタニなどに派遣した。朱印船は攻撃しないというルールを西欧諸国が約束していたため、西欧諸国から見たら新たな競争相手となった。1601年以降、安南、マニラ、カンボジア、シャム、パタニなどの東南アジア諸国と外交関係を樹立し、1604年に朱印船制度を実施した。朱印船は貿易による莫大な利益をもたらした。しかし、それは長くは続かなかった。関が原の戦いに勝利した徳川家康は、大名による朱印船貿易を縮小し、幕府による貿易の独占を図った。1609年、500石以上の大船を幕府が全て召上げられ、西国(九州、瀬戸内海)大名の勢力が削がれた。江戸幕府による鎖国政策が進むにしたがって、衰退へ向かう。1641年、オランダ商館が平戸から出島に移転されてから、貿易は幕府とオランダによる独占状態となり、オランダ東インド会社に莫大な利益をもらたすこととなった。鎖国によって利益を得たのは、幕府だけではなかった。

伊達政宗は大型船をなぜ作れたのか

サン・ファン・バウティスタ号の建造当時、江戸幕府は遠洋航海を目的とした大型船の保有を禁止した。これにより西国の大名は弱体化した。そんな中、伊達政宗は、ガレオン船を石巻湾で建造していた。大阪夏の陣(1615年)で豊臣家は滅亡することになるが、江戸と大阪で権力闘争が行われている中、伊達政宗が大型船を堂々と建造できたのは、伊達家と徳川家が縁戚関係(1599年、五郎八姫(いろはひめ)を家康の6男松平忠輝と婚約させている)であったのも要因の1つである。ガレオン船の建造ノウハウを国内に定着させ、大阪と連携しつつ、徳川家康と戦い、背後からガレオン船で砲撃する(大阪城での攻防戦の場合、大阪城と海から徳川軍を挟み撃ちにできる)なんていうことを考えていたのかもしれません。イスパニアの無敵艦隊が健在であれば、イスパニアと手を組んで徳川幕府を倒すことができたかもしれません。(もっとも、そうしたら、日本はイスパニアの植民地になってしまうでしょうけど)いずれにせよ、当時の資料はほとんど残されていないため、真相は明らかとなっていません。伊達政宗の側室には外国人女性もいるし、娘の五郎八姫はキリシタンであった。海外との貿易を独自に行い、力を蓄え、徳川家康亡き後、天下を取ろうとしていたかもしれない。実際、家康が亡くなった時、天下を狙える戦国大名は伊達家くらいしか生き残っていなかった。

橘みゆき 拝

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 これがスペインをランドパワーに引き戻し、オランダ、そしてイギリスといったプロテスタント諸国が勃興してくる根源的原因である。上述の無敵艦隊撃滅 (1588年)はおよそ100年後のことであり、旧教国=ランドパワー、新強国=シーパワーの関係に終止符を打つ画期的なことであったが、根本的理由はス ペインカソリック帝国による金融資本追放なのである。ポルトガルはインド航路にどのように進出していったのか。 ポルトガル人が進出する前から、インド洋には海上交易ネットワークがあった。インド商人、イスラム商人が活躍していたのだが、特にエジプトのマムルーク 朝が海上貿易に積極的で、アジアとヨーロッパをむすぶ中継貿易で利益を得ていた。ポルトガルの進出は、そこに割り込むことになる。ポルトガルは、ライバル となるマムルーク朝の海軍を撃破して、紅海・インド洋海路を確保した。当時、アジアでは、ポルトガル人の持っていた大砲と鉄砲の威力は抜群で、ポルトガルはインド洋沿岸各地を占領して要塞を作った。)

伊達政宗 、 支倉常長 (Wikipedia)

宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)

市博物館に甦る支倉常長”奮闘の軌跡”(仙台点描ー4)(詳しいです)

政宗の天下(1)(2)(3) 著:中津 文彦

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