

連載コラム5&6が「太陽エネルギー」、連載コラム7が「ゴミ」とヘヴィーな話題を続けてしまった。ここらで一息入れたいのだが……。もしかしたら、またヘヴィな展開になるかもしれないが、よろしくお付き合いの程を!
今回は、「友愛」を絵に描いたようなチャモロのコミュニティ(地域社会とか共同体という意味)とその背景にある歴史をテーマにお話しよう。我々がお手本にしたくなるような、素晴らしいコミュニティなのだが、そのクォリティーを保つためには、これからの発展には注意しなくてはならないこともある。
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1.楽園の住民チャモロ
ロタ島のチャモロ人たち(カロリン人たちも)は、道で出会うといつも手を挙げて「Hafa Adai !(こんにちは!)」と挨拶する。それがクルマどうしであっても、クルマと歩行者であってもだ。……と、事前に聞かされていた。それは本当だった。詳細に観察すると、全員がいつもというわけではないようだが、挨拶するのが当たり前なのはまぎれもない事実だ。「Hafa Adai」は、なんとクルマのナンバープレートにまである(写真)。

元々ロタ島には5,000人ほどのチャモロ人たちが住んでいたと想像される。ところが、17〜19世紀のスペイン恐怖政治時代に、そのほとんどが殺されたりグァム島へ強制移住させられたが、ジャングル内に200〜300人ほどが隠れ潜んだ。現在の約2,000人のチャモロ人のほとんどがその子孫であり、極端なことを言えば、全員が親戚だ。だから挨拶するのが当たり前……なのだろうか? いや、そうとは思えない。彼らの優しい心根の現れと解釈したい。
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2.楽園にも歴史がある
地上の楽園、ロタ島にも暗く悲惨な過去がある。
平和なマリアナ先史時代は少なくとも3千年、もしかしたら1万年以上も続いたと信じられている。しかし、17世紀後半から、スペイン、ドイツ、日本、アメリカと植民地・委託統治時代が350年も続いた。そして1978年、独自の自治政府とガバナー(知事)を持つアメリカ合衆国の自治領(注1)となった。だが、事実上は経済的にも文化的にもアメリカ合衆国に依存した属領と言えよう。
ロタ島の空港には、ロタ島の過去の歴史の絵物語がある(写真5枚)。





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3.平和なマリアナ先史時代
スペイン人に征服されるまで、マリアナ諸島ではかなり高い文化を持ったチャモロ人たちが独自の社会を作り平和に暮らしていた。
ロタ島に残されている石切り場跡や遺跡から、彼らが巨石を使いこなしていたことがうかがい知れる(写真)。

ジャングルに埋もれた洞窟内で、最近、推定1万年ほど昔の物と思われる動物や幾何学模様の壁画が発見された(写真)。その頃からロタ島に人が住んでいた証拠となる。

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4.恐怖のスペイン植民地時代
チャモロ人たちの性格は、350年間他民族に支配され続けた今でも、とても親切で温厚だ。17世紀当時の彼らも同様だったようで、軍船や鉄砲という近代兵器を持ったスペイン人の侵攻の前にはひとたまりもなかったことは想像にかたくない。
16世紀後半から17世紀後半にかけて、スペイン人がマリアナ諸島(グァム島を含む全マリアナ諸島のこと)を軍事的に制圧し植民地化した(注2)。
スペイン人たちは、キリスト教とスペイン語をはじめとした自分たちの文化を強要し、チャモロ人と混血した。そして現在のチャモロ人たちはとても敬けんなカトリック教徒だ(写真)。またチャモロ人の多くはスペイン姓を持ち、チャモロ語の中にも多くのスペイン語が取り込まれている。

しかしながら、スペインの恐怖政治とヨーロッパから持ち込まれた病気により、元々少なくとも50,000人ほどいたと思われる北マリアナ諸島のチャモロ人は約3,000人に激減した。ロタ島にはチャモロ人たちが5,000人ほどいたが、スペイン人の目を逃れてジャングル内に隠れ住んだ200〜300人ほどだけになってしまった。現在でも2,000人ほど(公式には1,861人)にしか復活していない。スペイン人にとって大きな意味を持っていたグァム島などと違って、ほとんど見捨てられたロタ島ではスペイン人との接触が少なく、病気のまん延が起こらなかった。今でもロタ島は病気の少ない島と言われる。
恐怖のスペイン植民地時代は230年間続き、チャモロ文化は壊滅的な打撃を被ったが、ナイフなど鋼鉄製品やキャンバス(帆)やロープなど布製品、さらには様々な農産物や家畜をもたらせた。
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5.短いドイツ統治時代
メキシコでの反乱やアメリカとの戦争で国力が疲弊したスペインは、マリアナ諸島経営への興味を失った。そこで、米西戦争時にアメリカに軍事占領されたグァム島を除く北マリアナ諸島はスペインからドイツへ売られた。北マリアナ諸島を買い取ったドイツ人たちは、船外モーターや鉄道など20世紀初頭のヨーロッパの科学技術をもたらせた。また、島々の学術調査を行い、多くの文献を残した。さらには、ココナッツオイルを生産するためにココヤシの植林をうながしたが、度々台風に襲われもくろみは成功しなかった。ドイツ統治時代は25年間と短かく、ロタ島に経済的な恩恵をほとんど与えなかったが、学術調査という意味では大きな貢献をしたと言えよう。

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6.ロタ島と太平洋戦争の傷跡
ドイツの第1次世界大戦での敗北により、グァム島を除く北マリアナ諸島は日本が国際連盟より委任され統治することになった。日本人は、ロタ島のジャングルを開墾してサトウキビ畑をつくり、港の近くに製糖工場を造って(写真)、大量の黒砂糖を日本へ輸出した。

またリン鉱石を掘り、これも日本へ輸出した。サトウキビやリン鉱石の輸送のため、ドイツ人がもたらした鉄道を本格的に敷設し、公共バスも走らせた。また、学校を造り、チャモロ人達を日本語で教育した。これらの歴史から、今のチャモロ人たちでさえ、「我々は日本人から学ぶことと働くことを教わった」と過去を懐かしむ。
太平洋戦争末期、マリアナ諸島は日米間の激戦地となった。ロタ島は軍事的に重要でなかったため、サイパン島やグァム島のような激戦地とはならなかった。米軍はこの島に上陸せず、捨て置かれた形となった。しかしながら、島のあちこちで戦争の傷跡を見ることができる(写真)。

軍事的には捨て置かれたロタ島だが、米軍の爆撃練習用の島として使われた。日本人とチャモロ人は、アメリカの猛烈な爆撃から共に逃げ惑い、ジャングルの奥深くの洞窟で暮らさなければならなかった(写真3枚)。



大きな港や空港がなく軍事的にそれほど重要でなかったロタ島での日本の統治はかなり緩やかで、民間ベースの産業が重視された。それに現在の主産業である観光を支えるのも日本人観光客だ。そんなわけで、ロタ島のチャモロ人たちの日本と日本人へのシンパシー(共感)と期待はとても強い。日本人にとってロタ島はそれほど身近な存在ではないが、ロタ島のチャモロ人たちにとって日本と日本人は、正真正銘の隣国と隣人なのだ。
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7.戦後はアメリカ委託統治から自治領に
太平洋戦争における日本の敗北により、マリアナ諸島はアメリカ合衆国の委託統治となった。そして、グァム島を除く北マリアナ諸島は1978年、アメリカ合衆国の自治領となった。アメリカは多くのお金をロタ島にももたらし、空港、病院、大学、学校(写真)、道路、港湾、発電所、公園などを造った。

また、所得の低いチャモロ人たちには、政府が住宅を無料で提供し(写真)、隔週の金曜日にはフードスタンプと呼ばれる金券を支給する(注3)。このフードスタンプによりスーパーで自由に買い物ができるのだ。これらの援助も元をたどればアメリカから来ている。

つまり、チャモロ人たちは働く必要がないのだ。まあ、それは言い過ぎだが、島民の60%が政府の役人であるロタ島では、働いているのは役所のチャモロ人かフィリピンを中心とした外国人労働者だけだ。チャモロ人たちは普通の生活のために月600ドルほどを必要とすると言われるが、一般的な月給は……なんと300ドルほど(注4)なのだ。これでは働いても食べていけないではないか。そこで、アメリカ(政府経由だが…)の援助を受けることになる。
心あるチャモロ人たちは、このアメリカの経済援助が我々をダメにしたと嘆く。中には「アメリカは我々に贅沢することと遊ぶことしか教えなかった」と厳しい言葉を投げる者もいる。事実、元々優秀なチャモロ人たちの多くは勤労意欲や向上心が薄いように見受けられる。
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8.ロタ島に残る伝統工芸
スペインの強引な植民地支配により、かつてのチャモロの宗教も風習も伝統もほとんど全て消え去ってしまった。現在、ロタ島には伝統的な音楽も舞踊も工芸も建築も祭りも伝説も……ほとんどない。悲しいことだが致し方ない。わずかに残った伝統を守り、新たな伝統を創るしかないだろう。
私がロタ島で見ることができた、工芸品などを列挙してみよう。中には素晴らしい物がある。
*タネの腕輪と首飾り(写真)
ロタ島には沢山の熱帯の植物がある。その中には固く大きなタネを付ける物がある。そのタネにヒモを通して、ネックレス(首飾り)やブレスレット(腕輪)を作る。これらはチャモの人の間で「幸せを呼ぶ」とされている。

*ヤシの葉で作ったレイ(首飾り)(写真)
素晴らしいできのレイだが、注文には応じるものの非売品だ。希少価値が出ていいのかもしれないが、商売っ気がないことこの上ない。

*ヤシの葉を編んだカゴ類(写真)
現状ではまだ稚拙だが、将来への可能性を感じる。さらに技を極めて欲しい。

*ヤシの葉で葺いた屋根(写真)
チャモロの木造建築の伝統は、残念ながら途絶えてしまった。しかし、ヤシで葺いた屋根は残った。大型台風にも耐える木造建築をチャモロ人たちが再び獲得できるかどうかは分からない。しかし屋根をヤシの葉で葺くことにより、ロタ島の家々はとてもイイカンジになる。チャモロ人の中にもこれをイイカンジと思う人達がいるようで、政府のコミュニティ&文化局でも色々試している。

*丸木舟(写真)
荒海でも使えるようにフロート(安定浮)の付いた昔ながらの丸木舟の技術は、どうやら失われなかったようだ。これを作ることができる職人がまだいる。しかし、モーターボートの時代である現在では丸木舟の道具としての価値はないと思われているので、これを自在に操る技術が伝承されるのはとても難しい。
私が出会ったのは、兄が妹に丸木舟の操作法を特訓する光景だった。父親(実は政府のお役人)が丸木舟の製造と操船のプロで、その技術は息子に引き継がれた。どういうわけか、妹もその特殊な伝統技術に興味を持ち、オヤジさんが見守る中で、兄が妹に特訓をしていたというわけだ。単純に見える丸木舟だが、これを自在に操るのは至難のようだった。

この丸木舟の技術がチャモロ人たちの間に復活するなら、彼らの漁法は大きく変わるだろう。現在では、海岸からの投網が主なのだから(写真)。

投網がいけないというわけではなく、浜からの投網漁ばかりという単一性がまずいのだ。特定の魚、それも特定の魚齢のものばかりが狙い撃ちされる危険性がある。特に、大きな魚に喰われないように海岸付近で過ごす幼魚へのダメージが大きい。
丸木舟でリフ(サンゴ礁)の外へ出ることにより、別の魚種、より大きな魚やロブスターなどが獲れよう。漁業としても付加価値の高い商品であるし、太陽エネルギーの塊である魚の持続的有効利用という意味からも価値が大きい。
チャモロ人たちもかつては丸木舟で沖合へ出ていたに違いない。だから、丸木舟の製造や操船技術と漁法が復興することは、チャモロ文化とチャモロ・コミュニティの活性化にもなるだろう。
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9.ロタ島に残った楽園のコミュニティ
厳しい過去の歴史を背負ったチャモロ人たちだが、彼らの顔は意外に明るく、その性格も親切で温和だ。特にロタ島のチャモロ人たちはその傾向が強い。ロタ島は泥棒や犯罪の(ほとんど)ない島と言えよう。私は2週間のロタ島滞在中に、1度も警察官に出会わなかった。どこかに数人ほどいるらしいのだが、取り締まりや事故処理や逮捕などの仕事がないのだろう。
ロタ島を走るメインストリートは交通量も少なく、我々の感覚では時速100km位は楽に出せそうなのだが、制限時速は40マイル(約60km/h)だ。ネズミ取りなどないロタ島だが、みんなゆっくり走っている。急がないのだ。そんなわけで、交通事故も事実上皆無だ。

また、チャモロ人たちはとてももてなし好きで、こちらが注意しないと、破滅的なほどもてなす。チャモロの人たちと一緒に食事に行くと、他の者に食べさせようとして、自分はほとんど食べない。1人ずつに自分の皿がある場合にはいいのだが、チャモロ風料理(写真)や中華料理など、皆でシェアして食べる料理では要注意だ。私はチャモロ人の彼がいつ食べるのかじっと観察していたのだが、ほとんど無理やりすすめない限り食べないのだ。
本当に好い人たちだと思う。


チャモロ人の中には、ベーテルナッツ(和名ビンロウジ)と石灰をベーテル(和名キンマ)の葉に包んで噛んでいる人たちが結構沢山いる。元々は。虫歯を予防し、胃腸を丈夫にし、腸内の寄生虫を駆除する効果があるのだか、どうやらこれを噛むと「いい気持」になるらしいのだ。グリーンの実とグリーンの葉、そして白い石灰粉を一緒に噛むのだが、ビンロウジとタンニンの色素が口の中で真っ赤になる。ちょっと異様な色だ(写真)。

顔見知りに出会うと、「ひとつどうだ?」と勧めてくる。私はトライしなかったが、私のカミサンはすぐにトライした。どうやら、すっごく苦くて飲み込めず、ハイになるまでには至らなかったようだ。まあ、我々にとっての酒や煙草に相当するのだろうか。
ロタ島のコミュニティはいまだ壊れていない。日本の村のコミュニティも昔はこんなだったのだろうか? なんとも懐かしい……というか羨ましい状況だ。日本から飛行機でわずか3時間半の場所に、こんな楽園のコミュニティがある。この素晴らしいさが持続するような、そんな注意深い発展を望みたい。
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10.楽園のコミュニティ:競争から協調へ
これからのロタ島で最も要注意なのは、アメリカ式の自由競争システム(アメリカとて、自分が負ける状況では自由競争を讚えることはしないのだが…)の導入だろう。自由競争経済は、言葉の響きとは裏腹に「弱肉強食」「勝てば官軍」の世界だ。私は経済における完全な自由競争を認めない。少数の強者のエゴが大多数の弱者の良心を飲み込んでしまう危険性が大きいからだ。ある程度の社会的コントロールが必要と考える(注5)。
現在のロタ島では、例えば人口1,400人余りのソンソン村だけでも4軒のスーパーがある(写真)。

明らかに多過ぎで過当競争だ。4軒共リサーチしたが大同小異で、4軒もある必要性を認め得なかった。消費者にとって最も良い店が自然淘汰されて生き残るというのが自由競争の原理だ。しかし現実は、コマーシャルの巧みな所、クォリティーが低くても1円でも安い所が生き残りやすい。いずれにしても、他人を蹴落とす風潮が育まれやすく、日常生活がギスギスしがちだ。
これでは楽園のコミュニティとは呼べなくなってしまうではないか。
楽園ロタ島のコミュニティでは、「競争から協調への転換」を目指す。これらのことに注意して、今あるロタ島の楽園的コミュニティにさらに磨きをかけたい。
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環境負荷を減らそうとすると、我々の日常生活は窮屈になりがちだ。それでは楽園とは言えない。誰でも自由奔放に、勝手気ままに生きたい。では、自由奔放、勝手気ままに生きて良いのか?
……実は良いのだ!
ただし、それはやりたい放題ということではない。そこには新しいシステムの導入が必要だ。その手法について、次回はお話したい。
2006年11月8日、スイス近自然学研究所にて
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注1)独自の自治政府とガバナー(知事)を持つアメリカ自治領
自治領とは、ある国家の一部でありながら、広範囲な自治権を持った地域のこと。カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどはイギリス連邦の自治領だ。北マリアナ諸島連邦は、アメリカ合衆国の庇護下にありながら、大きな自治権を持った領土である。北マリアナ諸島連邦の人々はアメリカ合衆国のパスポートを持つが、アメリカ合衆国の州というわけではない。
注2)16世紀後半から17世紀後半にかけて、スペイン人がマリアナ諸島を軍事的に制圧し植民地化した
スペインがマリアナ諸島の領有を宣言した1565年から、スペイン=チャモロ戦争を経てマリアナ諸島全域が完全にスペインの植民地となった1695年の間のことだが、どの時点をもってスペインの征服とするのかは、意見の分かれるところ。
注3)フードスタンプと呼ばれる金券を支給
2006年9月の実績(毎月変動があるが、最近は増加傾向が顕著)で、ロタ島では83世帯に合計26,000ドルのフードスタンプが支給されている。1世帯平均で月額約310ドルの支給となる。
注4)一般的な月給は……なんと300ドルほど
より正確に言うと、ハウスメイド・農業・漁業などの分野での月給が300ドル。
労働法により、チャモロ人の最低賃金が時給3.05ドルと決められている。企業ではこの最低賃金しか支給されないのが一般的だ。それに対して、政府関係の役所では時給5ドルが最低保証される。この大きな賃金差のため、チャモロ人たちは役所で働くことを望む。さらに、役所では年間の有給休暇が就業年数により12〜24日与えられる。企業では有給休暇は普通はない。
フィリピン人などの家をもたない外国人労働者には、雇い主から部屋と食事が提供されるのが普通だ。つまり、倹約すれば月給はそのまま残る。現に、多くのフィリピン人たちは、祖国の家族に送金している。
チャモロ人たちは家やクルマの維持にお金がかかり、月300ドルでは暮らせない。一般家庭の電気代だけでも月200ドルほどかかると言われる。
注5)ある程度の社会的コントロールが必要
いわゆる部分的統制経済のこと。実際には、世界中の全ての国々が何らかの形で部分的統制経済を実践している。完全な自由競争など存在しないのだ。
問題は、誰がどの程度コントロールするのかということ。つまり方法論の問題。政府や役所に任せられるのか? 新たなコミッション(委員会)などが必要なのか?
例えば、ソンソン村にスーパーマーケットは2軒、レストランやカフェは4軒あれば十分だろう。その代わり、カメラ屋・時計屋・メガネ屋を兼ねた電器店、本屋を兼ねた文房具屋、衣料品店(すでにインド人の経営するかなりひどい店が1軒あるのだが…)などは欲しい。……そんな交通整理を誰かがすべきと考える。
